四章 私たちのボート

「あーあ、夏休み終わっちゃった」

 軽いランドセルを左右に揺らしながら、恵理ちゃんは私の前を歩いて行く。あの事件以来、私たちは一緒に登校するようになり、夏休みも例年よりたくさん二人で遊ぶようになった。

「今年の夏休みは楽しかったから、あっという間だったな」

 そう言って、恵理ちゃんは私の方を振り向く。その目には、あたたかい光が溜まっていた。

「私も楽しかったから、あっという間だった」

 大股で恵理ちゃんの横に並ぶ。

「お父さんはどう?」

「良い感じ。いびきがうるさいけどね」

 そう答えながら、家族四人で寝ている狭い和室を思い出す。——お父さんは、初めて会った日の一週間後から、私たちの家に住み始めた。年内には、この町の新しいアパートに引っ越す予定だ。ゆくゆくは家も建てたいなって、お父さんとお母さんは楽しそうに言っていた。

「すーちゃん、よく笑うようになったもんね。お父さんができてから」

「そうかもね。昔も幸せだったけど、今はもっともっと幸せ。お母さんも家にいてくれるようになったし」

「私も……」

 エネルギーを溜めるようにそう言って、恵理ちゃんは私を追い越していく。

「幸せ! すーちゃんが前より構ってくれるようになったから!」

 そして、私の方を振り向き、ビームを撃つように大きな声で言った。

「やっぱり、殴られてみるもんだね」

「バカなこと言わないでよ……」

 無邪気に言う恵理ちゃんに苦笑いしながら、恵理ちゃんの真似をして、私も早歩きで恵理ちゃんを追い越した。

「もう私に悲しむ姿を見せないで!」

 そして、恵理ちゃんのよりも大きなビームを、思いっきり撃ち返した。


「……二学期も今まで以上に頑張って、また皆さんの成長した姿を見せてください」

 話し終えた校長先生は、一歩後ずさって礼をした。窓から差す光が、校長先生のツルツルした頭を光らせる。私はそういう光景を見る度に、思わず笑いそうになる。ハゲあ……スキンヘッドには、そういう特別な魅力があると思う。

「……それでは、次は表彰です。表彰される生徒は、前に出て来てください」

 児童会の人がそう言うと、始業式には似合わないざわめきが体育館に湧く。今までずっとくだらないことを考えていた私も、初めて式の方に意識を向けた。出て行きにくい雰囲気の中、堂々と前に出て行った生徒……その姿を見た瞬間、私と恵理ちゃんは同時に、「えっ?」という声を上げた。

「……宮田翔太さんは、夏休み中に、川で溺れかけていた六歳の男の子を、川に飛び込んで見事に助けました。その勇気を称えて、この場で表彰状を送ります」

 演台の前に立ち、恭しく礼をして、宮田は校長先生から表彰状を受け取った。その表情かおは、憎いくらいに晴れやかだった。

「あいつ、変わったんだね」

 恵理ちゃんは私に囁いた。私は、前を向いたまま小さく頷くことしかできないくらい、宮田のその様変わりした表情かおに釘づけになっていた。


「……あいつさ、私を殴った時、手加減してたと思うんだよね」

 一緒に帰っている途中、恵理ちゃんは突然そんなことを言い出した。

「どうして? あんなに泣いてたでしょ?」

「いや、実はね……あいつの腹パン、そこまで痛くなかったんだよね。なんか怖くなって泣き出しちゃったけど」

 恥ずかしそうに頭を掻きながら、恵理ちゃんは言った。

「それに、鳥羽君をいじめてたのは事実なんだけど、実は鳥羽君の体には傷一つなかったみたいでさ……」

「恵理ちゃん、どれだけ手加減していようとも、暴力は暴力だよ。庇う必要なんてない」

「別に、庇おうとなんてしてないよ。私が言いたかったのは、あいつはまだ、やり直せるよねってこと。……私は幸せになってほしいよ、あいつにも」

 そう言った恵理ちゃんの表情かおには、子の成長を見守る親のような優しさがあった。


「ただいま」

「おかえりなさい」

 お母さんの柔らかい声が返ってくる。お母さんが家にいてくれるようになってから、もうけっこう経つのに、やっぱりお母さんが家にいる今の暮らしには、中々慣れることができない。

「お菓子、テーブルに置いといたから食べていいよ」

 手洗いうがいを済ませて茶の間に行くと、お母さんは、寝っ転がって録画されたドラマを見ながら私に言った。

「うん」

 まな板の上に横たわる魚みたいな姿勢で、テレビを観るお母さんを見ながら私は、「お姉ちゃんもこうやって寝っ転がってテレビ観るよなあ」と思った。お母さんを見ていると、「ああ、私たちはこの人の子供なんだな」って思うことが度々ある。

「それ美味しいでしょ。期間限定の味なんだって」

 首だけを私の方に向けてお母さんは言う。今までピクリとも動いてなかったから、まるで人形が動き出したみたいで少しビックリした。

「うん、美味しい」

 お母さんの買って来るお菓子はセンスがいい。かっぱえびせんは、もう我が家から消えた。あれだけ食べてきたのに、いざ食べなくなると、なぜか途端に恋しくなる。今度リクエストしようかな。

「私にも一枚ちょうだい」

 私の返事も聞かず、お母さんはちゃぶ台に手を伸ばして、すっとクッキーを一枚取った。傍から見たら、すごいぐうたらな母親だけど、今までの苦労と家事はちゃんとやってくれることを考えると、逆に「やっと休めるようになって良かったな」と思う。

「うん、やっぱり美味しい」

 確かめるようにお母さんは呟いた。この何気ない時間が、ずっと続けばいいのにと思いながら、私はお母さんとドラマを観た。

 ——若い男女が、ホテルの部屋に入って行った。やけに艶やかなライトに照らされたベッドが映し出される……あっ、嫌な予感がする。

「さあて、本でも読もうかな」

 テレビの方に顔を向けないようにしながら、席を立った。……よくもまあ、あんな堂々と見てられるな。


「ただいまー」

「おかえりなさい」

「おかえりー」

 あれからおよそ三十分後、お姉ちゃんが帰って来た。

「さて、そろそろ昼ご飯にしよう。雪舞のおやつは食後に出すから。カップ焼きそばとカップラーメンどっちがいい?」

 お母さんが訊く。「焼きそばー」という声が、お姉ちゃんとハモった。

「はーい」

 お母さんは台所に行って、カップ焼きそば三つと、真新しい電気ケトルを取って来た。お父さんがうちに来てから、我が家は少し裕福になった。やかんでお湯を沸かしていたことが、何だか遠い昔のことのように思える。

「純玲、今日の学校はどうだった?」

「あの宮田ってやつが、表彰されてた」

「えっ、どうしてだ?」

 お母さんに対する疑いが消えた後も、お姉ちゃんは相変わらず荒い口調で話す。「この喋り方の方が楽なんだ」と、お姉ちゃんは言っていた。

「夏休み中に、川で溺れかけていた子供を助けたんだって」

「ふーん」

 全く興味なさそうな声。お姉ちゃんは昔から、自分や自分の大切な人を傷つけた人間を、ひどく嫌う。……帰りに見た恵理ちゃんの子の成長を見守る親みたいな表情かおを、不意に思い出した。

(そう、お姉ちゃんの反応が正常なんだよ。これくらいの厳しさがなきゃ、汚い人間がはびこる世界を、私たちは生きていけない。恵理ちゃんはやっぱり、優しすぎるんだ。……ほんと、この調子だとまだまだ手が焼けるな)

 やれやれと思いながらも、心の隅には、このままずっと純粋でいてと願っている自分がいた。


「ただいまー」

『おかえりー』

「おかえりなさい」

 午後七時頃、疲れ切った顔のお父さんが帰って来て、我が家のメンバーは全員揃った。夜ご飯は、ハンバーグとナスの味噌汁とサラダと白米。お姉ちゃんの料理と違って、お母さんの料理は、全て目分量で作るのに、いつも安定した味で美味しい。

「美味しい」

 熱い味噌汁を一口すすって、お父さんが呟く。食べ方にも癖が出るんだなと、四人で食卓を囲むようになってから私は思うようになった。お父さんは必ず汁物を一口すすってから食べ始める。お姉ちゃんは、三角食べなんてなんのそので、食べたいものを真っ先に食べ尽くす。お母さんは……ちゃんと三角食べするんだけど、野菜を食べる時に少し眉をひそめる。芋と大根とカボチャ以外は、ほぼ全て苦手らしい。だけど、栄養を取るために、お母さんは今日も野菜の入った料理いばらのみちを選ぶ。

「今日、会議があったんだけどさ、部長がお腹壊して急に欠席して、大変だった」

「大橋部長、体弱いよね。前はインフルで出張に行けなくなったんだっけ」

「うん。仕事はめちゃくちゃできるんだけどな」

 大橋という苗字も、その部長が前にインフルで出張に行けなくなったことも、私たちは知らない。こういう二人しか知らない話に出くわすと、私は二人の歴史の長さを改めて思い知る。

「そう言えば、IT企業って何をする会社なんだ?」

「色々あるけど、うちはインターネット回線を管理してる」

「なんか頭良さそうな仕事だな」

「まあね」

 お父さんは自慢げに言う。そう言えば、「勉強を頑張って奨学金をもらって、大学に行った」って言ってたから、頭いいんだもんな。……この前、お風呂上り服を裏表に着てたけど。なんと、シャツもズボンも。

 ご飯を食べ終わった後は、お姉ちゃんとよくやっていた格闘ゲームを四人でやって、一番強い人を決めた。最下位はお父さんで、私は三位、二位はお母さんで、一位はお姉ちゃんだった。お父さんとお母さんは初めてプレイするから、私とお姉ちゃんで、一位・二位を争うことになると思ってたのに、なんと二位はお母さん。しかも私に圧勝して、一位のお姉ちゃんとの決勝も僅差だった。

「よっしゃ!」

 接戦に勝利したお姉ちゃんは、コントローラーを床に置いて、両手を振り上げた。お母さんも悔しそうに口を結んでいる。二人の掌は、照明の光と汗で輝いている。

「……お姉ちゃん、いっつも手加減してたんだね」

「……あっ、いやいや、別に手加減なんてしてないよ。ただちょっと、得意なキャラばっかりだったら、つまらねえかなあって、な?」

 お姉ちゃんが焦って取り繕う。

「ふーん、まあいいや。ところでお母さん、すごい上手だったね」

「純玲だったら、雪舞だったらこういう動きするだろうなって考えて戦ったら、けっこう上手にできた。和樹との戦いはけっこう苦戦したから、まだまだ一緒にいる時間が足りないんだね」

 確かに、お父さんとの戦いは、意外と苦戦していた。

「……まあ、それ以上に和樹が弱かったから勝てたけどね。なんか、キャラクターが酔ってるみたいだった」

 お母さんが笑う。お母さんとお父さんの会話は、なんだか友達同士のおしゃべりみたいだ。

「まあ、ゲームってものをするのは、今日が初めてだったからな。……じゃあ、明日から会社休んで、ゲームの修行でもするかあ」

「じゃあ、変装して私が代わりに出勤するかな」

「体型は同じくらいだけど、髪と肌が綺麗すぎるな」

「髪はウィッグで何とかして、肌は……まあなんか塗ればいいか」

 お父さんが、遠回しにお母さんの肌と髪を褒めたことに、お母さんは気づいていない。気づいているのに、素知らぬふりをしているのかもしれない。お母さんも、お父さんも、お姉ちゃんも、自分の顔は見えないけど私も、くだらないことで幸せそうに笑っている。こうやって、全員が自然体で笑える家族っていうのは、実はとても珍しいんじゃないかと思った。


「二人とも、おやすみなさい」

「新学期が始まったんだから、早く眠るんだぞ」

 お母さんとお父さんが、パジャマに着替えた私たちに言う。

『おやすみー』

 声を揃えて言って、寝室に入っていく。お母さんとお父さんは、私たちが寝た後、三十分から一時間くらい二人でお酒を飲む。この前、お姉ちゃんと会話を盗み聞きしたけど、話はほとんど私たちのことだった。「純玲は小さい頃ね……」とか、「この前、雪舞が珍しく漫画を読んでたんだよ……」とか、そんなことを取り留めなく楽しそうに話していた。

「今日も一日、幸せだった」

 まだ暑いというのに、つま先から顎の辺りまで布団に収まったお姉ちゃんが、ポツリと呟く。

「急にどうしたの?」

「幸せが目を離した隙に消えないように、今日から毎日こうやって確認しようと思ったんだよ」

「……私も、今日も一日幸せだった」

 いつも幸せだと思ってるから、わざわざ口に出さなくてもいいんだけどなと思いながらも、やっぱり口に出してみた。

「血の繋がった子供が生まれて、血の繋がってない連れ子がないがしろにされる……っていう話、よく聞くから怖かったんだけど、うちではそういうことは起こらないだろうな」

「どうしてそう思うの?」

「第一に、お父さんは血が繋がってるとか血が繋がっていないとか、そんなどうでもいいこと気にしない。第二に、この寝室を見てみろ。左から順にお母さん、純玲、私、お父さん。お母さんとお父さんが、私たちと同じ部屋で眠っている上に、二人の布団の間には私たちの布団がある。どうやってえっ……」

「ああ、うん。わかったわかった。そういうことね」

「実際、気にならないか? 二人がどこまでやったのか」

「別にどうだっていいよ! あれだけ仲良しなんだから、それで十分でしょ」

「それもそうだな。さて、くだらない話してねえで早く寝るか」

 よし、下ネタスイッチが入る前に止められた。お姉ちゃんはスイッチが入ると長いんだよな。この前はお姉ちゃんの好きな小説について、登場人物ひとりひとりの小さな癖に至るまで語られた。

「じゃあ、おやすみー」

「おやすみー」


 夜中、電話の着信音で目が覚めた。お父さんのスマホだ。お母さんとお姉ちゃんは、起こさないでよと言わんばかりに、布団の中でもぞもぞと動いている。お父さんは、枕元のスマホを取って起き上がり、茶の間に出て行った。

「誰からだろうな」

 お姉ちゃんが、私の耳元で呟く。

「誰だろうね」

 お父さんは、それから二十分近く経っても、戻ってこなかった。

「様子見に行こうか」

 お母さんが目を擦りながら言う。私たちは起き上がって、茶の間に行った。寝ぼけていて、何もない床で何度か転びそうになった。お父さんはもう電話を終えていて、スマホを持って立ったまま、何かを深刻に考え込んでいた。化石になったみたいに、瞬き一つせず、全てのエネルギーを考えることに使っているようだった。

「和樹、どうしたの?」

 お父さんのただならぬ気配を感じ取って、お母さんが心配そうな声で訊く。

「…………」

 だけど、お父さんはピクリともしない。お母さんは、ふうっと大きく息を吸って、「和樹!」と叱りつけるような声でお父さんの名前を呼んだ。

「うわっ! ああ、春香……」

「誰からの電話?」

「……それが、病院からなんだ」

 お父さんの声が、どしんという音を立てて、茶の間の床に落ちる。

「病気?」

 お母さんの声に焦りが交る。

「いや……真希まきの意識が、戻ったんだ」

 お父さんは目を伏せて、独り言のように言った。知らないはずなのに、真希という人が誰なのか、私には一瞬でわかった。

「……良かった。すぐ会いに行ってあげて」

 お母さんは、心の底から安堵するように言った。お母さんはもちろん、真希という人が誰なのか知っているらしい。

「……うん、そうするよ」

 お母さんの安堵した顔を見たからか、お父さんは覚悟を決めるようにそう言った。いつも使っているはずの電気のスイッチやタンスを、キョロキョロ探し始めたり、パジャマの上に服を着ようとしたり、高揚と動揺でぐちゃぐちゃになったお父さんの心が、その一挙手一投足に表れていた。

「じゃあ、行ってくる」

「うん、ゆっくり話してきてね」

 そして私たちは、あたふたした準備を終え、深夜の病院に行くお父さんを見送った。


「さて、なんか寝るって雰囲気じゃなくなったし、和樹が帰って来るまで起きてようか」

 深夜、女子だけの空間……修学旅行の夜みたいな空気が生まれた茶の間で、パジャマのままちゃぶ台を囲む。

「真希さんが誰なのかは、二人とも知ってる?」

「お父さんが小さい頃から一緒だった女の子だろ? 諸々の話は、お父さんから聞いたよ」

「うん、そう。……純玲、どうしてそんな不安そうな顔してるの?」

 いきなり名前を呼ばれて、ビクッとした。

「べ、別に……」

「和樹の気持ちが、真希さんの方になびくんじゃないかって思ってるんでしょ」

 図星だった。わかってるなら、訊かなきゃいいのに。

「……やっぱりね。でもまあ、大丈夫だよ」

「お父さんがいい人だから?」

「違う。和樹は、私を真希さんの代わりにしてるから」

 お母さんが何気なく放ったその言葉で、一瞬にして場の空気が凍りついた。

「どういうことだ?」

 お姉ちゃんがすかさず訊く。

「和樹はね、私と付き合う前から、真希さんの話をよく私にして、付き合う時に、言ったんだ。『僕は春香を真希の代わりにする。春香を幸せにして、真希を幸せにできなかった後悔を晴らしたいんだ』って」

「デリカシーの欠片もない発言だな」

 お姉ちゃんが苦笑いしながら言う。

「そうだね、和樹は正直すぎる。だから私も、正直になることにしたんだ。……『じゃあ私は、和樹を太一の代わりにする』って返したの」

「おい、太一って……」

 お姉ちゃんの顔に動揺が浮かぶ。

「そう。私を捨てて他のひととくっついた、あなたたちの血の繋がったお父さん」

 私たちは二人して言葉を失い、黙り込んだ。語るお母さんは別に悲しそうではなく、本当に何とも思っていない様子だった。

「……和樹は私を真希さんの代わりにしてるんだよ? 和樹は絶対に真希さんを悲しませるようなことはしない。だから、真希さんも私も、両方が幸せになるような選択を取るよ」

「そのことはもうわかったよ。だけど……お父さんを、あのクソ男の代わりにしてるって本当か?」

 お姉ちゃんが訊くと、お母さんはゆっくりと口を開いて、とても穏やかな声で答えた。

「……軽蔑するでしょ。人間って、愚かだよね。あんなことをされても、私が異性として一番好きなのは、あいつなんだから。……和樹は、そんな人間の愚かさを、私の愚かさを、誰よりもわかってくれる。そして、自分自身の愚かさを、誰よりもさらけ出してくれる。だから私は、和樹と何の後ろめたさもなく、幸せを感じることができるの」


                  *


 仕事帰り、たまに訪れる病室。扉にかけた手が、震えている。

(この扉の先に、目を覚ました真希がいるんだ)

 そう考えるだけで、心臓の鼓動に合わせて五臓六腑が飛び出しそうになった。覚悟を決めて、ふっと息を吸い込む。左手は握りしめたまま、右手で思い切って扉を開ける。窓から差し込む月明かりが照らす病室、真希は、ベッドの上に体育座りをしていた。

「久しぶりだね」

 ゆっくりと僕の方を振り向いた真希、その声は、あの頃のまま変わっていなかった。目をこすって現実だと確かめたかったけど、それ以上に、目を覚ました真希を一秒でも長く見ていたかったから、僕は瞬きすらもしなかった。

「……九年。真希が意識を失ってから、今日までの時間だ」

「大体の話は、病院の人から聞いたよ。九年間、ずっと病室に会いに来てくれたんだってね。……ありがとう」

「こちらこそ、ありがとう。目覚めてくれて……本当にありがとう」

 その後は、もう言葉が出なかった。その場にうずくまって、泥のようにひとしきり泣いた。あんなに泣いたのは、九年前、真希が意識を失ったとき以来だ。真希は、九年間ずっと動かしてこなかった脚を、ゆっくりゆっくりと動かして僕に近づき、泣いている間、僕の背中をずっと撫でてくれた。そして途中から、水道の蛇口を思いっきりひねったみたいに、僕よりも激しく泣き出した。

 色々な話をして、色々な遊びをして、色々なケンカをした子供の頃。一緒に勉強を頑張って、一緒に合格を喜び合った高校受験。彼氏ができたと聞かされて、少し複雑な気持ちになった高校時代。一緒に歩んできた道が分かれて、それぞれの道への一歩を踏み出した高校の卒業式。どうしたんだろうと思いながらも、結局、何も行動を起こさなかった成人式。そして九年前、絶望のどん底に叩き落されたあの日。真希と積み重ねてきた瞬間が、涙と共に次々とフラッシュバックする。


「この九年で、どんなことがあったか教えてよ」

 泣いて泣いて、涙をからした僕たちは、ベッドの端に腰掛けて話し始めた。

「まず、元号が変わったよ。平成から令和になった。あとは……あれ、色々ありすぎて思いつかないな」

「社会のことじゃなくていいんだよ。私は和樹のことが知りたい」

「僕は大学を卒業して、この街のIT企業に就職した。そして……」

「そして、どうしたの?」

 真希が僕の目を覗き込む。昔よりも少し長くなった前髪の間から見えるガラス玉みたいな目が、月明かりを受けて輝いている。

「……結婚、したんだ。今年の夏に」

「結婚? 和樹が?」

 パチパチと目を瞬かせる。

「うん」

 会社の人に話しても、少しも恥ずかしくなかったのに、真希に話すとなぜか恥ずかしい。

「ふーん。良かったね」

 そして真希は、真顔のまま頷いた。真希の反応は、やっぱり思った通りのものだった。

「どんな人?」

「同い年で、十三歳と十一歳のかわいい娘がいる」

「中々大変そうな人と結婚したね。でもまあ、和樹なら大丈夫か。なにせ和樹は、目覚める見込みのない親友に、九年間も会いに来つづけた男だからね」

 そう言って、真希は笑った。

「真希はこれからどうするんだ?」

「まずは、しゅうに会いに行って、許してくれるまで謝ろうと思う。その先のことは、それから決めるよ。……住む場所がないから、和樹の家に居候しようかな」

「いいよ、別に。春香には真希のこと話してるし」

「真に受けないで、冗談だよ」

 真希が首を何度も横に振る。

「これからの人生は、できるだけ自分の力で生きてみたいって思うんだ。時々は和樹に頼るかもしれないけど。あと……奥さんの名前、春香っていうんだね」

「ああ、うん。まだ妻って呼ぶのに慣れてなくて」

「……今、幸せ?」

 顔は笑顔のままだったけど、その声はとても真剣だった。

「うん、とっても」

 真希の顔をしっかりと見据えて、ハッキリと答える。いま思えば、「幸せだ」なんて声に出したことは、これまでの人生で一度もなかった。……幸せについて考える時、「幸せだった」が真っ先に浮かぶ人生を送ってきたから。

「……じゃあ私は、もっともっと幸せになるね。修と、思い出の中のあの人と」

 真希は、自分に言い聞かせるように、覚悟を決めるように、そして僕に挑むように、僕の目を見つめてそう言った。

「応援するよ。困ったら、いつでも頼ってくれ。もう大切な人を失いたくないんだ」

「うん、たまには家に遊びに行くよ」

「いつでもどうぞ」

「……じゃあ、話の続きはまた今度」

 そう言って、真希は僕の体をそっと押した。

「ほら、もうそろそろ行かないと。愛しの春香が待ってるんでしょ」

 痛いくらいの力で、パンパンと背中を叩かれる。

「うん、そうするよ。生まれて初めてできた家族、僕はその大黒柱だからな」


 真希に手を振り、病室を出た僕は、スマホを手に取って春香に電話をかけた。

「今、病室を出た。真希は元気だったよ」

「そう、よかった。早く帰って来てね、純玲と雪舞はもう眠っちゃったから。……二人とも、とってもかわいい寝顔だよ」

「うん、見るのを楽しみにして帰るよ」

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ボート てゆ @teyu1234

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