梅の残り香

仁矢田美弥

梅の残り香

 口づけは梅の香りがした。

 私の寝屋に足を踏み入れたヤマトタケルは、ものも言わず、いきなり唇を押し当てた。香りの秘密が分かった。タケルは口に含んでいた梅の花を、私の口中に舌で押し込んできたのだ。

 これがヤマトの英雄のはからいというものか。私は花びらの残骸を軽く咀嚼し、静かにのみ込んだ。

 途端にタケルは私に覆いかぶさった。睦言など一切なかった。それはそうであろう。私は、ヤマトの侵略を恐れた族長の父によって差し出されたいけにえなのだから。この契りは恭順の証なのだ。

 私は生娘だった。私を犯したヤマトの英雄は、義務を果たしたかのように寝所の隅に座っている。雲が切れ、月明かりがその顔貌を照らした。

 私は息をのんだ。美しい。

 今私の前で軽く視線を逸らしている男は、想像していたような大男ではなかった。たくましくはあるが、しなやかであり、そして、ほどけた結いの髪に縁どられた面は端正で気品がある。血を好む野卑な侵略者のイメージとはかけ離れていた。

 濃密な夜気が寝屋を満たした。タケルがゆらりと身を起こす。私は軽く身構える。それと悟られないように細心の注意をはらいながら。でもこの肢体は再びタケルの前に投げ出す準備をする。タケル、ヤマトタケル、遠い強国、ヤマトの英雄。

 私、ミヤズは、弱小といえども族長の娘。恥ずかしいことなどないようにヤマトタケルの妻とならなければならない。族長の娘としての務めを果たさなければならない。

 でも、それ以上に私はタケルに強く惹きつけられている。私は恐れた。思いもかけない己の心の変化を。私は、誇りを胸にタケルに抱かれるつもりだったのに、早くもその決心は揺らぎつつある。

 タケルの指先が私の頬に触れた。

 私は小さく声を上げそうになった。

 最初にタケルがこのクニを訪れたときには、私にはまだ月のものさえなかったのだ。タケルは無関心に私を見つめていた。私はそのときまだ意味が分からなかった。

 けれど、タケルが東国の平定を終えて、約束通りまたこのクニに戻ったときには、私は母から女の術を教え込まれていた。

 そして私は、自分が美しくあどけない咲き初めた花であることを知っていた。

 タケルの梅花の口づけは、それを祝福するものと私は受け取った。

 タケルは再び私の露な腰を抱いた。

 私は自分をさらにさらけ出す決意をした。

 細身のたくましい身体を私の胸に押し付けたタケル、息が熱く荒くなっていく。

 再びの抱擁。私は我を忘れそうになった。けれど、耐えた。タケルは私を激しく抱きながらもその心は何か別のものに占められていた。

 海神の犠牲となって果てたというタケルの最愛の妻、オトタチバナヒメのことを思っているのかもしれない。

 私には、会ったこともないそのヒメのことなど想像することもできない。


 どのくらいの時間が過ぎただろう。

 タケルは私の長い黒髪を丁寧に撫でていた。

 私は口を半開きにしてすぼめ、うっとりとした眼差しで彼の顔を盗み見た。

 「ミヤズ、思った通りお前は花のようだ」

 タケルは初めて口をきいた。

 「花のようでない乙女が果たしてありましょうか」

 私は答えた。

 タケルは目を細めた。月明かりににじむような笑みだ。

 それからふいと真顔になり、けれど軽い口調で尋ねてきた。

 「そちは、このヤマトタケルが恐ろしくないと見えるな。それはなぜか」

 私は虚をつかれた心地がした。

 恐ろしい? 確かにその気持ちがないと言えば嘘になるが、それさえも激しい抱擁のうちに忘れ去ってしまっていた。

 私がこたえあぐねていると、タケルは続けた。

 「私は化け物だ。ヤマトの国のためには手段を択ばず、恭順しない部族を、民を、王たちを殺戮してきた。この手は幾度鮮血に濡れたことか、猛火で人を焼き殺したこともある。皆が私を言う、化け物と」

 「殺される側の人間に、殺戮者がそのように見えるのは当然でありましょう。けれど、タケルさまはわたくしには優しいではありませぬか」

 私は涼しい声で答えた。

 「そうか、優しいか。しかしそなたの父である族長は私を心底恐れている。それに」

 タケルは少し言葉を切って、また続けた。

 「私を初めて『化け物』とののしったのは、私の父であるヤマトの王だ」

 その意外な言葉に私は目を瞠った。

 父、ヤマトの大君の忠実な僕として、南方、西方を征服し、今は東征の帰途にあるのだと思っていたから。

 ヤマトの大君は、ヤマトタケルを倦んでいるのか。

 

 「ヤマトにいるとき、私は兄を惨殺した。それを見た父は私を恐れて化け物と呼んだ。それが始まりだ」

 静かな声音でタケルは語り始める。

 「確かに私の中には父さえも恐れさせる荒々しい、いや禍々しい血が流れているのかもしれない。少なくとも父はそう信じている。だが、私は許せなかったのだ。兄が、父王の女と通じたことを。そして、それは父王に伝えてはならぬことだった。私は父の、ヤマトの誇りのために、兄を謀り殺したのだ。そうしか私にはできなかったのだ」

 私はタケルの手の甲に、自分の手のひらをそっと乗せた。

 ヤマトの英雄の予想外の弱音に、私の心はつかまれたのだ。

「私にとっては、尊敬する父王を守り通すことが使命なのだ。だから、クマソの陽気な南国の王を、女装して近づき、一刀両断にした。宴の明るい松明がめらめらと燃えていた。そしてその帰りには、ヤマトに並び立つ古からの強国、イズモに立ち寄り、イズモタケルを卑怯なやり方で殺した」

 私はいつしか、タケルの話に引き込まれていた。

 「イズモタケルは私の来訪を知っていた。そして、ヤマトの王からの使者が事前にあったことさえ教えてくれた。なぜそんなことを父はしたのか。あわよくば、イズモが私を屠り去ってくれることを期待したのだ」

 タケルは苦い顔をした。

 「分かるか。父は敵国と通じてまで、私を亡き者にしようとしたということだ」

 「まさかそんなことが」

 タケルは、遠くを見るような眼をして、語り続けた。

 「私は不思議とその話を聞いても驚かなかった。怜悧なイズモタケルは私に、ヤマトを捨て、イズモにとどまるよう勧めた。イズモの民は、ヤマトの奴隷ではないと。だから私を弑することはせぬと。イズモタケルは私の唯一の友であった」

 しかし、ヤマトタケルはイズモタケルを殺したのではなかったか。私はそれを口にするか否か迷った。

 「私はイズモタケルと寝食を共にし、様々なことを語り合った。あの男の落ち着いた物腰、控えめな態度はヤマトの民にはない気品を感じさせた。それで私はどうしたか」

 私は息をのむ。

 「イズモタケルをも弑した。あらかじめ剣をすりかえたうえで手合わせを申し出、そのままずたずたに切り殺した。ヤマトの王に敵対するものを生かしておくことはできなかったのだ」

 私はそこで一息息をついた。

 そして話題を転じた。

 「お后のオトタチバナヒメは東征の中でお亡くなりになられたとか」

 タケルは私が妬いているとでも勘違いしたのだろうか。腕を伸ばして私の髪をかき上げ、首筋に触れた。

 私はそれを振り払う。

 「海の神のお怒りを鎮めるために、自ら人柱になられたとか」

 タケルは表情をなくした。私はそれを見てとった。

 「なぜ、お止めしなかったのです?」

 残酷な問いを口にした、敢えて。

 ヤマトの英雄はさすがにそれで取り乱すことはなかったが、中途半端に伸ばした指先が小刻みに震えているのが見てとれた。

 私は続ける。

 「タケルさまともあろうものが、本当に止める気なら、できないことはありますまい」

 タケルは黙っていた。

 言うまでもなく、タケルにとってこの東征は何よりも彼女、オトタチバナヒメを喪った痛く辛い行程であったことを百も承知で、私はタケルに痛打を浴びせた。

 あどけなさの残る声音を十分意識したうえで。

 タケルの眉筋に、苦渋の表情が浮かんでいるのが見てとれた。

 それを見て、初めて私の中に嫉妬の感情が芽生えた。これほどタケルの心をつかんで離さないオトタチバナヒメとは、いったいいかなる女人だったのか。

 けれど私は、その生まれて初めての感情を押し殺した。

 「タケルさま、抱いてください。ミヤズをもっと愛してくださいませ」

 タケルはその言葉にしたがった。おそらくタケルの中には、もはやオトタチバナヒメしかいない。それでもいい。私には私の生き方がある。

 むんとするような梅の香が急に匂ってきた。

 寝屋の外は月あかりに照らされて、紅梅が咲き誇っているのだ。

 タケルは無防備に寝入っている。いや、そう見せかけているだけに違いない。私のような女に根首をかかれるとは思ってもいないだろうが、いついかなるところから敵が乱入してくるやもしれないのだ。

 私は床をするりと抜けて、傍らに大事そうに置かれていた草薙の太刀に近づいた。

 タケルは動かない。寝息さえ聞こえている。

 太刀はずっしりとした重みを感じさせ、そこに静かに横たわっていた。

 鞘には見事な細工が施されているが、その中身は幾たびも鮮血を吸ってきたものなのだ。

 私には、タケルとともにこの太刀も呼吸しているかのように思われた。

 私は勇を鼓して、太刀に手を伸ばした。

 重い。想像以上の重さだ。女の私がこの太刀を片手で操ることなどとうてい無理に違いない。私は両手で太刀を抱えて、朝の柔らかい光が差し始めた明るい場所に移動した。

 この寒さというのに、私は薄衣を単衣まとっただけである。

 まるで冷たい太刀から熱を受けているような心地がした。

 梅の木立の隙から、一気に朝陽が差し込んできた。

 思わず私はこの太刀を己の額の上にあげ、捧げ持った。

 朝陽に照り映えた太刀は妖しいまでの美しさだった。私は幾度もこの太刀を胸に抱いては口づけをした。そしてまた精一杯高く掲げてきらきらと光るさまをうっとりと見やるのだった。

 そして横目では、この私の姿をすでにタケルが見ていることを痛いほど意識していた。

 やがてタケルは言った。

 「そなたは梅の精のようだ」

 私の初夜は終わり、父はタケルに朝餉を振舞った。

 父は私とタケルがうまくいったらしいと感じとり、明らかに安堵していた。

 タケルは静かに朝餉を終えると、そのまま外にいた供の者たちのところに行こうとした。

 父が慌てる。

 「タケルさま、大事な太刀をお忘れでございますよ」

 タケルは私を一瞥した。

 「忘れたのではない。置いていくのだ。理由は、その娘御のヒメに聞くがよい」

 私はおどおどした表情を装ったが、心のうちでは溜飲を下げる思いだった。

 私は成功したのだ。


 タケルたちの一行が去ったとき、父が私を不思議そうに見た。

 私は微笑し、太刀を抱えて父に差し出した。

 「父上、私は、タケルの太刀を奪いましてございます」

 父は、最初意味が分からないような顔をしたが、やがてそれは驚愕に変わった。

 「お前は、化け物のような娘だ」

 父は懼れながらも、しかしこの太刀を私から取り上げ、タケルのあとを追って返そうとはしなかった。

 私は見てみたい、南と西を征し、東を制圧したヤマトの英雄が、この太刀を喪ったことでいかなる末路をたどるのかを。

 今、この太刀を我が胸中にしたことで、はっきりとわかる。

 私はヤマトタケルを、憎み、かつ愛しているのだと。



(おわり)

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