二回 力足らざる者は中道にして廢す

第12話 再会

 黄色く淀んだ風が吹いている。


 西から運ばれる黄砂が天を曇らせているのだ。古来続く春の風物詩とはいえ、何日もこの有様では思考すら煙らされるようで敵わなかった。


「春か……」


 日の出から机に向かって経書けいしょの読み込みを始め、ひるを告げる鐘の音が響いたところで、雪蓮はすずりの後始末をしながら窓の外を見上げた。黄天にぼんやりと霞んでいる稜線は、昔の偉人が昇仙したという故事のある白梁山はくりょうざん。雪蓮が起居しているこの黎家集れいかしゅうは、中央から遠く離れ、そういう胡散臭い伝説がいくつも口伝される僻村なのだった。


 光乾こうけん五年、三月。


 激動の県試から季節が一巡した。

 その間、取り立てて面白味のあることもない日々だったといえる。

 再試験となった県試は難なく突破し、続く府試も危なげなく合格した。残るは学校試の最終関門、院試いんしだが、これが開催されるのは今から一週間ほどを置いて後だった。それまで童生たちは郷里で次の試験に備えることになる。


 雪蓮も黎家集の実家、雷家の邸宅で勉学に励行していた。

 今頃、あの天真爛漫な少女――耿梨玉も真面目に机に向かっているのだろうか。

 というか、梨玉はいったいどの辺りに居を構えているのだろうか。


 県試の再試験、府試、いずれも梨玉とは顔を合わせていなかった。殺人事件が起きたことの反省から、童生たちは部屋を小分けにされて――あたかも囚人を監視するような恰好で受験させられたのである。女みたいな童生がいたという噂が流れてきたため、梨玉が受験していることは確実だったが、結局、その姿を拝することは叶わなかった。


(もう一年だな。息災だろうか)


 心配するのも変な話ではあるのだが。

 雪蓮は筆を置くと、身体の凝りを解すために大きく伸びをする。

 その時、背後の戸がするすると開かれていく気配がした。


「おや、雪蓮さま、休憩ですか」

仲麗ちゅうれい。何用だ」

「おやつを持って参りました。そろそろお疲れなんじゃないかと思って」


 雪蓮よりも一回り小さい少女だった。雷家に住み込みで働いている下女の一人、仲麗である。雪蓮とは気心の知れた仲だ。

 仲麗は紅色の棗が乗った皿を文机に乗せると、窓の外を見上げ、あらまあ、と困ったように呟いた。


「ひどい天気ですね。これじゃあ勉強にも身が入りませんでしょう?」

「場所を替えたい。そろそろ府城に出発しようかと思っているよ」


 府城とは、府の行政機関が軒を連ねる中心地のことだ。院試が行われる知府も府城にあるが、これは以前雪蓮が府試でお世話になった場所と同一である。

 仲麗は紅棗をひょいと口に放り込みながら言った。


「雪蓮さま、それは一向に構いませんけれど、気をつけてくださいね。女の子だってことがバレたら、受験資格剥奪じゃ済まされないかもしれませんよ」

「バレないよ。県試でも府試でも問題なかったんだから」

「まあそうですよね、雪蓮さまったら、男の恰好をしてみたらとんでもない美丈夫なんですもの。惚れ惚れしちゃいますわ」

「からかうなよ……」

「本当のことです。雪蓮さまが男の方だったらよかったのに」


 やめてほしい。頬を赤らめてそんなことを言うのは。ちなみに六年ほど前、雪蓮が男装するようになってからというもの、仲麗のスキンシップはいっそう激しくなった。


「……性別なんて関係ないだろ。現に僕は県試も府試も合格したし」

「まあ! 女同士でもよいと仰るので?」

「そういう意味じゃない!」


 仲麗は「冗談ですよ」と笑った。


「しかし、頭のいい人が考えることはとんと分かりませんね。女の子に生まれたのなら、無理せず家でお仕事をしていればいいのに……」

「そんなこと梨玉に言ったら怒られるぞ」

「梨玉? はて、どなたでしょうか?」

「何でもない」


 雪蓮は立ち上がって支度を始めた。持ち物はすでに準備してあった。


「もう行かれるんですか? 慌ただしいことで」

「ふた月ほどしたら帰ってくるよ。父によろしく言っておいてくれ」


 善は急げと言うわけではないが、雪蓮は思い立ったら即行動するタイプだった。ちなみに、ここから府城までは馬で半日かかる。今から出発すれば、府城の閉門には十分間に合うだろう。

 部屋から立ち去ろうとした雪蓮の背中に、仲麗が慌てて声をかけた。


「そうだ雪蓮さま、一つお伝えしておくことがありました」

「何だ」

「近頃、この辺りを兵隊さんがうろついているらしいですよ。隣の村の話では、消えた公主こうしゅを捜しているのだとか」

「公主……?」

「公主って言ったらお姫様ですよ。何年も行方不明だったそうなんですが、最近目撃情報があったとかで、血眼になって捜しているんだとか……」


 不意に、門のほうで話し声が聞こえた。

 雪蓮は仲麗に引っ張られて前庭に出た。柱の影から様子をうかがってみると、雷家の当主――雪蓮の父親が、武巾ぶきん軍袍ぐんぽうを身につけた男たちと言葉を交わしていた。


「――いいかね、何度も言うが、この近辺に今上の姪君にあたる長楽ちょうらく公主がいらっしゃるという報告があったのだ。心当たりがないか、もう一度よく考えてみるといい」

「はあ……しかし、長楽公主さまはしばらく前にお亡くなりになったのでは?」

「それが見つかったというからお捜し申し上げている。見目麗しい女性に成長なさっているという話だから、見かければすぐに分かるだろうさ」

「こんな僻村ではなく県城や府城にいらっしゃるのでは」

「ええい口答えするな! そっちも捜しておるわ!」


 兵士たちは唾を吐いて去っていった。

 それを見送った父親が、溜息を吐いて肩を落としているのが見える。また厄介な騒動が起きているようだが、雪蓮には関係のないことだった。


「ひええ。兵隊さんって怖いんですねえ」

「田舎の兵隊なんてごろつきみたいなものだからな」

「へえ――って、雪蓮さま、どこに行くんですか?」

「言っただろ。府城だよ」


 雪蓮は厩のほうへ向かうと、馬に跨って雷家を出発した。公主のことは心の片隅に留めておくとして、今重要なのは、院試をいかにして突破するかという一点である。


 といっても、試験自体は臆するに値しない。

 たかだか院試で躓くほどやわな勉強はしていないからだ。

 熟慮すべきは――今後、自分の正体を隠し通せるかどうか。


「雪蓮さま! きっとお土産を買ってきてくださいね!」


 背後で大声をあげている仲麗に手を挙げて答えると、雪蓮は一路、府城を目指して駆けるのだった。



          □



 半日で着くはずだったのに、結局着かなかった。

 先日の雨で地滑りが発生したらしい。一本道を丸ごと覆い尽くしていたのは、黄色い土砂の山である。同じく立ち往生していた者たちに聞いてみると、府城へ向かうには、迂回して何日もかけなければならないようだ。


 引き返すべきかと思ったが、決まりが悪いといえば悪い。

 迂回するとなれば、どこかの村で一泊しなければならないのだが、はたしてそう簡単に宿が見つかるかどうか。考えあぐねていると、不意に聞き覚えのある声が聞こえた。


「小雪……? 小雪でしょ!?」

「え? 梨玉?」


 そういう珍妙な渾名あだなで雪蓮を呼ぶのは一人しか心当たりがなかった。

 振り向いてみると、目を皿にしてこちらを凝視している女の子の姿が見える。


「うわあ! やっぱり小雪だ、久しぶりだね!? こんなところで何してるの!? ていうか今までどこで何をしていたの!?」

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