蛍の照らす川で ~花嫁は夜を彷徨う

トダカ

蛍の川の約束

 母は頑として首を縦に振ってはくれなかった。

「駄目よ。絶対に駄目。外は危ないの。ここから出ては駄目」

 最近、母はめっきり老け込んだように思う。前は、こんなに頭が固くもなかったし、私の言い分もちゃんと聞いてくれた。でも今は、口を開いたと思ったら私のやろうとすることを否定してばかり。

「お母さん。でも、正樹さんがきっと私を待っているのよ。夜の河川敷で、一緒に蛍を見ようって誘ってくれたのよ。あの人は、私の旦那様になる人なのだから、愛想を尽かされたくはないの」

「その心配はいらないわ。大丈夫。大丈夫だから」

 そういう母は、まるで私を小さな子供と思っているようだ。駄々をこねる子供に道理を聞かせるような口調で、私を丸め込もうとする。

 この態度が、ますます気に入らない。


 だいたい、なぜ私はずっとこんな病院に入れられているのだ。入院している人たちは誰もかれも老人ばかりで、看護婦たちもみな疲れた顔をしている。こんな陰気な場所で、なぜ私は寝起きしなければいけないのか。私の身体はどこも悪くない。健康そのものだ。


 母の言葉は続く。

「正樹さんはね、あなたのことを、ちゃんとわかってくれているから。夜の外出なんて、やっちゃダメよ。どうしても、というのなら、ここの職員さんから許可をいただいて、私が一緒に行くから」

 正気なのか?

 自分の婚約者に会いに行くのに、母親を同伴させたい娘なんているだろうか。私は辛辣な言葉を返そうとして、寸でのところで我慢した。

 ここで怒ってはいけない。

「わかったわよ、お母さん。じゃあ、明日の夜でいいから、外に出られない?」

 私が聞くと、母は気が進まない様子で、こう答えた。

「夜は厳しいかもしれないけど……職員さんと相談してみるわ。でも、明日は…早すぎるから、もうちょっと先の話ね」

 一言一言、言葉を選ぶような間が空いている。こういうのを、腫れ物に触るような態度というのだろう。何を怖がっているのやら。

 もちろん私は、母の言いつけを守るつもりなどなかった。


 その日の晩は、大人しく用意された夕食を食べて、早めに寝た。

 その夕食だって味付けが薄く、柔らかすぎる病院食だ。うんざりさせられる。文句を言って献立が変わるなら、いくらでも文句を言うのだけれど。

 消灯の時間になって、職員たちの半分が帰宅した頃合いを見計らって、私はこっそりとベッドを抜け出した。

 服を着替えている時間はない。今は夏だし、上着などもいらないだろう。

 手早く、靴を履いて、病室のドアをスライドさせた。常夜灯に照らされた廊下に足を踏み入れる。

 数時間おきに宿直の看護婦が見回りに来るのはわかっている。次の見回りが来るまでに、戻ってきて、何食わぬ顔で寝たふりをしていれば誤魔化せる。

 窓の外に見える地形から、この病院が街の中心近くにあることはわかっている。ここから川へ向かい、河川敷を少し川下に向かって歩いていけば、正樹さんの家のすぐそばだ。夏の夜の彼は、河原に出て涼んでいるだろう。もしも河原に姿が見えなかったら、家の門を叩いてみよう。

 正樹さんにはしたない女と思われたくはないけど。


 もう随分、あの人に会っていない気がする。結婚を約束した日のことは昨日のことのように覚えているけれど。


 晴れた、月のない夜だった。

 点々と輝く空の星と、川沿いを舞う蛍が私達を照らしていた。正樹さんは口下手で、私はあの人の前では顔を真っ赤にするばかりで何も言えず、ただ手をつないで、光の軌跡を眺めていた。川のせせらぎと虫の声が良く聞こえた。

 何かいわなくては、という焦りがあって「あの」と口を開くと、正樹さんも何かをしゃべろうとしていた。そして私の言葉に気が付くと、慌てて言葉を飲み込んでしまう。

 一匹の蛍が、私たちのすぐ目の前を横切り、消えた。

 ふふっと笑う気配がした。顔は見えないけれど、正樹さんが私を見ている。

「夏美さん」彼が私の名前を呼ぶ。「僕は今晩、あなたにプロポーズするつもりでした。月が出ていたら『月が綺麗ですね』とでもいって、会話を始めたかったんですけど、あいにく、今日は新月でした。うっかりしてました」

 面白そうに正樹さんが笑う。私も釣られて笑ってしまう。

「でも、月なんかなくても、夏のこの川にはいくらでも綺麗なものがあります。僕はこの場所が大好きで、ここをあなたといっしょに、ずっと歩いて行きたいんです。いつか、あなたに子供が出来たら、その子供と一緒に、ここを歩きたい。約束していただけますか? 僕と一緒に、いつまでも、ここを歩いてくれると」

 月の出ていない夜で良かった。私はそう思った。彼の言葉を聞いたとたんに、喜びで私は顔をくしゃくしゃにしてしまったから。

 泣きながら、ただ首を縦に振った。何か気の利いた返事でもできればよかったけれど、私は学が無くて、それしかできなかった。


 病院の通用口の鍵を外し、外に出ると、空気は思っていたより冷たかった。

 上着を持ってくるべきだったかしら。

 大丈夫。すぐに行って、すぐに戻れば大丈夫。私は足早に、暗い道路を進む。

 地形を頼りに、川へ向かう道を選ぶ。しかし、知っている道になかなか出ない。街の中心部なら、私が通ったことのない道路なんてないはずなんだけど。

 道の微妙な曲がり具合に見覚えがあり、それが川へ向かう道だということはわかった。けれど、何度も通った八百屋や、金物屋が跡形もない。代わりに無味乾燥なコンクリート造りの建物が並んでいる。

 いくつかの角を曲がったところで、やっと見覚えのある建物が視界に入った。古くからあるお寺だ。まだ幼かったころ、お爺さまのお葬式でここに来たことがある。お寺なんて夜に見たら怖くて陰気なものだと思っていたけど、勇気づけられるだなんて思ってもみなかった。

 さあ、ここまできたら、川はあと少しだ。

 ゆるやかな下り坂を進むと、せせらぎが聞こえてきた。

 河川敷に出たのだ。水が星の光を微かに反射して輝いているのがわかる。

 けれど、蛍の明かりはどこにもない。

 季節が終わってしまったのか。少し残念だ。

 そこで、私は身震いをした。身体が冷えてきたことを自覚する。服を強く手繰り寄せて、冷気が胸元に入らないようにと願う。正樹さんに抱きしめて欲しい。きっとすぐに身体が暖かくなるだろう。


 それにしても、いつの間に河川敷はコンクリートで固められてしまったのだろう。歩きやすいといえば歩きやすいのかもしれないけれど、土の匂いがしないのは寂しい。

 正樹さんの家の面影を探して、私は進む。もう何度も河川敷を歩いてきた。彼の家の屋根瓦は、どんなに遠くから見てもすぐわかる。

 そのはずだった。

 けれど、どこまで歩いても、見覚えのある家の姿はなかった。とっくにたどり着いているはずなのに。おかしい。

 見知らぬ家々ばかりが立ち並び、どこにも屋根瓦が見つからない。


 私は途方に暮れて立ちすくんだ。

 空を見れば、星々が私を見下ろしている。あの星座は、たしかオリオン座だろうか。星を見るのが好きな正樹さんは、よく、空を指差して、星座の名前を教えてくれたっけ。

 そうだ。東の山々の上に輝くあれはオリオン座――オリオン座!?

 オリオン座がなぜ夏の空にあるのだろう? たしか、あの星座が日本で見えるのは晩秋を過ぎてからのはずだ。

 じゃあ、今はいったいいつなのだろう。


「正樹さん」

 心細い。寒さが服の奥まで入り込んできて、耐えられずに私は彼の名前を呼ぶ。

「正樹さん! どこなの? ねえ、独りにしないで」

 背後で足音がした。

「正樹さん? 正樹さんなの?」

 助けを求めて振り返ると、そこにいたのは、母だった。何か、恐ろしいものを見るような目で、懐中電灯を手にして立っていた。冬物のコートを着ている。光の中に、吐く息が白く浮かんで消えた。


「お母さん? ねえ、大変なの。正樹さんの家がどこにもないのよ!」

 混乱しながらそう問いかけると、母ははらはらと涙を流した。

「ねえ、どうしたの? お母さん。正樹さんに、何かがあったの?」

「違うのよ」母は涙をぬぐう。「違う。違うの」

 涙を見て、私は正体のわからない罪悪感を感じる。何か、母を傷つけるようなことをしてしまったのかもしれない。落ち着くのを待って、私は母に問いかける。

「ねえ、お母さん。違うって、何が違うの? 教えてよ」

「違うのよ。私は、あなたのお母さんじゃないの。お母さんは、あなた。私はあなたの娘の、蛍子よ」


 私は目の前の女性の顔をまじまじと見て、それが母ではないことを悟った。

 ――そして、母にそっくりの顔立ちに育った、自分の娘のことを思い出す。

「ケイコ……蛍子! そうだわ、蛍子ね? ごめんなさい。全然わからなかったわ」

「ねぇ、寒いでしょ。病院に戻りましょうよ。職員さんから、お母さんがいないって電話を受けて、探しに来たの。きっとここにいるだろうって思ってたわ」

「ねえ、蛍子。正樹さんは、正樹さんはどうしたのかしら?」

「お父さんは、もうここには住んでいないのよ。きっとまた会えるから、今日はもう帰りましょう」



 母を寝かしつけ、職員さんたちに頭を下げて、私は一息ついた。

 母はここを病院だと思っているけど、そうじゃない。

 ここは特別養護老人ホームだ。母はもう何年もここで過ごしている。

 私の父は、私が生まれて数年後に病気にかかって死んだ。それから母は、女手一つで私を育ててくれた。

 私がまだ幼いころ、母は何度も、あの河川敷に私を連れ出して、父との思い出話をしてくれた。父の夢は、母と子供を連れて、蛍が舞う美しい夜を散歩することだったという。

 私の名前も、その夢を込めたものだった。叶う前に、彼は死んでしまったのだけれど。

 その蛍も、今はない。私が高校生のころ、この田舎街にも開発の手が入って、河川敷は埋め立てられてしまったから。

「しょうがないよ。蛍より、洪水を防ぐ方が大事だものね」

 母は寂しそうにそう言っていた。

 でも、心の中では納得していなかったんだろう。

 若い日の夢が、否応なく消え去っていくことに、心の中で反乱を起こしたのだ。

 だから、ときどきあんな風に、結婚する前の母に戻ってしまう。

 きっと、母は今も父のことを愛しているんだろう。記憶の中で、若い日の父と会い、河川敷を歩いているのだろう。

 失われた幸福が、仮初の夜の下で母の心を慰めてくれていることを、せめて、娘の私だけでも喜んであげるべきなのかもしれない。

 ベッドで静かに寝息を立てる母に、私は「おやすみなさい」と小さく告げて、家路についた。



 私は歩いている。蛍が舞っている。

 あの日、あの夜の美しい川が、優しいせせらぎを聞かせてくれる。

「さぁ、行くよ。夏美さん」

 彼が私を呼んでいる。懐かしい声だ。涙が出そうになる。

「正樹さん。ここにいたのね。ずっとずっと、ずうっと会いたかったのよ」

 彼は黙って、私の手を握ってくれる。彼の指は暖かくて、私は何も心配しなくていいのだと悟る。

 虫が鳴いている。どこか遠くで、船のオールが水を掻いている。誰かが川を渡っているのだろうか。

 正樹さんが向こう岸を見やる。あちらに何があるのかは、暗くて見えない。彼がこうつぶやいた。

「ねえ、すぐに渡ってもいいけれど、僕はしばらく待とうと思うんだ」

 私は正樹さんの言いたいことに気が付いて、同意する。

「そうね。蛍子を待ちましょう。親子で、蛍と夜空を楽しみましょう」

 彼が笑う。蛍子がここにくるまでの間は、二人だけの夜だ。


 蛍が舞っている。

 蛍が舞っている。

 天に輝くあの星々は、ここの蛍たちが天に昇った姿なのかもしれない。

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