Ⅰ-ii 大きな図書館(8月1日、8月2日) 5. 夜間バイト

 えんじと豊は五時過ぎに一階西側のフードコートで早い夕食を摂ると、夕方六時にアルバイト生の集合場所である二階総合カウンター前へ行った。そこでは取りまとめ役の笑顔の柔らかい年配の司書の女性が一人待っていた。


 その司書はアルバイト生全員が集まると、総合カウンターの裏側にあるスタッフルームへ連れて行った。アルバイト生たちは、そこで紺色のエプロンと首に掛ける館員証を渡された。全員の準備が整うと、司書は仕事の説明を始めた。仕事は主に返却された本を棚に戻す作業だった。この広い図書館で本を棚に戻しに行くのは手間がかかり人手が必要だった。


 本を戻す作業には専用の自動運転の運搬車が用意されていた。その運搬車は上に大きな籠が乗せてあり、その中に返却された本を入れ、側面に付いている液晶画面に場所を入力すると歩く速さで本を運んだ。アルバイト生は運搬車に付いて行き、本棚まで着いたら所定の場所に本を戻せばよかった。返却本はあらかじめ司書がチェックして貸し出しを解除し、別のアルバイト生がエリアごとに仕分けていた。


 就業中は紅雲楼の個人のメールボックスを使い、総合カウンターの司書と連絡を取り合った。いったんアルバイト生が総合カウンターから離れた場所へ行ったら、元には戻らず、近くに別の本の運搬車が来るのを待って作業をした。


 特別な催し物のない通常の日は図書館の閉館は二十時であり、アルバイト生はその時間に仕事が終わったら二十時三十分までに退館しなければならなかった。


 アルバイト生に配られた館員証にはバーコードが付いており、スタッフルームの前にある読み取り機にかざすと入室できた。この身分証明書では地下の書庫の出入りも許可されていた。というのも、時々利用者の中には紅雲楼から地下の書庫にある本を取り寄せて借りる人もいて、その本を元に戻すのもアルバイト生の仕事だからだった。ただ、従業員専用の場所はどこでも入れるわけではなく、開かない茶の扉など司書や特別な人以外立ち入り禁止の場所もあった。


 仕事が始まると、えんじと豊は二人一組になって、本の棚戻しをした。返却本の場所は運搬車が案内してくれたので館内で場所に悩んだり迷ったりすることは無かった。階をまたぐ時は、エレベーターを使った。運搬車の自動運転はよくできていて、エレベーターの前に着くと自動で止まり、人がいないのを確かめて動き出した。


 一日目はよく歩き、軽い疲労の中終わった。






 夏休み二日目の朝、えんじは“The Chess”の夢を見ないまま起床した。朝六時の図書館からのメールも来なかった。


 その日は開館時間に間に合うように豊と一緒に朝から大学図書館へと向かった。


「ふふふ、今日からですね、ホームズ君!」


 隣で並んで歩く豊がおどけてえんじにささやいた。二人は今日も五階駐車場に車を止め、四階の西側入口から入館した。それから一階に降り、一階西側にある人通りのない薄灰色の業務用入口から館員専用通路へと入った。少し歩くと業務用エレベーターがあった。地下の書庫へ降りるには、そのエレベーターを使うと昨日司書から仕事内容の説明の中で聞いていた。


 えんじと豊は周りに誰もいないことを確かめてエレベーターに乗り込んだ。二人はエレベーターに入ると、地下一階のボタンを押して降下した。


 扉が開くと、そこは目の前が白い壁に覆われていた。左側に細い通路があり、少し歩くとドアが一つあった。ドアのそばには銀色の読み取り機が設置されてあった。えんじが館員証をかざすと、ドアが左側に開いた。


 ドアの向こうは、明かりを付けても暗かった。そこは密集した本の匂いに包まれていた。空気はひんやりしていた。


 背の高い黒い書架が果て無く林立していた。数多ある書架は等間隔に並ばず、書架同士がくっ付いていていたり離れていたりと不規則に並んでいた。足元を見ると、書架の下には銀色のレールが通っており、手元が暗い中近くにあるスイッチを見つけて押すと、自動でレールに沿って書架が重なったり離れたりと動く仕組みだった。


「広いねぇ。ここから手分けして探す、えんじ?」


「そうさね。大変だけど助けてくれてサンキュー、豊」


 二人は暗い本の森の中で、一つの本を探し始めた。


 探しているのは“鏡の国のアリス”だが、本は和書ではなく洋書だった。また大きさは紅雲楼の蔵書検索によると小さな文庫サイズだった。隠れやすい大きさゆえ、目で確認しながらも、たまに大きくてよく目立つ本があればその陰に隠れていないか二人は手に取って調べてみた。


「全部確認するのにどれくらいかかるかな……」


 脚立に乗って書架の上にある本の背表紙を確認しながら、えんじは呟いた。主に背表紙の下方に貼ってあるラベルシールに『933.6/CA』と記された物があるか調べていた。


「明日は懐中電灯と上から羽織る上着が必要だね、えんじ」


 隣の列で目を細めて本のタイトルを一つ一つ追っていた豊が言った。


 書庫は入口の手前から探していった。そこは昔の婦人雑誌が幅を利かせていた。この大学の福祉家政学科では、家政学に関係する婦人雑誌を多く収集していた。立ち並ぶ雑誌を目で追いながら、小さな文庫本が挟まれていないか、えんじと豊は注意深く棚を見つめた。


 その一団の後にあったのは、つつじ女子大の過去の卒業論文の要約を綴じた本だった。これはわりと厚い本で、小さい本が挟まることなく整然と並んでいた。


 その後には、すでに無くなった出版社の和書の文庫本がずっと並んでいた。えんじはその中に洋書が紛れていないか目を凝らして確認していった。


 二人は薄ら闇の中、多くの書物を前に黙々と探し物を続けた。


 本を探し始めて二時間くらい経過した時、豊が本棚から目を離さずに離れた書架にいるえんじに声を掛けた。


「えんじ、変なことを言うけど、ここって本が息をしているみたいだね。それぞれの本が語ってくるみたいな感じ。人がなかなか入らない場所だから、本が自由に寛いでいるみたい」


 豊は不思議なことを言った。えんじは少し手を止めて豊の話を聴いた。


「大図書館でも本が“生きている”なぁって思う場所はあるんだ。だいたい人があまり行かない所だけど。この書庫は全体がそんな感じ。ここは空気は冷えているけど本にとっては生きやすい場所みたい」


 豊の話をえんじは理解した。ここでは書架を住処とする古い書物たちが、ゆったりとした時間を過ごしているように感じられた。


 えんじは一言答えた。


「その中で長い時間眠っている本を探すさね」


 その日は夕方まで調べた。連続した刊行物が整然と並んでいることも多くて、割と速いペースで本棚を見渡すことができた。しかし、件の本は見つからなかった。


 二人は館内の一階レストランで夕食を済ますと、夜間バイトへ行った。

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