旧暦の剣姫

@tarareba11

プロローグ~エピローグ

〔プロローグ〕


 そうして、神薙旭(かんなぎ・あさひ)はその日、最初の影の夢を見た。


 親父が死んだ。

 三財閥の一柱、神薙グループなどという、とんでもないものを遺して。それは、いつかは継ぐはずだった。そう教育されてきた。覚悟もしていた。だが、親父の死は余りにも唐突だった。なにせ親父はまだ五十路にもなっていなかった。親父との関係はお世辞にも良かったとは言えないが、それでも俺は親父の才能を認めていたし、俺自身、まだまだ学ばなくてはならないと感じていた。

 なのに、死んでしまった。ベッドの中、ある朝唐突に、心臓発作で。俺一人を残して。

 式は父方の伯父である拓也さんが取り仕切ってくれている。

 やはり三財閥の一柱、そのトップの葬式となると、盛大だ。見ず知らずの人間や、テレビなどで誰でも一度見たことのある様な人物など、さまざまな人が出席している。

 三財閥のもう二柱のトップ、西郷和樹と日下部亜衣子も、今回ばかりは表面上は沈痛な面持ちで参列している。

 だが、誰一人として泣いている人物は見当たらない。それは、実の息子である自分にした所で同じこと。これは、そういった儀式だった。恐らく、ここに出席している全ての人間の共通認識と共通の価値観の上になりたっている。

 彼らに興味があるのは神薙総一郎(かんなぎ・そういちろう)などという個人ではなく、彼の遺した神薙グループなのだ。

 跡取りとなるはずだった俺はまだ高校生という身。では誰が神薙グループを継ぐのか。誰に付けば自分が得をするのか。どこを叩けばいいのか。会場にはそんな思惑しかない。まあ、俺自身、そんなことは百も承知だし、別に悲しいわけではない。

 だが俺は神薙総一郎のたったひとりの一親等だった。

 そして、親父は神薙グループの大株主だった。全体の二十七パーセントもの会社の株。

 相続先は、俺だけ。高校生の、俺だけだ。もちろん手放すつもりは無い。

 他の株主や、次の経営陣にとっては、間違いなく目の上のたんこぶ。もともと、そういった内部関係はこじれにこじれている会社だった。それでも、親父の指揮で混乱せずにやりくりしてきていた。

 これから、ひと波乱もふた波乱もあるのは間違い無い。

 耳には坊さんのお経が響く。

 親族席に座る尻が痛む。

 軽い眩暈を覚えて浅く目を閉じる。


 ……認めない。

 ――乖離かいりする意識。

 こめかみを押さえる。


 ……認めない。

 ――乖離する体。

 視界を開く。


 ……認めないっ!

 ――浮遊する視界。

 それは、自己を撮影したビデオを見てるような、

 ……“俺”が席を立った。


 何が起こった?

 ……“俺”が振り向く。

 アレだけ居た人が誰も居ない。


 ……“俺”が右手を水平に振るった。

 そいつの右手には、銀色に鈍く唇を吊り上げる、一振りの日本刀。

 ……“俺”が一歩こちらへ踏み出した。

 映像が急速にアングルを後退させる。それに合わせて背景もブラックアウト。

 ……“俺”が駆けてくる。


 迫り来る死と影。振るわれる銀光、それは……、“俺”の太刀筋。神薙流剣術のそれだった。

 冷たい刃が俺の胴体を捕らえる。水平に振るう、疾走から繰る初断ちの一刀。防御法は知っている。だが体は動かない。

 こうして、“俺(影)”は俺を殺害した。

 そうして、俺は架空の死を認識し続ける。



 ※ ※ ※



〔幕間〕


 『それ』は十二氏族のある当主の子として生を受けた。

 『それ』は本人の自由意志など無く、生まれた時にはすでに魔術師になることが決まっていた。

 当主は意気込んでいた。自らの子を、当代最高の魔術師にすると。それは憑かれたように、あるいは病的に、ある時は呪いのごとく、当主はその魔術を実行した。



 ※ ※ ※




〔第一章〕


 

 葬式から約半年が過ぎた。

「またか」

 時は八時、暦は十月、季節は秋。

 紅葉の並木道を、珍しくひとりで登校してきた神薙旭は、ため息と共に下駄箱の戸を閉めた。

 ため息の原因は下駄箱の中の封筒だ。

 上履きをすのこの上へほっぽり投げて、革靴を脱ぐ。

 その時落ちた視線で、旭はそのまま封筒を忌々しげに睨みつけた。どう考えても、どうまかり間違っても、ラブレターなどという色っぽいものではない。それはここ数週間で理解した。

 旭は脱いだ外履きを拾い上げ、今度はそいつを下駄箱へ押し込む。

 ……見ないって選択肢は、無いよな。

 だいたい、それじゃあ逃げてるみたいじゃないか。

 だったらさっさと開けちまおう、と、旭はその場で封筒の封を切る。

 中から出てきたのはお馴染みのA4紙。そこには新聞の見出し文字を切り取って作られた文面があった。いや、文面というよりは単語の羅列。そして悪意の塊だ。

 数える気にもならないほどの『死ね』の文字。しかし、よく見ると同じ『死ね』という単語の中に、所々『死ぬ』だとか『死にたい』だとか『死す』だとか、少しだけ違った言葉が紛れ込んでいる。そこだけ手を抜いたわけではあるまい。いや、こんな事をすればむしろ手間がかかるはずだ。何が目的なのか、さっぱり分からない。

 それが、逆に気持ち悪い。

 貧血を起こしたような感覚に襲われる。

「ねえ」

 そして、そんな時に背後から知らない声が。

 どうやら声をかけられたらしいと、一瞬遅れて理解する。

 旭が振り返えるとそこには。

 そこには、見知らぬ女子がいた。

 背丈は旭より二十センチほど低い。もとより旭の身長は百八十ある長身の身なので、この少女も女子としては決して小柄というわけではない。顔は人形のように整っており、髪は吸い込まれそうな漆黒。かなり長く、彼女の腰まで届いている。彼女はその髪を適当な感じにうなじの辺りでひとまとめにしていた。そして、両側のもみあげからあご下まで垂れ下がる、まとめ逃した髪が逆に髪型としてのバランスを整えている。瞳には意志の強そうな、しかし凍えるような光を宿していた。全体として凛とした雰囲気を持つ彼女は、旭としては珍しく第一印象で良い印象を抱いた。抜身の鋭さ。話しかけておきながら、旭に対しての関心の低さを隠そうともしない瞳。また、女性の繊細さを残しながらも、見るものが見ればすぐにそうと判る鍛え抜かれた肢体。それが、彼女の姿だった。

 だが、旭の気をもっとも引いたのは容姿ではなく持ち物だった。右肩に紐でひっかけて背負っている竹刀袋のようなもの。“多少”の心得があるから分かるが、竹刀袋にしてはごつ過ぎる。また、中には双振りの得物が入っているような構造にも見えた。いや、それ以前に、竹刀だろうと、それ以外のものだろうと、この時間にそんなものを背負っているのは明らかに不自然。彼女があまりに平然としているせいで気づくのが遅れたが、部活で使う竹刀かなにかなら普通部室に置いとくだろうし、それ以外の用途があるのなら、その長さのブツはすこし物騒だ。ざっと見た感じ、竹刀にしては服への食い込みが少々大きすぎる気がする、というのは手紙のせいで神経が過敏になっているからなのか、違うのか。

「神薙旭。放課後、屋上の給水塔で待ってるわ」

 澄んだ、耳通りの良い声。だが、それでもなお隠しきれないほどの冷たい鋭さを伴った声だった。

 その声に気圧されてしまっていたからだろう。彼女の言った内容に理解が遅れた。

「え? いや、ちょ、おま……」

 遅れていた間に、彼女はどこかへ行ってしまっていた。

 放課後に人のいないところへ呼び出される。こちらも、シチュエーションとしてはなんとも色っぽいものだが、


 ……告白、ではないな、これも。


 人付き合いが得意でないといっても、それくらいの空気を読み取ることはできる。

 苦笑をひとつ、誰でもなく漏らす。

 ふう、と旭はため息をひとつ吐き、上履きへ足をつっこんだ。

 片手で前髪をかき上げてどうしたもんかと考えこんだ。その時、

「おい、神薙。そろそろホームルーム始まるぞー」

 流行の洋服に身を包んだ、私立三枝高校の我らが頼れるアニキこと仙波影斗(せんば・えいと)が颯爽と目の前を過ぎ去っていた。ちなみに、旭のクラス担任である。

 旭の耳にホームルームの開始を告げるチャイムが、まるで狙いすましたようなタイミングで届いた。



 ※ ※ ※



 私立三枝高校は生徒数を千を超えるほど抱えるマンモス校だ。制服は男女共に紺色のブレザーに、学年別のカラーネクタイ(旭の学年は青色)。男子は黒の長ズボンで、女子はチェック柄のプリーツスカートだ。有名なデザイナーに依頼したとかで、この高校の人気の一因となっているらしい。

 六年前に新設されたばかりの学校で、成績がそこそこでも入れる『来る者拒まず』がモットーとも言えるような『入りやすい学校』であることで有名だ。だが、同時に外国の大学のように『出ずらい学校』でもある。教師はシビアで内容もコース別には分かれてはいるが、始まりが違うだけで結局行き付く先は超進学校と大差なく、しかも教師陣、というか経営陣には生徒の切捨てに躊躇がない。校則自体は信じられないくらい緩いが、数少ない校則を破る者や問題を起こした者は容赦なく退学。学期末に成績に一が付く人間は容赦なく留年。この高校は、辞めていく者が多い事でも有名だった。

 その学校の二年Bクラスで、神薙旭は、現在四時間目の終了した後の席でひとり考え込んでいた。旭の前には、少し前の授業で使われていた現代文の板書をメモしたノートが展開されている。

 ここにひとつ、三枝高校の七不思議が存在する。天才で名の通った神薙旭は、なぜかテストの成績優秀者の番付には乗った事がない。

 その答えがここにある。

 神薙旭は国語、特に現代文が壊滅的にできない。なんと三十点台と四十点台を右往左往するくらいにできないのだ。……他の教科は九十点以下を取った事がないというほどに出来るにもかかわらず。

 旭はひとり、頭を抱え続ける。板書したノートとワークを見比べ、教科書を凝視して、さらに考えて。やっとの事で、しかし不承不承ワークの解答欄へ答えを書きこんだ。それで、取り敢えずは納得したのだろう。旭は勉強道具類を片付け、弁当を広げた。ちなみに自作であるが、誰にも言った事はない。

 そこへ、男子三人組がやってきて、弁当や購買のパンを片手に旭のことを取り囲んだ。

「だからさ、その人がその時どう思ったかなんてことが、何で解かるんだよ」

 小学生の給食時の隊形のように、四つの席を四角にして昼食をとる高校生が四人。その左底辺の座席に座る旭は、目の前の席でカレーパンをかじっている松田に言った。

 松田はメガネを軽くかけ直し、あはは、と笑う。それが全然嫌味に見えないのが、この男の素晴らしいところだと旭は思う。他の人間がやれば、ほぼ間違いなく嫌味な行動に見えるだろう。実際、彼は頭が良い。

「神薙はそんなんだから国語関係で点が取れないんだよ。国語なんて、理屈じゃなくて方式でやっちゃえば簡単なのに」

 そういうのは得意だろ? と、松田。

 それができれば苦労はしない。旭は諦めのため息を漏らした。

 松田はまた、あはは、と笑う。

「ん? 国語を理屈じゃなくて方式で、ってどういうことだっ?」

 そこで斜め前の席から、梅澤がコロッケパンを口にくわえながら器用に疑問を挟む。

 疑問は松田に投げかけられたものだったが、言っていることを理解はしていることを示すため、旭は自ら説明を買って出る。

「国語系の問題は感情を問う問題が多いだろ。でも本当の意味でその時その人が何を思っているかなんて解らない。でも、そんなことを考えるより、こういうことを聞かれたら、こういうことを答えるっていう公式的に憶えた方が早いって話」

 旭は自分なりに短くまとめて説明した。

 松田は、やっぱり笑顔でうんうんと頷いている。

 だが、当の梅澤はさっぱり解っていなかった。

「……つまり?」

 しかし、あの説明で「つまり?」と促されても困る。旭がなんと答えるか迷っていると、

「つまり、梅くんがバカ、てこと」

 梅澤の前、旭の右横で、こじんまりとした弁当をつついている竹中が、静か~に答えた。

 旭は、竹中の相変わらずさに首を勢いよく落とした。

 ……なんだか、落ち着かないんだよなぁ。

 この三人には、たまにこうやって昼休みに一緒の食事に誘われている。断る理由も無いので、誘われるたびに旭にはこのような昼休みが訪れているのだった。

 そして、言われた梅澤に気にした様子は全く無い。

「え~? お前は解るのかよっ?」

 それに竹中がぼそっ、と。

「もちろん」

 …………。

 言い方が言い方だけに、無表情が非常に気になる。

「と、ところでなんだけどよ、朝ちょっと、知らない女子に話しかけられたんだけど。知ってるか? 髪が長くてさ、腰まであって。身長は普通。あと特徴って言えば、そう、肩から竹刀袋なんかかけてたんだが」

 とりあえず、なんとなく話題を逸らしてみた。別に答えを期待したわけじゃなかったが、竹中は学年全体の女子に精通してるっ、とかなんとかの噂を(発信元は梅澤なので真偽は疑わしいものだが)聞いたことがあったので、ついでとばかりに。

「あ、そいつはあれだっ。Aクラスに転校してきた土方雷華(ひじかた・らいか)だぜっ! なぁ?」

 だが、答えたのは梅澤だった。

「そう、だね」

 その脇で竹中も相槌を打つ。

 さらに、松田も頷く。周知の事だったらしい。ご丁寧に補足も加える。

「竹刀袋を肩にかけてたのなら、土方って子で間違いはないよ。有名だから、その子」

「そうなのか?」

「ああ。彼女、かなりの美人だろ? それでいて学校にいる間、片時もあの袋を手放さないから……」

 松田はそこでパック牛乳を一口飲む。

「変人」竹中がそれを引き継ぎ、「転校初日からなっ、超有名だぜ?」と、田村が仕上げた。

 ……どうでもいいが、この凸凹トリプルはよく気が合うよなぁ。

 旭は箸で玉子焼きをつまみ、口へ放り込む。飲み込み、

「ふ~ん、知らなかった」

 それだけ言って、再び食事を開始した。

「でもさ、あんな有名人を知らないなんて神薙も相変わらずというか、ホント他人に関心がないよな」

 松田が言った。

 ドキリとした。何故か、自分の姿をした影が頭をよぎった。

「そんな、ことは――」

 旭は、ごほごほと咳をする。

「いやっ! 絶対そうだぜ! だってオメェ、友達いねぇだろっ!」

 パンで人のことを指差しながら、梅澤は失礼なこと吐いた。

「性格も悪くなくて、他人を否定しない。成績も良くて、運動もできる。顔も、良い。なのに、友達はいない。だからきっと、旭クンは他人に関心そのものがない」

 竹中が上目遣いに追い討ちをかける。

 ……だから、だから嫌なんだ。

「友達が、いないなんていうのは、ほら、ちょっと言いすぎだろ? 今だってお前らとメシ食ってるし……」

 感情を押し殺して言う。胸なんて、痛くない。

 こんなのは、これまで通り。今更、そう、今更だ。そう生きてきたはずだ。今まではなんともなかったじゃないか。だから、これは幻想。

 松田はやっぱり笑う。あはは、と。いつだったか、コイツの言葉が甦る。「神薙はさ、きっと否定も、拒否も、受け入れも、しないんだと思うよ」

 口の中の食べ物。味がしない。

 キモチガワルイ。

 確かに、誘われる一方で自分からこいつらを誘ったことはないが……、それは……

 突然、眼球の奥でフラッシュが発生した。

 遅れて頭部に軽い痛み。

「にしし~、何してんだ~? 神薙ぃ」

 振り返ると、そこにはクラスメイトの日暮瑠夏(ひぐらし・るか)がガッツポーズで二の腕をさすって不敵に笑っていた。どうやら俺は、こいつにラリアットをかまされたらしい。

「~~っ。なにしてんだ日暮」

 今度は頭をはたかれた。理不尽。

「はい、ペナルティー。あたしのことは名前で呼べって、いつも言ってるだろ」

 日暮――瑠夏は肩へギリギリ届かない、スポーティなショートカットを後頭部からサラッとかき流し、腕を組んだ。勝気な瞳がご満悦に大笑いしていた。

「で? 何の話? あたしも混ぜろよ〜」

 瑠夏はあっという間に椅子を持ってきて――ちゃっかり用意していたのだろう――、旭の隣にポジションを取った。椅子の前後ろが逆で、瑠夏は背もたれにだらっと寄りかかっている。

「んあ、土方雷華っていう転校生の話。朝、なんか話しかけられてさ」

 それを聞いた瑠夏の顔が、一瞬厳しくなった。そして舌打ち。

「神薙、あの女はやめとけ」

「いや、そういう話じゃなくて……」

 再び見たときには、瑠夏の顔には嫌悪の色があった。

 しかし、それもまた一瞬のこと。次の瞬間からは意地悪半分の、彼女お得意の笑顔だった。

「だろ~? あんな女、眼中にねぇよな。だからさぁ」瑠夏はそう言って、

「あたしにしとけっ!」

 抱きついてきた。

 公衆の面前で。

 律儀にはやし立ててくる馬鹿三人とその他数名のクラスメイト。いつものことなんだし、そろそろ慣れてもいいだろうに。

 旭は肩に瑠夏の手を引っ掛けたまま、大きくため息をついた。

 気付けば、松田達三人が、いつの間にか生温かい目をして食事を再開していた。



 ※ ※ ※



 旭は屋上の鉄扉を開いた。手入れが行き届いているらしく、簡単に開く。

 この学校の、主に普通教室を詰め込んだ第一校舎の屋上。そこはバスケットコートのある左翼と、食事を取る事ができるようにテラスやベンチ、自動販売機の置いてある右翼、それを繋いでいる部分でコの字型をとっている。給水塔はバスケットコートの奥だ。

 屋上は放課後ということもあって、やはり人気はない。旭を呼び出したはずの少女の姿さえも、無い。

 旭はゆっくりと歩いていく。

 バスケットコートを横切り、給水塔の前までたどり着く。

 やはり土方の姿はない。

 ただ、二メートルという少し高めのフェンスに、不自然に木刀が立てかけてあるだけだ。

 恐らく、土方が立てかけたのだろう。意図が全く読めない。

 取り合えず木刀を手にとってみた。

 瞬間、旭はフェンス越しの給水塔から二メートルを超えて切り掛って来る、土方雷華の姿を認めた。


 混乱するよりも早く、身の危険が彼を冷静にさせた。

 切り掛って来る土方の得物は反りの無い日本刀。しかし、こちらに向かうのは刃ではなく峯だ。あの袋の中身なのだろう。

 そしてこちら得物は木刀。奴がなにを考えているのかは知らないが、

 ……十分だ。

 旭は木刀を片手、右に持ち替えて、一歩、右足を引く。

 身を沈ませ、腰を溜めて回転の力を作りだす。

 なにを気取っているのかは知らないが、相手は上段から飛び跳ねて切り掛って来る様な馬鹿。ならば、


 ……攻刃・『転抜(てんばつ)』。

 左足の爪先を外へスライド。脇を閉め、木刀を下から上へ。大振りで振り上げる。狙いは振り下ろされる日本刀の、表面を滑らせる受け流し。

 受ける。

 そのまま大振りの慣性を使い、左足を回転軸に右半身を一回転。体に染み込ませた一連の動作。

 敵は今だ空中。振り下ろした刀を受け流され、体勢が崩れている。


 ……攻刃・『天閃』。

 その回転を、直線の力へ変換。たとえ峯だとしても、日本刀を持ち出すような輩に容赦は無用だ。喉元一線。

 奔る切先。

 空を切り裂き、空間を縮める。突く。

 迫りきる圧力。刹那、

「はっ」

 少女は、宙で日本刀を薙いだ。

 点でしか捉えることのできない剣先と、峯の火の出るような接触。

 弾かれる。

 さらに少女は宙で一回転し、後退する。

 足を地へ。慣性に引きずられて距離を取った。


 距離が取れ、少しの余裕ができると旭は今更のように戦慄した。

 二メートルを越える跳躍に始まり、空中での行動、異常動体視力と、たった数秒間の打ち合いで超人じみたことをを三つもやってのけた。

 それは、人が、人で非ざる者に抱く、生理的な恐怖、とでも言えばいいのか。

 敵は日本刀を横に一振り。それは、奇しくも夢の中の影にそっくりで。

 少女は日本刀を両手に持ち替え。思わず、

「いざ」

 敵はこちらへと駆け出した。本気で『消してしまいたい』、と思ってしまった。

 距離、約五メートル。接触までは一秒未満。なかなか速い。


 ……守刃・『無形』。

 まずは、敵の剣筋を見る。右の木刀をだらりと下げ、無造作な構えを取る。力を抜き、どの動きにも対応できるように。

 敵は両手で握った日本刀を右脇へ。

 刹那。

 接触。

 敵は右脇から日本刀を水平に。亮はあまりの軌道の読みやすい太刀筋にあきれつつ左へ軽くサイドステップ。

 世界がスローモーションに映る。紙一重でかわした剣先が制服をかする。

 旭は反撃のため、下段へ構えた木刀に力を込める。

 勝利を確信した瞬間だった。

 しかし、敵は地から足を離していた。野球のスイングでもするかのような大振り。その振りの勢いで、宙で回転していた。

 足が地へ。ブレーキが踏まれる。今度は左脇へ刀が構えられている。隙を見せたと思っていた敵は、すでに次弾の装填を済ませていた。

 まずい、と思考する暇さえも無かった。

 敵はともすれば滅茶苦茶とさえ言える、とんでもない大振りで刀を薙いだ。

 危機は光の速さで脳を貫き、反応などしている間はなく、体は思考よりも早く。

 受身も取らず、取る暇も無く、『攻刃』を解体してうつ伏せに地面へ倒れこんだ。

 頭上を風圧が通過。

 屋上の床へ右肩をぶつける。

 走る痛覚。


 まだだっ。

 ぶつけた反動でまた体が少しだけ浮く。痛む腕を無視してそのまま流れるように前転する。

 起き上がりざま、旭は出鱈目に木刀を振るった。

 神崎薙流剣術の『攻刃』にも『守刃』にも該当しない動き。苦し紛れの一刀。爺さんが見たらさぞ嘆くだろう。旭は頭の片隅で、師匠たる自分の祖父のことを思い出していた。途端、頭に冷水がぶっかかったような錯覚に襲われた。

 出鱈目で苦し紛れだったが、それでも射程にあった敵はその攻撃を右手一本での見事な側転でかわしていた。

 縮地――擬きだが――によって一瞬で距離を詰めた旭は、左から右へ水平に一閃。

 敵は苦い顔でバックステップをとり、同時に峯をこちらの剣筋に合わせて軌道を逸らし、受け流す。


 ……攻刃・『天狗舞(てんぐまい)』。

 次にどうすべきかが頭へ流れ込んでくる。流された木刀を今度は柄を先行させ、両手で持って左上段めがけて切り上げる。そのまま流れに身を任せて飛び跳ねた。

 距離を詰めたことによって左右後方全て、もう敵には逃げる進路は無い。敵は再び剣撃を受け流した。するしかなかった。――旭の思う通りに。


 ……攻刃・『地削ぎ』。

 旭は宙で反転。木刀を左へ持ち替え振り下ろした。敵の下段へと叩き込む。

 今度こそ、勝利を確信した。そして何より、これで決まらなければ旭の負けだった。彼はまだ、『地削ぎ』から繋げる『型』を持っていない。これはいわば、未完成の技だった。

 それでも、なんとか攻撃だけは防いだのは流石としか言いようがない。甲高い音を立てて、敵の日本刀が吹き飛んだ。今までの受け流しとは違い、正面からの激突だった。

 敵は地面に仰向けで転がっていた。


 長い髪が、うなじのあたりから地面に散らばっている。

 スカートの下から、黒いストッキングの奥に鎮座する白い布地が見えた。別に覗いたわけではない。

 そこで、敵が女であったことを思い出した。

 しかし、だからといってこちらの対応が変わるわけではない。

 仰向けに倒れている敵の喉もとめがけて、木刀の切っ先を突きつけて聞く。

「で、俺に何の用だ。土方雷華」

「へぇ、私の名前知ってたの。ちょっと意外だわ」

 旭は黙る。質問に答えろ、と睨みつける。

 土方は日本刀で切り掛ったことなど大したことでもないように、事も無げに答えた。

「貴方の力量を知りたくてね、少々手荒くなったのは謝るわ。貴方の力量を甘く見ていたことも」

 さっきのなんて神無月の魔術に届きかけてるじゃない、なんて意味不明な独り言まで付け加えられた。

「だから、私も少しだけ本気を見せるわ。これが、我々の『魔術』よ」


 土方が視界から消え去った。





 凄い、と雷華は思った。

 神薙旭の戦闘能力は予想された値を遥かに上回っていた。

 今も、すでに雷華の戦闘スタイル――円運動を主軸とした、無駄が多く、しかし隙の少ない一対複数戦を想定、特化した太刀筋――を見抜き、距離を詰めてきている。

 対多人数戦特化、とは言っても雷華は神無月の魔術師だ。本来は二刀流である時雨だが、愛刀の片割れを封じて挑んだとはいえ、まさか一般人に後れを取るとは思ってもみなかった。そう、思ってもみなかった朗報だ。

 神薙が跳んだ。

 体をひねり、木刀が下段へ振り払われる。

 防御が間に合わない。

 脳の『枷』を一瞬だけ外した。


 一瞬の後、愛刀の白狐(びゃっこ)は弾き飛ばされていた。

 雷華の体もコンクリートの地面へ投げ出される。

 受身も間に合わず、背中を強く打ち付けて肺の空気が吐き出た。

 雷華は痛みに顔をしかめた。

「で、俺に何の用だ。土方雷華」

 神崎は木刀を喉元へ突きつけて言った。

 事後処理も素晴らしい。だが、それでもあくまで一般人にしては、だが。

 雷華に言わせればまだまだ隙だらけだ。

「へぇ、私の名前知ってたの。ちょっと意外だわ」

 “神薙旭は他人への関心が極端に低い”、と事前の調査報告にあった。正直、転校してきたばかりでまるで接点のなかった自分の名を知っているとは、思っていなかった。

 神薙は黙ったまま、こちらを睨みつけている。まるで自分の質問に答えろ、と凄むように。

 雷華は仰向けのまま肩をすくめ、素直に答えた。

「貴方の力量を知りたくてね、少々手荒くなったのは謝るわ。貴方の力量を、甘く見ていたことにもね」

 先程の空中下段払いなど、普通の人間業ではない。目の前の男は、理屈も知らずに神無月の魔術に届きかけているのだ。

 あまりの超人ぶりに、思わずため息が漏れる。

 そして、再び神薙へ向けて続ける。

「だから」頭の中、想像の結晶、脳髄の真ん中に、もう一人の自分を創り出す。

「私も少しだけ」その自分はたくさんの『枷』に雁字搦めにされている。

「本気を見せるわ」その内の三割だけに――慎重に、かつ迅速に、狙った『枷』だけに――出力を絞って。

「これが、我々の『魔術』よ」改変は世界ではなく、己が肉体でもない。我が『意思』を持って、望むは限界という『概念』の突破。『認識』するのは他者ではなく、己れ自身だ。偽りは外部ではなく内部へ向かう。


(――我、神なき月に別れを告げ、いずれ神在り月へと至る者也――)


 土方雷華ではなく、“神無月雷華”という存在に刻まれた暗示。自己を改変するトリガーを引いた。

 視界が霞む。世界が停滞する。

 鈍い痛みが脳を蝕む。通常ではありえない体の動き、視界の捉える光の情報に、知覚処理が間に合わず一瞬吐き気に襲われる。

 体はすでに神薙の背後。彼には一体なにが起こったのかすらわかるまい。相手が瞬きをする瞬間にタイミングを合わせたため、もしかしたら、こちらが消えたように映ったかも知れない。

 濃縮された時間にじれったさを感じる。

 右足で地面を蹴った。その右足に小さな違和感が走る。筋繊維が数本イったな、と雷華は感じた。

 それと同時に自分の体が前へ、感覚で言えば跳ね飛ばされる。

 神薙の体が何かに気づいたように、背後へ振り向くべく動き出す。

 それよりも早く、もっと速く、脇腹めがけて拳を叩きつけた。

 神薙は痛みに顔をしかめながらも、振り向きざまに木刀を薙ぐ。

 その動きを目で捉えてから回避運動へ入る。十分に間に合う。上体を思いっきり逸らしブリッジの体勢へ。手が地面へ付く。勢いでそのまま足で地面を蹴って、下半身を持ち上げる。狙いは木刀を握る手だ。

 横薙ぎ一閃の、相手にしてみればミートポイントだった筈の空間で、雷華の足が神薙の手を蹴り上げた。木刀が手から離れ、落ちる。

 雷華はそのまま一回転を決め、返す刀で再び地面を弾き飛ばして神薙の元へ。瞬間で背後を取り、左手で首筋を締め、右手で腰の隠しナイフを抜き、

 木刀がコンクリートに跳ねる乾いた音がした。

 折り畳み式ナイフの刃を展開。首筋に当てた。



 ふぅ、と安堵のこもったため息をつくと、土方は左手の拘束をあっさり解いた。

 あまりにあっけなく開放されたため、死さえ覚悟した旭は呆然となった。

 土方はナイフの刃を仕舞い、素早く腰元へ戻した。何処に忍ばせているのか、仕舞うところを見ていてもさっぱりわからない。

 今すぐという危険はなくなったものの、油断はできない。ありったけの敵意を込めて、敵と相対する。

「俺に、何の用だ」

 再び同じ問い。何者で、何用で、何の意味があった。ここまでやっておいて、今更あっさりと引く。屈辱だ、と湯だった感情が体中を唸り声を上げて駆け回る。視界の端で木刀と自分の距離を測る。日本刀は遠すぎた。

「安心して。もう害意はないわ」

 土方は作り笑いを浮かべて白々しく両手を挙げた。もちろん腰元には隠しナイフがあり、彼女自身も旭がそれを見ていたことは了承済み、だというのに。

 彼女の顔からは感情の類は見て取れない。口元だけが微笑みを模り、形の良い眉毛、長いまつげ、大きな瞳という、普通ならば愛くるしさを感じさせるはずのパーツからは無機質な冷たさを感じる。無感情、無感動、極寒、虚無。凡そ、人が――自分と同じ種類の存在が――発する光ではない。ではこいつは、こいつはいったいナニモノなんだ。

 熱は駆け巡った速さの二倍で引いていった。残ったのもは、緊張と冷や汗。

「そんなに硬くならないでよ。こっちまで緊張しちゃうじゃない」

 ふふ、と年頃の女の子のように笑って、得体の知れない何かはこちらに背を向ける。これ以上、外見とマッチしていながら本質的には背筋が凍るほどに似つかない組み合わせは他に在るまい。

 彼女はそのままフェンスの方へゆっくりと歩き出す。

「自己紹介がまだだったわね」

 どう反応したものか判らず、旭は唾を飲み込んだ。今度こそ先制を奪うべきだったのか、返事を返せば良かったのか、逃げ出せば良かったのか。

「私は……」

 やがて彼女は言葉を紡ぐ。何も実行できぬまま、何の決断もせぬ内に。


「序列十番目の魔術師・『枷壊士(けっかいし)』、神無月雷華」


 そして、

「我が当主、〈神有月〉の命により、」

 振り返った。

「貴方を守るために来た」

 彼女の長い髪が、夕焼けを背景になびいた。

 世界に、色彩が戻っていた。



 ※ 




 旭は校門を出て、現在、人気のない紅葉の舞う並木道を一人で歩いていた。

 にもかかわらず、耳に届く足音は二組。彼の背後には土方が着かず離れず付いてきている。

 いい加減イライラが頂点へ達した。旭は振り返り、押し殺した声にありったけの敵意を込めた。

「おい」

「なに?」

 彼女も止まり、応じた。

「ついてくるな」

 こいつには通用しないと、判ってはいるがそれでもすごんで言い放つ。

「別に貴方の前を歩いても構わないし、他の道を使えっていうのならそうするわよ? 家、知ってるから」

 やはり全く通用しない。しかも開き直っている。

「四丁目十三番地の一軒屋。巨大な洋館で、神薙総一郎の遺産のひとつ」

 詳細を言い当てられた。まあ今更、驚きはしない。驚かないだけだが。

 旭は舌打ちしながら吐き捨てた。

「ちっ、勝手にしろ」

「ええ、勝手にするわ」

 先刻と同じやり取りで会話は終了した。

 ……くそっ。本当に、なんなんだこの女は。

 旭はつい数十分前の屋上での会話を思い返した。





「魔術師だと?」

「そう、魔術師。まあ、ちょっと特殊なことができて、特殊なことをやってる組織って認識しといてもらえればいいわ」

 そう言って土方は不気味な微笑みを止め、真顔へと戻った。

「まだるっこしいの、私は嫌いだし貴方も嫌いそうだから短刀直入に言うけど、神薙旭は命を狙われてる」

 頭をよぎるのは……、

 今日の、昨日の、一昨日の。ここ最近続く脅迫状や不振な気配、

「心当たり、ある?」

 そして自分を殺害し続ける、自分の影。

 彼女の言う心当たりとは、狙われてる動機か、狙われた兆候か。

 いや、恐らく両方なのだろう。そんなことを聞く以上、どちらにしても……

「愚問だったわね。失礼」

 表情に出たか、とも思ったがそこまでの愚を犯したとも思えない。どうやら神薙旭という人間がどういった人間であるかは、調べがついているらしい。とことん気に入らない。

「さて、では早速本題だけど、貴方には我々の保護下に入って頂きたい」

「我々、ね。どこまでもふざけた連中だな。魔術師だとかいうのもそうだ。お前、自分が相当電波なこと言ってる自覚ちゃんとあるか?」

 侮蔑、さげすみ、哀れみ。おおよその人間が嫌がる感情を視線に込める。

 それも、それでさえも、眼前の少女は軽く肩をすくめるだけだ。

 まるで、土方雷華の頭が狂っているのか、神薙旭の常識が間違っているのか。子供にものを教えるように、正解へ至る道しるべはもう教えてあげたと言わんばかりだ。

「それを言われるとつらいのよね」

 言葉だけは殊勝だ。だが、口調からは余裕がにじみ出ている。

 そう、こいつはひとつ、解となる証明を立ててしまっている。

 なにかを呟いた瞬間、こいつは消えてみせたのだ。いや、消えたと錯覚するほどの瞬間移動を行った、というのがより真実だった。だが、認識を許さないほどの高速は消える事と同義だ。筋力の増強? 身体能力強化? 魔術? なにをしたかは実際の所全くの不明だが、つまり、

 『加速』。

 同年代どころか並の武術使いでは相手にならない、祖父から本当の意味での戦闘術を学んだ旭が、反応することさえ許されない圧倒的な力。

 旭は口の中に苦みを感じた。

 相手は恐らく、そのためにわざわざ勝つ気の無い勝負を仕掛けてきたのだ。力の証明と、そして脅迫のために。こちらにはいつでも貴方を押さえ込める力がある、と。そう言っているのだ。

「そんなに怖い顔しないでよ。ちょっとした冗談。話術は魔術師の基本技巧だし、これも自己紹介の一貫」

 彼女はそう言うと、再び薄く微笑んだ。先の笑みと違い、ちゃんと血の通った人間の微笑みだった。

 旭はその顔に、不覚にもほっとしてしまった。

「別に貴方を力でどうこうしようという気はないの。そりゃ、多少は威嚇の意味もあったけど」

 その言葉に、再び緊張を取り戻す。

「でも、今回の任務は守護対象である貴方の協力が重要なの」

 言いたいことはつまり、これらしい。それで? つまるところ……

「お前の目的は神薙グループか?」

 土方が反論の口火を切ろうとする。旭はそれにさらなる言葉をおっかぶせる。論戦に強いのならば、わさわざ相手の土俵でやることはない。

「生憎、俺には魔術師なんて頭のいかれた連中を相手をしている暇はないんだ。もちろん、神薙グループをやるつもりもない。自分の身は自分で守る。もとよりそのための剣術だ」

 旭はそれだけ一気にまくしたてると、踵を返した。もう、ここに用はない。後は彼女がなにを言っても無視をすればいい。

 無視すれば……

「相手は他家の魔術師。腕っ節が強くても意味はない。貴方のお父上も、奴等の仕業よ」

 不覚にも、足を止めてしまった。

「親父は心臓発作だ。他殺じゃない」

「真相が知りたくない?」

「寝首をかかれない証明をしてくれればな」

「しょうがない。しばらくは貴方の協力は無しの方向でいくわ」

「勝手にしろ」

「勝手にするわ」

 閉じた扉に、いずれ理解できる、という土方の負け惜しみが聞こえたのだった。





 三枝高校の正門を東へ三百メートル進んだ先、そこに日本有数の巨大な洋館がある。都心から少しだけ距離があるとはいえ、いまだ都内のこの地に、道場などという場違いなものを抱え込んでなお広大な広さを失わない庭。そして時代錯誤の、2階建てで横に平べったく、無駄に煌びやかな図体を持つ館。極めつけは公道と私有地を仕切る絶壁の柵に有刺鉄線、死角の存在しない監視カメラ、他にも現持主たる旭ですらその全容は把握しきれていない最新の防犯装置の数々だ。

 まあ、神薙総一郎存命中のごく最近までは、会議から書類、データなど、神薙グループの重要なものは全てここに集結していたのだから、別に大げさだとも思わない。三財閥一柱、というのはつまり、そういうことなのだ。ただ、社長と会社を失ったこの館は、神薙旭という個人にはあまりに無駄の多い持ち物に成り下がった、というだけの話。

 ……それでも、ここ最近の俺の境遇を考えれば感謝しなくてはいけないのかもな。

 館の門までの道すがら、旭は思った。

 門の前には名も知らぬ、神薙邸のハウスキーパーが立っている。老齢の紳士風で、執事というイメージがピッタリの人物だ。

 老紳士はこちらへ気が付くと一礼した。

「今日一日、特に問題はございませんでした。鍵をお返しいたします」

 そう言って鍵の受け渡しをする。彼にはハウスキーパーのリーダーのような役割をしてもらっている。ちなみに、彼等が未だに旭を主人としているのは古臭い義理、などではもちろんなく、単にプロフェッショナルなだけだ。こういう部分には、不覚にも親父の教育が活きている。一般的な高校生は人の雇い方など知らないだろうから。

「ああ、明日もいつも通り頼む」

 旭はそれだけ言って門をくぐろうとして、珍しく、普段は余計な事を言わない彼に呼び止められた。

「大変申し訳にくいのですが、後ろの令嬢はいったい……」

 後ろを振り向くと、土方が相変わらず一定の距離を律儀に取って付いて来ていた。今は旭が止まっているので、彼女も止まっている。ここまでくると、ただの嫌がらせだ。道の真ん中で、腕を組んで、こちらをしげしげと見つめている。どうせなら隠れてやってくれればいいものを。

 旭はため息と共に、

「ほっといて構わない。防犯装置はいつも通りなんだろ?」

 ……どっちにした所、今すぐに何をしようという気は無いようだし。むしろ気がかりなのは物取りのセンだ。

「はい。いつも通り、何人たりとも侵入は不可能かと」

「…………なら大丈夫だ。お前も早く帰れ」

 今度こそ旭は門をくぐって行った。

「失礼いたします」

 ハウスキーパーが深々と頭を下げているのが、気配で判った。

 旭は、今の会話を頭の中で繰り返していた。

 …………なら、人外のモノに、この防犯装置は意味を成すのか?

 そんな軽口が頭を離れない彼は、自分を恥じた。



 神薙旭の放課後は単調なものだ。

 学校が終わり、家へ帰ってくるとまず着替え。トレーニング用のスウェットへ上下を変える。次に庭をランニングし、道場で剣術の基礎練習。それが終わった後、道場にある祖父の仏壇へ線香を上げる。師範として、今は尊敬している祖父に、己の姿を見てもらうために。それも終わると次は風呂だ。それから調理場へ立つ。ちなみに買い物は全てハウスキーパーに任せている。早めの夕食を済ませると、机へ向かう。常に何かしらを独学で学習――今は経済学を――している。これが中間期末の時期になると、……国語になる。あとは寝るまで自由に過ごす。読書をしたりなど適当にやりたいことをやる。基本的にテレビは朝のニュース以外ではつけない。そうして適度に時間を潰し、夜の十時にはベッドに入る。

 それは変わる事の無い日常。ただ、今日に限っては寝る前に警備室へ入り、カメラのチェックと装置の作動を確認したという、それだけの差異。

 それは、変わり始めた日常。代えることの出来ない通常。戻る事の出来ないあの日。

 満月を臨む神薙邸の屋根、緩やかな斜線の上で、変化の象徴たる少女が神薙旭の就寝を確認した。




 ※ 




「カカカ。まだまだよのぉ、旭よ」

 よれよれの道着に白い髭と髪。老齢のクソじじいが、五キロはあろう訓練刀を軽々と振るっている。

 値踏みするような細い目に、亮は苛立ちを覚える。が、どうにもならない。

 どうにかしたければ、こちらも刀を振るうしかない。

 攻刃と守刃を組み合わせ、立ち向かう。

 受ける。

 流す。

 突く。

 弾く。

 薙ぐ。


「まだまだ、踏み込みが足らんのぅ」

 神薙流剣術。

 剣道ではない。敵を排除することのみに重きを置いた剣術。

 攻性を司る『攻刃(こうじん)』、防性を司る『守刃(しゅじん)』、その総称を『型(かた)』と呼ぶ。神薙流剣術はその『型』だけでできている。構え、足の運び、刀の出方、回避運動、トドメの刺し方。その全てを個に分解し、その個――つまり『型』――だけをひたすら繰り返す。逆に『型』以外は存在しない。何百という選択肢の組み合わせ、繰り返しだけで戦う。臨機応変さに欠く戦い方であるが故に、ひとつの『型』を繰り返す数は何万、何億。モノにした『型』は全自動。必要なのは意思のみ。技への意識を必要とせず、機械のように正確で精密で高速、そう在る様に敵を討つ。それが神薙の流派。

 旭は踏み込み、四連撃を振るう。

 クソじじいはそれを軽くいなし、躱し、反撃する。


 ……守刃・『剛鬼』。

 全身の筋肉を締め、腕の関節を固定して受ける。

 オートマチック。後は体に全てを任せる。


 ……攻刃・『天閃』。

 『剛鬼』で緊張させた体を一気に脱力させ、刺突。

 ――躱される。

 再び距離を取り、一呼吸の間が生まれる。

 一瞬後には激突。連撃、回避、弾き、叩きつけ、受け流す。接近戦の中の皮一枚の綱渡り。交えるは必死と余裕。舞い踊る。

「カッカッカッ。女の尻ひとつ触ったことの無い青二才が、ワシに勝とうなど十年早いわ」

 家宝、『神切安綱』。神薙流継承の証とされる――受け継げなかった継承者として、彼の遺灰と共に墓へ埋めた――神薙の刀。それを模した訓練刀をブン回すじじい。

 その、まもなく七十歳を迎えるとは思えない体から横筋一閃が放たれる。

「はっ、……だまれ、はっ、エロじじいッ!」

 上がる息を押さえ込み、柄尻でじじいの刀の腹、その先端を叩いた。

 テコの原理でじじいの刀が吹っ飛ぶ。

 じじいの首筋に、旭は刀を当てた。

「見たか。くそったれ、十年といわず、今、ここで、免許皆伝だ」

 上がる息にそのまま言葉を乗せて言った。

 クソじじい、もといエロじじいは首をすくめる。珍しく神妙な顔で、

「いーや、それは無理じゃて。なぜならお前は弱い」

「はん、その俺に負けておいて、言うに事欠いてそれか? 師範さまよぉ」

「固き脆い。ということを忘れてはならん。神薙流もお前自身も、固きに属するもの。柔らかくなる必要は無い。ないが、固さを自覚できなければその脆さを補う事は出来ん。そしてなにより……」

 視界がひっくり返った。

「ワシはお前より強い」

 いやらしい、勝ち誇った笑い顔が真上に、逆さまに映った。投げ飛ばされたらしい。

 カッカッカッ、と耳障りな笑い声と共にじじいは旭の刀を蹴っ飛ばす。刀が射程圏内から零れ落ちた。

「強力な技を習得している。それだけではまるで不十分。使うべき瞬間に、使うべき技を使う。

 ……それが、誠の武じゃ。覚えておけい」

 何度も聞かされた説教が終わったところで、背筋が寒くなる。

 道場の薄茶の板張りが色彩を薄くする。

 気が遠くなるような屈辱と怒りと、今更だからの反省。

 過去と現在がマーブリングする混乱と矛盾が、旭をぐちゃぐちゃに明確に。二分して。溶け合う。

 いつの間にか笑い声は消えていて、

 右目と左目が全く違う光景を見ているような、

 完全で完璧で、中途半端に矛盾だらけの、奇妙な感覚。

 「自分を見下ろす自分」と、「自分を見上げる自分」と、「自分が自分である」という自覚。

「俺は、」

 やがて不可思議は終わる。己の過去の台詞を持って。

「弱くなんか、無いッ!」

 影は刀を振るう。いつの間に。

 神薙流を振るう。当たり前だ。

 対峙するのは神薙旭。抽象はより具体に。

 周囲は明確。得物は神切安綱。敵は自分。


 旭は手にする訓練刀で応戦する。

 何故か出来る。今までは出来なかった。

 二度、三度。なんとか防ぐ。だがそれまで。

 刺された刃は今までよりも生々しく。


 そうして敵(おれ)は、旭(おれ)を殺害する。

 そうして旭は、架空の死を認識し続ける。





〔幕間〕



 生まれたばかりの『それ』は、聞く。


 曰く、魔術師の言葉に耳を傾けてはいけない。


 曰く、相手よりもより早く、より多く、より強く、言葉を繰れ。


 曰く、暗示を埋め込め。


 曰く、曰く、曰く、……『それ』には何のことか解らない。



※ 



 荒い息に目が覚めた。

 ……またか。

 ここ最近、頻繁に見るようになったあの夢だ。二日続いたのは初めてだ。

 動悸が治まらない。耳障りな音が止まない。

 鈍い痛みが頭に纏わり付いている。

 頭を抱え、そのまま滅茶苦茶に引っ掻き回した。

 指が髪の毛の間を走り回り、こびりついた汗が跳ねる。

 手を止め、深呼吸。

 周囲を見渡す。

 大型のクローゼット、本棚、足元には靴。ひとつひとつ確認していく。その間も深呼吸を続ける。

 テレビ、広くも全体的に物の少ない閑散とした部屋、いつものベッドの感触。大丈夫。いつも通の自分の部屋だ。

 落ち着くと焦っていた自分が恥ずかしくなった。

 さらに、土方の言っていた事の裏づけを経験してしまったようで、面白くなかった。

「……クソッ」

 旭は誰にでもなく悪態をつくと、ベッドから跳ね起きた。




※ 




 朝の支度を終え、家の門まで道程を歩いていた旭はふと思う。

 今日の朝の夢は、まさか土方の仕業だろうか。彼女の言う、魔術とやらで夢へ干渉して自分の命を狙っているのではないか。という妄想だ。

 旭は頭を振った。

 まさか、そんなことが出来るはずが無い。

 が、考え始めると、そんな下らない妄想は止まることを知らない。

 ……親父が死んだのは、そういえばベッドの中だった。しかも原因不明の心臓発作。別に心臓を患っていたわけではない。

 否定する自分が囁く。そんなファンタジーが、この世に成立してたまるか、と。

 ……だが、昨日土方が見せた瞬間移動はなんだ。あれが魔術でなくてなんだと? 今までの修行経験が全ての答えを出しているじゃないか。あれは人間の動きではない。

 理性と論理が歯止めをかける。落ち着け、神薙旭。論旨をすり返るな。夢と瞬間移動は完全に別件だ。

 まるでまとまらない。

 何が真実で何が虚構なのか。これまでの確固たる基準が揺らぎつつある。いや、あるいは完全に破壊されてしまったか。

 これじゃ、あの女の思い通りだ。

 旭は後頭部を感情に任せて引っ掻き回した。

 自分でもらしくないと思うため息を吐き、門を曲がろうとした。

 そこに、奴がいた。


 土方雷華。敵。神薙旭を守るために来たと言う。相変わらず竹刀袋を肩へ掛けている。剣豪。『魔術師』。

「朝、早いのね」

 表情は無い。だが、対峙した時のような凍えるような雰囲気ではなかった。言うなら自然体。別に険悪なものも、敵対心も、逆に媚を売るようなものでもない。

 旭はそれに完全に毒気を抜かれてしまった。

 だが、それでも気を許すつもりはない。敵は敵だ。

 と、彼女の立っている場所に気が付いた。

「中、見たな?」

 郵便受けの前だった。カマかけ、といかもうほとんど確信に近いものだった。

「何も入ってなかったわよ」

「……否定くらいしやがれ。ムカつく奴だな」

 土方を睨みつけるが、相変わらず肩透かしな反応だった。


 昨日の下校時と同様、一定の距離を保って後をつけてくる土方を伴っての登校となった。

 周囲には木々の欠片が、紅い骸をを晒している。今日の紅葉はいつにも増して毒々しい。

 そんなことを考えながら歩く旭の隣には瑠夏の姿がある。

 数秒前、

「オッス、神薙ー!」

「ああ」

 以上。

 大仰に手を上げて近寄ってくる同級生。旭にとってはトリオに並び、ほとんど存在しない味方のひとりだ。

 毎日毎日、必ずといっていいほど家を出てすぐの十字路で出会う。昨日はかなり珍しい例外だった。

 旭を待っているのは間違いない。そういったものは、正直な所嫌いだった。だが、瑠夏は一緒に登校していてもあれこれ話しかけてこない。いつも隣を歩き、にこにこ笑っている。沈黙が痛くない。

 それは、とても居心地の良い空間だった。

 ショートカットの快活な美少女、それが日暮瑠夏を一言で言い表したものだろう。男勝りで運動神経が良く、面倒見が良くて大胆かつ繊細。男女共に人気がある。そんな奴だ。

 だが、そんな奴であるが故に、今日は珍しく瑠夏の方から沈黙を破った。

「で、だ。神薙、後ろのはなんだ?」

 これには旭も首をすくめるしかない。

「ストーカー、或いは背後霊ってところか? 本人は守護霊を主張してるがな」

 ……なんであるかは俺が一番知りたい。


 その後も影夢や土方のことについて思案していた旭は、ふと、背後から自動車が近づいて来たことに気づく。ガードレールが無いエリアだったため、自身の左側――車道側――を歩いていた瑠夏の肩に手を置き、そのまま抱き寄せた。

「きゃっ」

 すると、普段の彼女からは想像もつかないような可愛い声が聞こえた。

「あ、すまん。車が来てたから危ないなと思って……」

「う、うん。ありがとう。気にしないで。ちょっとびっくりしただけだから……」

 気のせいか、瑠夏の口調がいつもより女の子らしくなっているようだが、指摘するのも野暮だと思われたため、そのまま歩を進めた。

 途中、瑠夏の方にちらりと視線を向けると、先程、旭に触れられた部分を見つめながらもじもじとしている。

 ほんの数分前まで二人の間にあったさっぱりとした空気はなりを潜め、なんとなく気不味かった。

(頼む。早くいつもの瑠夏に戻ってくれ)



 ※ 



「へぇ、じゃあ神崎は死んだ事があるわけだ。どんな感じ?」

 登校中の生温かい雰囲気は綺麗に消え去り、旭と瑠夏はいつも通りの距離感を取り戻していた。

「あのなぁ、夢の話だぞ。そこ、笑うとこだ」

 旭は瑠夏にデコピンを見舞う。

 死んだ感じ、というのを思い出し、その寒気を追い払うために。

 そして、少しこのことを瑠夏へ漏らしたのを後悔した。まるで自分の弱気を自白してしまったようなものだ。らしくない。

 だが、横では瑠夏が大笑いしている。旭のツッコミがよほどお気に召したらしい。

 楽しそうで明るい笑い声を聞くと、まあ悪い気はしなかった。

 今、旭と瑠夏、そしてかなり距離を置いた土方の二人と一人は、校舎の階段を登っている。三人は二年生なので目指すのは本館の三階だ。

 土方との距離は、こちらの会話が聞こえない程度には開いている。旭と瑠夏が二階を通り越した所で、一階の階段を登り始めたところ。まめなチェックは怠っていないので、間違いない。

 あちらも旭から目を離さない。視線を送るたびに目が合う。ついでにそのたび横からは、不機嫌な唸り声や肘鉄なんかが送られてくるわけだが。

 今の話も土方には聞こえていないはずだ。できれば聞かせたくない。今だ判断は保留しているとはいえ、影夢は奴の言う連中との関係性は否定できない。

「それで? 神薙はその夢、何回くらい見たことあんの?」

 瑠夏の声でふと意識が体へ戻った。

 ……つか、その話題続けるのか。いや、そんなことより、

「瑠夏、なんで影の夢が初めてじゃないって判ったんだ?」

「え? あはは。何言ってんの、お前この間言ってたじゃん。夢見が悪いって」

 そういえばそんなことも言ったような言ってないような。

 瑠夏があまりに当たり前のように言うので、言ったような気がしてきた。

「そうだったか? まあ、どうでもいいんだけどさ」

「で? 何回くらい見たの?」

「うっ、いつになくグイグイくるな。でも、何回ってのはホントわかんねぇって」

 歩いていると、なんだかいつになく廊下は人が多い。

「んー、それじゃあ……」

 瑠夏はいつになく真剣な顔になる。

 廊下を進んでいくが、Bクラス――つまり旭と瑠夏のクラス――の前には人だかりがあった。凄い人数だ。クラスの人間はほとんどが居る。他にもかなりの人間、他クラスの奴がいる。なにかの野次馬だろうか。

「連続で、その夢を見た事は?」

 人だかりで前へ進めない、土方の居ない安全地帯へ進めない。あの女の足音が近づく。

 騒がしい。なんなんだ。異常だ。

 足音が近い。

 焦る。

「き、今日と、昨日」

 旭は半分上の空で答える。


 何かがおかしい。

 昨日からおかしい。このままじゃ呑まれる。負ける。認めないっ。

 人だかりを掻き分ける。

 クラスメイトに肩をぶつけ、手で押し分けて、足をもつれさせて。それでも進む。人だかりがそれ以上進むなという警告を鳴らす。だけど進む。その先に、


「…………ぁ……」


 腹部に激痛。今朝、自分に刺された傷が開いたのではと錯覚するような、リアルな痛み。続いて吐き気。平衡感覚を失う。倒れた感触があるのに倒れた実感はない。喧騒は遠い。現実と夢の間を彷徨う。なにが現実で、なにが夢なのか。境界線は曖昧で。定義は不確定。今はただ、

 黒板に描かれたアート。

 悪意の具現化。神薙旭へ。

 その、見慣れたはず脅迫文が。自分のライフポイントを削った気がした。

 意識を手放す事にした。

 そうでもしなければ、このまま死んでしまう気がしたから。




 ※ 




 昼休みのチャイムが鳴った。

 神無月雷華は、溜まった鬱憤を晴らすがごとく、盛大にため息をつき教科書を机の中へ放り込んだ。

 そうして彼女は、自分の隣のクラスへと赴く。机の横へかけた双振りの日本刀、『幻武・白狐』とその袋を肩に掛け。

 教室から廊下へ出て、すぐその隣の扉へ入る。途端、シンナーの臭いが鼻を突いた。

 本来Bクラスであるはずの教室では、日暮瑠夏が黒板を掃除していた。

 今日はBクラスの生徒は他の余った普通教室での授業だ。つまり彼女は、自主的に言い出してこの教室を、というより神薙旭への脅迫文を片付けているわけだ。

 今回はこの女に用がある。

「ずいぶん熱心なのね、日暮瑠夏さん」

 雷華は腕を組む。そして、

「自分がやったわけでもあるまいに」

 睨み付ける。

 彼女は背を向けたまま掃除を続ける。答えるのは声のみ。

「まーね。神薙のためだし」

「…………」

 雷華はどう受け答えたものか思案する。

 しばらく、雑巾が黒板をこする音だけが時を埋めた。

 そして、日暮瑠夏がこちらへ振り向いた。

「初めまして、ストーカーさん? 自己紹介は、必要ないみたいだな」

 向き出しの敵意。神薙旭と対峙した時でさえ感じなかった圧迫感だ。

 雷華は息を呑む。名乗るべきか。名乗るなら、『どっちで』名乗るべきか。

 雷華は結局、答えを保留する事にした。

「朝、貴女は神薙旭と話していたけれど、何の話をしていたのか教えてもらえないかしら」

 突っぱねられるのは承知の上。あれだけの敵意だ。わざわざ教えてくれるわけがない。ただでさえ、意味不明な質問なのだし。

 それでも問う。出方を見る。何者なのかを見極める。何者でもない可能性だってかなり高いのだ。駄目で元々だ。

「影の夢を見たそうだ。回数は数え切れないほど。連続で見たのは今日が初めて」

 意外にも、彼女はこちらが知りたかった事を、的確すぎるほど適確に教えてくれた。

 改めて、日暮瑠夏という人物を観察する。

 何て事のない、極めて一般的な女子生徒だ。自分のような、魔術師的特徴は無い。隠密行動、主に監視の類では無くて当たり前なのだが。

 握られた拳は爪が皮膚に食い込むほどに強く握られている。小刻みに震えている。顔は真っ赤だ。

「……お前のせいか」

 押し殺した日暮瑠夏の声。

 視線が雷華を貫く。

 神薙旭に近づくな、と。瞳がこれ以上ないほど雄弁に語っていた。

 だが言葉にはしない。いや、できない?

「クソッ」

 こちらに背を向け、振り向きざまに黒板を叩き付けた。

 すざまじい音が教室を満たした。

 パラパラとチョークの粉が周囲を舞う。

 解らない。日暮瑠夏という人物が解らない。

 彼女の取った行動はとても『正しい』。片思いの相手に、訳の分からないことを吹き込むストーカーまがいの人物が現れた、として彼女の行動は正しい。感情も作り物ではない。それは解る。だが、そうすると組み合わない。酷く難解なジグソーパズルに、異なるピースがいくつも混ざりこんでいるような不快感。解らない。

 日暮瑠夏は黒板の清掃に戻った

 もう話すことはない、ということだろう。

 もはや、何を言っても彼女の癇に障るだけだろう。

 踵を返す。

 ……とにかく、必要な情報は全て揃った。

 放課後まで作戦を練ることにする。

 状況は一刻を争う。

 雷華は独り、奥歯を噛んだ。



※ 



 気が付くと、正面には天井があった。

 背中には固めのベッドの感触がある。肩までかかる掛け布団は、どことなくひんやりとしていて少し気持ちが良い。

 旭は横になったまま周囲を見回す。周囲には気が滅入るような、白。白。白。

 どうやら、ベッドを隠すようにカーテンが閉まっているらしかった。

 その時、何者かによってカーテンが開かれた。

 旭は上半身を起こす。

「あら、もしかして起こしちまったか?」

 カーテンの先には、火のついていないタバコを咥えたうちの担任――仙波の姿があった。

「いえ、少し前に起きたところです」

 それを聞くと、仙波は「そーか、そーか」と人当たりの良い笑みを浮かべてベッドの脇の丸椅子へ腰掛けた。

「いやー、黒田先生にライター取られちまってなぁ」

 笑いながら頭をかく仙波は、逆の手でタバコを挟んで言う。

 黒田先生、というのは本館の保健室の先生の事だ。ちなみに、当たり前だが保健室は禁煙だ。

「で、容態はいいのか? 神薙」

 これまでの雰囲気は引っ込め、仙波は真剣な調子で聞いてきた。

 聞けばなんと今は放課後で、旭は丸々半日意識が戻らなかった事になるらしい。

 にも関わらず原因は不明。しかも状態だけでいえば寝ているのとほとんど変わりがなかったという。

 実際、起きてみればなんともない。

「はい。大丈夫です」

 それを聞くと、仙波は表情を緩めて火のないタバコを再び咥えた。

「例の黒板だがな、日暮が一人で片付けてくれたぞ」

「…………」

「学校側でやるといったんだが聞かなくてなぁ。もう彼にこれを見せたくないから、とか言ってな。はは、お前、イイ友達を持ってるな」

 含みのある言い方。

「あとでお礼、言っときます。教えてくれて有難うございます」

 瑠夏の場合、たとえ大変な作業を一人でやったとしても、それを旭には伝えないのが常だ。教えてもらわねば気づけなかった。自分の与り知れぬところで勝手に借りを作られるのは、なんとも居心地の悪い事だから、なおのこと有難い。

 と、そんなことを考えていると仙波が暗い顔をしていた。

「……以前から思っていたことなんだがな、神薙」

 仙波は咥えタバコを指で弾く。タバコは放物線を描いてゴミ箱へ吸い込まれていく。


「どうしてお前は、そんなにも他人に関心が無いんだ?」


 腹の、胸の、夢の、傷が開く。

 生々しく、痛々しく、ぐじぐじと、化膿しきった傷口を、

「まあなんだ、俺も長い、とは言えないまでも教師になってそこそこ日は過ぎた。だけどな、お前みたいな奴は初めてだ」

 抉る。

「お前の事を好きだと、あれほど人目を憚らずに言ってくれる娘がいるんだぞ? 普通、照れるだとか、恥ずかしがるだとか、喜ぶだとか。いや、その逆でもいい。嫌がるだとか、迷惑だと断るだとか、何故そういった目に見える反応を示さないんだ?」

 切り刻む。

「余計なお世話であることはわかっているつもりだ。だけどな、お前のあり方は……なんて言うかだな……その、『歪(いびつ)』なんだ。歪んでるんだよ。何かがおかしいんだ。俺は、このままじゃ遠くない未来にいつかきっと、お前が大切な何かを失うんじゃないか、って。そんな気がするんだ」

 神薙旭という存在を、

「どうしてお前は、他人に関心が無いんだ?」

 削る。

「……そんな、ことは、ない……はず」

 旭が答えたのを見て、仙波は問いを続ける。

「じゃあ、他人と居るのは好きか? 楽しいと感じたことはあるか?」

「嫌い、というわけでは……」

「独りは?」

「…………」

 キリキリと、ギリギリと、首が絞まっていく。

「お前は他を否定しない。だが同時に受け入れもしない」

 どこかで聞いたような言葉。

「関心が無いからな、是非はどうでもいいんだ」

 やめろ、

「気づいていないのか、気づかないフリをしているのか……」


 …………ヤメロッ……、


「神薙、お前はいったい、な……」

 ガチャン、と。扉が開く音が鼓膜を突き刺した。

 実際には大した音ではなかったが、旭にはとんでもなく大きな音に聞こえた。

 見れば、仙波も同じようだった。

 扉の方、入ってきた人物を視界に入れたまま固まっている。

 その呪縛もすぐに解ける。

「いや、思いのほか長く話し込んでしまったようだな。すまない、つい熱くなってしまった。忘れてくれ、余計なお世話だった」

 仙波は笑みを取り戻し、席を立った。

 失敗、失敗と独り言を残し、いたずらっ子のような軽い足取りで去っていった。

 旭は改めて、入ってきた人物を見やる。

 見紛うはずも無く、そいつは例の袋を携えた土方雷華だった。



 ※ 



「また……お前か」

 退室しようとしている担任に目礼していた雷華を出迎えたのは、神薙旭のそんな言葉だった。

 声にはうんざりした響きの中にも、十二分な致死量の敵意が込められている。

 この男の威圧感だってなかなかのものだと思う。

 やれやれだ。

「また、とはずいぶんなご挨拶ね。これでもお見舞いに来たのよ?」

「はん、俺の不幸でも見舞ってやろう、ってか?」

 そう言いながら、ベッドから這い出てくる。

 そうして彼は腕を組み、ベッドの腹へ腰を下ろす。

 いつでも動けるように、ということなのだろう。

 人の上に立つもの特有の不敵な笑みと、それ以上の警戒も怠っていない。

 それを見て、雷華は今回の任務の難しさを改めて再認識した。

 今回の任務は神薙旭の懐柔が成功しなければ、失敗は必至。その相手にこれだけ警戒されているのだから、簡単なはずが無い。

 だが、初手を誤ったつもりも、ない。少なくとも、雷華はそう信じている。神薙旭の戦闘能力は計っておく必要があった。それを、誰よりも自分自身へ証明するためにも、これからを巧く立ち回らなくてはならない。

 雷華は自分の胸に抱いた作戦に、緊張を拭えなかった。

 いわば、これは賭けだ。

「で? 何の用だよ」

 いつまでも黙っているこちらに痺れを切らしたのだろう。目の前の少年が不機嫌に言った。

 雷華にとっては好都合だ。だが、彼女は不規則を刻み続ける自分の心臓を、未だに制御しきれない。

 ……落ち着けっ、私!

 ぎゅっ、と力強く両の目をつぶり、ひとつ深呼吸する。今のが余裕からくる間に見えればいいな、と。雷華は魔術師らしからぬ希望的観測を抱いた。

 そして、

「私が敵か味方か、魔じゅつ、ひゃっ……」

 盛大に噛んだ。

「………………。」

「………………。」

 舌が痛い。ジンジンする。

 嫌な感じの沈黙が保健室を支配してるし。

 外から部活動の掛け声が入り込んできて、ますます気まずさが増す。

 背筋には嫌な汗がたらたら流れているような気がしてならない。

 小さな咳払いをひとつ。

「わ、私が敵か味方か、魔術師かそうでないかは、ひとまず置いておいても……」

 相手も、何事も無かったかのようにしてくれている。彼は彼で気不味かったのだろう。

 ……私も、いつまでも浮ついた雰囲気では駄目だ。

 声に鋭さを戻す。

「貴方が危険な状態にある、というのは今回の事で理解できてもらえたはず」

 そう、もうそれほど彼にも、自分にも、時間は残されていないのだ。

 タイムリミットは恐らく、一週間を切っているだろう。

「だからここで改めて言う。私に協力してほしい」

 数秒の間。

 彼なりに今回の事を含めて、改めて考えてくれてはいるようだ。意外と律儀。、

「……断る。寝首をかかれない保証は無い」

 だが、やはり同じ。だがそれも想定内だ。

「なら、ひとつ。私と賭けをして欲しい」

 そう、雷華の用意した作戦は賭け。

 神無月雷華と神薙旭。そして神無月雷華が行う魔術技能への、二重の意味を持つ賭けだ。

 さあ、いこう。

 神無月雷華、一世一代の大法螺吹きを――。

 根本なる、原初にして最終たる『魔術』を。

「もし、私が貴方の命を狙っている人物なら、今の貴方を弱らせている夢は私の差金なはず」

 少年の顔が疑念に歪む。

 当然だ。話してもいない夢のことをことも何気に会話へ混ぜたのだから。だが、そんなことはどうでもいい。目下、最大の目的は影夢進行の阻止だ。

 まずは『意思』。能動的かつ意図的に。選択する媒体は言葉。操る。

「その夢を、私の『力』で進行を止めてみせる。絶対に」

 言葉と同時に用意した宝石、赤く揺らめく石ころ大のルビーを神薙旭へ投げてよこす。

「私が作った魔除けの石。夢に限定した力を込めたわ」

 次に『概念』。強要する概念は「停滞」。揺ぎ無い自信へ乗せて。最大級の虚実(ウソ)を。

「これで今夜例の夢を見なければ、私には貴方へ危害を加える気がない、っていう私の言い分を信じて欲しいの」

 最後に『認識』。本来は一番厄介な段階だが、これはもう済んでいる。神薙旭はもうすでに『魔術』の存在を認めている。『意思』を持った『概念』は、これで『認識』されたはず。

「どう?」

 彼は手にしたルビーを見て考え込んでいる。

 あとは、相手の出方しだいだ。

 心臓が爆発を繰り返す。

 もう、その音しか聞こえない。

 やがて、神薙旭は雷華へ向けて、重々しく口を開いた。

「わかった。今夜、影の夢を見なければ、ひとまずお前のことは信じる」

 それは、ひとつの賭けが成功したことを示した。

 自然、表情も緩む。

「そう。よかったわ」

 だが一瞬の後に、他人の前で緊張感を緩めすぎたことに気づき、表情を引き締める。

 後は彼の『認識』次第。

 ……私の大法螺を、本気にさえしてくれれば、一夜くらいなら。

 そう、一夜くらいなら凌げる。

 現実の魔術には魔力なんて都合の良いモノなんて無いし、物理法則だって越えられやしない。人が無意識に使っていることを、意識的に使う。ただそれだけの行為。それが『魔術』。人の認識の裏を突き、超常を振る舞い、奇跡を騙る。そんな不便極まりないものだ。

 だけど、それだって使い方次第では、どこかの時代の誰かに魔術、とさえ言わしめるものになるのだ。……「魔術」という名の由来は、本当は別にあるのだけど。

 そうして、雷華は簡単な言葉を残し、保健室を去る。

 神薙に背を向けた先で、もう一度だけ、満足げに自分へ向けて微笑んで見せた。




「で? 何の用だよ」

 朝とは違う、臨戦モードの土方。そんなのに何秒間もむっつり黙ったまま睨みつけられた旭は、たまらず先を促した。

 それでも、土方は焦らすような間を持たせる。

 しかし、よく見ると今朝どころか、昨日の襲いかってきた時よりも表情が硬い。

 その硬い表情のまま睨みつけてくるもんだから、目つきがすごぶる悪い。

 目つきの悪い美人、というのはなかなかに迫力があるものだ。

 その迫力に負けぬよう、旭も顔と心を引き締める。

 と、土方は突然両目をつぶり、そのまま深呼吸をしだした。

 ……もしかして、緊張、してんのか?

 それで少し落ち着いたのか、土方は少しだけ『らしい』雰囲気を取り戻していた。

 そして、


「私が敵か味方か、魔じゅつ、ひゃっ……」


 盛大に噛みやがった。

「………………。」

「………………。」

 口があわあわいっている。痛そうだ。

 とても居た堪れない。

 悪いことなど何一つとしてしていないのに、こうして土方を見ているだけでなんだかこう、罪悪感に苛まれる感じがする。

 せっかく戻ってきた鋭角な雰囲気も、一瞬で消し飛んだ。

 つーか第一印象と違って、こいつ素の部分ではかなり抜けた奴なのではないだろうか。

 小さな、本当に小さな咳払いが聞こえてきた。

「わ、私が敵か味方か、魔術師かそうでないかは、ひとまず置いておいても……」

 取り合えず、さっきのは聞かなかったことにしといてやろう。……真面目な話なんだろうし。

 そうこう考えていると、気を取り直したのか土方の声にも鋭さが戻る。それに合わせて旭も背筋を正した。

「貴方が危険な状態にある、というのは今回の事で理解できてもらえたはず」

 ゆっくりと、諭すように、突き刺す。

 事実、相手の言っていることは正しい。

 今まで、脅迫状などの類には不快感以上のものを感じたことは無かった。夢に関しても同じこと。嫌な体験ではあるものの、不思議に首を傾げることはあっても身の危険を感じるほどではなかった。

 変わったのは、この女が現れた昨日から。

 それは単純に土方が犯人だからとも考えられる。だが、それだとどうしてもかなり局地的な手際の悪さが目立つ気がする。

「だからここで改めて言う。私に協力してほしい」

 だから改めて考える。彼女と協力した場合のメリットと、彼女が『嘘』をついていたときのデメリットを、計る。

 正直な所、その割合は五分五分(フィフティフィフティ)だと思う。協力しても、別に構わない。本当に本気で、ただ単純に殺すつもりなら、屋上の段階ですでに済ませている。

 だが……、やはり他人に借りを作るのはいただけない。

 メリットもデメリットも五分五分ならなおさらだ。

「やはり断る。寝首をかかれない保証は無い」

 それに、どんなに可能性が低いと読んだからといって、裏切りの可能性は決してゼロではない。もしかしたら、協力関係を取り付け家へあがり、完全犯罪を狙っているのかもしれない。神薙グループの情報を狙っているのかもしれない。土方の言う所の魔術師なんて連中の組織があるとしたら、そういった可能性はむしろ高い気がしないでもない。

 そんなことを考えている時だった。

「なら、ひとつ。私と賭けをして欲しい」

 少女は、もはや隠しようもない緊張と共にそう切り出した。

 コイツはなにを緊張しているのだろう。

 彼女にとって、自分との協力関係はそんなにも重要なことなのだろうか。口ぶりからしても、たった今思いついたわけではなく、これが本題のようだ。

 土方は頭の悪い奴ではない。それは少ない接触の中でも、身のこなしや口ぶりから理解できる。そいつが賭け、というのだ。まあ、聞いてみるだけの価値はあるのかもしれない。

 土方は続ける。

「もし、私が貴方の命を狙っている人物なら、今の貴方を弱らせている夢は私の差金なはず」

 心臓が嫌な音を立てた。


 何故、この女が夢のことを知っている。

 話はまだ続く。 

「その夢を、私の『力』で進行を止めてみせる。絶対に」

 その言葉はとても真摯なもので、土方は自分が知るはずの無いことを喋っている自覚があるのかないのか、疑うべきか疑わざるべきか。疑心暗鬼が頭を満たす。

 土方は言葉と共に宝石らしき物を投げてよこしてきた。……ルビーだろうか。

「私が作った魔除けの石。夢に限定した力を込めたわ」

 確かに石には不思議な輝きが在る様に思える。気のせいだと言われれば、そのまま気のせいな気がするほど微弱なものだが。いや、実際気のせいかもしれない。

「これで今夜例の夢を見なければ、私には貴方へ危害を加える気がない、っていう私の言い分を信じて欲しいの。どう?」

 少女の声は揺ぎ無い。

 つまり、旭に害をなしている原因(と思われる)を取り除いてやるから、それを行っているのは自分たちではないと信じてくれ、……いや、違うな。取り除いてやるから死にたくなければ自分たちに従え、とそういうことか。

 気に食わない上に賭けになっていない。もし、土方が犯人なのだとしたら、原因を取り除くなど造作もないことだろう。いや、だからこそ土方が敵でない方への賭け、ということになるのか。

 だが、あるいは賭けてみてもいいかもしれない。

 あの夢から、


 ……あの夢から逃れられるのであれば。


 と、そこまで考えて初めて、自分が想像以上に消耗していることに気が付いた。

 同時に、亡き父・総一郎の声が幻聴(きこ)える。


『強くなれ、強くあれ、弱者に価値はない』


 あまりにも傲慢なその言葉は、父の口癖であり、旭にとっては呪縛のように心に纏わり付いている。

 ……くそっ。

 負けてなるものか。それだけを思う。神薙旭は、何者にも負けてはならないのだ、と。

 ……クソっ。

 負けられない。敗北など認めない。完全で完璧。最強にして無敵。それが求められ、求めてきた己の姿だ。

 ……クソッ。

 曲げられない。これだけは。それだけが全てなのだ。それだけが存在価値。それだけが生きる意味だ。こんな所で、こんな訳のわからない連中に。曲げられてたまるか。必要とされるのはこれからなのだ。こんな所で曲がってしまった欠陥品など、そこら辺に転がっている連中と同じだ。

 意を決す。

 このまま、手も足も出せずに終わってなるものか。虎穴に入らずんば虎児を得ず、だ。土方が本当に協力者なら、それもよし。もしも敵ならば、その尻尾を捕まえて、引きずり出し、ズタズタに引き裂いてやる。他者の手を借りねばならない状況は癪だが、もはや贅沢は言っていられない。


「わかった。今夜影の夢を見なければ、ひとまずお前のことは信じよう」


 旭は苦々しくそう告げた。

 それを受けた土方は、

「そう。よかったわ」

 眼前にいる少年の内心など知らず、本当に自然に頬を緩めた。

 身動きが取れなかった。

 それは、気の張っていた旭でさえハッとするような微笑だった。

 綺麗でありながら、なんとも人間くさい、人を寄せ付けて離さないような笑みだ。鼻孔をくすぐるような暖かみをもった、旭の初めて体験する表情だった。


 旭は完全に魅せられていた。

 だから、彼は土方が保健室から出て行くときも上の空だった。

 扉が閉まり、しばらくしても立ち尽くしていた。

 やがて相応の時が過ぎた頃、手の平のルビーに目を落とし、睨みつけ、強く握り締めた。


 そうして、それぞれの思惑が交錯した日が過ぎて行く。

 ある者は、死者へ線香の火を手向け、ある者は屋上から作戦の成功を祈り、ある者は携帯をもって当主へ状況を報告し、ある者は計画の進行をダーツを持ってほくそえむ。

 そうして、それぞれの思惑が交錯した日は終わりを告げる。




〔第二章〕



〔幕間〕



 『それ』は学ぶ。力を学ぶ。

 刀に始まり銃器にわたり。元来、その家の魔術師には必要の無い力も、身を守る術として学ぶ。

 『それ』には才能があった。当主が想像していた以上のものが。その才能が『それ』の負担を余計に増やす。

 『それ』はまだそれらしか知らない。歪みはまだ、存在しない。



 ※ ※ ※



「魔術、ねぇ」

 旭はベッドの中で、手にしたルビーを光に透かした。

 起きたのは数分前。昨夜は見事、影夢は見なかった。

 偶然かもしれない。二日続いたからといって、三日続く確証があったわけではないのだ。謀略かもしれない。全部、旭を騙すための演技だったとしても、さして驚かない。しかし、偶然だろうと謀略だろうと 助けられたのだろうと、どれにしたところで土方は賭けに勝った。

 その勝利に見合うだけの協力は、してやろうと思う。疑うことは止めないし、敵と見れば迷わず切り捨てるが、それでもあいつは今日から協力者だ。

「なんか、面倒くせぇことになってきな」

 後頭部をかき乱し、旭はベッドから起き上がる。



 ※ ※ ※



 旭は朝を日課通りに済ませると家を出た。

 気配を殺して門まで出ると、案の定、土方が居た。

 が、彼女は腕を組み門に背を預けたまま目を閉じている。

 気配を殺してきたためか、こちらに気づいていない。それどころか、耳をすませば穏やかな呼吸音まで聞こえてくる。

 長いまつげが緩やかに上下し、実際に目の当たりにしなければ凄腕の剣術使いなどと信じられないような、きめ細かく白い女性らしい肌。まるで外の世界を知らないお姫様のようだ。朝日を受けて整った顔は輝き、秋を感じさせる風に腰まで伸びる、うなじでまとめただけの長髪が見事にたなびく。

 日差しの当たった顔が、「うっ」と呻く。


 ……寝て、やがるのか?

 その顔を見ていると、なんだか腹が立ってきた。

 旭は手にしたルビーを土方の額めがけて投げつけた。


 途端。

 激しい音がしてルビーが頭上高く打ち上げられた。優に十メートルは飛んでいる。

 少女は今までの平和な寝顔が嘘のような、あの凍えるような鋭い眼つきをしていた。

 旭は驚きで声も出ない。

「? ……貴方だったのね」

 土方は落ちてきたルビーを見もせずに華麗にキャッチした。

 つい先程までの和やかな空気は、もうどこにもない。

 ……なるほど。魔術師、ね。


「で、俺はなにをすればいい」

 通学路を歩く旭と雷華。歩き出して早速、旭は話を切り出した。

「と、いうことは私の勝ちね?」

 だが二人の距離は話しながら歩いているにしては、遠い。先を歩く旭の、だいたい三メートル後方を土方がついてくる。昨日に比べればかなり近いのだが、本来、人と人とが話して歩く距離ではない。

 そんな距離だったから、相手の声に得意を感じた旭はムッとして振り返った。

 だが、

「っ…………」

 咄嗟に言葉が出てこなかった。

「なによ?」

 旭は前へ顔を戻し、

「別に。お前でもそういう人間らしい顔するんだなと思って」

「なによ、それ」

 今度は斉藤がむくれた声を出した。

「まるで私がロボットだとでも言いたそうね」

「違うのか?」

 旭は正にそのように思っていたし、その認識に差異があることに驚いた。

「……あ、貴方って人は」しかし斉藤はここでグッ、と何かをこらえるような間を持ち、「貴方は思っていたより人を見る目がないのね」と言い返した。

「ふん、よく言われる」

 昨日も言われたばかりだ。

「? まあそれはいいわ。それで本題よ」

 旭の脇を長い髪が流れる。思わず足を止めた。

 少女は旭の前まで走り去り、そして漆黒の長髪を翻す。

 瞳には臨戦モードを携えて。

 何度見ても背筋が凍る。自分とは違う、絶対的に違う生き物であることを認識させられる瞳だ。

 魔眼だ、と思う。

 こんな目を自在に出し入れできる人間が、どうして機械でないと言えるのだろう。どうしてこんな瞳を 操れるまでに訓練を重ねた人間がロボットと言われることに不快感を示すのだろう。

 機械、ロボット。確かに人間に向かって吐くにはあまり良い言葉だとは、旭も思わない。だが、同時に ある面に向けてはこれ以上ないほどの褒め言葉だと思う。

 理解できない。ある種自分の完成形にも見えるこの女が、しかし本質的なところでは全く理解できない 。

 イライラはただ募る。

 そんな旭へ土方は追い討ちをかける。

「なにもしなくていいわ」

「……え?」

 一瞬、なんの話をしていたのかを忘れた。

「貴方はなにもしないで」

 相手はもう一度、ゆっくりと言った。

 そんなに間抜けな顔をしていただろうか。

 二人は朝の通学路に佇む。

 秋風が吹きぬける。

「私が貴方に望むのは情報の共有と護衛の容認だけ」

 なんだ、それは

「貴方は、もうかなり危険な所まで足を踏み込んでいるの。平均台どころじゃない、綱渡りよりももっと細い、点の集まりの上を歩いているようなものよ?」

 協力だのなんだのと体の良いことを言って、その実は知り合ったばかりの女に守られるのを黙って見ていろと、つまりそういうことか。

「はっきり言うわ。貴方の命は私が必ず守る。だから余計なことはしないで。足を踏み外した先にあるのは死よ」

 ……俺はそんなに弱くない。

 思い、奥歯を噛む。

 ……くそっ。

「話終わり。さ、行くわよ」

 土方は歩き始める。

 その後ろ姿を睨みつける。昨日以上に毒々しい舞い葉の赤がその背を飾り、少年は軽い頭痛にこめかみを叩いた。

「……くそっ」



 いつもの十字路についた頃には、多少ではあるが旭は落ち着きを取り戻した。

 十字路には今日も瑠夏がいた。

「よっ!」

「ん」

 いつも通り、日によってまちまちの簡単な挨拶を交わした。

 土方は今も前を歩いている。やはり距離にして三メートル前後と、一緒と言うか言わないか微妙な距離で。

 だが彼女は瑠夏が現れると首をこちらへ向けたまま歩くという、器用かつ滑稽な姿をとっている。チラ見ではなく、ずっとこちらを見ているのだ。

 警戒、のつもりなのだろうか、瑠夏という部外者に対しての。

 土方は知らぬことだし、知っていたところで彼女には関係なさそうだが、その警戒は無駄な行為だと旭は思った。

 瑠夏が敵であるはずがない。しかもこいつは高校入学以来と、付き合いもまあまあ長いのだ。土方の言によれば、敵は旭の父親を殺した(と、仮定すればではあるが)人間と同一人物であるはずだ。それから息子の旭へ対象を移したとすれば、それは土方のように転校、ということになるはず。瑠夏が敵というセンは考えづらい。

 当の瑠夏は土方が気に入らないらしく、彼女へ向けてブサイクな顔であっかんべーをしている。

 土方の態度は冷めたものだ。完全にスルーである。

 それを見た旭は思わず吹き出した。

 横を見るとつられたようで、瑠夏も笑っている。

 土方はなぜか突然前を向き出した。

 久々に笑った。

 モヤモヤやイライラは、取り合えず消えていた。様子を見なければいけないのも事実。周囲の闇が晴れるまで、余計なことをしないのは当然のことだ。それが見えてからでも遅くはあるまい。ただただ、今はこれでいいのだと、旭は思った。

「ところで神薙、夢はどうだった?」

「良いお守りをもらってな。今日の夢見は、良かったぜ?」

 旭はそう言っておいた。

 それを聞いた瑠夏は、

「ふ~ん。そっかそっか」

 と、含みのあるいやらしい笑みで頷いて見せた。

「なんだその笑い方は」

「べっつに~」

 二人と一人は学校へ向かう。




※ 




 登校時のやり取りがあってからしばらく。

 校内へ入り、二年生のフロアへ着いた雷華は自分のクラスへ向かう。

 と、その前にやっておくことがある。

 足を止め、振り向く。廊下の喧騒はまだない。

 振り向いた先には神薙旭と日暮瑠夏。

 日暮瑠夏は相変わらず不機嫌そうな顔をしている。

 神薙旭はしばらく何事かと目をしばたかせ、そして、

「じゃあな、土方」


 ドキリとした。

 人から別れの挨拶なんてものを貰ったのは、初めてだった。

 それだけ言ってクラスの方へ去ってゆく。日暮瑠夏もそれにならう。

 他意は無いのだろう。

 だけど、自分には彼が理解できない。自分に似ているようでいて、どこかなにかが決定的に違う彼が、なにを考えているのか理解できない。

 どこかのなにかが欠けている。解らない。

 それがとてももどかしい。

 彼の背が、隣の教室に消えようとしていた。

 そこで用事があったことに思い至る。

「待って!」

 神薙旭はが振り向く。

 その額へ向けて、雷華はルビーを投げた。

 ……気休めかもしれない。でも、そのハッタリで少しでも魔術の進行が止められるのなら。

 神薙旭は、難無くそれをキャッチした。

 さすが。

「あげる。それは貴方のよ」

 彼は薄く微笑み、片手をこちらへ向けて上げ、扉の奥へ消えていった。

 一連のやり取りを間近で見ていた日暮瑠夏は、さっき以上に不機嫌な顔をして、まだこちらを睨みつけていた。

 想い人が得体の知れない女から贈り物を受け取るのを邪魔するのではと勘ぐっていたが、どうやらそういうことでもないらしい。

 だが、雷華は彼女への態度を八割方固めていた。

 雷華は、“神無月雷華として”日暮瑠夏を睨み返した。



※ 



 旭が教室の席で時計を見やると、針はすでに午後の四時を回っていた。

 直に七時間目も終わる。

 教壇に立っているのは倫理の仙波だ。彼は今年度からの新任教師だが、面倒見が良くて教えるのが上手く、まるで若手には見えない。口調は砕けていて親しみやすく、しかもバカではないらしい。教師なのに毎日私服で登校しておりしかもセンスが良い。竹中が確かサエ高(三枝高校の生徒間での略称)のファッションリーダーだとか言っていた気がする。相変わらずあの口調で。個人的にはどうしても仙波の態度に作り物めいたものを感じてしまい、あまり好きにはなれない。だが、教師という嫌いな人種の中に在りながら、好きにはなれずとも尊敬はできる人物だとは感じる。自分の中の位置づけとしては、父親に最も近しい。

 そういえば、彼がこの学校に来たのは親父が死ぬ少し前で、少しばかり神薙グループとは縁があると、 始業式の日に話しかけられた。親父によろしく言っておいてくれ、と。確か親父の葬式にも居た筈だ。三枝高校へは神薙の関係者のコネで来たというところか。この高校で神薙のコネというと、拓也さんあたりだろう。

 旭は黒板を見るが、文字が書かれているのはわかっても書いてある意味が認識できない。集中していない証拠だ。意識の焦点がピントズレを起こしていて、まるで意味のない無秩序な子供の落書きを見ているようだ。正直、あまり見ていたくない。

 焦点をズラして空間を見つめる。

 余計なものに一切のピントが合わず、視界の全てが薄くぼやける。

 旭は右のポケットへ手を突っ込んだ。

 中を転がるお守りを手で弄ぶ。掴み、転がし、握り、擦る。

 頭の中で、思考も転がる。

 初めて影夢を見たのが恐らく親父の葬式の晩。その時はどうとも思っていなかったが、今思い返してみ れば恐らくそうだ。そこから稀に似たような終わり方をする夢を見るようになり、その頻度はだんだんと増えていったように思う。脅迫状など、明らかにおかしなことが始まったのはだいたい二週間前。そうし て土方が現れ、それと同時に初めて二晩続けて影夢を見た。

 敵は誰だろうか。やはり容疑者第一候補は土方であることは否定できない。だが彼女でない可能性だっ て同じくらいには否定できない。敵は校内にいるのか、いないのか。夢の正体はなんなのだろう。その魔術とやらは近くにいなければいけないのか、そうでないのか。物語の中でしか魔術を知らない、魔術の仕組みを知らない自分は推理どころか推測すらままならない。

 放課後、チャンスがあれば土方に聞いてみようと思う。

 そんな時、外界の音を耳が認識した。

「“影”というのは昔から、不安や恐れの象徴とされてきたんだ」

 仙波だった。どうやら授業は一段落し、雑談の時間となっていたらしい。

 どういう流れでこんな話になったかは分からない。

 ただ、仙波の発した“影”という概念の定義に、不吉を感じた。

「さらに、“影”は自己の陰性をも象徴する。まあ、簡単に言やあ自分の悪い部分とか、嫌いだと思って いる部分だな」

 仙波はどうやら民俗学やオカルトの知識に詳しいフシがある。こういう話になると、後は彼の独壇場だ。わりと面白い話が多く、生徒も基本的には静かに聞いていることがほとんどで、人によっては寝ていたり本を読んでいたりと自由にしている。こういった雑談の時間になる場合は授業自体は終わっているため、度を越して騒ぎさえしなければ仙波も注意はしない。

「黄昏時の“影”は時間の経過と共に肥大する。そして“影”の実像を照らす光が強ければ強いほど、“影”の闇は深くなる」

 今日の仙波の話は妙な感じだった。間に挟む小話が少なく、核心部ばかりを語っていた。

「夜が近づけば近づくほど"闇"はより大きく、より深く、より強く、自己を浮かび上がらせる」


 ドクンッ。


 血管が不整脈を起こしたように大きく震えた。


 ドクンッ。


 血が頭へ上り、

「夜が来れば自己を投影していた“影”は世界へ埋れ、無に還る」


 ドクンッ。


 もはや明確な形で影夢の内容がフラッシュバックした。切り裂かれた胴体が、突き刺された胸が、吹き飛ばされた手足が、割られた頭部が、やり過ごし、認めずにいた感情――恐怖――が、その全てが脳内に浮かび上がってきた。

 気が遠くなりかける。右手を握る。手の平の中には土方のルビー。魔術師のルビー。握り締める。力の 限り強く。空間を、そうして今だ姿の見えない敵を、睨みつける。自分の歯が軋む音が聞こえる。

 

 少年は独り、一見通常の光景の中で異常と戦っていた。

 粘りつく汗が背を徘徊し、鈍く、それ故しつこい痛みが頭と心臓を支配する。


 旭は独り、椅子の上で身を硬くする。

 意識を手放せと本能が訴え、負けてたまるかと理性がせめぎあう。


 神薙旭は独り。

 独り、独り、独り。

 だが、昨日とは違う。

 右手を握る。力を入れているという感覚さえ喪失してしまいそうな、刹那にして永遠の間。でも、今日は大丈夫だ。

 本当の意味で視界は霞み、痛みとも疼きとも取れる、自分を蝕む“影”は進行を続ける。だが、意識は手元にある。

「……が……となっ…………るんだ。だからお前ら、夜の繁華街出歩いてっと自分のドッペルゲンガーに食われちまうぞ?」


 ひゅう、と。

 呼吸が通り、今まで息をしていなかったことに気がついた。それと同時に“影”はなりを潜め、旭は解放される。

 クラスには仙波のおどけた声が響き、クラスが小さく笑った。全く聞こえてこなかったが、話は続いていたらしい。

「んだよセンセー、そんなこと言われたら夜外出らんねーじゃねぇかっ!」

「ハイ。じゃあ今夜はちゃんとベッドで震えてろよ、梅澤」

「ちぇ、ただのていの良い生徒指導じゃんかっ!」

 クラス中が笑う。

 冗談のように振舞っているが、梅澤はあれで大の怖がりだ。しかもそれはクラスの中では周知(主な功労者はやはりというか竹中だ)。知らぬは本人だけという状況になっている。

 旭も、同じように笑っておいた。それで日常が戻ってくるならと。

「じゃ、これで今日は終わり」

 仙波がそう言うと、ちょうど終業のチャイムが鳴った。

 礼省略でこのままホームルーム始めんぞーと、彼は連絡事項を伝え始めた。

 ワイシャツの背が、汗で冷たかった。



※ 



 放課後になった。


 旭は今日はゲームセンターへ寄っていくという松田・竹中・梅沢の三人と別れ、ひとりで帰り支度を終わらせて席に座っていた。三人には例のごとく誘われたが、やはり断った。

 教室からは、だいたい三分の二ほどの人間が居なくなっていた。用事のある者、遊びへ繰り出す者、部活動のある者を吐き出し、残りの、時間を持て余している者たちの雑談に教室は包まれていた。浮ついているわけでもなく、でも決して暗い雰囲気ではない。例えるならそれは、黄昏時の名残惜しさを残した空気。

 旭はこの雰囲気をとても良いと感じていた。いつも急いで帰っているわけではないが、無駄が嫌いな性格故にこんなことにでもならなければ一生知らずに終わっただろう。

 そんなことを考えていると、長い何かを肩に掛けたシルエットが自分の席へと近づいてきた。

「待たせてごめんなさい。さ、行きましょう」

 顔を持ち上げ瞳を見れば、そこには冷たさと鋭さ。

 仕事モード、というわけか。ふん、律儀な奴め。

「ああ」

 旭は軽く頷き、席を立った。





 寄りたい所がある、と土方は切り出した。

 そんな訳で、今日は正門を出た道を左へ。いつもとは逆の、駅前へ続く道を歩いている。

 旭は学校指定のカバンを適当に肩へ引っ掛けて。土方は肩へ掛けたカバンを脇へ挟み、逆の肩へはその内容を知っている者としてはかなり物騒なものを、相変わらず堂々と引っ掛けて、道を先導している。

 左の道へ行くと紅葉はすぐに途切れる。しばらく進めば住宅地の一角を横切り、だんだんと有名なチェーン店が数を増やしていく。それを道なりに進んでいけば駅へ着く。だが、今日用事があるのはそんな表通りの道を外れた所にあるらしい。

 土方は黙々と歩く。

 旭はそれとなくタイミングを計り、並木道の途切れた辺りで話しかけた。

「なあ、そもそも魔術ってのはどういう仕組みなんだ?」

「え?」

 前を歩く少女が振り向き、互いの足が止まる。

 旭は彼女の横に並び、二人はまた歩き始める。

「いや、なんだ。……その、興味本位、というかだな…………」

 余計なことはするなと釘を刺されている以上、従う気が無いとはいえ正直には言いづらい。自然口調は しどろもどろになり、旭は自分のらしくなさに頭をかきむしる。

 そんな彼の内情を知ってか知らずか、土方はきっぱりとした口調で答える。

「魔術の仕組みは、貴方は知らない方がいい。それは、貴方にとっても、もちろん我々にとっても」

「どういうことだ?」

 土方は少しだけ素振りを見せ、その問いに答えた。

「少しだけ。貴方へ教えられる範囲で答えるわ」

 住宅街が近づいたからだろうか。はしゃぎまわる小さな子供の集団とすれ違った。

「本来、我々“十二氏族”に属さない人間は魔術なんてものの存在は知らないし信じない。これは魔術の性質上、魔術が効きづらいってことなの。それでも小さな抜け道は無数にあるし、そこを通すのが魔術師なんだけど、貴方はすでに魔術の存在を『認識してしまっている』」

 買い物帰りだと思われるおばさん二人組みとすれ違った。

「本当は、私――つまり魔術師の事だけど、それが貴方に接触すること自体、危険な事なの。私が現れなければ貴方は魔術の存在を『認識』しなかった。『認識』さえしなければ、夢の症状はここまで急速に進行しなかった」

 つまり、土方雷華が神薙旭の前へ現れたことと、二晩続けての影夢の間にはちゃんと因果関係がある、ということか。

 おしゃべりに花を咲かせている女子中学生のグループを追い抜いた。

「今の貴方はとても危険な状態なの。魔術の存在は知っているのにその仕組みは知らない、つまり対処法を知らない。でもそれを教えてしまえばさらに敵の魔術を進行させてしまう」

 自転車の三人組に抜かされた。

「でも静観を続ければ状況はジリ貧。そこで私がやってきたの」

 信号に引っかかる。目の前で止まっていた車がエンジンをかけ、発進する。

 止まったついでに横を見ると、土方が理解したかと目で問うてくる。

 旭はひとまず頷いて見せ、そして自分の疑問を口にした。

「でもそれって、なんかおかしくないか? 矛盾しているというか、上手く言えんが」

「なにが?」

 青になった。歩き出す。

「魔術を理解することが相手の魔術の効果を上げるんだろ? でもって相手は魔術を理解している。ってことは……えーっと、なんだ? ……」

「うん。たぶん貴方が言おうとしている事は正しい。魔術を学ぶって事は諸刃の剣なのよ」

「そう、なのか」

「でも、本来魔術って言うのはその体系を作り上げた十二の家系に口伝で伝わる秘技。その家の出身の者の中にだって親の意向で魔術を学ばない者も多いの。だから貴方は例外中の例外。普通、魔術を学ぶ者は生まれたときから魔術の存在を知っているし、学ばない者は一生知る由も無いはずなのよ」

「……なるほど」

 住宅街を抜ける。

 信号や人の往来が激しくなる。二人はその中を並んで歩いてゆく。

 よく考えてみれば、彼女とまともに会話したのはこれが初めてだ。今までは言葉は交わすことはあっても二、三言で必ず終わっていたし、なによりどんなことよりもまず敵意が先に走っていた。

 旭はもう少し、隣を歩く少女と話してみたいと思った。

 適当に話題を探す。

「なあ、この護衛は事が解決するまで続くのか?」

「いいえ。敵がどこの家の魔術師か判明するまでで構わないわ」

 向かい側から勢いよく歩いてくるサラリーマンを避ける。

「家?」

「そう、家。さっきも言ったけど、魔術師っていうのは十二個の家系の人間の総称なの。私が『神無月』 であるように、それぞれ旧暦の名を冠している」

「ふぅん。なんか面白いな」

「そう? ま、手口の回りくどさ、夢の扱えそうな魔術特性を考えれば、『洗脳兵(せんのうへい)』か『催死鬼(さいしき)』。センは薄いけど状況証拠的には『人形師』あたりなんだろうけど。でも、もし『暴観者(ぼうかんしゃ)』が絡んでいた時のリスクは負いたくないしね」

 土方はそう言って、

「もうしばらく、我慢してもらうわよ」

 ギクリ、と。その言葉に心臓が嫌な唸り声を上げた。

「べ、別に、我慢しなきゃなんねぇようなことでも、ねぇし……」

 自分は何を言っているのだろう。我慢しているに決まっている。神薙旭が自分の居場所に他人を許容するはずがない。

「ならいいんだけど。だけど、他人と居るのは息苦しいんじゃないかしら?」


 ああ、息苦しいさ。今だって息が詰まりそうだ。これまでさんざん一匹狼だとか言われてきたが、むしろこんな思いをしてまで集団で群れていられる連中の気が知れない。ああ、全く理解できない。


 ファーストフード店の前を通過する。

 土方がこちらの様子を伺うような気配を感じる。

 顔を横にすれば、きっと目が合ってしまうだろう。それはきっと、今の自分には耐えられない。

 だから勤めて前を向く。横を見てはならない。

 しばらくの間、沈黙が続く。

 再び、信号に捕まった。

「………………」

「………………」

 横目で、本当に一瞬だけ、顔は前へ向けたまま、土方の顔を盗み見た。


 先程よりも大きく、心臓が高鳴った。

 彼女はどうやら、沈黙を否定と取ったようだった。そして、その顔を見て、旭は保健室で会った時の彼女の笑みを思い出していた。

 土方自身、今の自分の表情には気づいていまい。気づいていたなら、こんなにも油断しきった顔を、魔術師が他人へ見せるはずがない。

 歩き出した土方に、旭は慌てて並んだ。いつの間にか信号が青に変わっていた。

 行く先にケーキ屋が見えてきた。デコレーションケーキや、シンプルでそれゆえに品格の漂うチーズケーキなど、さまざまなケーキがガラスの奥へ並べられていた。

 旭は一方的に気まずい今の状況を一瞬忘れて、思わずそれを目で追ってしまう。

 と、その前というか横、ガラスケースと旭の間に存在する顔が、自分と全く同じ動きをしていることに気が付いた。本当に、全く一緒だった。

 体はケーキからどんどん離れているのに、目線だけが釘付けになっている。その、この瞬間まで旭と土方の視線を奪っていたものは、方向だけでなく個体としても同一のようだ。気づいた旭は大丈夫だが、彼女は今にも体から首が落っこちそうだ。

 ……チーズケーキ、好きなのか?

 というか間違いなく大好きなのだろう。

 自分がそれを食べている未来を夢想しているのか、前へ向き直った少女の顔はどことなく幸せそうに見 える。

 そこで、

「な、なによ」

 少しだけ顔を赤らめて、土方はむくれた声を出した。ケーキを見ていた自分が無防備だった自覚は、あるらしい。

 しかし旭は、今度は自分が彼女の顔を見つめていたことに思い至った。

「べ、別に」

 ぼそぼそと言う。

 道はそろそろ駅前と言ってもよさそうな所になっていた。

「……こほんっ…………」

「……んっ、…………」

 互いの気まずさを両方が胸に抱く。

 またしばらくの沈黙。

 だがやがて、

「こっちよ」

 土方は表通りを外れる路地を指した。

 今度こそ彼女は道を先導して歩く。決して複雑な道ではない。どこにでもあるような、表通りに光を取られた寂れた道だ。だが、駅前のビル街に本当の意味での太陽も取られ、湿気で溢れ返り、闇に塗れた不快感を抱かせる道だ。

 それでも普段であれば、ただの道にここまで酷い印象は持たなかっただろう。それは道を先導している者の生業が、寄りたい所という言葉に不気味さを加味させているのは間違いない。

 その道の奥に、どう経営を成り立たせているのかも解らないような喫茶店があった。

 土方はその店の前で足を止めた。振り返り、目で着いて来いと合図する。

 旭は頷き、彼女に従った。

 扉の鈴が、カラカラと不気味に笑い声を立てた。


 店内へ足を踏み入れる。

 コーヒー豆の苦い香りが鼻孔をくすぐる。

 中は落ち着いた感じの、渋めだが割りに普通の店だった。だが人が極端に少ない。こんな場所に店があるのだから当たり前なのかもしれないが、店に入った段階では店員はどこにも見られず、一人の客がコーヒーを飲んでいるだけだった。

 土方は道中の雰囲気の一切を捨て、屋上の時よりも冷たく、保健室の時よりも激しい緊張を持ってその客を見据えていた。

 旭は直感した。あの客は魔術師だ。


 土方の胃の焼け付くような緊張感が旭にも伝わり、気づけば冷や汗をかいてしまっていた。。

 土方が客へ近づく。旭もそれにならう。

「おや、お早い到着ですね」客は高そうな腕時計を見ると「まだ約束の時間まで三十分以上ありますよ 」と、おどけた調子で肩をすくめた。

 丁寧な口調だった。だが、人を食った野郎だ。

 土方が三十分以上前に約束の場所へ現れた事を驚くのであれば、コイツはいったい何なのか。

 客は席を立ち、こちらに深く礼をした。

「お久しぶりです、【タケミカヅチ】。またお会いできて光栄です」

 旭は客を上から下まで観察する。

 性別は男。パッと見は青年実業家といった風。ワイシャツにネクタイ、背広といたって普通の格好だ。 雰囲気もまるで一般人。土方と相対した時のような鋭さは感じられない。普通だった。つまり『普通過ぎる』。今の状態の土方を前に、普通でいられる事がすでに普通ではないのだ。持ち物は二つ。ボックス席の奥に置かれた、頑丈そうなジュラルミンケースと、土方の肩に今も掛かっている竹刀袋もどきによく似た細長い何かだ。

 それから連想されるものはやはり、どうしても日本刀になってしまう。刀、つまり武器だ。

「面倒な挨拶は抜きにしましょう、【アマテラス】」

「そうですね。おっと、彼が財界に名立たる神薙の末裔ですか」

 男はそう言うと、一枚の名刺を取り出し、旭に差し出した。

「私は序列一番目の魔術師・『詭弁家』、睦月景(むつき・けい)と申します。しがない情報屋を営んでおります」」

 刺し、出された。

「土方」

 旭は土方を見る。学校を出る時の約束だった。場所へ着いたら決して喋らないこと、彼女の判断無しに 余計な動きをしないこと。癪な約束だが、事の危険性は理解しているつもりだ。約束は守る。

 土方が頷くのを確認し、名刺を受け取った。

「情報が必要な時はぜひ」

 男は営業スマイルで爽やかに微笑んだ。

 名刺に視線を落とすと、そこには先程睦月が口にした自己紹介と全く同じことが書いてあり、その下には携帯の番号があった。

 土方を見ていればすぐに解ることだが、魔術師とはその存在をかなり徹底して隠匿するものらしい。その同種でありながら、この男は堂々と(一般人へ見せた所で頭を疑われるだけではあるが)、「職業・魔術師」と名刺に印刷するのだ。やはり、食えない奴だ。

 旭が顔を上げると、土方はすでに席へ座るところだった。

 男は目で旭も席へと促す。

 が、旭はそれを静かに首を振ることで拒否した。

 それは何も話すな、何もするな、と釘を刺された彼に出来る、何もしない事による唯一の抵抗だった。

 座っていたのでは睦月がもし牙を向いた時に何も対処できない。土方は睦月が何もしないことを信じているようだが、それはそのまま旭が彼を信じる理由にはならない。

 ……そうさ、自分の身は自分で守るんだ。

 それに、万が一があった時にこいつを守れない。こいつは今、自分の協力者なのだ。協力というからには自分だけが一方的に守られているだけでは駄目だ。出来る方が出来る事をやって、初めての協力だ。

 ……だから俺は、己にしかできないことをする。

 だが土方は、いつまでたっても座らない旭へ何かを言おうと口を開き、

「……貴方は、」

「結構。なるほど、確かに私のような胡散臭い輩は初対面で気を許していいような相手ではないでしょう 」

 男に制された。

「気に入りましたよ、神薙旭さん。実に興味深い」

 睦月はこちらの顔を見ながら「では、私は失礼させていただきます」と座席に着いた。

 旭はその一瞬の瞳に射すくめられ、思わず唾を飲み込んだ。

 唾を嚥下する信じられないほど大きな音に紛れて、睦月がなにかを呟いたように聞こえた。

「さて、早速本題へ入りましょう」

 当事者以外誰も居ない喫茶店の中、背広を着た二十代後半を思わせる青年と、それに相対する制服姿の 女子高生。その傍らに立つ男子高校生という不可思議な光景のまま、この会合は幕を開けた。





※ 




 雷華は情報屋に気づかれないように、内心でため息をついた。

 神薙旭の態度は魔術師としてはとても正しい。だが、彼は一般人なのだ。今回の件が終われば彼はもう二度と魔術師とは関わらないだろう。それが魔術師と一般人の接点関係なのだ。なのに、彼はあまりに魔術師という人外の生き方に近すぎる。

 それと、信用云々は抜きにしても、目の前の男が自分たちに手を出すことはありえない。

 【アマテラス】。十二氏族の情報を一手に引き受ける情報屋。魔術体系を作り上げた権威でありながら、それ以後発展しなかった最弱の旧家・睦月の魔術師だ。“二つ名”持ちの極端に少ない家系の魔術師でありながら、魔術師の中に知らぬ者はいないとまで言われる超有名人で、しかし誰も彼自身に関しては知らない。分かっていることは二つだけ。情報を売り、買い、交換して回っていること。会うたびに外見と雰囲気が変わっていて、事前に連絡が着く当てがある場合かあちら側から接触があった場合でしか彼に出会う事はできないということだ。彼に関する数少ない噂の中には、自家以外は魔術名しか知りえないはずの十二の魔術、その全てを理解しているなんてのや、実は情報屋と呼ばれる魔術師は複数人存在し、少数からなる魔術師社会に仇名す秘密組織だとか、とんでもないものがある。実際、どれもありえない話ではあるが、そんな噂が立つこと自体が驚愕に値する。魔術師社会で最も有名な魔術師のひとりだ。


 そして彼は、特定の誰とも対立せずにここまで有名になった事でも知られている。大抵の有名所は他の有名人を倒す事で名を轟かせる。それは本当の意味で殺しあった場合もそうだし、敵対した相手の計画を挫かせたりした戦略的な意味など、広い意味で色々と含む。自動的に名が広く知られることとなる十二氏族の各当主でさえ、家内での勢力争いの勝者のことだ。つまり敵を蹴落として有名になった。特に、組織力は十二氏族最大と謳われる神無月家は、それ故に世代交代の時はとんでもないことになった(雷華の名が裏社会に知られるようになったのもこの時の事だ)。だからこそ、睦月景個人だけでなく睦月家全体が偉大かつ異端だとされている。

 だからこの、今日の緊張は少し毛色の違ったものも含まれているのだ。

 とはいえ、相手が魔術師であることには変わりは無い。しかも情報を扱う魔術師だ。誰とも敵対しない ということは、裏を返せば誰の味方でもないということ。中立の魔術師は今回の敵にだって、こちらの情報を売る可能性だってあるのだ。だから、睦月景に与えてしまう情報は最低限で留めたい。この魔術師は五感の全てから情報を収集するとさえ言われているのだ。

「まず最初に、これを貴女へ渡すのが筋でしょう」

 睦月は雷華が脇へ置いている日本刀の収納袋と同種の、彼の持ち物の内の片方へ手をかけた。

 それを見た神薙旭が思わず身構えていた。

 ……まったく。この男は。

 これでは自分がついている意味が無いではないか。心配されているのでは、と少しは嬉しく思うが、それとこれとは別問題だし、なにより今はそんな暢気な感情に浸っている余裕は無い。

 睦月はそれらに全く取り合わず、袋を横に構えて机の上へ置くとそれをスライドさせて、こちらへ押し出した。

 雷華はそれに頷き、袋を受け取る。

 紐で閉じられた口を開き、中をあらためる。

 中から出てきたのは、柄を鮮やかな藍染めにした日本刀だった。

 神薙旭が「あっ」と声を漏らす。

 その半身を鞘から抜いた。そこに現れたのは禍々しさと美しさを両立した、両刃造りの剣身。峯の無い、諸刃の剣。銘は『霹靂』。やっと出会えた、神無月雷華の剣だ。

 彼女は初めて見る己の剣に、しばらく言葉も出なかった。

 ただ、目の前の名刀を見つめる。

「『遅れてすまなかった。【スサノオ】は必ずこちらで始末するから心配するな』、 と」

 雷華は睦月の静かな声で顔を上げた。

「【ヒノカグツチ】からの言付けです」

 【ヒノカグツチ】。【アマテラス】の正逆とさえ言われる、全ての魔術師と敵対したことのある鍛冶師の名だ。

「おばさまの?」

「ははっ。その呼び方、本人が聞いたら怒り狂いますよ」

「すみません、つい」

 その言葉にも、睦月は笑った。

「ただ、師走零(しわす・れい)が相手では仕方のないことかと 」

「そうですね。彼には私も手を焼いているんです。いえ、【ヒノカグツチ】に運び屋を紹介した私の面子も丸潰れでしてね」

 睦月は本当に困ったような声を出していった。

「それと、『クソおやじは極上の酒を用意しておくように。近々17年も依頼の品が遅れた謝罪へ出向く 』だそうですよ。ああ、クソおやじとはつまり〈神有月〉のことですよ? 解るとは思いますが、まあ念のため」

「わかりました。ただ、おばさまは大丈夫なんでしょうか? 我が当主は彼女のことを心底嫌っていたはずですが……」

 実際、お父さんの口からは直接、数え切れないほどの呪詛の言葉を聞かされた。

「それは大丈夫ですよ。〈神有月〉は【ヒノカグツチ】が苦手なのであって嫌いなわけではありません。本当はとても仲が良いんですよ? もし殺し合いが始まったとしても、まあものの数時間後には杯を交していますよ。旧い仲ですしね」

「………………」

 それって本当に仲が良いのだろうか? いや、それよりもし、おばさまとお父さんがお酒なんて飲んでるのをお母さんに見つかったら、生死の心配をしなきゃいけないのはお父さんの方だ。おばさま、美人だから。

「ともかく、日本刀『霹靂』は確かに正当な持主の元へ届けましたよ」

「はい。確かに受け取りました」

 雷華は刀を鞘へ戻し、厳粛に頷いた。

「これで〈神有月〉も一安心でしょう。自分の世継ぎがいつまで経っても未完成とあっては、ここ数年など特に生きた心地がしなかったでしょうしね」

「そう、ですね」

 雷華の剣術はこの『霹靂』があることを前提にしている。本来、この刀は彼女が生まれた時に〈神有月〉が【ヒノカグツチ】に製作を依頼した物だ。その完成品を【スサノオ】・師走零に盗まれ、行方知れずを経て今へ至っている。睦月が取り返していなければ、雷華の剣術は永遠に完成しなかったのだ。

 雷華は心の中で睦月に深く礼を言った。

 決して、口には出さない。目の前にいる男は依頼を遂行したにすぎず、善意で動いたわけではない。対価は支払っているのだ。口には出せない。それが魔術師という生き方にして生き物。口に出す事は睦月景という魔術師を侮辱することにさえなりえる。だから口にしない。礼などという人として当たり前の行為を飲み込み 、消し去り、無かったことにする。時々、それがとても口惜しい。

 代わりに雷華は奥歯を噛み、あごを引き締めて姿勢を正す。拳を握る。

 睦月はそんな雷華の全てを見抜いているかのような、透明な瞳でこちらを見ていた。

「さて、次です」

 睦月は机の上へ肘をつき、組んだ手へ顎を乗せた。

 口元を隠し、見定めるようにこちらを上目遣いに見て。

「なにか、私に聞きたい事があるとか」

 雷華は自己へ念じる。

 ……私は、魔術師だ。

 土方雷華という“人間”から、神無月雷華という“魔術師”へ。

 わずかな揺らぎもあってはならない。わずかな隙も存在してはならない。それには人間という器は邪魔になる。雷華が人間を捨てきれないのなら、せめて神無月という魔術師を創る。成る。代わる。

 どちらも同じ自分であるなどということは自覚している。二重人格ですらない半端な区別。偽りで構わない。それでも己に暗示をかける。


 ……我、神なき月に別れを告げ、いずれ神在り月へと至る者なり……

 瞳を閉じる。

 魔法(マジック)ではなく論理(ロジック)。それこそが魔術。

 どこまでもクールに、どこまでも鋭利に、相手を射る。

 さあ、魔術戦と行こうか。





「ええ、まず単刀直入にお聞きします。今、私たちが直面してる事件の犯人をご存知ですね?」

 土方の雰囲気はさらに変わる。

 直立不動を守っている旭は、彼女を見て思った。特に何が変わったわけではないのだが、緊張の色が一気に反転した。そんな気がする。

「はて、聞かれている意味を計りかねますが」

 周囲を満たしている空気が男と少女を二分し、中央で反発し合う。

「とぼけるのは止めてください。先程貴方が神薙旭のことを知っていた時点で、今回のことを知らないはずがない」

「神薙グループの大株主ですよ? いくら自家の管轄界では無いとは言え、情報屋(わたし)がそれくらい知っていてもおかしくないでしょう」

 土方はいい加減にしろとばかりに投げやりなため息をついた。

 この行為に、短い間だが彼女と行動した旭は違和感を覚えた。

 土方は男を睨みつける。

「それだと、貴方が最初から本名を名乗った理由にはならないでしょう」

 男はそんな彼女を楽しそうに眺めている。

 確かに土方は旭にいきなり名乗らなかった。本名だという神無月を名乗ったのは協力を申請する直前だった。多少、魔術師のことを知った今なら解るが、名乗ることはつまり己の所属を示す事。また多少なりとも能力を明かす事だ。総じて名乗る事は相手への信頼の証ともなるのだろう。そして同類を見分ける隠語にもなる。

 だから彼女は、旭に対していきなり旧暦で名乗ったこの男が、今回の事に対してのある程度以上の情報を持っていると踏んだのだろう。土方と他の魔術師が争っていて、かつ彼女と旭が協力関係にあること以上のことは知っていると。

「ははは、まあ化かし合いはここまでにしておきましょうか。話が前へ進まないことですしね」

 睦月は本当に楽しそうに笑う。

 ……こいつ、土方のことを舐めてんのか。

「ふふ。ギリギリ合格点といった所でしょうか、【タケミカヅチ】。ただ、私は偽名を使わないタチでして、旧暦関係者以外にも本名でしか名乗ったことはありません。まあそれをここで証明することは出来ませんので、信じて頂かなくても構いませんが」

 笑う。

「あまりに予定調和。あまり私をイラつかせないでくださいよ?」

 相手の余りに毒々しい笑みに、しかし土方は眉ひとつ動かさない。

「思っていたよりずっと小悪党くさい男ですね、【アマテラス】。証明できないことをわざわざ持ち出すあたりが、特に」

「これでも【ヒノカグツチ(大悪党)】の正逆をやらせて頂いてる身でしてね」

 男はやはりひとりで、自分の皮肉に和やかに笑う。

 店内でまともなリアクションをしているのはさっきからこの男だけだ。ここまで来ると、もはやその普通さそのものが異様だった。

「いいでしょう。問いには答えますよ、情報屋として」

 睦月はそう前置きして、

「答えはノー。犯人は残念ながら知りません」

 ひどく真面目な顔で言った。

「本当ですか?」

「はい。本当です」

 片や射殺さんばかりの顔で、片や和やかな顔で、しかし両者互角に睨みあう。

 それから数秒間睨み合いが続く。

「では犯人以外のことは?」

 やがて土方が先に仕掛けた。

「犯人以外、と言われましても、これでも情報屋でして。もっと具体的に指して頂かないと分かりかねますね」

「…………。十二氏族の中で、本家が動いている所を教えていただきたい」

「対価は?」

「刀が奪われたのは貴方にも責任があると、さっき自分でもおっしゃっていたじゃありませんか」

「なるほど。それを持ち出すんですか」

 土方は無表情を貫く。

「……本家が動いているのは貴女の家である“神無月”。つい最近まで“文月”が活動していたようですが、現在は沈静化。そして、それに反比例する形で“弥生”が活動を強めているようです」

「三枝高校へ潜伏している魔術師は私を含めて何人?」

「答える義理が見当たりませんね」

 男はさて、と言うやいなやジュラルミンケースを手に取り席を立った。

「この辺で打ち止めでしょう。ご健闘をお祈りしていますよ。それでは」

 情報屋は唖然としている旭の目の前をどこまでもにこやかに、どこまでも優雅に踵を返した。

 旭は焦って土方を見た。

 そこには、腕を組み不敵な笑みを浮かべる彼女の姿があった。

「私と神薙旭に会うこと」

 土方の凛とした、よく通る声に男は足を止めた。

「これが今の貴方にとって、何よりも代え難い最上の情報だったはず」

 完全に、硬直する。

「そうでなければ説明がつかない。貴方のようにいつも忙しく動き回る魔術師が、わざわざそちらから連絡を取ってきて、しかも本職から外れる運び屋紛いの事をするなど他に目的があるとしか思えないわ。何を嗅ぎ回っているのか、何をしたいのかなんてことは知らないし興味はないけど」

 どこまでもクールに、どこまでも鋭利で、どこまでも凛と張り詰めた、聞き心地の良い声。澄み渡り、 響き渡り、行き届く。論理展開に終わりを告げる。

「その対価。払ってもらおうじゃない」

 男は足を止めたままだ。

「くくっ」

 男はこちらへ背を向けたまま、肩を震わせた。

「あっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっ」

 長く、一息に男は嗤った。

「はーっはははははははははっははははははっはははははははははははははははははは!」

 不気味な、異常なワラいだった。体中の毛穴という毛穴が全て開いたように感じた。冷たくさえない嫌な汗が――むしろ生暖かい――背中から溢れ出す。

「ひーっひッひっひっひっひっひっひひひひひいひひひヒヒヒヒひひひひひひひひひひひっひいひぃ!」

 もはや男は普通ではあり得なかった。明らかな異常、明らかな異物。明らかな敵意。明らかな悪意。明らかな憎悪。明らか、明らか、明らか…………、

 紛うこと無くこれこそが「睦月景」という男の本質。これだけのモノを、隠し持っていたのだ。こんなモノを目の前に、今まであんなにも無防備に自分は突っ立っていたのだ。

「いーっひひひ、ククくくククククくくくくククくくっくっくっくっクックッくっくっくっくっくっクッ クっ!」

 自分の勘違いに気が遠くなった。

 自分は今、あの男に生かされているに過ぎない。

「気に入った、気に入ったよ【ヒノカグツチ】。そうだな、潜伏している生徒は二人。お前を入れて二人だ。いいか? よく聞け。そして憶えておけ。情報はとても重要だ。『もう一人いるぞ』。そう、魔術師は君らの他に『もう一人』いる。さあ、しっかり憶えろ。解釈を間違えるな。お前が裏付けだと思っているのは本物か? この偽りばかりで塗り潰された魔術の世界で真実を見つけ出せ 。安心しろ、間違えて死ぬのはお前らだ。誰にも迷惑はかからん」

 男は背を向けたまま、一気に捲し立てた。

 旭は動かない。動けない。呼吸すらままならない。

「やはり、貴方は犯人を知っているのではありませんか?」

 土方は変わらず、あんなモノとの会話を続ける。

「さあ、知ってるかもな? しかし知らんかもしれん。それをここで証明することは出来ない。よってここでその話をすることは無益だ。お前が言ったのだぞ、神無月」

「そうでしたね」

「では、俺は失礼しよう」

 ツカツカと歩き方さえ変わった情報屋は扉へ向かって行った。扉に手がかかり、鈴が鳴った。

 去り際、

「しかし土方、ですか。パートナーに偽名を呼ばせるとは、その歳で二つ名を襲名したとは言え ……はは、〈姫〉もまだまだ若い」

 元の、と表現することすらおこがましい、第一印象通りの最初の口調、穏やかな笑みで、男は言葉を残して去っていった。

 睦月の姿が完全に見えなくなると、横で土方が盛大に舌打ちをした。

 その顔を確認することは、今の旭には到底無理だった。







 チーン。


 聴きようによっては間抜けにさえ聞こえる音を鳴らして、座禅姿の旭は仏壇に手を合わせた。

 土方とは家の前で別れ、今は少し遅めの日課をこなしている最中だった。

 黙祷を捧げ、そして目を開く。

「よしっ」

 ちょっとした思い付きを実行するべく、彼は立ち上がった。


 神薙邸の二階。旭は自室からベランダに出て、そこへ取り付けられた作業用のハシゴから頭を出した。

 ……やっぱり。

 残りを登り、彼は緩やかな斜面を描く屋根の上へ降り立った。

 屋根は紺を少し薄くしたような素材で出来ていた。壁や安全柵のような類はもちろんどこにも無いが、足場の素材は別段滑りやすいわけでもなさそうだし、斜面も緩やかなので落ちるような間抜けは犯さないだろう。

 一歩、二歩。足元を確かめながら歩いてみる。

 大丈夫。

 旭は歩き出した。


「……はい。…………はい。そうです。どうやら『人形師』が動いているようで。……はい。間違いありませ ん。【アマテラス】の情報です。では明日の朝までに調査をお願いいたします。それでは」

 こちらの存在を視界の端で確認したのだろう。彼女は通話を切った。

「まさかとは思ってたが、本当にこんな所にいるなんてな」

 旭はスウェットのポケットへ手を突っ込みながら近づいた。

 相手――土方雷華は分かれた時と同じ制服姿で、夜闇に長髪をたなびかせていた。

 彼女は制服のブレザーの内ポケットへ携帯を仕舞い込んだ。

「こんな所に何の用?」

「おいおいおい、そりゃこっちのセリフだと思うんだが」

 旭はそう言って、

「……ほれ」

 ポケットから缶コーヒーを一本、下手で投げた。

「冷蔵庫のだから冷たいのしかなかったけどな」

 土方はそれを、らしくもなく両手で、実に可愛らしく受け取った。

 旭は彼女に背を向け、腰を屋根の上へ下ろした。プルを開け、一口だけ口をつける。

「ん? 遠慮せずに飲めよ。俺が人にもの奢るなんて珍しいんだぞ?」

 実際は人にものを奢るなんて場面に出くわした事がないだけではあるが。

 さらに一口すする。

 横目で見やると、土方はポカンと、本当に間抜けな顔をしていた。

「えっと、そのー……うん。あー、あの、その。あ、あり、ありが、とう」

 土方が顔を赤らめながら言った。

「……………………」

「……………………」

 壮絶な黙り合い。

 互いに硬直。

「……………………」

「……………………」

 ダメだ、適当な言葉が見つからない。これも国語が苦手であることの弊害なのだろうか。

 土方も同じ状態だったようで、彼女は気不味さを誤魔化すようにコーヒーを口に含んだ。喉が鳴る。そして――むせた。

「げほ、げほっ。かはっ、……ふぅ……」

 その咳き込みに石化を解かれた旭は、思わず吹き出してしまう。

「わ、笑わないでよっ! 人にお礼なんて言うの生まれて初めてで、どう言えばいいのかよく分からなかっただけなんだからっ!」

 なんだか良く分からない言い訳を口走っていた。

 それを見ていたら、なんだか無性に可笑しくなってきた。

「くく、」

 笑った。

「あは、あははははははは!」

「ちょっと、笑わないでってばっ!」

 そうすると、土方の頬がさらに赤くなる。

 それがなんだか楽しくて、初めての感覚で、戸惑ったけどそれ以上に居心地が良くて。

「ははははははは……」

「…………もうっ」

 涙が出るくらい、笑い続けた。

 腹筋がよじれた。息が苦しくなった。呼吸がつらい。涙が出てくる。

 笑いすぎると涙が出てくるなんてことを、旭は生まれて初めて知った。

 しばらくすると、笑いはしぼむように収まった。

 土方も大人しくなっていた。

 盗み見ると、顔はまだほんのりと赤かった。

 缶に口をつけたが、もう空だった。

 沈黙。

 夜風が流れ、少しだけ肌寒い。

 それでも、もうしばらくはこうしていても良いかもしれない、と少年は思った。

 相手も特になにも話さない。

 時間だけが鈍く、しかし光速で過ぎ去っていく。

「さっき、線香を上げてきたんだ」

 土方と同じ方角を見詰ながら、旭は静かに言った。

「あそこの道場に仏壇があってな。二年前に死んだじじいのなんだけどよ」

 尻の下に、確かな屋根の存在を感じながら言う。

「俺に剣術を教えたのはそいつでさ。これがとんでもねぇクソじじいなんだよ。毎日毎日、あんな老いぼれになっても変な本読みふけってさ。口も悪りいし、頭も悪い。ただこれが信じられないくらい強くてよ 」

 見えぬ先、あるいは後ろを見つめて言う。

「一回も勝てなかったよ。じじいが死ぬまでに、一回も。最近、よく考えるんだ。なんでなんだろうって な。技術では大差なかったはずなんだ。弟子が言うのはどうかとは思うが、それでもそう思う。魔術を抜きにしたって、間違いなくお前の方がじじいより腕前は上のはずだ」

「神薙玄壱(かんなぎ・げんいち)、ね」

「はは、やっぱ知ってんだな」

「貴方の親類だから、ということもあるけど、彼の場合は神薙流剣術の継承者ということで以前から知ってたわ」

「何? 有名なのか?」

「ええ、神薙流は明治の頃に最も栄えた古い流派だけど、我々の世界にもその亜流を使う者は多数存在してるの。もちろん、正式なのは貴方の家のものだし継承者はもはや貴方だけだけど」

「残念。俺、免許皆伝じゃないんだ。神薙流はじじいの代で途絶えたさ」

「…………そう」

「だから、さ。勝ちたかったなって。一回くらい、あのクソじじいの鼻を明かしてやりたかった」

「ふふ、意外ね。貴方、おじいちゃん子だったんだ」

「じょーだん」

 鼻で笑う。

「誰があんな奴」

「ふーん」

 お互い、目も合わさずに話し続ける。

 少女は立ち続けるし、少年は座り続ける。姿勢をずらすことも無いから視線が合うことも無い。

 ただ、同じ方向のみを見つめ続ける。

 そこでふと、旭は、土方雷華と睦月景の会話を聞いて気になっていたことを思い出した。興味本位で魔術師について質問することに迷いが無かったわけではないが、話を切り出すタイミングとしては今がベストだと判断し、声に出す。

「そういえば、お前が最初に俺に自己紹介した時、確か『枷壊士』って名乗ってたよな?」

「ええ、そうだったわね。それがどうしたの?」

「情報屋はお前のことを【タケミカヅチ】って呼んでたよな? あいつも『詭弁家』だの【アマテラス】だのと複数の呼び名を持ってるようだったが、どんな意味があるんだ?」

 魔術師という異常な世界に積極的に関わろうしていると思われても仕方がない問いだったが、今更取り消すことは“逃げる”のと同義だ。「逃走」……すなわち、「敗北」。旭は挑むような眼差しで土方雷華を見つめる。額には少し汗をかいていた。

「あ~、確かに紛らわしいわよね。わかった。説明してあげる」

 しかし、返ってきた答えは予想に反して朗らかな声に包まれていた。

 ……なんつーか、軽いな。

「いい?『枷壊士』というのは『枷壊術』を使用する者――つまり、神無月家の魔術師全員に付く肩書なのよ。睦月の『詭弁家』や弥生の『人形師』も同じカテゴリーに入るわ。

 一方で、私の【タケミカヅチ】や睦月の【アマテラス】は個人に付く二つ名なの。それぞれの能力だったり人柄に近しい神様の名前を冠するってわけ」

「なるほどな。しかし、神を二つ名にするとはなかなか恐れ多いな」

「まあ、所詮は箔を付けるための慣習だから、私はあまり気にしてないわ」

「そうなのか……。なあ、すんなり答えてくれたことはありがたいんだが、魔術師じゃない俺に対してそんなに軽々しく教えてもよかったのか?」

 旭は恐る恐る聞いた。

「……まあ、このくらいなら多分大丈夫よ。魔術師について表面的な知識を得たところで、魔術を使えるようになるわけではないしね」

 想像よりもずっと柔らかい表情と声色で話す彼女に、少年は思わず見惚れてしまう。“土方雷華”と“神無月雷華”の間にある隔たり(ギャップ)が、あまりにも大きい。

 言葉に詰まっていると、土方が「でも」と再び口を開く。

「それぞれの家に伝わる魔術の内容を詮索したりするのは明確なアウトだから、絶対しちゃだめよ? 私の――神無月の『枷壊術』だって例外じゃないわ。わかった?」

 まるで、聞き分けのない子供を相手にした母親のように優しく身を屈めて正面から目を合わせてくる少女の顔を直視できず、旭は思わず視線をあさっての方向に向けた。

 それがお気に召さなかったらしく、土方はさらに距離を縮めてくる。

「ねえ、返事は?」

 今度は少しばかり声が低く、怒気を含んでいることが容易に察せられたため、旭は慌てて答えた。

「わ、わかった!」

「そう。ならいいわ」


 それからは、しばらく詮無い会話を続けた。

 共通の話題は少なかったが、それでも話し続けるのは苦痛ではなかった。

 剣術の鍛錬に関する話。学校の存在意義について。勉強はしているのか。現文が苦手だ。国語は大好き 。お前は頭が悪い。貴方がおかしいの。食べ物はチーズケーキが好きだろ? ぐ、なぜそれを。首が落っこちそうだったぜ。……っ。

 喋った。

 まるで普通の友人のように。

 決して友人にはなり得ない二人が。秋の夜空で喋り続けていた。

 だが、やがで空気は名残惜しさを香らせつつも、終わりを感じ始めてた。

「へっ、くしゅんっ!」

 旭はくしゃみをした。

 鼻をこする。

 どうやら、体がかなり冷えてしまったらしい。

「どうやら、そろそろお開きね」

「そうだな」

「それじゃあ、また明日」

「ん、あ、ああ。じゃあな、土方」

 と、立ち上がった瞬間。

 土方が思い出だした、というか、いつ切り出そうか迷っていて良いキッカケを得た、というか。なんとも一言では説明しきれない顔をしていた。

「ん? なんだよ」

 彼女は迷って、しかし切り出した。

「……雷華」

「え?」

「名前」

「ああ、まあ知ってるけど」

「違うわよバカ。呼び方! 今後私を呼ぶ時は名前で呼んで」

 そこで旭は、情報屋が去っていく寸前の言葉を思い出した。

「魔術師は名を大切にするの。でも私は表向き土方だし、神無月じゃなにかと不便でしょ? 呼びづらいし 。だから、これからは名前で呼んで」

 要するにこの女は、他の魔術師に馬鹿にされた事を気にしているのだ。

 ……はは、大人っぽいんだか、子供っぽいんだか。ま、いいけど。

「そうか。じゃあ俺も旭でいいぞ」

 土方、いや雷華が呆けた顔をする。

「えっ!?」

 声は裏返っていた。

「そろそろ「貴方」ってのだけじゃなくて名前で呼んでくれよな、雷華」

 早速使ってみた。

 見れば雷華はう~、と唸りながら再び真っ赤になっていた。

 なんなんだ、こいつ。

 でも、それを見ているとなんだか笑えてきた。

「はは、今夜は月が綺麗だな」

 実際は排気ガスに塗れた東京の空なわけだが。意味も無くそう呟きたかった。

 雷華はというと……なぜか無言で固まってこちらを凝視していた。

「ん?どうした?」

「べ、別に、何もないわよっ! こっち見ないで!」

 なんだコイツ? 感情がバグってんのか?

「まったく、いくら国語が苦手だからってそれはないでしょ……」と、意味不明な文句を言っていたが、気分が良かったので聞き流すことにした。

 そのまま、二人は解散ムードを迎えた。

 そんな時、時雨の口から小さく音が漏れた。

「ヘクション」

 それを耳にした旭は、ひとつの提案を思いついたのだった。




※ 




 ……え~っと、なんでこんな事になっちゃったのかしら?

 目の前では神薙旭がテキパキと部屋の説明をしている。

「……ベッドは後で新しいシーツを持ってくるからそれを使ってくれ。テレビは無いが、まあ勘弁してくれよ。それでトイレだけど……」

 部屋の中をあっちこっちと指差しながら動き回る。

 ここは神薙邸の中。二階にある彼の隣室だ。

 客間なのだろう。それでも優に十畳以上ある豪華な造りで、家具は人が宿泊するのに必要最低限だと 思われるものがちらほら設置されている。それでも数少ない家具はどれも高そうな物で、風格漂う見事な洋室だった。

 事の発端は数分前。

「そうだ。俺を守るのが任務なんだろ? だったら中に入れよ。部屋だったら結構空いてるからよ」

 強引に連れ込まれた、というと誤解を招きそうだが、雷華の気持ち的にはそんな感じだった。

 そして、一室を宛てがわれてしまった今に至る。

 雷華は左のこめかみを強く抑えて頭痛をこらえる。

 薄く目を閉じて思う。

 全く、この男はなんなのか、と。

 そして思う。

 全く、自分は何をしているのか、と。

 任務の対象と必要以上の馴れ合いは魔術師間では是とされない。そもそも感情さえも持たないことを最上の美徳と考える。それは恋愛感情などもっての他だし、逆に怨みや憎しみなどの負の感情、交友関係などのいたって普通の感情も含む。

 それは魔術師と一般人の関係などすぐに終わってしまい、しかも永遠に再会は叶わないから。また、最悪本家の意向次第では、今日まで守っていた相手を手に掛けなきゃいけない場合だって結構ザラにある話だからだ。正も負も、感情は必ずヒトの行動を鈍らせる。その感情が強ければ強いほど。

 無感情に無感動に、与えられた任務を遂行する。これが最も魔術師では美しい在り方だ。

 雷華は、神無月家にとっては実戦闘における殲滅戦の切り札だった。今回のような護衛任務などというのは初体験だ。

 それなのに何故雷華なのか、と言えば、情報屋との約束や神無月の管轄界が神薙総一郎の死によって多少バタついていたこと(他には事の決着には恐らく戦闘が予想されること)など、多数の事が折り重なってお鉢が回ってきたのだった。

 だからと言って、失敗の言い訳にはならない。もう、雷華は見習いの身ではないのだ。この作戦に失敗は許されない。そんなに安い仕事ではない。必ず、必ず成功させる。させてみせる。


 でも、と。

 思わずにはいられない。

 神無月の人間以外の者と、これだけ多くの時を過ごしたのはいつ以来かと。

 旭は、いつの間にか部屋から居なくなり、部屋には彼の残り香だけが漂っていた。



※ ※ ※



 それは、抽象的なイメージの塊。負の感情の結集。歪の粋。

 認めない……迫り来る影……決して……自分、自己の陰性……認められない……刀/避ける……破綻する……矛盾を許容できない……認めないぞ……血が出る……“俺”は弱くなんか無い……正しいのは“俺”だ。

 串刺し。切り裂き。繰り返し。

 同じこと。何度やっても同じこと。繰り返す繰り返す繰り返す。何度や っても結果は同じ。もう、嫌だ。

 永遠の一夜をひたすら繰り返す。結末は変えられない。対価が足りない。何かが不足している。

 繰り返しては忘れ、やり直しては後悔に沈む。直にそれも忘れ、再びメビウスの輪のように繰り返される。忘れる。消える。無くなる。でも虚無に帰るわけではない。それらは意識の底に沈殿し、無意識を刺激する。

 有意識へ鎌首をもたげて俺を責めるのを待ち続ける。もう嫌だ。


 この苦しみから逃れるには死ぬしかない。

 もう嫌だ。

 死にたい、死にたい、死にたい。

 ………………。

 …………。

 ……。


 そうして“俺”は、俺を殺害する。

 そうして“神薙旭”は、架空の死を認識し続ける。



※ 


〔幕間〕



 当主の魔術師は理解し始める。

 言われた事が、頭の中でピースとなって嵌っていく。

 それ以外が欠落していく。底なしの奈落へ堕ちていく。

 感情ってなんだ、楽しいってなんだ、悲しいってなんだ、憎いってなんだ。

 魔術は論理だ。武術は盾だ。知識は刃だ。全ては力だ。

 笑わぬ子供は破綻を知らない。矛盾を許容する懐は狭まる所を知らない。





 悍ましい衝撃、あるいは衝動に、旭は掛け布団を跳ね飛ばした。

 空虚な手ごたえに布団が絡み、そのままずり落ちて掛け布団はベッドから落ちた。

 呼吸は荒い。毛穴が痛い。背筋が冷たい。頭は重い。

 また何か見た。また影を見た。また死んだ。

 もう嫌だ。

 その言葉が脳裏にせり上がり、胃液が喉を焼いて思わず吐いてしまいそうになる。

 旭は口元をふさぐ。

 飲み込む。言葉ごと、苦みごと、考えごと。全てを否定する。

 矛盾などしていない。歪みなど無い。積み重ねは壊れていない。まだ手遅れなんかじゃない。

 飲み込み、砕いて、封をする。


 ……俺は誰にも負けない。

 ……俺は誰にも膝を屈しない。

 ……泣かない。弱音を吐かない。敗北しない。勝って勝って勝って、勝ち続ける。上に立つ。

 そうさ、お前は誰だ?


「……神薙旭だ、くそったれ」

 ベッドを後にする。

 立ち上がり、右手を見る。

 そこにあるのは雷華のルビー。

 手は汗で濡れていた。気づかぬうちによほど強く握っていたらしい。

 逃げるように、助けを請うように、普通の人間のように。自分以外を頼っていたのだ。

「………………ッ!」

 そのルビーを握ったままの右手を壁に。思いっきり、全力で、否定する。叩き付けた。

 壁が拳に震える。手が痛みに震える。空気が力に震える。それでも心は何も無い。動かない。震えない 。

「くッ…………」

 激情に任せて窓を力いっぱい開け放つ。破壊音。躊躇わない。右手を窓へ向かって振り切った。ルビーを、投げた。

 ルビーは壁を跳ねて足元に転がっただけだった。

「クソッ…………」

 外すような距離ではない。

 百パーセントだ。本当に狙ったのなら間違いなく、例外なく、狂いなくルビーは外へ消えた。消せた。消せたのだ。

 そのルビーが残った。

 足元へ転がった。

 拾い上げた。

 ルビーの輝きは昨日よりも曇って見えた。



 旭はさっさと制服に着替え、昨夜の内に揃えた荷物を持つと部屋を出た。

 そして、出た先の廊下には、不思議な物体が設置されていた。

「ん?」

 その物体は、神無月雷華の形をしていた。肩からあの後持って行った毛布だけを掛け、座禅を組んでいる 。例の袋を左肩へ立てかけ、床には一本の日本刀。昨日の『霹靂』ではない。戦った時に使っていた刀でも、ないようだ。本人はつい先頃まで通話していたのか、はたまたメールを打っているのか、澄ました顔でスマホを操作している。

 雷華が顔を上げた。表情から察するに、すでに仕事モードだったようだ。

「な、なにしてんだお前」

 気配に気圧されてたじろぎながら言った。

 雷華はこちらをじー、と見つめている。

「……夢は?」

 酷く醒めた声で言った。

 予測していただけに、この質問には簡潔に答えられた。

「見た。今までに比べるとひどく抽象的だった。お守りのおかげなんだろうけど、なんだか力が弱ってる感じだった」

 それを聞いた雷華の眼光がさらに厳しくなった。

「そう、了解よ。今日は色々と忙しくなりそうだわ」

 スマホをブレザーの内ポケットに仕舞いながら言った。

 どうやら通話の方だったらしい。





 雷華は歩く。

 学校鞄を肩に、その逆の肩には『白狐』と『霹靂』を掛けて。いつも通り、いままで通り、紅葉の道を歩く。

 神薙旭も歩いている。

 学校鞄を肩に掛け、雷華の斜め前を。振り返ることなく威風堂々と。恐らくいつも通り、恐らく今まで通り、紅葉の道を歩いている。

 二人の歩く速さは同じ。歩幅も変わらない。旭は雷華の斜め前、一歩前を歩いていく。雷華も旭の斜め後ろ、一歩後ろを歩く。その距離は決して縮まる事も伸びる事もしない。片方が相手を待てば、 片方が相手へ近づけば、共に並ぶことのできる『意思』の距離。その距離は決して変わらない。あるいは、変われない。あるいは変わりたくない、距離。

 息苦しく居心地が悪い。

 その理由は自分がずっと『魔術師でいるから』だと、雷華は理解しているし、その上で意図してやっているのだが、それでも居心地が悪い。

 本当は、居心地が悪いと感じる時点で魔術師に成りきれていないのだが、こればかりは致し方無い。

 朝起きて、旭と顔を合わせてからずっと、朝食の席でもずっとこれだ。朝食は一階で食べた。何度断っても無視強行で作ってしまうものだから、これも致し方無く。しかし、てっきり雇い人の中に料理をする人間でもいるのかと思っていたが、朝食(ひいては弁当も)は二人分、彼が作っていた。決してアマチュアの域は出ないが、それでも並みの高校生、特に男子の腕前ではなかった。改めて、この男の万能性を見せ付けられた気がした。

 そして通学。会話は無い。

 黙々と歩き続ける。

 雷華は朝に交した数少ない会話の内容を思い出す。

 旭はルビーの力が弱っているように感じる、と言った。やはり多少の抑止力にはなっても、論証も裏付けもなにも無いただの魔術(ハッタリ)では二日は持たなかったようだ。こうなってはもう、あと一日持つかも怪しい。なにより、彼がルビーの力を疑い始めた時点でもうほとんど効力は失われている。この魔術は(たとえそれがハッタリだったとしても)自分以外の力に守られている、という主観――思い込み――が必要なのだ。

 信じる者は救われる、とはよく言ったものだ。

 ただ、現状はこれで十分だとも思う。

 本家からの指示は『これ以上経済界を荒らさない事』、『神無月のメンツを守る事』。この二つだけ。やり方は雷華に一任されている。選択肢だけならそれこそ山のようにあるのだ。神無月として大局を見れば、神薙旭の生死など、実はどうでもいいのだ。その前に彼の持つ神薙グループの株は、どうにかしなくてはならないだろうが。

「好きなようにやれ、か」

 旭に、ひいては自分自身にも聞こえない小さな小さな声で、雷華は呟いた。

 ……それが一番難しいよ、お父さん。

 こんな娘の姿を見たら、父は何と言うだろうか。怒るだろうか。慰めるだろうか。呆れるだろうか。

 いや、たぶん何も言ってくれないのだろう。そういう当主(ひと)だ。

 とにかく、出会って間もない相手のために、家の、神無月の明日を無くすわけにはいかないのは紛れも無い事実だ 。

 そんなことを考えていた時、騒々しい足音と共に後方から一人の女子生徒が二人を追い抜いた。


「オース、神薙!」

 旭が振り向こうとした時にはすでに、足音は目の前を通り過ぎていた。

「……ああ」

 瑠夏だった。

 立ち止まって、こちらを待つ。足並みを揃える。並ぶ。雷華の逆側、旭の真横に。

「ん? いつになくローテンションだな。どうしたよ?」

「別に。お前こそどうした、最近妙に朝が慌しいじゃないか」

「なはは。実家の都合でね。参っちまうよ」

 瑠夏は困った風、というよりは引きつったように笑った。

「それより、そいつは? ていうか、お前がテンション低いのそこの自縛霊のせい?」

 瑠夏は雷華を睨みつける。本当にわかり易い奴。瑠夏の方こそ不機嫌がありありと見えている。

 雷華も雷華で、今日は挑戦的な視線をバチバチとぶつけ合っている。

 あの目の状態の雷華に一歩も引かず、見事に旭の辺りで火花を散らしあっている瑠夏もなかなかのやり手だ。

「あー違う違う。ちょっと考えごとしてただけだ。そう手当たり次第に噛み付くな」

 瑠夏の襟首を掴んで睨み合いから引っぺがす。

「こらっ! んなとこ掴むんじゃねぇ」

 そうして、取り合えず狂犬と番犬による一触即発状態を中断させる。

 暴れる瑠夏をいなしながら歩く並木道。

 一人増えてはいるが、それでもいつも通りの通学の光景だ。こうしていると、自分が今、命のやり取りをしているのを忘れてしまいそうになる。あの夢さえ無ければ。そう、あの夢さえ無ければ、この今がずっと続けばいいとさえ思う。


 やがて校門が見えてくる。

 だが、変化は強要されている。旭自身、受け入れることも、停滞することも許容できない。

 だから、今という時間は結果という変化への助走。

 学校には恐らく、また脅迫状などの類があるのだろう。

 情報屋――睦月景は言っていた。もう一人いると。だからもう、学校は敵のテリトリー。すなわち戦場だ。

 気合を入れていこう。


「……行くぞ、“雷華”」

 瑠夏が現れてからさらに広がった距離を、協力者という括りで縛りなおす。

 雷華の方に振り返ると、熱湯と氷水の両方を同時に丸呑みしたような、奇妙な顔をしていた。一方、瑠夏は不機嫌な顔をさらにブサイクにしていた。

 ……なんなんだ? こいつら。





 それから約四時間後。

 長い昼休みは終わりに近づいていた。

 旭は屋上に居た。初めて雷華と相対した、あの給水塔の前だ。

 備え付けのベンチに腰を下ろし、広げた弁当を片付けている。

「ほら、それよこせ」

 雷華は給水塔の膝元、段差になっているところに座っている。空になった弁当箱を持ったまま、ぽけっとしていた。

 彼女は今朝も昼も、旭が食事を用意することを頑なに拒んだが、それでも強引に席に座らせた。実際、料理を作るのに一食分も二食分も労力はさして変わらないのだ。そういうことではない、と雷華は最後まで食い下がっていたが。


 旭は雷華から受け取った弁当箱もまとめて風呂敷で包み込んだ。

「さて、今後の話だったな」

「ええ」

 そもそも、屋上(ここ)へはそう言って雷華に連れてこられたのだ。

「まずは、今日貴方の身の周りで起こった出来事の中で、関係のありそうなものを話して」

 雷華は姿勢を正し、意識をこちらへ向けて言った。

 旭はポケットを探り、目的の物を三つ取り出した。

 それらを雷華に放り投げる。彼女は表情を変えないまま、三つとも同時に受け取った。

 小さな金属音が鳴る。雷華は受け取った物に目を向けた。

「……空薬莢」

「だな。どうやら、『そういうブツ』があるのを見せ付けたいらしい。朝来たら机の端に三つ穴が開いてた」

 拳銃。しかも奴は学校でそれを堂々とブッ放せるらしい。まあ、外国は知らんが日本の学校なんてセキュリティが甘々だからな。そもそも銃を持っているようなイカれた奴なんて想定外だろう。

 雷華は空薬莢を凝視したまま考え込む。

 旭はその空薬莢を見た時にまた気持ち悪くなったのだが、この前ほど酷くはなかったし、話さなくても平気だろうと判断した。

 ……わざわざ自分の弱さを他人へ晒す必要は無いな。

 雷華がまたこちらを向いた。

「他にもある?」

 今、彼女に報告するべき点は二つあった。だが、どうにももう一つは言い出しにくい。

(仕方ないか……)

 旭は意を決し、胸ポケットからハンカチで包んだ物を取り出す。

「これだ」

「……?」

 首をかしげる雷華を視界の端に置き、包みを開いた。

 中にあるのは砕かれたルビーだ。

 赤々とした光の粒が、ハンカチの上にばら撒かれていた。

 四時間目の体育の時間、帰ってきたら机の下に散らばっていた。必死に集めたが、全ては集まりきらなかった。

 御守りは、敵にとってはやはり邪魔だったということだろう。

 これでもう、守りは無い。またあの夢と真正面から付き合わなくてはならない。

「…………すまん」

 なにより、こうして謝ることが情けない。

 自ら決着させたわけではない。

 他人によって己が左右された。

 しかも、それを受け入れた次の瞬間だ。受け入れた瞬間奪われた。

 情けない。

 あまりにも情けなさすぎる。

「授業中にやられた。迂闊だった。本来なら肌身離さず持つべきだったのに……」

 雷華はそれを、黙って聞いていた。

 無表情で、聞いていた。

 だが、その無表情が優しい微笑みに見えてしまうのは、己の願望の成せる業なのだろうか。

「謝られても困るわ」

 彼女は静かに言った。

「それはもう貴方の物。言ったでしょ、あげるって。気にしなくていいわよ」

 素っ気無い言葉が耳を優しく撫でた。

 肩の力が抜けた。

 角ばった肩が、斜辺を取り戻した。

 長く、本当に長い、ため息を吐き出した。

「うん。そうか」

「ええ、そうよ」

 眼前の少女はただ相槌を打つ。

 それを見て、旭はもう一度自分自身へ頷いて見せた。

 そうして左ポケットにハンカチごとルビーを仕舞い込んだ。

 さて、これでこちらの報告は終わった。

「こっちはこれだけだ。そっちは?」

 と、雷華の表情が厳しいものになった気がした。いや、実際はずっと無表情なわけだが。

 ――視線が合う。

 威圧感を伴った、鋭く切れる瞳。極寒の冷たさ、だがそれと気づけば分かるその奥にある熱さ。熱き氷。極寒を保つための灼熱だ。

 それを真正面から受け止める。もう一歩も引かない。引けない。敵前逃亡など死罪に値する。もはや思わず、ではない。こいつの瞳はもう知っている。覚悟はある。

 睨むように、挑むように、対等であるように、視線を定める。

 相手の瞳の奥に自分が映る。

 その顔が、

「今日から貴方の登下校は一人でしてもらう。敵はわかった。私も決心がついた。私は、私の成すべきを成すわ」

 ――歪んだ。





 ……なにしてんだ、俺は。

 できるだけ他のサエ高生の集団に紛れるようにして雷華の後を追う。

 あれから二つの授業をこなし、ホームルームが終わり、仙波を追い越すように隣の教室に駆け込むと、そこにはすでに雷華の姿は無かった。急いで校門まで駆けていけば、そこには消えかけた彼女の後ろ姿があった。

 方向は住宅街、駅前方面。昨日と同じ道だった。

 とにかく何も考えずにその後を追った。

 話しかける話題はなく、そのタイミングもない。

 それから尾行するような形になってしまい、今に至っている。

 雷華とは距離にして二百メートル以上。消えそうな視界の端を保っている。

 彼女には半端な尾行は通用しないだろう。方法論も実践も持ち合わせていない旭の拙い尾行では話にもならないはずだ。だから距離を開ける。人間が気配を察知しきれない所まで。幸い、この先の住宅街には連続した曲がり道も複雑な道も無い。これだけの距離ならギリギリ、追いきれないということはないだろう。

 そうしてもう、話しかけるには不自然で、尾行を続けるには都合がよすぎる状況へ陥った。

 そうやって時雨を追いながら、旭はもう一度自問する。

 なにをしているのだ、と。

 今更彼女のことを敵のスパイだなどと疑っているわけではない。これでもそれなりに彼女のことは信用している。だからこれは旭にとってはその信用を裏切る行為だ。

 だが、それでも尾行を止めることはできない。

 それはできない。

 彼女が自分を置いていったということはそれなりに理由があるのだとは思う。なにせ、昨日の睦月景との会合では他の魔術師と自分が出会うことよりも自分を常に護衛することを優先させた。睦月景についてはこちらに手を出さないというなにかしらの確信があったのだろうし、逆に言えば今日はなにかしらの危険がある可能性が高い。

 だが、それでも止められない。

 危険があるのならなおのこと。その事実を把握していたい。そのことを知っていたい。そしてもし雷華に危険が迫るのなら助けたい。守りたい。他でもない、この自分が。ただ守られるだけなんて、自分が負けているようで、他の誰かに劣っていることを認めているようで、それがどうにも居心地が悪い。自分が知らない所で自分に関する決定的な何かが決まってしまうのが恐ろしい。迫られた結果に、自分の意思が介入していないことがこの世にあるのかと思うと怖気が走る。もう、あんな思いはしたくない。


 だから追う。

 だから当事者を望む。

 だから物語(じんせい)の主人公であることに固執する。

 だから全てを捨て(ひろっ)てきた。

 素質はあった。故にそれほど難しいことでは無かった。ただ妥協しないこと。弱音を吐かないこと。敗北を認めないこと。それだけを身に刻んで、傷つけ、焼き付け走り続けてきた。そのために楽しみ、喜び、慈しみ、人との馴れ合い、他にもこの両手を少しでも埋めてしまうものを拒絶し続けてきた。余計なものを手にする隙間はなかった。全てを選ぶためには全てを捨てる必要があった。だが、言ってしまえばただそれだけのことだ。決しては難しくは、なかった。

 尾行を続行する。

 神薙旭は強い。誰にも負けることはない。雷華にだって魔術がなければ、あの突然の加速がなければ勝てていた。あれは負けではない。魔術なんて違反(ズル)だ。だから負けてなどいない。魔術なんて普通ではありえない。そんな例外は負けとは認めない。魔術なんてない。負けじゃない。違う。認めない、認めない、認めない。


 守られているだけなんて認めない。

 そんなのは神薙旭ではない。

 尾行する。

 魔術師の後を、追い続ける。

 追尾者と魔術師はやがて住宅街を抜ける。

 駅前へ差し掛かった。

 人が増え紛れる対象に事欠かなくなったが、同時に、ここで見失えば以降の追尾は不可能という状況もできあがってしまった。

 旭は距離をぐっと詰め、できるだけ真後ろを選んで道を進む。

 道の端から端へと挙動不審に動けば、きっとすぐにバレてしまう。ならばむしろ堂々と、距離を測りつつ対象を、雷華を見つめる。

 駅前をどんどん進んでいる。

 昨日の裏道への入り口を素通りする。

 『神薙(駅と、ひいてはこの地域名だ)』駅も通り過ぎる。

 二つ三つ道を折れて、ビル街を抜ける。

 あたりは住宅街というほどではないにしろ、マンションなどが増えてきた。

 雷華の足取りは確かだ。

 しかし一方で、旭にとってはこれ以上先に進まれるとさすがに土地勘がなくなってくる。

 人が減ったからといって、先ほどのように長い距離を取る事はできない。

 また道を曲がる。

 尾行に気づいたような素振りを見せた風はない。

 だが、彼女の迷いのない歩調が追跡者を手繰り寄せているようにも感じてしまう。それはやましい気持ちから生まれる疑心暗鬼なのか、あるいは退き際なのか。旭には計りかねる。

 それと同時に、ここで退く事も考慮している自分に少し驚く。だからもう一度自分に言い聞かす。

 退く事はできない、と。

 オフィスビルやマンションの隙間からは、白く濁った雲が沈殿しているのが見える。

 その方向へ向かい、歩いていく。

 道の右手には階数二十を越える豪華なマンションがある。その前、そこには公園があった。

 広く、しかし遊具などが極端に少ない公園だった。小学生などがサッカーや野球をしていそうな、球技に向いた公園だ。周囲を胸程度の高さの塀で囲んでいて、出入り口は端と端、それと中央辺りに三つ。内側には膝下くらいしかない柵と等間隔に植えられた木、それらが堀と並んで公園を囲っていた。その他にもそこかしこに手入れのされた茂みが目立つ。緑の多い公園だった。

 

 雷華はその公園へと、入っていった。

 旭はそれを確認しながら、一瞬そこへ立ち尽くした。

 安易に公園へ入ればバレてしまう。しかしここで迷っていては見失う。

 葛藤は激しかったが、決着は一瞬でついた。

 塀を静かに、低く飛び越え暗緑色の誘いに乗った。

 そして、その先で見たものは、公園のど真ん中で突っ立っている雷華の後姿だった。


 心臓が軋んだ。

 まずい、と頭の中で叫び声をあげた。

 身動きは取れない。茂みの裏で、見つからないように小さくなって、そして固まった。まさに金縛りだ。呼吸すらもままならない。

 ヒュウ、と。正常でない呼吸音が耳に届いた。


「出て来なさい」


 雷華がよく通る声で、静かに、しかし厳しく言った。

 旭はさらに身を固くする。

 まだだ、まだ完全にバレたと決まったわけじゃない。カマをかけているのかもしれない。ここで根負けしては駄目だ。シラを切り通せ。

 通すんだ。

 通せ……。

「私は貴方と、こんな事を許容するほどするほど、馴れ合ったつもりはないわ」

 ゆっくりとした、鋭い拒絶の言葉。それは本来、旭の持ち物だ。

 その凶器はその鋭さと遅さを持って、彼の胸に突き刺ささる。

 思ってたよりずっと――いや想像なんて遥かに越えて。想像したことなんてなかった。――痛みは強かった。

 だが、譲ることが出来なかったとはいえ、悪いのは一方的に間違いなく絶望的なまでに論理を挟む余地すらなく、旭の方だった。

 譲れないのは自分の事情。

 裏切ったのは自分の判断。

 流されたのは自分の甘さ。

 ……どれも言い訳の材料にすらならない。

 そのことが更に惨めで、勝手に自分のライフを削り込む。

「…………すまん」

 旭は大人しくその場で立ち上がり、重い足取りで公園の出口へと歩いていった。

 体が動き出したのに呼吸はまだ苦しくて。馬鹿なことをした自分が余りに悔しくて。下唇に深く歯を突き刺した。

 鉄の味はむしろ望んで味わった。

 帰り道で独り、旭は自分の『失敗』を認めた。





「さて、邪魔者は帰したわよ。貴女もさっさと出てきたらどう?」

 神薙旭が帰るのを見届けてから数分後。雷華は無人の公園でひとり、中央に陣取って腕を組んだ。

「あちゃー、バレてたか。あははははは、やっぱ凄いねぇ~。あたしの尾行術には結構定評があるんだけどね。やっぱアンタは生粋の戦士だよ、【タケミカヅチ】」

 だから潜入捜査とかは向かないんじゃない? と、“彼女”は言った。

 雷華が声を追って視線を上げれば、正面の木の、一番低い枝に腰掛ける日暮瑠夏の姿があった。

「いつからだ? “神無月”雷華。あたしに気づいたのはさ」

「始めからよ、弥生。貴女も神薙旭も、私の後ろについた瞬間気が付いたわ」

「違う違う。あたしが魔術師だって気が付いたのはいつって意味」

「……わざわざ親切に教えると思う?」

「んーん、全然。……よっと」

 日暮瑠夏は両手で枝を押しやって、木から飛び降りる。膝をクッションにして見事な着地を決めると、雷華に近寄ってきた。そのまま、話をするには近すぎる距離までやってくる。目と鼻の先、ゼロ距離。顔と顔を近づけてくる。チンピラがやる様に、睨みつけてくる。

 雷華は動かない。腕を組んだまま直立不動を守る。

 日暮瑠夏は雷華のあごを指先で撫でながら、艶かしくとろけるように微笑する。

「うちのダーリン(旭)にちょっかいかけてるようだけど、あんまり勝手な事すんなよ? ん?」

「勝手なことをしているのはそっちでしょう。神薙旭への過干渉は明らかに管轄界侵犯よ」

「言いがかりだな。あたしが手を出しているのは神薙旭個人であって『経済界』じゃない。そんなものに興味はないんだ。そんなことより、『学校』は我々の管轄だ。むしろ、ここで責められるべきはあんたであってあたしではありえない。【ツクヨミ】のおっさんが許可してっから仕方なくちょろちょろしてんのを見逃してやってんだぜ?」

「………………」

 雷華はそれらの言葉を無言で返す。

 二人はそれからしばらく至近距離で睨み合う。片や毒々しく。片や寒々しく。

 やがて。

「まあいい。いつまでこうしていても埒が明かないからな」

 そう言って、日暮瑠夏は神無月雷華から離れた。

 一般的な距離まで離れた。

 そうして雷華に向かう。相対する。

 口元を手の平で隠し、その奥に微笑を絶やさず、言った。

「で? 聞こうじゃんか。名乗る名も無き魔術師風情に、恐れ多くも【タケミカヅチ】様が何の用だい?」

 雷華は一拍の間を持って、少しだけ表情を変化させた。

 そして――。


「取引がある」

 ………………。

 …………。

 ……。




〔第三章〕



 神薙邸の一階。調理場。

 旭はそこに立ち、夕飯を二人分作る。包丁を動かし、コンロに火をつけ食材を取り出し、手慣れた様子で調理を行う。だが、その頭は全く別のこと考える。

 何がいけなかったのか、と。

 見つかったのがいけなかったのか。引き返さなかったのがいけなかったのか。尾行したのがいけなかっ たのか。雷華を信用したのがいけなかったのか。そもそも彼女と関わったのがいけなかったのか。神薙家の人間であることがいけなかったのか。もしくは、それら全てがいけなかったのか。

 自分は常に最善を選んできたつもりだった。己が価値観に従い、理と筋を通してきたはずだった。迷ったことはあっても後悔したことはなかったはずだった。

 どこで間違ったのか。

 あるいは全て間違いだったのか。

 ……それは違う。

 違うはずだ。間違ってなどいない。

 ……そんなことは、認められない。

 だが、その否定にさえいつもの力強さは無い。

 『否定もしないが受け入れもしない』。

 保健室での仙波の言葉を思い出す。

 正に、その通りではないか。

 優柔不断。

 いつから自分はこんなになってしまった。

 なにが悪い?

 なにも悪くない。

 なにが原因だ?

 そんなものはない。

 旭は薄明かりの中で独り、目をつぶった。

「なにが、矛盾している……?」

 片手で数えるほどしかない他人のための食事を、作る。


 雷華が帰ってきたのはそれからさらに二時間後だった。

「……食えよ」

 すでに自分の分を食べ終わった旭は、食堂へ入ってきた彼女に机の上の食事を指して言った。

 言い方はもっと他にあっただろうが、口をついて出たのはそんな言葉だった。

 雷華はこちらをちらりとも見ずに、完全に旭を無視して脇を通り過ぎる。それでも食事の席には座った。これで食事まで無視されたら惨めすぎた。

 振り返った視線の先で、彼女がこちらに背を向けるようにして座っているのが見える。

 旭はその背へ向けた視線ですら、直視できずに逸らした。

 互いに背を向けたままで時間が過ぎていく。

 彼は動かない。動けない。彼女が食事を取っているのが音と気配で伝わってくるのみ。

 ひどく、のどが渇く。

 考えがまとまらない。

 ぐちゃぐちゃぐるぐると、まとまらない。


 頭の中が複雑な模様を描き、そもそも自分が何を考えたいのか、考えていたのかも分からなくなってくる。

 汗が止まらない。拭う手がせわしなく動く。

 動悸が止まらない。緊張とも興奮とも違う未知の鼓動に焦りが走る。

 情けない気持ちが湧き上がる。

 なんだこれ。

 なんなんだこれは。

 この感情が分からない。

 自分の考えが分からない。

 このままでは壊れてしまう。

 心臓が今にも胸を突き破りそうだ。

 だってそうだろう。そうでなければ、この胸の痛みは説明できない。

 混乱した頭で思う。なにか、何か言わなくては。何か別のことをしていなければ壊れてしまう。

「勝手に尾行したのは、悪いと思ってる」

 搾り出すように、のどの奥から声を吐く。

 雷華が反応した気配は無い。

 そのことにさらに焦る。言葉が口を突く。

「……でも…………、でも」

 言葉が続かない。

 頭も言葉も視界も、全てが捻れ曲って歪んで廻る。

 子供のように、口も思考もひたすら「でも」を繰り返す。

 それでも何か言わなくては。

 沈黙にはなおのこと耐えられない。

「何かしなくちゃって、何か動かなくちゃって、そう思ったんだ」

 まとまらない思考をそのまま垂れ流す。

 何も考えられない。

 胸の真ん中にぽっかりと、真っ白いブラックホールが渦巻く。

 そいつが全てを巻き込み、吸い込み、“神薙旭”を危うくする。

「守られているだけなんて出来なくて、だから俺も力にならなくちゃって……。それで……だから! ……その」

 と、そこで雷華が席を立った。

 完全に旭を無視したまま、食堂の出口へ向かう。

「らい…………、土方ッ!」

 その後姿に、その肩に、思わず手を差し出しかけてその手はそのまま宙を彷徨う。

 時雨は三歩前で止まった。

 その背が語る。

「つまり貴方は、守られることが、いえ、それだけじゃない。自分が誰かの下にいることが、どうしても、 どうあっても許せないのね」

「え?」

 雷華が語る。

「今まで、どうしても解らなかった。貴方はその年齢にしてとても完成している。どこにつけ入られる隙があったのか、それがとても不思議だった。でも、今、解った」

「…………」

 息を呑む。

 何も言えない。

 ただ聞き入る。

 魔術師が語る。


「それが貴方の"歪み"なのね」


 何も、言えない。

 言葉が出てこない。

 少女は淡々と続ける。

「敵は解った。もう、護衛は必要ないわ」

 淡々と、淡々と。

「敵は『催死鬼』、文月の魔術師よ。暗示の埋め込みを繰り返すことによって対象を精神死させる、暗殺の魔術使い。だから、貴方が直接襲われる可能性はもうゼロになった」

 雷華は背を向けたままそれだけ言うと、再び歩き出す。

「今日は帰るわ」


 しばらく別行動にしましょう、と。

 彼女はそのまま出入り口の奥へ消えていく。


「……あ、」

 静かに遠ざかっていく足音。

 見慣れた我が家に漂う孤独の香りが、鼻の奥によくしみた。





 ……。

 …………。

 ………………。

 また視点が飛んだ。

 今度は小五の頃のようだ。自分の周囲にはランドセルを背負った連中がぞろぞろとどこかへ向かって歩いている。旭も歩いている。ランドセルを背負い、似たような背格好となって。

「今日は休み時間なにする?」

 生徒Aが言った。

「今日もサッカーにしようぜー」

 生徒Bが応じる。

「げー、またかよ。今日は缶蹴りにしようぜ」

 生徒Cが反論する。

 騒がしく話しあうガキども。本当に楽しそうに騒ぐ。うるさい。朝ぐらいもうちょっと静かに出来ないのか 。うざい。だまれ。よるな。

「なぁ神薙、お前もたまには入れよ。入れてやるからよ」

 生徒Aが戯言をぬかした。

 旭はそちらを睨んだ。

 どれも同じに見える顔が、一様に引きつる。睨まれた程度で情けない。

「群れてんじゃねーよ。キモいんだよ、お前ら。話しかけんな」

 群れが旭から距離を取る。

 声が聞こえる。ヒソヒソ、ヒソヒソと。

 ウザイ。イライラする。文句があるなら正面から言えばいいものを。

 ヒソヒソ、ヒソヒソ、ヒソヒソ。

 その声に嫌気が差して、

 勢いよく後ろを振り返ると、再び視点が飛んだ。


 今度は中三だ。体には防具がついている。手には竹刀。目の前には大学生大の男。

 あの時か、と旭は思う。

 戯れでやっていた剣道部。OBだとかでやってきた大学生が試合(ケンカ)を吹っかけてきたのだ。 生意気だから揉んでやる、なんて思い上がった勘違いを吐いて。

 眼前の相手には面の隙間から余裕の笑みが見える。

 旭は竹刀を振るった。

 試合は秒単位で決着した。

 雑魚だった。少なくとも、大学レベルなんてこの程度かと失望させるくらいには弱かった。

 面を取ると、部の連中が近寄ってきて周囲を囲む。

「やっぱ神薙はスゲェな。ま、オレは最初から勝つって信じてたけどな」

 部員Aが言う。

「ウソつけ。さっき大学生相手じゃ、流石の神薙も分が悪いとか言ってたじゃねぇか」

 部員Bがツッコミを入れる。

「すごいすごい。やっぱり神薙君はすごい人だ。大学生かぁ。僕、なんか尊敬しちゃうなー」

 部員Cが賞賛する。

 ウザイ五月蝿い群れるな黙れ。俺がこいつに勝つなんてのはごくごく当たり前の事だ。そんなことでいちいち騒ぐな恥ずかしい。

 群がる周囲に軽く一礼してその場を立ち去る。

 道すがら、片膝をついていかにもな体勢で悔しがっている男と目が合った。あまりにもその姿が滑稽で、思わず鼻から笑いがこぼれた。

 歩き出す。

 群れから離れる。

 そして群れから声がする。

 ヒソヒソ。ヒソヒソ。

「んだよあいつ。強くてもやっぱ感じ悪いよな」

「昔に比べれば随分大人しくなったんだがな。ほら、あいつのじいさんが死んでから。ま、それでも やっぱり根本的なところでは変んねぇみたいだが」

「うん。確かに神薙君て怖いよね。尊敬はするけど、やっぱり好きにはなれないなぁ、僕」

 他にも、たくさんの人とその声がする。

 ヒソヒソ。ヒソヒソ。ヒソヒソ。

 ヒソヒソ。ヒソヒソヒソヒソ。ヒソヒソヒソヒソヒソヒソヒソ、ヒソヒソヒソヒソヒソヒ。ソヒソヒソ 。ヒ。ソヒソ。ヒソヒソ、ヒソヒヒソヒソ、ヒソヒソ、ヒソヒソ。ソヒソヒソヒソヒソヒ、ソヒソヒソヒ ソヒソヒソヒソ、ヒソヒソ、ヒソヒソ。ヒソヒソヒソヒソヒソ、ヒソヒソヒソ。ヒソヒソ。ヒソヒソ。ヒ ソヒソ。ヒソヒソ。ヒソヒソ。ヒソヒソ。ヒソヒソ。ヒソヒソ。ヒソヒソ。ヒソヒソ。ヒソヒソ。ヒソヒ ソ、ヒソヒソ、ヒソヒソ。ヒソヒソ、ヒソヒソ、ヒソヒソ。


 止めろ。やめろ。ヤメろッ!


 五月蝿い、気持ち悪い、鬱陶しい。ほっとけよ。勝手に寄ってきて勝手に失望なんてすんじゃねえ。他人は俺を自分勝手だ自己中だとわめく。それはお前らの方だ。俺は俺の思うようにやっているだけ。それだって他人を巻き込まないように最大限の努力をした上でだ。実質、誰かに迷惑をかけたことなんて一度だってない。

 ヒソヒソ。ヒソヒソ。ヒソヒソ。

 やめろ。俺を見るな、俺を語るな、俺を削るな。だいたい手前ら全員勝手なんだよ。人(おれ)の気も知らないで、人(おれ)のことを知りもしないで、知ったような口をきくんじゃねぇよ。皆ほっとけよ。独りにさせろよ。群れてんなよ。キモチワルイ。弱さを数で誤魔化してんじゃねぇよ。

 群れるのは弱いからだ。

 本当に強い奴は群れない。知ってるんだ、本能で。本当に強い奴は群れる必要なんてないんだ。群れるのは自分の弱さの証明だ。

 統率者は群れない。大勢の中に在りながら常に独りだ。それが求められた姿なんだ。トップが自分の弱さを見せたら組織は立ち行かない。

 群れるのは弱いからだ。

 声に出す。

「そう、俺は独りでも大丈夫だ。お前など……」

 眼前の鏡が、“神薙旭”が、

「お前など必要ない!」

 叫ぶ。

 その声に、体が竦んだように動かない。

 金縛り。

 鏡の奥から手が伸びる。

 動けない。

 “自分の手”が自分の首へ絡みつく。


 どんなに力を入れても、どんなに足掻いても、内臓以外は動かない。

 その“手”に力がこもる。

 思考が働かない。

 体が動かない。

 首を持ち上げられる。

 来る。力が。逝く。闇へ。死ぬ。いやだ。意識が、くるしい、だれか、おれが、たすけ、じりきで、こえが、くるな、たすけて、いかないで、呼んでる。おねがい、誰?


 かあ、さん。


 くる、しい。

 呼んでるのは、呼んでるのは、誰?

 こうして、虚像は実像を喰い潰す。

 そうして、架空は事実とその認識を挿げ替える。






〔幕間〕



 『それ』はひとりの人間と出会った。その人間は暗殺対象の子だったが、対象とは不仲だった。にも拘らず、その人間は対象の死を悲しんでいた。『それ』にはその人間の感情が理解できなかった。実感できないまでも、表社会に紛れ込んだり、暗殺に利用できる程度には感情を解していた『それ』には、しかしその人間の感情は全く解せないものだった。

 だから『それ』は任務とは関係なくその人間に話しかけた。その行為は決して『家』の命に反するものではなかった。幸い、『それ』の殺し方は同類以外に犯人を特定することは間違いなく不可能なものだった。一般的に言われる、『仲良く』なるのは容易いことだった。親が死んだことでその人間は無意識に精神の安定を求めていたし、相手望んだ言葉を吐くことのできる『それ』は誰とでも『仲良く』なることができた。

 その人間との会話は『それ』にとって興味の尽きないものだった。決して数は多くないが、それでもたくさんのことを『それ』と人間(かのじょ)は話した。そのひと時は『それ』にとって不思議な感覚をもたらした。『それ』はその感情を理解できなかった。知識と、実感を、結び付けられなかった。そうした心地よい戸惑いを胸に、『それ』は時を消化して行った。

 だが、その不思議な感覚を知らなかったが故に成立してた『それ』と人間(かのじょ)の生活は、確実に破綻し始めていた。





「…………ぎ」


 だれだ。


「…………ん薙ッ!」


 体を揺すられている。


「…………神薙ッ!!」


 誰かが旭の名を呼びながら体を揺すっている。

 駄目だ。頭がもうろうとして返事を返す事が出来ない。

 もう、だいぶ前からずっと呼ばれている気がする。

 何度も、何度も。

「……神薙ッ!!」

 何度でも、何度でも。

 名を、旭の名を呼ぶ。

 切迫した声で呼ぶ。戻って来い、とでも言うように。悲哀のこもった声で呼ぶ。懇願でもするように。戻って来て、とでも言うように。

 あいつの声が自分を呼んでいる。

 返事をしなくては。俺は大丈夫だと、言ってやらなくては。

 お前のそんな声は聞きたくない。お前は俺の前でしゃんと背筋を伸ばして立っていればいい。目標物のくせにちょろちょろと動きやがって。振り返られて、その上手など差し伸ばされては俺が惨めなだけだ。

 言ってやらなくてはならない。

 しかし、それなのに体は動かない。

 目は開かず、呼吸は荒く、息は苦しい。指先がギリギリ動く程度だ。

 それでもさっきよりは徐々に力が戻りつつある。

 必死に指先へ力を込める。

 するとどこかから息を呑む音が聞こえた。

「神薙?」

 ひんやりと手が首筋の頸動脈に当てられる。

 手の冷たさが自分の温かさを思い出させた。

 誰かが、確かに、そこにいる。

 そいつに、返事をしなくてはいけない。

 ドクンッ。

 ひとつ。大きな鼓動が旭の体に血を通わせた。

「う、あ」

 声が出た。

「神薙! 起きて、お願い!」

 指が、そして手が動いた。

 体を起こす。瞼が光に怯む。しかしそれも一瞬のこと。ゆっくりと、辺りを探るように、瞼を開けた。

 その先に見たのは、至近距離に迫る雷華の顔だった。

 動き始めていた頭が、再び一度に停止した。固まってしまった旭を見て、安心しかけた顔が再び情けない表情になる。

 至近距離のまま、旭の頬をぺしぺしと優しく叩いてくる。

「大丈夫? 意識ははっきりしてる? 私が分かる? それで、あの、大丈夫?」

 ぐっと迫って、そんなことを言ってくる。

 そして今更、時雨って綺麗な顔してんだな、と思った。生まれて初めて、人間にそんな感想を持った。

 復活したばかりの肉体は今度は激しく脈を刻む。顔は熱く、燃えるような痛みさえ伴う。止まった頭は変な方向へ暴走を続ける。

 ……大丈夫? えっと、その……なんか大丈夫じゃないな、これ。なんだ? 雷華の顔が近くて、それが綺麗で、それでなんか顔が熱くて、心臓がヤバくて。それで、えっと、その、だから……。

「綺麗だなぁ」

「……へ!?」

 ダメだ。思ったことをそのまま口にしてしまった。これではまるでナンパじゃないか。それもかなり斬新なヤツ……。

「いや、だ、大丈夫。うん大丈夫。だいじょうぶだいじょうぶ」

 旭は伝えるべきことを急いで言葉にした。大丈夫じゃない、と。思っていたことがそのまま口から出そうになって慌てて「大丈夫」を連呼する。そして、

「うん、大丈夫だから。その、……顔。ちょっと近いから」

 そう言って雷華の美しい顔を手で優しく押し返す。申し訳ないような勿体ないような気がしたが、これ以上は心臓に悪い。

「え、あ、ごめん。そうだよね。あはは、変だよね。うん」

 そう言って雷華はベッドに乗り出すのを止め、脇へ立った。

 それでも旭の胸はドキドキしたままで、まるで落ち着かない。

 恥ずかしいとも、こそばゆいとも違い、居心地が悪く、心地よいとも言える不思議な感覚。この感覚がわからない。

 知識と実感が結び付けられない。

 そんな中、少し落ち着いた雷華が話しかけてくる。

「それで、本当に大丈夫? 意識ははっきりしてる? 痛む所、ある?」

「あ、ああ。大丈夫だ。それより、なんでここに雷華、が……ぐッ」

 起き上がろうとした瞬間、首筋に激痛が走った。

 脊髄を折られたと錯覚してしまうほど、即死を喚起させる痛みさえも凌駕したような痛み。

 首から下が麻痺し、力が入らない。ベッドから立ち上がりかけた体が支えを失い、浮遊感を得る。

 その落下する感覚に火照ったからだが急速に凍える。寒さは走った背筋を中心に全身を駆け巡り、全身麻痺と共に意識を蝕む。

 一瞬のことだった。故に、理解が追いつかない。

 その間も痛みは手を休めることはない。全身麻痺でさえ、この痛みを奪ってはくれない。

 視覚に暗闇がちらつく。意識が朦朧とする。いつの間にか体は床へ。そんなことでさえ認識している余裕が無い。どこかで呼ばれる声がする。返事を、返事をしなくてはいけない。

 ……でも、とても眠い。

 痛みも、麻痺も、寒気も、どれも未だに体を蝕み続けるのに、精神が睡眠を要求している。永い眠りを要求している。

 ……眠、い。

 雪山で危なくなると眠くなるって本当なんだな、と。どうでもいいことを考えてしまう。

 ……いたい。

 痛い。

 ……さむい。

 寒い。

 ……ねむい。

 眠い。

 眠れば、寝てしまえばこの痛みから永遠に開放される。

 なら寝てしまえばいい。こんなのばかり。こんなのはもうイヤだ。俺はよく耐えた。俺だからここまで耐えられた。もう、いいじゃないか。俺が死んだからって、誰も困りやしない。悲しむべき人は、もうどこにも居ない。

 虚しいもんだな、と旭は呟く。あれだけ精一杯生きて、苦しい思いをしても、死ぬ間際には思い出すべきものも無い。

「……、…………ッ!」

 どこからか声がする。

 雷華には悪いことをした。だがまあ、あいつなら何とかするだろう。惜しむらくは、こんな事になるのだったらもっとちゃんと謝っていけば良かった、と。思い残すことがあることだ。どうせならきっぱりすっぱり未練なく、虚しく儚く美しく、散っていきたかった。

 声がする。

「……! ……神薙、神薙寝ちゃダメ!!」

 必死な声だった。

 ……誰も悲しまない、か。


 雷華は、あいつは悲しんでくれるだろうか。この、第一印象と壮絶に矛盾する中身を持った魔術師とか言う変な生き物は。この、『あの時』以来初めて本気で付き合った人間は。この、ひとりの綺麗な少女は。少しでも自分の死に心を動かしてくれるだろうか。

 目覚めた瞬間の、雷華の顔が思い浮かんだ。

 …………。

 先ほどの不思議な感覚が、再び痛みに苛まれる旭を支配した。

 胸が熱い。

 心臓が、鼓動を刻む音を聞いた。

 ……『熱い』。

 そうか。

 ドクン、と。

 熱い。

 ドクン、ドクン。

 胸が、熱い。

 そうか。そうか。そうか。

 了解したよ、神薙旭。


 ……俺の墓場はこんな所じゃない。


 痛み?

 我慢すればいい。

 麻痺?

 気持ちの問題だ。

 寒さ?

 もう寒くない。

 精神論?

 魔術師とはもともとそういう相手だったはず。

 全てはこれまで通り。

 なにを恐れることがある。

 神薙旭、お前にはまだまだやるべき事が残っているだろう。

 こんな所で寝ている場合などではない。

 瞼の裏側、虚無の暗黒。その中心で、

 大声で叫ぶ。

「起きろ! 神薙旭ッ!!」

 その声が、心と魂を強く振るわせた。





 そっと目を開けると、雷華に上半身を抱きかかえられていた。

「…………っ」

 彼女がはっ、と息を呑む。

 体の痛みは引き、意識も思考もはっきりとしている。

 それに答えるように、旭は言う。

「大丈夫。今度こそ、本当に大丈夫だ」

 自然と、本当に何気なく笑みをこぼした。

 その笑みに、雷華は安堵のため息をこぼした。

 その吐息が顔にかかる。

 なぜか、再び鼓動が激しく鳴り出した。例の不思議な感覚、旭を助けたあの感覚だった。

 途端に顔は火照り、とても居心地が悪く、はないのだがとてもじゃないがこのままの体勢ではいられなくなった。言葉にすれば、恥ずかしい、というのが最も近い。

「……雷華、そろそろ放してもらってもいいか?」

 頭上の少女へ、あくまで冷静に努めて言う。

「え? あ、そうよね。いつまでもこんなじゃ変、だよね」

 雷華が慌てて旭から飛び退く。開放された旭は起き上がった。

 体に異常がないかを確かめながら、ゆっくりと。そして、

「よし」

 異常が無いのを確認すると、雷華へ向き直る。

 ベッドの脇に腰掛けながら、脇へ立つ彼女に向かい、

「それで、なんでこんなことに? いや、その前になんでお前が……」

 今のゴタゴタでつい一瞬前まで忘れていたが、そういえば雷華は家へ帰っていたはずだ。

 彼女は立ったまま片足重心を取って手を後ろに組み、言いづらそうに気まずい表情を取った。

「時間」

「え?」

「今の時間。今、何時だか分かる?」

「そんなもん、当然……」

 朝、旭の意識が目覚めるのは決まって六時。それでその後のゴタゴタを含めれば六時半、いやもう少しかかったか。だとしても7時ま、え……?

「あれ? おいおいおい」

 それにしては体が随分重い。影夢の影響などではなく、この感覚は寝過ぎた時に感じる特有のダルさだ。

 意識と身体の感覚が噛み合わない。

 体内時計が狂っている。

 焦り部屋の掛け時計を見やる。

 時計の針は、午後一時四十四分を指し示していた。

「な、っ」

 確認するまでも無く、見る必要さえなく、窓からは正午過ぎの太陽の光。

 つまり、これらが意味することは、

「貴方が学校に来ていない事に、私も最初は気づかなかったの。やることがあったから、学校へは行っていたけど授業には出てなかった。でも、二時間目が終わって、まだ貴方が来てない事に気が付いた。だから――」

 過去、旭は学校を欠席はおろか遅刻もしたことはない。偶然にしては出来すぎていた、ということか。相変わらず勘が良いと言うかなんと言うか。

 しかし、何にした所で彼のすべき事はひとつだ。

「そうか。ありがとな、雷華。おかげで助かった」

 当然のこととして、その言葉が口からこぼれた。

 だというのに、彼女は弱々しく首を振る。

「違う。そうじゃない。お礼を言われるような事なんて何もしてない」

 弱々しく、言う。

「完全に、私の読み違い。貴方は、私のせいで危ない目にあった。協力者、失格よ」

 あの雷華が、こちらの目も見ずに視線を下げて呟いた。

 それを見ていたら、無性に腹が立ってきた。

 それがたとえ不意打ち紛いの戦闘だったとは言え、自分と互角以上を見せ付けた相手の姿かと思うと、腹が立たずにはいられなかった。それ以外の感情は無いはずだ。それ以外など、旭には思いつかない。

 感情のままに呟く。

「……困るぜ」

「え?」

「そんなんじゃ困る」

「…………」

「お前、俺を守るんだろ? ならもっとしゃきっとしろよ。この俺を守るなんて大見得切ったんだ。相応のものを見せてみろ」

 雷華は呆然と、旭の言葉を聞いている。

「有言実行、言ったからには守れよな。魔術師は言葉を大切にするんだろ?」

 座ったまま、右手を差し出した。

「ええ、……そうね」

 彼女はその手を取った。

「よっ、と」

 握手を交した手を引っ張ってもらい、旭はベッドから立ち上がる。

「さて」

 雷華の前を横切り、タンスから制服のワイシャツを取り出す。

 それを見た雷華が素っ頓狂な声を上げた。

「なに、してるの?」

「なにって、見りゃ分かるだろ」

 というか他になにがある。

 ワイシャツを広げて見せて言う。

「遅刻だ遅刻。急いで学校行かなくちゃな」

「な、……」

 絶句する雷華。しかし呆然としたかと思うと、すぐさま近寄ってきた。そして、

「ごふぅ!?」

 腹を殴られた。間髪を入れずに胸倉を掴まれる。

 締め上げられ、鋭い眼光で突き刺される。

「ねえ、あんた自分の置かれてる状況、理解してる?」

 恐ろしい形相だった。

 だが、その時の雷華の瞳に映る顔はとても静かな顔をしていた。

「ああ。もちろん、しているつもりだ」

「それでも、学校に行くの?」

「ああ、それでもだ」

 一拍の間があって、少し手の力が緩んだ。

「理由を、聞いてもいい?」

「……。お前は、俺を歪んでいると言った。他の奴にも、似たようなことを言われた事がある。だけど、俺にとってはそれこそが俺なんだ」

 これまでの、激情に任せての反発ではない。神薙旭を、神薙旭として見た冷静な答えだった。

「俺は誰にも負けないし、負けられないんだよ」

 雷華の手はすでに、胸倉を掴むだけになっていた。締め上げるような力はもう無い。

「敵に背は向けられない。ここで休めば敵の思うツボだ。虚勢で構わない。俺はここに居ると、まだ膝を屈していないと、示さなければならない」

 しっかりと、瞳を見据えて言う。

「だから、これから学校へ行く」

 すると時雨は胸倉を掴んでいた手をぱっと放し、

「……雷華」

 安堵のため息をついた旭の腹へ、再び拳を叩き込んだ。

「うぐぅ!?」

 そして、何事も無かったかのように穏やかな声で言う。

「貴方がそこまで言うのなら、いいわ」

 そうしてどこか投げやりな感じに勢いよくベッドの脇へ腰掛ける。

「予定は少し狂うけど、誤差の範囲だしね」

 足を組み、つっかえ棒にした腕に体重を預けて「う~ん」と伸びをする。

 どうやら今の一発(二発?)で学校へ行くのは承諾したらしい。

 腹の痛みを我慢しながら勉強机へ向かった。必要なものを取り出し、不必要なものを仕舞う。

 いつもなら夜のうちに済ませておくことだが、昨日はとてもそんなことをしている気分ではなかった。

 学校鞄を用意し終わると、次にクローゼットを開ける。

 すると、後方でベッドに腰掛けたままの雷華が驚きの声を上げた。

「どうした?」

「どうしたって、どうかするわよ。それ」

 振り向くと、彼女はクローゼットの中を指差していた。

「ああ、これか」

 取り出す。

「だってそれ、防弾チョッキよね?」

 ズバリ、だ。だけど、

「別にお前にとっては珍しくも無いだろう」

 命のやり取りを日常にする連中だ。しかも雷華はどう考えても暗殺などの類ではなく戦闘要員。むしろ今現在コレを装備していても不思議ではない。

「いえ、ちょっとした事情で神無月にとってはむしろそういったものは珍しいの」

「ふ~ん」

 ……ちょっとした事情、ね。

 どうせ突っ込んでも教えてもらえないのだろう。雷華が話をぼかす時は大体そうだ。疑問に思ったほうが負け、といったところか。

 当の雷華はというと、そうか、防弾チョッキか。と、なにやらひとりで頷いている。

「ていうかなんでここに防弾チョッキ?」

「ん? ああ、高校に入学するときに叔父がな」

 思わず肩をすくめる。

「そういう危険のある身分だということを自覚しろってことらしい」

 防弾チョッキをクローゼットに戻す。

「さすがに実際着た事はないがな。それとも着ておいた方がいいか?」

「いえ、敵は貴方にあくまで『偶然』突然死してもらわなければいけないはずだから、そういうのは別に……」

「そうだったな」

 今度こそブレザーを取り出し机の前へ戻る。

「す、素敵な贈り物ね」

「激しく同意する。送り主も野心家でファンキーなおっさんと、なかなか素敵な人だぞ」

「……あ、あはは」

 渇き気味の笑い声。

 まあ、あのおっさん――拓也さん――のことを言葉で伝える事は、永遠に人類では叶うまい。

 と、やるべき事が残りひとつになってしまった。

「……さて、と」

 旭は寝間着用のスウェットの上と、その下に着ていた汗まみれのタンクトップを同時に脱ぎ始めた。……雷華が同じ空間のすぐ後ろにいるにもかかわらず――。

「ちょ、ちょっと!?」

 非常に男らしい、筋肉質な上半身が露わになってようやく、旭は雷華の存在を思い出した。一人暮らしに慣れていたこともあり、着替える際に周囲の状況を窺うことを失念していた。

「あ、すまん。うっかりしてた。……まずかったか?」

 ベッドに座ったまま、真っ赤になった顔を手で覆う雷華。

 男子の部屋に女子がいて、片方は半裸。傍から見れば完全に『そういうシチュエーション』だった。勘の良い雷華は絵面の特殊性にすぐ気づいたが、旭の方は全く気付いていない。それが、雷華には無性に腹立たしかった。

「べ、別にまずくはない……はず、だけど。貴方、私のこと何だと思ってるの? 私だって一応は年頃の女の子なんだからね!?」

 女としてのプライドを傷つけられたような気がした雷華は、照れと怒りを両立させて声を荒げる。

「わかってる」

 しかし、彼女の怒りはすぐにかき消された。

「雷華は、ちゃんと女の子だ。たぶん、俺が今まで会ってきた女の中で、一番綺麗で美しくて可愛いと思う……」

「~~~っ!」

 あまりにも真っすぐな声と真剣な表情で言われたため、先程まで存在していた怒りは完全に無くなる。そして嬉しさと恥ずかしさだけが残り、何も言えなくなってしまう。

「き、急に褒め殺しなんて、どういうつもりよ! この女たらし! 魔術師にそんなお世辞が通じると思ってるの!?」

「お世辞なんかじゃねえよ。紛れもない本心だ。それに、お前には嘘をつきたくない」

「な……っ! もう黙ってて、この変人!」

 「お前には」という部分に多少、いや、かなり引っかかったが、精神的なダメージを考慮した雷華は戦略的撤退を選び、顔を真っ赤にしたまま部屋を飛び出していった。





 旭は雷華と共に歩く。

 朝夕の傾いた日ではなく、完全に昇った包み込むような光。その光に照られてた白い紅葉を視界の端に、二人は学校を目指す。穏やかな秋風が頬を撫で、落ちる葉同士が心地よい音を生み出す。

 その音をBGMに、二人は言葉を交すこともなくのんびり歩いていく。

 旭は時折痛む首筋を庇いつつ、落ち葉の声に耳を傾ける。雷華の脇を歩く。

 突然、雷華が静かに口を開いた。

「肉体と精神は互いに連動し合い干渉し合う。肉体の負った傷は精神を傷つけ、精神の負った傷は肉体を傷つける」

 視線が合う。

「精神の死は肉体の死を意味するわ。憶えておいて、神薙。目に見えない以上に不確かな存在(もの)だけど、魔術は確かに存在する。侮っては、駄目」

 旭は口をへの字に曲げて頭を掻く。

 何もかも、お見通しってことらしい。

 今度は隠さずに、堂々と肩を揉む。ため息に笑みを混ぜて言う。

「いいのか? それ、魔術の仕組みだろうに」

「これくらいならね。それに……」

「それに?」

「……いえ、なんでもないわ」

 再び沈黙が降りる。

 風が吹き、赤と黄が舞う。雷華の長髪が揺れている。首は前を向いたまま、横目で彼女の顔を盗み見る。

 艶やかな黒髪がなびいている。凛とした顔はただ前を見据えている。それを見て、ただ美しいと思う。

 胸がまた、首とは全く違う痛みをもたらす。

「雷華」

 外気は張り詰めた寒さをもたらすのに、背筋には冷や汗にも似たものでじっとりと濡れている。

「ん?」

「……え、あ、いや」

 無意識に呼んでしまったらしい。

 慌てて話題を探す。

「あ、いや、名前。そういややっとフルネーム以外で呼んだなって」

「? そうだっけ?」

「じ、自覚症状は無いのか?」

「いえ、まあ、……そう言われてみれば、そうかも」

 ……無いらしい。

「く、くくく」

 なんだか無性に笑えてきた。

 拳で口元を押さえるも、笑いは止まらない。

「あははははは」

「な、なによ。バカにしてるの?」

 雷華が少し怒ったように言う。

「いや、別にバカにはしてないって。ただ、ただ少しだけ愉快に思っただけだ」

 そう言って旭は、腹の中で笑いの余韻を転がす。

「なによそれ」

 雷華はとうとうふくれっ面になってしまった。

 旭はふと、真面目な顔に戻って言う。

「だいたいな、お前のその『神薙旭』ってやつ、気に入らねぇんだよ。お前は俺を見ていない。お前は俺という肉体を介して“神薙旭”という存在しか見ていなかった。人を概念でしか捉えないんだ、お前は。そいつは俺であり、しかし俺はそいつじゃない。必要条件であって十分条件じゃないんだよ。意識的にしろ、無意識的にしろ、お前にはそう言った側面があった。そんな奴に俺は“俺”を認めさせた。俺はお前の中で“神薙旭”という記号から神薙旭という人間になった」

 笑う。

「こんな愉快な事があるか」

 横を見れば時雨がぽけっとしていた。

 その表情からは思い当たる節があるのか無いのか、判断は出来ない。

 思い浮かんだ言葉を特に吟味することなく口にする。

「今はまだ、神薙という一族の総称だが、いつか必ず、お前に俺自身――旭――を認識させてやる」

 特に何も考えずに口にしたが、言ってみると思った以上に頭と胸がスッとした。

 見れば、雷華は俯いてしまっている。

 微妙に、頬が赤くなっているような気がした。

 それに気が付いた瞬間、今度は旭の顔も火照ってくる。

 ……俺、なんか変なこと言ったか?

 沸騰した頭でぐるぐると考えること数分。例の奇妙な雰囲気が旭を包んでいた。

 お互い、何を言うでもない時間。それでいて相手の存在を確かに感じ取れる不思議な矛盾。居心地がよく、それでいて気まずい。紅葉の赤のせいか、冬も目前のこの時分にもかかわらず、旭はこの空間をとても暖かだと感じた。

 落葉を踏む二人の足音が静かに耳へ響く。

 ふぅ、と意味もなきため息をひとつ。学校が見えてきた。休み時間らしく、遠くから賑やかな喧騒が聞こえてくる。この静寂とも、もう少しでお別れだ。少し寂しく思うのに、口元からは笑みが漏れた。

「あの、さ」

「なに?」

 雷華が答える。

 旭は校舎を見上げ、

「今回の件が終わったら、さ。どっかのケーキ食べ放題でも行かないか?」

「え?」

 びっくりしたような声を出す。よほど驚いたのか、声が裏返っている。

「そういうの、やってる所があるんだよ。どこかのホテルなんかのさ、行かないか?」

「…………」

 今度は黙ってしまった。特に他意の無い思い付きだったのだが、そこまで驚かれると逆に尻込みしてしまう。

「なんだ、都合悪いか?」

「…………」

 雷華が困ったように眉尻を下げて黙り込むこと数秒。彼女は小指を立てて、手を差し出してきた。……ひどく固い表情で。

 旭も同じように小指を差し出すと、雷華の方から指を絡めてきた。

 ゆびきり。

 その指のしっとりとした感覚に、旭はまたあの感覚に囚われた。

 ドキドキする。

 そんな旭を他所に、

「約束。いつか、いつか必ず行きましょう」

 雷華は幼く笑った。




〔第四章〕



 校内に入ると、すでに昼休みも中ほどまで終わっていた。

 雷華と共に玄関口を通り、賑わう校内を進む。階段の踊り場で談笑する女子生徒たちを尻目に、廊下でじゃれあう男子生徒たちを尻目に、二人は無言で教室を目指す。

 ここはすでに戦場であり、どちらかと言えば敵の領域。旭にとってはライフルを構えた狙撃手の前に、なんの遮蔽物もない場所へのこのこやって来たに等しい。

 しかし、そうと解っていても。いや、解っているからこそ、やらねばならない。精神が左右する戦いだからこそ、戦場と理解してなお躍り出てくるくらいの強さを――虚構で構わないのだ――敵に、なにより自分に認めさせなければならない。

 神薙旭は強い。強いんだ。

 弱さなど持ち合わせていない。

 教室の前へたどり着くと、一度だけ雷華と目を合わせる。

 二人だけに解るように、浅く、そして力強く、お互いに頷いた。

 旭は踵を返し、自分のクラスへ向かう。

 雷華も教室へ入っていくのが音と気配で分かった。

 自らも扉へ手をかける。その時、

「お、いたいた。おい神薙」

 狙いすましたようなタイミングで仙波が話しかけてきた。

 出席簿を小脇に抱え、なにやら茶封筒をひらひらさせながら近寄ってきた。

 教師が職員室を出るには早すぎる。次は特別教室での授業だろうか。

「ほいコレ」

 そうこう考えている内に、旭の前に茶封筒を差し出してくる。

「? なんですか、これ」

「あら? 渡せば分かるって言われたんだがなぁ」

 困ったように頬をかく仙波。

「どなたからですか?」

「いや、お前の親戚を名乗る奴からだ」

 ……拓也さんだろうか。

「どうしても緊急にって言うからな。本当ならこんなことは教員を通すべきではないと思うんだが」

 そう言って仙波は一度言葉を濁し、「まあなんだ、お前には神薙グループの事もあるし、な」

「…………」

 旭が神薙グループの大株主であると言う事を知る者は少ない。恐らく、例の神薙のコネの筋から聞いたのだろう。

 封筒を受け取りながら、仙波に礼を言う。

「有難うございます。とにかく中を見てみます。何か忘れている事があるかもしれませんので」

 そんなものがあるとも思えなかったが、ここ最近慌しかったのは事実だ。グループ内の緊急な動きを察知し損ねた可能性は無いとは言い切れない。隙あらばこちらのカードを奪っていこうという連中ばかりなのだ。警戒が足りない事こそあれ、警戒しすぎと言う事はあるまい。

 封筒を受け取ると仙波はニッコリと笑った。

「ま、お前もたまには遅刻くらいはしておけってこったな」

 そう言って歩き出し、すれ違いざまに肩を軽く叩かれた。


 ズキン。


 ……ぐぅ。

 声は、出なかったと信じたい。

 今朝の首の痛みが再び亮を襲った。目を強く閉じ、深く息を吸う。心を強く持ち、手にした封筒を開封する。

 閉じられた口を細く破る。中から出てきたのはA4の印刷用紙だった。

 嫌な予感がした。

 広げる。

 まずい。

 内容は短く、たったの一文。

 見るなっ! ――もう遅い。

『やがて影は夜の始まりをもって実体を持ち、実像は闇に埋れてその実体を見失う』


 ガタンッ!


 廊下の壁に体がぶつかる激しい音が昼休みの喧騒の中に吸い込まれていく。

 力の入らない、痛みと寒さに蝕まれた体。その体を壁に預けると、壁がずるずると背中を滑っていく。ついには床にへたり込み、旭はうなだれた。

 痛い、寒い、苦しい。

 周囲を見渡せば誰もこちらの様子には気づいていない。

 仙波も姿を消している。雷華もいない。そのことが旭にとって、痛みよりも、寒さよりも、苦しさよりも、まずありがたかった。

 特に雷華。彼女には、自分の協力者である彼女にだけは、協力者だからこそ己の弱さを見せたくない。彼女が背を任せられるような、自分は対等なものでなくてはならない。

 そのことを考えると胸が苦しくなる。影とは全く関係の無い所で痛みを感じる。

 理解できない。理解できない。理解できないっ。

 もどかしくてむず痒くて息苦しい。

 強く。強く息を吐く。

 とにかく、いつまでもこうしているわけにもいかない。こうしていれば、遅かれ早かれ誰かに気づかれる。

 幸い、痛みは幾分引いていた。

 立ち上がる。

 扉に手をかけ、スライドする。

 今だ喧騒の中にある教室へ入ると、小さな違和感を覚えた。

 痛みを飲み込んで席へ向かう。

 トリオに挨拶され、小さく頷いた。

 違和感の正体に気づいたのは五時間目が始まって出席を確認している時。それは、いつもいるはずの瑠夏の姿が無かったためだった――。





 帰りのホームルームが終わり、仙波が教室から出て行くのを見送ると、旭は手早く荷物をまとめるとすぐに席を立った。

 とりあえず、あれ以降敵の魔術らしいものは見受けられなかった。

 とにかく手紙の件や今日の予定などを決めるため、隣の教室へ行こうとして廊下に出た。すると、

「行くわよ。急いで」

「!?」

 速攻で雷華に捕獲された。

 手首を掴んで、お淑やかさなどカケラもなく、グイグイと旭を引っ張っていく。半ば以上引きずられるようにして廊下を進む。

 登校中妙に可愛らしいと思えば今度はこれだ。どっちが素なのかと考えるとどっちも素っぽいところがどうにも手に負えない。やっぱり旭には雷華という人間が理解できなかった。かと言って、それが不快なわけではない。むしろこんな性格だからこそ、なんだかんだで人間嫌いの自分が今日までこれたのだと思う。

 周囲の注目を一斉に浴びながら、ずるずると引きずられていった。


 駆ける。

 校門をくぐり、並木道を尻目に、住宅街をすっ飛ばす。

 やがて駅前の通りが見えてくる。

 走りにはかなり自信を持っていたが、横に並ぶ雷華も輪をかけて速い。日本刀を二本も担いでいるのだから旭よりずっと負担がかかっているはずなのだが、彼女からはそんなものは感じられない。

 旭は今のスピードが限界ではないが、それは恐らく雷華も同じことだろう。

 学校を出る時にどこへ行くのかと尋ねてみれば、

「駅」

 と、とてもつもなく簡潔に答えられた。

 よほど急いでいるようで雷華はそれ以上を言わず、それ以降話しをするほどの余裕はなくなった。

 大通りを走り去り、駅の改札口まで差し掛かる。

「これ」

 一枚の紙を手渡される。

 通常の切符ではなく、少し大きめの長距離列車用の乗車券だ。

「こっちよ」

 間に合う算段がついたのか、あくまで早足だがそれでも歩いて雷華は旭の前を進んだ。旭はそれに無言で従う。

 『神薙駅』。

 首都の最果てに位置するこの地域の名を持った、この辺りでは最大の駅だ。多くの線を抱え、新幹線や寝台列車などの様々な列車が止まる。旭の姓と同じ名を持つのは決して偶然ではなく、神薙家自身が元々三財界とは関係なくこの地域に根を張る名家だからである。

 雷華についていくと、彼女はまもなく出発する新幹線に乗り込んでいった。

 行動の余りの突飛さに呆れつつ、旭も乗り込んだ。

 中に入ると雷華は手元の乗車券の数字と座席の数字を見比べていた。

 どうやら目当ての席が見つかったようで、雷華は席についた。

 旭も手元を見ると、彼の席は雷華の向かい側だった。

 周囲を見回すと席の埋まりはまばらで、都合四席あるこの一角もどうやら客は自分たちだけのようだ。

 座り、話しかける。

「雷華、今更驚きも不満も無いが、せめて行き先くらいは事前に教えろ」

「あら、そのわりには随分と不機嫌な顔をしてるわね?」

 隠していたつもりの感情が易々とばれてしまい、慌てて口元を手で撫で付けるようにして表情を隠す。

「あら図星? ホント、意外にウブっていうか単純ていうか」

「っ、」

 笑われてしまった。途端に顔が熱くなり、恥ずかしさが胸を締め付けた。

 旭は慌てて雷華の笑顔から顔を逸らし、窓の外の駅構内の風景へ意識を集中させた。

 肘掛にひじを置き、頬杖をついて再び口元を覆う。そっぽを向いてしまった旭を見て、雷華はますます笑みを深める。

 旭はそれを視界の端で感じ、腹立たしさを抱えた。しかし同時に、つい数日前までは彼女がこんな顔で笑う人間だとは思いもしていなかったことに、なんだか不思議を感じた。

「この間のお返しよ、お返し。……それと、そう、行き先だったわね」

 笑みを湛えたままではあったが、少しだけ真面目な顔に戻って、雷華は言った。

「『家』に、一旦戻ろうと思うの」

「……い、え?」

 ……イエ、とはつまり、あの家のことだろうか。

「うん。あ、といっても寝ぐらの事ではないわよ?」

 いや、寝ぐらってこのお嬢……。

 思わずツッコミを入れそうになった旭とは対照的に、雷華は至って真剣な口調で続けた。

「神無月の『家』。つまり『本家』、ね。総本山って言えば、貴方には解り易いのかな。そこに行くわ」

 それはつまり、魔術師の巣窟へ旭を連れ込むという事で、魔術を他人へ漏らす事をあれだけ嫌った雷華にしてみれば、それは果たして、一体どのような心境の変化なのだろうか。

 ……というか、俺はそこへ行っても本当に大丈夫なんだろうな。

 疑問は当然口を突く。

「俺をそんなところへ連れて行っていいのか?」

「…………」

 なにかを確認するかのようにその瞳に旭を写して、雷華は黙ったまま、なにやら厳粛に頷いた。

 旭は動く事が出来なかった。

「ええ。それに、家だけじゃない。貴方には魔術を理解してもらうわ」

 雷華の不敵な声だけが、脳髄へ響いた。列車が、静かに走り出した。


 列車が走り出して三十分。雷華の言い分に取り合えずは納得した。

 曰く、このままでは旭の精神は三日と持たず、それに合わせて敵も勝負を決めに来ている。魔術の理解は影夢の進行させるが、ここまでくれば一日や二日早くなろうが関係ない。ならば、こちらも勝負をかけるまで。明日までに決戦の手はずを整え、旭には万全を期すために対処法を授ける。といった内容だった。

 納得はしたが、これまであれだけ徹底して隠されていたものを今更教えられると言うのも、どうにも釈然としないものを感じる。

「しかし本当にいいのか? 魔術を習うことに俺自身の異論は無いが、それにしたって状況が急変しすぎじゃないか?」

 旭の言葉に、雷華は悲しそうに微笑んだ。

「うん。でも、これが私の考えた最善だから」

 少しだけ、二人の間には沈黙が下りる。

 ……なにか、俺の見えないところで色々な動きがあったんだな。

 旭はそう結論付けた。

「しかし、決戦、ということは敵が解ったんだよな? 誰だ。いや、どんな奴だ。やっぱり学校関係者なのか?」

 思いを口にすると、それに合わせて気持ちも昂ってくる。興奮が自分でも制御できない。

 黒板や空薬莢の件など、雷華の言うところの暗示の埋め込みには自宅を狙ったものだけでなく、学校でも平然と行われていた。つまり、敵は学校を出入りしていても不自然ではない人物である可能性が高い。

 留め金を外された憎しみが、相手を求めて体中をめちゃくちゃにしていく。

 あるいは顔見知りかもしれない。親父を殺し、そして自分をも葬り去ろうとしている人物が、もしかしたら、自分のすぐ近くに居たかもしれないのだ。

「まだ解らない」

 雷華が、冷静な声で言った。

 その落ち着きに、少しの苛立ちを覚えた。

 ……こいつ、随分と冷静というか、余裕があるな。

「まだ? どういうことだ。明日には戦う事になる相手なんだろ?」

 問い詰めるような口調になっていることを自覚しつつ、旭は眼前の少女の真意を測るために質問を続ける。

「…………」

 それでも、雷華は鉄仮面を落とさない。それが更に、亮の頭へ血を上らせる。

「おい。 聞いてんのかよ!」


 ガタンっ。


 雷華の日本刀が床に落ちて大きな音を立てた。そこで、旭はやっと席から立ち上がっている自分に気が付いた。

 少ない、といっても貸切ではない。周囲からの奇異の視線が痛い。

「う、く……」

 途端に頭が冷えた。まさに、冷水をぶっ掛けられたような感じだ。

 日本刀を元あったように立て掛け、席に着く。落ち着くために制服のネクタイを少し緩めた。

「すまん」

「落ち着いた?」

「ああ」

「じゃあ、説明するわね。学校に、ひとつ魔術を張るの。といっても私の魔術じゃないのだけれど」

 旭は頷く。

「要するにトラップね。明日、学校に居た私達以外の人間が、敵よ」

「……なるほど」

 落ち着いて聞けば、雷華の話は道理が通っている。

 あの程度で平静を失った自分が恥ずかしい。

 平時ではありえない自分の精神状態。自分は、いったい何を焦っているんだ。

「さて」

 雷華はパン、と手を軽く叩いた。ひとつ、区切りでもつけるように。

 彼女は浅く目を閉じ、そして開く。その瞳には鋭い光。ただでさえ鋭利な雰囲気を持つ彼女がより一層厳しさを増す。おそらくは彼女自身が自らに引いた線引き。その一線の先。魔術師としての神無月雷華。その魔術師が口を開いた。

「それじゃ、魔術講義といきましょう」


「まず最初に大前提を教えるわ。まず間違いなく神薙は誤解している、というより誤解させるように私たちが振舞っている魔術の本質を」

「?」

「始めに断っておくことはひとつ。我々魔術師にはファンタジー用語で言う所の『魔力』のようなものは存在しないってこと」

「言ってる意味が、よく解らんが……」

「つまり、『術(じゅつ)』だとか『術式』だとか『魔法』だとか、一般に人が認識している超常的な力なんてものは、一切無いってことよ」

「超常現象じゃ、ない?」

「そう。もっと噛み砕くなら、私は貴方と何の変わりも無い、カテゴリーで言うなら全く同一の人間、ということ。……そうね、魔術魔術と呼んでいるけれど、これらは『術』と呼ぶより『術(すべ)』と呼んだ方が本質的な意味でのニュアンスに近いわ」

 ガタン、と座席が揺れた。

「『魔術』、と我々が魔術を呼称する由来、というよりは意味ね。『魔術』という言葉が持っているニュアンスや意味、そしてなにより人が抱く認識を利用するため。魔術の本質は虚偽。魔術を『魔術』と呼ぶ事自体が、すでに魔術なのよ」

「待て、少し整理する」

 雷華は魔術は超常的な力の行使ではないといった。そして魔術師である神無月雷華と一般人である神薙旭は、魔術という考え(学問?)上では、全く同一の『人間』である、と。

 魔術は術(すべ)であり嘘であると言った

 魔術は魔術であるという嘘を使って超常的な力の行使であるかのように振舞っている。その行為自体がすでに、魔術と言う行為であると。

 段々と言っている事が形作られていく。バラバラだったピースが徐々に埋まっていく。そこに描かれた絵の形が、意味が、理由が、その姿を現していく。

 こういった言葉遊びのようなものは嫌いじゃない。

 しかし、そうなってくると雷華の見せた、あの日の屋上での加速が不可解だ。

 疑問を口にする。

「つまり、本当に細かいことを気にせず一言で言えば、嘘をつくことが魔術なんだな?」

「そういうことになるわね」

「じゃあ、お前のあの加速はなんだ? いや、敵の夢だって十分不可解だ。なぜ嘘をつくだけで、あんな事が出来る?」

 それは、と雷華が待ってましたとばかりに受け答える。

「魔術の根本は嘘をつくことだ、というのを前提にこれからの説明を聞いて」

 旭の問いには直接答えず、そう前置きしてから雷華は説明を始めた。それにちゃちゃを入れずに素直に耳を傾ける。

「魔術の行使における工程は大きく分けて三つ。

 『意思』、『概念』、『認識』。

 第一工程の『意思』は言葉のまま。魔術っていうのは案外、一般人でも無意識に使っているものなの。でもそれはあくまで無意識だから魔術とは呼ばない。つまり、魔術を行う第一工程は魔術を使おうとする積極的な思いや考えの事。

 第二工程が『概念』。例えば貴方は私の『枷壊術』を【加速】と『認識』したように、魔術を行使する対象へ認識させるモノ。

 そして第三工程の『認識』。この工程こそが魔術を魔術たらしめているもの。嘘を虚構ではなく、現実に侵食させているものの正体。さっきの例を続けるなら、貴方の『認識』した【加速】という『概念』――私はこれを【開放】と『認識』しているのだけれど、……その前に。ここまでは理解した?」

 再び、座席が振動した。

「なんとかな。続けてくれ」

 雷華は頷き、説明を再開する。

「人の体は故障しないように力をセーブしている、という話は有名でしょう? 人間は自分の持てる筋力の半分も出し切れていない。火事場の馬鹿力と言われるように、非常事態の時のみその人はその枷を外す。でも、それだって完全ではない」

 つまりあの【加速】の正体は、雷華の『魔術』の本質は、【開放】の意味するところは、

「【開放】の『概念』の自己認識、要するに、自己暗示による肉体の酷使よ。これこそが、我々神無月の『魔術』」

 淡々とした口調でいう雷華。突飛すぎる説明。なのに、どことなく筋だけは通った理屈。

 旭は、途方も無い目眩を感じた。手で顔を覆い、こめかみを刺激して幻痛を抑える。

「つまりなんだ? お前ら魔術師はその【開放】って『概念』を『認識』するだけで、全員お前みたいなトンデモ体術が使えちまうわけか?」

 雷華はその問いに、整った眉をハの字に歪めて不服そうに答えた。

「そんな簡単に言わないで。魔術、特に神無月の枷壊術は相応の訓練と、それに伴う危険の上にあるの。認識するだけっていうけど、人としての脳の造りに抗うんだから全員が全員出来る訳ではないのよ」

 さらに、続ける。

「突然あなたは怪我を気にしなければ百メートルを本当は五秒で走る事が出来ます、間違いありません、さあやってください。といわれても出来ないでしょう?」

 当たり前だ。

 そんなことで百メートルを五秒で走れるのなら世界記録はとっくに書き換わっている。

「つまり、そういうこと。魔術第三工程『認識』、とはそういうことなの。一朝一夕で認識を書き換えられるほど、人間の体は単純にはできていない。地道な訓練と、やっぱり才能が必要なの。……訓練中に下半身が付随になるだとか、腕が動かなくなるだとか、あるいは、死んでしまうとか、そういうことだって決して珍しくもなく起こる。普通の技と違ってリスクが高い代わりに見返りも少しだけ高いだけに過ぎない。あくまでギブ・アンド・テイクってことよ」

 それに、と雷華は続ける。

「貴方の言うトンデモ体術――つまり枷壊術の事だと思うけど、これは神無月の、神無月だけの魔術よ。魔術師全員がこれをできるわけではないわ」

 これだ。

 いつも魔術に関する話しをするときの違和感。

 雷華が執拗にこだわる『神無月の魔術』、という言葉だ。

 魔術師がそれぞれ旧暦の名を冠してることは確か以前言っていた。例えば奴。睦月景。つまり、雷華の言葉に従うのなら、『睦月の魔術』があってしかるべきなのではないだろうか。

 そこで、旭は以前自宅の屋根で雷華から聞いた話を思い出した。

「『枷壊士は枷壊術を使用する者――つまり、神無月家の魔術師全員に付く肩書』……だったよな?」

 旭の確認を首肯した雷華が微笑む。

「ちゃんと覚えててくれてよかったわ。あれから色々あったから、また同じ説明をする羽目になるかと思った」

「記憶力は良い方なんでな。……なあ、てことは睦月家の魔術師は全員、あの情報屋みたいな話術を使うのか?」

「その通りよ。まったく、やりにくいったらないわ」

「そうなのか。……まさか、一族全員があんな濃いキャラしてんのか?」

「そこまでは知らないわ。私が直接会ったことのある睦月の魔術師はあの男だけだし。まあ、二つ名持ちだから、彼が睦月家の中でもずば抜けて優秀なのは間違いないわね」

 今の雷華の話を踏まえて、考えを巡らせる。

 ……旧暦に家の名をなぞらえている以上、魔術師の世界には最低でも十二の魔術があるのだろう。以前、雷華の口から何気なく漏れた『人形師』や『暴観者』(確か他にもあったはずだ)などの言葉がそれらに当たるのかもしれない。確か魔術特性、とも言っていたはず。

「なるほど……」

 ひとつ、決定的なピースを与えられればそれだけで今までの霧が晴れていく。まだ見えない部分も多いが、それにしたって燻っていたモヤモヤは無くなった。

 少し、……いや自分に嘘をついても仕方がない。正直、かなり魔術という存在に自分は魅せられている。

「……、…………」

 ……自分に嘘をつく、か。

 何かが、ささくれのようにちくりと引っかかった。

「……ちょっと、ねぇ、聞いてるの?」

 ぬっ、と。視界一杯に雷華のドアップが広がった。

「!!!」

 気づいた瞬間後頭部にとてつもない衝撃。

「っ痛~」

 突然のことに驚いて身を跳ねた自分の後頭部が、座席の硬い部分に衝突した。と、三秒くらい後に気がついた。

 旭は表情を歪めながら、後頭部をさすった。そうしなければ雷華を見る事が出来なかった。

「大丈夫?」

 雷華の冷静な声がする。

 泳ぎまくる視線を強引に捕まえて、彼女に視線を戻した。

 心臓に冷や汗、とでも言えばいいのか。もう一度覗き込まれたりされたらたまったもんじゃない。

 ……何を焦っているんだ、俺は。

「ああ、大丈夫だ。続けてくれ」

 強引に思考へ区切りをつけ、話を戻す。

「うん、じゃあ」

 そう前置きして、雷華は説明を再会した。

「それで、対処法だけど。まず、対魔術師戦の基本中の基本。『魔術師の言葉に耳を貸すな』、よ」

 車内アナウンスが流れ、県境を越えた事がわかった。

 気にせず説明を続ける雷華に倣って、旭も雑音を意識から遮断した。

「神無月の魔術は他家に比べると少し特殊な形をしているの。自己暗示――認識を内へ向けるのは神無月と、あとはもうひとつだけ。他家の魔術は普通外へ向く」

 雷華の言葉を頭の中で反芻する。

「一番多い認識媒体は言葉だから、例えば今回の敵である『催死鬼』だけど。『概念』は【死】。それを、何らかの方法で貴方の表層意識を塗りつぶそうとしているの。つまり言葉で、神薙旭は死んでいる、という虚実を認識させることで事実にしようとしているの。……何が言いたいか解る?」

 頭の中を再び整理する。言葉によって、認識。虚実を、事実へ。そして、『魔術師の言葉に耳を貸すな』、か。

 つまり――。

「つまり、相手の言っていることを聞きさえしなけりゃ魔術は無効ってわけだな。いや、お前等の言葉を借りるなら言葉を言葉として『認識』しなければ、って所か。言葉なんてのは突き詰めれば音記号の集まりだからな。俺自身がそれを理解してしまわなければ、敵の魔術は発動しない」

 雷華はそれに満足げに頷いた。

 そうして、列車は線路を駆けて行く。向かうは、『神無月の家』。





 管轄界。

 十二氏族にそれぞれ与えられた『世界』。永い歴史を持つ魔術師社会が、度重なる戦争を得て取り決められた『領地』。

 各家はその『世界』でのみ行動可能であり、その『世界』に置いては絶対の支配権が認められる。

 他家の『世界』への干渉はその管轄界を取り仕切る当主の了解が必要であり、それを破るものは『議会』での審判にかけられる。

〈魔術師社会〉の管轄界を与えられるのは『議会』。力と公平をもって旧暦を裁く権限を有する。

 その管轄界が、三財閥を含む『経済界』なのが神無月なのだと、雷華は言った。

「だとすると、それらを管理する政治家みたいな連中がその『議会』なわけか」

 旭は山道を登る車内でアイマスクを直しながら言った。

 あの後、新幹線を降りて聞いたことも無いような駅へたどり着いた。駅の改札を出ると、そこにはこちら――正確には雷華――に深々と頭を下げる男装(燕尾服だろうか?)の麗人と無骨な大型の四輪駆動車が待ち構えていた。片田舎の駅前に繰り広げられるにしては、余りにシュールな光景だったと思う。

「そうね、そういった魔術師社会の秩序を守ることを使命だと妄信している『家』もあるし、『議会』の主な構成員は各家の当主だし、そういった意味では『議会』は確かに政治家ね。差し詰め、妄信一家は警察といったところかしら」

 『議会』直属の実行部隊、魔術師殺し、というのが私たちの中での認識だけど、と雷華。

 ちなみにアイマスクは今車を運転している女に車へ乗り込む前につけられた。どういう仕組みになっているのか、別にキツイわけではないのに何故か外れない。

 車は山道を登っていく。

 『家』、というのに向かっているらしい。

 車輪が砂利を蹴散らす音が、遠く、重く、旭の耳に響いた。





 常識という概念に真っ向から喧嘩を売るような速度で山を駆けること三十分。目隠しをされた旭は頭をあっちこっちにぶつけつつ(雷華は助手席だ)、車はようやく動きを止めた。

 扉の開く音がして、誰かに手を掴まれた。

 掴まれた瞬間、体が強張る。

 その手に連れられて、後部座席からくぐるようにして外へ出た。

 手の主が目隠しを外す。相変わらず、一見普通なのにもかかわらず魔術師の使う道具は仕組みがよくわからない。アイマスクはあっさりと外れた。

 三十分ぶりに光を認識した目が捉えたのは、残念ながら雷華ではなかった。先ほど手を掴んだのもこの女だろう。落胆に体の強張りが消えていくのを感じ、そんな自分に気づいて再び体が緊張する。

 刹那、雷華の声がした。

「神薙、ここが我々の『家』であり、『私の家』よ」

 心臓が脈打った。突然だった、ということと、それ以上の何かに、心臓が震えた。

 振り返ると、そこには雷華と『家』――『神無月の家』が、在った。

 本家。総本山。

 確かに例えとしては悪くない。

 家。

 それも間違いではない。間違いでないことは、解る。だが、それでも質の悪い冗談じゃないかと目を疑いたくなる。

 目の前に広がった光景。それは、奥が見渡せないほどの敷地を持った、武家屋敷の『一角』だった。

 そう、あくまで一角。家全体ではない。旭の家などでは比較にならない。その程度の大きさレベルの建物など、敷地内に点在している。旭の位置からでは巨大としか言えないような門に阻まれて上手く見えないが、かなりの大きさが予想される建物の瓦屋根があちこちに見られ、その最奥、その十数キロ、あるいは数十キロ先。高さにして高層ビルの三十階を越える。幅にして現代に比類するもの無し。巨大なんて概念を用いる事すらおこがましいような屋敷がそびえ立っていた。

 家というよりは一大テーマパーク。テーマパークと言うよりは城。

 そう、城だ。

 そしてこの『家』はまるまる城下町だ。この山奥には、時代から取り残された現代の城が存在していた。

 まさしく現代の城。過去の遺産が残されているわけではない。昔の建築技術でこんなものが造り出せる筈が無い。現代の技術をもって、現代の者が立てた時代遅れの城。

 それが、『神無月の家』だった。

 雷華が言う。

「さ、行きましょう」

 直立不動の無表情女に見送られて、旭は神無月の門をくぐった。

 中に入ると本当に豪邸クラスの建物が点在していた。それ単体ですでに旭の家を凌ぐ建物がばらばらに建っていて、それらを繋ぐ渡り廊下が蜘蛛の巣のように張り巡らされている。まるで攻城戦でも想定しているかのような配置の仕方だ。

 右に折れ左に折れ、長く直線を歩いたかと思うと所々で屋敷内をくぐり、ぐるぐると進む。庭には申し訳程度に置石や木が立っていたが、その木でさえも屋敷の上から飛び移れるような位置にある。気の回しすぎかとも思ったが、すでに両の手では数えられないほどの木が全てそのような位置にあっては、もはや疑うまでもあるまい。連中の突飛さはすでに了解済みだ。

 しかし、それ以外にはここには本当に何もない。不安を覚えるような殺風景だ。空気が肌に張り付き毛穴を刺す。澄み過ぎた空気に背へ鳥肌が立つ。

 好きな場所だの嫌いな場所だのと思う以前に、彼はここが怖い場所だと思った。

 そうこう考えているうちに、ひとつの部屋の前へ通された。障子で仕切られているが、どうやら個人部屋のようだった。

「ちょっと待ってて」

 そう言うと、雷華は部屋の中へ消えていった。

 待つ事十分。中でなにやらゴソゴソと物を整理する音が止むと、障子が開いた。……何度が積み上げた物が崩れるガラガラという音と悲鳴じみたものが聞こえてきたのは、まあ、聞かなかった事にしよう。

「どうぞ」

 その声を合図に旭は部屋の中へ足を踏み入れた。

 そうして入った雷華の部屋には、何も無かった。

「?」

 本当に、何も。

 六畳半の和室には、私物はおろか生活するための備品でさえも、本当に何もかもなかった。

 空っぽ。

 殺風景ですらない。これではただの空き部屋だ。ただ、畳の匂いだけが、そこに漂うだけだった。

 と、何も考えられなくなっていた頭にドアの開く音が聞こえた。見れば、雷華が部屋の奥にあった障子ではない洋式のドアの前で扉を開けていた。

「こっちよ」

 奥へ消えていく。旭はそれについていく。

 そうして今度こそ、旭は彼女の部屋へ踏み込んだ。

 今度は洋室、といっても旭の部屋のような完璧なものではなく、いたって普通の日本の一般家庭にある様なまともな部屋だ。

 そこには机がありベッドがありテレビがあり、クローゼットがある。旭の部屋と同じ位の広さの部屋があった。水玉のカーテンがありピンクのカーペットがあり動物のカレンダーがあり、小物がある。それぞれ女の子らしさのある、『普通』の部屋があった。

 ……ここが、雷華の部屋。

 事前に見た殺風景な部屋で真っ白になっていた頭の中に、見事な右ストレートが入った。

 彼女の部屋は、旭の想像を大きく逸脱していた。

 想像していたもので言えば、まだ先ほどの部屋の方がイメージとしては近い。しかし、現実にはこうだった。

 何か、旭と雷華の間にある決定的な違いが、ここにある様な気がした。

 立ち尽くす旭に、部屋の主は座布団を引き出してきていった。

「どうぞ」

「あ、ああ」

 座る。しかし雷華は立ったままだ。

 どうかしたのかと聞こうとすると、彼女は自分の机から何かを取り出した。鍵、だろうか。

「私はこれから当主への報告を済ませてくるから、少し空けるわ。自由に寛いでて」

「は?」

 ……この女、今なんて?

 状況が状況だし場所が場所なのだが、それにしたって同年代の男子を自分の部屋に上げといて、しかも自由に寛いでろとは余りにも配慮に足らなくは無いだろうか。

「じゃあ、ちょっと行ってくるわ」

 呆気に取られているうちに、雷華はさっさと行ってしまった。

「はぁ」

 なんなんだこの展開は。

 ……最近ため息が増えたな、俺。

 そんなことを考えていると、窓の外からエンジンが排気ガスを吐き出すけたたましい声が聞こえてきた。

 窓を開けると、そこには制服で大型バイクに跨る雷華の姿があった。

 それも一瞬。

 その姿もあっという間に小さくなっていった。後に残るのは排気ガスの臭いだけ。

 そうか、この家、移動手段にはバイクくらい使わなきゃいけないのか。

 というか、

「……無免許運転」

 ヘルメットも無し。

 ……。

 …………。

 あ、私有地か。

 やがてバイクの音も聞こえなくなると本格的に手持ち無沙汰になった。

 なんとなしに部屋を歩き回る。しかし、思っていた以上に普通で女の子らしい。

 神無月雷華。

 対峙した時の冷たい瞳を思い出す。

 舌を噛んだ時の間抜けな顔が頭に浮かぶ。

 ケーキの話をしていた時の無防備な顔が頭を過る。

 睦月と魔術戦を繰り広げる緊迫した姿を幻視する。

 そして、女の子らしいこの部屋が目に入る。

 魔術の理論が頭を廻り、あんなものを幼少の頃から本気で実践してきた人間の人生が神薙旭を支配する。

 神無月雷華。そして、神薙旭。

 神薙旭と、神無月雷華の間にある決定的な差異。

 それは……、と。

 無意識に手を伸ばした押入れっぽい所から、

「うわわわわわわ!」

 大量のぬいぐるみが降ってきた。

「おおおおおおお!?」

 ガラガラガラ、と。

 それらに埋れながら旭は思う。

 さっきの音はこれか、と。

 ……ていうか、こういうのが好みなのか、あいつ。

 目の前に積みあがった山は、デフォルメされた動物のぬいぐるみで出来ていた。

 そんな時、扉がノックされた。

「やべ」

 もう帰ってきたのか。バイクの音はしなかったけど。

 慌てて立ち上がる。

「失礼します」

「……え?」

 その、透明な声色は雷華のものではなかった。

 入ってきた人物の前、旭はデフォルメされたぬいぐるみを腕一杯に抱えた男子高生(ちなみに足元にも山は出来たまま)という、だいぶ怪しめな格好のまま、その人物を出迎えた。





 入ってきたのは、車を運転していた女性だった。一瞬固まっただけで、女性の反応は早かった。

「片付けましょう」

 完全無欠、徹頭徹尾、天下無双の無表情。

 雷華のそれとは違い、冷たさも、もちろん敵意や害意や悪意、またその反対のものも(この場合当たり前だが)、本当に何一つ読み取る事の出来ないのっぺりとした無表情だった。

 女はそう訓練されていますから、とだけ言った。

 そう考えると、雷華の無表情はある意味饒舌ともいえる。同じ顔なのに雰囲気で相手に自分の意思をねじ込んでくるのだ。

 制服の高校生と男装の女性が押入れにぬいぐるみを押し戻すのに四苦八苦すること十数分。なんとか部屋は来た時と同じ体裁を整えた。

「このことは姫には御内密に」

 このこと、とはつまりぬいぐるみのことだろうか。

「御内密に」

「あ、ああ。解った」

 静かに圧力をかけられた。

 そして、女性も自分の出してきた座布団に座り、互いに向き合う。互いに正座。

 女性の横にはいつの間にか一本の柳葉刀(いわゆる青龍刀だ)が置かれていた。

 ……物騒な。

 そういう連中なのだと改めて思い知り、背筋を正す。

 そうして目の前で自分を品定めしている女に視線を戻す。

 女。年の頃は、正直分からない。一見して二十代。だが、もっと上にも見えるし、見ようとすれば同年代に見えなくもない。実際のところ年齢不詳、というのが一番正しい。第一印象は、ショートボブで影のある美人。これまた雷華と違い、決して相手と正対しようとしない。常に目の前のものにも斜めに構えた感じのある人間だ。

 どうでもいい話だが、睦月景も含めて旧暦関係者は美男美女が多い。遺伝か?

 そんな取り止めの無い事を考えていると、相手がついに口を開いた。

「神無月沙羅(かんなづき・さら)と申します」

 旭はそれに答える。

「神薙旭だ」

 女――沙羅はそれに薄く頷いた。

 まあ、知ってて当たり前か。

「それで、俺に何の用だ」

 沙羅は静かで平坦な、そして透き通った声で答える。

「はい。姫様の事で参りました」

「…………」

 「姫」というのは、言わずもがな雷華のことだろう。この家で神薙旭に係わり合いのあることで、彼女に関係の無い話など無い。

 しかし、

「そうではありません。関係ある、ないの話ではなく、姫様個人の話をしに来ました」

 彼女はそう続けた。

「まず最初に伺っておきたいのですが、貴方は一体どういうつもりで旧暦と関わっているのですか?」

「どう、と聞かれてもな。実際のところ俺は巻き込まれただけだ」

「確かに。貴方は巻き込まれただけです。そういった意味では、我々にはもっと感謝して欲しいですね。一般人が魔術師に狙われて、結果はどうであれ今の今まで状況を拮抗させ得ているのは本来ありえない事態なんですから」

「そうだな。俺は俺の生まれに感謝するとしようか」

 まあ、その生まれのせいで狙われてるわけだが。

「なるほど。そうですね」

 そう言って、沙羅は目を細めた。

「茶化し合いはここまでにしましょう。その巻き込まれただけの貴方は、一体どういうつもりで旧暦に関わっているのですか?」

「……別に。俺は俺に与えられてしまった状況の中で、俺の思う道を選んでいるだけだ」

 沙羅は一拍の間を取った。

「茶化し合い、というよりは自覚が無いだけなのですか? 知能指数のわりに頭が固いというか」

 頭が悪くないだけに、一見会話が成立してしまっているのがなおのこと頂けない。と首を振る魔術師。

 その物言いに、旭は視線を強くする。

「いえ、聞き方が悪かったでしょうか。では質問を、聞き方を変えましょう」

 そう言って、

「貴方は、一体どういうつもりで神無月雷華と――姫様と接しているのですか?」

 その質問に、その意味に、その回答に、強く胸を縛られる。

 旧暦と関わる事。それはつまり、雷華に関わる事。

 ――貴方は、一体どういうつもりで旧暦と関わっているのですか?

 よく、解らない。

 すでに意味など半分以上解ってしまっているのに、頭が事柄を認識する事を拒んでいる。思考は廻り、頭は冴え渡っているのに、その奥へあるモノへ目を向ける事が出来ない。

 見慣れない明るい色を散りばめられた周囲に場違いを感じる。

「旧暦に関わる危険性は、姫様も散々説いたでしょうし、貴方自身が現に直面しているでしょう」

 頷くことも出来ない。

「そんな存在と、一般人として生きてきた“貴方程度”が、どう関わる心積もりなのですか?」

 否定せねばならない。

 貴方程度。

 そんなこと、例え誰であっても言わせてはならない。

 …………。

 ……………………。

 本当に?

 だいたい、どうやって。いや、それでも。それでも、だ。

 どうやってでも否定せねばならない。それこそが神薙旭のはずだ。

 しかし、否定は成される前に神無月沙羅は二の句を告げる。

「今、姫様は家内で非常に微妙な立ち位置にあります」

「……え?」

 自分のことばかりを考えていたところに入ってきた姫様と言う単語に、上手く頭が反応しなかった。

「家外に魔術の秘技を漏らした」

 顔が強張る。

 それはつまり、

 ここに来るまでの道すがらの話だ。それが、雷華の立ち位置を微妙にしている?

「こんなことは前代未聞、空前絶後の出来事です。余りに突拍子も無さすぎて、神無月はおろか『議会』すら取り締まるべきルールを持っていません」

 逆に言えば姫様はそこを狙ったわけですが、と。

 ルール。取り締まる。

 つまり、雷華は裁かれるような、いや、裁く事さえ想定されていないような大前提、暗黙の了解を破った。それが、あの時の会話。

「ですが、いかにルールが無かったからとは言え事が事。魔術は秘匿してこそ魔術足り得る。この事は我らの存在意義にすら関わります」

 だから微妙、か。

「最悪、姫様は霜月から標的にされる恐れもあります」

 霜月、ね。

 十一月の異名。未だ知りえぬ魔術師の事情。

 だが、ここでこの名前が出てきたことでまたひとつ、ピースが嵌った。

 霜月。こいつらが雷華の言う妄信一家だろう。魔術師社会の公権力。『議会』直属の実行部隊。魔術師殺し、か。

「神無月の内部状況も余り芳しいものではなく、〈神有月〉の力があればこそ機能しているような現状です。今のような状態では十二氏族最大の組織力も完全に裏目に出ています。今回の件が家の責任にまで至るようなことがあれば、姫様の神無月追放もありえない話ではありません」

 父親としては甘い方ですが、当主としてはどこまでも冷徹な方ですから、と呟く神無月沙羅。変更不可な絶対の優先順位が彼の中にはあると。そう重々しく言った。

「…………」

 どういうことだ。雷華も最初は俺が魔術に触れることを忌避してしていたはずだ。だから、何かあるとは思っていた。だが、それにしたって大事すぎる。

 一体、彼女は何を考えているのか。

 解らない。

 どれだけ考えても、これだけ考えても、全く解らない。この世にこんなにも解らないことがあったなんて、解らないことだらけだったなんて、知らなかった。知りたくもなかった。

 ……雷華、お前は一体。

 気が付けば、自分の視界がフローリングの床とピンクのカーペットで一杯になっていた。俯いていたのだ。

 深呼吸をひとつ。姿勢を正す。

 再び上げられた視線に、神無月沙羅は無表情ながら小さく、なにやら頷いた。

 そして、

「ですが、それらはあくまで今回姫様がしたことが他家にばれたら、という前提の話です」

「な、に?」


「今回の事は姫様自身を除いては私と、そして今頃姫様がお話しているであろう我らが当主〈神有月〉、あとは貴方しか知りません」

 それを先に言え! と、叫びそうになってすんでの所でなんとか止めた。

 眼前の魔術師を改めて見据える。

 無表情。

 どこまでも、水底は透けて見えそうな透明な無色。

 神無月沙羅という、柳葉刀を常に持ち歩く、話通りならば雷華と同じ【開放】――『枷壊術』の使い手。その魔術師を、見据える。

 恐らく、いや間違いなく、試されている。

 他人と言う定規で、神薙旭という器を測られている。その、えもいわれぬ不快感に背筋に鳥肌が立つ。

「怒鳴るかとも思いましたが、思っていたよりは、まあ、できるようですね。考えがすぐに顔に出るのは頂けませんが」

 それは、雷華にも言われたこと。

 己の未熟を恥じるばかりだった。

「私には取れる選択肢がいくつかあります」

 こちらを窺うような気配。

 だんまりを決め込む。

「私は結果がどうあれ『最終的には』姫様の味方です。あの子に怨まれようと憎まれようと、私はあの子のためだけに行動します」

 姫様。そして、あの子、か。

 神無月雷華にとっては、この神無月沙羅は一体どんな存在なのだろうか。

「今回の件が終わった後、貴方は旧暦との関係の一切を断ち切って下さい。そして、魔術については貴方の頭の中から墓の中まできちんと持って行って下さい。それで貴方の生命は保証しましょう」

 脅迫。この女はこれから一生、旭を監視し続けるといっているのだ。もしも誰かにその知識を漏らして技術を漏洩すれば命は無い、と。

 魔術師としての義務もあるのだろうが、それでもこいつは……。

 いや、違う。何を聞いていた。こいつは雷華のため、と言ったのだ。

 全ては雷華のために。

 彼女がこの裏社会で居場所を失わないように。そのためだけに。こいつはここまで言ってきているのだった。

 内容は物騒だったが、真摯な言葉だった。だが、いや、だからこそ、だろうか。

 反発を覚えた。それでも、反発を覚えてしまった。

 取り消すことの出来ない感情を、胸に抱いてしまった。

「それは、できない」

 その言葉を発したのはほとんど反射といってよかった。

 自然と出た言葉だった。

 そこにはある『約束(ゆびきり)』があった。

 少女の、幼い笑顔があった。

 いや、これも後付の合理付けの理屈付けにすぎないのかもしれない。

 それでも、とにかくその契約を認めることは出来なかった。

「それはできない」

「…………」

 神無月沙羅は無言で無表情で、神薙旭を見つめた。

 睨みあう。

 空白が生まれる。

 やがて、どこからともなくバイクが排気ガスを吐き出す唸り声が、小さく聞こえてきた。神無月沙羅は一度目を伏せると、

「私自身は今、この場で、貴方をバラした方が手っ取り早いと思っていることだけは、忘れないで下さい」

 もう一度こちらを睨みつけて、気配を消すようにしてスッと立ち上がった。

 踵を返し、扉の前まで移動する。

 そうしてこちらへ背を向けたまま、最後に、と。

「どうか、どんなことがあったとしても、最後まで雷華のことを信じて下さい。それだけは、確かにお願いしましたよ」





「え、沙羅がここに来たぁ?」

 帰ってきた雷華に先ほどのことを大雑把に説明すると、途端に素っ頓狂な声を上げた。

 そんなにおかしなことを言っただろうか?

「ううん、別におかしいって訳じゃないの。ただ珍しいなって思っただけ」

「珍しい?」

「うん。沙羅ってあの通り無口じゃない。……私には彼女が何を考えてるのか、解らなくて」

 いや、饒舌過ぎるくらい饒舌だったと思うが。

 本来はそういう人物なのだろうか?

 疑問はあえて口に出さない。それが、あの女に対しての最低限の礼儀に思えた。

 なにはともあれ、雷華にとってもあの女は大切な人のようだ。

「ねぇ、どんなことを話したの?」

 さりげなさを必死に装っている雷華には悪いが、

「個人的な話だ。他人に話すようなことじゃない」

 話すことは出来ない。

 話は雷華に関するものだったが、あくまで旭自身の話だ。嘘はついていない。

「……ふーん。そう」

 旭の態度に深入りできないものを感じたのか、彼女は軽く頷くと話を打ち切った。

「ところで、これからどうするんだ?」

 雷華は帰ってくるとすぐに鍵を元に戻し、旭と話している間も同じような所でガサゴソと物を探していた。

 旭は場の流れで座布団に座ったまま胡坐をかいていた。

 目の前には沙羅が座っていた座布団が置きっぱなしになっていた。誰か来たのか、と慌てる雷華はそうして沙羅がここに来ていた事を知った。

 ……あの女としては、ここにきたことはできればバレたくなかったのかな。座布団を片付け忘れたことを鑑みると、彼女にも雷華ほどではないにしろ多少ドジっ子な面があるのかも知れない。

 笑ってしまいそうになるのを堪えながら、旭は思った。

「あった」

 旭が下らないことを考えている間に、雷華が机から古風な、いかにもといった感じの鍵を取り出した。

「こっちよ」

 雷華は背中越しにこっちへ手招きをし、先の空き部屋へ出て行った。旭も遅れてその背を追う。

 再び畳の香り。そして何も無い部屋。

 空白。そこに。

「よっ」

 雷華はバン、と両手を勢いよく突いた。そして、そこにあった畳をひっくり返した。

「なっ!?」

 その畳の下に現れたのは、ぎっしりと敷き詰められて畳の底と化していた上向きの金庫の群れだった。鍵穴は天井を向いていて、だからもちろん開き口も上を向いている。大きさはまちまち。大小様々というだけでなく、見たこともないような細長い形をした、ロッカーを少しスリムにしたような金庫もある。それらが計算された通りにきっちりと嵌っていて、どこにも隙間は無い。完全に部屋の底と化していた。見えないが、十中八九部屋全体が。

 そのひとつ、立方体のいたって普通の金庫へ雷華は鍵を通す。軽い金属音がした。

 そして、彼女が金庫の床へ足を踏み入れると、その金庫の蓋を開けた。

 拳銃、だった。

 そこにはおびただしい数の弾丸と、五丁の拳銃が格納されていた。

 真剣と並び、いや、真剣さえも凌駕する人の死の顕現がそこにはあった。

「ここは、いったい……」

 別に答えが欲しかったわけではない。独り言だ。旭の常識が呟かせただけの、意味を持たない音記号。

 だが、ここにはそれに答える人物がいた。ただそれだけのこと。

「ここは私、【タケミカヅチ】の『私室』よ」

 どこか寒々しい声で。

 答える人物がいただけのこと。

「一般的な概念で言えば、差し詰め武器庫といったところね。ここには古今東西あらゆる攻性武器が収められているの」

「攻性、武器?」

 聞きなれた造語に聞きなれない組み合わせ。

「ええ、攻性武器。攻撃するための、武器。神無月に必要な武具は、攻撃のためだけの物だから」

 それはつまり、防性。防御が必要ない、と。

 ……そうか、『枷壊術』。

「いつか言ったわよね。神無月にはとある事情から防弾チョッキなどは珍しい、と。我々は敵よりも常に速く動ける。上位術者になれば銃の弾丸だって知覚してかわすことが出来る。だから、防御は必要ない。だから、攻性武器」

 雷華はそう言いながらテキパキと一丁の動作をチェックし始めた。

 凄まじい手際で拳銃を操る雷華。カチャカチャガシャガシャと、動かしては戻し、開いては閉じるを繰り返す。流石に、旭には何をしているのか解らない。

 やがて、グリップの下部へマガジンを差し込む死神の足音と共に、雷華は言った。

「さて、戻りましょう。貴方の家へ。神薙には用意して欲しい物があるの」




〔第五章〕




 再び目隠しをされる事一時間。慌てて終電に乗り込む事さらに二時間。騒々しい一日を終えて帰ってきた神薙駅から歩く事の二十分。神薙旭と神無月雷華は、夜の十一時を回った辺りで神薙邸へ舞い戻ってきた。

 十二時。二人は旭の自室に居た。

 煌々と灯る明かりの下、共にベッドの脇に腰掛けてコーヒーをすする。ちなみに雷華は激甘のミルク。旭はブラックだ。

「ふう」

 コーヒーを一口含んで雷華はため息を漏らした。コーヒーカップを自分の眼前まで掲げ、

「基本、神薙はなんでもできるわよね」

 そんなこと、会う前から知ってたんだけどさ、と愚痴っぽくこぼす雷華。

「別に何でも出来るわけじゃねえよ。だいたい、これインスタントだぞ?」

 旭は呆れたように言った。

「いやいや、謙遜しないでよ。私なんて料理どころか台所仕事はからっきしなのよ?」

 なぜか目を線にして妙な口調で雷華は言う。

 旭の頭には台所に立つ雷華が、力加減を誤ってコップを握りつぶしてしまうシーンが思い浮かんで、……急いで取り消した。なんだか背筋に鳥肌が立ったのだ。

 それを悟られないように慌てて言う。

「これ、お湯を沸かしてコップに注ぐだけだ」

 雷華はそれでもなお喰い付く。

「だいたい、これはインスタントでも貴方料理上手いじゃない」

 …………。

 何故か拗ねていた。

「別に……、あれくらい普通だって」

 とりあえずフォローを入れる。しかし、

「下手な謙遜て嫌味よね。それってつまり私が並み以下ってことじゃない」

 ……地雷を踏んだ。

 なんなんだ。こいつ。

 絡み酒か? コーヒーだけど。

「あーあ、私も何か一つでいいから女の子らしい特技が欲しいなぁ」

 旭はあえて無言でコーヒーをすする。

 ……しかし、女の子らしい、か。雷華でもそんなことを考えるんだな。

 と、本人に言えば殴られそうな事を思う。そして、自分には真似できない、と。

 女の子らしい、とか、男の子らしい、とか、自分らしい、とか。そんなこと考えたことも無かった。いや、考えようともしなかった。だってそんなことは恥ずかしい。格好良いとか、可愛いとか、美しいとか、そういうのは自然と身の内から滲み出てくるものだ。それをわざわざ意識して他人へ積極的に見せようなんていうのは邪道だ。だから気にしないようにしてきた。必要なのは自分自身で、自分を造ることに他人は関係無い。それは他力本願だ。格好つけるなんて恥ずかしい。そんなのは格好良くない。そんなのは自分ではない。

 そう、思う。そう、思ってきた。

「料理、裁縫、掃除、洗濯……」

 指折り数える雷華。

「コレ全部、神薙は出来るのよね。神薙が出来て私も出来ると言えば剣術くらいか。そうやって生きてきたんだから仕方ないとはいえ、う~、なんか理不尽」

 勝手に憤っていた。いつの間にか沸騰していて暴走寸前。それこそ理不尽だった。

「裁縫はそこまで得意じゃないけどな。時々、剣道着を修繕するくらいだ。

 それに、雷華にはその長い髪があるだろ。特技じゃないけど」

 顔が可愛い、とは言えない。流石に。

「この髪ねぇ」

 雷華は自分のうなじに手を伸ばし、一房にまとめられた髪を肩越しから体の前へ持ってくる。

 漆黒の長髪。

 美しい、と。なにを取り繕うまでもなく純粋に思う。

 腰までの長さとしっとりとした艶。それこそ女なら誰もが羨むような完璧なパーツと、あれだけの剣術を揃えておきながら贅沢な奴だ。

「でもこれ、魔術の道具だから」

 雷華は投げやりな感じに言った。

「もちろん地毛よ? でも魔術の道具なの。長いと髪形の種類が増えるでしょ? 長くしてるのも、小さい頃からの親の言いつけで、別に自分の意思じゃない」

「髪型が増えるのが魔術?」

「あ、そっか。神薙にはまだ説明してなかったわね」

 彼女は自分の髪を撫で付けながらそう言って、

「『意思』と『概念』と『認識』の話は理解したわよね。で、それを相手へ伝える『媒体』だけど、魔術は主に言葉が用いられる。でも、決してそれだけじゃない。例えば変装。今は髪も適当だけど、これをもっときっちりセットして、目付き雰囲気を変えて、そうね、後は服をお嬢様っぽいものでも着れば、神薙は果たして私を見つけられるかしら?」

「できる」

 即答した。相手の目を見て。

 短い時間だが、雷華とはかなり深く関わってきたのだ。渋々とはいえ、命を預けられるほどに信頼できる相手は、最早“この世には”雷華しかいない。そんな相手の変装を見抜くくらい、楽勝に思えた。

「っ! 一切の迷いなく答えられたのは凄いと思うけど、神薙、貴方には恐らく無理よ。魔術っていうのはそういうものなの」

 睦月景のやっていることがこのことの究極型ね、と呟いて、雷華はさっと再び背後へ髪を流した。さらり、と音さえしそうな見事な軌跡を描いて髪は流れていった。

 しかし、旭は食い下がった。

「確かに、他の魔術師の変装を見破れる自信は全く無いが、お前の……雷華の変装なら、絶対に気づけると思う。論理的な理由は残念ながら皆無だが、なぜか確信がある。

 神無月雷華は、俺にとってそういう存在だからな」

 揺るがぬ自信を言葉に込めて相手に伝える。すぐ隣にいる少女の頬がすこし赤くなった気がした。

「よ、よくもそんな恥ずかしいセリフを堂々と言えるわね……。

 だけど、なにも言葉だけじゃない。明確な『意思』を持って、【別人】という『概念』を、変装する事で『認識』させる。それも立派な魔術なのよ。私の場合、髪を切ってしまえば男装だって可能なんだし」

「そうか」

「そうよ」

 今の会話で解った事がある。魔術について、ではない。

 それは……。

「ちょっと失礼」

「え?……!?」

 すぐ横に座る雷華の頭を、髪を梳くように撫でた。それだけで胸がドキドキした。

「神薙っ、な、ななななにを!?」

「そう難しく考えるなよ。似合ってんぞ、その髪」

「…………」

 それは、雷華が自身の髪をとても気に入っているということだ。心地の良い手触りは、彼女が髪の手入れを怠っていないことを教えてくれる。長い髪の手入れにどれほどの手間が掛かるのかは知らないが、魔術の道具だからという理由が全てではないだろう。

 髪を撫でている内に、雷華はさっきよりもさらに赤くなって俯いてしまった。

 旭の方ももう限界だった。

 撫でた時の自然さはどこえやら、パッと急いで手を引っ込めた。雷華が「あっ」と声を漏らす。

「お前は嫌いか? 今の髪」

「……………………別に、嫌いじゃない」

「ならいいじゃねぇか」

 目線を逸らす。

 そうして、すっかり冷えてしまったコーヒーをまた一口、口へ含んだ。

「…………」

「…………」

 やがて気恥ずかしい沈黙。旭は今更になって、何であんな事をしてしまったのかをぐるぐると考えていた。

(あれじゃあまるでセクハラ野郎じゃねぇか!)

 雷華の部屋とは違う、必要最低限しかない無骨な部屋。靴を履いたままの洋室で、トントンと雷華の靴がリズムを刻む音と心臓の音だけが響く。

 だが、気恥ずかしさとは別に旭にはもう一つ、懐かしい満足感があった。

 異性、ではなく同年代の人間と自室で二人っきりでお喋り。

 そのことが、彼に不思議な感覚をもたらした。

 唐突にその感覚に襲われた。それを呟く。ここにはそれを聞いてくれる人がいる。

「不思議だな。俺さ、実は小さい頃人を家に呼ぶのが夢だったんだ」

 この自分に、家へ呼ぶほど親しい友人がいたかどうかはもはや定かではないが。

 ただ、呼んでみたかったことだけは憶えている。いや、思い出した。

 それは、今だから認められる感情で、当時明確にそう思っていたかもやはり解らないのだが。

「当時はさ、といってもホント最近までの話だけど、ここは神薙グループの中枢だった。確かに俺はここで暮らしていたけど、ここは俺の家である前に神薙グループの会議室だった。だから、友達を呼ぶなんてのは論外だった」

 雷華は黙って聞いている。静かに、自然に。聞いてくれている。

「だから俺は親父が嫌いだったし神薙グループも嫌いだった。俺は俺の人生を、そいつらのせいで思い通りにさせてもらえなかった。全部、昔の話だけどな」

 今では親父の事は尊敬しているし、神薙グループの御曹司であった今の自分の身分には感謝もしている。全部、昔の話だ。

 少し、笑える。

「はは、親父が生きている頃はしたくても出来なかった事が、そんな考え自体が生まれてこなくなった今頃に叶っちまうんだから、皮肉なもんだだよな」

 何を言って欲しかったわけでもない。

 ただ、なんとなく思ってしまっただけだ。それを、ただの気分で口にしただけのこと。むしろ何も言って欲しくなかった。

 だから、

「……そう」

 雷華の感情も読み取れないような、優しい相槌はただただ有難かった。

 そうして夜は更けていく。二人は眠ることなく決戦の日を待つ。

 泡沫の浮き沈みする夢。起きたまま見る現実越しの死のカタチ。鏡に映った自分の影。

「明日、全ての決着をつけましょう」

 それらを、まどろみの中で聞いた。





 それは、起きたまま見る夢。泡沫の過去。現実越しの虚実。

 体は雷華と共に夜を明かし決戦を待つ。意識は体と共に明日を待つ。精神は器から零れ落ち過去で待つ。

 そこで見るのは二重の視界。決して重なり合うことなく神薙旭は明確に二つの視界を共有する。

 ここにいて、ここにはいない。どこかにいても、どこにもいない。

 そう、これは泡と消える定めにある夢の輪郭。

 でもそれは、決して無に還る訳ではない。

 ………………。

 …………。

 ……。


「り、こん?」

 幼い自分が拙い言葉使いで喋っている。

 幼稚園児と女性が、どこかの公園で話している。

 目の前にいるのは美しい女性。懐かしい香りのする、もはや名前も顔も思い出せない誰か。

 その顔を見ようと、一生懸命に顔を持ち上げるが逆光が祟って確認することが出来ない。

「そう、離婚」

 女の人は悲しそうに言った。

「お父さんとね、別々に暮らす事になったの」

 やさしい、やさしい話し方だった。忘れていた、忘れてきた、懐かしい話し方。

「旭は、これからお父さんと二人で暮らす事になるの。わかる?」

「……ううん。わからない」

 幼いながら、自分はこの時本能で理解していたのだと思う。泣きそうな声だった。ぐずった、俺の一番嫌いなガキの我侭な泣き声だった。

「わかんないもん」

 顔をぐしゃぐしゃにして。

 恥も外聞もプライドもなく、泣いていた。

「わかんないもん」

 泣いていた。

 そんな俺を、女性の胸が包んだ。

 抱きしめられていた。

 安心できる、強がりの必要ない自分にとって唯一無二の居場所だった。

 女性は膝を地面について、俺と同じ視点に立って、俺を強く抱きしめてくれていた。

 涙が、いっそう強く流れた。

 これが一生分の涙なのだと、本気で思った。

 これがお別れなのだと思うと、涙が止められなかった。会うことは出来る、とは思わなかった。理屈ではなく、そう思っていた。そしてそれは正しかった。

 わんわんと泣いた。

「もう、この子は泣き虫ね。赤ちゃんの時からそう。何かあるたびわんわん泣いて、それでその度にあの人は険しい顔をして、私がそれを宥めて。ずっと、そうやって生きていけると思ってた」

 女の人も泣いていた。

 互いが互いの肩に顔を乗せているような状態なので、顔までは見えない。

 でも、泣いていた。静かに、涙を流していた。

 頭を、そっと撫でられる。

「泣いちゃだめよ、男の子でしょ?」

 震える声で、囁く。

「強くなりなさい、旭」

 頷く。強く、強く、頷いた。

「貴方が将来、貴方の思うことを貫ける強さを、」

 撫でられる。

「持ちなさい」

 そして。

 唐突に胸の温かさは消える。支えを失って、俺は軽くよろめく。

 よろめいて一歩踏み出した先、視界は暗転し、公園はなくなり、暗闇に放り出される。

 視界を埋めるのは、おびただしい数の、鏡。

 眼前に、天井に、地面に、斜め前に、その後ろに、またその奥に、おびただしい数の鏡があった。暗闇の中に神崎亮と数多の鏡が浮かんでいた。

 女性の言葉が思い出される。

 心臓がのたうつ。

 強く。

 群れを否定した俺の姿が数多の鏡に映し出される。

 強く。

 刀を振るう、振るわれる、振るい返す俺の姿が数多の鏡に映し出される。

 強く。

 あらゆる娯楽を拒絶し、ありとあらゆることに手を出し、あるとあらゆるままに己へ還元する俺の姿が数多の鏡に映し出される。

 強く、強く、強く。

 出来る事をしてきた。女性の言葉を忘れた後も、そうやって藻掻き続けた。自分の意志を貫ける、強さを求め続けてきた。そうして、走り続けてここまで来た。息を切らす事など、息をすることなど忘れてここまで来た。そうやって自分と戦い続けてきた。

 鏡、俺が二人。向かい合う。

「強くなったさ」

 鏡の奥の俺が言う。俺の意思で、俺の言葉で、俺の口で。

「ああ、そうやって生きていた」

 鏡の前の俺が言う。俺の意思で、俺の言葉で、俺の口で。

「出来る限り、ありとあらゆることを、誠心誠意、無我夢中でこなしてきた」

「強くなるために。俺が俺であるために」

「そうなる必要があった」

「その理由などとうに忘れた」

「そう在ることが俺だった」

「疑っている暇はなかった」

「迷っていては弱みを見せる」

「そんなのは俺じゃない」

「俺は俺だけで完結させられる」

「そう在ることを目指した」

 やがて、どちらが虚像でどちらが実像か、俺自身にも区別できなくなる。

 やがて、どちらが影でどちらが本物か、俺自身にも区別できなくなる。

「だから、」

 だってそんな区別などない。

 どちらも所詮、神薙旭なのだから。

「俺には、“俺(おまえ)”など必要ないッ!!」

 夢の終わり。そのまどろみの中。

 自分が最後に泣いたのは、あんなにも幼い頃だったのか、と。

 斬り合う瞬間、思った。

 こうして、“俺(かげ)”は俺を殺害した。

 そうして、俺は架空死を現実死として認識し始める。




〔幕間〕



 あれから、様々なことがあった。一般人には取るに足らないような普通のこと――普通の幸せがあった。そして、その先に、身を引き裂くような悲劇が。

 だから『それ』は言った。当主に、父に、魔術師を辞めたいと。

 父は全く取り合わなかった。あまつさえ「お前は先の事で疲れておるのだ、少し前線の仕事から離れるといい」、と。今度は暗殺ではなく監視の任を『それ』に与えた。

 勝手だ、と『それ』は思った。今までは思ってもみなかったことを、『それ』は思ってしまった。そうしたことで、『それ』は『それ』では在り得なくなってしまった。『それ』だったからこそ、抱え続けることの出来た矛盾は、『私』という器には決して納まり切る量ではなかった。抱え続けていた矛盾が、器もろとも決壊した。

 与えられた任務は暗殺対象ではなく他家へ牽制となる者とその御曹司の監視。さらに、その御曹司をより近くから監視するため、御曹司の在学中の学校へ潜入することとなった。

 父は『それ』が『私』になったことに、最後まで気がつかなかった。『私』はその時、個人的に、そして秘密裏に、情報屋【アマテラス】と取引をしていた。

 器を失った『私』の矛盾は、答えを求めてただ地を駆ける。






〔第六章〕



 

 時が流れる。夜が明けて、日が昇り、昼を越す。

 不眠不休で、やがて来る時を待つ。

 雷華が言うには、仕掛けた魔術の発動にはとにかく時間がかかるのだそうだ。その詳細を尋ねると、私にも分からない、とだけ言われた。

 込み入った事情があるのだろう。

 朝、昼共に旭が食事を作った。それ以外はひたすらに作戦会議を行った。

 繰り返し繰り返し概要を語り、話し合い、内容を煮詰める。強靭に、しなやかに、作戦を練り上げる。

 課せられたルールは単純明快。

 校内におびき寄せた敵を捕らえ、旭の魔術を解術させる、あるいは解く方法を聞きだすこと。ただこれだけ。雷華曰く、『催死鬼』の仕業である限り任務には解術するための暗示があるはずなのだそうだ。

 それも有難かったが、旭にとっては敵を捕らえる、という前提も同じくらい有難かった。

 いかに魔術師同士の戦闘が外部に漏れることがなく、たとえ殺したとしても社会的に裁かれることがないとはいえ、旭にとって人を殺す、ということは恐怖以外の何物でもなかった。

「なにを甘いことを言っているの? だいたい、殺さないってのも状況的に仕方がないってだけだし、それでも手足の一本や二本、獲るつもりでいきなさいよ。心意気だけでも、殺し合いをするつもりで行かなきゃ。相手はプロなのよ?」

「お前、実はグロい事けっこう普通に言う奴なのな」

 実はファンシー趣味のくせしやがって。……って、こいつはそういう世界の住人だったな。

 旭は思い直した。

「しかし、たとえ捕まえるまで上手くいったとして、相手がそのキーワードを素直に言うか? 相手としては俺さえ死ねばそれでとりあえず任務完了なんだろ? 最後までだんまり決め込まれたら流石に打つ手無しじゃないか」

 それとも拷問とか? と聞いた旭の言葉にあっさり頷いた雷華。真顔で物騒なことを認める彼女を見て、旭は顔を引きつらせた。

「マジかよ……」

「まあ、それもありって言えばありだけど、それについては心配ないわ。今回のことは完全に敵に否がある。魔術師の社会において、ね。完全な管轄界侵犯。『議会』を通せば十中八九、相手の口を割らせる事が出来る。……生け捕りに出来れば、ね」

「そこでなんで生け捕りが必要になるんだよ」

「死人に口なし、ってね。もし文月にそのまま今回の犯人を切り捨てられたら責任の所在に困るのよ。それに、もし暗示の解術キーワードを知っているのが犯人だけならなおさら文月の思惑通りだわ。ま、犯人を捕まえたとしても、その口を割らせるまで神薙は一睡も出来ないわけだけど」

「いや、二、三日くらいの徹夜なら別に苦でもなんでもないけど……」

「そう。なら大丈夫よ。それに、敵はあくまで貴方には自然死――拳銃で撃たれたなんてのじゃなくて、『偶然』の心臓発作で死んでもらわなくちゃいけない。つまり、敵の直接的な標的になるのは私だけ。これはかなり明るい材料よ」

「自分の危険を明るい材料にすんな、アホ」

 雷華の頭をこずく。彼女は一瞬きょとんとした顔をするが、すぐに顔を真っ赤にした。その顔を見ていたら、旭まで急に恥ずかしくなってしまった。

 ……こいつ、なにに照れてるんだ?

 意味不明だった。と、そんな時。

 旭のベッドの枕元にある備え付けの電話が鳴った。

 旭は助かったとばかりに受話器をとる。

「はい、もしも……」

「あ、あたし。瑠夏。そっちに……土方いるでしょ? あいつに代わって」

 日暮瑠夏だった。彼女の言う土方、という名前に一瞬反応できなかったが、すぐに雷華の事だと思い至る。

「雷華」

 受話器の口元を押さえ、呼ぶ。

「ウチのクラスの日暮だ。えっと、知り合いか?」

 雷華は軽く頷くと受話器を受け取った。旭は少し、礼儀として電話から離れてた。

 ……なんで瑠夏は、ここに雷華がいることを知ってるんだ?

 当然の疑問に至った。電話に出ている雷華は雰囲気を一変させていた。

 そこにいるのは雷華と言う少女ではなく、ひとりの魔術師の姿だった。

 やがて、受話器を置いた彼女が言う。

「神薙、そろそろ時間よ。行きましょう」

 空を支配する太陽は、すでに傾き始めていた。





 学校へは制服で行くことにしていた。

 雷華は着替えを持っていなかったし、旭は命をかけた戦いに赴くための戦闘装束など持ち合わせていなかった。

 幸い、ブレザーをどこかで脱げば制服はそれほど動きにくい服装ではなかった。

 普段との目立った違いは二つ。

 流石にローファーで行くわけにもいかず、靴は普通の運動靴に変えたこと。もうひとつは雷華の刀が明確に姿を現していること。

 彼女は右の腰に睦月景から受け取った日本刀『霹靂』と愛刀『白狐』を身に着けている。また、体のどこかに拳銃を一丁、隠し持っているはずだ。それ以外にも、彼女は様々な武装をしている。

 旭は雷華から借り受けた日本刀を(『幻武』、という銘らしい)左手に持っている。家に得物はあるかと雷華に尋ねられたが、首を振った結果だ。本来、神薙家には代々伝わる『神切安綱』という日本刀があったのだが、これは神薙流継承の証なので祖父から神薙流を継承できなかった者として、祖父の体と共にあの世へ持って行ってもらっていた。今では神薙家の墓の下に、使い物にならなくなった鉄の棒が祖父の遺骨と共にあるだけだ。

 家にある訓練刀は全て大太刀である『神切安綱』を模してあるため、重く太い。線の細い『幻武』に一抹の不安を覚えるものの、日本刀などそう易々と手に入るものでもなし。贅沢は言っていられない。それに、雷華の感じから言ってこの刀もそれなりの業物なのだろう。

 二人、いつもの並木道。赤と黄色の絨毯の上を、誰もいない道を歩く。

「しっかし、本当に誰もいないな。本来、休日のこの時間帯には多くの人が通るはずなんだがな」

「当たり前よ。魔術師の『結界』に隙間があっては話にならないわ」

「『結界』、か。そして魔術、ね。ああ、そうだったな」

 歩く。学校に向かって。この一週間の答えを出すために。

「…………」

「…………」

 たどり着く正門前。通いなれた校舎を眼前に構え、呟く。

「で、ここにいる、本来一般人じゃ通ることの出来ない『敷居』を平然と跨いだ奴が、俺たちの敵なんだな?」

「そうよ」

 雷華は簡単に、しかし強く頷いた。旭はブレザーの右腕だけを外し、その手で自分の襟を掴むと、景気付けに勢い良くブレザーを脱ぎ捨てた。

「さて、それじゃあ行くか」

 自分に言い聞かせ、堂々と校門をくぐった。

 




「(枷壊術……発動。――三割開放)」

 作戦の第一段階は、まず敵を見つけるとこだ。

 枷壊術を起動させたままで、しかしあえて普段と同じだけの速度で旭と共に校舎を駆ける。

 この状態で行動すれば、集中力以外は普段と同じように動ける。筋繊維は切れないし、異常な情報量に脳がオーバーヒートを起こす心配も無い。それでも、いつ敵に襲われるかわからない状態で枷壊術を解いて行動するわけにもいかない。

 雷華は両の刀を抜身で構え走る。鞘は校門に置いてきた。旭は自己の流派に居合いの技があるのか、刀は鞘に刺したまま、手をかけるだけの姿勢だ。

 状況が普通でないことくらい、間違いなく敵は気が付いている。百二十パーセントの可能性でこちらを迎え撃つ姿勢にあるだろう。本職ではないにしろ、場合によってはトラップが仕掛けられている危険性もある。どちらかと言えば、ここはアウェイ。成り行き上仕方が無かったとはいえ、敵に陣地を作成するだけの余裕を与えたことは、念頭に置いておかなくてはならない。

 ルートは神薙邸での作戦通り、一階の端の教室から虱潰しに探している。

 次の教室へ当たる二年B組へ向かう廊下で、雷華はふと旭に目をやる。彼は頷く。

 それに頷き返し、雷華はスライド式の扉を蹴り開けた。

 そこには、机や椅子が全て大掃除の時のように後ろへ並べられた、部屋の半分が空けられた教室があった。

「なに!?」

 旭が呟く。それで、気が付いた。

「ッ! 飛んで!!」

 言うやいなや、雷華は三割の解放率で出せる最速のスピードで、旭の体を蹴るようにして教室へ押し込んだ。

 次の瞬間、風が唸り声を上げる音がして、体の脇を不可視の弾丸が、いや、『空気弾』が通り過ぎた。

「くっ」

 振り返りざまに敵を視認する。敵の姿は、肩の骨格などから恐らく男。だが、肝心の容姿は暗緑色のローブに阻まれて確認することが出来なかった。

 体は旭を押し込んだ蹴りを放った勢いのまま一回転。足が着地するのと同時に地面を噛む。

 だが、敵は再び空気弾を放つ。先程と同じように大気を切り裂く音が聞こえる。

 見えない、ということは恐ろしいことだ。

 雷華の枷壊術の完成度からいけば、瞬間的な開放密度を高めれば銃弾だって躱すことが出来る。だが、それはあくまでも銃弾が見えることが前提だ。弾の速さ、その大きさ、数。それらを視認することなく回避することは容易ではない。

 雷華は一瞬だけ、開放密度を上限一歩手前の六割まで上昇させる。着地した足で地面を穿つ。

 真横へ、飛ぶ。空中で前転を行って勢いを殺し、着地する前に枷壊術を三割まで戻す。

 その頃には、彼女がいた二年B組の入り口が、不自然な形にひしゃげていた。

 人の体が直撃すれば文字通り吹っ飛ぶ。単純なダメージ計算だけでもただの骨折では済むまい。

 恐らく、敵の魔導具。

 魔術を導くための道具。雷華の隠しナイフに始まり旭にした目隠しやこの両の日本刀も、そして男のまとっているローブも。全てはこのカテゴリーに分類される。


 だが、それでも男の持つそれ(恐らく形状は銃)は雷華の持つ諸刃の刀並に規格外。恐らく、【ヒノカグツチ】クラスの凄腕が造った一級品だ。

 普段よりも三割力強さを増した足が、廊下にエッジを立てて踏ん張る。見えなかった分、大きく跳びすぎた。

 距離にして約六メートル。

 刹那の移動、攻撃に転じるには、少しばかり広い。

 駆ける。

 ローブの男は空気弾を放った後に素早く身を翻し隣の教室、二年C組へその身を隠した。広い廊下では、規格外のスピードを誇る『枷壊士』を相手取るには不利と判断したのか。あるいは、罠か。

 二年B組の教室から人が起き上がる気配を感じながら、その前を疾走する。

 勢いに任せて突っ込まず、隣(二年C組)の教室の前で一旦ブレーキを踏んでから突入する。敷居を跨ぎ、視界が広がった瞬間、机と椅子が吹っ飛んできた。


 慌てず騒がず前回り受身で緊急回避を取り、その先、今度は普通に机と椅子が並べられた教室の窓際に、片手で扱えるタイプの大砲のような奇妙な形状の銃と、連射式の一般的で普遍的な機関銃を、ローブの裾から出してこちらに構える暗緑色の姿があった。

 ……あ、まずっ。

 という、自分の中だけで起こった一瞬の感覚的間の後、来るのは一斉掃射。

 再び開放密度を上げる。――今度は限界の七割。

 足に腱を痛めたような嫌な感触があった。そろそろ痛覚麻痺を使用しなくてはならなくなりそうだ。

 そうして、七割の枷壊術で逃れた先。敵との間合い、約三メートル。ギリギリ雷華の間合いだった。

 両手に構えた刀に力がこもる。攻撃を放つ瞬間、予想通りガス欠を起こした敵の魔術が途切れる。

 この瞬間、雷華は多少鍛えただけの一般的な人間の行動速度までスピードが落ち込んでいた。それでも、構わず切りかかった。

 しかしその時、敵の魔導具で飛ばされた机が彼女を襲う。

 正中線のやや左側に回転軸を作る。空中で左の『霹靂』を薙ぎ、机を真っ二つにする。

 ……さすがおばさま、良い仕事してるわ。

 そうして出来た空間に体をねじ込み右の『白狐』を敵の脳天から叩き落す。

 殺すためではない。次の己の動作のための間を稼ぐために。

 敵はすでに銃を手にしていない。一本の、いやに太い小太刀で雷華の刀を受け止めていた。

 弾かれる。逆らわず、流れるままに回転する。

 再び双刀による二連撃。

 敵魔術師は手にする小太刀で『白狐』を受けると、円を描いて『霹靂』も絡め取る。

 突きが来る。

 横の動作でそれをかわす。

 枷壊術の回復はまだだ。

 フードの奥の敵と、視線が交錯する。一瞬の間、再開される攻防。

 回転、斬撃、回避、薙ぎ払う。

 防御、後退、刺突、受け払う。

 夕暮れに染まる教室に響く、鉄と鉄の交錯する金切り声。円運動と円軌道の日本刀が飛び交い縺れ合う。

 攻撃と防御が明確に分かれた剣舞。徐々に、雷華は敵を端へ追い詰めていた。

 それでも、どうしても決定打が与えられない。

 雷華は焦っていた。枷壊術が戻るまで、持ち堪えなくてはならない。この剣舞を継続させなくてはならない。

 敵に、銃を握る隙を与えてはいけない。今の雷華には、それを避ける術がない。

 だが、焦ってはならない。冷静さを欠いてはいけない。

 戦局を、冷静に支配しなくてはならない。

 喉が焼ける。体が焦げる。頭が火照る。

 その先で、雷華は敵の剣撃を捉えた。

 右へステップを切る。より効率の良い動き方が、脳内になだれ込んで来る。

 積み上げてきた経験が、何秒も先の自分を、敵を、戦局を、全てを取り込んで脳内で再構成する。未来が見える。

 その未来を辿る。軌跡をなぞる。

 斜め前に回転軸を作り、飛び込みながら時間差の二連を振るう。

 それらはこれまで通り、敵の小太刀の作る円へ絡め取られる。

 これまでと違うのは小太刀の、凹凸を有する峰。これまで敵が巧妙に隠していたその部分に双刀が絡められている事。

 ソードブレイカー。武器を叩き落したり、破壊することを目的にした武器である。

 刀はそのまま捻られ、回され、そして、弾き飛ばされる。

「ッ!!」

 足元に零れる二本の刀。作られる最初にして最大の隙。

 敵魔術師に与えられた、銃を抜く時間。

 雷華に、刀を拾っているだけの時間は無い。枷壊術は、結局間に合わなかった。

 ローブの奥へ片手が吸い込まれていくのが、アドレナリンの分泌で遅々として進まない時の中で、嫌に良く見えた。

 そして、その奥の光景も。

 少女は構築された己の未来図の達成に、笑みを零した。






 旭は、雷華に飛ばされて二年B組の教室の中へ転がり込むと、すぐに起き上がった。

 立ち上がりながら、教室の前を疾走していく雷華が見えた。半端じゃないスピードだった。それこそ、百メートルを五秒で走り切りそうな速度だ。

 アレが、魔術。

 魔力など無く、誰もが無意識に使っているものを、ただ意図的に使用するだけという、十二の家系にのみ伝わる秘伝。

 全ては己が内側のみで完結させてしまう、自己暗示に依る神無月の魔術。枷壊術。

 急ぎ廊下へ戻る。

 敵と雷華は隣の教室に移動していた。

 重い物体が吹き飛ぶ音。刀が振るわれ、何かを切りつける音。鍔迫り合いの音。

 夕方の学校で行われる、どこまでも非現実的な音色。

 開幕には立ち会えなかった。命の削り合いによる恐怖と同じくらい、重要な場面に自己が居なかった事に恐怖する。

 強迫観念にも似たなにかに突き動かされて、旭も急いで二年C組へ向かう。

 そこには、剣技で敵を圧倒する雷華の姿があった。

 一瞬、出て行って良いものか躊躇する。左に握った『幻武』の鞘に、思わず力がこもる。

 だがそれも一瞬。

 あの雷華の剣撃に合わせるだけの自信は、ある。

 真剣を人間に向ける、という恐怖も、もちろんある。 

 それでも、自分はこんな所で終わるわけにはいかない。ここで、誰よりも強いことを証明しなくてはいけない。

 ……神薙旭が自分という存在を信仰し続けるには、自身を持って自己に証明しなくてはならない。神薙旭は神薙旭という存在を持って、信仰に報わねばならない。俺は他の誰でもない俺に証明したい。俺の努力は無駄ではなかったと。意味があったのだと。ここに示したい。努力は必ず報われるなんてのは綺麗事で、この世のどこにも存在しなくとも、それでも意味はあり、望んだ結末へ近づけるのだと、説得したい。論拠が欲しい。確かを信じることはできなくとも、微かを期待する可能性を得たい。俺は死ぬまで俺を信じ続けていたい。

 廻る思考がひとつの解を伴い、旭は鞘を握り直し決意を固める。

 教室に駆けた。その時、雷華がアイコンタクトを送ってきた。

 行ってもいい、と。

 来い、と。

 旭は鞘と、そしてそこから生える柄を構えた。左手で鍔を軽く弾く。その間に起こったことなど関係ない。

 例え、雷華が刀を取り落としていても、

 例え、敵が銃を取り出していたとしても。

 敵を討てばそれで勝ち、ここで迷えば雷華が危ない。

 なにより、神薙流は全自動。一度固めた意志を、曲げることは出来ない。

 ……攻刃・『羅刹』。

 居合い抜きによる下段一閃。

 大怪我は免れないだろうが、これで捕った、と旭は思った。しかし――。

 全ては勝利を確信したまま動いた彼の慢心がいけなかった。その慢心さえ無ければ、攻撃を避けられるのはともかく反撃の一撃を食らうことはなかった。

 暗転する視界。光陰を繰り返す世界。

 なにが起こったのが、よく、分からなかった。

 ただ急速に力が抜けていくという虚脱感。

 ふらつく足元。後退していく時間。

 天井が遠のいて、無意識に掴んだその手が敵のローブのようなものを掴み、

 顔を露わにした魔術師――。

「それでは、おやすみ」

 仙波影斗が、温和な笑みを浮かべているのが最後に見えた。

 そして、それが旭の見た最後の光景だった。





 全ては一瞬だった。

 視界に教室を駆ける旭を捉え、敵のソードブレイカーに“わざと”引っかかり、

 銃を抜く隙を与え、そこに出来た銃を抜くという隙に旭を滑り込ませた。

 そうして、旭だけでなく雷華でさえも勝利を確信した。

 ただ、二人の違いは勝利を確信してなお万全を期そうとする性質でもなく、ましてや能力の差でもない、経験の差だった。

 雷華は勝利に笑みはしても安心に笑みはしなかった。だから、旭の攻撃の成功を信じてなお、自らの胸――ブレザーの内ポケット――に手を滑り込ませることを忘れなかった。

 全ては一瞬の出来事だった。

 旭の放った下段への一閃は確かに敵の足元を捕らえた。だが、結果から見てなお正確を期すならば、それは敵のローブを、だった。

 敵は見もせずに背後から迫る剣撃を、予備動作も無しに、まるで縄跳びでも飛ぶかのようにローブの内側でひとっ跳びに回避したのだ。

 そうした中、取り出した新たな拳銃のグリップ底で旭の首筋に一撃を加えた。

「それでは、おやすみ」

 膝から崩れ落ちる旭にローブを剥ぎ取られ、そうしてようやく姿を現した魔術師の姿は、B組の、旭や瑠夏の担任にして社会科教諭、仙波影斗そのひとだった。

 雷華はすでに見当違いな喜びを焦りに変えて、己の拳銃を抜かんとする所だった。

 仙波は温和な笑みを崩さぬまま、邪魔になった旭を蹴り飛ばし、

 雷華と全く同時に、互いの敵対者、その心臓へ――。

 ――胸倉でも掴み合っているかのような距離。互いに半身になって、片手で銃を構える。

「できれば、今回は最後まで姿を見せずに終わらせたかったんだがな」

 何気ない口調で呟く魔術師。

 校舎の影から現れた黄昏の炎が、橙色に教室を染め上げた。





〔幕間〕



 『それ』が人間と出会い、『それ』だった私が『私』に変わる過程。『家』に決別を誓うその少し前。『それ』は人間と共にいた。共に在った。長い時間を、共に。いつの間にか『それ』は相手に特別な何かを感じるようになっていた。更なる時間が過ぎ、人間(かのじょ)は『それ』の子を身ごもった。

 そして、やがて来る破滅。

 人間――長い時を共に在った女性の、暗殺命令。

 今思えばそれは当然の帰結。女性の親も、暗殺されるだけの意味や価値があったからこそ『それ』と女性は出会えた。標的と同じ家系に名を連ねる彼女にその価値が生まれてしまうことにはなんら不自然は無い。そうして『それ』のもとに暗殺命令は下った。

 『それ』だった『私』に、逆らうという選択肢は無かった。ただ、不可解な頭痛と吐き気、このままでは死んでしまうのではないかと思うほどの息苦しさの中で、その人間を、最愛の女性と自分の子供を、『それ』は殺した。

 ただ従うだけだった自分が憎かった。

 だから滅茶苦茶にしてやろうと思った。自分と、自分を取り巻く世界を。この狂った仕組みを、魔術師という生き物を。根絶やしにしてやろうと思った。

 そうすることがせめてもの罪滅ぼしだと思ったし、そんなことでは救われないことも分かっていた。

 それでも、そうした復讐心を抱かなければ『私』は立ち行かなくなっていた。原動力が必要だった。燃料が必要だった。

 最愛の女性と守るべきだった者を喰らって生きるこの身は、滅びることさえ決して許されるものではなかった……。






 落ちて行く。闇の淵へ。

 堕ちて行く。死の底へ。

 ……ああ、今回は違う。

 と、旭は確かにこれまでとの違いを感じた。

 雷華の見立ては正しかった。これは、今までの夢とは確実に異質なものだった。

 ふわり、と。旭は己の『意思』をもって闇の中へ降り立つ。

 不思議な感覚だった。

 足場など無いのに、そう『意思』を固めただけで、体も、周囲も、世界さえも、その在り方を変えた。

 そうしてここが夢の中であるということを旭は再認識した。

 そして、この感覚こそが『魔術』。

 夢の中、という本来ありえない、本来全て自分の無意識だけで構成されている空間だからこそ、自分のように特別な訓練を受けていない者にも擬似的に『魔術』が使えるわけだが。

 それでも実感というものは大切だ。彼は、確かな手ごたえを感じていた。

 そうして闇の中を歩き出す。

 雷華と練った作戦の中には、最後の影夢を見てしまった場合の行動も含まれていた。

 ……ここに現れる“何か”と戦い、それを討つ。

 そして、雷華が解術の暗示を手に入れるのを待つ。それが何時間かかるのか、何日かかるのか、それは分からない。だが、旭はそれでも、今この時をもってしても死ぬ気は全く無かった。

 一般人なら手の打ちようはなかった。だが、旭は聞いただけとはいえ『魔術』を知っていた。

 ……いい? 神薙。文月の暗示、今回は夢だけど、それに抵抗するという事は擬似的とはいえ魔術を使うということよ。

 彼女は言った。

 ならば、使いこなして見せよう。

 『魔術』、を。

 やがて目の前には鏡が現れる。完全なる闇に現れる鏡。

 それは、もはや自分がもうひとり居るという光景に他ならなかった。

 鏡に映る学生服の神薙旭。

 互いに左手には日本刀。

 ここに来て互いに語り合う事など無い。

 夢と現実の違いは、鏡に映る日本刀が雷華から借り受けた『幻武』ではないところと、服装くらいだ。

 鞘はすでに無い。夢に堕ちる時に取り落とした。刀を落とさなくて良かった。そして、抜身の刀身を構える。


 ……攻刃・『虎月(こげつ)』。

 影が持つのは神薙家に伝わる、伝わっていた家宝、『神切安綱』だった。

 一合目は空振りに終わった。

 影はバックステップで横薙ぎの剣撃を逃れると、下がった反動でこちらへ突きを放ってくる。

 旭を襲うのは当然のごとく神薙流。己の使う流派。

 ……じじいが死んで以来、か。

 ちくりと、その想いが胸を焦がす。


 ……守刃・『蜻蛉(かげろう)』。

 突きに対する対処法。戦局にあわせて全自動で組み上がるひたすらに積み重ねられた戦闘理念。それを己が体を持って再生する。

 最小限の横の動きで剣先から逃れ、振るった『幻武』を体へ引き戻し、立てた状態でこちらへ一直線に伸びる敵の刀の表面を滑らせる。

 鉄の磨れる摩擦音。

 懐へ潜り込む。

 そのまま柄尻で影の鳩尾を狙う。

 流れる体、意思、戦局。その全てに身を任せ、感情の生まれる余地を埋めていく。

 戦う機械へ。正確で精密に高速を。そう在る様に敵を討つ。影は突きを躱すとその勢いを殺さずにそのまま前へ逃れようとする。

 打撃は近ければ近いほど威力が増すわけではない。一つひとつの打撃には攻撃した人間の意図があり、その意図にはそれに相応しい打点がある。相応しい打点から遠ざかるのは、なにも射程から逃げるだけが全てではない。むしろ、近づけば近づいただけ威力は無くなり反撃への無駄も減らせる。

 柄尻で叩いた打点は完全にゼロ距離まで縮められていた。故に無威力。ノーダメージ。

 むしろ体の勢いに押されて旭は体勢を崩してしまう。

 影はそのまま至近距離で攻撃を繰り出してくる。

「クッ」

 旭は『幻武』を両手で持って左上段めがけて切り上げる。

 影は、空を跳び宙で反転。『神切安綱』でもってこちらの顔面へ、片手で下段に叩き込む。

 そこで激突する刀と刀。

「なに!?」

 暗黒の夢の中。斬り合う影二つ。その内ひとつの持つ刀。

 雷華の刀、『幻武』が――折れた。





「ある意味、無傷のあなたとこうして話をする機会を持てたのは、幸運だったのかもしれないわね」

「はは、私が魔術師だったことについてはノーコメントか? 結構意外な黒幕だと、自分でも思っていたんだがな」

 心臓に照準を当てたまま、二人は微動だにせず口だけを動かす。

 一メートル先には、仙波に蹴り飛ばされた旭が転がっている。動かない所を見ると完全に意識を失っているようだ。

 正直、状況はあまり芳しくない。幸運、というのもあくまで不幸中の幸い程度だ。

 仙波影斗、いや、文月影斗は構わず続ける。

「名乗るのが礼儀かな? 【タケミカヅチ】」

 温和な笑みを今は皮肉に歪めて、言った。

 魔術師が相手の二つ名を口にするのは敬意か敵意の二つに一つだ。現状は、言うまでも無い。

「私は序列七番目の魔術師・『催死鬼』、【イザナミ】文月影斗だ。おっと、憶えておく必要も名乗る必要も無い。どの道、私達のどちらかは消える事になるのだからな」

 この教師はこんな時でも、異常なほどに気さくに言った。

「あなたの軽口に付き合っている暇は無いの、文月」

「そうだったな、私はともかくお前は私を殺せないんだったな、神無月」

 ギリ、と奥歯が音を立てて軋む。

「当主から『家令』が出ているんだろ? 『絶対に敵を殺してはならない』という意味深な命令が」

 それは、旭にも言えなかった敵を殺せない本当の理由。

 当主〈神有月〉から出された絶対の命令だ。

 一体何故、この男がそれを知っている。

 目の前の敵がどれだけの情報を有しているのかが計り知れない。

 昨日受けたばかりの『家令』が――しかも雷華自身が〈神有月〉と一対一の会話の中で受けた最重要命令が、すでに外へ漏れているなど、普通に考えればありえない。これではまるで、【アマテラス】を味方につけているような早さと正確さだ。睦月景を味方につける、というのが一番ありえない話ではあるが。

 文月の魔術師はひとり朗々と話し続ける。

「まあ、そこのガキを救いたいお前にとっちゃ、願ってもない話だったようだが」

 その言葉に、拳銃を握る手が震える。

 頭に血が上る。集中力が足りない。……魔術師に、成りきれていない。

 ……駄目だ!

 これは魔術戦だ。敵の口車に乗ってはいけない。今は、折角のこの膠着状態を上手く活用しなくてはならない。

 文月はまだ喋り続ける。

「しかし、私としてもこうした形での決着は意外なんだ。私の見解では神無月は神薙旭を見捨てて次の人物を立てるのだとばかり思っていた。いやいや、そっちの対策ばかりにかまけて本来の目的が多少おざなりになっていたようだ」

 心を震わせてはいけない。必要にして十分、適確にして必然の言葉を。

 論理の拮抗を図る。

「いったい何が目的? ここまで大々的に管轄界の侵犯を行ってまで、文月は何がしたいって言うの?」

「そういきり立つなよ、ゆっくり行こうぜ神無月。だいたい、お前が聞きたいのはそんなことじゃないだろう?」

「…………」

 情報量に絶対的で絶望的なまでの差がある。

 この男、いったいどこまで知っている。

 数秒の沈黙。

 完全に会話の主導権を奪われている。

 かといって、いつまでもだんまりを決め込むわけにも行かない。

 旭がどのくらい持ちこたえられるのか、それは誰にも分からない。決着は早ければ早いほど良い。

 ここは、会話を進めるしかない。

「解術の暗示を大人しくよこしなさい」

「ああ、素直でいい、いいぞ神無月。悪くない」

 文月はのらりくらりとこちらの言葉をかわしていく。

 言葉に手ごたえを感じない。

「ところで神無月。どうして文月の暗示には解術方法があるのか、考えたことはあるか?」

 そういう仕組みだから、ではないのだろうか。

「まさか、そういう仕組み、とでも考えていないだろうな?」

 図星を突かれた。が、今回は平静を保ちきる。保ちきれたはずだ。

 文月が鼻にかかった嫌な笑いを漏らす。

「おいおいおい。考えても見ろ。お前は武器を作り上げる時にわざわざ自爆装置をつけるのか? つけないだろう。攻撃するためのものに、攻撃をキャンセルする部品なんざ本来必要ないんだよ。回避は使用者の役目で、我々の暗示は武器そのものだ」

 しかし文月はそこまで一気に捲し立てると、

「あー、例示にミスったか? そうか、そうだったな。お前ら神無月は壊す者で造る者じゃなかったな。悪い悪い」

 勝手に話を自己完結させていた。

「で、だ。文月の暗示――『催死術』に解術法があるのはな、神無月。作戦の変更にも十分に対応するためだ」

 そしてまだまだ続く文月の演説。

 敵の意図が読めない。思考がトレースできない。

 何を考えているのか。何をたくらんでいるのか。

 それら文月のルールをこちらへ漏らす事に、いったいどのような利点がありどのような効果があるのか。魔術師のやることに無駄はありえない。何かしらの意図があるはずなのだ。それを読み取れれば裏をかけるかもしれない。だが、それができなければ敵の思う壺だ。

 ……焦ってはいけない。

 しかし背筋は、もはや周囲の気温が分からないほどに感覚器官を狂わされている。背骨には冷たい冷気が密集し、一瞬後には融解した鉄を流し込まれる。毛穴が痛いくらいに開閉を繰り返す。

「例えば対象を人質に使う時、例えば対象に価値が無くなった時、例えば事情により対象を殺してはならなくなった時。そういった時、柔軟に動けるように、文月には解術方法を作っておかねばならないという決まりがある」

 何故ここで、

 何故たった今、

 何故こんな状況で、

 それをこちらへ伝えるのか。

 前提を懇切丁寧に説明する時は、大抵の場合がそれを次でひっくり返す場合だが……。

「では質問だ、神無月。例えば『家令』でさえも聞く必要が無くなった文月が、どんなことがあっても必殺したい邪魔者を相手にした場合に解術なんていう無駄な手順を踏むだろうか?」

「ッ!!」

 その必然性に気づいた瞬間。

 凍る視界。冷える四肢。冴える思考。

 氷水でもかぶったかのような感覚だ。

「貴様、一体どういうつもりだ!」

 一気に戻る集中力。

 今更戻る枷壊術。最大出力は三割。

 銃弾を避けるほどのスピードは望めないが、隙さえつけば、『いける』。

 だが、

「枷壊術ならやめておけ、神無月。私には、枷壊術の使用が視認できる」

「!!」

 あるいはただのハッタリだったのか。枷壊術の使用が外見から判断できるなどといった話は聞いたことがない。

 だが、どちらにした所でもう手遅れ。驚いてしまった時点ですでに不意打ちには失敗している。

「はは、しかし君は話が早くて助かる。私は馬鹿が嫌いなんだ。私のような、馬鹿な人間がね」

 そう、話は分かった。分かってしまった。

 この男が、神薙旭に人質としての価値を全く感じていないということに。

 これまでだって十分理解不能な行動だったのに、ここまでくるともはや理解不能などという言葉でこの男を括る事は出来ない。トレースなど、出来るわけが無い。

 狂っている。

「そう、君が察したように私は文月として動いているわけではない。一人単独で管轄界を侵し、君たち神無月に喧嘩を売っているわけだ。『家』には内緒でな」

 セオリーが、魔術師としての常識が通用しない。

「私にとって、神薙旭は必殺の布石だ。魔術師社会全体を巻き込んだ喧嘩の引き金となってくれる、重要な駒であり起爆剤だ」

 雷華はすぐそこで横たわる旭に移しそうになる視線を、必死に敵へ固定する。

 それではつまり……。

「神薙旭にかけた暗示に、解術方法は無い」





 折れる刀。

 次撃を構える影。

 遊離する意識。

 一瞬一瞬が静止画のようにスライドを繰り返す。恐怖すら覚える間もない無我の時間がのっぺりと動き出す。

 刀を横に構える影の前、何も考えていなかった。

 ただそう在る様に動いた。

 当て身。空中から着地したばかりの敵がバランスを崩す。

 追撃に右の蹴りを敵の腹へ叩き込んだ。影の構えが完全に解ける。

 同時、二人の足が地面を軽く弾き、バックステップで距離を取る。

 距離にして間合い五メートル。腹への蹴りは完全に決まっていたはずなのに、影はバランスを崩す以外にはダメージらしいダメージを受けた形跡が無い。

 ……どういうことだ。

 影はゆっくりとした足運びで少しずつ距離を詰めてくる。

 旭はそれから逃れるように距離を保つ。

 ……そして、どうする。

 敵の得物は日本刀が一本。対してこちらはもはや丸腰。『幻武』は意識を外した途端に見つけられなくなった。

 ……どうする、どうする、どうする。

 急いてはいけない。心臓は極度の緊張に今にも張り裂けそうで、呼吸は戦闘が始まってからまともに吸う事も吐く事も出来ない。

 死を賭した戦い。

 これまでに自分が経験してきたどれとも全く異なる存在。それが寄り添ってくる。死を肌で感じる。焼け付くようだった。

 それでも、急いてはいけない。

 なにもかも見逃してはいけない。

 この間合いならば受けに徹する限りは負けはない。

 “敵(旭の影)”もそれが分かっているから、絶対優位なこの状態でも無闇に切りかかってこない。

 考えろ、この絶対不利を覆すなにかを。

 考えろ、生きて明日へ帰る方法を。

 何かあるはずだ。

 鼓動の音が思考を阻害する。

 考えろ、考えろ、考えろ。

 頭が痛い。酸素が足りない。脳細胞が足りない。

 あれだけ溜め込んだ知識が、土壇場では何の役にも立たない。

 考えが足らない。

 答えが、ない。

 ……止めろ。思考を停止させるな。まだ生きてるお前にその資格はない。

 自分に声をかける。

 思考を進めろ。戦いを再開させろ。敵を討て。

 敵と向かい合いながら、互いにフットワークに集中して間合いを保つ。

 そうして旭はポケットを探る。

 何か、何か武器になるようなものは……。

 探る。しかし、何も無い。

 ……くそ、これなら普段からポケットにペンの一本でも入れておけば、……ん?

 ポケットに入れておく、という言葉に引っ掛かりを覚える。

 確か、制服の左ポケットには魔除けのルビー、その残骸が入っていたはず。

 脳裏に、ハンカチで包んだ雷華のルビーがよぎる。

 もう一度、左のポケットへ手を突っ込む。

「……え?」

 あった。

 さっきまで無かったハンカチが、そして恐らくこれに包まれたルビーが、今度はあった。

 さっきまで無かった物が、今度はあった。

 ……と、いうことは。

 その事実、そのルールに再び頭が回転を始める。

 そもそも、なぜ旭はこの姿――制服姿でここ(夢の中)にいる。

 それはもちろん、ここへ堕ちて来る前にその姿だったからだ。

 だが、これまでの夢は決して寝る前と同じ姿ではなかった。

 当たり前だ。夢の中なのだからそんな縛りがあるはずが無い。

 つまり、起きていた時の格好は直接的には関係が無い。

 何故、ルビーは最初探した時にはポケットに無かったのか。

 逆に、どうすることでルビーは旭の手元へやってきたのか。

 ……ここはどこで、どんな場所だ?

 それらを並べ、そうして己にもう一度問う。

 では何故、自分はこの姿なのか?

 それは、今の自分はこういう姿であると、“旭自身が”『認識』しているから。

 『認識』。

 繋がっていく。

 夢の中、形作られていく。

 それは、己の頭の中に存在する世界。

「そういうことか」

 一歩、影に向かって歩を進める。

 右手を開き、頭の中で明確な形を思い描く。色、長さ、重さ、質感、臭いに至るまで、己が持てる全てをもって一本の刀を再生する。集中力を一点に絞る。そこに、まるで刀があるかのように両の手を上段へ構える。迷いは無い。ここは自分の夢の中。思い描けば世界でさえも変えてみせる。なんだ、そんなこと、ここへ来て一番最初に理解したルールじゃないか。

 影が、低く屈んで刀を横に構える。

 足の筋肉が力を溜め込み、こちらへ刀を振るわんと唸り声を上げる。

 刹那、旭が真正面から影が跳んだ。

「来い。『神切安綱』――」

 同じ長さ、同じ重さ、同じ素材。

 同じ使用者、同じ銘。

 “神薙旭”が放ち合った『神切安綱』は、乾いた甲高い音を立てて、今度こそがっぷり四つに組み合った。

 息遣いさえ伝わってしまうような至近距離。

 刀二本を挟んで向かい合う全く同じ顔はしかし、浮かべる表情は全く違う。

 旭は歯をむき出しにして全力で影の刀を受ける。

 一方、影は馬鹿にするような表情で、旭を品定めするような余裕の表情。常に相手を見下げる上に立つ者の視線だ。

 ……どういう、ことだ。

 刀は一瞬でも気を緩めれば押し切られてしまうような力だ。

 こんな、余裕を持ったままで出せるような力では決してない。これが全力のはずだ。

 それを証明するように、影はそれ以上の力を発揮してこない。できない。

「これ以上戦ってその先に何を望む。疲れたんだろ? いい加減認めろよ。分かってるんだろう? お前は意地になってるだけだ。実際、それほど生への執着もないくせに。なあ、“旭(おれ)”」

 そんなことはない。自分はまだ生きたい。

 まだ、やるべき事が残っている。

「やるべき事、か。またそれだ。それは、その思いは、本当にお前のものなのか? だいたい、やるべき事とはなんだ。他人から与えられた目的意識など振りかざして、さもそれが自分のもののように振舞う。お前は一体誰なんだ?」

「黙れ!」

 競り合っていた刀を弾き、無我夢中で『神切安綱』を振るう。

 振り下ろす。切り上げる。薙ぎ払う。押す。

 押して押して押し続ける。

「だあああああああああああああ!!」

 足を前へ。

 ひたすらに刀を振るう。

 それら全てを影は後退しながらも涼しげな顔で捌く。

「感情を否定してはがらんどうの殻に自分を押し込める」

 呼吸などとうに忘れた。

 己の体を機械と成して、ただひたすらに刀を振るう。

「己の本質などに眼を向けることもなく、ただひたすらに自分というものから逃避する」

 体が軋む。

 思考を止めて、理性を捨てて、本能のままに刀を振るう。

「逃げていることさえ否定して、そうして答えのない自己矛盾の輪に囚われる」

 頭蓋骨が熱い。血管がブチ切れそうだ。それすらも燃料へ変えて、何かを守るように刀を振るう。

「いつしかそれすらも当たり前となり、感覚は麻痺して己の置かれている状態すら誤認する」

 視界がぼやける。

 自分自身を超越して、そんなにも走り続けて、それでもまた見えてくる自分の背中。

「そんなに負けるのが怖いか」

「うああああああああああッ!!」

 旭は叫び声を上げて更なる一刀を放つ。





 夕焼けの教室には拳銃を構えた二人の人間を描いた影絵が浮かび上がる。

 堕ち日の直射を受けて、雷華と文月の影は長く伸びる。

 その姿、その在り方を大きくする。

 影。影法師。そして、ドッペルゲンガー。

「影。多次元での自己投影。私の暗示が象徴する死の因子。神薙旭にかけた催死術の『概念』だ」

 文月の饒舌は留まる所を知らない。

 魔術師の教えには、魔術戦では敵よりもより多く、より強く、言葉を繰れ、というのがある。

 変わり者や曲がり者が多い魔術師の中にあって、文月影斗は基本に忠実で奇をてらわず、手堅く堅実に戦局を転がしてくる。

 作戦だけじゃない。この男は己の扱い方にさえ隙というものが無い。

 だが、それでも自分の魔術についてまでわざわざ敵に教えてくるなんてことは普通ありえない。確かにその話ならば自分ひとりの独壇場である上に、相手も無関心ではいられないネタなので対魔術師必中の話術ではある。だが、それでも払う値と得る値が釣り合うことは無い。

 自己の鍛錬の成果。容易に盗めるようなものではないとはいえ、それでも種を明かしてしまえば魔術は通用しづらくなる。さらには対策も立てられてしまう。それはあくまで次回があれば、の話ではあるが。

 ……ここで私を必ず仕留められるという自信の表れ、ってとこかしら。

 舐められたものだ。

 なんの準備も無しに戦場へ飛び込んできたとでも思っているのだろうか。

 この状況は、旭のことさえ差し引けば雷華にとって、思い描いた最高の立ち位置だというのに。

 そう、旭のことさえ、差し引けば。

 とにかく、彼はまだ生きている。戦っている。

 協力者として、言葉に出来ない感謝の気持ちとして、その気持ちを抱いてしまった恨み言を言うために、雷華はまだ戦わなくてはならない。

 なにより、『家令』は絶対だ。

 隙が無いなら作るまで。そのために、文月の言葉に耳を傾ける。

「我が魔術は影という『概念』が内包するもうひとりの自分、己という他人、等号にして不等号の記号をもって主人格を塗りつぶすことで成立する。影にカタチがあれば表へ出てこれるのかもしれないが、生憎イコールで結ばれていたところでXとYは別物だ。持ち主を失った体は心肺停止という形で矛盾を解決する」

 塗りつぶす。

 旭は夢の中で幾度と無く自分の影と戦ったと言っていた。

 その夢の中で影に殺されると視界が全て闇に呑まれ、やがて朝が来るのだと。

 今回の夢が本命ならば、そこから導き出される敗北――死亡条件は影に負けること。しかし、裏をかけば、影に勝つことが出来れば、もしかしたら暗示を破れるのではないだろうか。


「では、体の持ち主が影に勝利すれば、どこにも矛盾は生まれなくなるという事ね。あなたの扱う『概念』は【死】ではなく【影】。死は応用で、あくまで二次的なものなのだから」

 久しぶりに言葉を発した気がする。口の中がカラカラだ。濁った唾液が喉の奥に絡みつき、気持ちが悪い。

「二次的、という部分に喜んでいるようだな、神無月。だがな、そもそもお前たちに無縁のものだろうが【死】という『概念』は弱い。あまりにも抽象的で、あまりに括る範囲が大きすぎる。それでは魔術に満足な効果は望めない」

 挑発的な物言い。お前たちには解らないだろう? と。

 雷華を、神無月を挑発している。

 これらは魔術構築理論における初歩の初歩。知らないはずが無い。

 だがこの文月が使う魔術が百パーセント【死】の『概念』使いでないと、初めから決めてかかることは出来ない。魔術師を相手に「有り得ない」、などといった言い訳は通用しない。そんな時期はとうに過ぎた。

「一方、【影】は具体的で身近にあり、かつ象徴的なモノだ。影はその身を暗示する。縫い付ける事でその身を捕らえ、捕らえることで焚きつけて、そうやって自分が自分を殺すと言う矛盾論理へと追い込む」

 縫い付ける。焚きつける。自分を殺す。

「影とその実像は切っても切り離せない。互いに相互作用し続ける。自分が消えれば影も消える。影が無ければそこに実像は無い」

 そんな馬鹿なことは無い。相互作用などしない。影と己の関係など所詮一方通行だ。

「戯言を。夜が来れば影は無くなる。それでも己は存在できる。ふざけた詭弁を弄するな、文月」

 文月が我が意を得たりと、にやりと笑う。

「違うな。夜が来れば影はその存在を大きくするだけだ。世界そのものが全て影となるのだから、無くなってなどいない。むしろ夜こそが影の真骨頂。狭苦しい器を抜け出して世界を自由に渡り歩く影の時間だ」

「器が無くなった時点でその影は己の影では無くなる。それは世界の影であって己の影ではない。己の影が消えても己は無くならない」

「それこそ馬鹿な話だ。これだから神無月はいけない。世界とはつまり己も他人も周囲も、全て含んでこそ世界だ。生きている限り人は影から逃れることは出来ない。影が無くなる時は死ぬ時だけだ」

 やっと得た会話の手応え。ここを取り逃してはいけない。

「建物の中ならば影はない。その論理は破綻している」

「建物の中にも影はある。薄くて見えにくいだけだ。存在が希薄な事と、存在していない事は大きく違う。光あるところに影は必ず出来る。影のある所に人は必ずいる。影が行っていることは必ず人が行っている」

 違う。奴の言っている事はおかしい。

 おかしい所が多すぎて、指摘が追いつかない。

 『概念』を『定義』させてはならない。

 そのために、情報を引き出さなくてはならない。

 切り口を変える。

「では影が無いという事は死んでいるという事。では人が生きる限り影は無くならない。例え斬ったとしても、例え殺したとしても。どんな事をしようと人が生きる限り影は無くならない。影があるということは、その人間が生きている」

 否定では埒が明かない。

 論理を用意されている以上、こちらが不利なことは明白。ならば自分に都合の良い部分だけを強調して認めていく。敵がそれを否定してくれればその時点で論理を破綻させられる。肯定すれば肯定した部分の論理は埋まる。敵の自由にはならない。

 と、そこで。

「解術の方法が無いと分かれば次は対象が自力で助かる方法の模索か? やめておけ。いらぬ期待は戦場において判断を鈍らせる。だいたい、これはそこのガキがそう考えている限り、永遠に助かる術は見つからない類のものだ」

「!」

 助かる術は見つからない、と言った。

 男は自分の失言に気が付いただろうか。それとも、これでさえも男にとっては些末な問題なのだろうか。

 見つからない、ということはどこかには在る、ということだ。

 魔術師はこういう時、言い回しに長けている分ぼろが出やすい。

 物事を厳密に言う癖が付いているせいで、言葉の端々にヒントがにじみ出る。

 ――これはそこのガキがそう考えている限り……。

 旭の考え、彼の持つ“歪み”、抱える矛盾。

 雷華の考えていることが正しければ、助かる糸口はある。

 旭の“歪み”。

 文月がそれを魔術のキッカケに使っているならば、そして、旭が自身の“歪み”を直視することができれば、

 雷華が認識した、神薙旭という人物ならば、勝てる望みはある。

 ともかく、光明は見えた。希望は捨ててはならない。

「ぬか喜びのところ悪いが、見つからない、というのは言葉のあやだぞ神無月。私の用意する影は実に精巧だ。戦う相手が本人である限り、決して勝つことは叶わない」

 雷華はうっすらと苦笑いを浮かべ、冷や汗をやり過ごす。

 この男、心でも見えるのではないだろうか。

 生半可な読心術ではない。

 文月は新たな切り口を得たようで、再び話し続ける。様子を見るために放った言葉でさえも、相手は絡めとり自分の糧とする。不用意に喋る事も出来ない。形勢は押され続けで時計は時を刻む。

「影とはつまり自分だ。それを倒す事はできない。実力は同等。己と戦っているのだから終わるわけが無い。鏡と戦っているのを想像すれば話は早い。刀を切り下ろせば鏡の境界面でぶつかり合い、拳を突き出せば拳がぶつかり合う」

 鏡、とは恐らく比喩。旭の話では、影は勝手に動き回ると言う。動き回り、命を狙うと言う。

 鏡。

 だが、そういうことなのだろう。攻撃しても当たらず攻撃されても当たらない。鏡という比喩は、旭の話から受ける影の戦い方の印象にピタリと嵌る。

「だが影は己だが己は影ではない。影はあくまで己を投影した存在。人間ではない。人間はやがて疲れる。疲労する。擦り切れる。永遠に終わらない戦いに放り込まれたら誰だってそうなる。肉体よりも先に、精神が疲弊する。……肉体など夢の中にはどこにも在りはしないのに、な」

 言論の隙が無いのなら肉体の隙を狙う。日本刀もだが、銃と言う武器は外見以上に重い。

 だが喋り続ける間、文月の拳銃はぴくりとも動かない。すでに結構な時間が過ぎているはずなのに、少しもだ。

「神薙旭が刀を持った経験があったのは手っ取り早かった。神薙グループの御曹司だったこともあって、あの歳にして生き死にについて真剣に考えたことのあるというのもでかい。死を身近に感じたことがある人間ほどこれは効果的な魔術だ」

 雷華は女であろうと神無月の魔術師だ。一般人など言うに及ばず、魔術師の中でも最高位の運動能力と、そして鍛錬を積んできている。

 文月は暗殺などの専門で、戦闘は得意としない家だ。もしかしたら長引かせれば腕の痺れを狙えるかもといった希望的観測も持っていたが、それは捨てた方が賢明のようだ。先の接近戦でも感じたが、どうやらこの男は肉体の方も規格外のようだ。

 クジ運は昔から良い方だったが、ここまでくるとその能力もどうかと思う。ゴマンと居る文月の魔術師の中で、ハズレというには余りにも稀少な存在を引き当ててしまったらしい。

「影は夢の中にある限り無敵。なにせその空間の創造主だからな。同じ実力、同じ思考回路、同じ身体能力、異なる起源。人は人である限り人でないモノに勝利する事は叶わない。人でない影に人としての限界はない。肉体の疲労も精神の疲弊も、影には存在しない。……故に必勝」

 そこで、文月が初めて動いた。これまで身動ぎひとつしなかった文月影斗が、動いた。

 空いている左手に銀色の痩躯、ボールペンよりもやや長さが足りないほどの長さの突起物を出現させる。それこそ、マジシャンのように。

 雷華は隠し武器の突然の登場に機敏に反応する。腰元から短刀を抜き出す。

 互いに、拳銃を動かすという愚は犯さない。どちらの銃口も精密に心臓を狙い続ける。

 雷華はいつでも短刀を投げられるよう、いつでも斬りつけられるように頭の中で身構える。彼女の動きにも文月は全く反応を見せずに、まるで自分は何もしなかったかのごとく独り言を続ける。

「個人差はあれど必勝。故に必殺。私に催死術をかけられて生きている人間は――――皆無だ」

 その武器はまるで、ダーツの矢のような形をしていた。





 終わらない死闘。

 いくら攻撃しても決定打になりえない変わりに、敵の攻撃も紙一重でなんとか躱すことができる。

 繰り返される攻防。

 永遠の再現。

 もはやここへ堕ちて来てどれくらいの時間がたったのかも解らない。

 数時間。数日間。あるいは一か月間?

 それだって現実の時間がどれくらい経過しているのかは解ったものじゃない。

 いや、そんな区切りはもはや無意味だろう。

 地獄というものがあるというのなら、まさにここは地獄。久遠の時をもって死者へ鞭打つ終着駅だ。

 ……死者、か。笑えない冗談だ。

 吐く息が熱い。頭が朦朧とし始めたのは一体いつからだったか。

 互いの行動が作業化する。体を動かせばそれだけで辛く、それなのに作業は一向に終わる気配を見せない。

 集中力などもうひと欠片も無い。打ち合っていられるのはひとえに扱う流派が敵と同じだったというだけの幸運。

 動く手を止めれば待っているのは死だけ。

 節々は痛み、鍔迫り合いだけで骨が軋む。

 諸々は霞み、全てその奥へ真実を隠しさる。

 鉄と鉄を擦り合う音だけが旭の全てを突き動かす。

 思えば意地の悪い話だ。痛みは死を強要するだけの力を見せず、時間は死をちらつかせ誘惑するのみ。こちらを焦らすだけ焦らしておいて、死ぬのならご勝手に。ただし自分の意思で。死のう、と思って死んで行け。

 迫り来る斬撃。

 磨耗しきるまでの永い時。

 放つ攻撃。

 既視感しか覚えない全ての行動。

「お前は俺には勝てねぇよ」

 いつまでたっても同じ調子を繰り返す影。

 酷く、あらゆることに疲れた。

 ……俺は、ここで終わるのか。

 体を動かす事に、頭を動かす事に、意地を貫き通す事に……疲れた。

 そもそも、自分は一体何の意地を貫いてきたのか。何のために貫いてきたのか。

 酷く、曖昧になる。

「俺にはお前など必要ない。お前も俺など必要ない。ちょうど良い取引だろうに」

 影はこれまでの時間が無かったかのように動き続ける。

 旭だって、ただ馬鹿のように刀を振るっていたわけではない。影の正体にもなんとなく気が付いた。

 あの影はつまり、自分の認識している“神薙旭”の姿だ。こうあるように、こうするように、こうである。願望、思考、事実。それらから成る“神薙旭”を彼自身が主観を通して客観視した姿。つまり自分自身だ。

 よって実力は同等。同じ戦闘理念によって動くから、互いの攻防は噛み合い続ける。旭が防御を放棄しない限りは。永遠に続く。

 影は認識の具現であるが故に常に平均の力を発揮する。コンディションによる好調も無ければ時間による磨耗も無い。

 人は傷が無ければ痛みを認識できない。痛いだろうという想像は出来ても、刹那刹那の体験をなくして痛いという実感は得られない。平時の認識を基にするカタチを与えられた影は、痛みを感じることも疲れを感じることもない。受けた情報をフィートバックできない。更新されない。故に無敵。

 倒す事の出来ない敵の前へ放り出されて、いったい誰が力尽きるまで戦い続ける事ができようか。

 もうそろそろ終わりにしよう、と。ついに否定することも出来ない弱音が心の中に染み出す。

 体が言い訳を求めて影の姿を食い入るように見つめる。

 だけど……、違う。

 首筋を狙う刀を弾き飛ばした。

 ……違う。

 自分自身だからこそ熟知する技後の隙を『神切安綱』で突く。

「違う!」

 もはや何が違うのか、自分自身にも分からない。矛盾だらけで統合性が取れない。

 だけど、出所の知れない淡い痒みに身震いが止まらない。

 だけど、前後不覚の灼熱じゃない。微熱。矛盾がもたらす我慢できる故の辛さが旭を満たす。

 それでも……、俺は負けたくない!!

 胸のモヤモヤをブッ放つ。

「負けたく、ねぇ!!」

 感情を乗せた一撃。咆哮と共に放った出鱈目の一閃。

 神薙流を無視し、戦況を無視して、上段から大きく振り下ろした隙だらけの一刀。

 その攻撃は、遂に影を捉えた。

 しかし。

「ぐッ!」

 闇を転がる。

 勢いよく漏れる自分の息遣いが苦しさを増幅させる。距離を取る、などといった理性は残っていなかった。

 ただ痛みに、零れる灼熱に悶えた。

 斬られたのだ。

 影を捉えた一刀は、しかし痛みを感じない影には旭自身の隙をさらけ出しただけに過ぎなかった。

 ……痛い。

 言い訳には十分すぎる。こんな傷、受けたその日には十分死ねる。

 お疲れ様、だ。

 もうやらなくていい。

 もう戦わなくていい。

 もう投げ出して構わない。

 そう思うと、体がすっと軽くなった。

 でも。

「これでお前の負けだ、神薙旭。その傷ではもう満足に動けないだろう」

 旭は微熱に魘されつつ、朦朧と立ち上がる。

 でも、それと同じくらい胸が苦しい。

 ……負けたくない。

 張り裂けそうだ。

 ……嫌だ。負けたなくない。

 この感情は、そう。

 ……悔しい。

 物事において、旭は初めてそう思った。

 悔しい、と。

 負けられない、ではなく、負けたくない、と。

 或いは封じてきた感情か。

 再び開いた距離に、旭は刀を構える。

 ずっと思っていたのかもしれない。この幼稚で些末な感情を、ずっと胸の奥で燻らせていたのかもしれない。何かに負けるのは悔しいと。それだけの、まるで幼稚園児のような理由で、ここまで走り続けてきたのか。

 時の止まったあの公園に、心だけを置いてけぼりにして、体だけがここまで走り続けてきたのかもしれない。

 そう思うと、己の行為全てが恥ずかしい。大義名分を振りかざし、大仰に振る舞い、さもそれが当然のごとく偉そうなことを言い偉そうなことを行う。そんなのは全て、自分のたった一つの性質からくる幼稚な衝動だったのではないか、など。

 羞恥心で心が壊れてしまいそうだ。

「くくく」

 何故か、ちょっとだけ愉快。自分はなんて愚かで馬鹿馬鹿しい人間なのだろうか。

 大勢の人間をまとめようという人間が、その為に振舞ってきた行為が、全てはガキの背伸びだった。

 余りに滑稽。

 それを、尊いと感じてしまう自分も、全部含めて。

「あっははははは」

 腹がよじれる。影はそれを無表情で見詰る。

 しばらく、独り笑い続ける。

「はあ、はあ、はあ。あーー、笑った。でもなんかまだ笑いたんねーなぁ」

 なにせ十七年分の笑いだ。足りるわけが無い。

 できることなら、現実世界でもこうして笑ったり泣いたりをもっとしたかった。

「……さて」

 覚悟を決めれば頭は驚くほどクリアだ。自分がどれだけ怯え、緊張していたのかが分かる。

 ……常時を基とするならば、勝つための条件はただひとつ。首筋、脳天、心臓。ダメージは蓄積しない。狙うなら一撃必殺しかない。扱うは【死】の『概念』。死に行く体をもって【死】を体現させる!

 闇を駆けた。


 ……攻刃・『虎月』。

 幾千、幾万と繰り返してきた初断ちの一刀。旭の『型』。

 敵の脇をすり抜けるようにして刀を薙ぐ。

 鉄と鉄が擦れる音。

 刀は弾かれて体はすれ違う。

 敵の動きなど、見なくても分かる。次に出す左足にエッジを立てて、ブレーキを通り越して後ろへ跳ぶ。


 ……攻刃・『烈刻』。

 腰をひねって振り向きざまに袈裟斬りを放つ。

 振り向いた先には影の放った攻刃・『転抜』がある。そこから導かれる『型』は一つ。次は同じく攻刃の『天閃』が来る。

 突きと分かれば避けるのは容易い。

 刀を絡めて滑らす軌道。

 ……守刃・『凪風(なぎかぜ)』。

 踏ん張らずにされるがままに流される。

 直線軌道の突きは左右の移動に対応できない。そして神薙流は全自動。流された先、再び強くブレーキを踏み、首筋めがけて跳ぶ。

 しかし、刀を振るった先に影の姿は無い。

 ――『型』を解体された。

 解体。神薙流の全自動を補う唯一の緊急回避。

 影は屈んだ状態で眼下に潜む。そして、そのまま切り上げてくる。

 ……守刃・『剛鬼』。

 全身の筋肉を緊張させ、腕の骨を固定。受け流さずに刀で刀を受ける。

 一瞬の拮抗。

 同時に互いを弾き飛ばし、再び同時に斬りかかる。

 上段から振り下ろした刀と、下段からすくい上げられる刀が激突する。

 振動に手がしびれる。肉薄する死に恐怖する。

 それでも、また前へ進む。

 ……攻刃・『延斬』。

 人差し指と親指で柄の末端を摘み、リーチを伸ばして首を狙う。本来は規格外の握力を要する技であり、旭はまだ習得できていなかったが、夢の中という特殊な環境を活かすことで限定的に使用可能になっていた。

(考えようによっては便利な世界だな)

 しかし、影は屈むようにして刀を避ける。そして、間髪を入れずに突きの反撃が来る。

 それでもまだ前へ進む。点を点で捉え、突きを弾き飛ばす。

 一歩間違えば、そこにあるのは奈落。

 弾いた刀と弾かれた刀。互いに取り落としてはいないものの、どちらも体の支点から刀が遠い。これでは次撃が遅れる。

 ……くらえ!

 『型』に無い故に動けない影へ、その腹めがけて旭は蹴りを叩き込む。

 ダメージはゼロ。だが、体勢は崩せる。

 流派の無視に、思わず苦笑いが零れる。だが、どうしてかじじいも笑っている気がした。

 ……攻刃・『天地』。

 崩れた体勢へ、大上段から袈裟切りを見舞い、切り下げた刀でさらに切り上げる。

 連続二回の斬撃による威力は凄まじく、影はガードしたものの勢いに負けて後ろへずり下がった。

 初めて傾き始めた戦況に心が粟立つ。

 更に前へ。

 何度も響く、金属音の協奏曲。影は同じように受け続ける。

 まだだ。

 拮抗は崩れ始めた。

 焦りに冷や汗が止まらない。

 進め。進め。進め。

 前へ。

 ……攻刃・『天狗舞』。

 柄を先行させ、両手で持って左上段めがけて飛び跳ねながら切り上げる。

 影はそれを受け止めようとするが、勢いで押しきる。受け止められてはいけない。宙へ跳ばなくてはならない。高く、滞空時間を得る。

 呼吸が止まる。鼓動が止まる。全て停滞する世界。無音の境地。

 必要なのは想像力。そこに至るまでの過程とそこから先への未来。抽象を具体へ、曖昧な輪郭に明確な形を構成する。

 ……攻刃・『地削ぎ』。

 旭は宙で反転。刀を左へ持ち替え振り下ろした。敵の下段へと叩き込む。

 影を掠める刀。それでは駄目だ。

 これでは勝てない。もっと、もっとだ。

 崩れる体勢を空中で強引に引き戻す。

 世界がゆっくりと流れる。滞空時間が長い代わりに体も動きが緩慢だ。脳髄に走る痛み。人間の構造限界へ挑む。限界は認識が生み出した幻想。人体の損傷さえ恐れなければ、人間はもっと早く、どこまでも速く動く事ができる。枷を外せ。お前の力はこんなものではない。

 本来ありえない体の動きに脳の認識処理が悲鳴を上げる。眼球が乾く。喉の奥が干上がる。不安定ながらも両の足で着地に成功。

 影は未だ刀を構える段階。斬られた痛みはやはり感じていない。

 世界の停滞を置いてけぼりに、体はしがらみから開放される。

 刀は水平に。

 狙いは首筋に。

 心は前へ。

 ……攻刃・『虎月』。

 足に違和感。だがそれも一瞬。

 首筋一閃。

 旭は、影の脇をすり抜けると同時に刀を薙いだ。

 確かな手ごたえ。ブレーキを踏んですぐさま振り返れば、

「残念賞ー。いやいや、がんばったで賞ってところか? ホント、残念だったな。その程度で“影(おれ)”は無くならないよ。俺とお前は一心同体だからな。俺を消したきゃお前が死ぬしかない」

 いまだ立ちはだかる影の姿があった。

「本当に反則だな、“お前”。友達いないだろ」

「ああ、よく分かったな。だが親友はいるぜ。なあ、相棒」

「ふん。そうか、そうだったな。ところで“影(おれ)”」

「なんだ? 俺」

 更新されない。受けた情報をフィートバックできない。

 ということは。

「“お前”、自分のこと強いと思うか?」

「そんなこと、言うまでもないだろう?」

 自信満々の笑み。“自分”が敵(おれ)に勝てることを、露ほどにも疑っていない。それは、“神薙旭”の笑みだった。

「そうか」

 確かに、言うまでも無いことだった。

「そうだったな」

 なにせ二人は親友だ。心と心どころか、根っこの部分まで全くおんなじもんで出来ている。違うのは青く茂った枝葉のみ。先へと続く可能性の違いだ。

「だがな、神薙旭」

 いざ、言葉にするとなると上手く言語化出来ない。

 喉が渇いて心臓が喘ぐ。胸が苦しい。

 否定してしまえば楽になると、"自分"が自分へささやく。

 言葉にし、“自分(かげ)”へ言い放ってしまえば後戻りは出来ない。

 ――――苦しい。

 それでも――、だからこそ、今の自分を『定義』しなくてはならない。

 これを飲み込まずして先へは行けない。

「……“お前(俺)”は弱い」

 “俺(影)”は一瞬だけきょとんとして、次の瞬間憤怒に顔を染め上げた。

「馬鹿な。俺は強い。誰よりも強い。そう在る様に生きてきた。それはお前が一番良く知っているだろう」

 “影(俺)”は全く取り合わない。話など、聞いちゃいない。

 ――――全てを一人で完結させられるようにと走り続けてきた。

 それを目標にやってきた。まだまだ辿りつけていないのだと思い込んでいた。自分の目標地点が、こんなにも不完全で出鱈目なものなのだと思いもしなかった。

 なんて事はない。

 ある意味で、もはや神薙旭は『行き着いてしまっていた』。

 辿り着いてしまっていたんだ。最果てまで。望んだように。願ったように。ひとりぼっちの場所まで、とっくに。

 ……そりゃあ歪んで見えるよ。

 明らかに不自然だ。

 “己”の姿を鼻で笑い飛ばす。

 そして、『定義』する。

 神妙に、厳粛に、告げる。

「俺は、序列番外の魔術師、『枷壊士』・神薙旭」

 何度でも構え直される刀。

 幾度となく繰り返される死闘。

「だから俺は、だから今は、弱いからこそ強く在りたいと願う」

 神薙旭はひとり、囁くように枷壊術を発動させた。





 文月はくるりくるりと、独りダーツを回し始める。

 思わず力の入る四肢に手綱を引く。

 やり方を変えよう。このままでは敵の思う壺だ。角度を変えて、平面ではなく立体で敵を捉えよう。

 ここでどれだけ食い下がった所で、結局は旭を信じるしかないのだ。それよりも、こっちは彼が帰ってきた時のための準備をしておかねばならない。

「そもそも、あなたは一体何のためにここまでやっているの?」

 『家』を抜けて独り。

 雷華が言うのはなんかもしれないが、余りにも馬鹿馬鹿しい。暗黙の了解なんてものではない。『議会』のルールの第一項に記される行為、裏切りだ。

 こんなことをして、ただで済むとでも思っているのだろうか。

 目の前の男を、本当に全く少しも理解できない。解った気にさえさせてくれない。

 意味は分かる。本家の命令も無しに管轄界を破り、それを本家に悟らせないように動いているのだ。

 どうなるかも分かる。文字通り喧嘩になる。それも、どう転んでもその戦いは避けられないところまでお膳立てさせられている。この男の思惑通りに。

 だがそれは、いったい何の利益を生み出すと言うのか。

 同時に、父の出した命令の意味にも思い至る。

 〈神有月〉は言った。

『もしかしたら、神薙旭を見捨てずにここまでやってきたのは僥倖かもしれん。いいか、雷華。今回の敵だけはどんなことがあっても「殺してはならん」。そして、言われるまでもないだろうが、できることならば神薙旭も助け出せ。これは「家令」だ。命令違反は許さん。そしてお前が死ぬこともだ、【タケミカヅチ(我が娘よ)】』

 今回の件が魔術師社会で表沙汰になれば、神無月がその面子を守るために戦わざるを得ない。文月側から見れば、あらぬ冤罪をかけられる形になるのだから交渉の余地は無い。

 逆にもし雷華が目の前の男を殺してしまえば、しばらくは誤魔化せてもいつかは文月に何らかの形でバレてしまう。なんせ二つ名を持っているほどの人材だ。文月は戦わざるをえないし、神無月としてはやはり冤罪だ。

 あまりにも、隙の無さ過ぎる計画だった。しかしそこまで思って、再びここに行き着く。

「そんなことをして、あなたにいったい何の利益があるの」

 隙は無い。隙は無いが、それでもそれに有り余る危険のまとわりつく計画だ。

 いったい、何が彼をそこまで突き動かすのか。

 確かに有意義な質問ではあるが、それ以上に自然に出た純粋な質問だった。

「利益、か。はん、その合理主義が本当に頭にくる」

 だが、相も変わらず文月の言葉は空洞だった。

「壊したくなったから壊す、では理由にならないか? お前たちは本当に何でもかんでも理由を付けたがる。本当に無粋だ」 

 くるり、くるりと。

「言うなれば娯楽だ。壊してみたくなったんだ、この魔術師社会(せかい)を」

 彼は元の顔など見る影も無いほどに、皮肉に相好を崩した。

 その顔は本当に退屈そうで、空白で、何を考えているのか全く読み取れない。

 無表情、というよりのっぺりとした顔のまま、それでも笑顔を絶やさず文月は続ける。

「なにもかも馬鹿馬鹿しくなったんだよ。ある時気が付いたんだ。この世に愛すべきものなど何も無く、守るべきものなど何も無いのだと。それら全ては幻想で、人生は全て与えられた無駄をいかに消費するかが命題なのだとな。だから」

 くるり、くるり、と。

 文月は忍び笑いを漏らしながら続ける。

「これは私から魔術師諸君へのプレゼントだ。ゲームをするのなら、フィールドはなるべく大きくルールは飛び切り複雑で、賭けるのなら己が全てだ。ハイリスク・ノーリターン。これだけ上等な娯楽など、この世には他にあるまい」

 くるり、くるり。

 文月はそのまま狂気に任せて笑う。

 空白の笑みを撒き散らす。その笑みは、理由も無く悲痛で、

 それでも雷華は目を逸らすことも出来ずに直視する。……余りにも、見るに耐えない笑みだった。

 そこにあるのは虚無だけで、本来自己暗示によって封じるべき怒りや恐怖と言った感情を、そもそも喚起さえしない。

 ただただ痛々しくて、そして不安になる。

 足元が不確かになる哂いだった。

 雷華はそれらを、自己暗示によって封じた。

 影に支配されたこの空間を脱するために、少女はさらに問いを重ねる。

「こんなことをして、ただで済むと思っているの?」

「クク、では神無月。私はどうなるのかね? 聞いてみたいものだな、君は占いが出来るのか?」

 完全に馬鹿にしきった声。魔術戦に置ける雷華の対極にあるスタンスだ。

 平静に続ける。微妙に言葉を無視して話を脱線しないように修正する。

「こんなことをすれば、『議会』も霜月もあなたを放っておかない」

 そこで、文月は初めて表情を変化させた。

「『議会』、か」

 くるり、くるり。

 温和な笑みから空白な皮肉で顔を造っていた文月は、今度こそ本当に無表情となった。

「私はな、神無月。私は影でいいんだ。後に来るゲーム、その主役に立ちたいとは思わない。裏方で構わないんだ。だがな、裏方なくして本体の完成はありえない。まだ舞台は完成していない。私の用意した舞台は、こんなものではない」

 文月の静かで淡々とした呟き。その言葉、このタイミングで、雷華はようやく目の前の男に戦慄した。

「私は、まだ死ぬわけにはいかない。お前に殺されるわけにはいかないんだ」

 平坦な、起伏のない言葉。

 意識して聞かなければ、何を言っているのかさえ分からなくなる。

「魔術師を根絶やしにするためには『大戦』が必要だ。かつてない規模の戦が。その為には神薙グループに消えてもらうのが一番手っ取り早い。ここで私とお前が戦おうが戦うまいが、どのみち神薙旭は自分の影に喰われて死ぬ運命にあったんだよ」

 解術が存在しないのだから、ここで雷華のやっていることは無駄だ、と。文月は揶揄する。

 だが。

「そんなことはない」

 そんなことには、させない。

 なんとしてでも文月を捕え、戦など起こさせない。今の神無月に他家と争うほどの力は残されていない。

 それも、それでさえも、この男にとっては全て計算どおりなのだろうが。

「私は必ず、貴様を捕えてみせる。ここで全てを終わらせてみせる。戦争など、起こさせはしないわ」

 文月が薄く笑った。

 元の、仙波影斗を思い出させる温和な笑みだった。

「だがな、神無月。いや、土方雷華」

 生徒を指導する教師の顔で。

「お前は狂っていると思ったことはないか? 歪んでいると思ったことは? この、我々魔術師という生き物を。社会を。システムを。おかしいと思ったことが、一度もないのか?」

 その問いに答える事は――――できなかった。

 お礼を言う事もままならない魔術師同士の付き合い。

 生まれて初めて人にお礼を言った時の事。

 守られるはずのないゆびきり。

 そして、両親に『家族』。

「………………」

「何故、自分はこのような境遇に生まれなければならなかった。周りを見渡せば、自分には欲しくとも永遠に手の届かない幸福を手にしている人間のなんと多い事か。……と、な。お前の表情を見ていれば分かる。お前は決して私のような人形ではない。逆に、生粋の魔術師でもない。それならすでに辿り着いてしまったはずだ。どのようにしてお前がその論理矛盾に合理性を見出しているのかは、正直興味のある話ではあるが。最早、どうでもいい話だ」

「!」

 文月がダーツを投げた。

「双方向性の『定義』により汝が影を束縛する」

 詠唱。

 それに応じて短刀を動かそうとした雷華。

 ダーツの矢が彼女の影を射抜いた瞬間。

 ……動かない!?

「な、」

 と、漏らしたつもりだった。その言葉さえ音にはならなかった。

 ……しまっ、

 体が、動かない。

 引き金にかけた指も、地面に縛り付けられた足も、短刀を手にした腕も、なにも、動かす事が出来ない。どんなに力を入れても、動かす事が出来ない。

「影の双方向性を論破できなかった時点で貴様の負けだ、神無月」

 文月は、廻り回って最後には元の温和な笑みを浮かべた表情だった。

 その表情のまま、文月影斗の放った銃弾は――。

 鼓膜を振るわせる轟音。

 ――雷華の胸部に命中した。





 これは夢である。

 ……という大原則にして大前提。確認し、認識し、使用したこのルールを、自分はまた失念していた。

 影は痛みを受け付けない。何故か。認識できないからだ。

 そこで思考を止めていた。

 雷華は何と言ったか。『魔術師の言葉に耳を傾けるな』。それが意味することは認識の拒絶だ。

 痛い、というが、そもそもここのどこに痛むべき肉体がある。

 一度気が付いてしまえばそれは驚くほど簡単なルール。

 痛むはずがない。ここには肉体など無いのだから。

 痛むのは神薙旭の意識が【痛み】という『概念』を『認識』したからだ。

 つまり、ここが夢の中であると気づいてしまえば、斬られた傷など完治するまでも無く感知など出来なくなる。“神薙旭”が無敵のはずである。ここでは全てが思うがままだ。

 体が痛むのも、骨が軋むのも、息が上がるのも、頭蓋が焼けるのも。全て認識が生み出した幻想だ。ここには肉体の限界など無い。

 あるのはルールによるルールの潰し合い。そして精神の応酬だ。

 より上位にあるルールが下位のルールを凌駕する。単純明快な世界。

 迫り来る影。

 神薙流の刀。

 己の持てる技巧を尽くした剣技は、しかし今の旭にとっては余りにも遅すぎた。

 想像の中で、自分に巻かれた十重二十重の鎖を、全て粉々に砕き散らす。

 遅い。

 刀を弾く。

 遅過ぎる。

 背後へ回る。

 影はまだ反応しきれていない。

 雷華は、枷壊術の使用は計り知れないリスクを背負うと言っていた。しかし、それでさえここでは無意味だ。

 やっとこちらへ反応し始めた影へ。

 その頭を横薙ぎ一閃、弾き飛ばす。自分の姿をした者の頭部が砂と散る。

 影は一瞬ノイズが走ったかのように揺らめき、映像を巻き戻すかのように元へと戻りかけ、

 旭は更に刀を走らせる。

 心臓、脊髄、靭帯、手足。

 人が行動するのに必要だと思われる場所を、思いついた場所をありったけ斬りつける。

 斬りつけてなお、更に斬りつける。

 斬るべき場所などなくなるほどに、無くなってしまえばまた最初から。

 自分自身を滅多斬りにする。

 当たり前の【死】で足りないのなら、人という形ごと『滅ぼす』まで。

 頭はどこまでも冷静で冴えていた。

 体は軽く、息に至ってはするまでもない。さらに刀を重ねて、そろそろやりすぎたかと思ったところで手を止めた。

 影は、見る影もなく塵と消え去った。

「それでも、まだ、なんだよな」

 旭は誰も居ない闇の中で独り呟くそれも一瞬だけ。

 一瞬の後には再び闇から立ち昇る“神薙旭”の影。それが、今度は二つ。

 顔にはこれまでの余裕はなく、まるで双子のように憎しみに歪んだ顔を向けてきた。

「「認めないぞ、“俺”が俺に負けるはずがない」」

 旭はその言葉を鼻で笑う。

 影へ、無言で走り出す。

 二人になったからといって何が変わるわけではない。

 結局は自分自身。

 二人のコンビネーションは完璧で、どこにも隙はない。それでも。

 影の上段を受け流す。

 もう一人の下段が逆側から飛ぶ。

 それを返す刀で払い流し、一人目の次撃を受け止める。

 反対側から来る逆袈裟を躱し、牽制の一刀を放つ。

 刀と刀の噛み合う甲高い音。

 そうして五回、六回と打ち合い、左右合計で十数の剣撃をいなし、旭の『神切安綱』が影の心臓を貫き脳天を割った。

 砂を散らす影二つ。

 振るった刀を引き戻し、元の体勢を整える旭。

 立ち上がる。そうして広がった、何処まで広がる闇世界。

 その視界の先に、うじゃうじゃと湧き上がる影の大群。

 最早、五人や六人では利かない。

 無数、というにもまだ甘い。数十でもまだ足りない。

 その先に広がるのは、百を越える“神薙旭”達。

 思わず苦笑が漏れる。我が事ながら、その短絡思考が頭に来る。

「いいだろう。かかって来いよ“過去の俺”。先に言っておくが、舞台がここである限り、俺は無敵だ」

 まだ増え続ける影の大軍。

 どこまでも、永遠に増え続ける。無限の旭。

 最早、滑稽で笑いが止まらない。

「なんせお前は一人。こっちは俺と雷華で二人だ。“俺たち”の方が圧倒的に、強い!」

 刀を構えなおす。

 一人一人が旭自身と同等の実力を持つ影の集団。

 魔術の有無のアドバンテージがあったとして、旭の精神力がどこまで続くかは不明だ。精神死を前に、この世界ごと消えてなくなってしまうかもしれない。

 数に対する不安はある。それでも、自分は負けたくない。

 雷華(あいつ)にまた会いたい。まだまだやりたい事がある。

 なにより、過去の自分に今の自分が負けるわけにはいかない。誰に与えられた訳でもなく、それでも神薙旭は負ける訳にはいかなかったし、負けたくなかった。

 その憎悪に歪んだ顔へ向けて、他でもない“敵(おれ)”に向けて、叫ぶ。

「来い!!」

 旭の一刀が、先鋒の胴を薙ぎ払った。





 胸が痛みに疼く。

 やはり、勝敗を決したのは位置関係。

 少女――雷華の用意した隠し玉は、まさに願ったりの形で作動した。

 彼女は、ありったけの畏怖と、憤怒と、恐怖と、その他諸々を籠めて、微笑んだ。





〔幕間〕



 拳銃の轟音が余韻を残す教室で、私は神無月雷華が胸を押さえながらもゆっくりと立ち上がるのを見た。

「な、に?」

 拳銃は確かに神無月雷華の心臓に命中した。

 私がその位置を違える訳がない。

 よって、それは間違いがない。

 なのに、何故?

「銃(それ)では、私を倒す事はできないわよ」

 敵はまだ拳銃を構えていた。

 何故。

 そんなことを考える前に、手を動かさねば。

 緩慢な時の動きの中、

「神無月の心臓を撃ち抜くことは出来ない。そんなことは無意味よ」

 声が聞こえてくる。

 無視する。

 もう一度、私は敵の心臓へ向けて、自然な思考の流れで、弾丸を発射した。

 死なない。

 何故だ。

「拳銃で神無月は倒せない。魔術師間では基本でしょ?」

 その通りだ。だが、そうではない。

 だったら何故。

 何故、なぜ、なぜ、なぜ。

 なんで奴は死なない。

 こんな所で死ぬわけにはいかない。

 このままではまずい。

 こんなことは予定にない。

 おかしい。

 なにか、歯車が噛み合っていない。

 その間にも、私は銃弾を放ち続ける。

 でも死なない。

 死なない。

「痛いじゃない」

 そう言って、神無月が笑った。

 おかしい。

 追い詰めているのは自分のはずなのに、なんで私が焦っている。

 そうしている間に、敵はこちらの心臓へ、ぴたりと標準をあわせる。

 ……まずい。

 魔術師といえど、私はあくまでただの人間だ。

 心臓に銃弾を喰らって生きていられるはずがない。

 神無月の連中のような化け物ではない。

 神無月が何かをぶつぶつと呟く声が聞こえる。

 その意味も、もはや理解する事も出来ない。

「……【死】とは生命活動の停止、認識の空白。世界を認識する事は出来ない」

 神無月は詠唱を終えて、

「うん、それじゃ、」

 私の心臓へ標準した拳銃。【死】の具現。避けられない概念。

 魔術師が、引き金を引いた。

「死んで?」

 再び轟く銃声。

 そして。

 ……………………。


 ……………。


 ……。





 自分を呼ぶ声が聞こえた。

 闇の中で、一筋の光。向かうべき道しるべが出来た。

 だから、そこへ行った。

 眼を開けると、そこにはどこかで見たのと同じ光景――雷華の綺麗な顔があった。

 いつかよりもずっと恥ずかしい、膝枕の上だった。

 でも、不思議と恥ずかしくはなかった。

 それよりも安心感と、そして喪失感の方が強かった。

 彼女は微笑んでいた。

「おかえりなさい」

「……ただいま」

 微笑んで、旭の頬を撫でた。

 そこにあった水滴をすくった。

「ん?」

 自身の頬に触れる。

 旭は泣いていた。

 教室の床で、女子に膝枕をされながら泣いていた。

「な、んで? 悲しくなんかないのに。おかしいな。涙が」

 止まらない。止まるどころか、泣いている事を自覚した途端、歯止めが利かなくなってしまった。

 堰を切ったように、次々に涙が零れていく。

 それを止められない。

 その涙を、雷華は拭いてくれていた。

 見れば、胸からは薄っすらと血が流れ、顔は疲弊の色が濃い。

 それでも、ずっと。優しく、微笑みながら。

 涙で、しゃくり上げながら旭はぼやく。

「くそ、フツー逆だろ」

 だけど、胸にぽっかりと穴が開いたようで、何故か涙が止まらなかった。

「カッコわりぃな…………」

 だけど、雷華の手はとても心地良くて、

 しばらくの間、少年は少女の膝で泣き続けた。



〔エピローグ〕

 

 こうして、旭は影にまつわる魔術師の事件に幕を下ろした。

 終わってみれば、手元に残ったのは半端な魔術技能とこの命。そして、雷華にとっては文月影斗の身柄だった。

 逆に失ったものは、計り知れない。そう、旭には計ることができなかった。それは途方もなく多かったようにも思われる反面、とても小さななにかであったようにも思える。

 だけど、確かな事は失ったということ。

 そして、戻ってきたということ。

 この、変わりだした日常へ。



 紅葉の通学路を歩く旭の両脇には雷華と瑠夏。

 雷華は相変わらず『霹靂』と『白狐』を肩にかけ、ピンと正した姿勢のまま隣を歩く。

 その逆にいる瑠夏はだらんと旭にしなだれかかり、腕をこちらへ絡めてくる。……胸が当たっている。

「しかし、まさか瑠夏が魔術師だったとはな」

 隣で絡んでくる同級生。

 その正体は、序列三番目の魔術師、弥生だと言う。

「『人形師』、だったっけ?」

 あの後、校舎を後にした旭と雷華を出迎えたのは、校庭にひとり佇む瑠夏の姿だった。

「神薙、その人形師ってのやめてくれ。あたし、その呼び名は嫌いなんだよ」

「魔術師が自分の名を疎かにするなんて、愚かな話ね」

 雷華は瑠夏が現れてから、ずっとこんな調子である。

 とにかく険悪なのだ、この二人は。

 雷華の澄ました顔が余計に怖い。

「ホント、嫌な女だよなー、神薙ぃ」

 ぎゅぅ、と。さらに胸を押し付けてくる瑠夏。

「お、おい……」

 横を見ると、雷華がとても形容しがたい恐ろしげな顔をしていた。

「顔真っ赤にして、不潔ね」

 吐き捨てた。

「あ~、神無月がやきもち焼いてるー。悔しかったらあんたもやればいいのに」

 お前も黙れ。

 

 ちなみに、雷華の言っていた『結界』は弥生の魔術だという。

 弥生は特に戦闘能力を持たない家で、全ての家と不可侵条約を結んでいる代わりに、家に要請があった場合は魔術が外へばれないように『結界』を張るという、瑠夏に言わせれば便利屋まがいの存在なのだという。

 今回の『結界』は雷華が瑠夏を通して弥生の家へ要請したものだという。それなりに手順が必要で、それ以外にも諸々の取引があったらしい。

 さらに、瑠夏が魔術師であったことが判明すると、睦月景が言っていた言葉の真意もようやく分かってくる。

 奴は言った。潜伏している生徒は二人。つまり、雷華と瑠夏のことを指す。生徒は、確かに二人なのだ。そこでさらに奴は続けた。『もう一人いるぞ』、と。この時言っていた睦月の『君ら』、とは旭と雷華のことではなく、雷華と瑠夏のことを指していたのだ。だから、魔術師はあの学校には計三名が居た事になる。生徒である雷華と瑠夏。そして、教師である文月影斗だ

 これが、あのいけ好かない野郎の残した遠まわしな悪意のヒント。

 全てが終わって初めて意味が分かるなど、とことん意味がない。

 だがまあ、雷華までそうだった訳では、なさそうだが。

 そういった意味では、本当は奴にも感謝しなくてはならないのかもしれない。

 【アマテラス】、か。

 ところで、まだ絡み付いてくる瑠夏をそろそろ引き剥がす。恥ずかしいったらありゃしない。瑠夏は、恥ずかしがっちゃって、などと言っているがこれも無視だ。

「雷華、胸の傷は大丈夫なのか?」

「まあ、ね。大したことはないと言えば嘘になるけど、とりあえず大丈夫よ」

 それはそうだ。

 いくら『防弾チョッキを着ていた』からといって、何発も至近距離から銃弾を喰らって平気なはずがない。そもそも、あれはあくまでも万が一の危険から命を守る物であって、防御に使用する盾のようなものではない。銃弾自体は防げても、その衝撃だけはどうしようもない。

 防弾チョッキ。

 それが、あの戦いで雷華の選択した切り札。そして、まさしく魔導具。

 神無月は防性武具を用いない、という魔術師間の常識を逆手に取った、魔術を導くための道具だ。

 文月は自分の絶対優位を疑わなかったため、普通であればありえない事態に対応しきれなかった。これは経験でも能力の差でもなく、性質の差がもろに出た結果だった。

 更に言えば、幸運の差でもあった、と雷華は言った。

 撃たれるのはあくまで首下から腰上でなければならなかった。つまり、一撃必殺を狙う敵の虚を突くには心臓しかなかった。多少狙って作った状況とは言え、今回はかなり運が良かった。……らしい。

 今回の雷華が行った、枷壊術ではない基本的な魔術。その内容は『神無月に銃は通じない』という馬鹿馬鹿しい『概念』を『認識』させる事だった。そうして錯乱した状態へ追い込み、『銃で撃たれた』という『概念』でもって認識を断ち切った。

 実際に、あの時の雷華が撃った拳銃は空撃ちだったという。

 人間、思い込めばどこまでも思い込めてしまうものだ、というのは今回身をもって学んだこと。

「…………」

「な、なによ」

 雷華をじとっとした目で見つめる。

 確かに学んだ事ではあるが、いついかなる時もその思い込みで自分や他人を騙し続けられると思っているこいつの態度も不愉快だ。

 本当に、それは嫌なことだった。

「やれやれ」

 だが、それをこいつに言っても仕方がない。

 こいつはそういう生き方をしてきた奴で、これからもそうやって生きていくのだから。

 どうにかしたければ、周りがどうにかするしかないのだ。

「なんなのよ、まったく」

「ぶー、神薙が無視するー」

 厄介な女子二人に挟まれて、向かうは学校という日常。

 ――懐かしい日常だった。




 昼休み。

 久々に松田・竹中・梅澤の三人組と共に食卓を囲む。相変わらず、誘われるのを受け入れるだけの形だったが、それもまあいいだろう。

 繰り広げられる他愛もない雑談。昼休みはまだ、始まったばかりだ。

「そういえば、仙波先生の転勤って、どうしたんだろうね」

 今日は弁当持参の松田が話題を振った。

 うちのクラスの担任である仙波――もとい魔術師文月影斗は表向き実家の都合で急な転勤になった、ということになっている。

 あながち事情説明が的外れでないと言うのが、笑えない話だ。

 実際は昨日雷華によって学校に呼ばれたあの沙羅とかいう女が(相変わらず例の四駆だった)、気絶したままの文月影斗を運んで行った。今頃はあの馬鹿みたいな屋敷に監禁なり軟禁なりをされて『議会』とやらの審判を待つ身なのだろう。

「なにって、転勤だろっ?」

 相変わらず何の疑問も持たずに全てを受け止めている梅澤。ある意味、大器ではある。

「この時期に、不自然だねって話」

 そんな梅澤に。竹中が冷静かつ簡潔に言う。

「ま、親が倒れたとかそんな感じの話だろ。確かに珍しくはあるが、私立だからな。そこら辺はどうとでもなるんだろ、きっと」

 とりあえず、関係者としてフォローを入れておく。

 あんな突拍子もない話がそう簡単に外へ漏れるとも思えないが、それでも気を使うに越したことはないだろう

 松田もそうだね、と一言だけでこれ以上話を続ける気はないらしい。竹中も無言で頷いていた。

「生きてりゃ色々あるもんなっ!」

 と、旭達の話をようやく理解できたらしい梅澤が元気に締めた。それを見て松田は苦笑。竹中に至ってはクスクスと笑っている。

 数時間後には綺麗さっぱり忘れていそうな、くだらない会話だった。

「お前ら、いつもこんな感じなのか?」

 呆れながら言った。

「うん、まあ。いつもこんな感じかな」

 と、そう言って笑うのだった。

 そんな松田達三人の笑顔を見て、旭は自然に、とても自然に笑えた。

「はは、そうか」

 誰かと会話することが素直に楽しいと思えたのは、いつぶりだろうか。記憶を遡ると、脳裏に雷華の微笑みが鮮明に浮かんできた。

「へぇ、神薙もそんな顔で笑うんだなっ」

 夢中でパンを頬張っていた梅澤が言った。

「そんなに珍しいか?」

 思わず聞いてしまう。

「珍しいっていうか、うん、初めて見た」

 松田はしみじみと言う。

「なんかあったの? って感じ」

「……別になんもねぇよ」

 そう、なにも無かった。

 ただ、そこにあったものに気が付いた。それだけのことを遠回りして遠回りして、道に迷った先でようやく気づかされた。それだけのありふれた物語だ。

「絶対ウソ、だよね」

「そうだねぇ」

「さては、好きな女でもできたな?」

「!?」

 飲みかけていたお茶を危うく吹きかける。

「反応しちゃったね」

「普段はクールな神薙君が珍しいな」

「図星だなっ」

「な、な……」

 何故か全然的外れなのに焦って上手く言葉がでない。頭に血が上ってのぼせたようになる。耳が熱い。ぐるぐるまわる。思考が形にならない。

 そして、完全に動揺しきった旭は、柄にもなく声を荒らげた。

「そんなことねぇよ!!」



 放課後になり、家へ帰るとスウェットに着替えて道場に向かった。

 鍛錬を再開させる。これもまた、旭にとっては大切な日常だ。

 素足になり、板張りの床へ上がる。ひんやりとした感触を楽しみながら、クソじじいの仏壇の前へ。

 正座をし、仏壇用の小さなろうそくへに火をつけて、線香を上げる。

 静寂が時を満たす。

 伝えたい事は山ほどある。“今”の自分で祖父と話してみたい。そんな欲求が渦巻く。

 そんな想いを胸に、静かに目を閉じた。……この想いが届くように。

 でも、届いたら揶揄われるからやっぱり届かないようにと。

 黙祷を捧ぐ。

 その時、すっと気配がして、誰かが旭の横に座った。

 目を開けずに呟く。

「どうした?」

「うん。ちょっと、貴方に話があって」

 ゆっくりと目を開く。

 横には同じように正座で黙祷している雷華の姿があった。

 制服姿のままだ、というより制服以外の姿など、実は見た事がないのだ。そんなことに、今更気が付いた。

 何もかもが今更で、ただ自分自身のことに手一杯で、何もかも見えていなかった。

 今も昔も、変わらず自分はただのガキだったということ。

 でも、それを認めることは卑屈になることとはまた違うということ。そう、旭は信じている。

 雷華は黙祷を終え、こちらへ向き直った。

「改めて礼でもしようかと思ってクラスに行ったのに、お前、居ねぇんだもんな」

 一緒に登校したのに、と旭は憮然と言った。

 どうせ家に来るのなら、一緒に帰っても構わなかったろうに。

「今日は、ね。学校へは行ったけど授業は受けてないのよ」

「? なんでだ。また、なんかやってるのか?」

「ううん、今日はそういうのじゃなくて、用事だってちゃんと職員室によ」

「職員室?」

「うん。今日で、転校するの」

「…………」

 頭が、一瞬だけ真っ白になった。

「といっても、手続き上の話なんだけど。本当は本家に戻るのよ。しばらくは、そこを拠点として動くことになりそう」

 そうだった。

 雷華は神薙旭を、いや、神薙グループを救いに来ただけなのだ。

 それは、一番初めに言っていたこと。そして、ずっと分かっていたことだ。

 全てが終われば、彼女は帰ってしまう。

 そしてそれは、ずっと考えないようにしていたことだった。

 魔術師と一般人の接点関係なんて、所詮はそんなもの。

 不意に、雷華の言葉が甦ってきた。それが、とても息苦しくて、両の拳を強く握った。

 苦しくて、たまらなかった。

「……俺も一緒に行く」

 自然に、言葉が口を突いて出た。

「行かせてくれ」

 だが、雷華は静かに首を横に振った。それは、分かりきっていた事だった。

 だいたい、神薙グループの中心にいる旭には不可能な話だった。

 それでも、いても立ってもいられなかった。

 旭は思わず立ち上がる。

「…………」

 立ち上がって、色々な事が頭を過る。

 たったの一週間だったが、それでも色々な事があった。

 最初はただその雰囲気に圧倒された。次に顔を付き合わせた時は刀を交えた。敵として彼女を捉えた。疑いもした。それから、信じてみようと思った。同じ時を共有した。他の魔術師と出会った。魔術師というものを理解し始めた。そうやって、共に戦った。

 そうやって、魔術師というものを理解した。理解して、そして今。

 ただ、立ち尽くした。

 これ以上の言葉は、無意味だった。それ以上を口にしない事は、神薙旭としてのプライドでもあり、自称であったとしても、魔術師を名乗った者のプライドでもある気がした。

「私は、貴方に謝らなくちゃいけない」

 ゆっくりとした、でも珍しく単調ではなく感情のこもった声で雷華は言った。情けなくて、弱々しくて、優しげな調べを持って。呟く。

「貴方は、いずれ神薙グループのトップに立つ人。その役目を背負って生まれてきたのだろうし、そうやって生きてきたのだと思う。でもそれとは別に、貴方はそれを目標に頑張ってきた。これからも、そうやって生きていくのだと思う」

 下手な、鼻で笑ってしまうような、本当にヘタクソな話の逸らし方だった。

「ああ、そうだな」

 それでも、相槌を打つ。

「組織のトップに立とうという貴方にとって、以前の貴方の方が本当は都合が良かったのかもしれない。以前の貴方にしか出来ないことは、確かにあった。今の神薙旭には出来なくて、一週間前の神薙旭には平然と出来たことは確かにある」

 胸くそ悪い。そんなもの、知りたくもない。

「私は余計なことをしたのかもしれない。私は神薙の在り方を変質させてしまった。それを、私は謝りたい」

 雷華は正座したまま、上目遣いにこちらを見つめる。

「自惚れてんじゃねぇ」

 だが、旭はそれを鼻で笑う。不敵な笑みを作りながら。

「俺は何も変わってない。いくらお前でも、それ以上の侮辱は許さない」

 これくらいの強がりは、許されるだろう?

 旭は雷華に背を向けて、道場の倉庫へ向かう。

 場所は分かっている。自分の分以外を取り出すのはいつぶりか。

 目的のモノを取り出し、すぐに雷華の元に戻る。そして、雷華に向かってそれらを投げる。

 それが、道場の板張りを乾いた音を立てながら転がり、彼女の前で静止する。

 旭はそれを見届けると、道場の真ん中まで移動する。

「魔術は無しだ、雷華」

 投げられた二本の竹刀を受け取りながら立ち上がる雷華に、勝負を申し込む。

 旭も、自分用の得物を一振り。構える。

「本気で来い。“こう”見えても、俺は負けず嫌いでな」

 雷華は、しばらくぽかんと馬鹿みたいにこちらを見つめていた。

 やがて、二刀を構えて、好戦的な瞳に旭を映して、美しく微笑んだ。

「……。ええ、そっちもちゃんと本気で来なさいよ? 屋上での不意打ちのことをぐちぐち言われてもヤだし、ここで白黒つけておきましょうか。ええ、“こう”見えても私、容赦はしない方なのよ」

「それは、意外だな」

 揶揄するように言う。

「私もよ」

 雷華は軽く肩をすくめた。

 互いに壮絶な笑みを交し合う。


 刹那、『型』と『円』が、舞う。


 ………………。

 …………。

 ……。


 雷華と一戦やらかした後、旭は彼女と共に神薙邸の門の前までやってきていた。

「うっ」

 思わず腕を掲げて手で視界を覆う。

 沈みかけた太陽が、紅葉の木々の間から漏れ出し世界を金色に焼いていた。

 先導していた雷華が、くるりと軽やかな足取りで振り向く。逆光で、彼女の顔が良く見えないのが残念でならない。

 それでも、それらを差し引いてなお、十二分に美しい光景だった。

 旭は微笑む。

 これは、とても貴重な出会い。そして、これは終わりではなく始まりだ。

 そう思うのではなく、そうすることにした。旭自身が、決めたのだ。

 旭は、右の拳を雷華に突き出した。

 湿っぽいのはお互い柄じゃない。

 だから、らしく行こう。

「とりあえず、お別れだ」

 雷華がこつんと、その拳に己の拳を合わせた。

「とりあえず?」

「生憎俺は、一般人じゃないんでな」

 魔術をかじっているという意味でも、神薙グループの御曹司という意味でも。

「だから、お前らの相場なんて知ったこっちゃないんだ」

 雷華は驚いたような顔をして、こちらの顔を覗き込む。そんな彼女に、力強く言う。

「神薙グループのトップになって、三財界のトップにもなる。

 そうすれば、裏社会にだって幅を利かせられる。……大手を振って、お前に会いに行ける。

 だから、待ってろ!」

「……。このバカ」

「ぐぉっ!?」

 容赦なく、躊躇なく雷華は旭の鳩尾を殴った。

「魔術師に関わるなって言ったでしょうが!」

 不意の衝撃による激痛に耐えきれず、旭はその場に両膝をついてしまう。

「本当に、アホなんだから」

 ……バカだのアホだのと、散々な言われようである。

「お、お前、流石に酷いんじゃ――」

 雷華は、そんな旭の言葉を無視し、彼の顔を両手で包み込むように挟む。

「!?」

 雷華の端正な顔が超至近距離にある。それと同時に、旭の唇に柔らかい何かが触れる。腹の痛みなど、完全に消えていた。



 旭は、雷華の姿が見えなくなった後も動く事が出来なかった。

 まだ、彼女の声が頭の中に残っている。

『私にも、ね』

 何か言おうとした旭は、相手の人差し指によって口をふさがれた。

『私にも、よく分からない』

 息遣いさえ感じ取れる距離で、顔を真っ赤にして雷華は笑っていた。

 頭の中に、響いている。少しだけ寂しさを混ぜだ声で、それでも前向きな想いを込めた声が。響いている。


 『……でも、貴方のその気持ちは間違いなく幻想だから……。その気持ちを真に受けるのはフェアじゃないと思う。心の動きを止めてしまっていた貴方が、心を動かした時に初めて見たのがたまたま私だっただけ。刷り込みのようなもの。

 だから、貴方の言うように。いつかまた、会いましょう。

 それまでたくさんの『初めて』に出会って。

 その後に、また出会いましょう。

 それに、チーズケーキも食べに行かなきゃだし、ね』

 旭は、そう言って去っていった少女の笑顔を何度も何度も思い返す。

 そして。

 ああ、この笑顔には一生かかっても敵わないんだろうな、と。

 そう思うのだった。



~Fin~

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旧暦の剣姫 @tarareba11

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