― 逃影者 ― さまよえる影

木田里准斎

桜の園




 桜の樹の下には屍体が埋まっている!

 これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。



 梶井基次郎『桜の樹の下には』冒頭







 初めて訪れる街だった。

 午後の日差しは柔らかく、風もまろやかで心地良い。その弾力のある風に乗って桜の花びらが飛んで来た。

 男が歩道を歩いていた。紺色のジャケットに薄茶色のスラックスを身に着けている。男は風に交じる淡紅色の花びらをときおり目で追った。

 特に行く先があるわけではない。男はのんびりと歩きながらなだらかな下り坂を歩いていた。

 大きな交差点が見えてきた。その向こうにこれもまた大きな公園がある。市民の憩いの広場といったところだった。満開の桜の木が何本も植わっており、茣蓙やブルーシートを敷いて花見を楽しむ人々の姿があった。

 男は公園の中に入ると、少し小高くなった丘のようなところへ行った。そこは桜の木も植わっておらず、地面からはところどころ大きな岩が露出していて花見客もほとんどいない。男はその岩のうちの比較的平たいものの上にゆっくりと腰を下ろした。

 男の顔にこれといった特徴は無い。頭髪はナチュラルヘアで、一見すると三十代半ばのようだが表情や身のこなしは五十代後半か六十代前半のような、どことなく干からびたものが感じられた。男はその老成した視線を上に向けて天を仰いだ。

 花曇りというやつだった。曇ってはいるが雲を通して太陽の光が豊富に降り注いでいるため、暗い感じがしない。それでいてギラギラとした陽光は感じられず、絶好の花見日和だった。

 どこか身を落ち着ける場所を見つけたい。男はそんなことを思いながらあちらこちらを彷徨っていた。その願いは自分には許されるものではないということを重々承知してはいるが、根無し草のように安宿やネカフェや漫画喫茶を点々とする生活にも疲れを感じ始めていた。人目を避けて逃げ回る身の上でありながら、桜の花で満ち溢れ、楽しそうな時間を過ごす人々が集まるこの公園へと男の足が向いたのは、そんな疲れのせいだった。

 どこまで逃げ回ることになるのか。いつまで逃げ回らなければならないのか。そんなことを考えることにも疲れ果てていた。こんなおだやかな日なのだ。少しの間ぐらい、花見をするという人並みの楽しさを味わってもいいだろう。

 男のいる位置からは公園の中の花見客たちの姿を一望できた。家族連れや友人同士、会社の上司と部下、外国人のコミュニティなどが料理を食し、酒を楽しみ、会話や歌に興じていた。桜の花はほんの添え物になっている。

 そんな賑やかな光景の向こう、公園の入口から一人の老人が入って来るのを丘の上にいた男は目にした。





 その年老いた男は作業服を来ていた。公園を管理する役所の職員か、あるいは公園の清掃係のように見えた。持ち手のついた紙製の白い袋を左手に持っている。袋は平べったいが空っぽではないらしく、何か荷物が入っているようだ。

 歩き方が変だった。少し歩いては立ち止まり、また歩きだすとしばらくしてから立ち止まる。歩く時間も立ち止まる時間もその都度まちまちで、規則性がない。ただ、顔は無表情で一貫していた。その老人の姿は桜の園には似つかわしくない。直感的にそう思ったナチュラルヘアの男は腰を下ろしていた岩の上から身を起こした。

 老人は顔文字のように平坦な人相をときおり周囲に向けた。何を考えているのかわからない顔だった。その視線が向く先は様々で、若い女性だったり小さな子供だったり、自分と同じ年寄りだったりである。ただ、屈強な男や気の強そうな女性の方には全く向かない。むしろ避けているように見えた。

 ナチュラルヘアの男は丘の上から降りて来ると、その老人の方角へ向かって歩き始めた。雲を通した弱い日差しが地面に男の淡い影を這わせている。不意にその影は陽の光が強まってもいないのに濃くなった。濃くなったその影は地面に細長い生き物の形を結んだ。

 家の壁に張り付いているヤモリのようなその形は尾の部分が男の体と繋がっている。男とともに四肢を動かしながらヤモリの影は老人の方へ次第に近づいていった。

 男は老人から数メートルの距離まで近づくとその距離を維持しながらさり気なく老人のそばに付き従った。花見客は老人にも男にも関心を示さず、桜の花を愛で、飲み食いを続けている。

 男の影は舌を伸ばした。ヤモリの口から細い影が伸び、老人の淡い影に巻き付いた。男は巻き付いた自らの影を通して老人の影の中を覗いた。

 そこは白と黒の迷彩柄で満たされていた。二色の間には微妙なグラデーションが滲んでいたが、それでいて白はどこまでも白く黒はどこまでも黒く、そのコントラストは痛ささえ感じるほどの物理的な刺激があった。そのように白と黒の色同士がお互いに鮮明に際立ちながら、同時にそのどちらも同じ強烈な感情を放射していた。

 それは殺意だった。さらに男は老人が左手に提げている紙袋の中に吐き気がしそうなほど長くて幅広のサバイバルナイフを忍ばせていることも知った。

 老人は通り魔だった。いや、これから通り魔になろうとしているのだろう。宴で賑わう花園を血みどろの修羅場に変えようとしているのだ。





 影の中に広がっている白と黒の迷彩柄が痙攣しながら老人の声を奏でた。呪詛だった。六十年以上歩んできた自分の人生への呪詛だった。そしてそんな人生を自分に歩ませた世間に対する呪詛だった。

 なぜか人生の節目節目においてめぐり合わせの悪いこと、理不尽なこと、肩すかしのようなことが繰り返された。不運と言うにはあまりにも出来すぎた不運だった。その不運のせいで彼は何事に対しても自信が持てず、誰かを、あるいは何かを信じて物事を成し遂げるということができなくなった。そしてそんな不運をもたらしたのは人間社会が自分に対して目に見えない何らかの悪意を持っているからだと信じ込んだ。

 友人や恋人でもいればそんな人生にも変化が訪れたかもしれない。しかし不運が始まった初期の段階で彼は人間不信を自らの行動哲学にしてしまった。開かずの扉で守られた狷介孤高の部屋が幼くして彼の棲家となったのである。その部屋の中に棲み着いた彼にとっては外の世界は自分に対する敵意の塊だった。

 殺意が生じた直接の引き金は貯金が底を尽いたことだった。身寄りの無い彼にはあてにできる人間がいなかった。それまでは亡くなった親から譲り受けた家や土地もあった。それで何とか死ぬまでやっていけると思っていた。だが満足に働いた経験が乏しく手に何の職もなく、人とのつながりを拒絶する男が生活の糧を得るのは困難を極めた。六十歳になってすぐに受け取り始めた微々たる年金は光熱費と食費に消え、自宅もその下の土地も人手に渡り、ナマポの支給を渋る市役所の職員を罵倒して、来月からは退去しなければならない自宅に戻るとサバイバルナイフを紙袋に入れて外に出た。

 サバイバルナイフは老人が若い頃にミリタリーショップで手に入れたものだった。当時、ベトナム帰還兵の男が無理解な世間に迫害されて激怒し、警察を相手に銃撃戦を繰り広げるハリウッド映画が人気を博していた。その映画を見て触発された彼は主人公のベトナム帰還兵が御守のように持っていたサバイバルナイフに興味を示した。

 何か実用的な用途で使おうとしていたわけではない。兵役を務めたこともベトナムへ行ったことも無い彼だったが、迫害されたベトナム帰還兵に自分を重ね合わせていた。サバイバルナイフは自分に対して無理解な世間への呪詛を吐き出すための呪物だった。

 それゆえ、そのサバイバルナイフはしまってある引き出しからときおり取り出して呪文を唱えるためにのみ使われた。自分に不運をもたらす人間社会への恨みつらみや人間への憎悪の吐露という呪文だった。そして今日、長年そうやって繰り返してきた呪詛の儀式が完成するのだ。

 そんな他人に対する強い殺意を発しながら、その一方で白と黒の迷彩色は自分自身に対する殺意にも満ち溢れていた。運命に翻弄され、人間社会での孤立に責められながら歩んできた自分の人生に老人は嫌悪感を催していた。

 他人の命を奪って死刑になる。それが老人の目的だった。そのためには確実に事をおこなわなければならない。老人が犠牲者として選ぼうとしているのは必然的に非力な女・子供・年寄ということになる。





 ナチュラルヘアの男は老人の行動を阻止しなければと思った。放っておけばここは桜の園ではなく血の海になる。

 老人は六十代前半のように思われた。最近の六十代と言えば体力や運動神経が昔の同年代よりも勝っていると聞く。相手によっては二十代や三十代と格闘しても互角に渡り合える場合もある。腕力でこの老人を制圧するのはリスクが大きい。

 だが男にとって老人を制圧するのに腕力は必要なかった。足元に映るヤモリの影から伸びた舌が老人の影に巻き付いている。老人は彼の意のままに動く。文字通り生殺与奪の権を握っているのだ。巻き付いた影の舌を通じて老人の影に指示を与え、指示を受けたその影が老人の体をコントロールする。老人をこの場にじっと立ち尽くしたままにすることも、老人を殺すこともできるのだ。

 いっそ殺してしまおうかと思った。老人は死にたがっている。望みを叶えてやるのだ。

 だがそれでは自分の抱えたやり場のない無念を晴らしたことにはならないだろう。ただ単に世の中から排斥され、他人から追い詰められて命を絶っただけだ。望みを完全に叶えてやったことにはならない。

 この老人も逃亡者なのだと男は思った。運命に弄ばれて自宅に引きこもり、世の中や他人から逃亡し続けた結果、ただひっそりと死んでゆくだけなのだ。なんと虚しい人生だろうか。

 自分も同じ末路を迎えるような気がした。このまま逃亡生活を続けた先に待っているのは、この老人と同じ運命ではないかという気がした。

 もちろん自分はこの老人とは違う。そればかりか普通の人間ともまったく異なるのだ。

 男は「影使い」だった。影の形を自由自在に変え、影を通して人間の心の中を覗くことができる。影を操って人間の体の動きをコントロールすることもできるし、影の形を他人のものに合わせることによってその他人になりすますことも可能だ。

 今のこの姿も仮のものだった。もともとは頭髪が薄くなった沢渡和史という中年男だったが、あるロックバンドのミュージックビデオを見たとき、モブキャラの俳優の影が演出のために強調されて映っていたので、その影に合わせて自分の影の形を変えた。そうすることによって、自分の顔貌や肉体をその俳優の男性と同じものに変えたのである。目立たない容姿の俳優だったので逃亡生活に適していると思い、拝借したのだった。

 こんなふうに影を使って人知を超越したことのできる自分は、この世の終りが来るまで逃亡し続けることが可能だと思った。永遠のモラトリアムを手にしたような気分だった。

 しかし、逃亡生活を続けるうちに疲れを感じた。桜の花を見にここへやって来たのはその疲れのせいだった。

 自分の逃亡生活はいずれ破局を迎えるのだろうか。この老人のように逃げ切ることができずに他者や自分に対して牙を剥くことになるのだろうか。逃げることからは何も生み出せず、ただ破滅への秒読みを遅らせているだけなのか。逃げること自体が破滅を生み出すというのか。

 今ここでこの老人の凶行を止めたとしても、逃げるのをやめることが自分にとって正解なのかどうかを知ることはできまい。自分にとっては何も得るものはない。また逃げ回る生活が続くだけだ。

 所詮、ここは逃亡者の自分にとっては縁もゆかりも無い場所であり、そこで花見を楽しむ人々も赤の他人だ。関わりになる筋合いはない。ここで何がおこなわれようとも。

 男は老人の影に巻き付けていた自らの影をゆるめ、解き離した。そして老人のそばから立ち去った。





 救急車は来たときと違ってサイレンを一切鳴らさずに走り去った。それが搬送される人間の容態を物語っていた。

 救急車が去ったあとも公園内の騒然とした様子は変わらなかった。二人の警官が規制線テープを張り、別の警官が目撃者となった男女数名から話を聞いていた。

「ほんと、いきなりだったんです!」

「びっくりしました。止める間もありませんでしたよ」

 若いカップルやリード付きのコーギー犬を連れた中年男性が興奮した口調で警官の質問に答えている。彼らのそばにはブルーシートが敷かれていて、その下には大きな血溜まりがあった。シートは花見客が敷いていたのを許可を取って警官が敷いたものだった。

 ナチュラルヘアの男はしばらくその様子を眺めていたが、おもむろに公園の出口へと向かって歩き始めた。花見に来ていた熟年カップルが声をひそめて喋る声が聞こえた。

「どんな精神状態だったのかしら。怖いわねぇ」

「狂気の沙汰だよ。自分で自分の喉を掻き切るなんて」

 これで良かったのだろうかと男は思った。良かったのかどうかはわからないが、自分が一貫して「逃げる」という信念を貫いたのは確かだった。だがマイナスにマイナスを乗ずるとプラスになるように、自分が逃げることからも逃げたのは事実だった。

 老人のそばから立ち去り、そのまま公園からも立ち去るつもりだった。だがこのまま立ち去ってしまえば後味の悪い思いをすることになるだろう。もし犠牲者が何人も出て老人が彼の望み通り死刑になれば、少なくとも二人以上の人間が命を絶たれることになるだろう。今ここで老人の凶行を引き止めたとしても、また時が経てばあの迷彩色の殺意が老人の影の中に生じて、どこかで同じことをやろうとするだろう。そうなっても人を殺めることができないように老人の体を壊しておくこともできるが、悶々とした思いを抱えながら身動きができないまま残された余生を死ぬまで過ごすというのはさすがに残酷すぎるだろう。

 いずれにしろ、後味が悪い。

 いったん老人のそばから立ち去った男は踵を返すと、自分の影を再び老人の影に巻き付かせた。巻き付かせた自らの影で男は老人の影を制御した。男に影を操られ、全身の動きを操られ、老人は素早く紙袋に右手を突っ込んだ。そして――

 すべては一瞬の出来事だった。

 男の進む先に桜の花びらが舞い落ちてきた。異様に大量の花びらだった。男が手のひらを上に向けて前に伸ばすと、舞い落ちる数枚の花弁が男の手のひらに乗った。

 男はそれを一瞥すると手のひらを下に向けて振った。花びらは男の手のひらから一つ残らず地に落ちた。





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