7「わたしと谷地くんで作った道だよ」

 蕾のような子だと、男は思った。黒いストライプ柄のスーツを着たサラリーマン風の男だ。彼の目に映る舞台上の少女は、まるで開花する直前の蕾。大輪の花を咲かすことが分かりきっている蕾のように写っていた。


 それは偶然、本当に偶然の出会いであった。かつて住んでいた田舎町を訪れた際に、空いた時間に気まぐれで覗いた小学校の学芸発表会にて、まさに逸材と言える彼女を目撃したのだ。


「素晴らしい」


 劇が終わってしばらくの間もパイプ椅子に座ったまま、独り言を漏らす。


「素晴らしい芝居だった」


「ね、ですよね」


 隣に座っていた壮年の女性が、彼の呟きに答えた。


「実は、うちの子も出てたんですよ」


 そう自慢げに語る彼女は、素朴ながら上品な雰囲気を醸す、裕福な家のご婦人といった装いをしており、その見目麗しい目鼻立ちの特徴はちょうど、男が注目していた逸材の少女と似通っていた。


 しばらく軽い談笑をした後、女性は娘に会いに行くと言って席を立った。その背中を、男はずっと目で追っていた。


 男と別れた彼女は、辺りをきょろきょろと見渡した後、目に入った一人の少年に話しかけた。


「ごめんなさい、少し良いですか?実は迷ってしまって、5年1組の教室はどう行けば良いのかしら」


「今、教室は誰もいないっすよ。おばさん、誰かのお母さんですか?俺も1組だから、呼んできましょうか?」


 少年の言葉に、女性は柔らかく微笑む。


「ありがとう。じゃあお願いしようかしら。うちの子、桜乃真希って言うんだけど……」


 少年は一瞬、驚いたように目を見開いて女性の顔をジッと見つめた後、「オッケーっす」とだけ言って駆けて行き、それからすぐに娘を連れて戻って来た。


「谷地くんありがとう。お母さん!見てくれた?」


 少年に礼を言ってからこちらに笑いかける娘を笑顔で迎えつつ、女性は思う。


(友達もいて、この学校にもすっかり慣れたのね)


 引っ込み思案な娘が新しい環境に適応できていることに安堵すると共に、少しの罪悪感も湧いてくる。今の学校にも、もう長くはいられない。そのことをまだ話していなかったのだ。そのような思いを隠しながらも、彼女は娘の頑張りを賞賛するのであった。


「びびった。あの人、桜乃の母ちゃんか」


 使い古してくしゃくしゃになった台本の、ホッチキスどめされた部分を持ちながら早歩きで舞台へ戻る達巳の頭に声が語りかける。


——分からなかったのかい。瓜二つだったじゃないか


「桜乃はあんなおばさんじゃ無いだろ」


——小僧お前……失礼な男だね


 はたから聞けば独り言でしかないやり取りをしながら、彼は急ぎ足で進んだ。舞台上の片付けをしなければならないのだ。早く行かなければまた沢渡に怒られる。


 片付け作業をしている最中も、達巳の頭の中には白眉が絶えず語りかけた。口調は冷静沈着ながら、その実、かなりの興奮を抑えきれていない様子であった。


——しかし、やはり桜乃は本番に強いタイプだったね。素晴らしい演技だった。正直予想以上だ。遥かに上さ。私は、あの子の器を測りきれていなかったらしい。まさかあそこまでとはね。実に良かった。そうは思わないかい


「……ああ」


——なんだい、口数が少ないね。ま、分からないでも無いがね。あの素晴らしい感動を、お前の拙い語彙では表現できないと言うわけだ。どうやっても陳腐になってしまうだろうからね


「うっせえな。拙いとか言うなや」


 そう反論しつつも、白眉の言葉はまさに達巳の図星を突いていた。


「……確かに、なんて言って良いか分からないくらい、すげー良かったよ」


——ふん、やはり陳腐な表現だね


「このクソ蛇……」


「おーい、やっちん!一人でぶつぶつ言ってる暇あったら、こっち手伝ってくんね」


「おう!今行く!」


 作業に没頭しつつも、達巳は時折、目の端に桜乃の姿を見つける。母と話して戻って来た後の彼女は、他の演者やクラスメイト達に囲まれて、安堵した様子で楽しげに話している。達巳が提案した劇の最後の演出のまま、前髪を上げて目元を露出した状態で談笑する彼女は、普段の何倍も輝いて見えた。その顔貌は、ちょっと前までは達巳だけが知る彼女の秘密であった。しかし今は違う。もはやそれは、彼女の隠し事では無く、周知の魅力へと変わってしまった。


——次に桜乃と会う時に、感想を直接語るのが楽しみだね


 そう言う白眉に、達巳はボソッと呟く。


「……来てくれると良いけどな」


 クラスメイト達に囲まれる桜乃から目を逸らし、片付けに集中する。学芸会の終わりと共に、自分と桜乃の間を取り持っていた絶対的な繋がりが雲散霧消してゆくのを達巳は感じていた。そしてそれが彼自身の思い過ごしであれば良いと、心のどこかで願っていた。


 そして翌日。振替休日の月曜日。


「やはり君の演技は素晴らしかった。私の見込んだ通り、いや、それ以上だったよ。あの劇は、桜乃の力で成功したと言っても過言では無いだろう。もはや君が主役だった。皆、君の役に釘付けだっただろう」


「い、いくらなんでも、それは過言すぎるよ!」


 山の中の小さな池から顔を出し、これでもかと言うほどに褒めちぎる白眉に対し、桜乃は両手を振って否定する。


「わたし一人じゃ全然ダメだった。佳奈ちゃんや、他の役の子たち。沢渡くんや、それに合唱隊、大道具担当のみんな。全員が頑張ったおかげなんだから」


「ふむ。確かにそうだろう。だが、その中でも君の功績は特に大きい——」


 そんな二人のやり取りを呆れ顔で見つつ、脱力しながら達巳は呟く。


「……思い過ごしだったな……」


「?……谷地くん、なんか言った?」


 桜乃が不思議そうな目で尋ねる。達巳は手をゆらゆら振って誤魔化した。


「別になんも」


「自己嫌悪だろう。小僧は一人だけ何の役にも立たなかったからな」


「んなこたねーだろ‼︎舐めんなよ⁉︎」


「そうだよ!谷地くんだって……ほら、えー……まあ、あれ、きっと何かを頑張ったよ!」


「具体的な例が出ねぇ‼︎桜乃てめー、オレのことなんも見てなかったな⁈」


「冗談、冗談だって!」


 楽しそうに笑いながら、桜乃は真っ直ぐに達巳を見つめた。


「谷地くんも、大道具作りや舞台準備、片付け、それとわたしの練習に付き合ってくれて、ありがとね」


「おお」


 達巳は頭を掻いた。桜乃の眼差しから目を逸らして、話題を変える。


「つーか桜乃さ、隠すの辞めたんだな」


「え?……ああ、うん」


 桜乃ははにかみつつ頷いた。今日の彼女は前髪を上げてカチューシャで留めている。これまで隠していた目も眉もすっかり見えていた。困ったように見える笑顔で、桜乃は話す。


「劇の時に、さんざん出してたし、いまさらかなって。……ほら、谷地くんの考えた演出のせいでさ」


「そりゃあ悪かったな」


「ううん、ありがとう」


 桜乃は憑き物が落ちたような明るい笑顔で言った。


「谷地くんのおかげだよ。谷地くんが背中を押してくれたから、わたしは勇気を出せたんだ。……どう?今日のわたし、綺麗かな」


「あー、きれー。きれー」


 目を逸らしたまま棒読みで答える達巳を見て、桜乃はまた可笑しそうに笑う。


「見てないじゃん!」


「無理もないことだ。小僧の貧弱な語彙では、桜乃の魅力を語ることは出来ないからね」


 白眉は呆れたように舌をチロチロと動かすと、桜乃に目を向けた。


「私には、昨今のヒトの子のおしゃれというものは分からないのだが、今の桜乃はとても美しい。その装いは自分で考えたのかい」


「ありがとう!友達が……佳奈ちゃんが、色々教えてくれたんだ。このカチューシャも佳奈ちゃんのだよ」


「あの白雪姫役の娘か」


 白眉と桜乃のやり取りを見ながら、達巳は安心したように息をついた。それからしばし、二人と一匹の他愛無い会話が続いた。


「そうだ、グミいる?持ってきたんだ」


 桜乃が言う。達巳は物欲しげに手を差し出した。


「良いな。くれよ」


 桜乃はスカートのポケットから袋を出して、中のグミを達巳の手のひらに乗せた。それを摘んで、達巳は眉を顰める。


「サンキュ……なんだこのグミ?真っ赤だな」


「りんご味だよ」


「赤すぎだろ。着色料どんだけ入ってんだよ」


「小僧、貰っておいて文句を言うとは如何なものだい」


 白眉が呆れたように舌をちらつかせた。桜乃もジトっとした目で達巳を見る。


「そうだよ。そういうとこだよ、谷地くん」


「うるせえ。桜乃お前、言うようになったな……」


「そうかな……。白眉ちゃんは、グミ食べれる?」


「気持ちは嬉しいが、遠慮しておこう」


 貰ったグミを口の中で転がしながら、達巳はふと思い立ったように言う。


「そういや桜乃、最近はコケなくなったな」


「え?ああ、うん」


 今では自然に通っているこの山の秘密アジトであるが、最初の頃は毎回転んで体のどこかに軽い擦り傷を作るのが桜乃のお約束となっていた。


 桜乃は自慢げににやりと笑う。


「もう、怪我しなくなったもんね。……逆に、谷地くんはその手首の傷はどうしたの?また木の枝に引っかけたの?」


「ん、まあ、そんなとこだ」


「ダメだよー気をつけなくちゃ。わたし絆創膏持ってるんだ。使ってよ」


 言いながら手持ちの小さな鞄を漁る桜乃を見て、達巳は照れくさそうに手を振って断った。


「いらねえよ。ほっときゃ治るから」


「そんなこと言わないの。バイキンが入ったら大変だよ」


 桜乃は毅然とした口調で、半ば強引に絆創膏を貼った。達巳はバツが悪そうに頬を掻きながら、おもむろに話題を戻した。


「昔はコケてばっかだったのにな」


「……そんなに昔でもないけど……」


「さすがに山道にも慣れたか」


「それもあるけど……歩きやすくなったからかな」


 桜乃は後ろ髪を軽く弄って呟く。


「ほら、わたしと谷地くんが毎日歩いてきたから……」


「なるほど、邪魔な草とか小石とかが減ったわけか。歩きやすくなった」


 達巳が納得して頷いた。桜乃は困ったように見える笑みを浮かべて言う。


「わたしと谷地くんで作った道だよ」


「ほー、面白いこと言うじゃねーか。なんかセンスを感じるわ」


「詩的な表現だね」


 達巳と白眉が感嘆の声を上げ、桜乃は照れくさそうに笑った。


「おもしれーおんなって思った?」


「なんだそれ」


「前に見たマンガにそんなセリフがあってさ……」


 などと話しつつ、桜乃はピンクのプラスチック材質の腕時計(雑誌の付録である)に目を向けて時刻を確認した。


「あっごめん、もう行かなきゃ」


 そう言って立ち上がった桜乃を見上げて達巳は尋ねる。


「なんか用事あんのか?」


「佳奈ちゃん達と遊ぶ約束してるの!」


 それから慌ただしく荷物をまとめた後、「またね!」と手を振って、桜乃は山道を軽やかに駆けて行った。

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