9「良い人だなんて当然じゃん」

「真希ちゃんさー、谷地と仲良いの?」


 放課後。真希の家にて、漫画を読みながら佳奈が尋ねた。


「え?うん。まあ……なんで?」


「プールで話してたよね」


 佳奈は冷静な口調で言う。沢渡の話をしていた時と比べてそのテンションの差は明らかであった。

漫画のページをペラリとめくって、再度佳奈は尋ねた。


「もしかして、谷地のこと好きなの?」


 それはもはや冷たいとも言える口調であった。真希は言葉を選びながら答えを返す。


「えっと……いや……どうだろ、分からないけど……」


 しばし二人は無言になった。佳奈が時折ページをめくる音だけが、部屋の中に鳴る。やがて読んでいた一冊を読み終えパタリと閉じてから、佳奈は意を決したように言った。


「やめといた方がいいよ。あいつは」


「え?」


 真希は困惑気味に佳奈の顔を見た。そんな真希の目を真っ直ぐに見つめ返して、はっきりとした口調で佳奈は続ける。


「あいつ、変なやつじゃん?」


「そ、そんなこと……」


「変わった独り言多いし」


 そんなことない、と言おうとして、真希は思わず口を噤んだ。体に白蛇を宿す達巳にはその白蛇の——白眉の声が聞こえる。しかしそれは達巳にしか聞こえないものであり、それとの会話が周囲から見ると異質に映るのは仕方のないことかもしれない。そのように真希は納得をしてしまった。達巳の秘密を知っている真希だからこそ理解できる彼の言動も、佳奈や沢渡や、他の人々には理解し得ない怪しげなものに映ってしまうのは仕様がないことだ。誰が悪いという話でもない。


 もし自分が谷地くんの秘密を知らなかったら、自分も彼をそう見るかもしれない。


「……でも、良い人だよ。それは間違いないよ」


 真希は言う。これが気弱な彼女にできる精一杯の反論であった。


「そりゃ、そうかもしれないけどさ」


 意外にも、佳奈は真希の意見を否定しなかった。


「でもさ、『良い人』なんて、当たり前のことだよ。良い人だなんて当然じゃん。もちろん沢渡くんだって、春川だって……あの山本ちゃんでさえ『良い人』ではあるよ。付き合う人はさ、良い部分じゃなくて悪い部分を見て選ばないと」


 真面目な顔で真希にぐいっと近づいて、さらに続ける。


「たとえ良いとこがあったって、それを打ち消す悪いとこがあっちゃダメなんだって。うちのママが言ってた。良いとこばっか見てちゃダメなんだよ」


「……谷地くんに、そんな悪いとこがあるとは思えないけど」


 若干ムッとした表情で言う真希に対して佳奈は間髪入れず答えた。


「あいつの家、パパがいないんだって。さらにママもヤバいらしいよ」


「ヤバい?」


 佳奈が無言で頷いた。それから一息置いて、さらに言う。


「ヤバいんだよ。暗くて人付き合いしないからどんな仕事してるかも誰も知らないし、たま〜に保護者会とか三者面談とかに顔出しても、ヤバいんだって」


「ヤバいって……だから何が?」


「すぐ怒ったり、泣いたり。なんか大人のくせに、どうなの?っていう言動が多いって。うちのママが言ってた。クラスの親達の間では有名だよ」


 真希は驚き、俯いた。もしも達巳に対して何か悪いイメージが佳奈の中にあるのだとしたらそれは彼が『蛇憑き』であるが故の弊害であろうと考えていた。しかし、違った。達巳の家庭に関係する問題であった。これは真希にも知り得ない事情だ。


 しかしそれでも、たとえ達巳の母親に何か問題があろうと、真希には関係のないことであった。真希は達巳の良さを知っている。もちろん、悪い部分も知っているつもりだ。そしてそれら全てを見積もっても、彼女にとって谷地達巳が大切な人物である事実は揺るがなかった。


「……お母さんのことは関係ないよ。谷地くんは谷地くんだし、やっぱり良い人だもん」


「関係なくないよ」


 佳奈は毅然とした口調で否定する。


「子供は、親を見て育つんだよ。親が子供の性格に及ぼす影響は大きいんだって、うちのママが言ってた。だから、ヤバい親と一緒に住む谷地も、やっぱりヤバいんだよ。……そりゃ、そういう意味では谷地だって可哀想なやつだけどさ」


 ほんの少しの同情を言葉にする佳奈のその口調は静かだった。


「あいつ、親から暴力受けてるって噂だし」


「——え?」


 血の気が引いた。


 世の中にそういう家族関係があることは知っていた。家庭内暴力。そういった問題が世間で騒がれていることはよく知っていたが、優しい親に育てられ、恵まれた家庭環境にいる真希にとっては、どこか別世界の、蚊帳の外の話題。自分とは関わりのない問題だと思っていた。まさか、同じクラスの友人が、大事な大事な恩人が、そのような問題の渦中にいるとは夢想だにしなかった。


 そもそも、達巳自身がそういったことを匂わせなかった。自分の境遇を周囲に気づかせない振る舞いをしていた。もし言われなければいつまでも知らないままだったろう。


 ——いや、違う。見ようとしなかっただけだ。今思えば、達巳の言動に全く違和感が無かったかと言えば嘘になる。


 真希はもっと詳細が知りたかった。促すように佳奈の顔を見ていたが、彼女の話はこれで終わりらしく、手にした漫画を読み進めるのに意識を戻していた。そもそも彼女もこれ以上のことは知らないのだ。そして、この話題をどれだけ続けても楽しいことにはならないことも分かりきっているため、佳奈による達巳の話はここまでであった。


 しばらくして、また読んでいた漫画の内容についての話に戻った。


 佳奈が帰った後も、真希はしばらく一人部屋の中で考え込む。色々な思い出が、様々な感情がごちゃごちゃに絡まって、考えはうまくまとまらない。自分が何に心を痛めていて、何をしたいのかすらもはっきりと形にできないでいた。


 ぼんやりと思考しながらも、真希は机に積まれた漫画を手に取って本棚に戻し始めた。その棚の一番目立つ場所には学芸会で演じた『白雪姫』の台本が飾ってある。それに手を伸ばし、手に取って、ゆっくりと開いた。何度も何度も読み込んでぼろぼろになったそれのページをめくって、めくって、閉じる。閉じた後に、空いた片手は無意識に前髪に触れていた。


 ——今度は、わたしの番だ。


 もはや隠れてはいないその瞳は、確固たる決意を帯びていた。


 その翌日。鉛色の空の下、真希は歩き慣れた山道を進んでいた。彼女の前を行くのは、いつにも増して上機嫌な達巳だ。軽やかな歩調で進む彼の背を見て、真希は尋ねた。


「……なんだか元気だね。良いことあった?」


「あ?桜乃お前知らねーの?八良尾選手の活躍!」


 達巳が嬉々として語るのは、今話題沸騰中のメジャーリーガーの話だ。


「そういえば、クラスの男子達みんな盛り上がってたね。その人、何したの?」


「お、お前……ニュースとか見ねーのかよ⁈この町出身の英雄だぞ⁈こんなクソ田舎から出た唯一のスター選手だぜ!」


 呆れ顔を浮かべつつ、達巳は八良尾選手の成した偉業の数々を話し始めた。熱を帯び、楽しそうに語る彼の顔を見て、真希は少し安心したように微笑む。


「なんだ?なんか可笑しいのか?」


「んん、なんでもない」


 そして、いつもの祠と池の辺りにたどり着いた。


「にしても、なんか久しぶりじゃね?お前がここ来るの」


「そうかな……確かにそうかも」


 どこか上の空で答える真希を不思議そうに見ながら、達巳は尋ねる。


「で、なんだ?話って」


「うん……」


 真希は達巳の腕をチラリと見た。


「……谷地くん、その腕の傷はどうしたの?」


「ん?ああ、木の枝に擦っちまって……」


「違うでしょ?」


 達巳は目をぱちりと開いて真希を見た。真希は決まりが悪そうに目を逸らし、また言う。


「……違うよね?その傷。自然に負った怪我じゃない、そうでしょ」


「それは…………なんだ?何が言いたい?」


 しばらく、無言が続いた。


「……聞いたよ。谷地くんの家のこと」


「オレの家?」


 真希はゆっくりと、達巳の顔へ視線を戻した。達巳はまっすぐに真希を見ていた。


「谷地くん、谷地くんが、その……お、お母さんから暴力を振るわれてるって……そう、聞いた」 


 どもりつつも言い終えた後、間髪入れずに真希は続ける。


「もしわたしになにか、その、助けになれることとかがあれば、言って欲しいな。いやもちろんわたしなんかじゃなんの役にも立たないと思うけどさ。でも、その、なにか話すだけでも変わることってあると思うし、わたしは、わたしは……谷地くんの力になりたいから」


 達巳は何も言わない。真希は早口でさらに続けた。


「わたし、その、知らなくて。その……谷地くんがそういう、特別な事情を抱えてたなんて知らなかった。気づかなかった。だからその……何もできなくって、ごめん。わたしは、わたしは谷地くんを助けたいの。だって、だって……」


 だってわたしは谷地くんに助けてもらってばかりだから、という言葉を、真希は飲み込んだ。


 達巳は一言も発すること無くその話を聞いていた。真希は不安げに達巳の顔を覗き見て尋ねる。


「谷地くん……?」


「その話、誰から聞いた?」


 達巳が問う。真希は一瞬言い淀んだ後、小声で答えた。


「……佳奈ちゃん……」 


「あの白雪姫、耳聡いな。母親の影響か」


 独り言のように呟いてから、達巳はため息をついた。それから真希の心配そうな視線に気づき、彼女の姿を横目に見た。


「別に、その話は間違ってない。暴力っつーほどのもんでもねーけど。殴る蹴るなんてヒョロい母さんにはできねーし。せいぜい引っ掻いたり……引っ掻く程度だ」


 淡々と話す達巳。真希は彼の腕の傷に目を落とし、唇を噛んでからまた口を開いた。


「たとえ傷は軽くたって、それは暴力だよ!ねえ、そのことって先生は知ってるの?きっと誰かに相談したほうが良いよ!わたしたちだけじゃ、難しいもん。PTAとか、教育委員会とか、分からないけど、誰かちゃんとした大人に相談しないと!」


 珍しく語気を強める真希を見て、達巳は軽く笑った。


「……そうだな。オレの母さんはちゃんとした大人じゃないもんな」


「谷地くん……?」


「知らなかった、って言ってたな?そりゃそうだ。お前はまだ転校してきたばかりで、お前の親はオレの母さんに会ったことないわけだし」


 真希は何も言えなくなった。今の達巳が、これまで見たことも無いくらいに恐ろしく思えてしまったのだ。


「知らなくて当然だ。じゃあ、オレの母さんが毎日毎日朝早くから夜遅くまで働いてるのも知らないだろうな。オレを育てるために、二人で生活するために必死に働いてるのも知らないよな。ま、これはPTAの連中も誰も知らないか。旦那に……オレの『親父』に捨てられて心病んでる、ってことは知ってんのかな?それと、すぐ怒鳴る。すぐ泣く。まるで子供みたいに情緒が不安定……ってことはもちろん知ってるんだろうな。なんだ、お前ら、オレの母さんのことよく知ってんじゃねーか」


「や、谷地くん……?」


 真希は一歩後退って彼から距離をとった。


「賢いな」


 真希の様子を見た達巳は笑う。


「クラスの男連中はガキだしバカだから気づかねえんだよ。でも、お前は賢いよ。警戒すべきなんだ。オレがいつ怒鳴ったり、泣いたりするかなんて分からないんだからさ」


 真希はハッとして、慌てて彼へ近づいた。


「違っ……!そんなんじゃ……!」


「違う?」


 真希は両手の拳をギュッと握って、力強く、真っ直ぐに達巳を見た。


「谷地くんはそんなんじゃない。どんなに酷い環境で育ってたって、谷地くんは谷地くんだもん。わたしの、わたしの……」


「優しい親に可愛がられて育ったお前から見るとさ、オレの家はゴミだろうな。でもさ、オレはそこで育ったんだ。そんで今もそこで生きてんだ」


 真希の言葉を遮って、達巳が言う。


「マジで意味が分からないんだけどさ、お前から見てクソみてーな場所で育ったやつを、なんで『そんなんじゃない』なんて言えんの?」


「わたしは、ただ谷地くんを助けたくて……」


「いらねーし。うぜぇんだよ。そういうの」


 ばっさりと言う。真希は「ひっ」と息を呑み、潤んだ目を見開いた。


「な、なんでそんなこと言うの……?」


「驚いたかよ。やっぱお前、オレのことなんも分かってねーじゃん」


 その声は真希の知らない達巳の声だ。彼女の目から熱い水滴が溢れ、流れ落ちた。その刹那。


「小僧‼︎」


 怒鳴り声と共に、すぐ傍らの池から純白の細長い体が伸びて真っ赤な口をかっ開き、達巳の腕に噛み付いた。


「んぁっ⁈テメェ……!」


 という言葉を最後に、達巳は意識を失って倒れ込んだ。真希はショックを受けて口を両手で覆い、その場に腰から崩れ落ちる。


「や、谷地くん……っ?」


「案ずるな。眠らせただけだ」


 白眉が静かに言った。


「すまない。もう少し早く止めに入りたかったが……小僧の強い感情に邪魔されて上手く動くことができなかった」


 そんな白眉の声が聞こえているのかいないのか、俯いて座り込んでいた真希は、しばらくしてからゆっくり頭を上げて白眉を見た。その顔は大粒の涙でぐしゃぐしゃになっていた。


「どうしよう……白眉ちゃん、わたし、わたし、谷地くんに嫌われちゃった……!」


 濃い曇り空からはまだ雨が降っては来ない。ただ、真希の泣き声だけが空気を重く湿らせた。

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