はるの風

大隅 スミヲ

第1話

 梅の花が咲き乱れていた。

 大内裏だいだいりに接した禁苑きんえん神泉苑しんせんえん。本来であれば庶民の立ち入りは禁じられているのだが、梅の時期には花見客のために一部が解放されており、大勢の人で賑わっている。


「よく咲いておるのう、篁」

「ああ、咲いておる」


 大勢の人の中にひと際背の高い男がいた。小野おののたかむらという文章生もんじょうしょう(現代でいうところの官僚候補の大学生のようなもの)である。

 その隣にいるのは恰幅の良い男で、名を藤原ふじわらの良房よしふさといった。篁と良房は歳も近いことから仲が良く、このようにふたりで出歩くことが多かった。良房は名門藤原北家出身であり、父は左大臣の藤原ふじわらの冬嗣ふゆつぐであった。


「よき歌でも詠めそうなのではないか、篁」

「梅か……。梅の歌は沢山あるが故に難しいな」


 篁は笑ってそう言うと、梅の木にとまるうぐいすの姿に目を向けた。

 鶯は春告鳥とも呼ばれ、その名の通り鶯がさえずる頃になると春が訪れるのであった。

 当時、歌といえば和歌やまとうたのことを指した。和歌には、当時の日本人の奥ゆかしき想いが秘められており、恋や哀しみなどを詠んだ歌も少なくはない。


「そういえば、鶯に関する歌を女に送った男の話は聞いたことがあるか」

 突然、思い出したかのように良房が言う。

「知らぬ」

「やはり、知らぬか。篁はそういった俗っぽい話には疎いようじゃな」

「何がだ」

「そうむっとするでない、篁。これは私が言っているのではない」

「では、誰が言っているというのだ」

「そうじゃな……どこぞの女房が噂をしていたとでも言っておこうか」

 良房は持っていた扇子で口元を隠しながら笑って見せる。それはどこか上品な仕草であり、嫌味などひとつも感じさせなかった。この男は仕草ひとつでも雅やかな雰囲気を醸し出せるのだ。


 なお、ここでいう女房というのは、誰かの妻という意味ではなかった。この時代は、宮廷や貴族に仕える女官のことを女房と呼んでいた。なお、この女房(女官)に手を付けて正室以外の妻とすることを家女房と呼ぶようになったことから、現在の妻=女房となったという説が有力である。


「その鶯の歌が何だというのだ、良房」

「そうであった――――」

 良房はそういうと、篁に鶯の歌の話をしはじめた。



 ある貴族が牛車ぎっしゃで市中を移動していた時のことである。

 ちょうど東市ひがしのいちを通りかかったところで、魚の干したものを売っている女を見かけた。女は小袖にしびら(腰に巻きつけて着るひざ上までの衣)という姿であり、肌は浅黒く、地味な顔立ちをしていたのだが、貴族はひと目見てその女を気に入ってしまった。

 貴族は牛車を止めさせると、屋形の中で筆を執って女のために歌を詠んで、その歌を従者に渡させた。

 しかし、女は文字が読めなかった。そのため、歌などよりも、品物を買ってほしいといった。

 それを聞いた貴族は、女が売り物として出していた魚の干物をすべて買い取り、そして女を妻にしたいと申し出た。

 女はその申し出を受け入れ、貴族に屋敷をひとつ与えられて、そこで過ごすようになった。


 夜になり、その貴族が女のもとを訪ねていくと、女は香を焚いて貴族を出迎えた。

 しかし、貴族が女に触れようとすると、それを嫌がった。

 どうしても、女に触れたかった貴族は女に頼み込んだが、女はなかなか首を縦には振らない。

 そこをなんとか頼むと貴族が頭を下げ続けたところ、最後には女の方も折れ明かりをすべて消すのであれば良いと言った。


 貴族は屋敷にあるすべての明かりを消し、女ととこを共にした。

 女はどこか毛深く、そして体臭は獣臭いように思えた。それでも構わぬと貴族は女のことをむさぼるように抱いた。

 何度も目合まぐわい、疲れ果てた貴族と女はそのまま眠ってしまったのだった。

 ふと目を覚ました貴族は、喉の渇きを覚えて、床を出た。

 その夜は満月であり、月明かりだけでも十分な明るさがあった。

 女の寝顔を見てみたい。そんな好奇心が芽生えた貴族は、足音を忍ばせて寝床へと戻ると、そっと女の顔を盗み見た。


「あなやっ!」


 その寝顔を見た貴族は驚きのあまり、叫び声をあげた。

 床にいたのは、大きなかわうそであった。

 獺は貴族の顔を見ると悲しそうな表情をして、屋敷から逃げていった。

 それ以来、貴族の妻の姿を見たものはいないそうだ。



「――と、いうわけじゃ」

「その貴族が女に詠んだというのが、鶯の歌というわけか」

「まあ、そんなところだ」

「獺が女に化けていたとは……。奇妙なこともあるものだ」

「その奇妙ついでなのだが」

「なんだ、まだあるのか」

「その干物屋の女を見に行かぬか?」

「どういうことだ、良房」

「東市におるのだよ。干物屋の女が」

「どういうことだ、それは」

 篁は思わず身を乗り出した。

「行けばわかる」

 良房は扇子で口元を隠しながら笑みを浮かべると、篁とともに東市へと足を向けた。


 東市は大勢の人で混み合っていた。

 市は市司いちのつかさという朝廷の機関によって管理されており、毎月十五日までが東、十五日からは西と市が開かれる場所が決められている。また、東市でしか買えない物、西市でしか買えない物、両方の市で買える物と細かく販売されるものについても管理されていた。

 穀物や食品類といったものに関しては、両方の市で取り扱われており、その女の営む干物屋も両方の市で出店しているとのことだった。


「どこの店だ、良房」

「まて、篁。焦るでない。私はお前のように背が高くないから、見えぬのだ」


 人混みに揉まれながら歩いているため、良房は前の様子が見えないでいた。良房の身長は決して低いというわけではなかった。篁が大きすぎるのだ。


 この時代の平均身長は一六〇センチ程度とされているが、篁は一八八センチの長身であったとされている。現代の日本人男性の平均身長が一七〇センチであるので、現代でいえば二メートル近い身長の男が人混みの中にいることを想像してもらえればわかりやすいかと思う。それだけ、篁の身長は大きかったのだ。


「この店だ」


 人混みの中から抜け出した良房は、篁の着物の裾を引っ張って足を止めた。

 そこは確かに魚の干物を扱う店であり、多くの魚が店先に並べられている。その多くは川魚であり、サケ、マス、アユ、鯉、フナなどが干物にされた状態で売られていた。


「いらっしゃい。うちの干物はどれもおいしいですよ」


 愛想の良い笑顔で篁と良房のことを迎えたのは、可愛らしい顔をした若い女性だった。

 この女性がくだんの獺女だというのだろうか。篁は良房のことをちらりと見たが、良房はその視線に気づかないのか、真剣な顔をして干物の品定めをしている。


「うちの魚は、お酒にもご飯にもあいますよ」

 女性はそう言って魚を勧めてくる。

「おい、良房。どうなんだ」

「どうなんだとは、どうなんだ、篁」

「お前が獺の話をしたのではないか」

「ああ、その話か。すまぬ、あれは嘘だ。貴族も、獺女も、すべて嘘だ」

「なんと。なぜ、そのような嘘を」


 篁は理由わけがわからず、困惑した顔をしてみせた。

 その様子を見た干物屋の女はクスクスと笑う。


「あたしが頼んだんですよ。いつも市で顔を見かけていたから、貴方と話をしてみたくて……」

 店の女性はそういって、顔を頬を少し赤らめた。

「まあ、そういうことだ、篁。和歌をよく詠むお前ならすぐに気づくと思ったのだが、やはり色恋話となると疎いな。鶯も獺も、みな春の言葉であろう」


 良房はそう言って笑ってみせ「では、私は役目を果たしたぞ」と言って、人混みに紛れて去っていってしまった。

 残された篁は、これは困ったなといった顔をしながらも、とりあえずは何か会話をしようと思い、女性に尋ねた。


「一番おすすめの干物は、どれかな?」


 篁の言葉に女性は微笑んで見せると、篁と並ぶようにして干物の前に立った。

 暖かく、心地の良い春の風が吹いていた。


《了》

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