Ⅰ-ii 大きな図書館(8月1日、8月2日) 2. 大きな図書館

 私立つつじ女子大学図書館は、つつじ北駅から直結していて、つつじ市行きの上り列車の窓から見える目立つ七階建ての建物である。その長い建物の真ん中辺りには十五階建てのビルが突き出しており、塔のように見える。背後には海岸線がせまり、夏の時期にはコンクリートの岸壁に、色鮮やかなヨットが並んでいる風景を目にすることができる。


 小ぎれいな駅の改札をくぐると、図書館二階東側エントランスにつながる直結通路が左手にある。しばし海の見える広い通路を歩くと、洋館風のドアが開け放たれたエントランスホールにたどり着く。


 そこでまず目にするのは、横一列に並ぶ黒い入場ゲートである。ゲートは二種類あって、大人用の他に子ども用の小さなものがある。機械右手の読み取りセンサーに学生証か貸出券または入場券、もしくはそれらのデータの入った携帯端末をかざすと、バーが上がって入館できる。ゲート横には、初めて訪れた一般の来館者のために、新規貸出券または入場券作成カウンターがある。ここでは大学生だけでなく、一般市民も住所に関わらず利用できるようになっていた。本を借りることができるのは、市内に住む人もしくは市内に通勤する人のみだが、それ以外の一般人も入場券を作れば館内限定で本を読むことができる。ここでは市外から初めて訪れる来館者や海外からの旅行者も多かった。


 ゲートを通り抜けると、目の前に特徴的なからくり時計が掛けられた円柱があり、そのまわりを二重にベンチが囲っている。そこは広大な施設内で最も適した来館者たちの待ち合わせ場所となっていた。そしてその奥には新刊予約コーナーのコルクボードと、タブレットの置いてあるデスクが並んでいた。タブレットは館内では自由に持ち歩くことができ、広大な館内の案内マップとして利用したり、蔵書検索が出来たり、予約や取り寄せなどの申し込みが出来たりする。右手には総合カウンターとセルフ貸出機、左手に図書館専用サイトを閲覧できるノートパソコンのブースと、新刊本・推薦本コーナーの棚が薄紫色で統一された広々とした空間に配置されていた。


 この建物は、東の端から西の端までゆっくり歩くと三十分はかかる。蔵書数は明かされてはいないが(それがこのつつじ女子大図書館の数ある謎の一つなのだが)、国内でここにしかない希覯本もこっそりと所蔵されている。


 このつつじ女子大図書館には、無数の書架の森の中に、様々な趣向の読書スペースが点在しているのが特長だった。例えば一階中央には大きな噴水広場があり、そこは吹き抜けになっており、建物全体の中心部といえる。四階西側には小さな観葉植物群エリア、また三階には広く解放的な屋外ウッドデッキテラスや、狭く隠れ家的なカフェコーナーなど、他にも館内全体を通して工夫を凝らした多種多様な読書空間があった。


 もともとつつじ女子大は、文学部を母体として始まった大学で、校舎はつつじ北駅からバスで十分弱の少々山の中に入った所にある。学部は古くからある文学部と、新しくできた福祉家政学部の二つがある。文学部は英文学科と国文学科の二つの学科に分かれ、福祉家政学部は福祉家政学科、食物営養学科、保育学科の三つがある。


 文学部を創立した初代学長は愛書家で、元は大学構内に図書館を作りそこに書物を収集していた。ちなみに学長はすでに代替わりしている。初代学長が健在だった頃、大学の最寄駅に隣接していた大型ショッピングモールが負債にあえいでいた。その頃大学は学部も入学者数も増えていた。良い縁だと思った学長が、その広大な物件を買い取ったのだった。学長は理事長も兼ねており、大学内で反対する者はいなかった。そして構内から溢れていた蔵書を大型施設の方へ移し、元の大学構内の図書館スペースを改装して、新しい学部の学舎にした。その時、ネットワークシステムを新たに整え、新しい図書館につつじ市民や市外の者が訪うことができるよう、図書館を大型化した。これにより今では大勢の利用者が憩う大きな図書館となった。 




 えんじの腕時計の針が九時を示した時、豊の白い車が時間きっかり迎えに来た。夏休み一日目の朝は午前中から日差しが強かった。坂の中腹のえんじの家の前は人通りがなく、家の前でえんじが待つ間、どこかの家の軒先の風鈴の音のみが遠くから聞こえていた。つつじ駅から歩いて十分にある観光客が集まる運河や海沿いの観光スポットを除くと、つつじ市の住宅の多くは坂道にありのどかである。白い車がえんじの前に止まると、助手席のドアが開き、車窓から豊が白い顔を出した。


「お待たせ、えんじ。今日もまずウチに来るでしょ? それともそのまま大図書館に行く?」


 えんじは乗り慣れた豊の車に乗り、運転手の横に座った。車の中はエアコンが効き、いつもの丁度心地良い温度だった。


「ちょっと先に話したいから、今日も豊の家に上がらせて貰うかな」


 えんじは助手席のシートベルトを締め、豊の顔をちょいと見ると胸元のクロスに少し触れた。


「OK」


 豊は短く答えると、車を動かした。






 森村えんじは、つつじ女子大学福祉家政学部の福祉家政学科三年生である。音崎豊も同じである。就職活動は四年生からなので、三年生の夏休みは、一度ゼミの担当教授に顔を見せに行くくらいで、あとは学校には特に用事が無く自由だった。三年生から始まる卒業論文のためのゼミはえんじと豊は二人とも同じ圷教授から指導を受けていた。八月から始まり九月半ばまである長い夏休みにやることと言えば、始まったばかりの卒論の為の資料の収集とそれらの読解くらいだった。


 えんじと豊は大学一年生の時初めて知り合った。えんじは実家が隣の市なのでつつじ市で一人暮らしをしている。豊は高校までずっと地元で大学も実家から通っていた。二人が話すようになったのは、一年生の後期にあった世界経済論の講義からであった。


 その講義は、必修科目ではなく選択制の教養科目であり、Ⅳ講目と少し遅めの時間だったので一年生の中では割と選ぶ人が少なかった。講義の初日、空席が目立つ教室の中、えんじは一人窓側寄りの席に座っていた。その教室は高校までと同じ一人一席で机と椅子がセットになっている、定員四十名程度の小教室であった。


 福祉家政学科ではその名の通り福祉系と家庭科系の講義が多かったが、えんじはそれ以外の教養科目であるこの経済学系の講義を楽しみにしていた。というのも、ある時講義の中で、隣に座っていた上級生グループの会話が耳に入ったことがきっかけであった。一年生にとって、上級生の会話はよい情報源であった。大学内にどんな先生がいるか、どの講義が楽しいかなど、サークルにでも入らなければ他学年と交流を持てない一年生の間では貴重な情報だった。ゆえにたまたま講義で上級生がそばに座れば、後輩はそれとなく隣で話す先輩の経験談に耳を傾けるのだった。


 えんじにとって上級生の話は面白かった。この教授は大学の教授ではよくありがちな威張ることをせず、誰とでもざっくばらんに話すので、学生との距離が近いようだった。また、この教授は情報収集力が高く、一つのことを調べ続けることが得意なようで、そのためたまに予言めいたことも言うらしい。国内の大地震予測地で地震対策をしていない地域を十年以上前から講義で生徒に伝えていて、その後本当にその土地が大きな被害に遭った、ということがあったそうだ。


 その時お喋りをしていた学生たちはその教授のゼミ生だった。その一人は魔術について卒業論文を書いているらしかった。福祉も家庭科も経済学も関係ない。どうやら学生がどんな突拍子もないゼミのテーマを決めても、専門的な話ができる博識な教授らしかった。


 えんじは西日が射す窓の外を眺めながら講義を待っていた。そこで豊が隣の席に座った。豊は大学入学からずっと高校時代の同級生と行動していたが、この講義では他にも時間が重なる家政学系の講義があり、友人たちはそちらの方を選択していた。


 豊はえんじに初めて声を掛けた。豊は前期の講義から、よく広い教室で前方の端側に一人で座る、アプリコットオレンジ色の髪を肩まで伸ばしたえんじの後姿を目にしていた。同じ講義を受講し一緒になることが多かったので、話しかけるタイミングを窺っていた。


「一年生になってから初めての先生の講義だよねぇ。どんな先生なんだろう、何か知ってる?」


 えんじが振り向くと、きれいな茶髪を短髪にした女生徒が茶色の眼を親しみで輝かせながらえんじを見ていた。


「気さくで物識りな先生みたいで、学生から『あくつっち』って呼び方で親しまれているのを耳にしたことがあるくらいかな」


 えんじが差し障りのない答えを返した。豊は「コレ『アクツ』って読むんだぁ……」と小さく呟くと、えんじに明るく尋ねた。


「楽しい講義だといいけど、今日は意外と人が少ないねぇ。これからも隣の席、いい?」


 えんじは豊の裏表の無さそうな爽やかな笑みを受け止め快諾した。


 それからえんじと豊は、自分の知っている大学の情報を一言二言重ね合い、件の教授が来るまでの間を和やかに過ごした。その後の講義はえんじの期待通りだった。高校で習った複雑な経済学をかみ砕いて説明し、インパクトのある話がテンポのいい声であっさり分かりやすく流れていった。


 講義が終わると、豊は帰る支度をしながらえんじに話し掛けた。


「意外と話の面白い先生だったね。軽い口調で喋るから、深刻な話のはずなのに分かりやすかったよ。放っておけない社会問題のはずなのに最後には『どうするんだろねぇ~』だし。高校までにはいないタイプの先生だったね」


 えんじは相槌を打った。


「社会勉強になる講義さね。一年生の講義の中では一番好きだな」


「あ、やっぱり! 私もだよ、えんじ」


 豊は微笑んだ。えんじは一言新しくできた学友に告げた。


「来週も楽しみさね」


 それから二人は同じ講義を受ける時は隣に座って話すようになり、二年時からは同じ時間割を組むようになった。大学の構内ではいつも一緒にいて、ともに過ごす時間が長かった。






「“The Chess”の中で私は誰だったと思う?」


 運転中の豊がおどけたようにえんじに質問をした。


「……パズルじゃないかな?」


 えんじはあっさり一言答えた。豊はにこりと笑った。


「当たり。分かりやすかったよね。向こうでもえんじの友達で良かったよ」


 えんじと豊は今日見た物語について話し合った。


「不思議な“本”だよねぇ。世界中で探してもうちの大学だけみたいだし。こっそり運営されているから、学生の間でも知らない人の方が多いしねぇ……」


 豊の言葉にえんじは頷いた。このような不思議な本なのにえんじは去年まで話せる人がいなかった。


「今日の夕方からアルバイトだね」


 豊は信号を待ちながら隣に座るえんじに言った。えんじは座席にもたれたまま「そうさね」と短く答えた。


 信号を越えた先には豊の家があった。


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