Ⅰ-ii 大きな図書館(8月1日、8月2日) 4. 開かない茶の扉

 このつつじ女子大学図書館にはいくつか不思議な話がある。その一つが開かない茶の扉と呼ばれる大図書館四階の西側の突き当りに並ぶ七つの事務室であった。そこは階段がある行き止まりの場所に、茶色の扉が向い合せになって七つ並んでいた。その部屋はいつも鍵が掛かっていて固く閉ざされており、普段は使われない事務室だった。事務室なのだから館内の利用者が入れないのは当たり前のことだった。だが学生たちの中で、そこは図書館がこの大型施設に移行して以来、誰も一度も開けたことがない、という噂があった。


 その七つのドアの一つは、ある夏の真夜中に扉が開けられ、その扉の向こうを覗いた人は異界を見るという。その部屋はまことしやかに“鏡の館”と呼ばれていた。




 えんじと豊は正午頃に豊の家を出発した後、車で大学図書館へ向かった。図書館では、五階専用駐車場で車を止め四階西側入口から館内に入った。この大図書館は五階から七階は駐車場だった。


 えんじはそこで寄る所があると豊に伝え、四階の西側の突き当りまで歩いて行った。そこは図書館では珍しく、人は誰も通らず静かであった。


 えんじはその茶色の扉の一つの前に立った。そこには銀の文字で二行に分けて部屋名が書かれてあった。えんじは声に出して読んでみた。


「『Through The Looking-Glass and What Alice Found There』。


“鏡を通りぬけそこでアリスが見たもの”……。鏡の国のアリスの原題さね」


「“The Chess”と関係ありそうな名前だねぇ、ホームズ君」


 豊の言葉にえんじはじっと扉を見つめたまま答えた。


「この事務室群は、外の海岸通りから見ると、窓が一つ少ないさね」


 七つの部屋は、市街地側に四部屋、海岸側に三部屋等間隔に並んでいた。そのうち海岸側にある一番西側の一部屋には窓が付いてなかった。


 えんじがくすんだ金色のドアノブを掴んで静かに引いた。いつも通り鍵が掛かっていた。


 豊が小さく呟いた。


「窓もなく普段開けることのない部屋……まるで隠し部屋みたいだね」






 その後、二人は二階へ降りて館内を散策した。今日は人が多かった。幼稚園児や小学生の子どもたちが館内で行われている絵本や紙芝居などの朗読会を聞くため遊びに来ており、迷子がでないよう学生ボランティアが館内案内をしていた。


 二人は東側エントランス前の総合カウンターまで来た。この大図書館の入り口前には、催事情報が表示されたインフォメーションボードや電子看板、図書館での連絡事が手書きで書かれた掲示板など館内情報が集まっていた。ここは学生たちが図書館に訪れた時に最初に立ち寄る場所であった。


 入り口前で、丁度女子大生が一人館内に入場する所に出会った。女子大生は卵型の金縁眼鏡をかけ、長い茶色の髪を後ろでゆるく纏めており、大きな黒いトートバックを肩に掛け、少し眠たそうな様子で歩いていた。えんじはその人に気付くと隣の豊に目配せした。


「あぁ、秀さんだね、えんじ」


 二人は知り合いの方へ向かって行った。上寺里秀は同じゼミの仲間だった。


「おはよう! 秀さん。夏休み一日目から会ったね」


 豊が明るく友人に声を掛けた。えんじは目で挨拶を交わした。秀は顔をほころばせ、疲れている時に出てくる元気、のような声を二人に向けた。


「おはようお二人さん。お二人は大図書館で散歩? それともボランティアとか? 卒論の準備?」


「えんじと私は卒論の文献探しを含めて大図書館に遊びに来たよ。夕方からここでアルバイトがあるんだ」


「大図書館で夜間アルバイト? それは楽しそうだね。ご苦労様です」


「秀さんは?」


「……私もこれから卒論に必要な本をたくさん借りて行く所。夏休みは卒論を進めるぞ!」


「テーマは中国の料理の歴史についてだったっけ? お互い頑張ろうね、また大学で会おう」


「そうだね、卒論が進んでいますように! あ、メッセージが来た! お二人さん、じゃ、これで」


 秀は入館の時にゲートにかざして手に持っていた携帯端末がメッセージを受信したのを見て取ると、ゆるりと会釈をしてその場を去った。


「……?」


「えんじ、どうしたの?」


「気のせいかな……」


 えんじは秀と別れた後ふと横を見ると、総合カウンターにいた若い司書の女性がこちらを見ていたような気がした。しかし豊が同じく振り向いた時には、司書が去った後だった。


 それから二人は今日の催事情報が記されたインフォメーションボードの前に立ち、ざっと眺めた。


「今日は“読み聞かせ”が賑やかだねぇ。他にも夕方にテラスで音楽会もあるよ。さすがにまだ“The Chess”のオフ会はやってないみたいだね、えんじ」


「まだ紅雲楼の方でも動いてなかったから、これからかな」


 えんじは乗り気か消極的か、どちらともつかない抑えた声で言った。






 えんじと豊はインフォメーションボードに足を寄せた後、大図書館の一階中央の噴水広場の西隣にある行きつけの喫茶店で昼食にした。今日は店は混んでいた。一般の利用者が窓側の海岸通りのマリーナを見渡せる席を占め、のんびりと世間話をしていた。二人はよく座るカウンター席で軽食をとり、食後も飲み物を注文し、しばらく話しながらゆっくり足を休ませた。


 その後えんじと豊は二階へ上がって蔵書エリアに戻り、カートを借りてそれぞれ卒論を書くための本を探して歩いた。卒論のテーマに関連した本をカートの中で五、六冊積むと、  二階の中央案内所横のセルフ貸出機で本を借りた。


 そして二人は学習机のような一人用の机が並ぶ自習席に落ち着いた。そこはつつじ女子大の学生たちが読書や試験勉強をする時の人気の隠れスポットの一つだった。このエリアは窓際にあり、入り口付近に消しゴムのカスを掃除する黒い小さな卓上クリーナーが置いてあるのが目印となっていた。


 えんじはしばらく卒論の本を読み進めた。辺りは他の机も人で埋まっていたが、その場の者たちが静寂を守るようにしぃんとしていた。


 本の滔々とした語りは、自分の好きなことを卒論のテーマにしたえんじには読み応えがあり、楽しかった。一章が終わり、えんじは携帯端末で時計を見た。一時間が経っていた。


 えんじは読書からふと目を休め横を向くと、窓から列車が行きかう茶色い線路が見えた。その隣には大型の建物が目につく小さな市街地が、その先には山際に住宅が立ち並ぶ様子が目に入った。その緑の山の一つにはつつじ女子大学がある。


 二人は夕方までそこで借りたばかりの本を読んでいた。


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