授賞式で写真撮影をお断りした理由を告白します

エモリモエ

撮るのも撮られるのも嫌いです

先日のことです。

とある賞を受賞するという栄誉にあずかる機会がありまして。

その表彰の折りに、

「では、写真を一枚」

という話になったのです。


こういった晴れがましい席には不慣れなものですから、すっかり失念しておりましたが、よくよく考えてみれば、いえ、考えてみなくても、これはごくごく普通の流れです。

むしろ、予算も労力もかけて開催した賞の授賞式なのですから、写真を撮って広報に使用するのは当たり前のことだと思います。


でも、私は、

「写真は撮るのも撮られるのも嫌いなんです。すみません」

かたくなに断って、ちょっとした悶着になってしまいました。


主催者様および関係各位の皆様には本当に申し訳なかったと反省しております。


けれども、すみません。

私にもそれなりの事情があるのです。

せめてその事情を説明できれば良いのですが。それも少し難しいのです。

いいえ。お話するのは構いません。ただ、それをご理解いただけるかどうかとなると。

やはり難しいのではないかと思うのです。

それでも私が告白しようと決めたのは、信じてもらえるか否かはさておき、お騒がせをしてしまった以上、なんの説明もしないのは受賞者として誠実さに欠けるのではないかと考えたからです。


率直に言います。

私の写真にはいつも幽霊が写ってしまうのです。

どうしてなのかは分かりません。

私を撮ったものはすべて心霊写真になってしまう。

むかしから、ずっとそうなのです。


おそらくそれは私が生まれた時からそうだったのだと思います。

私には幼少期の写真が一枚もありませんでした。

姉の写真はあるのですが、それも赤ん坊の頃のものだけなので、きっとうちの両親があんまり写真が好きじゃなかったせいで小さい頃の写真がないのだと、漠然と思っていました。ときに次子にはあることです。多少ひがんだりはしましたけど、さほど気にはしていませんでした。


けれど、本当は私を撮った写真も存在したのです。

全てが心霊写真だったから、私に見せることができなかっただけで。


そのことを知ったのは、私の両親がそろって交通事故で亡くなってしまった直後のことです。

中学生だった私は、姉と一緒に遺影用の写真を探していて、父の書棚の引き出しに大量の古い写真が入っているのを見つけました。

どれも小さな頃の私が写っていました。昔住んでいた家の前で姉と二人で写っているもの。家族四人で旅行に行った時のもの。祖父母の家に遊びに行った時の写真もありました。見たことのないものばかり。

心霊写真でした、全部。


素人ながら考察するに、写っているのは同じ霊ではないようでした。

服装だけで判断しても古今東西選り取り見取り。なにがなんだか分からない姿の者も多く(というより実体が写っていない写真のほうが圧倒的に多いのですが)顔だけとか、手だけとか、部分だけが写りこんでいるものもたくさんあって、なかには人間ではないような姿のものも散見します。

一番多いのは不可思議な光が入っているもので、それが画面を歪めていたり、あるいはふよふよと浮いている(火の玉だかオーヴだか知りませんが)そんな様子のものばかり。嫌になるほどあるのです。

私を撮った写真をずらりと並べてみれば、まるで心霊写真の博覧会といった具合。

まともなものなど一枚たりともないのです。


思い返せば。

学校で撮る集合写真にも私のクラスだけおかしな写真が多かったような気がします。

以前プロの方にうかがったことがあります。そういう不可解な写真があった場合、関係者が不愉快な思いをしないように、失敗品として人前に出さないのが業界の暗黙のルールになっているのだそうです。

ですが、すべての写真が心霊写真になっていたならどうでしょう?

取捨選択の余地がありません。

たいていは加工技術でなんとか見栄えを整えて提出してくれているのでしょうが。それにだって限界はありますし、チェック漏れも発生します。


たとえば今、小学5年生の時に行った林間学校の時の一枚が手元にあります。

クラスメイト全員が行儀よく並んでおさまった、その頭上に薄ボンヤリとした巨大な手が広げられている様子が写っています。

おそらくあまりに大きく写っていたので、かえってチェックから漏れてしまったのかもしれません。

その巨大な手は今まさに子供たちを掴み取ろうとしているようでとても気味が悪く、教室で騒ぎになったことを覚えています。


その後も、運動会や文化祭、学校が公式に撮ってくれたもので、私の写る写真は極端に少なく。

しかし、こういった学校行事の写真は生徒全員が写っていることが必要ですから、たいていは一枚だけはあるのですが。それはいつも不自然な構図に切り取られているのでした。

その頃には私も自分の奇妙な癖といいましょうか。自分が写ったものはすべて心霊写真になってしまう現象に薄々気づきはじめていました。

このことはPTAでもちょっとした話題になっていたようです。

学校行事にカメラを持ち込む親御さんは少なくありませんし、スマートフォンにはカメラ機能がついているのが普通です。

誰も気づかないなんてことはあり得ません。

気味悪がる人もいたと思います。


学校生活でいじめにあわなかったのは、陰口などの悪意に対して私自身が鈍感であったせいもありましたでしょうが。

じつのところ幽霊に祟られるのではないかと恐れる人が多かったからだと思います。

逆に言えば、その程度には私を撮ると幽霊が写るということが周囲に浸透していたということでしょう。


こんな話、信じられませんよね?


分かっています。

いいんです。

とつぜん誰かにそんなことを聞かされたら、私だって信じません。

自意識過剰な人間の嘘だと眉をひそめられるか。

心を病んだ可哀想な人のたわごとだと同情されるくらいが関の山でしょう。

それでも構いません。

そう思われても仕方がないと自分でも思うのですから。


私には霊感のようなものはありません。

幽霊を見たこともなければ、金縛りの体験さえもなく、いわゆる心霊現象のたぐいに出くわしたことはないのです。

私は信心深い性質でないですし、むしろスピリチュアルな世界には懐疑的なほうです。

それなのに。

何故、私が?

不思議でしかたないのです。

ただ、私が関わった写真はすべて心霊写真になってしまう。

そのことだけは確かなのです。


もしかしたらこれは、俗にいう雨男のようなものなのかもしれません。

ただ、私の場合、出掛けるたびに雨に降られるのではなくて、写真を撮るたびに心霊写真になってしまうのです。

言うまでもないことですが、私が望んでいるから心霊写真になっているのではありません。

雨男と呼ばれる人たちが、出掛けるたびに雨乞いをしているわけではないのと同じです。

意思と事象には関連性がなく、私には選択の余地はないのであって、どうにもならない、そう、これは不可抗力なのです。

そういう星のもとに生まれてしまったと諦める他ありません。


心霊写真なんてつまらないものです。

たまにだったら面白いと思う人もいるかもしれませんけど、撮るたびに幽霊が写ってしまうのでは煩わしいだけです。


この現象は、私が撮られた時だけでなく、撮った時にも起こります。

人の写真でも風景写真でも同じことです。すべての写真になにかしら奇妙なものが写りこんでしまうのです。

私だって写真くらい撮りたい時はあるのに。

本当に迷惑です。


猫も杓子もSNSをしているのが常識というような今の世の中にあって、私のように写真を嫌がる人間が、皆様の目にはさぞかし不可解に映ることでしょう。

かたくなな私の態度を、いっそ不快に思う方もいらっしゃるはず。

写真を撮られて困るのは犯罪者だからではないか? というような憶測を持たれたとても、ですから、致しかたのないことかもしれません。

若い女性であればストーカーやDV被害に悩んでいる可能性もあるのでしょうが、私はそうではないですし。

殺人犯とまではいかなくても、詐欺師か何かなのではないかと疑うほうが、客観的にはありそうな話。

分かります。


ですから。

ちょっとした好奇心。

あるいは大人げなく駄々をこねて写真を撮らせなかった私に対する反発に似た感情が引き起こした悪戯心。

推察するにそんなあたりの動機から、気軽な気持ちで悪気なく、私のことを盗み撮りしてしまった人がいたとしても。

ええ、分からないこともないのです。

あるいは、また。

何かの拍子に、たまたま私が写りこんでしまうような、不幸な事故も。

授賞式のような席ではありえないことではなかったのではないか、と推察するのです。


でも。

その写真を撮った翌日に、その人が亡くなってしまったと聞くと……。


すみません。

すみません。

本当に申し訳ありません。


私を撮った写真にはいつも幽霊が写っています。

けれど、ときどき。

本当に時々。

幽霊が写っていないことがあります。


もちろん、私以外の人であれば、撮られた写真に幽霊が写っていないのは普通のことです。

けれど私の場合は違います。

私の写真は心霊写真になるほうが普通なのです。なにしろそういう体質なのです。

なのに、ときどき心霊写真にならないことがある。

いつもは何かしら写ってしまう幽霊が、その時に限って写っていない。

これはいったいどういうことでしょう?


あくまで想像なのですが。

写っていた霊が写真から抜け出た、ということはないでしょうか。

あるいは。

本来は写るはずだった霊が、写真の中には写りこまず、撮った人間に憑いたということはないのでしょうか。

私には分かりません。

そんな推論をしただけです。


そんなわけですから。

私は写真を撮るのも撮られるのも嫌いです。

そういう事情でいつもお断りしているのです。


ですが、たまさか私の写真を撮ってしまったために、誰かが亡くなってしまうという不幸な出来事は、過去にも何度かありました。

因果関係は分かりません。

ただ、実際に起こってしまった、その実績があるだけで。

偶然かもしれません。

私の知る限りその偶然は百パーセント起こっているのですが……。

それでも私の写真とはなんの因果関係もない、単なる偶然の可能性がないとも言い切れません。


もちろんこれは詭弁です。

ただの現実逃避です。


ともあれ私は事前にこういった事情をお伝えしておくべきでした。

あるいはまた、私のように呪われた人間は、授賞式のような晴れがましい席に出席するべきではなかったのでしょう。

けれど、長年の苦労の成果が評価され、受賞に至った喜びは、私を錯覚させてしまったのです。私のような者でも人並みに自分の幸運を喜んでいいのだ、と。

図々しいことでした。

自分勝手なことでした。

分不相応なことでした。


そのために、故人にはたいへんご迷惑をおかけしました。

謝って済む話ではないのかもしれません。

また、逆に、私が謝る筋合いの話でもないのかもしれません。

それでも陳謝せずにはいられないのです。

本当に、本当に申し訳なく、ここに深い哀悼の意を申し上げる次第です。

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