第三章 先行き不穏の蕾

第1話 芽生えた者の見えざる根

 すでに日は沈み、西の空に朱色の余韻が残るのみとなっている。天空には星々が輝き始め、黒い天球のなかに半月が白く浮き立っていた。


 ヒノメは窓外の景色から視線を戻す。


 行きつけの酒場である〈乙女の揺りかご〉の店内は広く、店主が働く調理場と客席を隔てるカウンターの他に円卓が幾つも設置されている。客席はすべて埋まっており、静かな会話が背景音となっていた。


「それじゃ、勝利を祝ってカンパーイ!」


「か、カンパーイ……!」


「カンパイです」


 三人の酒杯グラスが打ち合わされ、三色の液体が揺れるととともに軽やかな音が鳴った。


 ヒノメたちは試合が終わった後、初めての勝利を祝うために酒場に来ている。いつもはヒノメが愚痴を吐くだけの場所だが、今夜の席は歓喜で満たされていた。


「やっぱり私たちって、やればできるんだよ」


「うん。今回はいつもと違う感じがしたね」


「ミズも楽しかったですよ」


 三人は酒杯を口に運ぶ。ヒノメが好むのは米の醸造酒レイシュ、ムイはブドウの果実酒ワイン、ミズクはまだ十六歳に達していないためオレンジジュースを飲んでいる。


 二階の角にある窓際の八番席が三人の定位置だ。


 店内の内装は木材でできており、磨き抜かれて光沢のある木調に清潔感がある。光源は晴れの日に太陽光を溜め込み、暗闇で光を放出する照明花ライト。等間隔で壁面に設置されており、酒場は明るさで満たされている。


「私たちに足りなかったものを埋めたから勝てたんだよ。ムイちゃんが勇気を出して私たちを守ってくれた。初めて〈百花繚乱〉も使って助けてくれたし、今回の功労者はムイちゃんだね」


「そんなー、照れちゃうから」


 酒杯を握って俯くムイの頬が赤いのは酒精アルコールのせいだけではないだろう。


「最後にイチバを撃破チルしたのは私だし、私もいい仕事したなー」


「ほうほう。で、ミズはどうです?」


「ミズクちゃんは、いつも通りだったんじゃない?」


 ミズクは頬を膨らませ、親指を下に向けて不平を鳴らす。


「ぶー、ぶー。一番相手を血祭りに上げたのはミズです」


「それがミズクちゃんバスターの仕事でしょー? それに私と一機差だし、三等賞ってところじゃない」


「ヒノメさん、別に順番を着けなくても……」


「ムカーですね。次の試合では背中にも気を付けることです」


「はぁーん。怖い怖い。お酒も飲めないお子様が怒ってるー」


 ヒノメが両手を上げ、『やれやれ』という風に首を振ってみせる。挑発に乗ったミズクは唇を尖らせて、ヒノメの前にある酒杯を取り上げた。


「こんなもの、飲もうと思えば飲めます」


「あぁッ、ミズク。それは止めた方が……」


 ムイの制止を振り切って酒を喉に流し込んだミズクは、すぐに舌を出して渋面を作る。


「げぇー、まっず……。消毒液を呑んだみたいです。こんなのを好んで飲む奴の味覚も知能も見下げ果てます」


「へえー、言ってくれるじゃん」


 ミズクの手から酒杯を取り返したヒノメがお酒を呷る。ミズクはジュースで口直ししつつ、反撃のときを窺っていた。ムイは両者を落ち着かせるように掌を掲げ、右往左往している。


 騒がしくも楽しいひとときが過ぎ、飲み過ぎたのかムイは卓上に突っ伏して寝息を立て始めた。ミズクは酒杯を両手で包むように持ち、隣のムイの寝顔を覗き込んでいた。


「寝ちゃったね」


「褒められ慣れていないから、浮かれて飲み過ぎたんです」


 ミズクの言葉を聞いてヒノメは納得する。確かに、ヒノメには常日頃からムイのことを褒めていた記憶が無い。そもそも普段のムイに褒めるところなんて無いのだが。


「まあ、ムイぴょんには身長以外で褒めるとこなんてないです」


 ミズクも自分と同じことを考えていたと知り、ヒノメは噴き出した。


「ハハッ。ミズクちゃんはムイちゃんにお世話になっているんだから、どこか褒めてあげたらいいのに」


「これからはそうしてみます」


 珍しく殊勝な態度のミズクが続けて口を開く。


「ミズには、生まれてこなかった姉がいました」


 予想もしなかった言葉を聞き、ヒノメは思わず押し黙った。


「ミズクという名前は、生まれてこなかった姉につけるはずの名前だったそうです。その由来を聞いたとき、両親がミズのことを見ているのか、それとも生まれなかった姉のことを見ているのか、分からなくなりました」


 ミズクの視線は酒杯のなかで揺れる黄色い液体に向けられているが、その意識は自身の内面に向けられているようだった。


「ミズは両親にとって姉の代わりではないかという不安が、ずっと心のなかにありました。自分が自分で無いような不安。ミズは、本当にミズなんだろうかと考えても答えはでません」


 ヒノメは相槌を打つこともなく、ミズクもそれを求めてはいないようだった。


「ですが、ムイぴょんは目の前にいるミズのことをミズとして見てくれます。ムイぴょんといると安心します。ミズには分からなかった答えを、ムイぴょんが教えてくれたからです」


 常は何を考えているかも判然としないジト目の奥に、それほどの不安を抱えていたのかとヒノメは初めてミズクの内心を知った。


「もう一つ思うのです。もしミズに姉がいたら、きっとムイぴょんのような人だろうとです」


 ようやくミズクがムイに懐いている理由が分かった。ありきたりな世話や親切心かもしれないが、ムイの何気ない言動がミズクの心を救っていたのだ。


「うん。ミズクちゃんとムイちゃんを見ていると、本当の姉妹みたいだもんね」


 ヒノメが微笑みながら言ったものの、ミズクは特に反応しない。よく見ると、ミズクのジト目は焦点が合っておらず、その頬は朱色に染まっている。


 ミズクは内心を吐露して恥ずかしがるような可愛げのある精神の持ち主ではない。怪しんだヒノメはミズクの酒杯を奪い取り、その液体を口に含んでみた。


「ちょっと、これお酒じゃない⁉」


「パイナポージューシュれす」


「ジュースじゃないって! パイナップルジュースとバーボンのカクテルでしょ、これ⁉」


 ミズクは頭を揺らした直後、卓上に額をぶつけて動かなくなった。


「もー、二人して酔い潰れるな」


 ミズクが自身のことについて語ったのは今日が初めてだった。それだけヒノメのことを信用してくれたのかと思ったが、ただ酔っていただけで残念ではある。


「ま、仕方が無いか」


 ヒノメは背もたれに深く身体を預けて息を吐いた。

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