13「ごめん……ごめんね。ごめんね」

 ガタガタと激しく揺れる車内には、聞いたことのあるクラシックが流れていた。激しく、心を揺さぶる曲調だ。どこで聞いたものかは分からない。曲の名も、誰が作ったものかも分からないが、どこかで聞いたことのある曲であった。


 目元に纏わりつく痛みに苦しみ疲れた真希は、耳に入ってくるその音楽に集中することで、束の間の精神の安寧を保っていた。


「モーツァルトの交響曲第二十五番」


 車を運転しながら、男が低い声で言った。


「俺は、普段クラシックなどこれっぽっちも興味が無いのだがね、唯一、この曲だけは好きなんだよ。心に響く。モーツァルトの天才性を現す良い曲だとは思わないか?ま、にわか意見だがな」


 真希は心の中を探られたような感覚を覚えて、酷く気持ちの悪さを感じ、また恐怖した。車はずっと、強い振動と共にゆっくりと進む。どうやら、舗装されていない小さな山道を登っている様子であった。


「俺は、子供の頃にこの辺りで育ってね。この山の中も駆け回って遊んだものさ」


 男が言う。しばしの無言が続いた後、男は舌打ちをした。


「……なんか反応しろよ」


「は、はい……」


 蚊の鳴くような声で、真希が返す。男の話は続いた。


「大人に対する礼儀がなっていないな。まあ良い。俺は、小学校の頃から野球をやっていたんだがな、中学に上がって地元の少年野球チームに入った。そこに、凄い奴がいた。八良尾勲という——」


 その名前には聞き覚えがあった。クラスの男子達がよく口にする、メジャーリーガーの名だ。


「——化け物だった。俺は、この町では誰よりも野球が上手いと思っていたが、その考えはあいつのせいで打ち砕かれた。投げても、打っても、獲っても、超一流。ああいうやつが、『天才』と呼ばれるやつなのだろうと、思った。そのくせ……腹立たしいことに、誰よりも、誰よりも、血の滲むような努力をしていた。俺には意味が分からなかった」


 やがて車が停まった。エンジンを切った後も、男は次の行動を起こすこと無く話を続けた。


「天才っていう奴は、なぜ皆そうなんだろうな……自分の能力を過信せず、あまつさえそれを不安に思い、さらに磨き上げる。凡人がどんなに頑張っても、努力しても、届かない場所へ一人で行こうとする。俺はあいつを見上げるのが辛かった」


 男の声色は、焦燥を帯びていた。苦痛を伴った暗闇の中で聞こえる男の言葉が、大の大人の言葉とは、真希には到底思えなかった。まるで小さな子供。自分より遥かに幼い者を目の前にしているような錯覚に陥った。そして何故か、真希は酷く腹立たしい気持ちになった。


 ——真っ直ぐに見ようともせずに、一方的に見上げるだけなんて。


「……勝手すぎ……」


「なに?」


 男が引っ掛かったように問う。真希は、心臓が口から飛び出る感覚を覚えた。心の中で呟いた言葉の一部を声に出していたことに気づいていなかったのだ。


「やはりお前には、あいつの気持ちが分かるんだな」


 男は不協和音のような声と言葉を吐いた。


「お前は、あいつと同じ側なんだ。将来お前は、必ず俺のようなやつを傷つける。テレビの箱の中で活躍するあいつを見て、俺は堪らなかった」


 運転席から、車のベルトを外す音がした。布の擦れる音を聞き、降り注ぐような視線の気配を感じた真希は、男が後部座席に横たわる自分を見下ろしていることに気がついた。


「狭山あずさもそういう子だった。だがあの子はまだ子供だった。子供が、大人に勝つことは出来ない。どんな天才だって、子供のうちは無力だ」


 大きな体が動いて近づいてくる気配をはっきりと肌に感じ、真希は思わず這いずって後退る。しかしすぐに車のドアが頭に当たって、その進行を止めた。


「な、なに……?こないで……」


「化け物は、子供のうちに駆除する必要があるんだ」


 ゴツゴツとした、熱く硬い手が、自分の首に押し付けられるのを感じた。


「……っ……っぁ……ぁっ……ッ…————————————————————」


 最後に、何かが割れる音がして、意識が消えた。


 どれほどの時が経ったのだろう。目の辺りを覆っていた痛みが消えていた。しかし未だ周囲を見ることは出来ず、暗闇が眼前を覆っている。


 小さく咳き込みながら体を起こすと、すぐ隣に誰かがいるのが分かった。その誰かは、優しく真希に触れ、抱きしめた。体温が暖かく心地良かった。


「そうか……また助けられちゃったんだ」


 真希は独り言のように呟いた。フッと緊張が解けたその瞬間、途方も無い深い悲しみが、腹の底から湧き上がるのを感じて、真希は涙を流した。


 安心しているはずなのに、嬉しいはずなのに、何故かその辛く悲しい涙が止まらない。自身に触れる柔らかな掌の感触から、真希は何故こんなにも悲しいのかを理解した。


「そうか、そうなんだね。わたしは……わたしには、きみを助けることはできないんだね。わたしじゃダメなんだね」


 真希はその両目から大粒の涙を流した。


「ごめん……ごめんね。ごめんね」


 ただひたすらに悲しかった。


 翌日にはすでに、町中がその事件の話題で持ちきりとなっていた。もともと小さな田舎町。特に派手なことの起こらない穏やかな土地であった事もあり、そのニュースの衝撃は強烈だったのだ。


 小学五年生の少女二名が男に襲われ、負傷。うち一人の少女が誘拐された。しかし不幸中の幸いと言うべきか、死者及び重傷者は出なかったという。


 それから間もなく、捕縛された犯人の証言から、女優の狭山あずさが誘拐殺害されていたことが明らかとなった。一ヶ月ほど前から行方不明になっていたという事実も判明しており、それにより、狭山あずさの事務所がその事実を隠蔽していた疑惑も巻き起り、新聞や週刊誌の紙面を賑わせた。


 事件の現場となったその田舎町には連日都会から多くの取材陣が押し寄せて、周辺住民への聞き込みを行っている。特に被害者となった少女達の通う小学校の周りはカメラやマイクを持った黒服の大人達が常に待機していて、生徒達に声をかけて少しでも情報を搾り取ろうと躍起になっていた。


 そのうちの一人に声をかけられた沢渡は、しばらく会話をした後に、ホクホク顔で登校した。クラスの男子達に、聞き出した情報を話す。


「例の犯人、元々その芸能事務所に勤めてたらしいな。だから名刺も持ってたわけだ。元々狭山あずさをスカウトしたのもその男だったって噂もあるらしい。その信用があったから、殺すのも容易かったってことだろうね」


「……記者を取材し返すやつなんて、お前くらいだろうな」


 友人の一人が呆れ顔で言った。話を聞きに集まるクラスメイトの中に、桜乃真希、三宅佳奈、そして谷地達巳の姿は無い。三人は事件の日からずっと学校に来ていなかった。


「桜乃さんと、佳奈っちは分かるけどさ。やっちんはなんだ?」


「ただの夏風邪らしいよ」


 そんな話し合う声を聞き、沢渡は口を出しかけて、言葉を飲み込んだ。取材陣への逆取材から、事件の現場に達巳と思わしき少年がいたという噂を彼は掴んでいる。しかしその情報は人に伝えずに沢渡自身の心の中に留めておくこととした。情報には優劣がある。この噂話は、沢渡にとって価値のある情報であった。


「やっちんのお見舞い行くやついるか?」


 沢渡が友人達に聞く。彼らは会話を止めて互いに顔を見合わせた後、口々に言った。


「いや、オレはいいや。うつされても嫌だし」


「あいつの家、あんま近づくなって言われてるし……」


「だいたい、体調悪い時来られても困るだろ」


 まあ、そうかと納得し、沢渡は静かに頷いた。一瞬、達巳が今どんな思いで床についているのかを想像し、すぐに辞めた。


 そのような会話がなされていたのと同時刻、達巳は自宅の部屋で高熱に苦しみ、悪夢にうなされていた。


——副作用のようなものだろう


 そう白眉は言った。曰く、自分のように高貴で重厚な者の魂を入れる容れ物としては、達巳の体はまだ未熟だったということらしい。その負担がそのまま体へのダメージとなり、熱という症状に現れた。

しかしそのような理屈は、達巳にとってはどうでも良かった。男に組み敷かれて殺される桜乃の姿が、脳裏に繰り返し浮かぶイメージが悪夢となって彼を襲う。経過する時の感覚も分からないまま、それは何度も続いた。


 達巳の熱が下がるまで、体の具合が完治するまで、一週間ほどの時間がかかった。そしてその時、桜乃はすでにこの町にはいなかった。


「そりゃ、あんなことがあればな」


 久しぶりに登校した達巳へ、沢渡が説明する。


「元々する予定だった引越しを早めたってことらしいよ。あんな酷い目に遭ったこの土地から、一刻も早く離れたかったってことだろうね」


 そう説明する沢渡の声が、達巳には酷く遠くのものに聞こえていた。自分に対して向けられた言葉なのだが、達巳にはまるで誰かと誰かが話しているのを、遠目に見て聞いているように感じられた。


「大丈夫か?」


 沢渡が小声で尋ねる。虚ろに頷く様子を見て、沢渡は予定していた質問攻めを諦めた。強めに達巳の背中を叩いた後、彼の席を離れた。


 放課後、校門の前で何やら話をしている記者達の目をかい潜って学校を後にした達巳は、無意識に山の方へと向かっていた。いつもはお喋りな白眉も今日は無口で、達巳の頭の中は静寂に包まれていた。


 いつものように山の入り口へと続く近道へ向かおうとして、達巳は足を止めた。その道はまさに例の事件の現場。学校の前以上に記者や、あるいは警察官などの今の達巳が話したくない大人達が多く集まっているだろうことは想像に難くなかった。達巳は迂回路をとり、遠回りに山へと入った。


 山道を登って行くとすぐに二つの道に別れている。一つは車もギリギリ通ることのできる広めの道であり、そちらへ登ると、桜乃が殺されかけた現場に着いてしまう。達巳は避けるように細い山道を選んで進んで行った。ハイキングコースから少し外れた——道はあるが、山の植物が無造作に生い茂る、あまり整備はされていないルートだ。


 先へ行くにつれて草木が生い茂って、もはや道とは言えない獣道となってゆく。かつて達巳と桜乃が二人で通い、その足で踏んで自然と生まれた小道も今は生命力の強い雑草に覆われてほとんど失われてしまった。


 やがて、茶色く濁った小さな池と、そのすぐ横にある古びた祠が見えた。達巳の秘密アジト。桜乃と共に劇の練習をした石のステージは、雨風にさらされてもなおまだ形をとどめていた。


 大きめの石の上に腰かけて、何も言わずに周囲を見る。


 風が吹いて枝葉が揺れる。それらが擦りあって奏でる音も、それと共に鳴り響く蝉の声も、達巳はとても久しぶりに聞いた気がした。桜乃と出会う前に聞き飽きた音であった。誰かと話していると聞こえない音。一人でないと聞こえない音なのだ。


 この場所で桜乃とどんな会話をしたのか、彼女の声を思い出そうとしたが、上手く出来なかった。どうしても頭をよぎるのが、彼女の悲鳴。啜り泣く音。苦痛の伴った暗闇で聞こえた声のみが再生されてしまい、達巳はそれらを振り払うように頭を振った。


 ふと、腕に違和感を覚えて見てみると、そこには小さな擦り傷があった。ここに来る途中に木の枝か何かに擦ったのだろうか。今までそんなことは無かったのに。だいぶボーっとしていたらしいと、達巳は苦笑いした。


 強めの風が吹いた。木々がまた揺れて音を鳴らす。土埃が舞って、達巳は目を細めて手で覆った。そんな指の隙間と細くなった視界に、宙に舞う薄桃色の何かが映り込む。達巳は思わず目を開いてそれに手を伸ばした。触れたそれは、風上から飛んできた便箋であった。


 若干土に汚れたその便箋には字が書かれていた。


「あ……」


 達巳が思わず声を漏らす。それは桜乃の字だった。それは、誰かに向けた手紙と言うよりは、何かに向けて吐き出したい愚痴や、悩みの羅列であった。彼女の感情の捌け口のような内容でびっしりと埋まっている。


 便箋の飛んできた方向にはちょうど祠が建っている。その中の小さな隙間のようなところに、同じ色の便箋がいくつか隠されていた。達巳はそれらを手に取り、開いて、中身を読む。今まで何度もこの場所へ来ていたが、祠にこのようなものが隠されていた覚えは無い。達巳が最後にこのアジトに来た、あの、桜乃と喧嘩をしたあの日の時点ではこの手紙は無かったはずなのだ。その記憶の意味することは一つ、あれ以降も桜乃は一人でこの場所へと足を運び続けていたのだ。達巳に会うためだろうか。達巳が来るのを待っていたのだろうか。


 手紙の内容を読み進めるにつれて、そうでは無いことが達巳には理解できた。もちろん、達巳を待っていたのも事実だろうが、それだけじゃない。この場所は、桜乃にとってもまた心安らぐ場所になっていた。ここは桜乃の秘密アジトでもあったのだ。そして手紙の中身は依然として誰に対して当てられたものでもない、ただの独り言。桜乃が一人で抱えていた悩みや不満、悲しみや苦しみ、先への不安。家族と喧嘩した話や、友達との関係性のちょっとした問題についても書かれていた。達巳の知らなかった、彼女の周囲を取り巻いていた様々な困難が、そこにはあった。


 達巳は乾いた目でそれを読んでいたが、やがて自嘲の笑みを浮かべて呟いた。


「全然知らんかった」


 小さくため息をついて言う。


「……オレは、真っ直ぐにあいつを見れてなかったんだな。なんも見れてなかったんだ。ただ一方的に見上げてたんだ」


 小さな物音がして、そちらを見ると、いつのまにか池の水面から姿を表していた白眉が、首をもたげて達巳を見ていた。


「なんだよ」


 白眉は何も言わずに観察するように達巳を見つめていたが、やがて首を傾げた後、唐突に言う。


「一瞬で良い。お前の体を貸してくれないか」


「は?今か?」


「今だ。十分……いや、五分で良い。その程度なら体への負担もそう無い。また熱が出るようなことにはならないよ」


 達巳は訝しげな目で白眉を見た。その無表情からは何も思惑が読み取れない。


「……何する気だよ」


「何も。まあ良いじゃないかい。お前の不利になるようなことは何もしないと約束しよう」


 そう言って、白眉はまた無言になった。達巳はしばらくの間悩んでいたが、やがて深くため息をついた。


「あんまし味を占めてほしくねーんだけどな」


 そう文句を言いつつ、白眉の口元へ腕を伸ばした。白眉は口を開けて噛みついた。白眉の体がまた達巳の肌に溶け込むように同化してゆく。瞬く間に全身が白色に染まり、達巳の意識は眠りについた。


 達巳の体を手に入れた白眉は、何やら目の辺りが熱くなるのを感じた。違和感を覚えて手を添えると濡れていた。直後に、雫がその頬を伝って、便箋に落ちて湿らせた。


「……やはり涙を流しているではないか」


 とめどない雫を瞳から流して、白眉は静かに笑った。

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