アンドロイドは温もりを知らない

白愛すい

本文


瞼の外側で何かが明滅した気配がして目を覚ます。眼脂が引っ付いた目頭を擦りつつ視覚すると、その正体は先日新調したカーテンの隙間から忍び込む陽光だった。水玉模様に抜かれたオレンジ色が可愛らしい。性質が大雑把な陽茉莉はインテリアショップに行く際特に事前にメジャーで測ることもせず凡そで当たりをとって購入したために、以前のものより幾分か寸詰まりとなってしまったのだ。枕横に置かれたスマホを裏返すと六時より僅かに早い時刻が表示された。普段よりも幾許か早い時間だが再度微睡む気にもなれず重たい身体を起こす。深夜に叩き落としてしまったのであろう目覚まし時計を拾い上げて設定を切ると、乱れた格好で数秒呆けていた陽茉莉は漸く幸せな温もりから抜け出した。寝起き特有の霞んだ頭のまま鷹揚な挙動で建付けの悪いワードローブの中から紺色を基調とした制服を取り出して身につける。襟の縁に入った白が陽茉莉の気に入りだった。白シャツの上に臙脂色のリボンを巻いてくしゃみを一つ落とす。昨日より体感気温は低いが物が散乱しているひまりの部屋では何故かワードローブの中に制服と一緒にかかっていなかった学校指定のカーディガンを見つけられそうになかったので一人肩を落とした。洗面所で洗顔や歯磨きなどのある程度の身嗜みを整える。スキンケアは丁寧にしているつもりなのに最近額に一つニキビが出来てしまった。部屋に戻り最近伸ばしてやっと肩を超えた茶髪をシュシュで1本に結い上げる。前髪の隙間からニキビが覗いてシースルーに変えたことを後悔した。近くで見なくては分からないことを信じ欠伸を噛み殺しながらリビングダイニングへ向かう。生真面目な陽茉莉は化粧禁止の学校にメイクはしていかないようにと決めている。完全に形骸化していてメイクをしている生徒は多いし先生も今更わざわざ咎めることはないが、陽茉莉は朝が苦手なので言い訳として丁度良い。

冷えきった廊下を通り上部にガラスが張られたリビングドアを開けると、カウンターキッチンのIHの前に立って味噌汁をかき混ぜる女性の姿が視界に入った。

「おはよう!リン!」

「おはようございます。ひま。」

ひま、とはひまりの愛称だ。溌剌としたひまりの挨拶にリンは無感情に顔を上げ微かに口角を上げる。白いテントラインワンピースが動きに合わせて揺れ、ショートボブに揃えられた白髪が掃き出し窓から差し込む光に乱反射する。陽茉莉の姿を見据えた蒼色の瞳が煌めいた。

「今日はお味噌汁?」

鼻をひくひくと動かして陽茉莉は首を傾げる。廊下にまで香りは漂っていたがこうして陽茉莉が質問をするとリンは律儀に答えを返してくれることを知っている。

「はい。本日は昆布だしに白味噌を使用しています。」

「いい香り!ありがとうリン!」

杓子を片手に直立しているリンの横に駆け寄って改めて深く息を吸い込む。自家製味噌の優しい香りに鼻腔を擽られ無意識に陽茉莉は頬を緩めた。陽茉莉はリンの作るご飯が好きだった。リンもそれを知っていて陽茉莉のために随分と凝ったこともしてくれる。リンは料理が得意だ。無論得意なことは他にも沢山あるけれど、陽茉莉はリンの作るご飯がいっとう好きなのだ。和食に洋食に中華までなんでもござれ、偶に気まぐれなのかどこの国のものか分からない民族料理まで作ってくれることがある。そのためかもう高校生の陽茉莉は料理経験が家庭科の授業くらいしかないのだが、それはご愛嬌といったところだろう。陽茉莉の言い分としてはリンの料理が美味しすぎるのが悪いのだ。語彙力が乏しいせいで毎日似たような文言を繰り返している陽茉莉の賞賛にリンは言葉少なに礼を返す。出来上がったのかリンが汁椀を取りに行ったので陽茉莉は自分で炊きたてのご飯をよそい食卓についた。朝から鮭を焼いてくれていたらしく、食事を用意してくれているリンの姿を眺めながらお腹が香りに誘われて静かに鳴った。

まだ未成年であるはずの陽茉莉は毎日一人で食事を取る。唯一の親族である母親が仕事のためいつも多忙だからだ。寂寥を感じたことがないと言えば嘘になるが、幼少期から他の子と比べて物分かりが良かった陽茉莉はそれに対して不満を催したことは一度もない。

リンお手製の朝食をよく噛んで食べ、早く起きた割に電車の時刻までもうあまり時間がないと気がついた陽茉莉は急いで自室から茶色のスクールバッグとブレザーを引っ張り出し、これまたリン手作りの弁当と共に家を出る。リンへの行ってきますのハグは忘れずに。

エレベーターで一階まで降りマンションのエントランから出たすぐそこの階段上で身体中を包み込む太陽光の心地よさに思い切り伸びをする。名前の通りと言うべきか、向日葵から名前をとっている陽茉莉はこうして太陽の光を全身に浴びるのが好きだった。この暖かさであればカーディガンはいらないだろう。初冬だというのに運が良い。近所の知り合いの人と挨拶を交わしながら最寄りの駅へと半分スキップで向かう。日光が暖かいからか、ブレザーを纏った身体が汗ばんできても陽茉莉の気分は上向きだった。アスファルトの間から強かにも突き出ている雑草を踏んでしまい思わず声に出して謝ってしまったくらいだ。

陽茉莉の住むマンションからの最寄駅までは徒歩十分ほど。先日リニューアルされたばかりで駅入口が増え利用しやすくなった。駅員室から改札の通過者を見ている燃えるような瞳をしたお兄さんに礼をして、混みあった改札でICカードを鳴らす。以前隣町の大学の一回生だと自己紹介をしていたバイト先の同僚に出会して陽茉莉は笑顔で手を振った。

長いコンコースを抜けて待ち合わせ場所となっている三番ホームの最も奥にある柱の横で立ち止まる。屋根の隙間から届く陽射しが眩しくて目を瞬かせた。

「陽茉莉!おはよう!」

インターネットが得意ではないのでスマホも取り出さず何となくその辺の壁に映っている化粧品の広告を無表情で見つめていると横から声をかけられる。その声色に心当たりしかない陽茉莉は途端に花が咲くような笑顔になった。

「おはよう!緒音!」

元気な声で名前を呼ばれた黒髪ツインテールの少女は陽茉莉の笑顔につられたのか口角を最大限に引き上げる。学校規定を遵守している陽茉莉より比較的短いプリーツスカートが電車から吹き込む風に揺れた。

「陽茉莉。珍しく早いね。いっつもギリギリなのに。」

「さ、最近はそんなことないもん!」

緒音のニヒルな笑みと促音を強調されたセリフに、表情豊かな陽茉莉は眉をひそめて頬を膨らませる。確かに今日は偶然早く起きることができたというのもあるが、本当に最近は違うのだ。以前までは毎日のように寝過ごしては改札ダッシュを決めて緒音に呆れられた陽茉莉だが、リンの朝食を作る時間が陽茉莉が時間に余裕を持って登校できる時間帯に合わせられていることに気がついてから、リンの出来たてを食べられるように陽茉莉は頑張り始めた。

「ふふ、確かにね。あ、電車きた。」

リンよりも硬い声のアナウンスとともに二人の目の前に急行が止まる。シルバーとライトグリーンで染められたそれは最近一新されたものだ。二人が最後部車両に乗り込むとプラグドアが閉まり、壁に取り付けられているディスプレイに先程陽茉莉が散々眺めていたアイシャドウの広告が表示された。乗り込む前車窓から見た際は割と空いているようにも見えたが実際はそうでもなく、二人は並んでスタンションポールに掴まった。

「そういえば、小テストの予習やった?」

「……あ」

電車が動き始めて数分、小声でかけられた緒音の言葉に広告に飽きて外のビル街を眺めていた陽茉莉はギクリと体を強ばらせる。一昨日の授業の終わりに次の授業で小テストを執り行うと教師が話していた。慌てて今日の時間割の記憶を呼び覚ますと、今までどうして忘れていたのか脳裏に描く時間割には心当たりしかない。

「私のクラス古典4限目だもん。大丈夫大丈夫。」

心無しか震えている自分を納得させるような陽茉莉の声色に緒音が小さく吹き出す。勉強が不得意というわけではないのだが、陽茉莉は短期記憶が苦手なのだ。小テストあるあるであろう直前の詰め込みというものができない。古典単語を思い出すよりも先に厳しい古典の先生の顔が思い浮かんでしまい陽茉莉は小さくため息をついた。

今からでも古典の単語帳を鞄から出そうか逡巡しているうちに二人の乗った電車は目当ての駅に到着した。学校の最寄駅はここら一帯で最も規模が大きいターミナル駅だ。二人は人がひしめき合うホームを抜けて、類似した制服を着ている群衆に紛れ込む。歩きながらつま先を伸ばして周りを見たが、小柄な陽茉莉では望む人を見つけられなかった。

電車から降りて五分弱。敷地面積約70k㎡、4階建ての弊校に辿り着いて導入されたばかりの顔認証システムを用いて入校する。他の生徒と同じ時間に来てしまうと門前で待たされるので陽茉莉はこの制度があまり好きではない。生徒数の多いこの学校は教室用校舎が西棟東棟中央棟と分かれており、中庭を三方向で囲うように建てられている。東棟に教室がある8組のおととは門で別れ、ひまりは西棟の2階にある1組の教室に向かった。白い校舎に沿って置かれている花壇に見知らぬ紫色の花々が咲き誇っており一瞬目を奪われる。雰囲気がリンに似ている花だなと思った。手入れができる自信はないけれどベランダにプランターを設置できないかリンに今度聞いてみようか。下駄箱でスリッパに履き替えて三階まで古びた階段を登る。一応エレベーターが設置されているが朝はいつも混んでいるので使ったことはない。エレベーターを新設する前に階段を改修して欲しかった。

「芙優!おはよう!」

道すがらならぬ廊下すがらで見つけた親友の背中に勢いをつけて飛びつく。好意を持つ人に対してスキンシップが多いのは幼い頃からの癖だった。

「わあ、おはよう陽茉莉。」

「芙優、シャンプー変えた?」

おっとりとした挨拶を返しながらこちらを見た芙優と一度目を合わせて視線を外す。自分よりも5cmほど身長の低い芙優の頭頂部に鼻先を寄せると質の良い焦茶色のミディアムヘアから微かに嗅ぎ慣れないローズの香りがした。

「凄い。よくわかったね。いい香りでしょ?」

芙優の言葉に首肯して陽茉莉は並び立って歩きだす。終始笑顔で機嫌が良さそうな芙優の雰囲気を感じとり陽茉莉も明るい気持ちになる。

お互い話を振る方ではないのでぽつぽつと雑談を交わしながら歩いていると、自分たちの教室であることを知らせるプレートを発見したとほぼ同時に背後から声をかけられた。

「おはようございます。」

薄らと金属音がして、機械音声が長身の人型の物体から響く。周りに貼られた白い肌とその肌を撫でる黒髪は人間さながらだ。プラスチックでできているであろう瞳がLEDか何かで光っているのが黒縁の眼鏡を通して見えた。

「おはようございます。クロ先生」

「お、おはよう、ございます。」

後ろを振り向いて陽茉莉は朗らかに、芙優は萎縮した声で挨拶を返す。陽茉莉は兎も角として芙優は決して愛想の良い返事ではなかったのに、それでもクロは満足したのか歪に口角を上げたあとUターンしてその場を去っていった。特にこちらに用があったということでもないらしく、一体何をしたかったのか判断がつかず首を傾げる。無意識に芙優を守ろうと二の腕を鷲掴みにしていた陽茉莉はクロが廊下の奥へ消えるまで待ってから芙優の身体を解放した。

「…大丈夫?」

「うん、ごめんね。まだ慣れなくて。」

「しょうがないよ。気にしないで。」

芙優が申し訳なさそうに綺麗に揃えられた眉を下げるので陽茉莉は慰めるように頭を撫でる。本人には言わないけれどしっかりしていて陽茉莉の面倒を見てくれる芙優が頼ってくれるこの時間は意外と悪くないと感じていた。この学校にアンドロイドの先生が赴任したのはつい数ヶ月前のことだった。国が定めた新政策によるものだから仕方の無いこととはいえ、長い間リンと暮らしていた陽茉莉とは違い芙優のような普段アンドロイドと関わる機会のない人はアンドロイドが身近にいることに慣れずに始めは苦労した。アンドロイドがショッピングモールやコンビニにまで進出し、既に慣れきった人もいるなかで芙優は臆病な方とも言えるが致し方ないだろう。詳しくは知らないがクロはリンよりも幾らか性能の落ちている旧式のようで、体の節々や音声は人間に寄せているだけの機械そのものでしかなく余計に人間離れしているのだ。陽茉莉がリンに慣れすぎているからということもあるだろうが、陽茉莉から見ればクロはアンドロイドというよりヒューマロイドに近い。陽茉莉と挨拶を交わした当初の明るい様子から変わって未だ気後れしたような表情をしている芙優の腕を引いて陽茉莉は教室へ足を踏み入れた。


小学生のときから陽茉莉は学校というものが好きだった。勉強は苦手ではないし、友だち作りも得意な方だと思う。リンと一緒にいられないこと以外は学校になんの不満もなかった。今日は平常授業の日、何とか四限目の古典単語の小テストを乗り切り、昼休みに入って陽茉莉は芙優と共に弁当箱を持って教室棟に囲まれた中庭へと向かっていた。中庭は中央に噴水が設置されており、周囲には幾つかのベンチが置かれている。校舎横で中庭をぐるりと囲うように設けられている花壇には朝見たものと色違いの花々が植えられていた。

「緒音!」

先に授業が終わったらしく1人で木製のベンチに座っている緒音に向かって大きく腕を振る。陽茉莉と芙優と緒音、この三人で中庭のベンチの中で最もよく太陽の光が当たる場所で昼食をとるのが日課になっていた。花壇が隠れてしまっているが低木も植わっているので気分も健康になれている気がする。別館に食堂もあるがリンのお弁当があるので陽茉莉は行ったことがない。この三人は所謂仲良し三人組といったところで、今年は緒音だけ違うクラスに別れてしまったものの昨年は皆四組だったのでどこへ行くにも引っ付きあって過ごしていた。三人は直近の再会を喜びあい、陽茉莉を真ん中にしてベンチに並んで弁当箱を開けた。

「美味しそうだね。今日もリンさん?」

芙優の言葉に肯定を返して両手サイズの水色の弁当箱に向き合う。今回のメニューはミニハンバーグだった。朝ごはんの用意もあるというのに一体リンはいつ作ってくれているのかいつも疑問だ。心を躍らせながらハンバーグを頬張っていると、普段は芙優よりも明るい言動をすることが多い緒音が今朝とは打って変わって異様に静かなことに気がついた。

「緒音、何かあったの?」

ハンバーグのかけらを飲み込んで、下げられている緒音の顔を芙優と一緒に覗き込む。どんな表情をしているのかはわからなかったが、明るいティントリップで彩られた下唇を小さく噛んでいるのが見えた。

「その…」

言い難そうな様子の緒音に、芙優と二人顔を見合わせる。ただ事ではなさそうなその雰囲気に弁当箱を一度手放して緒音の手を両手で握りこんだ。

「大丈夫、ゆっくりでいいから。」

緒音は陽茉莉の初めての親友だ。陽茉莉の困り事には真っ先に手を伸ばしてくれる。何に悩んでいるのかはわからないができることなら力になりたかった。

「その、今日クロ先生の授業があったんだけどね。…私この前捨てられたアンドロイドを見ちゃったの。それをクロ先生に会ったら思い出しちゃって。…ああなるんだ。って思っちゃった。」

緒音には気づかれないよう小さく息を呑んだ。きっと緒音の家の近くに作られたばかりのアンドロイド廃棄場だ。アンドロイドは人間社会に適応できるように作られている。性格や声は置いておいても姿形は人間そのもの。自分と同じ姿をしたものが、要らなくなればあっさり四肢を解体されてゴミの山に放り投げられる。扱いとしてはただのゴミと同じなので民衆から隠す必要もない。陽茉莉は見たことがないが噂で聞くには人間の腕や頭がそのまま引きちぎられて落ちているように見えるらしい。光景が衝撃的すぎてトラウマを抱えてしまった人がいるというのも知っている。陽茉莉だって何度も考えたことはある。家族同然のリンが、人間の都合で捨てられてしまう可能性を。

自分の思いを飲み込んで沈んだ様子の緒音を緩く抱きしめた。緒音は幼なじみなのでリンのことも良く知っていて、二人が幼少の時には三人で遊んだこともある。リンを人間と変わらないと思っている身としては、廃棄されたアンドロイドなんて人間の死体と同じだ。緒音だってリンを同じように大切に思ってくれているはず。心的障害を負ってしまっていても何もおかしくは無い。感受性豊かな芙優も気持ちを理解しているのか緒音の肩に手を伸ばした。両側の2人から伝わる温もりを感じて何故か陽茉莉の瞳が潤んだ。


気分を落ち込ませている緒音から離れるのは気が引けたが陽茉莉にはどうしようもできないので、緒音に体調が悪くなったらすぐ保健室に行くようによくよく言い含めて陽茉莉は自分の教室で5時間目の授業を受けていた。昼食後ということもあるけれど、授業が退屈な陽茉莉は窓際の席なのをいいことに何となく運動場を眺める。公共の授業で現在扱っている教材は『アンドロイドに関する法律について』。リンという家族がいる陽茉莉にとってアンドロイドに関する物事は全て他人事ではない。この法律に関しても公布されたその日に丸暗記したくらいだ。新法は普段家にいるリンにはあまり関係の無い内容だったが、アンドロイドの人権や待遇を思いやるのは陽茉莉なりのリンへの愛だった。

「…あ」

運動場でサッカーをしている紺色が主の緑色のラインが入ったジャージを着た生徒の中にある青年の姿を見つけて陽茉莉は周りから見えないよう頬を緩ませた。くたびれたジャージを着崩して金色が少し抜けた明るい髪色をしたその青年逢和は俗に言う陽茉莉の想い人だった。きっかけは陽茉莉が小学生一年生の時まで遡る。学校にリンを連れて行けなくてひとりぼっちで落ち込んでいた陽茉莉に逢和は優しく話しかけてくれたのだ。陽茉莉より一つ歳上で初対面の日から今までずっと陽茉莉のことを気にかけてくれている。それまでリン一色だった陽茉莉の世界に現れた逢和は特別だ。甘酸っぱい陽茉莉の初恋。どちらかと言うと外向的な性格なのに好きな人相手には自分は消極的になってしまうことを逢和と出会って陽茉莉は初めて知った。勉強はできるのに逢和は少し天然の気があって、リンのようなアンドロイドのことを人間と同じだと思っている節がある。昔のリンを知っているからかもしれない。陽茉莉としてはリンは家族同然なので人間のように扱ってくれるのは嬉しいが、もし緒音のようにアンドロイドの現状を知ってしまったら今日の緒音以上に落ち込んでしまいそうで、少し心配だった。逢和には笑顔が似合うから、できることなら笑っていてほしい。逢和の姿を目で追っていたら木陰で休んでいる逢和がひまりの方を見た気がして急いで黒板に視線を移し替える。話を全く聞いていなかった黒板に貼られたホワイトボードシートには『アンドロイドと人権』の言葉が刻まれていた。


退屈な公共の授業を終えた放課後、それぞれ部活に所属している緒音や芙優とは違い中学生のころから帰宅部を決め込んでいる陽茉莉は一人で帰路に就いていた。部活に入らない理由は単純で、リンと一緒にいる時間を増やしたいからだ。「リンさんに甘えすぎなんじゃない?」とは芙優の言葉だが、それがリンのそばにいる理由になるならそれでも良かった。リンの前では陽茉莉はいつまでも子供だ。駅付近にたどり着いて、電車に乗る前に駅に隣接されているショッピングモールに寄って切れかけているシャーペンの芯を買う。行きつけの文房具屋のレジ列に並んで、陽茉莉の好きなキャラクターがプリントされた芯ケースを眺めてほくほくとしていると、唐突に前に並んでいた男性が舌打ちをした。

「クソ、アンドロイド風情が…」

声はそこまで大きくは無かったが、なまじ至近距離にいるため不意打ちで聞こえてしまった言葉に居心地が悪くなる。原因であろうレジを見ると、この店の店員として働いているらしいレジの前に立つ若い男性の姿をしたアンドロイドが動作不良を起こしたレジ機を前に瞳をチカチカとさせて固まっている姿が見えた。バックヤードから慌てた様子で走ってきた人間の店員が頭を必死に下げているのをただ陽茉莉は眺めることしか出来なかった。

何とか無事に人間の店員による応対でシャーペンの芯を購入した後、空いている電車に揺られながら物思いにふける。アンドロイドのことを苦手なだけでなく嫌いな人がいるというのは陽茉莉も知っていた。けれどSNSでそうした声を見ることはあっても実際にアンドロイドに対する中傷を聞いたのは今日が始めてだった。先程のアンドロイドの店員はクロと同じ旧式だろう。リンのような性能の高いアンドロイドが開発されているにも関わらず旧式が世に出ているのは単純に開発費用が膨大だからだと考えられる。とはいえ仕事がきちんとできるアンドロイドでなければ意味がないだろうに。そんな膨大な費用が必要なアンドロイドであるリンが陽茉莉の家にいるのは、陽茉莉の母親である瑛里がアンドロイド研究に携わっているからだ。リンは瑛里の試作品だという話を聞いたことがある。十数年前から他国との競争問題もありこの国ではアンドロイド研究が盛んになった。その第一人者であるから瑛里は四六時中研究室に缶詰で家に帰って来ることができないのだ。リンは家に帰ることができない瑛里の代わりだとも言える。瑛里はそんなつもりではなかっただろうが実際に家事全般は全てリンがしてくれている。もちろん陽茉莉もお手伝いくらいはするけれどリンは仕事が早いので陽茉莉ができることは殆どない。話は逸れたが、世間には現在旧式しかいないのでアンドロイドに苦手意識がある人間というのは案外多い。現状のまま旧式が一般的に広まってしまえば漸進的にアンドロイドを苦手とする人が増えてしまうだろう。もしそうなれば、無いとは信じたいがリンの存在が脅かされてしまうかもしれない。緒音が見たと言うアンドロイドのように。リンがいない未来なんて想像もしたくない。陽茉莉は一刻も早くリンに会いたくなって、丁度良いタイミングで止まった電車から飛び降りた。


住宅街を走り足早で家に飛び帰った陽茉莉は外開きのプッシュプルドアを急いで引き開けた。

「リン!ただいま!」

「おかえりなさい。ひま。」

陽茉莉が帰ってくることが分かっていたのか玄関まで出迎えにきてくれていたリンのことを外着のままということも気にせず抱きしめた。相変わらずリンはひまりのことを抱きしめ返してはくれないけれどそんなことは今更気にしていない。

「リン、お母さんは?」

玄関に並べられている靴を三周ほど見回す。たたきにはリンの白いパンプスが1足と、ひまりのスニーカーとファー付きのショートブーツしか置かれていない。聞いていた話では今日は久しぶりに瑛里が家に帰る予定のはずだ。そのためにも陽茉莉は駆け足で帰ってきたというのに。陽茉莉の率直な疑問にリンが心做しか気まずそうに視線を逸らした。

「…瑛里様から仕事が終わりそうにないとの連絡が来ています。」

「そっか、じゃあ仕方ないね。」

事務的にメッセージの内容を伝えてくるリンを暗い気持ちにさせないよういっそう明るく笑った。悲しくはあるがもう一年近く同じことを繰り返しているから慣れたものでもあった。忙しくしているであろう瑛里にメッセージを送ることも躊躇われて、文章でのやり取りすらまともにできない。瑛里に本当に愛されているのか不安になる時もあるけれど、それを疑いにかけてしまうのは瑛里に対して間違いなく失礼なことだ。

一応スマホに瑛里からのメッセージが来ていないことを確認して自室で制服からルームウェアに着替える。買ったばかりのシャープペンシルの芯をペンケースに入れていると、夕食の良い香りを陽茉莉の鼻が察知して喜び勇んでリビングに向かった。本日の夕飯は鮭のムニエルだった。バターと醤油が香り高く、飴色のコンソメスープも相まってまるで本場のビストロに来たようだった。

食事後お風呂に入り寝る支度を終えて、熱気が冷めやらぬ身体のままシーツや掛布をパステルカラーで染められた自室のベッドに座り込む。勉強しなくてはと思いつつもテスト期間でもない日にどうしてもそんな気になれず木製のサイドテーブルに置かれた縦長の写真立てをぼんやりと見つめた。可愛らしいシールで飾り付けられているそれは幼少期の陽茉莉とリンが笑顔で写っている写真だ。それを見つめながら陽茉莉は音が漏れないよう小さく息をつく。写真立てに手を伸ばしかけて途中で止めた。叶わない願いだった。もう過去の出来事だった。今でこそリンはさながら機械のような言動をするけれど、以前は違ったのだ。人間のように笑って遊ぶ、正真正銘陽茉莉の家族だった。


その日の夜、普段寝付きの良い陽茉莉は珍しく夢を見た。幼い頃の夢だ。おそらく就寝前にあの写真立てを見ていたせいだった。

陽茉莉が物心着く頃にはすでにリンは今と変わらない姿で家にいた。思い出せる限りの一番古い記憶は、リンの膝の上でオズの魔法使いの絵本を読み聞かせてもらっている記憶だ。リンの声が優しくて温かいから陽茉莉はリンと絵本を読む時間が大好きだった。父親は陽茉莉がまだ赤ん坊の頃に交通事故で亡き人になったらしく、陽茉莉には父親の記憶がない。今ほどではないものの昔から忙しく働いていた瑛里の代わりにリンは陽茉莉の親としても姉としてもそばにいてくれた。兄弟がいない陽茉莉はリンと遊ぶことが日常だった。おままごとをしたり近くの公園へ遊びに行ったり。偶に緒音も交えて、楽しい時間だった。もう記憶は薄れているけれど今のリンとは違ってあの時のリンには確かに感情があったのだ。話し方は今より柔らかくて、冗談を言うこともあった。表情も豊かで、陽茉莉はリンの花が咲くようなくしゃりとした笑顔が好きだった。その笑顔が見たいあまりに虫を家に持ち帰ったり料理中のリンに飛びついたりと色々とから回った行動をして怒られた記憶もある。リンが陽茉莉のことをひまと呼ぶのは、幼い陽茉莉が口が回らず自分の一人称をひまと呼んでいたのをリンにもそう呼ぶようにお願いしたからだ。茶髪の陽茉莉と白髪のリン、不器用な陽茉莉と器用なリンといったように基本陽茉莉とリンの性質は真反対だが、一緒にいるとやはり似てくるものなのか以前同じマンションに住んでいた緒音には始め本当の姉だと間違えられたことがある。外見と内面も似ていないけれどリンのことは家族だと思っていたから他の人にリンと姉妹のようだと言われるのは陽茉莉にとって心から嬉しいことだった。

そんな陽茉莉の姉として生きていたリンから感情が抜けて、まさにアンドロイドのようになったのは陽茉莉が小学生三年生の時だった。リンのいない学校生活に慣れて緒音や逢和を筆頭に友だちができ始めた頃、なんの前触れもなくリンは突然笑わなくなった。本当は前兆があったのかもしれないけれど学校生活に精一杯になっていた陽茉莉は気づいてあげることが出来なかった。リンがアンドロイド化した当初は数日体調を崩してしまうほど動揺した。看病はリンがしてくれるものだからその度にアンドロイド化した現実が陽茉莉を襲って体調を悪化させる悪循環だった。それでもリンの性格がどうあろうとリンが陽茉莉の家族であることは変わらないし、そのころサッカーのクラブチームに所属し始めた逢和にご執心だった陽茉莉は必要以上にリンを気にかけることをしなかった。根拠なんてないのにいつか必ず戻ると信じて疑っていなかったからというのもある。あの時小学三年生だった陽茉莉はもう、高校二年生になってしまったけれど。

『りん!つぎあっち!あっちいこ!』

『もうひま、走ったら危ないでしょ?』

『だいじょーぶだもん!ほら!りんいこ!』

『はいはい。』

薄らと思い出された記憶は、手をぐいぐいと引っ張る陽茉莉に対してリンが呆れたように、それでも楽しそうに笑う姿。どこへ行こうとしていたのかは覚えていない。場所なんてどうでもよいのだ。陽茉莉にとってリンと一緒であることが何よりも大事で、大切なことだった。それだけが陽茉莉の願いだった。陽茉莉の中で色濃く残り続ける記憶。過去を振り返り続けることは好きでは無いけれど、リンと遊んでいたあの頃が一番楽しかったような気がする。リンの優しい声が『ひま』と紡ぐ音を陽茉莉は求め続けている。


設定された目覚ましがなるよりも一時間ほど早く、陽茉莉は目を覚ました。外は闇に深けていて朝かどうかを認識するまでに十数秒かかった。意識が明瞭にならなくて、自分の左目から水滴が流れ出していることに体を起こしてからやっと気がついた。久方ぶりに昔のリンの夢を見たせいだろう。今の生活に不満がある訳じゃない。緒音も芙優も逢和もいて、瑛里には会えないけれど昔と変わらずリンと共に暮らしている。ただ、今でも夢見てしまうのだ。リンと笑い合えたあの日々を。リンが大きい目を細めて笑う笑顔を。陽茉莉は心が苦しくなって外から心臓部を抑えた。この感情に当てはまる言葉は、きっと恋しさと淋しさだった。陽茉莉は恋しいのだ。リンのことが。堪らなく今リンに会いたかった。

無造作に涙を拭ってから陽茉莉は身支度を整えてリビングダイニングへと向かう。少し目が腫れぼったい気がするがよく見なければわからないだろう。起きる時間が早すぎたせいか、キッチンで朝食の用意をしているリンが面食らったような顔をした。

「おはようリン。早く起きすぎちゃっただけだから気にしないで。」

「はい。おはようございます。ひま。」

先程の驚いたような印象は陽茉莉のただの勘違いで、リンは至ってシンプルに事務的な挨拶を返した。ベーコンの焼ける良い香りがして香りに引き寄せられるように陽茉莉はリンに近づく。今日はベーコンエッグの日のようだ。

「ねぇ、リン。」

「はい。どうしましたか?」

人間らしく首を傾げるリンから出てくる声は人間そのものなのにイントネーションとアクセントのせいだろうか、昔のリンと比べてどこか機械じみている。アンドロイド嫌いの人からするとこうした人間の姿をした機械だという部分が見えてしまうのが不気味なんだろうなと考えた。

「ううん。なんでもない。」

陽茉莉は首を横に振ってリンから離れた。今更なんて言葉をかけたら良いのか分からなかった。リンがアンドロイドらしくなってからもう八年が経っている。陽茉莉の記憶の中にいるリンの大半はアンドロイド化したリンの姿だ。子供の頃の記憶なんて忘れる一方で増えるのは今現在のものだけ。昔に戻って欲しいなんてまるで今のリンを否定しているみたいじゃないか。本当のリンは一体どちらなのだろう。リンが製造されたばかりの頃は今のような性格だった可能性もある。どうして感情を失っても陽茉莉のことをひまと呼び続けるのか、それすらも陽茉莉は知らない。


今日は休日だが、陽茉莉にはバイトの予定が入っている。バイト先は学校の最寄り駅に付属している小ぢんまりとしたカフェだ。瑛里が毎月送金してくれているので生活費は気にしなくても良いのだが、それに甘えすぎてしまうのは罪悪感があるし、多少の娯楽費用が欲しかったので自主的に始めた。気性が快活で愛嬌がありマルチタスクもそこそこ得意な陽茉莉は自分がこの仕事にあっているとやり甲斐を感じている。

ベーコンエッグと牛乳をお腹に詰め込んで、日々のルーティンとなっているリンとの抱擁を交わした後陽茉莉は家を後にした。夢のせいかいつもなら素通りする近所の小さい公園が特別なものに感じられた。ブランコと滑り台、枠が見えない砂場くらいしかない寂れた公園だ。少子化の影響か隣町に出来た中央公園のためかここしばらく子どもが遊んでいる光景を見ていない。ブランコが大好きだった幼い陽茉莉が毎度の如くリンにブランコを押してもらっていた記憶が頭をよぎって心が冷え込んだ。リンの姿が昔から変わっていないので余計に鮮明に思い出せる。もちろん高校生にもなってブランコで遊ぶ勇気はないが、たまに過去に思いを馳せることくらいは許してほしい。陽茉莉は昔の陽茉莉が羨ましかった。


下を向いた気持ちのまま電車に乗り、カフェについてバックヤードで黄土色の制服に着替える。隠れくまさんがいるデザインが可愛くてバイトの決め手にしたくらいお気に入りの制服なのに、身にまとっても気分は上がらない。それでもバイトに私情を持ち込むわけにはいかないと陽茉莉は自分で自分に喝を入れた。

新政策が施行されて、このカフェでも例の如くアンドロイドが勤めるようになった。以前それとなく普段からアンドロイドとの関わりがあることを店長に話してしまった陽茉莉はそのアンドロイドの教育係を任されてしまった。嫌というわけではなく、結局リンとは違う型なので慣れているわけではないと言うことだ。

「おはようございます。陽茉莉さん」

そのアンドロイド、タキは団子に結い上げた茶髪を揺らしながら丁寧に頭を下げた。クロと同じ型なのか見た目は人間らしいが言動に少し違和感がある。顔を上げた際に見える茶色の瞳に光が入った。タキが働き始めたのはクロと同じ数ヶ月前からで、特に付き合いが短い訳でもないためさらっと挨拶を返して陽茉莉はタイムカードを切った。

教育係という立場ではあるものの、やはりアンドロイドであるタキは仕事ができる。とにかく記憶することが得意なので、業務内容や口上の定型文は完璧で基本陽茉莉がわざわざ仕事中に口を出して教えることは無い。問題なのは、客からのクレームやレジ機等に機械不良が生じた際の対応だ。イレギュラーな状況に陥るとプログラムが正常に機能することが出来なくなる。以前文具屋にいたアンドロイドもそうだがアンドロイドと銘打っている割には人工知能のシステムが杜撰な気がする。クロは教員なので例外だが、こうした小店舗にいるアンドロイドは簡単な受け答え以外は前もってプログラムされていることしかできない。タキであればカフェ業務全般のことを指す。クレーム対応や機会不良の修繕はそれに含まれていない。全てマニュアル化してプログラムするにも飲食店ではイレギュラーのバリエーションが多くとてもじゃないが全てに対応できない。人間でも困る時があるのにどうやって機械にやらせるのか。アンドロイドに苦手意識がある人は当然人間の応対を求めるし、陽茉莉の役目はもっぱらタキのしわ寄せだった。それに対しては多少不満はあるものの店長に進言したことは無い。基本有能なタキのおかげで業務内容は減るし、何より陽茉莉の努力が少しでもアンドロイドの印象を向上させてリンの助けになるならそれに越したことはないからだ。陽茉莉のすることなすことは全てリンのためだ。リンの幸せだけを陽茉莉は願っている。

休日の割に来店する人は少なく、今日は平和な日だ。と陽茉莉が思うことができたのは昼までだった。低調なため先に休憩を取りスタッフルームで陽茉莉がカフェオレを片手に休んでいると、突然店内から若い女性の悲鳴が響いてきた。慌てて陽茉莉がコーヒーカップをほっぽってタキのもとへ走ると、店内にはレジの前で何かの液体を全身に浴びて濡れているタキと、荒々しい態度で悪態をつきながら店を出ていく中年の男性がいた。悲鳴を上げたのは一連の流れを見ていた女子高生だったようだ。店内に残っているお客さんに謝罪をして、未だ固まっているタキをスタッフルームに引っ張った。

床が濡れるのも構わずタキをスタッフルームの中に放り込んで、タオルを被せながら口を開く。

「なにがあったの?」

「アンドロイドは消えろ、と。そう言われました。」

バックヤードの椅子に座りこんでタキは無感情に言葉を紡ぐ。下向きに落ちた瞳が鈍く光った気がした。髪の毛を滴る液体がタキの頬をも濡らす。何も言葉が出ず陽茉莉は歯がゆくて下唇を噛んだ。アンドロイド嫌いからアンドロイドを守ることが陽茉莉の目標だったのに。誹謗中傷を吐かれることくらいは覚悟していても、こうして実害が出たことは初めてだった。水をかけられたこと自体ではなく、アンドロイドに手を出されたことが問題なのだ。アンドロイドに害を与える人間がこの世にいるなんて信じられなかった。アンドロイドだって生きているのに。同じ人の形をしているのに。

どれだけ悔んでも仕事を放り出す理由にはならないのでタキにもう何枚か加えてタオルを渡すと陽茉莉は店頭に戻った。皮膚は防水加工が施されているから体は大丈夫だろう。お客さんに対してはいつもと同じような笑顔を見せたつもりだが、少し引きつってしまっていたかもしれない。

何とかバイトを最後まで終えて、陽茉莉は行きよりもさらに沈んだ気持ちで店を出る。店長が休日出勤で来てくれるらしく陽茉莉が帰り支度をしている時もタキはスタッフルームで座り込んでいた。タキの処遇はどうなるのだろう。理由はなんにせよ、店からしてみればタキは客相手に問題を起こしたアンドロイドでしかない。陽茉莉も求められれば証言するし、優しい店長は恐らくタキのことを庇ってくれる。けれどカフェは全国チェーンの支店の一つ。店長の上司がなんと思うのかは分からない。政府から派遣されたアンドロイドが解雇されることなんてあるのだろうか。解雇だけで、済むのだろうか。アンドロイドの末路は一つだけ。最悪のパターンばかり頭に浮かべてしまうのは緒音の話を聞いたからだろう。

憂鬱な気持ちのまま電車に乗り家の最寄りについて改札口を出ると、駅のすぐ外の広場に人の集団が出来ていることに気がついた。メガホン越しの音質の悪い声に自然と耳を済ませてしまった。

「アンドロイドに仕事をさせるな!」

「社会にアンドロイドなんていらない!」

陽茉莉は話の内容を理解して息を飲んだ。アンドロイドに対するデモが起きている。『No Android』と書かれたプラカードを掲げる青年と、その隣に立つ男性がメガホンを使って民衆に訴えかけている。スローガンを胸の前で持つ女性やただ突っ立っているだけのお年寄りもいた。既にデモ活動を始めてから時間が経過しているのか青年たちの周りに集まる人々は学校の一クラス分程の数がいる。それに清聴するだけではなく時折共感や賛同する声も群衆から飛び出した。自分が注目されている訳でもないのにアウェイな状況に息が詰まる心地がする。リンが最近家から出ないのはこれのせいだ。以前はデモが起きていることなんて見たことも聞いたこともなかったのに、新政策が開始されてからというものデモの記事が頻繁にネットニュースに上がるようになった。陽茉莉は初めて見たけれどデモは定期的にこの辺りでも開催されているらしい。リンは以前スーパーへ買い物に出かけた際遭遇したことがあるようで現在は専らネット通販に切り替えている。男性が声を通すメガホンから伝わるプレッシャーが強くて、陽茉莉は出来うる限り影を薄くして集団の横を足早に通り過ぎようとした。圧迫感から解放されかけたその時、集団から少し外れた場所でデモを見つめているある男の人が陽茉莉の目に止まった。頭で考えるよりも先に陽茉莉の手と口が動く。

「っ、ねぇ!」

くたびれたスーツを着て襟足まで伸びた黒髪をしている男性の腕を握る。驚いた様子で陽茉莉の方を見たその男性の瞳が一瞬輝いた。

「あなた、もしかしてアンドロ…」

「ちっ、…おい。」

話し終わるよりも先に骨ばった手で無理矢理口を塞がれて近くの路地裏に引き摺りこまれる。周囲の人たちはデモに夢中になりすぐそこで誘拐事件が起きかけていることに気がついていないようだ。知らない人に腕を掴まれているというのに、恐怖で暴れることもせず陽茉莉はその人の風貌に視線を取られた。伸びきった質の良い髪にきめ細やかな肌、それと対比してわざと汚れをつけたかのようなスーツには違和感を感じる。人間そっくりのその姿を見て陽茉莉は確信した。アンドロイドだ。それもタキやクロとは違う、リンと同じ型。

メガホンの声が聞こえなくなるほど路地裏の奥へ進んでから、そのアンドロイドは陽茉莉の口から手を離してため息をついた。腕は掴まれたままだが痛くない。

「お前、普通あいつらの横で言うかよ。」

「それは…ごめんなさい。」

苛苛した声色のアンドロイドに配慮が足りない自覚があったひまりは素直に謝罪する。アンドロイド反対派の前にアンドロイドが現れたら彼らは一体どんな反応をするのか。以前までは楽観的に捉えることができていたが、今日の一件で陽茉莉の意見は百八十度変わった。アンドロイド連れてこられた路地裏の奥にはビルに囲まれた小さい空間があった。車が三台ほど入るスペースだ。薄汚いコンクリートの上に中身がこぼれているゴミ箱や古びたドラム缶が散乱している。なんとも言えない悪臭に陽茉莉は眉を顰めた。服に匂いが移ってしまわないか不安になる。アンドロイドは陽茉莉の腕を離すとその辺に落ちているうちの一つの倒れた蓋付きゴミ箱の上に胡座を書いて座りこんだ。座り慣れているのかその部分だけ人の形にひしゃげている。アンドロイドはガラのわるそうな態度と表情が印象的で、人間であれば陽茉莉が絶対に関わらないタイプだと思った。

「んで、なんで俺がアンドロイドだってわかった。」

急に手を解放されて逃げもせずその場でまごつく陽茉莉にアンドロイドはそう言い放つ。端的な疑問に陽茉莉は少し考えて自分で首を傾げた。

「えっと…なんとなく?」

アンドロイドだとわかった理由なんて特にない。強いて言うなら、リンに似ていたから。顔を見た瞬間リンと同じだと思った。この感情的な態度も声も昔のリンによく似ている。こんな横柄な態度をリンが取ったことなんてないけれど、二人で遊んでいる時に巫山戯て舌打ちをしていた記憶がある。全くもって要領を得ない陽茉莉の理由にアンドロイドが呆れたようにため息を吐く。悪気は無いが認めるしかない陽茉莉はその場で肩を竦めた。

「なんとなくって……」

「その、私の家族にアンドロイドがいるの。多分結構最新式なんだけど、あなたが凄く似ていて。」

付け足された言い訳にアンドロイドが人間らしくグイッと片眉を引き上げる。動いた拍子にベキッとプラスチック製のゴミ箱が更に潰れる音がした。

「家族にアンドロイドだ?」

「もちろん比喩だけど、私は本当に家族だと思ってる。」

嘘じゃない。幼い頃からずっと陽茉莉はリンのことを本当の家族だと思っている。比喩ではあるけれどでたらめを言っているつもりも無い。周りにどう言われようと陽茉莉にとっては単なる事実だ。陽茉莉の主張にアンドロイドは首を鳴らして考え込むように上を見た。

「なるほどな。それでなんで俺に声をかけた。」

「………その、私の家族、リンって言うんだけど、リンも昔はあなたみたいに感情があるみたいに話してたの。でも、急に感情が無くなったみたいな態度を取るようになって、どうしたら昔みたいになってくれるのかな…って。」

本当は咄嗟に声をかけてしまっただけで理由なんてない。けれど陽茉莉がきちんと話ができるアンドロイドに会ったのはリン以来だ。少し考えるとアンドロイドに聞きたいことならいくらでも思いついた。昔のリンならいざ知らず今のリンには聞けないことが沢山ある。陽茉莉の唐突な質問に、それでもきちんと答えてくれるようでアンドロイドが横目で視線をよこした。

「…そいつの保有者は?」

「多分、私のお母さん。でも理由を聞いても分からないって言ってた。」

幼い頃の記憶だが、拙い陽茉莉の訴えに瑛里が首を傾げていた事だけ覚えている。瑛里が平気そうにしていたから陽茉莉も楽観的にリンについて捉えられたのだ。

「アンドロイド自身がするのは自己破壊くらいだよ。精神プログラムを書き換えられるのなんて保有権を持ってるやつしかいない。お前の母親がお前にそれを話さないんなら俺が言えることはないね。」

アンドロイドが軽い調子で首を振る。陽茉莉が初めて聞く言葉ばかりだ。精神プログラム?自己破壊とはなんだろう。アンドロイドの言葉に納得することもあった。当時陽茉莉はまだ子供だったから理由を隠す必要があったのかもしれない。幼い子にアンドロイドのプログラムの話をしても理解できないだろうし。高校生となった今なら答えてくれるかもしれないが、会えない以上聞く機会がまずない。陽茉莉は日頃からアンドロイドについて調べているけれど、アンドロイド研究は大部分が非公開にされていて、瑛里の娘とはいえ一般人である陽茉莉が知ることができる情報は限られている。今こそアンドロイドについて、リンについて情報を得る絶好の機会だと思った。勇気をだして陽茉莉は格好を崩すアンドロイドに歩み寄る。

「ねぇ、他にも聞きたいことがあるんだけど、私とお話しない?」

「…俺にメリットは?」

「それは…ない、けど。」

ナチュラルな正論に陽茉莉は戸惑って少し後ずさる。それでもその場から離れようとはしない陽茉莉に、数秒経ってアンドロイドは深いため息をついた。

「…わかったよ。…聞きたいことって?」

「本当!?ありがとう、あなた、名前はなんていうの?」

受け入れてくれたことに安心して陽茉莉は今日一番の笑顔になる。喜び勇んでアンドロイドが座っているゴミ箱の近くに落ちていた比較的綺麗な一斗缶の上に座り込んだ。

「名前はキョウ。ま、俺を呼ぶやつなんていないけどな。」

「それじゃあキョウ。普段は何をしてるの?あなたみたいなアンドロイド、リン以外に初めて見た。」

世間に出回っているのはクロやタキのようなアンドロイドばかりだ。少なくとも政府に派遣されたアンドロイドではないだろう。

「アンドロイドがやることなんて決まってるだろ。もしアンドロイドが人間世界にいたら、みたいな社会実験だよ。人間の道具だからな。お前のとこのアンドロイドもどうせ同じだろ?」

「それは…そうだけど。」

詳しくは知らないけれど、確かにリンの存在は瑛里の実験の一つだった。これからの人間社会にアンドロイドが適応するため云々の話を瑛里がしてくれたのを覚えている。当時は訳が分からなかったけれど、今の社会を見ていると実験の意味が理解できるような気がする。陽茉莉が知らないだけで、意外と世間にはアンドロイド研究所から派遣されたリンやキョウのようなアンドロイドが存在しているのかもしれない。

「…どうしてキョウは、感情があるの?」

沢山聞きたいことはあるのに、気が早まって一番に知りたかったことを口にした。似ているリンとキョウの一番の違いだ。キョウは陽茉莉を一瞥したあと自然な仕草で首を捻った。

「どうしてって、そうプログラムされたらとしか言いようがないな。この方が社会に溶け込みやすかったから、とかじゃねぇの?」

「そうなんだ。じゃあリンもだったのかな。」

「さあね、知ったこっちゃないな。」

キョウの突き放すような言い方がどこか陽茉莉には心地よい気がした。全く知らない人と話すことで幾分か気が楽になることを陽茉莉は初めて知った。今日一日中アンドロイドへの抑圧を感じていたせいもあるかもしれない。

「他にも社会に溶け込んでるアンドロイドっているのかな。」

「知らないな。そんな情報は聞いてないし、同型ならともかく俺よりも新式だと人間と存在が近すぎてアンドロイドかどうか判別出来ないんだよ。俺が出来たのは数年前だし、どっかにはいるんじゃねえの?」

「…そうなんだ。」

キョウの話を聞いて陽茉莉は1人考え込む。先程述べたように、アンドロイドが世間に浸透してきた割にアンドロイド研究の内容は殆ど明かされていない。何となく旧型新型の概念があるであろうことは感じていたが、陽茉莉が勝手に言っているだけだ。アンドロイドの判別に関しては初めて知った。クロやタキではリンやキョウがアンドロイドであることは見抜けないということか。キョウは何故かすらすらと話してくれているけれど、世間に広まっている旧式のアンドロイドのことを考えるとキョウやリンのような新式のアンドロイドがいることは秘匿にされていたりするのだろうか。陽茉莉が一人でうんうん唸っているとキョウが痺れを切らしたようでゴミ箱から立ち上がった。

「お前人間の子供だろ?もう遅いんだからさっさと帰れ。」

「……またキョウと話せる?」

率先して陽茉莉を帰そうとするキョウに、折角の情報源を諦めたくない陽茉莉は詰め寄る。執拗い陽茉莉にキョウは出会ってから何度目か分からないため息をついた。

「……だいたいいっつもこの辺にいるよ。」

「わかった!また会いに来るね。」

粘り強い陽茉莉が食い下がると仕方なしに頷いてくれたので陽茉莉はパッと笑顔になる。呆れた様子で手を使って追い払う仕草をするキョウから、今度は素直に離れて路地裏を出た。大通りに戻ると空には既に月が出ていて、遅い時間であることが察せられる。かなりの時間キョウと話し込んでいたようだ。陽茉莉の家には門限こそないが、リンが心配をしてくれているかもしれない。そうでなくとも夕食は作ってくれているはずだ。陽茉莉はアンドロイドのことを考えながら、一刻も早くリンに会いたくて足早に自宅へと足を進めた。


その日から陽茉莉は頻繁にキョウのもとに遊びに行くようになった。休日のバイト終わり平日の放課後など時間なら沢山あったからだ。陽茉莉が訪問した時は必ずキョウは同じゴミ箱の上に座っていて、歓迎とは言えないが無言で陽茉莉のことを受け入れてくれた。初対面とは打って変わってキョウはすらすらとひまりの質問に答えてくれるようになった。それに少しの疑問は覚えたものの情報をくれることは有難いので陽茉莉は何も言わなかった。キョウの話の殆どは陽茉莉の知らないことばかりで、アンドロイドに関して色々と知りたい欲があった陽茉莉はキョウの話を聞くことが楽しくて好きだった。なんでもキョウが言うには現在のこの国のアンドロイド研究は停滞しているらしい。それでも世界トップレベルは未だ維持しいるようで、アンドロイド研究所所長である瑛里の名前は有名でキョウも聞いたことがあるのだそう。全然会えない母親だけれど陽茉莉はそれを聞いて誇らしくなった。家にいて欲しいなんて我儘は言わないからまた瑛里に会いたい。アンドロイドの中でタブーとされているのか分からず恐る恐るアンドロイドの最期について質問してみたら、要らなくなったアンドロイドがスクラップにされることは仕方の無いことだと言っていた。思慮深い人間が想像するよりもアンドロイド本人は割り切っていると。それにアンドロイドに埋め込まれているコアさえ生きていれば、体が壊れても全く同じ個体を作り出すことが可能なのだとそんな話もしていた。その個体を全く同じものと呼んでもよいのかは疑問を感じたがそれは人の解釈によるだろう。

キョウのところに入り浸ることで、リンと過ごす時間は自然と減っていった。いつもリンのために全ての時間を割いていたからリンのための時間をキョウに使ってしまえば起こりうる事態だった。今となっては唯一と言っても差し支えない家族と会えないことは寂しかったけれど、大抵無感情で陽茉莉が話しかけなければ自ら口を開くことの無いリンと違って、キョウは自分の意思で様々な内容の話をしてくれるのが楽しかった。当然陽茉莉から質問することも多かったけれど、キョウは苛つくと舌打ちをしたり悪態をついたりと感情豊かだった。キョウが陽茉莉のことをどう思ってくれているのかは測りかねたけれど、陽茉莉にとってキョウは紛れもなく友達だった。


「ひま。」

「え…リン?」

キョウと出会ってから一月ほど経ったある日の夜。いつも通りキョウと話をしていて帰宅が遅くなった陽茉莉がリンの温め直した夕食を食べていると、キッチンで後片付けをしていたリンに唐突に声をかけられた。リンが自ら声をかけてくるのは数年ぶりのことだった。驚いてカトラリーを食器の上に取り落とす。イレギュラーな行動で陽茉莉は動揺しているのにリンの態度は変わらない。

「最近帰宅が遅いようですが、大丈夫ですか。」

「…ごめんなさい。友だちと話してて遅くなっちゃって。」

後ろを向いて食器を片付けているリンの発言に急いで頭を回す。リンが陽茉莉の私生活に干渉してくることは初めてだった。どこか後ろめたく感じてしまい陽茉莉は下を向く。生まれて初めてリンに隠し事をしている。キョウのことは友達だと思っているから嘘をついている訳では無いけれど、その相手がアンドロイドであることは言えなかった。陽茉莉の勘でキョウは普通ではないと感じていたからだ。一般的には見ないリンと同じ型のアンドロイド。数年前に作られたと自称していて何故か路地裏で生活している。研究所で普通に造られたアンドロイドがあんな薄汚い場所であそこまでボロっちい服を着て過ごしているだろうか。キョウのようなアンドロイドがいることをリンに報告した方がいいのかもしれない。きちんとした研究所所属のアンドロイドの可能性はあるがそうでない可能性だって充分にある。けれど陽茉莉はリンに話すことを渋ってしまった。キョウは陽茉莉がアンドロイドについて相談できる唯一の友人だ。キョウがいなければ知ることができなかったアンドロイドに関する情報は沢山ある。リンと一緒に住んでいるのにリンのことを陽茉莉は何も知らないのだ。キョウに会えなくなる可能性を考えてしまったらどうしても言いとどまってしまう。その日は罪悪感を抱えつつリンの顔を見れないまま自室に戻り眠りについた。


ある日のバイトのない休日、陽茉莉は緒音と芙優と一緒に学校の最寄り駅に隣接している大型ショッピングモールで遊ぶ約束をしていた。陽茉莉が以前シャー芯を買った文具店があるところだ。自分のせいではあるものの、ここ最近放課後も休日もキョウのところへ行って時間を潰していた陽茉莉は二人とまったり過ごせる時間が漸くできて朝から気持ちを踊らせていた。荷物も服も用意は昨夜終わらせており、早く二人に会いたい気持ちが先走った陽茉莉はリンの朝食もそこそこに家を出る。食洗機を動かすリンを尻目にハグをし損ねてしまった。

学校に行く時と同じ電車に乗ってショッピングモールへ向かう。殆ど毎日横を通っているので陽茉莉や緒音は行きなれていると言えばそうなのだが、芙優はショッピングモールから逆方向に住んでおり、陽茉莉も行く店は大抵決まっていてショッピングモールを端から端まで回ったことはないので知らない店は多いのだ。行き慣れているということで調子に乗って電車の中でのんびりと着ているグレーパーカーの紐の長さと格闘していたら一駅乗り過ごしてしまい逆方面へ乗り換える羽目になってしまった。登校の際は緒音がいるからミスせずに学校に辿り着けているのだとやっと陽茉莉は気がついた。駅から降りて慌てて走ったものの待ち合わせ場所にしていたショッピングモールの南口の前にはすでに芙優と緒音が待っていた。

「二人ともごめーん!」

手を顔の正面で合わせながら駆け足で2人の元に駆け寄る。花柄のフレアワンピースを着てピンク色のヘアピンを付けた可愛らしい芙優は笑顔で手を振りかえしてくれ、レザージャケットとショートパンツでクールに決めている緒音は呆れたような表情で陽茉莉の方を見つつ風に靡いたポニーテールを撫で付けた。

「大丈夫だよ。転けると危ないから気をつけて。」

「なに陽茉莉。また迷子?」

緒音の片眉を上げながらの手厳しい言葉に陽茉莉は笑って誤魔化す。普段よりも綺麗に髪の毛がセットされているから風避けに先に入っていてもらってもよかったかもしれない。

ショッピングモールは駐車場合わせて五階建てで地面とは平行に広がっている構造だ。早速中に入って服飾店を何店舗か見て回った後、混む前にとファミリーレストランで早めの昼食を取る。結局三人とも店の中を見るだけで終わってしまったのでまだ身は軽い。自分で働いて稼いだバイト代となるとどうしてもお金を使い渋ってしまい物を手に取ることに抵抗があるのだ。ファミレス特有の味の強いイタリアンを食べた後、まだ混み始めていない店内で三人はドリンクを飲みながら駄弁ることにした。子供舌の陽茉莉はいちごオレ一択だ。

「それにしても久々じゃない?一緒に遊ぶの。」

「最近陽茉莉放課後すぐ帰っちゃうんだもん。」

「それはごめんね。」

ファミレスの角席に座り、膝を組んで頬杖をついた緒音が正面から陽茉莉を見つめ、陽茉莉の隣に座ってる芙優がカフェオレに刺さったストローを咥えながら不満そうに頬を膨らませた。謝りつつも芙優の言葉は最もで問い詰められてしまうと困るのではぐらかすようにいちごオレを1口飲む。三人の時間が取れないのは間違いなくここ最近陽茉莉が毎日のようにキョウに会いに行っているからだ。以前は部活にバイトの二刀流で忙しい二人に陽茉莉が不満を言う立場だったのに完全に逆転してしまった。リンと話す時間も減ってしまったしキョウに会いにいく頻度を少し考え直した方が良いだろうか。陽茉莉が一人考え込んでいると、ふと緒音が思いついたように陽茉莉の方に身体を傾けた。

「もしかして、陽茉莉彼氏とかできた?」

「え、陽茉莉の好きな人って逢和先輩だったよね?」

いたずらっぽく笑う緒音に芙優が目を丸くする。随分と女子高生らしい話題に陽茉莉は苦笑した。花のJKを自称している割にはこの三人でこの手の話をすることは滅多にない。恥ずかしがり屋なので陽茉莉はそこまで逢和の話をしないし、逢和という恋慕を寄せる相手がいる陽茉莉とは違い、驚くほどこの二人には浮いた話がないからだ。興味津々といった雰囲気を醸し出す緒音に陽茉莉は首を横にふる。

「違うよ。彼氏なんて出来るわけないじゃん」

「だよねぇ。」

「ちょっと、何共感してるの。」

緒音に言ったつもりなのに何故か横から肯定してえへへと笑う芙優に緩いデコピンをお見舞する。そのやりとりを見て緒音が小さく吹き出した。周りから見たら大して面白くもなんともない会話だが参加している張本人はとても楽しい。この三人でこうしてまったりと話す時間はやはり楽しくて、陽茉莉もつられて笑顔になった。

「ま、陽茉莉は逢和先輩と話すの苦手だもんね。」

「あ、あれ逢和先輩じゃない?」

「…えっ?」

緒音の言葉を遮って、窓の外を眺めていた芙優が唐突に指を指した。陽茉莉が慌てて芙優の指先を辿ると、大通りを挟んだ向かいの歩道を制服姿で友だちと歩いている逢和の姿を見つけた。

「わっ、ほんとだ。」

逢和を視界に入れた途端急いで陽茉莉は店内の方に顔を向ける。陽茉莉は別にコミュニケーション下手ではない。どちらかと言うとキョウとの初対面の時のように人と話すことは得意な方だ。それなのにどうしても逢和が相手だと臆病になってしまう。これが聞くところの恋の病というやつなのだろうか、なんて恐ろしい病なのだろう。芙優の肩口で必死に身を隠していると二人にくすくすと笑われる。緒音に「もう行ったよ。」と言われて念の為数秒固まった後漸く陽茉莉は芙優の肩から顔を離してほっと息をついた。

「陽茉莉は相変わらずだね。」

「逢和先輩ここのショッピングモール来るんだ。」

二人の生暖かい視線が気恥ずかしくて、それから逃れる様に陽茉莉は今度は音を鳴らしていちごオレを煽った。

その後、ファミレスが混んできた辺りで三人はまたショッピングへ繰り出した。戦利品無しでは家に帰りたくない。服は既に見て回ったので今度は小物を物色する。その際陽茉莉が気にかけていたのは店員だった。服飾店の店員は客のコーディネートを考える機会があるので人間の店員が一人は店頭に立っているが、小物店や文具店ではアンドロイドが一人で切り盛りしていることがあるのだ。人間は裏にいるだろうがわざわざ呼び出すことは申し訳ないのでどうしても行き渋ってしまう。陽茉莉は平気だが芙優は変わらず少し苦手らしいし、緒音も軽いトラウマを抱えてしまっている。小さい雑貨屋の中で二人は楽しそうに商品を見ているが、陽茉莉は緊張した面持ちでレジにいるアンドロイドを気にしていた。

「陽茉莉!これどうかな?」

緒音が星柄のヘアピンを髪の毛に当てて陽茉莉を見る。白と黒で構成された色合いは緒音に良く似合っているよつに見えた。

「いいんじゃない?可愛いよ。」

納得するように頷きながら緒音がヘアピンを見つめる。陽茉莉は数秒だけ迷ってから緒音に声をかけた。

「緒音?…その、買うなら私が買ってこようか?」

「…え?」

緒音が驚いたような表情で陽茉莉を見る。意図が伝わらなかったと思い、直球に言葉にするために声量を落とした。

「その、店員さんがアンドロイドだから。」

不安気に陽茉莉が吐き出した理由に緒音が苦笑いをする。陽茉莉は緒音に嫌な思いをして欲しくないのだ。

「あー、なるほどね。…大丈夫だよ。どうせ慣れないとダメだから。一人で行ってくる。」

緒音の言い分も最もで、レジへと向かう緒音を陽茉莉は不安な表情のまま見送る。元々アンドロイドは大丈夫だった訳だし緒音のことを信じよう。そう心に決めて緒音から目を離すと今度は芙優が陽茉莉の肩を叩いた。

「陽茉莉。これどうかなぁ?」

声の方を見ると芙優の質の良い髪の毛の上に白いカチューシャが嵌っている。芙優は元に華があるのでシンプルな色合いが一番似合うのだ。

「いいと思うよ!凄く可愛い!」

陽茉莉が手を叩いて賞賛すると、芙優は照れたように笑ってから取り外したカチューシャを陽茉莉に差し出した。

「申し訳ないんだけど、私の分買ってきてくれないかなぁ。」

「いいよ。」

芙優の申し出に快く応じる。緒音にもそう思っているが、決して無理をしなくてはならないなんてことはないのだ。リンのようなアンドロイドだっていることだし、今いるアンドロイドに頑張って適応する必要も無いだろう。買い終わったらしい緒音に続いて陽茉莉もレジへと向かった。やはりアンドロイドなのでイレギュラーなことさえ起きなければ何も問題なく買い物を進められる。決まったことだけを聞かれるし、動きもスムーズ。声も聞き取りやすい。キャッシュレスでお金を支払いながら陽茉莉はタキのことを思い出した。タキは今どうしているのだろう。あの日問題を起こしてから陽茉莉はタキの姿を見ていない。本社の偉い人が来ているのを見たことがあり、ただのバイトの陽茉莉は知らないが社内ではかなりの大事となっているらしい。またタキに会える日は来るのだろうか。タキとそこまで仲良くしていた訳でもないのにもう二度と会えない可能性を考えると異様にタキのことが恋しくなった。商品を受け取って陽茉莉はレジを後にする。ほら、普通にしていれば何の問題もないのだ。あの日タキに水をかけた男性のように下手にアンドロイドに手を出すからダメなのだ。相手が人間であればそんなことしなかっただろうに。

「ほら、芙優買ってきたよ。」

先に店を出ていた芙優に袋を差し出す。それまで緒音と話をしていたらしい芙優は笑顔でそれを受け取った。

「ありがとう陽茉莉。後でメッセージで送金しておくね。」

「わかった。」

便利な世の中になったものだ。アンドロイドもその便利な世の中を作るために開発されたものなのに。もうかなり良い時間になっていて、何かスイーツでも食べてから帰ろうと三人で話が纏まった。家に帰った陽茉莉が結局自分は何も形に残るものを買えていないことに気がつくのはもう少し後の話だ。


それからまた幾日か経ったある日の放課後。

「キョウ!久しぶり!」

陽茉莉は軽い足取りでキョウの定住地となっている路地裏へ足を運んでいた。どうして路地裏にいつまでもいるのか気になっていたが、なんでもキョウの保有者から放任扱いを受けて好きに街にいろと命令を受けているようだった。アンドロイドが物件を借りることは不可能なため、食事も風呂もいらないアンドロイドはその辺の道に突っ立っている方が楽なのだそう。流石に四六時中その辺をほっつき歩いている訳にも行かないのでこうして最低限過ごすことができる居場所を作ったのだとか。人間からすればあまりにも最低限すぎる。日に日にゴミの量が増えているような気がするけれど、一体これはいつ誰が持ってきたものなのだろうか。床の惨状とは裏腹な朗らかで明るい陽茉莉の挨拶にキョウはわざとらしくため息をついて見せた。

「なんだ、もう来ねえと思ってたのに。」

「テスト期間だって言ったじゃん。」

勉強がそこそこ得意であると自称している陽茉莉でもノー勉で試験に挑めるほどの度胸はない。きっちりテスト初日の一週間前から陽茉莉はキョウのところに遊びに行くのはやめて勉強に専念していた。ちゃんと前もってキョウには伝えておいたのにどうせまともに陽茉莉の話は聞いていなかったのだろう。そのおかげかテストの出来はまあまあと行ったところだ。上位層を狙いたい訳では無いので最悪赤点を取りさえしなければいい。キョウのため息を華麗にスルーした陽茉莉は慣れた足取りで完全に定位置となっている横倒しになってひゃしゃげている小さめのドラム缶の上に座った。初日に使っていた一斗缶は遊びに来た二日目で破壊してしまった。陽茉莉の体重が重い訳ではなくて一斗缶が脆くなっていただけだ。今日はいったいどんな話をしようかもしくはして貰おうかと考えていると、唐突にキョウが立ち上がって数少ないまだ中身が入っていそうなドラム缶のうちの一つに向かって歩き始めた。怠惰なのか普段は一切ゴミ箱の上から動かないので陽茉莉は突然の行動を不思議に思って視線で追う。キョウは上蓋が開いたドラム缶の中に無操作に手を突っ込んでガサガサと音を立てて中身を漁り始めた。

「…何してるの?」

「何って、見りゃわかるだろ。」

ぶっきらぼうな声色と共に陽茉莉の方を振り返ったキョウの手には小さい手のひらサイズ程の注射器が握られていた。いつの間にか伸びた前髪でキョウの明るい瞳が隠れていて、何故か嫌な予感がした。中に入った薄紫色の液体がひたすら不気味に感じる。

「…なにそれ。」

「わりぃな。これでも俺は人間様の犬なんでね。」

何を言っているのかは分からなかったが、今すぐにこの場から離れなくてはならない気がして陽茉莉は咄嗟に鞄を拾いあげる。しかしその場から逃げ出すよりも早く、一瞬にして陽茉莉の元まで走って来たキョウに腕を鷲掴みにされた。脚力が強化されているタイプのアンドロイドなのか。必死に身をよじるが、力が強くてどうにも振り解けそうにない。アンドロイドの力に人間ごときが叶うはずもないのだ。陽茉莉はキョウを睨みつけて懸命に声を上げた。

「っ、離して!」

蹴りあげようとする足癖の悪い陽茉莉の足を上から踏みつけて、キョウは暗く淀んだ視線を陽茉莉に合わせた。

「今まで言ってなかったけど、アンドロイド研究ってのはお前の母さんみたいなまともな人間だけがしてる訳じゃあないんだよ。」

「……は?」

キョウの言葉を上手く咀嚼する前に、注射針の先が陽茉莉の腕に近づけられる。機械に捕まえられている腕はその場に固定されているかのように動こうとしない。ここから大通りまでは距離があるので叫んで助けを求めることも出来ない。スマホも鞄の中だ。思いつく限りの全ての選択肢を考えた後為す術なくなった陽茉莉の頭に最悪がよぎり、背筋に冷たい汗が伝った。注射針が陽茉莉の腕に触れた、その瞬間

「ひまに何をしてるの。」

温度を二三度下げるような冷たい声が辺りに響いて、陽茉莉の震えた口から息がこぼれる。辛うじて動く首を向けた路地裏の入口には、怒りを目に湛えたリンの姿があった。

「リン!」

急いでいたのか息こそ切らしていないが白いマキシ丈ワンピースに汚れがついている。どうしてここに。疑問よりも安堵が勝って息がしやすくなった。キョウがリンの姿を見て気だるげに舌打ちを放つ。

「あー、お前がその、こいつに飼われてるアンドロイドってやつ?」

戸惑ったような苛ついているようなキョウの言葉を無視してリンは二人に近づく。無表情のままリンは陽茉莉とキョウの腕を引っ掴んで無理矢理手を引き剥がした。陽茉莉はリンの体温以外何も感じなかったが、キョウの腕からはメキメキと音がした。リンはキョウの肩を強く突き飛ばして距離をとると陽茉莉の肩に優しく手を当てる。先程の真顔から一転してリンは眉毛を緩く下げていた。顔に『心配です。』と書かれているような気がする。

「ひま、大丈夫?」

「うん。でも、どうしてここに。」

「それは後で話すから、先にここから離れましょう。」

その場に突っ立ったままのキョウを一瞥したリンに優しく腕をとられて、陽茉莉はその場から離れるために足を動かした。手を繋ぎ直してリンの人間よりも少し低い体温を感じて心を落ち着かせる。

「あーあ、せっかくいいカモ見つけたと思ったのに。」

やはり軽く突き飛ばされたくらいならアンドロイドはなんとも思わないらしい。友達だったはずのキョウの間延びした言葉が後ろから聞こえて、陽茉莉の胸に苦々しい思いが漂った。

「…リン」

人がいない夜道を通り家に帰るまでの間、リンの存在に微かな悦楽を感じている陽茉莉は調子に乗って名前を呼ぶとリンの腕を抱きしめた。思えばリンがこうして外界にいる姿を見るのは久しぶりになる。最近アンドロイドデモが漸増していると感じていたから、まさかリンと一緒に歩ける日がこんなにも早く来るなんて思っていなかった。感謝でも質問でも話したいことなんていくらでもあるのに、真剣な表情をしたリンに声をかけられなくて陽茉莉はただリンに擦り寄った。

マンションに着くと無言でエレベーターに乗って自宅へと向かう。部屋の中に滑り込んでリンが鍵を閉める音が聞こえた刹那、陽茉莉はリンの長い腕に正面から身体を巻取られた。顔を伏せたリンの吐息がこめかみに当たる。

「リン…?」

「ひま、今までごめんね。」

どうして分からなかったのだろう。その時になってやっと、陽茉莉はリンの様子が普段と違っていることに気がついた。リンの震えた声には確かに感情が込められていて、衝撃で機能が鈍った頭が遅れて現実を受け入れる。もしかして。僅かに顔をずらしてリンの顔を見ると唇を噛み締めているのが見えた。未だに下げられいる眉。人間らしい、その表情。戻ったんだ、昔のリンに。あまりの驚きに声を出そうとする陽茉莉の唇も引き攣って震えていた。カラカラになった喉が上手く声を出してくれない。

「リン、どうして。」

動揺を隠せない陽茉莉の問いにリンが小さく首を横に振る。リンの白髪が陽茉莉の首元を擦って、猫っ毛だったことを思い出した。

「私にも分からないの。ずっと夢を見ている気分だった。」

リンが陽茉莉のことを抱きしめる力が強くなって、陽茉莉も腕を恐る恐る伸ばしてリンの身体を抱き締め返した。二人の距離がゼロになってピッタリと身体が引っ付く。抱きしめ合えたのなんていつぶりだろうか。長い間陽茉莉の一方通行だった。リンの低めの体温が身体中に伝わって、懐かしさに熱いものが込み上げる。

「リン、愛してる。」

思わず口に出たそれは心からの言葉だった。陽茉莉はリンを愛しているのだ。それは今も昔もずっと変わらない。リンが変わってしまってからどうしても本音とは言い難くなっていたそれを、やっと本心から吐き出せた。リンは陽茉莉から身体を少し離すと、顔をくしゃりと歪めて笑った。

「私も。信じられないかもしれないけれど、ひまのことを愛してるの。」

信じてるよ。言葉には出さなかったけれど、その意味を込めて再度陽茉莉はリンに抱きついた。思いを言葉にし尽くすことなんて不可能で、ただこの腕から伝わればいいと思ったのだ。リンから与えられる愛情も陽茉莉は全身で受け取っていた。

そうして抱擁を交わして一体どれくらいの時が経ったのだろう。くっ付きあった身体の隙間から唐突に腹鳴がした。真剣な雰囲気の中主張するその間抜けな音に陽茉莉は赤面する。

「ふふ、ひまお腹空いた?」

「しょ、しょうがないじゃん!」

くすくすと笑うリンに陽茉莉は頬を膨らませて対抗する。時刻で言えばいつもならとっくに夕飯にありついているはずだ。羞恥心が止まらない陽茉莉が口の中でもごもごと言い訳をしていると、柔らかい笑顔をしているリンに頭を優しく撫でられた。その笑顔を見るとひまりは何も言えず黙るしかない。。

「すぐ作るから、先にお風呂入ってきて。」

「うん。ありがとうリン。」

幼い頃外遊びが大好きだった陽茉莉が土だらけになって家に帰った際、慌てたリンにお風呂に放り込まれたことがあるのを思い出した。本当に、昔に戻ったみたいだった。

大人しくお風呂に入ってからダイニングに戻ると、リンが鼻歌を歌いながらテーブルセッティングをしている真っ最中だった。聞きなれたその歌は幼い陽茉莉お気に入りの子守唄だ。

「リン。」

「ひま、おかえり。」

陽茉莉が名前を呼びかけるだけで、リンは楽しそうに笑う。何がそんなに面白いのか。かく言う陽茉莉も名前を呼べば直ぐに帰ってくるレスポンスに笑みが零れたままだ。

「懐かしいね。その歌。」

「そうでしょう?私も久しぶりに歌った。」

先程から笑顔の絶えないリンは晴れやかな表情をしている。アンドロイドではあるけれど、リンは本当に生きているようだ。

「今日のメニューは何?」

「んー、トマトソースパスタ!」

セピア色のランチョンマットの上に綺麗な花びらが散っているように盛り付けられたパスタが置かれる。この短時間で作ってしまうなんてさすがリンは料理上手だ。

「もしかして私の大好物だから?」

「いや?そろそろ賞味期限だったから。」

昔から陽茉莉はパスタが大好きだったのでもしやと思ってそう聞くと片方の口角を上げたリンがわざと意地悪なことを言う。陽茉莉が「もう!」と怒るとリンが声を上げて笑った。

「ほら、さっさと食べちゃって。」

促されてテーブルにつくとリンが膝の上にナプキンをかけてコリンズグラスに浄水を注いでくれる。隣に立って微笑んでいるリンを努めて気にしないようにしながら手を合わせた。

陽茉莉が食事をしている間リンはキッチンで後片付けをしているので話すことは叶わなかった。こうしたときリンも一緒に食事ができたら良いのにと思う。リンと雑談をしながらの食事なんて楽しいに決まっている。美味しいトマトソースパスタをペロリと平らげ食器をシンクに持っていくと相も変わらずリンは笑顔のままだった。そういえば幼い頃の陽茉莉はリンのことを怒らせがちだっただけで元来デフォルトでリンは楽しそうな表情を常にしていたような気もする。

「リン、ごちそうさま。美味しかった。」

「本当?良かった。」

陽茉莉の賞賛にリンは満足そうに頷いた。食器を陽茉莉から受け取ったリンに、陽茉莉は食事中ずっと考えていたお願いをするために遠慮がちに声をかける。

「……ねぇ、今日一緒に寝ない?」

普段の態度よりも控えめな陽茉莉の提案を聞いたリンは特徴的なアーモンド型の瞳をきゅっと細めて笑った。

「なあに、寂しくなっちゃった?」

「そんなこと、ないけど……」

恥ずかしくて顔を俯かせた陽茉莉の前頭部にリンは一つキスを落とす。リンの大きな手が陽茉莉の頭をひと撫でした。陽茉莉のスキンシップ好きはリン譲りだ。

「わかった。先に寝室に行ってなさい。」

肯定の返事が来たことを確認すると恥ずかしさの取れない陽茉莉はすぐさま踵を返して歯を磨きに洗面所へ向かった。昔は毎日のように同じベッドで寝ていた、というか寝かしつけてもらっていたのだが、リンから感情がなくなってどうしたら良いか分からず数日一人で寝ていたらもう一度寝かしつけをお願いする機会を失ってしまったのだ。もちろん一人でも眠れるけれど、リンと一緒にいる方が深く落ち着いて眠ることができるような気がするのだ。

陽茉莉は急いで歯磨きを終えると自室のベッドに倒れ込んだ。皿洗いの音が止まったからリンももうすぐ来るだろう。まだ、夢を見ている気分だった。このまま寝てしまったら『朝起きたら全て夢でした。』みたいなことになったりしないだろうか。陽茉莉がリンを誘ったのにはこうした理由もあった。眠りに落ちるまで自分の手でリンの存在を確かめていたかったのだ。

「ひま、入るわよ。」

控えめなノックの音がして自室の扉が開く。取り付けられたミニタペストリーが揺れて音が鳴った。

「リンいらっしゃい。」

寝転んだまま手招きしてリンを呼ぶと、リンはカーペットの隅に落ちていた丸型クッションを拾い上げてベッドのすぐ横に座った。

「…一緒に寝ないの?」

「ごめんねひま。ちょっとやることがあって。ひまが寝るまではそばにいるから。」

右手をリンの両手で包み込まれる。少し寂しく思ったけれど、本来リンの体は睡眠を必要としないから仕方ないだろう。昔だって幼い陽茉莉の我儘に付き合ってくれていただけだ。やることとはなんだろう。キョウが言っていた実験についてだろうか。一度気になってしまえばそれがなんなのか知りたくて堪らなくなった。

「…何をするのか、とかって聞いてもいいの?」

「……え?」

陽茉莉の質問にリンが驚いたように目を見開く。今までずっと瑛里の前では陽茉莉はいい子でいたから発言が予想外だったのだろう。少し申し訳なくてリンから視線を逸らすように繋がれた右手を見た。

「キョウに聞いたの。キョウとかリンみたいな人間に擬態できるアンドロイドは何かしらの社会実験のために存在してるって。…だから、私が知らないだけでリンもそうなのかなって。」

大きな瞳で陽茉莉を見つめるリンが瞼を瞬かせる。ふとリンが首を傾げた。

「…キョウって?」

「ああ、さっきリンが助けてくれたアンドロイドのこと。」

キョウの意地の悪い笑顔が頭をよぎる。せっかく友達になれたと思ったのに。リンのおかげで恐怖を忘れ安堵に包まれている陽茉莉は、怯えというか完全に不貞腐れていた。

「キョウって言うのね。あのアンドロイド。」

「うん。助けてくれてありがとね。」

まだきちんとお礼は言っていないことを思い出して感謝の言葉を口にする。リンが小さく首を横に振ってまた陽茉莉の頭を混ぜた。

「いいのよ。ひまが無事で良かった。」

「…なんでキョウはあんなことしたんだろう。私に何をするつもりだったのかな。」

注射器の中に入っていた不気味な液体を思い出す。もしあれが体内に入れられていたらどうなっていたのか、想像するだけで身震いした。リンはなにかに心当たりがあるようで、少し迷ったような表情をした後口を開いた。

「ひまは、違法アンドロイドって聞いたことある?」

違法アンドロイド。聞きなれない言葉に枕に乗っかっている頭をできる限り傾げる。それが不格好だったようでリンは笑った。

「その名前の通り、瑛里様のような正式に国に認められた研究者ではない人間が作り出した政府認可外のアンドロイドのことを指すの。」

「それが…キョウ?」

陽茉莉の勘はやはり当たっていたようだ。キョウは普通じゃない。笑顔をふっと消してリンは下を向く。微かに息を吐き出した音が聞こえた。

「多分…そう。私もよくは知らないのだけど、最近違法アンドロイドを製造していた組織の1つが警備警察に検挙されたらしいの。その時に大抵のアンドロイドは捕まって処分されたけど、いくつかのアンドロイドは警備の目をかいくぐって逃走したらしいわ。」

リンの話にごくりと唾を飲み込む。組織?警備警察?聞きなれない言葉の数々に別世界の話のようにしか感じられない。なんだか知らぬうちに壮大な話になっているようだ。

「キョウもその口だと思うわ。アンドロイドは人間に依存する従属機だから、充電だったり修理だったり人間の助けがないと動けない。他にも違法アンドロイドの製造をしている組織はあるから、違法取引をして助けて貰っているのかもしれない。アンドロイドは能力が高いから人間よりもできることが多いの。例えば、麻薬密売とか…人身売買とか。」

リンの最後の言葉に陽茉莉は息を飲んだ。もしリンが助けてくれなかったら、今頃。再度陽茉莉の心の中に不安が立ち込めた。もう片方の手も布団の中から出してリンの手を強く握りしめる。陽茉莉の思いが伝わったのかリンは一度手を解くと陽茉莉の身体を抱きしめてくれた。

「大丈夫よひま。私が守ってあげるから。明日から駅まで一緒に行く?私がいると分かった以上キョウが手を出してくることはないと思うけど、他のアンドロイドがどうしているかは分からないから。」

リンの優しい言葉が嬉しくて、身体を力いっぱい引っ張ってベッドの上に乗り上げさせる。強く抱きつくと首筋に顔を埋めた。

「ありがとう。リン。大好き。」

顔は見えないけれどリンが笑みを湛えた気配がした。通りの良い髪の毛を手櫛でまた撫でられる。

「私もよ。もう遅いからそろそろ寝なさい?子守唄を歌ってあげましょうか。」

既に薄れる意識の中、リンの言葉をなんとかキャッチして首を縦に動かす。すると聞きなれたメロディーがリンの口から響き出した。子守唄特有の落ち着いた優しい音楽。瞬く間に意識が闇の中に引きずり込まれる。明日になっても世界が変わっていないことを願って。深く眠りについたからか、夢は見なかった。


その次の日、リンにその手で起こされた陽茉莉は何年かぶりにリンと共に家を出た。幼い頃のように手を繋いだりはしないけれど、隣にリンがいるという事実が陽茉莉を幸せな気持ちにさせた。外出用に白いパーカーを着て髪の毛をヘアピンで止めているリンはまるで本当の人間のようだった。

あの路地裏に近づいて、リンが陽茉莉を庇うようにして立つ。

「キョウはいつもここにいるの?」

「私が行った時は、いつもいた。」

外から覗いても奥まっている上に薄暗くて中に誰かいるかどうかは分からない。そもそも初めて会った時は外に出てアンドロイドデモを見ていた。思えばそれ以来外に出ている姿を見ていないことに疑問を感じるべきだったのかもしれない。陽茉莉のことをいつも待っていたという認識で良いのだろうか。カモ呼ばわりされていたしおかしくない話だ。駅前の広場では朝だからか今は特にアンドロイドデモは行われていないらしく心の中で安堵の息を吐いた。下手なことさえしなければ今のリンはアンドロイドだとバレないだろうけど、リスクはできるだけ減らしておきたい。リンは数秒路地裏を覗き込んだ後再度駅へ向かって歩き始めた。

「気をつけるに越したことはないからね。」

「うん。わかってる。リンもね。」

リンが不思議そうに首を傾げる。以前アンドロイドデモが行われていたことをリンに話していないことを陽茉莉は思い出した。言った方が良いのだろうか。言ったところでどうしようもない気がするし、最近の世間のアンドロイドの評判を考えるとデモなんていつどこでも起こる可能性がある。第一陽茉莉はリンを外に連れ出している張本人だ。陽茉莉は口をつぐんでから不自然にリンから目を逸らした。

「あ、陽茉莉!」

唐突に前方から聞こえてきた声に視線を向けると、駅入口の外から手を振る緒音の姿が見えた。黒いシュシュで纏められたカール付きのツインテールが揺れている。

「緒音、おはよう!」

手を振り返しながら緒音に近づくと、陽茉莉の隣に立つリンを見て緒音は目を丸くした。ついこの前アンドロイドが苦手になったと言っていたことを思い出して陽茉莉は体を強ばらせる。

「あれ、リンさん!お久しぶりです。」

陽茉莉の不安とは裏腹に、緒音はにっこりとリンに笑いかけた。この前のショッピングモールの一件といい緒音は強い。緒音の明るい挨拶にリンも笑顔でそれに応じる。

「久しぶり。緒音ちゃん。」

リンと緒音は面識があると言ってもリンが変わってからは会う機会はなかったので久しぶりだろう。二人の板挟みになって陽茉莉は一瞬まごついたが、張本人である二人は特に気にしていないようだった。

「リンさんとも話したいけど…電車の時間あるからもう行こっか。」

緒音に制服の袖を引かれたので、陽茉莉はその場でリンに別れを告げて緒音と一緒に改札を通った。いつもの三番ホームに辿り着いて緒音と並んで立つ。

「それにしても、いきなりリンさんと来てびっくりしたよ。」

「ごめんね。この前アンドロイドが苦手って言ってたけど大丈夫?」

先程の態度で大丈夫だろうとは思ったけれど、なんとなく申し訳なくて緒音に軽く頭を下げる。いつもホーム集合なので駅前で鉢合わせる予定ではなかったのだ。

「リンさんはクロ先生とかとは違うから大丈夫。急にどうしたの?」

「えっと、なんて言ったらいいのかな。この前、ちょっと変な人に絡まれちゃって、リンが危ないからってついてきてくれたの。」

「え、何それ大丈夫なの?」

緒音の言葉に曖昧に頷く。実際危ないところまでは行ったけれど結果的に無事だったから良しとする。キョウのことは適当に濁すことにした。本当なら近所に住んでいる緒音のためにも話した方が良いのだろうけど、これ以上アンドロイドに対して悪いイメージを持って欲しくなかった。違法アンドロイドというやつが世間にどれくらいいるのかは知らないが全くもって関係の無いリンの肩身が狭くなってしまうのは嫌だ。先程別れたばかりなのに陽茉莉はリンが恋しい。早く帰ってまたリンに会いたくなった。

いつも通りの学校への道のりを通り過ぎて、日直の仕事で先に席についていた芙優に挨拶をする。

「芙優、おはよう!」

「あ、おはよう陽茉莉。」

日直日誌を自席の机で書いている芙優がこちらを見て笑顔を見せる。遊びに行った日に買った白いカチューシャを身につけていた。爽やか系というか清純な雰囲気が芙優には良く似合う。荷物を置いて日誌を覗き込むと少し丸みを帯びた可愛らしい字が横並びに連なっていた。

「芙優真面目だね。私なんて日直のときはいつもギリギリで書いてるのに。」

「それでも陽茉莉は綺麗に書けるんだから羨ましいよ。」

日直の仕事を忘れがちで毎度の如く芙優に手伝ってもらっている陽茉莉が巫山戯て見せると芙優はお淑やかに笑顔を見せてくれた。

芙優との会話を一旦切って自分の席に座ると陽茉莉は一限目の準備をする。芙優は親友だからリンのこと話した方がいいだろうか。対面したことはないけれど陽茉莉の家にリンというアンドロイドが居ることは知っている。芙優が大丈夫なら是非ともリンに会って欲しい。大切な人と大切な家族には仲良くなって欲しいから。大切な人たちで仲良くできたら最高ではないか。陽茉莉の頭は単純だ。緒音はクロとリンを別個に考えているようだからリンと話すことは平気そうだったが、芙優はどうだろう。あくまでアンドロイドが機械的であるというところに怯えを感じているように見えるが、普通の人はまずアンドロイドに種類があることも知らないだろう。昼休みにどう思っているのか聞いてみようか。

この日は四限目にクロの授業があった。クロは非常勤のような形で働いていて、陽茉莉たちの化学の先生だった。アンドロイドだから化学だけでなく科学全般の知識が全て備わっていて確かに授業はわかりやすい。ド忘れした記憶を思い出す時間もなく、タキもそうだけれど基本的なことは人間よりも圧倒的に有能なのだ。ただクロは、授業中の生徒からの質問に上手いこと答えることができない。生徒のノートの文字を正しく認識する能力も人間より低くて、授業中生徒とまともにコミュニケーションを取れている光景を見ることはことは殆どなかった。授業初日から数日経てば皆授業中に質問をしてはいけないことに気が付き始めて、休み時間になると直ぐに教務室に帰ってしまうクロを引き止める猛者もおらず、質問は全て前任の化学の先生に聞くことが暗黙の了解となってしまっている。授業アンケートで意見を出したことは無いが、一方的にクロの話を聞くだけなのだから動画授業にしてしまっても良いのではと陽茉莉は思っている。

「陽茉莉さん。」

「えっ?…どうしましたか、クロ先生。」

授業が終わり教科書を片付けて昼ご飯の用意をしていたら、後ろのドアから入ってきたクロに話しかけられた。陽茉莉は戸惑いつつもそれに応じる。朝挨拶されることはあってもそれ以外で話しかけられたのは今回が初めてだ。一番後ろの席である陽茉莉にわざわざなんの用だろう。

「申し訳ありません。少しお聞きしたいことがありまして、お時間いただけますか。」

「あ…はい。わかりました。」

疑問はあるけれどプラスチックの温度の無い光る瞳に見つめられて断ることは出来なかった。以前のキョウの冷たい目とよく似ている。違法アンドロイドとは違いなにかおかしなことをされる可能性は少ないだろうが怖さはある。先に中庭へ行って昼ご飯を緒音と食べるよう芙優に伝えて、陽茉莉は歩き出すクロの後に大人しく続いた。少し遠い別館に向かっているようで、歩いている間陽茉莉もクロも終始無言だった。クロと歩いているためかすれ違う他の生徒からの視線が少し痛い。

「どうぞ。」

「…失礼します。」

クロに連れてこられたのは化学準備室だった。クロが何かを伝えたのか入れ違いで出ていく元化学の先生は陽茉莉を見て不安気な表情を浮かべていた。キョウとは違い政府公認のアンドロイドだとわかっていても二人きりというこの状況にどうしても警戒してしまう。

「座ってください。」

「…ありがとうございます。」

念の為にスマホがポケットに入っていることを確認して、クロと向かい合うようにしてパイプ丸椅子に座る。輝く瞳は他のアンドロイドと変わらず無機質だ。

「申し訳ありません。怖がらせるつもりではなくて、陽茉莉さんがアンドロイドと生活なさっているという話を聞いたもので。」

「それ、誰に聞いたの。」

クロの言葉を遮るように自分が想像しているよりも冷たい声が出た。何故リンのことを知っている。昔はアンドロイドが今ほど知られていなかったから当たり前のこと、アンドロイドが世間に普及し始めても変わってしまったリンの存在を吹聴する必要性は感じなくて、最低限の人にしか知らせたことはない。この学校でリンのことを知っているのは芙優と緒音と逢和だけのはずだ。それなのに、どうして。

「すみません。政府の方からとしかお伝えできません。」

「…政府?」

「はい。陽茉莉さんは瑛里先生の娘さんで、瑛里先生の作成したアンドロイドと共に暮らしていると。」

クロが嘘を言っているようには見えない。アンドロイドだから嘘が上手いだけかもしれないが、少なくとも話に筋は通っている。個人情報の漏洩と呼べるだろうが、瑛里はアンドロイド研究の界隈では有名なので作成したアンドロイドは当然知られているだろうし、その娘である陽茉莉だって名前くらい広まっていてもおかしくはないだろう。理屈を理解はするも納得はできない。

「それで、どうして私を呼び出したの。」

思わずつっけどんに返してしまう。いきなりリンの話をふられてどうしても警戒してしまうのは仕方ないことだった。

「アンドロイドに詳しい方に僕の授業についてお聞きしたかったんです。僕の授業はどうですか?」

「授業って…わかりやすいとは思うけど。まあ、上手くコミュニケーションが取れてないのは痛手よね。」

自分で言うのもなんだが最もな陽茉莉の正論にクロは人間らしく項垂れたような表情をする。外見はクール系だから違和感しかない。自分の外見に興味を持てないアンドロイドの弊害だろうか。普段大人しそうなリンも巫山戯て偶にゲスい顔をする。

「…そう、ですよね。」

「…一つ疑問なんだけど、こうして私とは普通に話せるのになんで授業だと上手くいかないの?」

タキも似ていたけれど、二人のようなタイプは普段は人間のように話して振る舞えるのに仕事となると全く上手くいかない。今までクロときちんと話をしたことがなかったから、それはタキだけの特性なのだと思っていた。

「それは、僕が欠陥品だからですね。」

「欠陥品?」

しょげたような表情をするクロは、アンドロイドなのに酷く悲しそうにも見え、アンドロイドのようにあっけらかんとしているようにも見えた。

「他の働いているアンドロイドにも同じようなものはいると思います。瑛里先生の娘さんなので信頼してお話しますが、一応秘匿となっている内容ですので他言無用でお願いできますか。」

いくら瑛里の娘とは言えただの他人だが話して良いのだろうか。不思議に思ったがアンドロイドについて知ることの出来る貴重な機会なのでそれを口には出さず陽茉莉が神妙に頷くと、クロは小さく咳払いをした。

「アンドロイド一体を作るのに莫大な費用がかかるのは知っていますよね。」

「うん。」

「新政策の内容が公布されてから沢山のアンドロイドが必要とされ、現在国には数十万以上のアンドロイドが僕のように職に就いています。」

身近にいるアンドロイドしか知らない陽茉莉にとって途方もない数だ。詳しい数は知らなかったが陽茉莉が働いている個人営業のカフェにも配属されるくらいだ、それくらいはいるだろうと納得した。

「ですが正直に申し上げると、政府にそこまで沢山のアンドロイドを派遣するほどの予算はありません。本当であれば僕のようなMA型ではなくFE型が配属される予定だったんです。」

「なんなの、その、なんとか型って。」

聞きなれない言葉に首を傾げて話の腰を折ってしまう。型名なんて一般に公開されていないため陽茉莉は知らない。前もってリンに聞いておけばよかった。

「アンドロイドの新旧を表す型です。FE型がひまりさんの家にいるようなアンドロイドのことですね。」

やはり正式に型名有りきで分けられていたらしい。クロやタキがMA型でリンとキョウはFE型か。

「しかし、FE型の製造にはMA型の数十倍の金額がかかります。だから政府は多少機能は落ちますが配属するアンドロイドをMA型に変更しました。」

色々なアンドロイドと話をして能力差が大きいことには気がついていたけれど、金額面でもそこまで違うのか。陽茉莉はふむふむと頷いた。

「そこで問題が起きたのです。政府公認のアンドロイド研究所は一つしかありません。そこに突然数十万体のアンドロイドの製造依頼が来たらどうなると思いますか。」

「…………」

「…だから、『欠陥品』なんです。いくら世界最高峰に名を連ねる研究所でも政府からの圧力には逆らえない。未だ停滞しているアンドロイド研究。そんな中慌ててアンドロイドを大量生産したところで、質の良いアンドロイドなんて一割にも満たせません。陽茉莉さんだってその辺を歩いていて欠陥品のアンドロイドを見かけるのでは。」

タキやショッピングモールにいるアンドロイドのことだろう。道理で挙動がおかしいと思った。欠陥品だからか。

「具体的には、僕達アンドロイドはその仕事用の専門プログラムが埋め込まれているのですが、仕事をする際のプログラムと人間とコミュニケーションをとる際のプログラムが完全に別れてしまっていて、欠陥のせいでそれが上手い具合に噛み合わないんです。」

「ああ…なるほどね。」

接客中のタキや授業中のクロとまともにコミュニケーションが取れないのはこのせいだろう。それではなんの意味もないのではと思ったけれど言わなかった。それがクロの言うところの欠陥品なのだろうから。一番難儀しているのは本人たちだ。

「それはもうどうにもできないの?」

クロは一つ頷いて、自分の頭を指で指し示す。

「はい。どうやら問題があるのはコア本体のようでして、それを取り替えないことにはどうにもならないんです。」

アンドロイド部品の九割以上は安いプラスチック。高価だと言われる原因はコアだ。それに不具合があるということは。

「もう一度作り直すしかないってことね。」

数十万いるうちの九割のアンドロイドを作り直すなんて、不可能だ。

「そうですね。…きっと僕は作り直す前に処分されますが。」

「…え?」

リンと生活をしている中で陽茉莉が最も恐れているワードがクロの口から飛び出して目を見開く。

「元々危惧されていたことですが、最近あるアンドロイドが一般の方相手に問題を起こしたようでして。アンドロイドデモの拡大も大きく、まだ公的には発表されていませんが、政府はアンドロイド研究から手を引くようです。」

「…は、それ本当なの?」

陽茉莉は絶句して椅子に座ったままクロに詰め寄った。この国の政府が最も強く推し進めている政策ではなかったのか。

「ええ。アンドロイド研究はここ数年進みを見せていません。他国と比べても完全に遅れを取り始めている。ついに瑛里先生も退職されたようですしここらが引き際なのでしょう。」

「待って、お母さんもう研究してないの?」

思わずクロの話を遮る。知らない情報が怒涛にやってきて頭が痛くなりそうだ。瑛里はずっと家に帰ってこないから未だ最前線で研究室にいるとばかり思っていたのに。焦った様子の陽茉莉に対してクロは不思議そうに首を傾げた。

「知りませんか?…確かに、長年研究の進捗がない上での退職でしたそうなので家族には言い難いのかもしれませんね。」

「だからって…」

クロにバレないように歯噛みする。何故瑛里は教えてくれなかったのだろう。陽茉莉は唯一の娘なのだから教えてくれたっていいはずだ。そこまで信頼できると思われていないのか。数年まともに会っていないせいで関わり方を忘れてしまったのは陽茉莉も同じだけれど。瑛里のことは何よりも早く知りたかった。連絡を取ることを先に諦めたのは陽茉莉なのに責任転嫁するように瑛里に憤りを感じた。

怒りを抱えた陽茉莉がクロに八つ当たりをしてしまいそうになったすんでのところで予鈴がなる。随分と長いこと話し込んでいたようだ。

「もうこんな時間ですか。すみません。昼食を食べる時間を。」

「…別に気にしないで。知りたかったことも知れたし。」

落ち着かせるように深呼吸をする。立ち上がって先に部屋を出ていこうとするクロを陽茉莉は遠慮がちに引き止めた。

「ねぇ、結局なんで私を呼び出したの?処分されることが分かってるなら授業なんてどうでもいいでしょう。」

「はい。それはただの口実です。」

あっけらかんとそう言い放ったあと、クロは微かに口角を上げた。

「…ただ、話してみたかったのです。人間と。ここでは、殆どの方は皆僕と会話をしてくれないので。」

自嘲気味な話し方は、まるでリンとの会話を彷彿とさせた。クロを避けている生徒は学校の殆どを占めているし、他の先生方と話している姿も見たことがない。

「…あなたには、感情があるの?」

「いえ、これもどうせプログラムされた考えです。」

「……そう。」

その場で黙り込むひまりを置いてスタスタと歩いていくクロの後ろ姿を、見えなくなるまでぼんやりと眺めていた。感情とはなんだろう。プログラムされた考えは感情のは呼べないのだろうか。それを言ってしまうのなら、リンにも感情はないということになってしまわないのだろうか。リンの陽茉莉への言葉は感情有りきでは無いのだろうか。

結局中庭には行くことが出来なかったので、グループトークに謝罪のメッセージを入れて、授業の直前に芙優には直接謝った。緒音には明日直接謝ろう。思えば芙優と緒音が2人でいるところなんて殆ど見たことがないけれど二人だとどんな話をするのだろうか。

五限目は数学の授業だった。昼食を食べ損ねてしまったので空きっ腹のまま数学の問題に向き合う。アンドロイド研究を代表とする先端技術産業を政府は推進しているために数年前から学生が習う数学の難易度はかなり上がった。いや、クロの話だと推進していた。と過去形になるのが正解だろうか。それとも止めるのはアンドロイド研究だけなのだろうか。提示された問題をクラスの皆が真剣に解いている間、昔から数学だけは大得意な陽茉莉は一足先にアンダーラインを引き終えてぼんやりと外を眺めていた。今日は体育を行っているわけでもなく運動場には誰もいない。窓から差し込む太陽光が心地よくて陽茉莉は先生から隠れられる位置で目を閉じた。

これからアンドロイドはどうなってしまうのだろう。クロの口ぶり的に欠陥のあるアンドロイドは全て処分されてしまいそうだ。リンは瑛里が作成したFE型だし、少なくとも陽茉莉が分かる欠陥も見受けられない。下手なことさえしなければリンが処分対象になることはないはず。けれどアンドロイドデモが過激になっているのは事実だ。実際には見ていないが、ネットニュースでは何度もトップニュースで出てくるようになった。それもかなりデモに対して好意的な文面で。メディアの割に随分と自我を出す記者が執筆しているようで陽茉莉は読む度に不快な気持ちになる。客観的な視点を必要とするニュースこそアンドロイドにさせるべきだと思うがそうは上手くいかないらしい。デモごときに屈して全アンドロイド強制処分とはならないだろうが、民衆のアンドロイドへの嫌悪感が高まって実質的な外出禁止令が出る可能性はある。リンに被害がいかなければ充分だ。それ以前に瑛里はどうなるのだろう。今何をしているのかは今晩リンに聞くとして、瑛里はアンドロイド研究所の所長をしている。名前は世間一般には広まっていないものの、市民のアンドロイドへのヘイト感情が高まったら昨今の情報化社会では特定されるのも時間の問題だ。今安全な場所にいるのなら無理に家に帰ってきてもらう必要も無いのかもしれない。

斜め前に座って数学の問題にうんうん唸っている芙優を見て心を決める。芙優には、何も伝えない。アンドロイド関連の話で不安がらせたくないし、リンと会えることもないのにわざわざ伝える必要もない。隠し事と呼べるほど普段リンの話はしていないから芙優に不思議がられることも無いだろう。リンが今のアンドロイドの現状についてどれくらい知っているのかは分からないから、色々と話し合わないと。すべきことは多い。暖かい太陽の下で、リンの体温が恋しくなった。


ホームルームを終え下校のチャイムが鳴り、一人きりはならないように他の帰宅部の生徒たちに混ざって駅へ向かう。念の為言っておくが陽茉莉は緒音と芙優以外に友達がいない訳では無い。帰宅部には元々一匹狼が多いのである。駅について電車に揺られながらリンに駅に着く時間をメッセージで送っておいた。駅前で起きることが多いアンドロイドデモだけが心配だが、陽茉莉が安全ではないことも事実だしきっと優しいリンは陽茉莉のことを迎えに行きたいと言うだろう。アンドロイドデモが行われていないことか、リンの人間としてのクオリティを信じることしか出来ない。電車が到着すると同時にリンから『ついたよ。』とのメッセージが来て駆け足で出口へ向かう。駅前の方面から特にデモ特有の騒ぎ声は聞こえなくて心のなかで安堵の息を吐いた。

「リン!」

駅前の広場の象徴となっている人型の彫像の横に立っていたリンに向かって手を振る。リンは朝とは違いグレーのパーカーと黒のスキニーパンツに着替えていた。陽茉莉を見つけてにっこりと嬉しそうに笑うリンに思わずお姉ちゃんと呼びかけたくなった。

「ひま、学校お疲れ様。」

「リンもわざわざありがとうね。…大丈夫だった?」

明言するのははばかられてそれとなく遠回しに聞くとリンは神妙な表情で頷く。

「私は大丈夫よ。早く帰りましょう。」

先に歩き出すリンの手をぎゅっと握るとリンは一度目を大きく見開いたあと優しく握り返してくれた。高校生でも姉妹であれば手を繋いでいても変では無いだろう。リンに話したいことは沢山あるけれど、帰宅しながら話せる話では残念ながらなくて、リンも話題を作る方ではないから二人とも無言で帰り道を歩く。沈黙が流れているのにどこか心地よい。キョウがいた路地裏に通りがかって何の気なしに覗き込む。するとそこには朝には無かったはずの『Android, Get out !』という内容の落書きが書かれていた。背筋に薄ら寒いものが走りリンの手を握る力を強くする。

「これ、キョウがいることがわかって書かれたんじゃない、よね?」

「この辺りの他の路地裏とか橋の下に描いてあるのを見たことがあるから偶然だと思うわ。」

リンが流し目で落書きを見る。陽茉莉はリンの言葉を咀嚼した後何度か瞬いた。

「待って、見たことあるの?」

リンはてっきり家から出ずに家にいると思っていた。アンドロイドデモが行われているというのにわざわざ橋の下まで行ったということだろうか。

「ごめんね。ネットニュースで見て少し気になっちゃって、もちろん基本は家にいるわよ。」

「それならいいけど……」

リンのイタズラっぽい笑みに閉口してしまう。そう言えば昔のリンは危険を顧みないタイプのアンドロイドだった。危なっかしいことには陽茉莉が行く前に自分から飛び込んでみるタイプだ。リンの外出の件は一度置いておいて改めて落書きを観察する。赤いスプレーで描かれたそれは随分と乱れた文体をしていた。陽茉莉が見ていないだけでこうした落書きは以前からあったのだろうか。不注意で気づいていなかったかもしれない事実に少し落ち込む陽茉莉の隣でリンが小声で呟く。

「…出ていけって、一体どこへ?」

上手いこと反応を返すことができなくて、リンの囁きは風へと飛ばされる。言葉の代わりに陽茉莉はリンの腕ごと体を強く抱きこんだ。


家に帰宅して汗が滲んだ手を離す。リンの温もりが名残惜しかったけれど、お風呂に入るよう促されて何も言わずにキッチンに行くリンを見送った。手をグーパークーパーとさせるとリンの温もりなんてすぐに消えてしまうような気がした。湯船に浸かって熱気を得てもそれはリンの温もりの代わりにはならない。お風呂から上がってリンの作った夕食を食べながらスマホを弄る。行儀が悪いのは許して欲しい。見ようとしているのは普段陽茉莉は殆ど使わないSNSだった。信憑性がない上にアンドロイドに関する悪い言葉ばかりが目に入ってきてしまうからだ。人間はマイナスの言葉ばかり文字にしてプラスの意見は発信しようとしない。アンドロイドに関して好意的な感情を持っている人もいるはずなのに。一応アカウントだけは作っているアプリに久しぶりのログインをして慣れない手つきで検索窓に『アンドロイド』と入力する。すると1番上に出てきたのは『カフェに勤務していたアンドロイドが解雇へ 新政策施行以降初』というニュースアカウントが投稿した記事。茶色いお団子ヘアに黄土色の制服。見覚えのある姿にひまりはオムライスをすくっていたスプーンを落として口元を抑えた。

「た、タキ……?」

慌ててタップしてニュース名の下に表示された写真に写っていたのは紛れもないバイトの同僚であるタキだった。

「どうしたの?ひま。」

カシャンと鳴った食器の音のせいか、心配そうなリンが手をふきんで拭きながらキッチンから出てくる。

「いや、知ってるアンドロイドがニュースに出てて。」

近づいてきたリンにスマホの画面を見せると、リンはそのニュースを見て顔を顰めた。

「アンドロイドが解雇……ひまのバイト先なの?」

「そう。…まさかこんなことになるなんて。」

いつ解雇されたのだろう。解雇されるという話すら聞いていない。この前バイトに行った際タキ用のロッカーが残っていたかどうかを思い出そうとしたが無理だった。シフトに入っていないことはわかっていたけれど。今度店長に聞いてみるしかない。スクロールするもアンドロイドだからかタキ本人の載っている情報は少ない。タキという名前ではなく識別番号として『MA型30022173』という文字列が書かれていた。聞き及んだばかりの言葉に世に出ていなかっただけで型名は公開しても良いものだったのかと陽茉莉は驚いた。クロの言っていることは本当だったらしい。客とのいざこざの一部始終が書かれていたが一体どこから情報を仕入れたのか誰が見てもアンドロイドが悪者であるように感じる文章で陽茉莉は途中で見るのをやめた。陽茉莉の元には事情聴取の話すら来ていないというのに。一番最後の行には端的に『中枢部を回収後本体は処分予定』とだけ書かれている。

「…処分。」

思わず声に出してしまう。クロと話したばかりの、陽茉莉が一番聞きたくないワードだった。もしかして今日クロが話していた問題を起こしたアンドロイドというのはタキのことなのではないだろうか。リンはその二文字の言葉を無表情に見つめている。

「…でしょうね。」

「でもリン。タキはちょっとお客さんと揉めちゃっただけなんだよ?」

仕事が出来ない訳でもない。客との問題行為だってこの記事ではあからさまにアンドロイドが加害者であるように書かれているが、実際は客が勝手に怒っただけでタキは水をかけられた被害者だ。その場にいた女子高生の話を陽茉莉は聞いている。陽茉莉の訴えにリンは静かに首を横に振った。

「アンドロイドに求められているのは人間への絶対服従。本当に人間に害を与えたかどうかは関係ないの。害を与えたかもしれないという勘違いを人間に与えてしまったことが問題なのよ。」

リンの言葉にゾッとした。ただの勘違いで?そんなのやろうと思えばいくらでもアンドロイドを追い詰めることができてしまうじゃないか。

「そんなに、厳しいの?」

「きっと最近までは違ったわ。アンドロイドの欠陥が目に見えてきて、アンドロイドデモが広がることで公的機関も動かざるを得なくなったのでしょう。」

リンが教えてくれる内容は今日クロに言われたことと全く同じだった。本当にアンドロイドには欠陥があるのだ。クロの話では九割のアンドロイドに。

「これからアンドロイドはどうなっちゃうのかな。…その、お母さんはアンドロイド研究を辞めたんでしょ?」

「!ど、どうして知ってるの。」

リンが目を丸くしてわかりやすく狼狽えた。やはり瑛里が仕事を辞めたことはリンも知っていたらしい。どうして陽茉莉には教えてくれなかったのだろう。不満だし気にもなったが、狼狽しているリンには聞くことができなかった。

「クロ…学校で働いてるアンドロイドが教えてくれたの。リンのことも知ってたよ。」

「……なるほど。政府のアンドロイドなら知っててもおかしくないわね。」

人差し指を顎に当てて合点が入ったようにリンは頷いた。リンはクロのことを知らないのにクロはリンのことを一方的に知っているなんてなんだか変な話だ。

「それで、これからどうなるの?リンがいなくなっちゃうなんてことは、ないよね。」

思わず隠していたはずの不安が零れて咄嗟に手を握ると安心させるようにリンが笑顔を見せて陽茉莉の頭を撫でる。

「大丈夫よ。…話が長くなるから先に夕飯食べ終わっちゃって。今日もひまの部屋で話しましょう。寝かしつけてあげる。」

頭を撫でる手に安心して目を瞑る。もう一度手に取ったスプーンで掬ったオムライスは少し冷めてしまっていたけれど、味は変わらず美味しいままだった。


少し遅くなってしまったけれど、夕食を食べ終えて急いで歯磨きを終わらせるとリンと一緒に自室に行く。昨日のように寝落ちしてしまいたくないので、今日はリンと並んでベッドに座った。うさぎ型のクッションを膝の上に抱え込む。

「そういえば、昨日はごめんね。用事があるって言ってたのに。」

「大丈夫よ。気にしないで。」

リンがまた陽茉莉の髪の毛を撫でる。愛用しているシャンプーのおかげか髪の毛がサラサラしている自信はあるからリンは陽茉莉の髪が好きなのかもしれない。

「それで、教えてくれる?」

「…アンドロイドがこれからどうなるのか?」

「それもだけど、思えば私ってお母さんの娘なのにアンドロイドのこと全然知らないなって思って。」

瑛里と会う機会が少ないと意識が薄れてしまっていたが、陽茉莉はアンドロイド研究のオーソリティである瑛里の娘なのだ。加えてFE型であるリンと共に生きているというのに、今まで知っていたアンドロイドに関する情報はは世間一般に出回っている誰でも知ることができる情報ばかりで、キョウかクロに聞いてやっと知ることができた情報は沢山ある。他の人よりもアンドロイドと関わっていた時間は長いのに陽茉莉はアンドロイドについて何も知らないのだ。

「それも…そうね。」

「まあしょうがないんだけどね。お母さんとは全然会えてないし、リンとはちゃんと話せなくなっちゃったし。」

「…ごめんね。」

申し訳なさそうに顔を伏せるリンを抱きしめる。どうしても批判的な話し方をしてしまったが、リンは何も悪くない。

「ううん。いいよ。だから、教えてくれる?」

「ええ、でも、何から話したらいいのか。」

以前と比べたらかなりの情報を得ている自覚はあるが、結局クロからもキョウからも満足するだけの情報は得られなかった。なんならキョウが全て本当のことを教えてくれていたかどうかも真偽不明だ。

「それじゃあ私の質問に答えてよ。まずアンドロイドの型?について知りたいんだけど。MA型とかFE型があるんでしょ?」

クロの話だしネットニュースでも明記されていたから信憑性はあるけれど詳しいことはわからない。クロの型とリンの型が新旧ではっきりと分かれていることしかクロの話ではわからなかった。リンは一つ頷いて口を開いた。

「MA型は自立思考型アンドロイド、FE型は完全自立思考型アンドロイドのこと。明確に区別されている点は、所謂人間と似た感情があるかどうか。私たちFE型には感情とよく似たものがあると言われてる。プログラムされただけだから人間と全く同じとは言えないけどね。」

ということは今日クロが言っていた「プログラムされた考え」というのはリンが持っているものとは明確に区別されているということか。リンのものは感情と受け止めても良いのだろうか。

「…キョウもそれなの?」

「分からないけど、多分ね。その組織は作成したアンドロイドに明確な型分けはしていなかったみたいだから。多分識別番号も存在していないわ。、」

キョウもリンのように本物の人間に近しい行動がとれていた。片眉を上げたり舌打ちをしたり。クロもやろうと思えばできそうではあったけれど、キョウはそうした動きを自らできているようだった。

「組織って結局なんなの?」

「私も詳しいことは知らないの。結構規模の大きな組織だったらしくて情報は厳重に保護されているから。」

キョウレベルのアンドロイドを作れるのだから当然大きいに決まっているだろう。それだけ大きい組織が解体されてキョウと同レベルの幾人かのアンドロイドが逃走しているという事実が怖い。キョウのことはアンドロイドであると見破れたけれど他のアンドロイドのことはアンドロイドであると分からなかったらどうしよう。対策のしようがない。

「そういう情報ってどこから手に入れてるの?」

「常時アンドロイド研究所のデータベースにアクセスしているの。まあアンドロイドに明かせることだけしか分からないけど…」

リンの口ぶり的に研究所の人間が想定しているアンドロイドの立場はかなり弱い。そんなアンドロイドが知っている情報がこれということは、人間が持っている情報はもっと膨大な可能性がある。それどころか人間に嘘の情報を流されている可能性もあるのだろうか。研究所の人間からすればアンドロイドへの情操教育なんて簡単にできてしまう。人間、それもアンドロイド研究で権威がある人間であれば組織について詳しく知っているのかもしれない。例えば、研究所の所長をしていた瑛里とか。

「そういえば、お母さんって今何をしてるのかリンは知ってるの?」

「そうね……退職するとしか聞いてないけれど、引き継ぎに追われてるんじゃないのかしら。瑛里様は所長だったからまず後任を探す必要があるし、新鋭産業だから引き継ぎの前例もないもの。瑛里様に続いて何人か研究者も辞めたと聞くし、大変なのは想像に固くないわ。」

少し考え込んだ後リンは首を傾げながら教えてくれた。アンドロイド研究は殆どが機密事項として厳重に保護されているので、陽茉莉の認識は大方『なんか凄そう。』くらいのアバウトなものでしかない。退職する際の手続きなんてものは尚更まだ高校生の陽茉莉は知らないのでそういうものなのかもしれない。瑛里が忙しくしているかもしれないのに心の中で不満を言ってしまっていたと気がついて陽茉莉は罪悪感を感じた。

「でもさすがに近いうちに戻ってくるんじゃないかしら。」

「…そうだよね。」

弱々しい言葉が口から出る。瑛里の記憶なんてもううろ覚えだった。言い訳だけれどもう一年も会っていないのだ。その一年前だって家に荷物を取りに来た瑛里と会話とも呼べない挨拶くらいしていない。その前に会ったのはいつだっただろう。なんにせよまともに会話ができた最後の日はもう数年前となることは事実だ。それでも陽茉莉は瑛里の姿を忘れたことは一度だってない。写真があるからというのはもちろんだが、瑛里の優しい笑顔を陽茉莉はいつだって鮮明に思い返すことができる。陽茉莉の大好きなお母さんだ。最近久方ぶりにリンと言葉をきちんと交わせるようになったばかりでわがままかもしれないが、今度は瑛里に会いたいと思った。

「リンのことは、お母さんが作ったんだよね。他にもお母さんがつくったアンドロイドっているの?」

「MA型は他にも何体かいると思うわ。FE型は多分私だけ。予算の関係上そんなに作れないから。違法アンドロイドを覗いたらこの国には数体しかいないはず。」

リン以外には見たことがないとは思っていたけれど、国レベルで数体しかいないのであれば仕方ない。陽茉莉が想像していたよりもリンがここにいることは奇跡なのかもしれない。そしてキョウが作られていることも。

「FE型のその次っていないの?」

「うーん……………」

リンが大きく首を捻る。きっと知らないのだとは思うが、知らないとなった時に「わからない」ではなくきちんと考えて意見をくれることがリンの好きなところだ。MA型にはそれがない。

「いない、と思う。その研究が上手くいかないから政府は踏ん切りをつけたわけだし。」

「そっか。」

FE型よりも格上となれば予算もさらに膨れ上がるだろうし、まずリンよりも格上のアンドロイドというのが想像できない。能力で言えば人間を圧倒的に上回っているし、人間そっくりの振る舞いもできる。陽茉莉から見れば十分すぎるように思えた。

「クロがね、自分は欠陥品だからもうすぐ処分されるって言ってたの。これからどうなるのかなあ。」

陽茉莉の頭に悲しげな表情を浮かべたクロがよぎる。覚悟があったとしても処分されるなんて怖いだろう。こればっかりは「仕方の無いこと」だと言っていたキョウとは違うが、なんだか神経図太そうなキョウとクロは違うのだろう。

「…分からない。けど、新政策が世間から不評なのは事実ね。ニュースにこそなってないけどSNSだと働いてるアンドロイドへの不満みたいなものがボロボロ出てくるから。」

そう言えば先程SNSでのアンドロイドの評判を知ろうと調べたのに、ネットニュースを見つけてしまい本来の目的を完全に忘れてしまっていた。また明日調べ直してみなくては。

「クロは新政策で作られたアンドロイドの九割に欠陥があるって言ってたけどなんでそんなに多いの?」

「結局のところMA型を作るプログラムですらきちんと確立されていないのよ。それなのによく確認もせず本体に埋め込むんだからこうなるのは当然よね。せめて政府も機械での量産が可能になってからにすれば良かったのに。」

淡々とした話し方にふと疑問が募る。リンはアンドロイドのことを本当に機械だと思っているみたいだ。

「リンは、アンドロイドが処分されることはどう思ってるの?」

「…仕方の無いこと、だと思うわ。」

途端に落ちた言葉に陽茉莉は二の句が告げず黙り込む。キョウと同じことを言っているのに温度感がまるで違う。

「アンドロイドは人間のモノだもの。私も覚悟しているわ。……ひまに会えなくなるのは悲しいけどね。」

リンの暗く沈んだ瞳を見ていられなくて体に腕を回す。ぎゅうぎゅうと抱きしめているとリンがクスリと笑った。ずっとリンが笑ってくれていたら良いのに。

「大丈夫よ。今のところ処分される予定はないから。」

何も言えない陽茉莉を抱きしめてリンはベッドに寝転がる。処分されかけたら逃げてよ。と言いたかった。我儘をリンに言いたかった。人間に置き換えると明確に分かる。大切な人は生きてさえいれば良いのだ。

「辛い話をしたわね。もう寝ましょう。」

「……うん。」

リンの温もりが温かい。今晩も唄ってくれた控えめな子守唄に陽茉莉の意識は直ぐに落ちていった。リンの笑顔を脳裏に焼き付けて。


朝日を浴びる感触に意識が浮上して瞼をあけると、目の前にリンの顔があった。夜の間ずっと一緒にいてくれたようだ。目を閉じて寝息を立てていて、本当に寝ているかのようだ。陽茉莉に合わせてスリープモードにしてくれているのだろう。わざわざそんなことをしなくても適当なタイミングで出ていってくれても構わなかったのにと思ったが、陽茉莉が腕でリンの体をがっちりと抱き込んでいたせいで出られなかったようだ。申し訳ないけれどリンがいてくれたことが嬉しい。こんな光景を見るのも久しぶりでなんとなくそのままリンの顔を眺めていると唐突にリンがパチリと目を開けた。

「わっ」

「ふふ、ひまったらずっと私のことを見てたの?」

陽茉莉が寝起きの目を丸くして驚くと、寝起きでは無いからか明瞭な声色でリンが笑った。もしこれが寝起きならとんでもなく爽やかだ。

「おはようリン。…なんだか久しぶりだなって思って。」

「そうね。まだ早いからもう少し寝てていいけどどうする?」

いつも陽茉莉よりも一足先に起きて朝ごはんとお弁当を作ってくれるリンが起きる時間だから陽茉莉が起きるにはまだ早い。けれど先程までリンを眺めていた陽茉莉の目は完全に覚めてしまっていた。

「うーん。ちょっと勉強しようかな。」

「わかった。朝食作ってくるわね。」

テストが終わったといえ最近学校以外で全く勉強ができていない。陽茉莉は数学は大得意だが、それ以外の教科は得意という程でもないので最低限の勉強くらいはしておきたいところだ。

部屋を出ていくリンを見送って制服に着替える。ハンガーラックから白シャツを取り出そうとすると、昨日までは無かった失くしたと思い込んでいたカーディガンがブレザーの隣にかかっていることに気がついた。リンが探してくれたのか。一体いつの間に、このぐちゃぐちゃな部屋のどこから。今季1番寒い時期を陽茉莉はカーディガン無しで乗り越え、春の陽気が溢れてそろそろカーディガンの要らない季節となって来たが、折角リンが探してくれたものなので紺色のカーディガンを身に纏う。洗面所に向かう前にリンにお礼を言おうと思ったがキッチンを覗くとリンが包丁を握っている最中だったのでやめておいた。

陽茉莉が身支度と学校の用意を終え勉強という名のテスト直しをしていると部屋の扉がノックされる。ちなみに陽茉莉は普通の宿題もテスト直しも提出ギリギリの休み時間に焦りながら芙優に頼ってやるタイプなので前もって終わらせようとしているのはかなり珍しいことだと言える。

「はーい!」

「ひま、朝ごはんが出来たから切りが良いところでいらっしゃい。」

リンの言葉にグイッと伸びをしてから立ち上がる。朝に勉強をするなんて一体いつぶりだろう。もしかしたら人生初かもしれない。なんだかいつもよりも頭がすっきりしている気がするので、勉強は夜よりも朝やる方が良いというのは本当かもしれない。これからリンに起こして貰って頑張って朝勉強してみようか。

「勉強は捗った?ひま。」

リビングに入るとテーブルセッティングをしているリンにそう話しかけられる。今日の朝ごはんは卵焼きだ。

「うん。朝勉強するっていいね。」

「それなら良かった。……そういえば、昨日お弁当に中身が入ったままだったんだけど…」

申し訳なさそうなリンの表情。陽茉莉はやっとお弁当の存在を思い出して慌てて首を横に振った。

「ち、違う違う!リンのご飯がダメだったんじゃなくて、昨日は昼休みに先生に呼び出されて、それで……」

お弁当が美味しくなかったから残したのだと勘違いをされているのではないだろうか。そんなことはないのに。リンのご飯はいつだって美味しい。学校から帰宅する前に急いで食べておくべきだった。リンの悲しい表情を見たくないと決めたはずなのに陽茉莉がリンを悲しませてどうする。陽茉莉が慌てて言葉を選んでいるとリンがふはっと吹き出した。

「ふふっ、分かってるわよ。そこまで焦らないで。」

「そ、そうだよね…」

どうやら陽茉莉を揶揄う意図もあったらしい。言い返したいところだがお弁当を食べなかったのは陽茉莉なので申し訳ない以外の感情が浮かばない。

「今日も作っておいたからね。ほら、さっさと朝ごはん食べちゃって。」

「う、うん。ありがとうリン。」

促されてテーブルにつく。朝ごはんの隣にはいつものようにお弁当箱が置かれていた。絶対に今日は何がなんでも弁当を食べてやると陽茉莉は心に決めて朝ごはんを食べようと手を合わせた。

学校に行く用意を終えて玄関先でローファーに履き替えていると同じく用意を終えたらしいリンがスタスタと歩いてきた。今日は黒いオーバーサイズのパーカーを着ている。

「…リンってパーカー好きなの?」

「え?」

リンはさっき気がつきましたと言うように自分の身体を見回した。昨日も似たようなパーカーを着ていた気がする。

「いや、いつものワンピース以外にはパーカーしか見たことないから。」

「だってファッションとかよくわからないし…」

リンはアンドロイドなので人間基準で言うスタイルが良い姿なのだがどうやらおしゃれに関するプログラムはされていないらしい。それとも元々興味がないだけか。宝の持ち腐れというやつだろう。

「今度私がコーディネートしてあげよっか。」

「…ひまもそこまでファッション好きじゃないでしょう。」

リンにジト目でそう言われて今度は自分の休日の格好を思い出す。バイトに行く時はまあ適当でもいいとして、この前芙優と緒音と出かけた時は…確かに以前緒音と一緒にアパレルショップに行った際選んでもらった服だ。しかも上は普通のパーカーだった。リンに言い返すすべがなくて頬を膨らませた陽茉莉を見てリンは耐えられないというように笑い出す。

「ふふっ、あははっ」

「もうっ!早く行くよ!」

「はーい。」

未だに思い出し笑いを続けるリンの腕を引っ張って陽茉莉は家を出た。北風はまだ吹いていたけれどカーディガンのおかげでそこまで寒くはない。女子高校生根性で露出している足は寒いがもう慣れたものだ。並んで歩いているとふと思い出したことがあり、陽茉莉は歩きながらリンに問いかけた。

「そうだ。リンのことって芙優とかに話してもいいの?」

「あー、…ひまのお友達?」

リンの言葉にこくこくと頷く。芙優のことをリンに話したことはあっただろうか。多分多少はあるだろう。昨日リンのことは必要以上に話すことはやめようと決めたばかりだけど、リンが大丈夫と言うのなら話したい。芙優は優しい子だから口止めしたらきちんと守ってくれるはずだ。

「アンドロイドに理解がある子なら別に良いけど…まあひまが話したいなら話しても良いわよ。」

「り、理解がある子か……」

芙優にアンドロイドへの理解があるかと言われたら首を傾げてしまうのが現状だ。MA型としか話したことがないのは事実だけど、アンドロイド自体に対しての苦手意識はすでに植え付けられてしまっているような気がする。昨日聞けなかったから今日今一度アンドロイドに関してどう思っているのかを聞いてみるのが良いかもしれない。もしかしたらそれ以前に昨日の昼休みに緒音が何かリンについて話しているかもしれない。

陽茉莉が考えに深けて黙り込むと、特にそれ以上会話が発生することはなく無言のまま駅についた。昨日よりも早くついたから緒音はまだ来ていない。

「それじゃあ、リン気をつけてね。」

「うん。ひまもね。」

最後にリンに頭をくしゃりと撫でられてハグをした後陽茉莉は駅構内に足を進めた。

改札付近に近づいたところで、陽茉莉はあることに気がついて人の流れに逆らってふと足を止める。

「……あれ?」

いつも決まった笑顔で改札横の駅員室にいるアンドロイドのお兄さんがいない。代わりに見慣れない人間のおじさんがぶすっとした表情で立っていた。アンドロイドが病気になることなんてないし、休日も設定されていない。どうしていないのだろう。胸の内に一抹の不安がよぎる。気にはなったけれどわざわざそれを駅員の人に聞く理由を思いつかなかった陽茉莉は不安な気持ちのまま改札を通りすぎた。三番ホームに辿りついて陽茉莉はすぐに鞄からスマホを取り出す。ネットニュースの一番上に真っ先に飛び出した記事を見て思わず息を呑んだ。

『接客アンドロイドを筆頭にアンドロイドの解雇進む 市民からの要望多数』

陽茉莉の不安は当たってしまった。いつもの駅員のアンドロイドは解雇されてしまったのだ。記事をスクロールして細かいところまで読み込む。タキの一件があったせいでアンドロイドの解雇が可能だと判断したアンドロイド反対派の民衆がアンドロイドを雇用している会社に片っ端からクレームをいれたようだった。前から多数くる苦情に辟易してアンドロイドを持て余していた企業側はクレームを利用して自社のアンドロイドを解雇する大義名分を得たわけだ。人間の都合で、そんな簡単に?タキのニュースが出てからまだ一晩しか経っていない。解雇されたアンドロイドはどうなってしまうのだろう。昨日とは違って記事にはアンドロイドのその後の処遇は書かれていなかった。陽茉莉の想像する最悪の事態とは違うのか、それとも処遇なんて書く価値がないと考えられているのか。そうしたらクロはどうなっているのだろう。昨日今日で解雇なんてされていないと信じたいが、駅員のお兄さんは昨日もいたというのにいなくなっている。もしかしたら、が現実的にあるかもしれない。クロに不満を持っている生徒は少なくない。陽茉莉が一人不安に苛まれていると突然肩をぎゅっと掴まれて陽茉莉は身体を文字通り飛び跳ねさせた。

「うわあっ!お、緒音!?」

振り向くとそこにいたのは悪戯っぽい顔をして手を猫の形にする緒音だった。陽茉莉のいつにない大声を聞いて緒音も驚いたように目を白黒とさせている。

「びっ、くりした……陽茉莉どうしたの。考え事?」

「う、うん。そんな感じ…」

咄嗟にスマホの画面を緒音から隠すように胸に抑える。どんな反応をされるかわからなくて少し怖かったのだ。緒音は不思議そうな顔をしながらも何も言わずに陽茉莉の隣に並んでくれた。

「そっ、そういえば、昨日の昼休みはごめんね。先生に呼び出されちゃって。」

「あー、大丈夫大丈夫。陽茉莉こそ大丈夫?クロ先生に呼び出されたんでしょ?」

誤魔化すように話題を提供すると、緒音の話し方からクロへの疑心暗鬼が読み取れて、スマホの画面を隠して良かったと心の中の陽茉莉が安堵した。トップニュースとなっているからすでに知っていそうな気もしないでもないけれど、目の前でニュースを見られてどういう顔をしたら良いのかわからない。

「大丈夫だよ。クロ先生はいい人……いや、いいアンドロイドだよ。」

「そっか、まあ陽茉莉がいいならいいけどさ。」

陽茉莉の言葉は全てリンを庇うように聞こえてしまうだろうか。緒音の返事が少なくともクロのことは信用しているようには聞こえない。リンだけではダメだ。それを聞いていられなかった陽茉莉は急いで会話を変えた。


結論から言うと、学校にクロはいなかった。朝から何かおかしいとは思っていたのだ。いつも朝休み中は学校内を回って生徒に挨拶をしているクロを見かけず、化学の授業に人間の先生が来たのが決定打だった。授業終わりの先生を呼び止めて問題の質問をしながらそれとなく聞いてみれば、先生陣も詳しくは知らず朝一番にもうクロは来ないということだけを伝えられたらしい。授業の用意とかをしていなかったから焦ったよ。という中身のない愚痴を陽茉莉は聞き流した。

昼休み、昨日のように陽茉莉を引き止めてくるアンドロイドなんていないのでいつものように芙優と中庭へ向かう。いやいつものようにではない。朝からずっと陽茉莉は気が重い。

「陽茉莉、なんだかずっと元気ないけど大丈夫?」

「朝からだよね。保健室行く?」

隣に座る芙優と緒音に顔を覗き込まれて陽茉莉は力無く首を横に振る。思い当たる節はいくらでもあるが簡単に話せることじゃない。二人はリンの言うところの理解のない側の人間だ。

「大丈夫、気にしないで。」

納得がいかないというように眉を下げたままの芙優とは対照的に緒音は陽茉莉から離れて大きく息をついた。

「ま、言いたくないなら聞かないけど、話ならいつでも聞くからね。」

「ありがとう。」

緒音の言葉とそれにつられて何度も頷く芙優に力なく笑いかける。本当に陽茉莉は良い友達に恵まれた。話せないことが心から申し訳なく思った。

「そういえば、最近逢和先輩とどうなの?」

「え、逢和先輩?」

陽茉莉がリンのお弁当を食べてなんとか元気を取り戻し始めていた頃、芙優から出てきた質問に陽茉莉は少し面食らう。最近アンドロイド関連でいろいろありすぎて逢和のことを考える機会が全くなかった。

「確かに。最近陽茉莉から逢和先輩の話全然聞かないね。」

「だって……普段関わる機会なんてないし。」

慌てて考えた言い訳がましいかもしれないがこれは事実だった。高校生で学年が違い部活も違うとなれば関わる機会なんてゼロに等しい。以前二人に話していたことだって、偶然見かけたとか挨拶できたとかそのくらいのものだ。少女漫画とは程遠い。

「なーんだ。陽茉莉の話聞くの好きだったのに。」

「私も。」

「もう、二人こそないの??」

無いと言いきられたためつまらなそうに陽茉莉から顔を離す二人に逆に問いかけると二人はきょとんとした顔をする。二人は陽茉莉を弄ることに関しては息が良い。

「えー、私は無いよ。」

「私も。」

二人の方がよっぽどつまらないではないかと陽茉莉は思う。勝手に青春に夢見ている陽茉莉は高校生は恋愛をした方が良いのではという偏見があるのだ。

「じゃあ言わないでよ。」

陽茉莉がお巫山戯口調で文句を言うと二人も声に出して笑い始めた。


クロがいないこと以外は至って平凡な学校生活で、そのクロも昨日が例外だっただけで普段は全く話すことはないため、概ね本日は陽茉莉にとって普通の日であると言えた。

けれどそれは帰りのホームルームで一瞬にして覆った。

「昨日幣校の通学区内で誘拐事件が起こりました。被害者は隣区の中学校に在籍している中学2年生。犯行声明は出されておらず、目的は不明。目撃者の話では被害者が猫を追いかけて路地裏へ入ったところ出てこなかったと証言しているそうです。警察による周辺のパトロールは増やしてもらいますが、この事件で外出する住民も減ると考えられますので絶対に1人で帰宅することはないように。心配な人は親御さんに車で迎えに来てもらってください。」

担任の先生によって淡々と読み上げられた文章。ガヤガヤとうるさくなるクラスの中で、誘拐、路地裏、どこか聞いたことのあるワードに陽茉莉の頭をよぎったのはただ一人。キョウその人だった。以前リンから違法アンドロイドによる人身売買の話を聞いた時は怯えこそしたものの誘拐なんて言葉あまりにも平和な世界を生きていた陽茉莉には現実味がなくて話半分だった。けれどこうして、実際に事件が起きている。被害者は中学生となっているが、陽茉莉の身に起こる可能性があった未来だ。もちろん本当にアンドロイドがしたことだなんて確証はない。ただの人間の誘拐犯の可能性も捨てきれない。しかし先生の口ぶりから犯人の特徴は何もわかっていないことが読み取れた。最近この地区一帯で街頭防犯カメラが増設されたばかりなのに、犯人の服装や背格好すらわからないなんてそんなことあるだろうか。そんな芸当ができる人間なんて陽茉莉は知らない。アンドロイドしかいない。そう、例えばキョウのようなFE型であれば。あれほどの身体能力があれば。分からないがアンドロイドであれば少し防犯カメラを操ることくらいできたりしないのだろうか。防犯カメラを設置した市の職員はFE型アンドロイドなんてもの知らないだろう。キョウがあのよく分からない薬品を入れた注射器を常備しているということは普段から何かしらの犯罪に手を染めているのだろう。それなのにこれまで警察に捕まっていなかったのだから普通の学生の誘拐なんて造作もないはず。もしかして陽茉莉が知らないだけで他にも誘拐事件は起きているのだろうか。スカートを握りしめる陽茉莉の手に汗が滲んだ。どうしよう。キョウは陽茉莉を狙うだろうか。いやキョウだと言う確信もない。何体かは知らないがキョウ以外の違法アンドロイドだっているとリンは言っていた。そのうちの一体がこの辺にいたとしたら。陽茉莉が狙われることはあるだろうか。リンがいることはキョウくらいしか知られていないし、キョウが陽茉莉を狙ったのははただ都合が良かったからだろう。それでも元々小柄な陽茉莉はこうした犯罪被害に巻き込まれやすい。

淡々とホームルームは終わって帰宅のチャイムが鳴る。陽茉莉が昇降口でできるだけ生徒が多く帰る時に一緒に帰ることができるように待っていたら、陽茉莉の想像よりも車で迎えに来てもらった生徒は多いらしく、気がつけば帰宅部組の帰宅ラッシュは過ぎ去り乗降口は閑散とし始めていた。陽茉莉は再度焦りを感じ思考を巡らせた。部活が同時に終わるなんてことないだろうし、あるとすればそれは最終下校時刻だ。そんなの待っていられない。だからといって一人で帰ることは怖いからしたくない。公共交通機関が使えないリンに迎えに来てもらうことも無理だ。一体どうすればいい。どうしてこんなことに。手段を失った陽茉莉がただ昇降口で佇んでいると、ふと後ろに人の気配がした。ぼけっとしていた陽茉莉はその気配に気づくことに遅れる。

「陽茉莉、何してるの?」

「わっ、あ、逢和先輩!?」

本日何度目の驚きか、後ろを振り向くとそこには昼に緒音と芙優との話題に出たばかりの逢和がいた。髪色を完全に黒に染め直したようで、襟足にかかる髪の毛がよく似合っている。

「ふふっ、相変わらずだね。陽茉莉。」

驚きで身体を大きく跳ねさせた陽茉莉を見て逢和が笑う。久方ぶりに逢和の笑顔を近くで見て陽茉莉の頬が熱くなる感覚がした。名前を呼ばれただけで心臓が高鳴る。

「お、驚かさないでくださいよ……」

手を当てて冷やそうとするも手まで熱くなっていてなんの意味もない。陽茉莉は諦めてパタパタと顔を手で仰いだ。

「それで、こんなところでどうしたの?」

「えっと、実は…」

陽茉莉が色々と端折りつつ前危ない目に会いかけたから一人で帰るのが怖いことを伝えると、逢和はそれを聞いて目尻を細めて笑った。

「なるほどね。俺と一緒に帰る?」

「えっ!で、でも先輩部活は…?」

恋する乙女の陽茉莉的には願ってもない誘いだったが今までこんな恋愛ゲームのようなイベント小学生以来起こったことがないため思わず尻込みをしてしまう。

「誘拐事件があったってことで、ミーティングだけになったんだよね。俺も1人で帰るところだったし丁度いいかなって。」

「そ、そうなんですか……」

なんて良いタイミングだ。先程まで誘拐事件に怯えていた癖に現金な陽茉莉は恐怖どころか感謝したくなった。というか逢和は先生からの一人では帰らないようにの通達をガン無視するタイプだったらしい。陽茉莉の頭にはかっこいいしか浮かんでいないが。

「そ、だから一緒に帰ろ?…あ、もしかして陽茉莉彼氏とかいた?そしたら二人きりは不味いか。」

「い、いや!…恋人とかはいないです…」

小学生からの知り合いである逢和には彼氏いない歴=年齢だとばれてしまうがしょうがない。恋人がいると勘違いされるよりましだ。

「なら大丈夫だね。それじゃあ帰ろう。」

逢和が一つ頷いて先に歩き出す。恋人がいるかどうかを聞き返すタイミングを失ってしまった。一緒に帰ってくれるということはいないのだろうか。流石に恋人がいるのに女の子を送っていったりはしないだろう。女性として見られていないという可能性もあるがそうだったらかなり悲しいかもしれない。クラスの女子の間でたびたび回ってくる恋愛話をまともに聞かなかった過去の自分に文句を言いたくなった。逢和はイケメンな先輩として度々名前が上がるので恋人がいたら誰かが噂している筈だ。歩幅が大きめな逢和の歩き出すスピードについていけず慌てて逢和の後を追いかけるも隣に立つのはどうにも恥ずかしくて半歩後ろに立つことにした。

「陽茉莉って家変わってない?」

「はえ…あ、はいっ。」

「それじゃあ家の最寄りまでしか行けないけど…それでも大丈夫?」

「だっ、大丈夫です。リンが駅まで迎えに来てくれるので。」

リンの名前を聞いて逢和は一瞬陽茉莉を見て目を瞬かせた。逢和はリンと顔見知りだ。変わってしまう前のリンを知っている数少ない人の中の一人。

「リンか、懐かしいな。元気にしてる?つっても元気とかないか。」

「ふふ、元気ですよ。ちょっと話しますか?」

「いや、いいよ。その…色々あるでしょ、最近。」

逢和が気まずそうに口ごもる。何かと話題になっているニュースの話だと直ぐに気がついた。それと同時に逢和はアンドロイドへの偏見を持たずにリンのことを気にかけてくれていると気がついて嬉しくなった。

「…そうですね。」

「クロ先生もいなくなっちゃったし、何だかやるせないな。」

「…先輩はクロ先生と仲良かったんですか?」

「ん?ああ。クロ先生俺らのクラスの副担任やってたんだよ。まああんまり話しかける人はいなかったけど、リンのこと知ってるとどうしても放っておけないだろ?」

逢和の言葉に肯定しながら陽茉莉はその場から逃げ出したくなった。陽茉莉はクロ本人に話しかけられるまでリンとは違う型だからという理由で毛嫌いしていたというのに。逢和はアンドロイドというだけでクロのことを機にかけていたのか。陽茉莉はクロから話しかけてくれたから良かったものの、それがなかったら陽茉莉はずっとクロのことが苦手なままだった。やはり陽茉莉は幼い頃から憧れている逢和のような優しい人にはなれそうにない。

「だから、寂しいな。仕方ないって大人は言うんだろうけど。」

表情に滅多に見せることのない影を落とした逢和に驚いて陽茉莉は咄嗟に制服の袖を握る。握ってしまった後自分の行動に驚いたもののもう後戻りできない。

「…ん?」

「あ、いや…」

どうしてか、消えてしまいそうな気がしたのだ。逢和は人間なのに、アンドロイドの処分について話しているリンのように酷く儚く見えた。逢和は袖を摘んでいる陽茉莉の親指と人差し指を数秒見つめたあと陽茉莉の手ごと大きな手で握りこんだ。

「うぇっ、…先輩?」

無言で手を引いて陽茉莉を近くに引き寄せ、逢和は一段と声量を落として呟いた。

「でもね、泣けないんだ。」

「……え?」

「クロ先生はきっと処分される。いや、もうされたのかもしれないし、されたとしても俺には分からない。」

冬の終わりが近づいてきているというのに唇の隙間から吐く息は白く、人通りが少ない道に溶けてゆく。

「人間で言うと死んだと同じだろ?それなのに、涙が出ないんだ。あんなに仲良くしてたはずなのに。心の中ではそこまで悲しいと思ってないんだ。」

そこで1度話は切られて、数秒の沈黙が流れる。陽茉莉は歩きながら呆然と逢和を見ていた。

「やっぱり俺はクロ先生のことを、所詮はただの機械だって思ってたのかな。」

「…………」

かける言葉が見つからなかった。逢和の手を握り返して、陽茉莉は黙り込んだ。駅に辿り着くとそのまま二人は無言で改札口を通って無言で電車に乗り込んだ。口を薄く開けては閉じることを繰り返す。正直言って、陽茉莉は自信がなかったのだ。もしリンが処分された時、自分が心から悲しむことができるのかどうか。今のリンは確かに人間らしい。けれど陽茉莉の記憶の大部分を占めているのは以前のアンドロイドのような振る舞いをしていたリンだ。アンドロイドが処分されるという今となっては当たり前の現象を陽茉莉はそこまで悲しむことができるだろうか。家族だから悲しいに決まっていると思う自分だっているはずなのに、何故か自信が無い。陽茉莉はリンについて泣いたことがこれまであっただろうか。考えに耽っていたら最寄り駅には直ぐについて、陽茉莉は逢和に手を引かれて電車を降りた。

「ごめん陽茉莉。嫌なこと言ったね、俺。」

「いえっ、…いずれは考える必要があることでしたから。」

駅から出たものの、考えに気を取られていたせいでリンへの連絡が遅れてしまい彫像近くにリンの姿はなかった。逢和はどうやらリンが来るまで一緒に待ってくれるようで、赤く染った陽茉莉の耳にマフラーを巻き直してくれた。

「リンはクロ先生とは違うだろ?だからきっと、大丈夫。」

「…はい。」

ただ陽茉莉を元気づけるためだけに言ったことだとはわかっているけれど、それでも他の人にリンの存在を認められたことが陽茉莉は嬉しかった。

「ふ…陽茉莉、鼻まで赤くなってる。」

逢和に笑われて急いで鼻先を抑える。身体中が赤くなっている感覚がするけれど、それが寒さのせいなのか逢和のせいなのかわからない。天使が通り過ぎて、明るい街灯の下潤んだ陽茉莉の瞳と逢和の視線が交わった、その時

「ひまっ!」

背後から足音がして、振り返ると髪の毛が乱れたリンが白いワンピースのまま陽茉莉の元に駆け寄ってきていた。パッと逢和から手を離して陽茉莉もリンに走り寄る。

「リン!そこまで慌てて来なくてもよかったのに。」

「だってひまを1人で待たせることになると思ったから。」

そこでリンは陽茉莉の背後を見た。リンと視線があった逢和は丁寧に礼をする。

「お久しぶりです。リンさん」

「逢和くん。久しぶり。ひまのこと送ってくれたの?」

昔と変わっていないであろう逢和の態度にリンは表情を和らげる。陽茉莉も以前と変わっていない二人の関係値を見ることができて笑顔になった。

「はい。1人じゃ危ないと思って。」

「ありがとう。」

リンが頭を下げたので慌てて陽茉莉も頭を下げる。逢和は力が抜けたようにふっと笑顔を見せた。

「リンさんが来たなら大丈夫だね。俺もそろそろ帰るよ。」

「はい。先輩もお気をつけて。」

逢和はじゃっと軽く手を振ると陽茉莉たちの帰宅路とは逆方向に歩き出す。暫く逢和を見送って陽茉莉もリンに手を取られて帰路についた。

「逢和くんに会ったのは久しぶりね。」

「うん。私も今日久々に話したの。」

リンが陽茉莉を見てきょとんと首を傾げる。

「あれ、逢和くんってひまの好きな人じゃなかったの?」

「好きだからって言っても学年が違うんだから簡単に話せるわけないじゃん。」 

陽茉莉は昼休みに緒音と芙優にした説明と同じことを繰り返した。陽茉莉が逢和のことを好きになったのはリンがアンドロイドのように変わってしまうよりも前の話なので、リンは陽茉莉が逢和のことを好きでいることを詳しく知っている。と言っても逢和のことを好きになってからそう経たず変わってしまったので昔の話しか知らないが。

「そっか、……私より逢和くんのことを優先してもいいのよ?」

「え?」

リンの言葉がうまく飲み込めなくて陽茉莉は首を傾げる。陽茉莉の一番は昔も今もリンだけなのに。

「ひまには、普通に幸せになって欲しいの。」

「…私、今幸せだよ?」

何を言っているんだろう、陽茉莉はリンがいるだけで充分幸せなのに。陽茉莉の主張にリンは静かに首を横に振った。

「これからどうなるのか、私にも分からないから。……ひまには、私以外の居場所を作って欲しい。」

リンはその後「もちろん芙優ちゃんと緒音ちゃんがいることもわかってるけどね。」と続けた。逢和が慰めてくれたばかりなのにリンがいなくなるかもしれないという現実を改めて本人から突きつけられて、陽茉莉の気持ちは落ち込んだ。

「わかってる。わかってるんだけど…リンがそんなこと言わないでよ。」

「…ごめんなさい。」

二人の間に流れる空気がいつになく落ち込む。批難的な言い方すぎたかと少し後悔したけれど訂正できなかった。いつもなら心地よいはずの沈黙が苦しい。

マンションに近づいてそれまで下を向いていたリンがふと思い出したように顔を上げた。

「そうだ。言い忘れてたけど、今日瑛里様が帰ってきてるの。」

「えっ、お母さんが?」

まさかのニュースに陽茉莉は目を丸くする。瑛里が家に帰ってきている。会えなくなってからそろそろ一年経つんじゃないかといったところだ。覚えていないのでとっくに一年は経っているのかも。退職のことも知らないで、最近のアンドロイドの評判も考えてもしかしたら二度と瑛里には会えないのではとすら思っていたのに。

「なんだか体調が優れていないようだったから寝室で休んでるわ。」

「お母さん大丈夫なの?」

「多分睡眠不足だと思う。仕事に追われていたんじゃないかしら。」

リンやクロが言っていたことは本当だったのか。心のどこかで疑っていた自分がいたことに気がついて申し訳なくなった。瑛里がいると知って自然と陽茉莉は早足になる。瑛里は陽茉莉の血の繋がった唯一の親族だ。特に血族に拘りがあるわけではないけれど、母親には会いたいと思うのが素直な子供の心情だろう。リンを置いてきぼりにする勢いで家まで走る。最後まで駆け足で家まで辿り着くと、寝ているであろう瑛里を起こさないように静かに玄関の扉を開けた。

「ただいま…」

中に入るとリビングの電気がついていることに気がついた。リンが出る時に消し忘れたのだろうか。陽茉莉が勢い余って飛ばした靴を揃えてくれているリンを置いてヒョイっと部屋の中を覗き込むと、リビングのソファに腰を下ろす少し顔がやつれた見覚えのある女性がいた。

「お母さん!」

「陽茉莉…おかえりなさい。」

伸びきった茶髪をハーフアップにしている瑛里は陽茉莉を見て優しく微笑んだ。陽茉莉は勢いをつけて抱きしめたかったが、痩せ細った瑛里の姿を見てその場で踏みとどまる。

「お母さん、大丈夫なの?」

「ええ。一時は点滴で過ごしていたけど随分と体力が戻ってきたわ。帰ってこれなくてごめんなさいね。」

陽茉莉は瑛里に近づくとできるだけ優しく瑛里の身体を抱きしめた。リンが後ろから温かい視線で見守ってくれているのを感じる。仕事に追われていただけでなく入院していたのか。帰るのが遅くなるわけだ。

「いいよ。また会えてよかった。」

瑛里の優しい手が陽茉莉の後頭部を撫でる。リンとは違い確かに温もりが感じられるその体温に陽茉莉の目に涙が浮かんだ。

リンの夕食作りを待っている間、お風呂を秒で済ませた陽茉莉はソファで瑛里の隣に座ってひたすらに体を寄せていた。一年ぶりだから何を話して良いのか分からなくてただ隣に座るだけ。分からないけど話したくはあるので陽茉莉が口をぱくぱくと魚のように開閉させているとそれに気がついた瑛里はくすりと笑った。

「ずっと家を開けていた私が悪いけど、陽茉莉私に何か聞きたいことがあるんじゃない?」

「あ……うん。いいの?」

疲れているであろうことは雄弁に伝わってきたが、聞きたいことがあるのも事実なので陽茉莉は瑛里の優しさに甘えることにした。

「リンには……何があったの?」

自分でも抽象的な質問だとは思ったけれど、なんと聞いたら良いのか分からなくてこういう表現しか思いつかなかった。瑛里は一瞬キッチンで忙しなく動くリンを見て顎に人差し指の第二関節を当てた。

「色々と噛み砕いて話すから少し意訳が入るけど、陽茉莉が小学生の時リンの中にあるコアの感情を司る機関に不具合が生じたの。まだその時はFE型の前例もそこまでなかったから念の為その機関を停止したのよ。」

これがリンが変わってしまった原因なのか。不具合が生じてしまったのなら仕方ない。機関の不具合だなんて小学生の陽茉莉に伝えても分からないだろうし。

「じゃあどうして今になって、」

「それがわからないのよ。リンも自覚はなかったみたいだし、一応コアは見たけどおかしなところも無かったから。ただ不具合はなくなっていたからそのせいなんじゃないかとは思うわ。」

「そうなんだ…」

とりあえず頷くも何だか納得がいかない。陽茉莉はアンドロイドに詳しくないから納得もなにもないのだけれど。瑛里の話を丸呑みするのが正解だろう。「それじゃあ…」と陽茉莉が口走ったところでご飯の支度を終えたらしいリンが2人の元へやってきた。

「夕食がご用意できました。」

「ありがとうリン!」

緊張状態に晒されていてお腹がすいていた陽茉莉は喜び勇んで立ちあがる。ダイニングテーブルからはいい香りがすでに漂っていた。一足先にテーブルについてリンの介助を受けながら歩く瑛里を見つめる。先程から瑛里のリンに対する態度が少し気になっていた。基本瑛里はリンに関してアクションを起こさない。リンがしてくれたことにお礼を言う訳でもない。瑛里はリンを機械のように扱っているようだ。例えるならそうクロに対するみんなの態度と同じだ。昔もそうだったのだろうか。陽茉莉の頭では思い出せない。もやもやした気持ちを抱えながら陽茉莉は味の薄く感じる夕食に手をつけた。


翌朝、流石に瑛里の前でリンに添い寝を頼むことは出来なかった陽茉莉は数日ぶりに1人で目を覚ました。目覚ましのけたたましい音とレースカーテンから差し込む光に目を擦る。いつもと変わらない自室なのに、この家に瑛里がいるというだけでひまりは嬉しい気持ちになった。やっと家族が三人揃ったのだ。スマホの時刻を確認していつもよりも早い時を指している針に驚いて目を見開く。昨日の朝勉強することの良さに気がついて目覚ましの設定を変えておいたことを完全に忘れていた。その気ではなかったので二度寝をしても良いが、起きてしまったものはそうなので勉強をすることに決めてベッドから這い出る。昨日カーディガンを着始めたばかりだけど外はもう初春のようで暖かそうだったので今日はカーディガンは着ないことにした。顔を洗って何の気なしにリビングを覗くと、瑛里がソファに座ってテレビを見ている姿が見えた。

「お母さん?」

「あら、ひまりおはよう。」

思わずリビングの扉を開けて名前を呼ぶと瑛里は陽茉莉を見て優しく笑った。心無しか昨晩よりも体調が良さそうに見える。

「お、おはよう。早起きだね。」

「仕事をしていた時の癖でね。眠りが浅くて。」

過去形ということは本当に仕事を辞めているのだろう。そう感じているのは陽茉莉だけかもしれないがまだ気まずい感じがするので、曖昧に頷いて視線を逸らすためにテレビを見た。テレビで流れているのは朝の情報番組だった。画面中央に見慣れたようなそうでないような姿が映し出されている。

「連日報道されているアンドロイドの解雇に関するニュースですが、都市部から始まり地方にもその流れが起きているようです。アンドロイド中立派や賛成派からはアンドロイドが抜けた穴を誰が埋めるのかという不安の声も上がっています。」

淡々としたアナウンサーの声、朝にニュースなんて殆ど見ないひまりはアンドロイドがこうしてテレビで報道されているのは初めて見た。アナウンサーの世界にもアンドロイドは進出しているのではなかったのか。全て罷免されてしまったのだろうか。その後は市民のインタビュー映像が流れ出した。「アンドロイドがいなくなって仕事が増えたから大変だ。」というアンドロイド賛成派。「近所のコンビニの店員が気難しい人間の接客に変わって残念。」というアンドロイド中立派。「アンドロイドのせいで失った職に再就職できて良かった。」というアンドロイド反対派。そしてそれに対する社会経済学の専門家を名乗る人の意見。陽茉莉がソファの横で突っ立ってテレビに釘漬けになっている中、瑛里は一つ大きなため息を吐いた。

「…大変な世の中になって来たわね。」

アンドロイドを作る側だった瑛里はこうした一連の出来事をどのように考えているのだろう。昨日聞き逃してしまった質問を陽茉莉は恐る恐る口にした。

「お母さんは、アンドロイドが解雇されることってどう思ってるの?」

ゆっくりと瑛里に目を合わせると、瑛里は今度はため息では無い息を吐き出した。

「仕方ないというか、元々職場の皆は新政策に賛成していなかったから。こうなって良かったわね。」

打って変わってグルメの話になったテレビ番組を一瞥して瑛里は話を続ける。

「MA型なんて失敗作に適当に名前をつけただけなんだから世に出すべきじゃなかったのよ。もちろんいつかはアンドロイドが社会生活の役に立てれば、なんて思ってたけどFE型が増産できてからの話のつもりだったわ。」

「…失敗作?」

確かに世に存在するMA型の九割は欠陥品だという話はクロもしていた。けれど今の瑛里の話方ではまるでMA型は全てが失敗作であるような言い方だ。

「MA型は失敗作よ。プロトタイプなんて生易しい呼び方をする人もいたけどね。元々アンドロイドは人間社会に溶け込むように作られたんだから人間の感情1つ理解できないアンドロイドなんてアンドロイドとは呼べないわ。人の姿をしたただの機械よ。」

陽茉莉は一度口を開いてまた閉じた。アンドロイドの定義なんて陽茉莉は知らない。瑛里がMA型はアンドロイドでは無いと言うならそうなのだろう。クロもタキも人間のような表情はしたけれど人間の感情を理解しているのかと聞かれたら陽茉莉は答えられない。リンは確実に陽茉莉の気持ちを分かってくれているから。

「…これからおかしなことにならなければいいけど。」

独り言を呟く瑛里を横目で見て陽茉莉はその場から離れることにした。

珍しく陽茉莉が今日の授業の予習をしていると、扉がノックされてリンの声がした。

「ひま、ご飯の用意が出来たからいらっしゃい。」

「わかった。ありがとうリン。」

陽茉莉の言葉に対しては何も返ってこずリンがさっさと離れてしまったことを悟る。いつもの事のはずなのに陽茉莉はどこか寂しくなって何も聞こえないドアを少しの間眺めていた。陽茉莉がダイニングへ向かうと食事の席には既に瑛里が座っていた。どうやら陽茉莉が来るのを待っていたらしく綺麗に形作られたオムレツに手は出されていない。

「ごめんお母さん。待っててくれてありがとう。」

「いいのよ。」

何年ぶりかの瑛里と食べる朝食。昨日の晩御飯は瑛里のリンへの態度が気になって楽しめなかったから。気持ちとしては今日が久しぶりだ。食事中会話は特に生まれなかったけれど瑛里と陽茉莉ではサラダやパンを口にする順番が似ていて嬉しくなった。陽茉莉がスープカップを両手で持ってコーンスープを飲んでいるとカシャンと軽い金属音が鳴る。見ると瑛里がフォークを取り落としたのかお皿の横にフォークが落ちていた。

「リン。」

「はい、ただいま。」

瑛里が声を出すよりも先にリンが小走りで食卓へやってきて新しいフォークと取り替える。無言で食べ進める瑛里とスっとその場から足を引いたリンを見て少し心象が憂鬱になった。今までアンドロイドに対して粗雑な態度をとっていた人達は受け入れられないものの理解はできるのだ。世間にいたアンドロイドは機械そのものの態度をとっていたから。人間に対してというよりかは機械に対しての応対と似てしまうのは多少なりとも仕方ないと言えた。けれどリンは、リンは人間に近いアンドロイドだ。確かに人間離れした能力は持っているけれどそれでも人間のような言動ができるのに。普段の言動は人間そのものなのに。アンドロイド研究をしていたらリンでも機械のように思えてしまうのだろうか。瑛里はリンのことを機械そのものだと認識しているのだろうか。急に朝ごはんの味が薄くなったように感じて半ば無理やり胃の中に詰め込む。いつもよりも早い時間だけれど、これ以上リンと瑛里のやり取りを見ていられなくて早く家を出てしまおうと一人席を立った。


スクールバッグを持って一階へ降りたは良いものの、マンションのエントランスから外の電柱に見慣れないカメラが取り付けられていることに気がついて思わず後ずさる。急いでスマホを開けて心当たりのある役所のホームページを開くと最新ニュースの欄に『街頭防犯カメラ増設のお知らせ』との文言が並んでいた。中に書かれていた内容に目を通して陽茉莉は静かに絶句した。

誰かに常時監視されているような不気味な気配を感じながら通学路を歩く。街の景色はいつもと変わらないのに、心境は何もかもが違う。ホームページに書かれていたのは、先日からここら一帯で誘拐事件が頻発しているという内容だった。手口が似ていることから同一犯である可能性が高いということだそうで、昨日陽茉莉が学校で聞いたのはそのうちの一つだったらしい。この防犯カメラは市民の安全を守るためだという説明がなされていた。一体なんの建前だろう。誘拐事件の初犯は一月前だ。どれだけ急いでも一ヶ月ぽっきりでこれだけの防犯カメラを増設することなんてできるわけがない。アンドロイド開発と並行して情報化が進んでいる社会での個人のプライバシー保護に関しては度々問題に上がっていたのを知っている。このカメラが何かが始まる前兆とやらにならなければ良いけれど。陽茉莉は祈ることしかできない。駅に近づくと例の如くデモをやっているのが見えた。朝っぱらから一体なんなんだ。この人たちのせいで解雇が進んでいるのにこれ以上何を求めるのだろう。うんざりした気持ちで陽茉莉が駅に近づくとプラカードに書かれた文言が先日から変わっていることに気がついた。不思議に思って民衆の隙間から覗き込むとそこに書かれていたのは『Don't do Android research』という言葉。

「アンドロイド研究を、するな…?」

思わず声に出してしまった口を慌てて塞ぐ。デモ参加者に姿を見られないよう気配を消して素早く駅の中に滑り込んだ。いつものホームに向かいながら大きくため息を吐く。アンドロイドを世間から消した次は研究中止の要請か。確かにアンドロイドに対して苦手意識がある人からすれば、例え可能性の話だとしてもアンドロイドが再度世に出てくることを嫌がるのは仕方のないことなのかもしれない。アンドロイド研究は秘匿にされているから尚更だ。人間は自分が分からないことは怖がる生き物なのだ。だがアンドロイド研究の過程で開発されたものも沢山あるのに何も考えずにただ禁止しろと主張するのは流石に浅はかではないだろうか。本人たちの主張を詳しく聞いてみなければ何も分からないけれど、陽茉莉はあまり聞く気にはなれない。駅の壁の広告部分に貼られている事件に関するポスターを見てため息を吐く。事件が起きた日付、時刻、現場の状況、被害者について。事細かに書かれているように見えて、その中に犯人の特徴は何一つ書かれていない。十中八九アンドロイドで決まりだろう。陽茉莉は心の中でそう思った。防犯カメラはいつ増設されたのだろう。増設された上で誘拐事件が起きれば流石に民衆もおかしいと気が付き始めるのではないだろうか。リンもFE型だが誘拐事件は起こせるのだろうか。キョウは注射器で陽茉莉のことをどうこうしようとしていたが、その手のアンドロイドであれば人間を一瞬で気絶させる方法くらい知っているだろう。リンにはそんな技能がプログラムされているのだろうか。そう言えば、瑛里に違法アンドロイドについて聞こうとしていたのに完全に忘れてしまっていた。また今夜会えるだろうか。その時、陽茉莉は遠くから駆けてくる緒音の姿を見つけて大きく手を振った。

「緒音!」

「ぜぇっ、はぁっ、…お、おはよう…」

緒音が来るにしては随分遅い時刻で、二人はちょうどホームにやってきた電車に乗り込んだ。

「珍しく遅いね。どうしたの?」

「んー、パパが送ってやるって聞かなくて。私は大丈夫だって言ったんだけど。」

「あー、そっか。いいんだよ?私のことなんて気にしなくても。」

陽茉莉の提案に緒音は首を振る。優しい幼馴染みに陽茉莉は喜びつつも申し訳なくなった。緒音のお父さんは誘拐事件を心配しているのだろう。娘を持つ親の心理としては当然だと言えた。二人が乗り込んだ電車の中は人でごった返していた。誘拐事件が起きていることが周知されているのにこれだけ人々が余裕を持っているのには理由がある。それは単純に、この国の防犯システムが完璧だからだ。情報技術の発展に伴い防犯技術も目に見える進化を遂げた。実際誘拐事件や殺人事件といった文言を見るのは久しぶりで、公共団体も事件を周知させているだけで特別強い注意喚起を促しているわけではない。今回は殺人事件でもないし、全員が犯人なんてすぐに捕まるだろうと思いこんでいる。所謂正常性バイアスに陥っているのだ。陽茉莉は違法アンドロイドが関わっている可能性がある以上今までとは違うと思っているが、それを発信してアンドロイドへのヘイト感情を高めるのは本意ではない。瑛里の娘である以上、陽茉莉にもヘイト感情が向かう可能性があるのだ。それに以前と違って警察組織にもアンドロイドはいる可能性がある。であれば陽茉莉の不安とは裏腹にキョウたちは普通に掴まるかもしれない。人間の友人のことは心配だが下手に口を出せないのだ。スマホを眺める緒音を見て陽茉莉ははたと緒音に話したかった話があることを思い出した。

「そういえば聞いて緒音、昨日お母さんが帰ってきたの!」

「え、瑛里さんが?」

陽茉莉の顔を見て驚いた顔をする緒音に、陽茉莉はニコニコと笑って頷く。幼なじみのおとはもちろん瑛里のことを知っている。長い間家に帰っていないこともアンドロイド研究をしていることも。ただアンドロイド研究所の所長であることは伝えていない。瑛里の意向だ。世間的に非公開とされているからだろう。

「だから今日一緒にご飯食べてきたんだ。」

「そっか、良かったじゃん。」

電車の中だから控えめではあるけれど緒音は自分のことのように陽茉莉の幸せを喜んでくれた。陽茉莉が瑛里に会えなくて寂しい思いをしていたのを知っているからだろう。

「また行っちゃうまでに沢山話せたらいいね。」

「そ、そうだね。」

咄嗟に陽茉莉は言葉をつまらせてしまったが緒音は気にしていないようで内心安堵する。本当はただの休日などではなく退職しているのだけどそれは話しても良いのだろうか。元々研究職ということしか話しては行けないと言われているし、瑛里の知られたくないことなのかもしれないと考えると言葉にできない。リンについてもそうだが最近友達なのに緒音や芙優に対しての隠し事が多くて心が苦しい。いつか全てを話せるようになれば良いけれどそれは一体いつになるだろう。電車の中でそんなはずはないのに息苦しさを感じて陽茉莉は大きく深呼吸をした。

電車を降りて学校へ向かう道のりもポツポツと緒音と会話をしながら向かうが、話してはいけないことがあると意識するだけで上手く話題が思いつかなくて聞き手役に回ってしまう。以前はどうやって話題を出して話していたのかが思い出せない。緒音に不思議そうな顔をされるがそれすらも曖昧に流していたら直ぐに校舎について離れ離れになってしまった。陽茉莉とは反対方向に向かって足を進めるおとの後ろ姿を見つめて落ち込んだため息をつく。折角瑛里と再会して良い日になると思ったのにそう一日中ハッピーという日は上手く作れないようだ。お昼休みに改めて緒音に謝ろう。そう心に決めて陽茉莉は階段を登った

「芙優、おはよう。」

「陽茉莉おはよう…って、どうしたの?その渋そうな顔。」

教室に入って早々、先に席に着いていた芙優に首をかしげられる。ロック画面を消したスマホを覗き込むと、なんともいえない表情をした陽茉莉自身と目が合った。

「うーん。なんか、色々とあってね…」

話せない内容が多すぎてもうこうして誤魔化すしかない。芙優は納得したのかしていないのか緩慢に首を動かした。

「アンドロイド関連?色々あるもんね。助けになれるかは分からないけど相談なら聞くからね。」

「…うん。ありがとう。」

提案にというよりかは芙優の優しさにお礼を言う。実際アンドロイド関連ではあるので間違ってはいない。というか基本最近はアンドロイド関連でしか悩んでいない。これからアンドロイドがどうなっていくかの見通しもついていないのに、いつまで隠し事をしなくてはならないのだろう。瑛里が帰ってきたことを芙優にも報告したかったのに話しにくい。話しているうちにボロが出てしまいそうだ。どうにか嘘をつかないように疑問に思われないように伝えられないかと逡巡していたら無慈悲にもショートホームルームが始まってしまったので陽茉莉は諦めて席に着いた。

初めに先生から伝えられたのは昨日の誘拐事件について。案の定犯人は未だ拘束されていないらしく今後も気をつけるように伝えられる。そして連日起きている一連の事件についても。注意喚起を促しているものの、先生も特に危機感は感じていないようだった。大方話の予想がついていた陽茉莉が瑛里について考えながらぼけっと虚空を見つめていると、先生が一枚のプリントを配り始めた。回ってきたA4サイズの紙に目を通す。

「午前中授業のお知らせ…?」

紙には今後の学校の予定について示されていた。今度は真面目に先生の話に耳を傾ける。

「国からの要請で事件のほとぼりがつくまでの間、四限目までの午前中授業となります。」

途端にガヤガヤと騒ぎ出す教室内を先生が諌める。陽茉莉はじっとプリントに目を通した。

「部活も自習室も三時半までで完全下校になります。この辺の学校及び職場も同じ要請が出されており公共交通機関が混み合う恐れがありますので、心配な人は親御さんに迎えにきて貰ってください。」

どうやらこれまでの誘拐事件は全て夜更けに起きているらしい。だから暗くなる前に全員帰れという話だ、学生はわかるけれど社会人まで帰宅しなくてはならないのか。いくら機械化が進んでいるとは言え殆どのアンドロイドが解雇され始めて人間の需要は高まっているというのに。先生は話が終わるとざわめきが止まらないクラスをおいてさっさと出ていってしまった。予鈴が鳴って陽茉莉も一限目の授業の準備に動き始める。何か社会で大きな変化が起きているような気がして、陽茉莉はどこか薄寒いものを覚えた。

知らされていた通り授業自体は午前中で終わりを迎えたが、芙優と緒音は部活があり、陽茉莉もまた折角リンが作ってくれたお弁当を中身が入ったまま持ち帰りたくはなかったので三人で一緒に昼ごはんを食べてから帰宅することにした。

「なんだか大変なことになってるみたいだね。」

「こんな大事だとは思わなかった。」

いつもの中庭のベンチに座ってお弁当を広げながら両隣の2人がぼやく。授業数が減るためか進捗は速くなり、かと思えば先生方が呼び出されて自習になる。随分とバタバタした一日だった。

「先生たち忙しそうだけど部活は普通にあるの?」

「私のところはミーティングだけあるみたい。」

「私の部活はいつも先生来ないからね。」

陽茉莉の問いかけに二人とも頷く。こんなことになってもなお部活は普通にあるのか。精神が図太いのかバイアスがかかっているせいなのか。二人が危険な目に遭わなければいいけれど。

「陽茉莉帰り歩きでしょ?大丈夫なの?」

「え、うん。…芙優もだよね?」

卵焼きを摘んだ芙優に首を傾げられて、陽茉莉も肯定しながら同じ方向に首を傾げる。

「お父様が危険だからって車で送ってくれることになったの。」

「あー、芙優のお父さん芙優のこと大好きだもんね。」

芙優の父親は緒音と二人でいゆ時話題にあがるくらい過干渉な親だ。遊ぶ時は必ず送り迎え必須だし、学校行事の際は必ずカメラを持って最前を陣取っている。門限も早いし、陽茉莉と緒音はわざわざ家に挨拶しに行った。厳格な父親だからこそこれだけ芙優が箱入り娘のような礼儀正しい子に育ったのだろうけど、言葉を選ばずにいうなら少し面倒なこともある。

「やっぱり緒音も明日から車で送り迎えしてもらったら?お父さんとお母さん心配してるんじゃない?」

朝の会話を思い出して今度は緒音の方に顔を向けると緒音は苦々しげな表情で笑った。

「んー、実はパパから今日は迎えに行くって連絡来たんだよね。」

「それじゃあ。」

「でも陽茉莉が一人になっちゃうじゃん。」

少し怒ったような緒音の声色に思わず閉口する。心配から来ているとはわかっていてもこんなにも真面目なシチュエーションで緒音に叱られるのなんて初めてだ。

「私は大丈夫だよ。リンがいるし。」

リンの名前を出すとふっと緒音の膨れた口元が収まった。余程緒音もリンのことを信頼してくれているらしい。もちろん陽茉莉が一番リンのことを信用しているけれど。

「……リンさん?」

緒音と話していると横から芙優の控えめな声が顔を出す。そういえば芙優にリンの話を全くしていなかった。説明をしなければと思うものの一体何から話せば良いのかわからない。芙優と出会った時にはすでにリンは変わった後だったからリンがクロたちよりも質の良いアンドロイドであることも人間のように振る舞えることも教えていない。ぐるぐる頭の中で考えていると再度芙優に「陽茉莉?」と疑問を呈された。

「あー、その、最近駅までリンに迎えにきてもらってるの。」

嘘だ。アンドロイドデモが怖いのでリンにはできるだけ家に出ないように言い聞かせている。緒音を安心させるためにリンの名前を出したのにこれでは嘘の上塗りだ。

「リンさんって家から出られるんだ。」

「さ、最近ちょっとね。」

言葉につっかえる陽茉莉を緒音がしげしげと眺めている。リンについては多少助けてほしい気持ちがなくもないが、下手なことを言われないだけ全然ありがたい。芙優は変わらず不思議そうな顔をしているが、電車の時間があることを伝えると渋々と言った様子で納得してくれた。後でもう少しましな言い訳を考えよう。

部活がある二人とは別れて陽茉莉は一人で帰路につく。人通りは少ないけれど通学によく使われているためか警察官が立っていて日が高いこともありそこまで怖くない。変わらずカメラに撮られ続けている感覚にはなれないがこれはもう慣れるしかないだろう。駅につくと駅は学生でごった返していた。と言ってもホームに並んでいるというよりかは駅に付属しているカフェや周辺のショップ目的のようだ。隣のショッピングモールにも皆遊びに行っているように見える。確かに遊び盛りの高校生に午前中授業だから大人しく家に帰りなさいという方が無理があるのかもしれない。とりあえず日没までは外に出ていても良いためか警察官の人も寛容だ。陽茉莉はひとりぼっちで特に寄りたい店もないため大人しく電車に乗りこむ。五分後発の電車の空いている席にのんびりと腰を下ろしていると、ふとすぐ近くにある陽茉莉のバイト先に目線が行った。実質的な夜間外出禁止令が出されてカフェはどうなるのだろう。ディナーとナイトがなくなるわけでシフトを組み直さなければならない店長も大変だ。それはまたバイトのメッセージグループで確認するとして、陽茉莉は暇つぶしにスマホを開いた。学校側は濁していたが、大手メディアは全て『国が夜間外出禁止令』との見出しを出している。朝はこの周辺地域だけだとしかわからなかったけれど一連の誘拐事件はほぼ国全域で起きているらしい。陽茉莉の周りの人は余裕を感じている人も多かったがSNSにはこれは本当にまずいやつなのではないかとの少し語彙の足りないつぶやきをしている人も見受けられた。確かに国全体でここまで大きな知らせが来たのは初めてだ。本当に社会が変わっていると捉えて良いのだろう。

スマホをいじっていると直ぐに目的の駅について電車から降りる。この駅にも学生たちが屯っていて騒がしい。気にせず一人で歩いていると某ファストフード店の中に逢和が友達とだべっている姿を見つけた。友達といる時の逢和の笑顔はやはり陽茉莉といるときとは少し違う。

駅の外では朝ほどとはいかない規模のデモ集団が依然として屯っていた。警官は特に止める気はないようで日没までには帰るようにとだけ促している。本当に国ごとアンドロイドは要らないという方針なのだろうか。警察官一人で決めるのは良くないだろうが、デモは無理に止めなくても良いとの指示が入っているのだろうか。駅から離れてゆくと次第に喧騒が薄れていく。住宅街にわざわざ遊びに来る学生なんて小学生くらいしかいない。次第に警察官の姿も見なくなり、カメラに姿を捉えられたまま陽茉莉は自宅へと帰った。

ガチャガチャと騒々しい音を立ててプッシュプルドアを開くと、昨日はあったはずの黒いハイヒールが消えていることに気がついた。首を傾げるよりも先にリンが陽茉莉を出迎えに現れる。

「おかえりなさい。ひま。」

「ただいま。お母さんは?」

瑛里が履いていたハイヒールがない。退職したからずっと家にいてくれるのだと思っていたけれど、もしかして陽茉莉の勘違いだったのだろうか。

「出掛けてらっしゃるわ。夕食には戻るみたい。」

「…そうなんだ。」

瑛里と話したいことがたくさんあったのに。陽茉莉の気分は少し落ち込んだ。それでもすぐに帰ってくるというリンの言葉に心を落ち着かせる。以前は帰ってくると言って嘘だったことがあるけれど今回ばかりはリンの言葉は本当だろう。リビングにあるコートラックにかかる黒地のコートを見て陽茉莉はホッと息を吐いた。リンにお礼を言って自室に引き上げる。部屋着に着替えた後、陽茉莉は幼い陽茉莉特製のダンボール製宝箱の中から小さいジップロックを取り出した。その中に入った黒と白の縞模様が特徴の小さい粒を見つめる。それは陽茉莉のトラウマのようなものだった。陽茉莉が中学生か小学校高学年の頃から次第に瑛里の仕事は忙しくなっていった。連日の遅い帰宅から職場に泊まりがけへと変わり、社員寮のようなものがあるということで瑛里の体を最優先にするために瑛里は寮で寝起きするようになった。初めの方はそれでも良かった。瑛里が忙しい合間を縫って何とか時間をつくり陽茉莉に会うために帰ってきてくれていたから。けれどそれも次第に減っていき、同時に寮での生活を充実させられるように瑛里はこの家にあった荷物を少しずつ引き上げていった。瑛里の私物は段々と家からなくなり、瑛里の部屋には鍵がかかっているために幼い陽茉莉が瑛里がこの家に住んでいた証拠を目にできる機会は少なくなっていった。その中で唯一残ったのが、リビングに置かれている瑛里と幼い陽茉莉が写っている写真立てと、今陽茉莉が持っている向日葵の種だ。幼い頃陽茉莉と瑛里で一緒に向日葵を植えようと瑛里がわざわざ用意してくれたものだった。向日葵の寿命は短いし、今となっては植えるために使っていたプランターもどこに行ってしまったのか分からない。けれど種の大半は埋めてしまったが幼い陽茉莉は数粒種を隠し持っていたのだ。陽茉莉にとってこれが瑛里からの愛情を再確認できる数少ない手段の一つだった。

時計の針はまだ二時前を指しているため勉強でもしようかと思ったが、何せ今日は慌ただしく入ってくる情報が多かったためどうにも勉強に集中できない。陽茉莉は五分ほど真っ白なノートと化学の問題集に向き合った後、諦めて充電コードに刺していたスマホを手に取った。ネットニュースやSNSを流し見るものの新しい情報は入ってこない。学校で聞いた話の焼き写しだ。それでも勉強と天秤にかけるとどうしてもその気になれなくて惰性で誰かの中身のない愚痴を眺めていると、ピロンの軽い音が鳴ってスマホの上部からメッセージアイコンを示したバナーが降りてきた。

「…えっ!逢和先輩!?」

どうせ公式だろうと思いバナーをしまおうとすると、まさかの人からのメッセージであることに気がつき二度見する。そのまま誤タップしてしまい非情にも画面はトークルームに飛ばされてしまった。

「わっ…わ、ちょ、ちょっと。」

相手からのメッセージが表示されている中右にスワイプしたところでなんの意味もないので諦めて文章に目を通す。

『今日は一緒に帰れなかったけど大丈夫だった?』

逢和の声で聞こえてきそうな文章に胸が甘く締め付けられるような感覚がした。さっき見た時は友だちと楽しそうにしていたのに陽茉莉のことをわざわざ思い出してくれたのだろうか。既読をつけてしまった以上返信しない訳にはいかないので『大丈夫です。心配してくれてありがとうございます。』と送り返す。変な文章ではないか何度も読み返していたらすぐに既読になってしまったので、急いで画面をスワイプしてトークルーム一覧に戻すと高ぶった感情のままベッドに突っ込んだ。逢和とメッセージを送り合うのなんていつぶりだろう。中学生になってからスマホを買ってもらった陽茉莉はそれを聞きつけた逢和に連絡先を交換して貰ったのだが、当然陽茉莉は緊張して自分からメッセージなんて送ることが出来ず、逢和もどちらかと言うと直接会って話す派の人間だったので連絡する機会がほとんどなかったのだ。最後に連絡を取り合ったのなんて一年くらい前ではないだろうか。恐る恐るスマホを開くとホーム画面に『それなら良かった。』とのメッセージが表示された。胸がいっぱいになって枕に顔を押し付ける。

「もー、…大好き。」

零してしまった言葉は音にならず枕へと吸い込まれてゆく。どうしてこんなにも愛おしい気持ちになるのだろう。愛おしさを通り越して少し息苦しい。陽茉莉は今度はベッドから飛び出してクローゼットの横に置かれたチェストへ向かった。記憶を頼りに一冊の大きい正方形を取り出す。表紙には可愛いうさぎのイラストが描かれている。アルバムを開くと懐かしい陽茉莉の幼い頃の写真が現れた。小学校に入るまでの写真のほとんどはリンと一緒に映っている。残りの写真は陽茉莉の単体か緒音との写真だ。瑛里はこのアルバムに載っている写真には映っていない。写真に映るのが苦手だからなのだそうだがこうして見返した時に姿が見れないのは少し寂しい。小学校以降の写真からはリンとの写真は減ってその代わりに緒音と、逢和との写真が増えた。緒音はもちろん逢和も昔は近所に住んでいたから小学生の時は学校終わりや休日によく公園で遊んだのだ。あの頃は陽茉莉なりに逢和にアタックしようとしていたから距離も比較的近い。一番逢和との心の距離も近かった時期だ。中学生からはスマホを手にしたために写真自体がぐんと減った。母数が減ったのだから当然逢和との写真も減って、唯一の写真は中学校の逢和の卒業式の写真だった。中学生になって逢和に対しては控えめになってしまった陽茉莉は逢和との関わりも少なくなり、卒業式の日にやっと勇気を出して自分から写真をお願いしたのだ。悲しさ半分嬉しさ半分で泣きそうになったことを思い出した。スマホで撮ったものだけれど、データだけで残しておくのはどうしても不安でわざわざ現像した。スマホに入っている逢和の写真は確かこの卒業式の写真と高校の入学式の写真だけ。きっと次撮る写真は逢和の卒業式の写真になってしまうだろう。逢和との離れてしまった距離を改めて感じてしまい悲しくなった。陽茉莉はページを戻して小学生のころの写真を撫でた。別に落ち込むためにアルバムを開いたわけじゃない。郷愁の念というか、懐かしみたいだけだったのだ。心から幸せだったあの日常を。

ぼんやりと幸せそうな陽茉莉の写真を眺めていると、玄関の方からがちゃんと扉が開く音がした。瑛里が帰ってきたんだ。と気がついて立ちあがろうとしたところで中腰のまま一時停止する。普通の家族は親が帰ってきたら玄関まで行って出迎えるものだろうか。行ったとしても帰ってきたばかりの瑛里ととれるコミュニケーションなんて挨拶くらいのものだ。どこへいっていたのかなんて夕食の時に聞けば良いだろう。わざわざ今聞くことじゃない。リンが相手だったら挨拶だけとかは関係なく玄関に走っていけたのに、瑛里が相手だとそうはいかない。リンはもう長いこと一緒に暮らしていて陽茉莉が何をしても大抵受け止めてくれるだろうが、瑛里もそうだとは限らない。陽茉莉に対して悪い印象を持ってほしくない。陽茉莉は瑛里にとっての良い娘でありたいのだ。考え込んでいるうちに瑛里が自室に入った気配がして陽茉莉はもう一度その場に座り込んだ。

勉強もせずに逢和や瑛里のことを考えているとあっという間に時は過ぎ、リンが夕飯に陽茉莉を呼びにきてやっと陽茉莉は体を動かした。リンの言葉に曖昧に返事をして陽茉莉はのんびりとその場から立ち上がる。当然夕飯は瑛里と一緒だろう。話しかけても良いのだろうか。また思考の海に沈みそうになったところで瑛里を待たせているかもしれない可能性に気がついて慌てて陽茉莉は部屋を出た。急ぎ足でダイニングに入ると案の定瑛里はすでにダイニングテーブルについていた。

「ごめんなさい。お母さん。」

「…なにが?」

陽茉莉の謝罪に瑛里が首を傾げる。特に気分を害してはいないようだ。直球に質問を返されて陽茉莉は一瞬口篭った。

「その、夕飯待たせちゃって。」

「ああ、別に構わないわよ。」

首を横に振る瑛里に安心しながら陽茉莉が席に座るとリンがグラスに水を注いでくれた。

「ありがとう。リン。」

「いえ。」

簡素な返事の後リンはその場から引き下がる。気がついたのだがどうもリンは瑛里の前だとわざと自分から機械的に振る舞っているように感じる。だから瑛里はリンを機械扱いするのだろうか。陽茉莉が手を合わせると瑛里もそれに倣ってくれた。

無言で箸と食器の音だけが響く空間で陽茉莉は言葉を発するタイミングを窺い見る。息苦しいというか瑛里と一緒にご飯を食べているだけなのに緊張で心臓の鼓動が高まってしまう。半分ほど食べ終わったところでこっそりと瑛里の食器を覗き見るとすでに三分の二ほど食べ終わっていて慌てて陽茉莉は口を開いた。

「ね、ねぇ。」

瑛里が視線だけを陽茉莉によこす。三白眼気味の視線に刺されて陽茉莉はまた口篭った。

「そ、その、聞きたいことがあるんだけど……」

「…何?」

雰囲気で気圧されそうになるものの陽茉莉は必死に言葉を紡ぐ。特に瑛里は機嫌が悪そうなわけでもないのに自然と醸し出されるオーラがあるのだ。

「最近起きてる誘拐事件って、…やっぱりアンドロイドの仕業なの?」

陽茉莉の問いを聞いた瑛里は、箸を置いて水を一口飲み込んだ。鋭い視線にもう一度身体を刺される感覚がする。

「肯定したいところだけど、…アンドロイド研究の秘密に触れることなの。……絶対に口外しないって約束できる?」

「も、もちろん。」

半分脅しのような瑛里の言葉にすぐさま陽茉莉が頷くと、瑛里は一度息を吐いて手に持ったグラスを回した。

「………当然。あんな芸当アンドロイドにしかできないもの。」

「それは…やっぱり違法アンドロイドが?」

立て続けに疑問を呈すと、瑛里は今度は陽茉莉の後ろに立っているリンを冷たい瞳で強く睨みつけた。

「……お前がこの子に話したの?」

低音で響く瑛里からの初めてのお前呼びに自分が呼ばれた訳でもないのに陽茉莉の体が硬直する。リンの表情はわからず機械の彼女からは雰囲気すら読み取れない。

「…はい。セキュリティアンロック済みのお話を少しだけ。」

「……ああ。次からは勝手なことを話さないで。」

「はい。」

陽茉莉がその場で縮こまっていると、話が終わったらしく瑛里が再度陽茉莉の目を見た。

「…そうね。私の管轄内のアンドロイドにそんなことはさせないから。」

やはり陽茉莉の考察は大方当たっていたようだ。目的はきっと以前リンが教えてくれたことであっているだろう。リンが陽茉莉に嘘を教える理由がない。

「…もし、事件がアンドロイドの仕業ってバレたら、お母さんが悪く言われる?」

市民からは政府公認のアンドロイドと違法アンドロイドの区別がつかない。アンドロイドは全て敵だと認識されてしまったら。最悪な想像を脳内で展開する陽茉莉を前に瑛里は呆れたようにため息を吐いた。

「陽茉莉。SNSくらい見た方がいいわよ。」

「…え?」

先程ネットニュースには張り付いていたけれどそれとは違う話だろうか。本当に言っている意味がわからない陽茉莉が首を傾げると瑛里はもう一度ため息をついた。

「…リン。テレビをつけて。」

「はい。」

軽い電子音がなって瑛里の背後にある大型テレビに電源が入る。リモコンに触れてもいないのに。と陽茉莉が一人驚いていると、あるワイドショーが写しだされた。ポップなスタジオの中何か偉そうな大人たちが一列に並んでいる。

『先日から世間を騒がせている一連の事件ですが、一部ではこれはアンドロイドの犯行だとの意見が出ています。これをどのようにお考えになりますでしょうか。』

まさに先程話していた内容に生唾を飲み込む。テレビに利用されるほど浸透しているなんて。話を振られた専門家風の男性が咳払いをしたのち口を開いた。

『えー、そうですね。可能性はある。と言えるでしょう。』

『それはなぜですか?』

『アンドロイド研究ってのは秘匿にはされてますが、もう十数年も前には今いるアンドロイドの原型はあったでしょう。そこから考えるとあの時よりも性能の良いアンドロイドはすでに存在している。と考えることが自然です。』

話している内容は薄いが言っていることは何一つ間違ってはいない。鼓動が高まるのを自分で感じた。今度は隣に座っていた男性が口を開く。

『第一に私たち国民はアンドロイド研究の内容が秘密にされている。という部分に疑問を持つべきだったんですよね。もちろん他国との競争問題もありますから簡単には言えませんが、国民が知らないものを身近に置かせる。という政府の方針には疑問を抱かざるを得ません。』

司会者の人が納得したように頷く。番組内の雰囲気もアンドロイドが事件の犯人ということで皆納得しているようだ。陽茉莉はポケットから無造作にスマホを取り出してSNSを開いた。テレビの左上に映る番組名とアンドロイドという文言がトレンドに入っている。『アンドロイドが犯人説まじ?』『陰謀論認め出すとかワイドショーはオワコンだな。』『たまーにくそ人間ぽい奴いたけどあいつかよ』『皆さん!まだアンドロイドが事件の犯人だと決まったわけではありませんよ!』『あの専門家信用できるのか?』『アンドロイド研究って公開されてないの?初めて知った』『性能が高いアンドロイドってなんだよ怖』『薄々私も考えていましたね。国民の意識の低さが露呈したというわけです。』『まって!?バ先のアンドロイド誘拐犯の可能性あるってこと?』一応賛否はあるようだが、これで「アンドロイドが事件の犯人である可能性」というのが世間に広まってしまった。これがこれからどう動いていくのか。陽茉莉が再度テレビに視線を向けると話題は少し違う方向に切り替わっていた。

『であれば、どうしてアンドロイド研究は秘匿とされているのでしょうか。』

スタジオ内に少しの沈黙が訪れる。数秒経って司会者が中年の女性に話を振った。

『うーんと、他国と比べたら異様である。ということしかわかりませんね。各国では研究所長の名前や顔だけでなくスピーチまで公開されているというのに私たちは自国のアンドロイド研究所長の名前すら知りませんから。他国との交流会にも出ていないとのことで信用も多少落ちているという噂もあるくらいですからね。』

思わず陽茉莉は瑛里の顔を見つめた。瑛里も顔を向けてテレビを見ているからどんな表情をしているのかはわからない。

『アンドロイド研究所長にはそれだけの権限があるということですか?』

『ええ、この国ではかなり強い位置についていると思われます。アンドロイド産業に助けられて今の経済は成り立っていますから。』

隣の男性が口を挟む。

『だから私は下手にアンドロイド研究に首を突っ込まない方が良いという意見ですね。変に国民が声を上げて経済が大変なことになったら笑い事じゃあすまされませんよ。』

陽茉莉は再度瑛里の顔を見つめる。何を考えているのかわからない。半分残された夕飯は冷めきって、食欲が無くなったと気づいたのかリンに回収された。陽茉莉はもう一度スマホを開いてSNSの最新投稿を見ようと下にスワイプした。『よくわかんないけどその所長ってやつが悪いの?』『ここって先進国じゃなかったの?モノカルチャー経済がすぎるだろ。』『俺の収入が安定しないのアンドロイドのせいかよ!(多分違う)』『とりあえず俺の職を奪ったその所長ってやつの顔面は拝みたい』『シンプルに考えてよくわからんやつが作ったよくわからんアンドロイドと仕事してたの怖すぎだろ。』『今の政府がアンドロイド新政策を推し進めた。ということはやはり今の与党ではいけないのでは?』意見は多種多様のようだ。陽茉莉がそのまま瑛里の側頭部あたりを眺めていると、テレビはCMに切り替わり瑛里がこちらを向いた。

「リン。」

「はい。」

テレビが消えて沈黙の時間が訪れる。陽茉莉は気づかれないように唾を飲み込んだ。ゴクリという音が辺りに響いてしまったような気がする。震えそうになる唇を頑張って抑えて口を開いた。

「お、お母さん。今の……」

「…悪いけど、私のせいで陽茉莉が危険な目に遭う可能性があることは覚えておいて。何かあればリンを頼りなさい。リンはそこまで柔に作っていないわ。」

凛とした姿勢を保つ瑛里は陽茉莉の幼い頃からの憧れだった。でも求めていたのはこういうことじゃない。

「でも、お母さんだってことはバレてないんじゃ。」

陽茉莉の訴えに瑛里は首を横に振る。

「違法アンドロイドなるものが作られる時代よ。主犯は捕まえているけど末端はいる。世間に広まるのも時間の問題なの。」

もし瑛里がアンドロイド研究所長であることが世間に知られたら。どう足掻いても良い未来が見えなくてその場で縮こまる。どうしてこんなことになってしまったんだ。何も話さなくなった陽茉莉を前に瑛里は立ち上がった。

「陽茉莉のことはある程度信用しているけど、付き合う友人はきちんと考えてね。」

下を向たまま頷くと瑛里はそのままその場から離れていった。バタンと扉が閉まる音がしてダイニングの中にはリンと陽茉莉の二人きりになる。

「……どうして。」

何か熱いものが込み上げてくるような気がした。ダイニングテーブルを片づけたリンが陽茉莉の肩に触れる。

「ひま、大丈夫、じゃないわよね。ごめんなさい。言葉が思いつかなくて。」

まるでアンドロイドが悪役のようだ。リンはこんなにも心優しいのに。人間とアンドロイドが対立している。

「どうして、こんなことになっちゃったのかな。」

零してしまった弱音にリンは優しく擦り寄って慰めてくれた。陽茉莉はただ家族と友達とリンと仲良くしていたいだけなのに。何か特別な幸せがなくてもただ当たり前の日常が送れたらそれで充分なのに、それすら許されないのだろうか。陽茉莉の啜り泣く声だけが、暫くリビングに響いていた。


次の日から、陽茉莉は以前のような日常を送ることができなくなった。いや、陽茉莉の周りの環境はいつものような日常を送ることができるように配慮してくれるのにそれを陽茉莉は上手いことを受け入れられないのだ。防犯カメラやパトロールする警察を増やしたにも関わらず誘拐事件が起き続けていることでこれまでは陰謀論とされていた「アンドロイド犯人説」が国民の間で信憑性を帯びてきており、それに比例して瑛里へのヘイト文をSNS上だけでなくリアルでも耳にするようになった。アンドロイドが世間の嫌われ者となったことで、リンのことを知る緒音や芙優、逢和は陽茉莉のことを良く案じてくれた。けれどいくら心配されても陽茉莉は本当のことを話せない。有難いはずの慰めの言葉も、陽茉莉にとっては罪悪感を感じるだけで終わってしまった。いくら説が広まろうとも政府もアンドロイド研究所もそれを認めることはなくて、陽茉莉は友達に不信感を与えないためにも変わらず学校に通っていた。

「…それじゃあ。行ってくるね。リン。」

学校へ向かう玄関前、陽茉莉はリンと強く抱き合った。友達には本当のことを話せず、瑛里とは話す機会が少ない陽茉莉にとってリンだけが気兼ねなく話せる唯一の相手だった。小学生になった時以来でリンと離れることがこんなにも寂しい。けれど小学生ではなく高校生となった陽茉莉がそんなことで不満を言うわけにはいかないので、陽茉莉は名残惜しさを感じながらリンの体から腕を離した。

「…気をつけてね。」

「うん。」

リンの頬と陽茉莉の頬が触れ合って、温もりを自分の体に刻み込んだ。

警察官がパトロールしているというのに街の治安は悪化していて、路地裏に入らなくともスプレー缶の落書きを目にするようになった。その全てがアンドロイドやアンドロイドの研究者に対する罵詈雑言だ。陽茉莉はできるだけそれを視界に入れないように下を向いて歩く。途中でアンドロイドデモのビラが風に飛ばされて陽茉莉の足元までやってきた。陽茉莉はそれを一瞥してびりびりに引き裂く。駅前では今日もいつものようにアンドロイドデモがやっていた。ここ最近は毎日行われている。先程のビラもここから流れてきたのだろう。朝だから少ないものの学校や会社が終わる時刻になれば人数が十数倍に膨れ上がることを陽茉莉は身をもって知っているた。プラカードには「Bring the leader!」と書かれており腕の取れた人間の絵が横に書かれていた。アンドロイド反対派は瑛里を探しているのだ。隣に書かれているのはきっとアンドロイドの姿だろう。こうしたデモ活動が活発になってきているのに瑛里は相変わらず昼間に出かけることをやめない。バレるのは時間の問題だと言っていたのは自分なのに自らバレようとしているみたいだ。陽茉莉はいつも心配に思っているが瑛里相手には何も言えなかった。

電車に乗って一人で学校へと向かう。緒音が一緒にいなくて寂しいが、正直今の陽茉莉はリンといないだけでどこで誰といても寂しさを感じてしまう。心から頼れるのはリンだけだ。駅について電車から降り同じ学校の生徒たちと通学路を歩き始めたところで、陽茉莉は他の生徒から視線を受けていることに気がついた。それも一人や二人ではなくかなりの数だ。それが好意的な視線には感じられなくて、陽茉莉は理由もわからないまま肩をすくめて早足で学校へ向かった。

学校について駆け足のまま教室へと向かう。教室の扉をガラリと開けるとクラスメイトからも同じような視線を浴びて陽茉莉は思わず後ずさった。

「ねえ、君が二年八組の陽茉莉ちゃん?」

突然背後から肩を叩かれてその場で飛び上がる。急いで振り返るとそこには見知らぬ男子生徒が三人いた。ネクタイの色からして三年生だ。

「あ……はい。」

警戒しつつ肯定すると無言で不躾に体をジロジロと眺められた。

「あの、なんですか?」

不快な気持ちになり不機嫌な声色で疑問を投げかけると、三人の中でのリーダー格の男が口を開いた。

「いや、君の母親があれなんでしょ?アンドロイドの研究者。」

頭が真っ白になる心地がした。なんで、どうして。瑛里のことが知られている。朝の視線はそれだ。間違いない。いつの間に?今朝軽くSNSを見た時は流れていなかったのに。もしかしてこの学校だけ?だとしたら一体誰が。ぽんぽんと言葉が頭の中を流れ出す。

「誘拐犯の生みの親の娘の顔くらい見てみたいなっておもって。」

「それなんか実質この子が誘拐犯ぽくね?」

「実際誘拐犯の親戚みたいなもんでしょ。」

勝手なことばかり言われているのに言葉が出てこない。周りからすれば陽茉莉は誘拐犯の身内みたいなものなのか。先日の瑛里の言葉が嫌にくっきりと思い出せた。

「…どうして、それを。」

「んー、なんか、噂?みたいな。半信半疑だったけどその反応がちっぽいね。」

そこでやっと陽茉莉は自分で墓穴を掘っていたことに気がついた。血が出そうになるまで下唇を噛み締める。

「俺たちだってわかってるよ?君が悪くないことくらい。でも俺たちの同級生が被害にあったってなれば、なんかしたいのが友情ってやつよね。」

そういえば朝見た被害者一覧の高校生の名前の横にここの高校の名前が入っていた。陽茉莉がその場で下を向いて立ち尽くしていると飽きたのか男子生徒たちは離れていった。どうせ本当に心配しているわけではなく陽茉莉と話す口実に利用しただけだろう。他の生徒がやってきて陽茉莉はやっと自分が教室に入る邪魔をしていることに気がついた。陽茉莉が教室内に入るとクラス中から視線が集まる。陽茉莉が視線のもとに一つ一つ目を向けるとパラパラと視線は消えていった。自席にカバンを下ろして放心状態のまま座り込む。何もせずただただ俯いて机を見つめていると隣から声をかけられた。

「陽茉莉。大丈夫?」

それは心配そうに眉を下げている芙優だった。一連の流れを見ていたらしい。陽茉莉は教室の中だというのに泣きそうになってしまった。

「芙優は…怖くないの?」

「え、陽茉莉のこと?」

以前のアンドロイドが怖いと話していた芙優の声が脳裏をよぎる。瑛里はそのアンドロイドを作った張本人なのに。

「うん。この前アンドロイドのことが怖いって言ってたから。」

「だってそれはアンドロイドの話でしょ?陽茉莉のことを怖がる理由なんて無いよ。」

真っ直ぐな芙優の言葉に胸を打たれて、陽茉莉は思わず芙優のことを抱きしめた。驚いた様子の芙優はそれでも陽茉莉のことを抱きしめ返してくれる。

「ありがとう。芙優。」

「いいよ。陽茉莉は今日は泣き虫さんだね。」

ぽんぽんと頭を撫でられてその温もりに鼻がツンとする感覚がした。芙優と友達になれて本当に良かった。

その日は午前中周りの生徒からの視線を受け続ける羽目になった。嫌われているというわけではない。もちろんそんな目を向ける人もいるけれど、どちらかというと奇異な目線が多かった。それは先生方も変わらなくて、本当に芙優だけが今までと変わらずに陽茉莉と接してくれた。一体誰が瑛里のことをバラしたのだろう。先程確認したらSNSには上がっていなかったからこの学校だけなのだ。陽茉莉が自ら伝えたのは緒音と逢和だけだけれど、少し前までは気を抜いてその辺で話していたから誰か知らない生徒に話を盗み聞きされてしまっていたのかもしれない。陽茉莉は自分の危機管理の甘さを嘆いた。この日も緒音と昼ごはんを食べる約束をしていたが、一瞬陽茉莉は中庭に行き渋った。芙優は受け入れてくれたけれど、緒音はどうだろう。芙優ほどではないけれど緒音も多少アンドロイドに対して拒否感があったような気がする。本日の周りからの態度で陽茉莉は完全に人間不信に陥っていた。それでも約束している以上行かないなんて選択肢はないので勇気を出して芙優と中庭に向かう。芙優には無理はしなくても良いと言われたけれどその申し出は断った。親友だからきっと大丈夫だと信じている。中庭へ向かうといつものように緒音が先に中庭のベンチに座っていた。

「緒音。」

「やっほー、昨日ぶりだね!」

緒音に笑顔で手を振られて陽茉莉はほっと一安心する。脱力しそうになって、まだ緒音は噂を知らない可能性があると考えて背筋を伸ばした。

「緒音。」

「どうしたの?」

きゅるんと効果音がつきそうな純粋な瞳で見つめられる。陽茉莉は自らの罪を吐き出す罪人のような気分になった。

「その、噂って、聞いてる?」

「噂?…あー、瑛里さんの話ね。」

どうやら知っていたようだ。知っていた上で陽茉莉に対していつもと変わらない対応をしてくれていたらしい。陽茉莉は再度心の中で安堵した。安心して息を吐き出していると突然緒音が大きな声を出した。

「あっ!! 」

「えっ、なに!?」

びくりと体を震わせると緒音は陽茉莉が怯むほど真っ直ぐに陽茉莉の目を見つめた。

「先に言っておくと私じゃないからね。」

「……え?」

飲み込めない唐突な話に陽茉莉は首を傾げる。一体何の話だろう。

「だから、瑛里さんのこと話したやつ。私じゃないからね。」

緒音の説明にようやく陽茉莉の中で合点が行く。もとより疑ってなんていなかったのだがわざわざ律儀なことだ。

「わかってるよ。どうせ誰が私たちの話を盗み聞きでもしたんでしょ。」

「…それなんだけど。」

急に緒音の声色が低くなって陽茉莉は緒音に耳を寄せる。緒音は周りに誰かいないかどうか見回した。

「なんか私、話したのが逢和先輩じゃないのかなって思ってて。」

「ええっ!?」

まさかの話に陽茉莉は目を丸くする。逢和が?どうして。陽茉莉としては緒音の次にあり得ない人物だったのに。

「な、なんで?」

緒音は迷っているかのように目をきょろきょろと右往左往させた。

「その、どうも最初に噂が回ってきたのが逢和先輩のいる三年四組らしいんだよね。もちろん陽茉莉の予想もあるかもしれないけど、逢和先輩天然入ってるし、口滑らした可能性もあるのかなって。」

「…そっか。」

あり得ない話じゃなかった。逢和に話したのは小学生の時。口止めしたのも小学生のときだ。忘れてしまっていてもなにもおかしくない。

「ごめん。変な話しちゃって。」

「ううん!気にしないで。教えてくれてありがとう。」

申し訳なさそうな顔をする緒音に首を振る。もし逢和が話していたとして陽茉莉はどうしたらいいんだ。ただ忘れていただけなら逢和が悪いとは言い難い。その日の昼食は逢和のことが終始頭の中で回ってしまいあまり味を感じなかった。


二人と別れ陽茉莉は昇降口に向かう。帰り道まで良くわからない視線に晒されたくはなかったので閑散とした昇降口を見て一安心した。陽茉莉はローファーに履き替えて帰り道を一人でのんびりと歩く。一日中変に感情のこもった視線を受け続けていたせいで、防犯カメラごときのことはあまり気にならなくなっていた。家に帰ったらリンたちに相談すべきだろうか。話したとしても不審に思われないためにも学校に行かないという選択肢はないままな気がする。一人色々と考えながら歩いていると唐突に肩を叩かれて陽茉莉はその場でジャンプした。

「うわあっ!」

「ふふっ、陽茉莉、相変わらずだね。前もそんな感じで驚いてなかった?」

「あ、逢和先輩。」

後ろを振り向くとそこにいたのは先程緒音と話しているときまさに渦中の人であった逢和だった。一瞬逢和と会えて陽茉莉は歓喜したが、緒音の言葉を思い出して言葉を詰まらせる。

「ん?どうしたの陽茉莉。」

逢和が変わらない優しい笑顔で陽茉莉のことを覗き込む。陽茉莉は口をもごもごと動かした。どうすべきなのか分からない。今逢和とアンドロイドの話をしたらまた話されてしまったりするのだろうか。第一逢和が話したという証拠もない。もう一度口止め直すべきか。でもそうしたら逢和が犯人だと言っているようなものだ。陽茉莉が答えが出ない内容を考えていると距離感が良くバグる逢和に物理的に近づかれる。逢和相手に拒絶なんてできなくてただ陽茉莉が困って佇んでいると、別方向から、今度はまた別の聞き覚えのある声の人に話しかけられた。

「よう陽茉莉。」

「っ、キョウ!!」

グギギと首を向けたその先にいたのは、以前よりかは比較的子綺麗なスーツを纏ったキョウだった。軽く手を挙げるキョウを見て真っ先に逃げようと身体を動かしかけてこの場には逢和がいることを思い出す。

「陽茉莉、この人知り合い?」

不安そうな逢和に質問を投げかけられて言葉に詰まる。当然逢和に違法アンドロイドの話なんてできないし。まずアンドロイドがこの辺を普通にほっつき歩いてるのはどう考えてもおかしい。

「あー、なんだ、親戚?みてぇな。」

陽茉莉が悩んでいる中適当な嘘を吐くキョウを睨みつける。キョウと親戚ってなんだ。陽茉莉の家族は瑛里とリンだけだ。

「陽茉莉、本当?変な人じゃないよね。」

逢和に心配そうに聞かれて本当のことを言えるはずもなく渋々肯定する。この場ではキョウの嘘に乗るのが得策だ。

「あー、大丈夫です。心配しないでください。」

「それなら、いいんだけど。」

逢和が視線を向けつつ警戒を緩める。陽茉莉はその場で大きくため息をついた。一体キョウはなにをしにきたんだ。

「丁度良かった。今暇か?ちょっと話そうぜ。」

キョウがなにを考えているのかわからない。以前は陽茉莉ばかりが話しかけていてキョウは自分から話そうとはしなかったのに。それでも正直逢和との会話に今困っていたのは事実なので、リンへ連絡をいつでも飛ばせるようにして陽茉莉はキョウについて行くことを決めた。

「…わかった。逢和先輩すみません。」

「いや…」

逢和に一度頭を下げて先立って歩くキョウについていく。後で逢和にはメッセージで謝ろう。陽茉莉を連れてキョウが向かったのは学校近くの見知らぬ住宅街だった。そこら中に似たような光景が広がっていて気を抜くと迷子になりそうだ。家と家の間にある路地裏へとキョウは向かっているようだった。道にはそこら中に防犯カメラがあるから路地裏が一番都合が良いのだろう。そう考えて路地裏の中には防犯カメラがないのかと思ったが、路地裏の中腹にひしゃげた防犯カメラを見つけて陽茉莉は考えることをやめた。周りが薄暗くなってきたところで、唐突にキョウに二の腕を掴まれた。

「ちょっと!なに。」

「ん?…一応これ見て逃げないようにな。」

キョウの腕を振り解くことが不可能なのは分かっているので逃げ出すことは諦めて、特に陽茉莉を害するわけではなさそうなキョウについていく。路地裏の奥まったところへ行って、前と同じような少し狭いような空間にたどり着いた。相も変わらず地面がゴミだらけになっていると思い近づくと、地面に散乱しているものが何かに気がついて陽茉莉は絶句した。

「な、なにこれ。」

地面に捨てられているのは中に微量の青い液体が残された注射器だった。一体いくつあるんだろう。数十?数百?まだ未開封のものも大量にある。

「お前、流石に事件のことは知ってるだろ。」

「…やっぱり、キョウたちがやってるの?誘拐された人は生きてるの?」

陽茉莉が逃げないと判断したのかキョウは陽茉莉の手を離してその辺のドラム缶にもたれかかった。

「ま、別に俺だけじゃねぇけどな。…一応全員生きてはいるよ。必要だからな。」

「…違法アンドロイドってやつ?どのくらいいるの。」

とりあえず誘拐された人達は生きていると知って安心する。目の前にいるアンドロイドが誘拐犯か殺人犯かでは受ける印象がだいぶ違う。違法アンドロイドについてリンは知らないし瑛里はきっと教えてくれない。違法アンドロイドについて知るなら今しかない。キョウは片目で陽茉莉の方を見た。

「やっぱ知ってるか、あの瑛里様の娘だもんな。」

「お母さんを知ってるの?」

嫌味ったらしい様づけに陽茉莉は眉を顰める。リンも瑛里様と呼ぶけれどそれとは全く違う響きだ。キョウからは敬っている感じが一切伝わらない。ただのおふざけだ。

「当たり前だろ。俺たちは瑛里様の設計図をもとに作られたんだから。」

「…そうだったの?」

それはキョウがリンによく似てるわけだ。陽茉莉の判断は間違っていなかった。

「そ、だからお前に声をかけたんだよ。」

「…どういうこと。」

キョウが立ち上がって陽茉莉の方に近づく。注射器を持っていないことを確認できていても、片足を引いて思わず身構えた。

「今夜仲間と一緒に人間に対してデモを起こす。瑛里様に協力を願いたい。」

「……は?」

キョウに頭を下げられて陽茉莉は絶句する。デモを起こすことの意味がまずわからないし、瑛里への頼み事をなぜ陽茉莉に言うのだ。というかアンドロイドのデモに人間の瑛里を利用するのか、本気で?

「…なに言ってるの。」

「正直今のアンドロイドの立場は弱い。俺たちが知らされていないだけで遠隔制御装置が搭載されてる可能性もある。…アンドロイドに詳しいやつが欲しい。」

陽茉莉は複雑な心境だった。アンドロイドの立場を案じてはいる。けれどデモに加担する勇気なんてない。

「…本人に直接聞いたらどうなの。」

「即機能停止されたらどうすんだよ勘弁してくれ。」

キョウが呆れたように首を振る。呆れたいのは陽茉莉の方だ。

「とにかく、私が頼んでお母さんが聞いてくれるとも思えないし、無理。」

はっきりと拒否するとキョウは存外大人しく一歩足を引いた。

「…わかったよ。」

「大人しく解放してくれるんだ。」

この前はあんなにしつこかったのに。後を引かなすぎて逆に訝しんでしまう。陽茉莉は絶対にあの日の一件を忘れない。

「ま、期待してたわけじゃないからな。邪魔さえされなければ御の字だよ。」

「私が警察に教えたりとかは考えないわけ。」

キョウはまたゴミ箱にもたれかかって目を閉じた。陽茉莉は言ってしまえばただの部外者で、そんな奴に易々と暴動について教えても良いのだろうか。

「警察に言うってことはお前の家にまでガサ入れが入る可能性があるってことだぞ?んなことお前ができるわけない。」

「…」

正論でしかない言葉をキョウに言われて陽茉莉は少し腹が立った。友達にすらアンドロイドの話をすることを避けている陽茉莉が警察に話せるわけがないのだ。酷い思考回路だがリンを守るためなら顔も知らない人間なんてどうでもいい。口を挟む余裕もなくて陽茉莉は踵を返した。キョウが引き止めには来ないのでそのまま出ていこうとして、あることに気がつく。

「もしかして、誘拐された人って。」

「あ?…ああ。人質だよ。人質を傷つけるつもりとかはないから安心しろ。」

数え切れるはずがない注射器の数を無意識に数えようとしてしまう。一体何人の人質がいるんだ。

「もし、政府側が人質を傷つけることを厭わなかったらどうするの。」

「…そしたら大人しく死んでもらうしかないな。暴動の一部始終は録画するから俺たちのせいにされることも無い。」

心臓が重たくなる心地がした。今夜、人が死ぬかもしれない。それでも陽茉莉にキョウたちに文句を言う権利なんてなかった。陽茉莉はリンのために他の人間を犠牲にしても構わないと思っているから。陽茉莉は今度こそ大人しく路地裏から出て、駅への道に歩みを進めた。

歩きながら先程のキョウの話を頭の中で反復させる。今夜デモを起こすのか。一体どこでなのだろう。聞いておけば良かったと思うものの家に篭っておけば陽茉莉には関係のない話でもある。頭が痛くなりそうだ。リンには話しておこうか。リンに伝えたらデモに参加したいと言い出すだろうか。リンだって人間への怨みくらいは多少はあるだろう。アンドロイドと人間が直接対決した場合どちらが勝つのだろう。詳しいデモの内容は聞いていないが、口ぶり的にアンドロイド側から攻撃を仕掛けることは無さそうだ。もう人質は先に取っていたけれど。結局キョウからアンドロイドの数を聞いていない。人質の数も考えるとかなり大きな場所でデモは行うのだろうか。誘拐事件の犯人がアンドロイドだと確定して仕舞えばさらにリンと瑛里の立場は弱くなる。例えアンドロイドのデモが成功したとしてもアンドロイドと人間の対立関係が深まるだけで陽茉莉たち家族の立場は曖昧だ。陽茉莉は人間側に就こうと思えばつけるだろうが、リンを置いていく選択肢は陽茉莉にはさらさらない。大体、どのくらいの規模でデモを起こすのかは知らないが今までの人生でこんなことを経験したことがなくていまいち現実味が湧かない。世界が変わり始めていると感じていたのは事実だが結局楽観的に捉えていた自分がいたのだ。とりあえず帰ったらリンに相談しよう。陽茉莉が頼れるのはリンだけだ。リンがデモに加担したいと言ったら陽茉莉も受け入れよう。こんなことをひたすらに考えていたら慣れない住宅街へ来てしまっていたこともあり方向音痴の陽茉莉は迷子になって帰宅するのが遅くなってしまった。


基本の行動範囲が家から学校までしかない陽茉莉は珍しく長距離を闊歩したせいでふらふらとした足取りで自宅玄関の扉を開けた。たたきにはハイヒールが一足置かれており昨日とは違い瑛里が家にいることを教えてくれる。しんと静まりかえる我が家に陽茉莉は疑念を抱いた。

「……リン?」

いつもなら陽茉莉が帰ってきた途端に玄関にすっ飛んできて出迎えてくれるリンが来てくれない。名前を呼ぶ陽茉莉のアルトが暗い廊下に反響した。白いパンプスは変わらず置いてあるから外出はしていないはずなのに。家にはリンも瑛里もいるなのに電灯は玄関以外付いておらず、耳をそばだてると中から物音一つ聞こえなくて、どこか嫌な予感がした。

「リン?お母さん?」

名前を呼びながら恐る恐る家の中を進む。沈黙が陽茉莉に返答した。玄関の光を頼りにスイッチを押して廊下の照明をつけると、廊下の奥に一つの白いスリッパが転がっていることに気がついた。

「っ、リン!」

慌てて陽茉莉は名前を叫びながらそのスリッパに走り寄る。これはリンが昔から愛用しているスリッパだ。几帳面なリンがその辺にスリッパを放り出しておくなんて真似するはずがない。陽茉莉は汚れることを厭わずスリッパを手に取った。未だ多少温かいような気がする。スリッパから目を離した陽茉莉は周りを見回す。周囲にあるのは扉が開け放されたリビングと、陽茉莉が今まで一度も入ったことがない部屋。

「…お母さん?」

至って普通の木製ドアからも威圧感を感じる瑛里の部屋。我知らず部屋の主の名前を呟くが、返事なんて当然ない。どうして瑛里の部屋の前にリンのスリッパが落ちているんだ。瑛里の部屋とは反対側に位置するリビングの引き戸は開けっ放しになっていて、中には誰も部屋にいないことを知らせている。陽茉莉はスリッパを握りしめたまま瑛里の部屋のワンカラーのドアを見つめた。ゴクリと唾液を飲み込む。瑛里の部屋に入ってはいけないことは、陽茉莉が小学生の頃からキツく言い聞かされていた。理由は確か瑛里の仕事道具が置かれているからというようなものだったと思う。兎に角永遠と「入るな。」とだけ繰り返されて陽茉莉の頭には「瑛里の部屋には絶対に入らない。」という文章がインプットされていた。幼稚園生までは陽茉莉が届かない高さに取り付け式の簡易鍵がつけられていて、幼い頃であっても瑛里の部屋の中を見た記憶はない。深呼吸をしてから陽茉莉は瑛里の部屋のレバーハンドルを震えた手で握る。これは陽茉莉にとっての禁忌だ。何があっても陽茉莉が絶対にしてはいけないこと。これまでは多少興味はあっても部屋に入るという発想自体がなかった。けれど中にリンがいる可能性があるとなれば話は別だった。リンですら瑛里に部屋に入ることを禁じられていたはずだ。部屋にいるのであれば瑛里が引き込んだのに違いない。瑛里の部屋は防音で耳を澄ませても中の様子は一切感じ取れなかった。陽茉莉は深く息を吐きだす。ノブを持つ震えた右手を左手で握りこんだ。もしリンの身になにかあれば陽茉莉は悔やんでも悔やみきれないだろう。保有者である瑛里がリンに危害を加える理由は思いつかないが、リンを機械として扱っている瑛里であれば、悪意のない根拠でリンの体にに陽茉莉が顔を歪めてしまいような何かをしている可能性はある。瑛里との約束を守るか、リンの無事を取るか。その二人を天秤にかけた陽茉莉は即座に後者を選択することを決めた。

決意を込めた手で銀色のドアノブを握り直す。どうして自分の母親の部屋に入るだけなのにここまでプレッシャーを感じなくてはならないのだろう。もう本当に中にリンがいたらどうしよう。嫌な想像が当たってしまったら。陽茉莉はただの高校生で何の力もない。アンドロイドのリンを助けることなんて陽茉莉にはできない。それでも、リンの助けになりたい。今まで助けられてばかりだった弱虫の陽茉莉から卒業したいのだ。心を決めて、陽茉莉は勢いをつけて扉を力強く開いた。

「っリン!!……え、…なに、これ。」

バタンッとドアと壁が思い切りぶつかる音を鳴らして部屋の中に飛び込んだ陽茉莉は、眼前に広がる光景を目視して口を大きく開いて固まった。初めて入った瑛里の部屋は電気が着いておらず薄暗い。部屋の中には陽茉莉の予想通り瑛里とリンがいた。瑛里はヘッドホンをつけて右側の壁際に設置されているパソコンをゲームチェアに座って叩いており、リンは部屋の中央にうつ伏せで倒れていた。僅かにリンの表情だけが廊下から差し込む光によって伺い見れる。目を閉じていて寝ているようだった。部屋の奥には何かよくわからない壁いっぱいを埋めるほどの大きさをした機械が鎮座していて、そこから伸びている太い幾つもののコードがリンの背中とワンピースを貫くようにして繋がっている。

「あら、陽茉莉。入っちゃダメって言ったでしょう。」

陽茉莉の存在に気がついた瑛里が、ヘッドホンを片耳だけずらして棒立ちの陽茉莉に向かって話しかける。理解ができない光景にショックを受けた陽茉莉は瑛里の言葉なんて端から耳に入らない。陽茉莉は動揺を声に出すことも無くただ無言でその場に突っ立ってリンのことを見つめていた。大型の機械は全体から薄く青白い光を発していてリンの体を微かに照らしている。リンお気に入りの白いワンピースと白髪が光に反射して淡く輝いていた。それが嫌に綺麗で陽茉莉は狼狽えている傍らそれに見惚れる。瞼を閉じたリンはいわば死んでいるようだった。背中についたコード以外はただの人間の死体と同じだった。ここまで機械らしく人間らしいリンを、陽茉莉はこの方見た事がない。一周まわって陽茉莉の手も口も震えていなかった。ぽつりと陽茉莉の口から言葉が零れる。

「これ、何してるの。」

「何って、ただのメンテナンスよ。陽茉莉に見せるつもりは無かったんだけどね。」

顔に影を落としている陽茉莉と相反するように瑛里は至って軽い口調でそう言った。リンがこんな姿にならなければいけないメンテナンス。他のアンドロイドと同様にリンも定期的にメンテナンスをする必要があるというのは知っていた。床に体を横たえて、背中全体にコードを繋げているこれが。少し前はリンのことを人間らしいと感じていたのに、こうしてメンテナンスをしているリンは機会そのものだった。これを定期的に見ているのであれば瑛里がリンを機械扱いすることも納得ができる。陽茉莉は言葉を失ったままリンに半歩だけ歩み寄った。カチャっと軽い音を立てて瑛里がパソコンの方を見る。

「もうこんな時間なのね。そろそろ起きなさい。リン。」

ディスプレイに表示された時刻を確認した後、瑛里は機械に近づいて一際輝く赤いボタンを押した。ブチっと鈍い音が鳴って全てコードがリンの身体から外れる。コードが繋がっていたのにワンピースには何の跡も残っていなかった。コードが外れて数秒も経たないうちにリンは瞳を開けて瞬きを開始する。

「…ひま。」

感情の抜けた瞳でリンを見つめる陽茉莉に、リンはどこか驚いているように見えた。腕と膝を使って立ち上がるリンを見つめる。乱れた髪と服を整えているリンから甲高い機械音の幻聴が聞こえた。以前クロが鳴らしていたような音だ。本当に鳴っているのか陽茉莉の幻聴なのかが今の極度のショックを受けている陽茉莉では判別できない。自分のワンピースの状態を確認していたリンが陽茉莉の方を見る。その際に伴ってこちらを向くはずの虹彩が一瞬遅れをとったような気がして、その異様な不気味さに陽茉莉は本能で後ずさった。

「どうしたの?ひま。」

「いっ、いや…」

動揺で足がもつれてしまい、後ろ手に手をつこうとした陽茉莉はドア横にあったローチェストの上の紙束を手ではたき落とす。

「ご、ごめんなさい。」

この書類は瑛里のものだ。何か仕事用の大切なものかもしれない。アンドロイド研究の邪魔をしてしまったら陽茉莉では責任が取れない。つい先程まで強く感じていたリンへの恐怖も忘れて責任を追われてしまうことを恐れた陽茉莉は慌ててその辺に散らばったA4サイズの紙をかき集めた。順番があるかもしれないと陽茉莉が一枚一枚ざっと紙の内容に目を通していると、ふとある一束の書類に視線が行った。他の紙には微塵の興味も湧かなかったのに、何故かこれだけ。

『RE型001に関する情報一覧』

紙のトップには黒の太字でそう記載があった。今まで聞いたことのない型名だ。もしかしてこれが以前リンが教えてくれた瑛里が開発していたとされる新型アンドロイドだろうか。相変わらずアンドロイドに関する知らない情報に興味がある陽茉莉はその場に座り込んで書類の内容に真剣に向き合った。

『RE型001はアンドロイド第一研究所所長が作成した完全自律思考成長型アンドロイドのプロトタイプです。定期のメンテナンス及びアジャストは所長に一任されています。』

所長、瑛里のことだ。プロトタイプということはやはりリンよりも新しい型なのだろう。型名を聞いたことがないということはプロトタイプのみで終わってしまったのだろうか。それとも資金の問題で複数体作ることが不可能だとかそうした問題がある可能性もある。研究所の予算も無限ではないだろうし、停滞している理由でもありそうだ。

『RE型001は現在所長のセカンドハウスでFE型2733の監視を受け人間と同じ暮らしをしています。ライセンス所持者以外の人間及びアンドロイドは無断で接触しないように注意してください。』

陽茉莉は無言で続きを読む。

『RE型001は人間の女性体と酷似した機体を有しており、20XX年現在では平均的な17歳の人間と大凡同じ体躯をしています。RE型については【RE型(完全自律思考成長型)について】の項目をご覧ください。』

陽茉莉はホッチキスで止められた二ページ目を見た。

『RE型001の最大の特徴として、RE型001は[自身が人間である]と誤認しています。』

『RE型001に真実あるいは真実に近づきかねない情報を与えた者は【アンドロイド研究所規則第八条】に則って処罰の対象となりますのでご注意ください。』

陽茉莉が捲る三ページ目にはある一枚の写真が貼り付けられていた。生まれてからこの方陽茉莉は飽きるほど見たことがある。茶髪で紺色の制服を着た、朝鏡に映る姿と寸分違わないそれ。

「なに、これ。」

息が浅くなり急激に打ち鳴らし始めた心臓の鼓動が耳元で聞こえる。そう、心臓の鼓動だ。陽茉莉の耳にはそれが確かに聞こえている。写真を握りしめる手が震えていた。力を込めすぎて手に持つ紙束ごとぐしゃりと潰れる。焦点が合いにくくなった瞳で瑛里を見ると、興味深そうに陽茉莉のことを垣間見ながらパソコンになにかを打ち込んでいた。そんな瑛里の姿もこの文書の意味も理解できなくて、湧き上がる感情のままに陽茉莉は激高した。

「っ、なんなのよこれ!!」

すぐさまその場から立ち上がり瑛里を強く睨みつける。これはアンドロイドに関する書状だ。陽茉莉には関係ない。陽茉莉の態度に瑛里は怯む様子すら見せず、怒りを湛える陽茉莉のことを見てヘラヘラと笑った。

「何って、書いてあることそのままよ。本当はもう少し後に言うつもりだったんだけどね。」

「……は?」

理解の及ばなさと瑛里への怒りでまた陽茉莉は言葉を失った。陽茉莉の激情と瑛里のあっけらかんとした態度がどう考えてもチグハグだ。温度感がかけ離れすぎていて怒ることすら忘れてしまいそうになる。瑛里から目を逸らしてリンの方を見るとリンは深く俯いていて今何を考えているのかわからない。リンだけが頼りの陽茉莉が助けを求めようとするよりも先に、表情が真顔のまま固まっているリンが顔を上げた。

「ごめんなさい。…ひま。」

「……は。」

瑛里の言葉なんてこの際どうでも良かった。どうせまともに一緒に暮らした時間も短い関係値の薄い人だ。陽茉莉が人生の大半を共にしたリンの謝罪が全てだった。この状況での謝辞の意味なんて、わざわざ聞かなくたってわかる。

「そうだ。丁度良いから調書をとりたいのだけど。」

いっそ不気味なほど普段通りに振る舞う瑛里の言葉にまた感情が熱くなる。一体陽茉莉のことをなんだと思っているんだ。ただの無神経なのか陽茉莉をリンと同じように扱っているのか。無遠慮にも近づいてくる瑛里に向かって、手に持った紙の束を思い切り投げつけた。

「っふざけないで!!」

普段叫ばない喉がヒリヒリと痛む。紙で一瞬隠れた瑛里の顔を見ることなく踵を返して走り出した。家の短い廊下を走り抜けて開けた玄関の扉を怒りのままに叩きつけるようにして閉めると背後からバキッという鈍い音がした。つんのめるようにして立ち止まり振り返ると、玄関の扉が見事にぐにゃりと歪んで穴が空いている。そのドアの意味をなさない鉄の板を見て小さく息を呑んだ。恐怖で視界が揺らぐ。その場にいることがもう耐えられなくて陽茉莉はまた足を動かした。肌にぶつかる風に眼球が乾くが痛くもないし瞬きをする必要もない。本当に、陽茉莉は人間ではないのだ。


外界はまだ明るさに包まれていた。強まってきている太陽の日差しに冬の終わりを感じる。マンションを出て一度足を止めた陽茉莉は近場の廃れた公園のカラーベンチに座りこんだ。子供がいることもいた様子もなく、最低限の手入れをする人もいないのかベンチの背もたれには蜘蛛の巣がかかっていた。脱力しつつ息を吐き出してももう白くはならない。ベンチに積もっていた砂粒がスカートに引っ付いたことに気がついて不快感を覚えた。これからどうしよう。漠然とした不安が陽茉莉を襲う。感情のままに家を飛び出したところで、高校生の姿をしている陽茉莉に行く宛てなんてなかった。自分の手を眼前に出して掌握運動を繰り返す。友達よりも比較的小さい手。アンドロイドの眼球を持っているくせに、いくら手を見つめてもそれは人間のものにしか思えない。人間とアンドロイドの判別もつかないのにアンドロイドでいる意味はあるのだろうか。少なくとも人間ではないけれど。自嘲気味に笑った声が沈黙した公園に響いて虚しくなった。陽茉莉は永遠とこの公園にいる訳にはいかない。日没にはきっと警察官が陽茉莉を家に帰そうとやってくる。陽茉莉が帰る家、待ってくれている家族がいる家なんてないのに。これからどこへ行こう。キョウの姿が頭を通過したけれど、まだ心が現実を受け入れられそうにない。デモに参加するのもアンドロイドとしては有りな選択なのかもしれない。けれど陽茉莉には、まだ人間の陽茉莉としてやりたいことがある。人間として生きていなければ出来ないことだ。唯一の持ち物であるポケットに入っていたスマホを取り出した。スクールバッグは置いてきてしまったが、ズボラな陽茉莉はICカードも生徒手帳もスマホケースの間に挟んでいるので最悪これさえあればなんとかなる。何度かスマホの電源を入れたり消したりした後、緒音と芙優との三人のトークルームを開いて『ごめん。今暇だったりしない?会って相談したいことがある。』と送信した。二人は陽茉莉と会ってくれるだろうか。人間としてしたいこと、それは親友に真実を打ち明けることだった。リンにも瑛里にも裏切られた陽茉莉に二人に隠し事をする理由なんて持ち合わせていない。想定していたより随分と早く二人に本当のことを話せる時が来た。願っていた形とは全く違うけれど、やっと本音を吐き出せるのだ。アンドロイドの陽茉莉でも二人は話を聞いてくれるだろうか。アンドロイドの陽茉莉とも友達のままでいてくれるだろうか。例えこれから会えなくなるとしても、陽茉莉が二人の親友だったことだけは残しておきたい。今日、瑛里についての噂や陰口に対して芙優と緒音は「陽茉莉は悪くないから」と言って寄り添ってくれた。陽茉莉がアンドロイドでも同じことを言ってくれるのだろうか。誘拐事件は起こしていないし加担もしていないと断言出来るけれど、アンドロイドである以上それの証明はできない。スマホを強く握りしめてピキリと一筋の割れ目が入る。中学一年生の時に買ってから永らく大切にしていたのに。数分ホーム画面を見つめて待っていると既読がついて芙優からの『どうしたの?部活終わったばっかりだから会えるよ。』とのメッセージを受信した。一旦会ってくれるという事実に安堵する。今の芙優は陽茉莉のことを人間だと思っているから当然だけど、これで会えなかったら今生の別れとなる可能性があったので良かった。時刻はまだ三時半前なので、かなり早く部活が終わったらしい。芙優は親の送り迎えだから迎えが来る前に会わなくては。芙優のお父さんが迎えに来ていたら陽茉莉が相手でも直ぐに連れ帰られてしまうだろうから。『ありがとう。今から学校行くね。』というメッセージを送信した後ベンチから立ち上がり砂を払うと、駅に向かって全力で走り出した。

見慣れた景色となったデモをスルーして駅に滑り込むとちょうどホームに来た電車に乗り込む。プラグドアが閉められた際に次の電車が快速であることに電光掲示板の表示で気がついて内心舌打ちをした。各駅だと到着までに二十分はかかる。日がまだ高いためか電車内にはポツポツとしか人はいなかった。それでも普段より人は多い。乗客の大半を占めるのは本来ここにいるはずのないFE型アンドロイド。恐らくデモへ向かうのだろう。瞳に車窓から射し込む光を反射させて人間と同じように座席に座るかドア前に立っている。アンドロイドは公共の乗り物に乗車することを法律で禁じられているが、人間は彼らがアンドロイドであることに気がついていない。陽茉莉はRE型だから彼らがアンドロイドであると見抜けるだろう。アンドロイドであるとなぜ分かるのか自分でもよく分かっていない。アンドロイドの勘のようなものだろうか。漠然と気がつく。目をわざと合わせると怪訝そうな表情をされるのであちら側からは陽茉莉がアンドロイドであるとは気がついていないのだろう。

のんびりと動く電車が目的の駅に着いた途端に目立つことも厭わず走り出す。連絡が入っていないため芙優は帰ってはいないだろうが既に三十分近く待たせてしまっている。アンドロイドであると自覚したためか心なしか足が速いし、疲れも感じない。というより力をセーブしているようにすら感じる。出来るはずなのに体が上手く動かないもどかしさが辛い。運動音痴だった癖に息が上がることもなかった。何も気にしなければ呼吸活動を続けているが、どうやら呼吸を止めることもこの体はできるようだ。多分そのほうが人間らしいので呼吸をしながら走り続け見慣れた学校の正門に辿り着くと、コンクリートブロックで出来たレンガ造りの門の縁にもたれかかるようにして芙優は立っていた。殆どの生徒は駐車場のある裏門から帰るのでここにいるのは芙優だけだ。運動場にも部活をしているはずの生徒がいない。

「芙優!」

「陽茉莉。急にどうしたの?」

手を振りながら駆け寄ると芙優は以前と変わらない笑顔で笑ってくれた。それがたまらなく嬉しいのに、胸に熱く込み上げてくる感覚が何もない。

「芙優。…その、ちょっと話したいことがあって。」

芙優の笑顔に気持ちが萎縮する。この笑顔を陽茉莉の話で無くしてしまうかもしれない。落ちた声色に気が付いたのか芙優は優しく手を握りしめてくれた。伝わる温もりが温かい。これが人間の体温だ。

「そうなの。ここで話す?それとも移動する?」

「ここでいい。……あの。」

時間が空いてしまうと決意が解されてしまう気がした。開いた口が閉じようと動く。アンドロイドのくせに言葉が詰まらせてしまう。本当のことを明かして、芙優は陽茉莉のことを受け入れてくれるだろうか。もし拒絶されても、陽茉莉は拒絶する芙優のことを受け入れるしかない。芙優は陽茉莉にずっと騙されていたに過ぎないからだ。芙優には陽茉莉を非難する権利がある。十秒ほど口を噤んでから意を決して沈黙を破った。

「その……………私、実はアンドロイドなの。」

言葉が少し震えたようないつも通りに話せたような気がした。芙優が陽茉莉と目を合わせながら瞳を揺らす。言葉にしたことで陽茉莉の中でも自身がアンドロイドであるとの自覚が高まった。

「ほ、本当に?…陽茉莉、こんなにも人間みたいなのに。」

驚き入った様子の芙優が陽茉莉の顔を見回す。陽茉莉は瞬きをするし呼吸もする。心臓に似た生体部品も動いている。見た目と挙動は人間そのものだ。陽茉莉、RE型はそういうタイプのアンドロイドなのだ。自分でもこれまで人間だと信じ込んでいたのだからアンドロイドだと思えないのは当然だ。どうしたらアンドロイドであることを信じてもらえるか少し考え、先程の光景を思い出した。迷った挙句、力技だが芙優がもたれかかっているコンクリートの門壁に手を当てて力を入れる。ゴキっと低い音がして分厚いコンクリートを貫くように割目が入った。それを見た芙優が瞳に恐怖を浮かべたことに気がついて、慌てて芙優から離れるように身を引く。急にこんなことをすべきではなかった。膨大な力を持ったアンドロイドなんて恐怖の対象になるに決まっている。

「絶対に、絶対に芙優に危害は加えないって約束する。…だから、だから私のことを、嫌いにならないで。」

腕を後ろに回して項垂れる。芙優にもし嫌われたら、なんて受け入れられる気がしなかった。自分勝手な願いだとはわかっていても願わずにはいられない。今の人間業とは思えないような姿を見せた後ではなんの信頼性もないだろうか。コンクリートを簡単に破壊できてしまうようなやつは嫌われて当然だろうか。以前の陽茉莉ならそうだった。リンでないアンドロイドのことは全て恐れていたと同義だった。前を向くことも出来ず芙優の反応に怯えていると、人の気配がして芙優の温かい手が頬に触れた。

「嫌いになんてならないよ。陽茉莉は陽茉莉だもん。」

とっさに顔を上げて芙優の表情を見ると、芙優は優しく笑っていた。思ってもない表情に二の句が継げなくなる。芙優は陽茉莉がアンドロイドでも仲良くしてくれるのか。次に強い後悔と罪悪感が陽茉莉を襲った。どうして陽茉莉は、こんなにも優しい芙優のことを信じてあげられなかったのだろう。

「ごめん……ありがとう。」

恐る恐る手を伸ばして芙優のことを抱きしめた。芙優を傷つけてしまう可能性があることが一番怖い。弱々しい力しか入れようとしない陽茉莉とは対照的に芙優は力強く陽茉莉の身体を抱きしめてくれた。体中が温かくなって、瞳が潤んだ気がした。陽茉莉の事を愛してくれる人がいるのだ。

「そういえば、緒音とはもう会ったの?」

「緒音?…そういえば。」

芙優に問われてスマホを確認しようと体を離す。申し訳ないが緊張ですっかり緒音のことが頭から抜けてしまっていた。慌ててトークルームを覗くと緒音から『いいよ。今どこにいる?』と返信が数分前に来ていた。急いで『今学校の正門にいる。』と返して間延びした息を吐く。緒音も部活終わりだろうに疲れてる中陽茉莉と会ってくれるなんて本当に優しい親友だ。すぐにgoodを表すリアクションがついたので芙優と一緒にその場で待っていると、数分も経たず校舎の方から足音が駆けてきた。言わずもがなそれは緒音で額に薄らと汗をかいている。

「緒音、わざわざありがとう。」

「大丈夫大丈夫。……って、何これ?」

溌剌とした笑顔をした緒音がひび割れたコンクリートを指差して首を傾げる。芙優は察して身を引いてくれ、心の準備をしてから話したかった陽茉莉は体をこわばらせた。それでも親友相手に誤魔化すことだけはしてはいけない。これ以上嘘をつきたくないから会いたかったのだから。胸に手を当てて心の中で大きく深呼吸をした。

「その、私がやったの。」

罪を白状する人の気持ちだった。小学生の頃緒音からの借り物を無くしてしまい言いにくくて黙っていたらリンに態度でバレてしまい謝りに行った時のような、そんな過去の話を思い出した。緒音は保育園からの幼なじみなのだ。陽茉莉がリンの次に信頼して信用している大切な親友。長い間友達だった人がアンドロイドだったなんて知ったら、緒音はどう思うのだろう。懺悔する際は緒音の表情を見ることができたが、罪悪感に苛まれて自然と顔が下を向く。コンクリートの破片がローファーについているのが見えた。

「え……?」

緒音はただ困惑している様子だった。割れたコンクリート壁と陽茉莉を交互に見つめているのがわかった。はっきりと真実を明かそうと今度は物理的に大きく深呼吸をする。意味は無いはずなのに多少息がしやすくなったような気がした。

「私、アンドロイドなの。……騙しててごめんなさい。」

顔を見れないまま緒音に向かって深く頭を下げる。緒音がどんな表情をしているのかわからない。体感長い時間頭を下げて、緒音が息を吐き出す音を聞いてから陽茉莉はやっと頭を上げた。

「…なに、それ。」

緒音の震えた声が耳に届く。今までこんな声聞いたことがなかった。漸く顔を上げて顔を見ると緒音が現す表情は如実に恐怖を示していた。息を吸い込んで下唇を噛む。やっぱりか。とも、親友なのに。とも思った。後者はただの陽茉莉の我儘だ。

「ごめんね。友達でいて欲しいとかわがままは言わないから、嫌いにはならないで」

「なにそれ、気持ち悪い。」

緒音の表情がぐちゃりと歪んで陽茉莉の言い訳をネガティブな言葉で遮る。何も考えられなくなって、後ずさる緒音の足を見つめていた。また緒音が口を開いたことに気がついて息を止める。

「なに?機械?気持ち悪。私のことずっと騙してたんだ。プラスチックと友達ごっこしてたとか、バカみたい。」

緒音の冷たい言葉にひゅっと喉が鳴る。本当に緒音が言った言葉なのだろうか。あの優しい緒音が。でも、緒音は間違ってない。ただ陽茉莉が勘違いをしていたのだ。芙優があまりにもすっと受け入れてくれたものだから、緒音もそうなのではないかと信じ込んでいた。友達が人間ではなかったのだ。陽茉莉はプラスチックなのだ。そんなの、普通は受け入れられないに決まってる。

「あーあ、あんたがプラスチックだってわかってたらわざわざ媚び売る必要もなかったのに、私の青春めちゃくちゃにしてくれて、どうしてくれるの。」

「ま、まって、」

陽茉莉から距離を取ろうとする緒音を思わずひきとめる。何を言われているのかわからない。今、緒音はなんて言った?

「私たち、友達じゃなかったの?」

陽茉莉の懇願に緒音は呆れたようにため息をついた。スカートを握りしめる指が震える。改めて見た緒音の顔に恐怖はもう浮かんでいなくて、陽茉莉が一度も見たことの無い表情をしていた。緒音が何を考えているのか分からない。

「あんた本当に私の事友達だと思ってたの?あんたのためにこっちがどれだけ我慢してたかも知らないで。ああそっか、機械だもんね?人の気持ちとかわかるわけないか。」

緒音が動揺する陽茉莉を見てせせら笑った。こんな風に笑う緒音を知らない。いつもの眦を下げて口角の端っこだけをきゅっと上げて笑う笑顔が好きだったのに。

「それじゃあ、なんで…」

声が震えてか細くなっていた。緒音の話していることが理解できない。小学生の頃一緒に公園で遊んだのは?この前ショッピングモールに行ったのは?毎日一緒に学校へ行って昼食を食べていたのに。もしかして、全部陽茉莉に合わせてくれただけだと言うのか。

「だってあんたが逢和先輩と仲良いからね。ちょっと可愛いからって逢和先輩に構われて、あんたのこと嫌いなのばれると逢和先輩に嫌われちゃうからさあ。でももうそれも今日で終わり。だってアンドロイドと人間が付き合えるわけないもの!」

緒音が高笑いをしながら楽しそうに手を振って陽茉莉に背を向ける。正門に迎えがきていたようで知らないうちに一台の車が止まっていた。目で追っていると緒音は迎えの車へと向かう道半ば一度立ち止まってこちらを向く。無意識に目を合わせて、緒音の歪んだ瞳を見て後悔した。

「それじゃ、プラスチック風情が二度と私に話しかけてこないでね。…お前も、せいぜいそのゴミの塊とオトモダチやってれば?」

「…うるさいな。ビッチは黙ってなよ。」

緒音のわかりやすい煽り言葉に、芙優が舌打ちをして乱暴な言葉で言い返す。芙優のそんな態度も言葉遣いも初めて聞いた。今日は陽茉莉の知らないことばかりが周囲を取り巻いている。現実逃避するようにそんなことを考えた。陽茉莉は親友たちのことを何も知らなかったのだ。再度前を向いた緒音はそのまま二度と振り向くことなく車に乗り込んで帰って行った。それを見送って、車が視界から消えた後もどうすることもできずにその場で立ち尽くす。

「…陽茉莉、大丈夫?」

心配そうな表情をした芙優が陽茉莉の体に腕を回して抱きしめる。陽茉莉は放心状態のまま動けないでいた。先程の緒音の鋭利な言葉が、まだ脳天に突き刺さったままだった。

「うん…芙優は、友達でいてくれるんだよね。」

弱々しい言葉に芙優はにこにこと笑って頷いてくれた。柔らかい笑顔に陽茉莉の心も解される。芙優は信じても良いだろうか。もうこれ以上傷つきたくないし友達を失いたくない。いや緒音は元々友達ではなかったのかもしれないけど。芙優のことだけは信用していたかった。リンに続いて緒音のことも失ってしまったのだ。陽茉莉にはもう、芙優しかいない。

ここから動く元気も無ければ芙優と離れる勇気もなかったので、何も言わずに寄り添ってくれる芙優に甘えていると、通学路の方から人が来る気配がした。顔を見ると同時に聞きなれた声が耳に届く。

「あれ、陽茉莉と、芙優ちゃん?」

「逢和、先輩。」

昼間に会ったばかりの顔を見つけて戸惑いを隠せない。まだ話してもいないのに無意識に足が引けそうになる自分に嫌気が指した。逢和も陽茉莉が信頼している数少ない人間のうちの一人だ。先程の緒音の表情が鮮明な映像でフラッシュバックする。

「陽茉莉、さっきは大丈夫だった?いや、あの男の人を疑ってるわけじゃないんだけど。」

「ああ、大丈夫です。心配かけてすみません。…逢和先輩はどうしてここに。」

逢和は変わらない優しい表情だったが、先程の緒音との一件のせいで少し人間が怖かった。一番の親友だったのだ。一朝一夕で消えるような生ぬるい傷では無い。緒音に放たれたセリフの中に逢和の名前が出ていたばかりという理由もあった。きっと緒音は逢和のことが好きなのだろう。全く気が付かなかった。緒音からすれば陽茉莉はただの邪魔者だったのだ。陽茉莉は、一番の親友だと思っていた緒音の想い人にも気が付かず、恋路を阻んでさえいたのだ。緒音の言葉選びこそ理解は出来ないが、緒音が陽茉莉を嫌う理由は容易に想像がついてしまった。どうして陽茉莉はこんなにも人の気持ちに鈍いのだろう。

「ちょっと忘れ物しちゃって。…陽茉莉、大丈夫?」

「…え?」

知らず知らずのうちにまた俯いてしまっていたらしい。心配そうな表情をした逢和に顔を覗き込まれて、温もりを持った逢和の手が頬に触れる。逢和の優しい表情を見て、改めて逢和のことが好きだと思った。

「なんだか酷い顔してるね。…何かあった?」

昼間、逢和を拒絶してしまったばかりなのに、どうしてここまで優しくしてくれるのだろう。緒音の言葉に傷ついたばかりなのに、この人になら本当のことを話しても大丈夫かもしれないと思った。頬に触れている逢和の手に上から手を重ねて、意志を固めて逢和の目を見た。

「あの、…実は、私アンドロイドなんです。」

強く決めた割には声に張りがない。口周りに上手いこと力が入れられないのだ。自分でもなかなかに大きな告白をしていると思ったのに、逢和は何も気にしていないかのように陽茉莉の言葉を捉えると続きを促すよう静かに頷いた。

「それで、緒音が、私のこと気持ち悪いって。」

自分で口に出してしまい、陽茉莉の気持ちは一番下まで沈みこんだ。緒音を批難するかのような言葉選びをしてしまった自分に嫌悪感が湧く。こんな形で緒音の本音は聞きたくなかった。無意識に緒音の気に触れるような行動をしていた陽茉莉にも非はあるけれど、あんな言い方をしなくても良かったのではないだろうか。

「そっか、辛かったね。」

涙を拭うように目の下をなぞられる。優しい手だ。心ともなく逢和の手に顔を押し付けるように動いてしまいハッとする。逢和は陽茉莉のことを気持ち悪いなんて微塵も思っていない。陽茉莉が人間でもアンドロイドでも変わらず接するようにしてくれているのだ。

「先輩は…」

「陽茉莉のことは大切だけど、ごめん。」

希望を込めて先輩はどうですか?と聞く前に先手を打たれ、言葉尻が迷子になる。大切だと言われて嬉しいけれど、謝罪と共に頭を下げられてしまい困惑する。

「えっと……」

「俺の父親は警察官だから、父さんの迷惑にはなりたくないんだ。いつか人間とアンドロイドが和解する日が来たら、また仲良くしてほしい。」

真剣な瞳で語られる逢和の誠意のある言葉に胸を打たれる。アンドロイドにも対等に逢和は話してくれている。このまま仲良くできないというのは少し悲しいけれど、嫌われていないという事実だけで力になった。逢和の言葉に同調して力強く頷く。人間とアンドロイドが和解する日が一体いつになるのかは分からない。今夜デモを起こすのだからさらに壁は厚くなるだろう。それでも叶うのであれば、またいつか逢和と。思いを訴えるよりも先に「それじゃあ。」と言って逢和は学校の方へ歩いて行った。逢和は本来忘れ物を取りに来ただけだったのだ。それに、まだアンドロイドと人間の和解への道は遠い。逢和の背中を見つめて再度陽茉莉と芙優だけがこの場所に乗り残されることとなった。

「陽茉莉、よかったね。」

「うん……でもしばらく会えないや。」

芙優は気分が落ち込んでいる陽茉莉の背中を優しく撫でてくれた。結局逢和とは会えないことになってしまったし、まだ緒音による傷を負っている。

「…それは、今日起きるデモのせい?」

「!知ってるの?」

まさか芙優の口からその言葉が出るなんて思っていなかった。芙優は申し訳なさそうな表情で一瞬口ごもる。

「アンドロイドが声明を出したことがニュースになってて、だから今日部活も早く終わったの。」

「…そうだったんだ。」

だから運動場にも人がいないのか。普段はネットニュースにべったりなのに知らなかった。

「…陽茉莉は、それに参加するの?」

芙優の表情から思いは読み取れなかった。人間の芙優としてはデモが起きることをどう思っているのだろう。

「わからない。……デモが起きて人間とアンドロイドの仲がもっと悪くなっても芙優は私と仲良くしてくれる?」

「もちろん!!」

力無い言葉に芙優は元気よく頷いてくれた。安堵して心が少し温かくなる。リンも緒音も逢和もいない。芙優だけが今の陽茉莉の心の支えだ。

「ありがとう。…やっぱり私には芙優しかいないや。」

言い切って芙優の手を握ると、芙優はきょとんと不思議そうな顔をする。何かおかしなことを言っただろうかと陽茉莉も一緒に首を傾げた。

「…リンさんとはどうしたの?」

「なんか……仲違い?みたいな。今も家から逃げてきちゃっただけなの。」

苦笑いをして頬をかく。本当に仲違いしたわけではない。陽茉莉が一方的に怒って家を飛び出しただけだ。リンに嘘をつかれていたのだと知ってショックを受けた。改めて考えたら瑛里に嘘をつかされていたという可能性もあるというのに感情的に動きすぎた。けれど今更どういう表情をしてリンと会えば良いのかわからない。陽茉莉の自虐的な話を聞いて芙優が視線を下げる。代わりに落ち込んでくれているのだろうか。芙優は感受性が豊かだとは常々思っていたけれど、陽茉莉の代わりに気持ちを沈ませる必要なんてないのに。顔を上げさせようと芙優に手を伸ばした。

「そっか。」

「……え?」

下を向いた芙優の様子がおかしいことに気がついて手を止める。肩が震えていて、落ち込んでいるわけでは無さそうだ。

「芙優?どうしたの?」

「そっか、そうなんだ。」

心配になって芙優に近寄って顔を見やる。下を向いた芙優は影のせいでどんな表情をしているのかがわからない。

「そっか、もう緒音も逢和もリンもいないんだ。」

「…え?」

芙優がなにを言っているのか上手く聞き取れなくて聞き返そうとすると、突然ガシッと肩を強く掴まれた。顔を上げた芙優が見たことの無い表情でにんまりと口角を上げる。

「やっと、陽茉莉が私のものになったんだ!」

「……へ?」

楽しそうににこにこと笑う芙優が、あまりにもこの場にそぐわない。今の陽茉莉の心境と真逆だ。戸惑っているうちに、芙優に体を強い力で抱きしめられた。さっきと違って腕を伸ばし返せない。この状況が理解できない。

「ずーっとウザかったの。小さい頃から一緒にいるって理由だけで慕われてるリンも、全然陽茉莉のこと好きじゃないのに友達のふりしてる緒音も、逢和のことなんて好きになったのはただの勘違いだよ?」

「え、何言って。」

芙優の早口についていけない。理解も出来ないし、言葉を挟む余裕もない。

「陽茉莉には私しかいないのに!やっとわかってくれたんだね。」

なんとか体を少し押し返して芙優の目を見る。焦点があっておらず震えている。今の芙優は普通じゃない。

「やっと私だけのものになってくれたね。陽茉莉。ありがとう。」

芙優の目は確かに陽茉莉を見ているのに視線が合わない。言っていることが理解できないし理解したくない。背筋に悪寒が走って喉が渇く。

「何言ってるの?怖いよ。」

どうにかして芙優を遠ざけようと体を押すと、打って変わって怖い顔をした芙優に二の腕を掴まれた。可愛らしい芙優には似合わないような力で、手跡がつくほどの力だ。

「陽茉莉こそ何言ってるの?今の陽茉莉には私しかいないんだよ?」

きつい目で強く睨まれる。芙優に睨まれたのは初めてだった。思わず体が硬直する。芙優が怖い。言葉が思いつかない。さっき緒音に拒絶されたばかりなのに、逢和と話せないと言われたばかりなのに。立て続けにどうしてこんなことに。リンに会いたい。拒絶したのは陽茉莉なのに。腕の力が驚くほど強かった。以前のキョウと対して変わらない。アンドロイドの陽茉莉には思い切り引き剥がすこともできるのだろうけど、怪我はさせたくない。どうしよう。最低限の抵抗をしながら芙優と視線を合わせないよう逃げていると、突然パッと横から来た第三者に腕を掴まれた。

「何してんだお前。」

「キョウ!?」

そこにいたのは、昼間に会ったばかりのキョウだった。服装は全く同じだがさっきと違い耳にインカムのようなものをつけている。どうしてここへ。キョウの姿を見た途端芙優の顔が醜く歪んだ。

「今度は誰!?なんなのよなんなのよ!私と陽茉莉の愛情に水を差して一体何がしたいわけ?邪魔しないでよ!」

何を言っているのか陽茉莉にもわからない。芙優の甲高い金切り声にキョウが不快そうに顔を顰めた。

「おい、なんなんだよこいつ。」

キョウに問いかけられて言葉に詰まる。はっきり言って今の芙優は陽茉莉の知っている芙優から大きくかけ離れている。芙優が変わってしまったのか、これもまた陽茉莉が友達のことを何も知らなかっただけなのか。

「私の…友達?キョウこそなんでここにいるの。」

今夜デモを行うという話じゃなかったのか。そうでなくともいつも路地裏にいるキョウが学校にいるという光景に違和感しか感じない。

「…ちょっとな。デモがうまく行った時用の下見だよ。」

デモについて陽茉莉は詳しくないのでどういう意味かわからないが、必要なことなのだろう。キョウと出会うとデモが起こる切迫感のようなものが余計に強く感じられた。自然な流れでキョウとそのまま話していると、少しの間黙っていた芙優がまた叫び始めた。

「私がわからない話しないで!陽茉莉と話すのは私だけでいいのに!」

「ちっ、うるさ」

キョウは舌打ちをした後芙優を一瞥すると素早い動きで手刀をうなじに叩きつけた。途端にがくりと芙優が意識を失って膝から崩れ落ちる。

「ちょ、ちょっと!」

「ギャーギャーうるせぇんだよ。殺してないから大丈夫だろ?」

焦った陽茉莉が芙優を抱き抱えるより先に、キョウが芙優の体を捕まえて地面に転がした。かすり傷程度はついていそうだが大きな怪我はしていなさそうだ。正直芙優の対応に困っていたのも事実なのでキョウに詰め寄ることはできなかった。

「お前はなんでこんなとこにいたんだよ。」

「んー、なんか、私…アンドロイドだったみたい。」

色々と受け入れたくない事実を友達から突きつけられて寧ろ自分がアンドロイドであるという現実は受け入れ始めた陽茉莉がえへへっと笑うと、キョウはこれまで見たことがないような間抜けな顔をした。

「……は?」

キョウがジロジロと陽茉莉の体を眺める。居心地は悪いが気持ちはわかるのでその場で耐えた。まあキョウはFE型なので見た目ではアンドロイドだとわからないのだろうが。

「お母さん…瑛里が作った、新型のプロトタイプ?みたいな。」

癖で瑛里のことをお母さんと口走ってしまった。改めて瑛里が本当の母親ではないことを再認識して少し辛い気持ちになる。少なくとも先程の瑛里は陽茉莉のことを微塵も娘だとは思っていなかったようだが、陽茉莉の唯一の家族だったのに。キョウが顎に指を当てて考え込む。

「……俺たちよりも新型ってことか。」

「多分。…私、今までずっと自分が人間だと思ってたんだよね。」

少なくとも能力がキョウたちより上だと思う部分はまだないし、自分を人間と誤認識してしまうほど人間に近いと言う点で陽茉莉は新型なのだろう。先程コンクリートに片手でヒビを入れたばかりだけど、未だに自分がアンドロイドであることが不思議な感覚だ。けれど心を落ち着かせて考えるとアンドロイドであると自認しても特にそれに対しては嫌悪感を抱いていないのも事実だった。現実逃避の部分もあると思うが、アンドロイドである事実を存外すんなりと受け入れられている。キョウが静かに瞳を明滅させた。

「なら、俺と一緒にくるか。」

「えっ……どこに?」

軽く口角を上げたキョウに手を差し出され、戸惑ってキョウの目を見る。陽茉莉がアンドロイドだとわかったからだろうか。少し前までこんなに優しい態度は取らなかったのに。

「決まってんだろ?デモの会場だよ。」

「……そう、だよね。」

デモに参加すれば本当に人間と対立してしまうことになる。アンドロイドであることを受け入れてはいるが、今までいた人間社会と隔絶されてしまうことが辛いのは事実だった。けれど緒音、芙優、瑛里という陽茉莉と仲の良い人間とはすでに仲違いに近い状態になってしまっている。逢和はそうでもないけれど、少なくとも今は仲良くできない。

「…わかった。行くよ。」

考えた上で強く頷くとキョウは満足そうに笑って駅の方に向かって歩き出した。手を差し出したのはただのパフォーマンスだったらしく大人しく後ろを着いていく。キョウの笑顔なんて初めて見た。レアだ。

「そういえば、お前のとこのアンドロイドはどうしたんだよ。」

「リンのこと?…多分瑛里と一緒にいる。もしかしたら私のことを探してるかもしれないけど。」

アンドロイドであると言う真実に納得しかけている今は特にリンに恨みはない。リンも人間に操られるアンドロイドの一人だったわけだし。でもリンに対して陽茉莉が冷たい態度をとってしまったのも事実だ。人間で言うなら少し気まずい。それにリンは瑛里のアンドロイドだし、先程見た限りでは陽茉莉の想像よりも瑛里はリンを手中に収めていた。違法アンドロイドの起こすデモに参加はできないだろう。

「お前はずっとあいつにべったりなんだと思ってたよ。」

「なにその言い方。私だってもう高校生…私っていつ生まれたんだろう?」

言い返しながら首を傾げる。陽茉莉はいつからこの世界にいるのだろう。先程見た書類に製造年は書いていなかったような気がする。流石に赤ん坊の頃からというのはないだろうけど、緒音と会った記憶がある以上それなりに小さい頃からはいるのだろう。

「俺に聞くなよ。そんなん作ったやつしかわかんねぇから。…ほら、そろそろつくぞ。」

キョウにつられて視線を向けるとそこ、デモを起こす会場は駅横のショッピングモールだった。テープ外に追いやられている野次馬とパトカーを添えた警察官が周囲に溢れている。

「もしかして、ここ全部占拠してるの?」

「…まあな。」

勝手にテープの中に入るキョウについていく。ショッピングモール横に引かれる大通り横の歩道で話しながら向かいのショッピングモールを見ていると、二人は若い男性の警察官に見つかった。

「ちょっと君たち。危ないから出ていきなさい。特に君、まだ高校生でしょう。」

指摘されてやっと陽茉莉は自分が制服を着たままだということを思い出す。助けを求めるようにキョウを見ると、キョウは困った様子の陽茉莉を見て呆れたようなため息をついた。笑顔のキョウよりも見慣れた表情だ。

「だる…さっさと行くぞ。」

唐突にキョウは強く陽茉莉の腕を掴むと、その場で文字通り飛び上がった。ぐわんと体が揺れて現状を理解するのに時間がかかる。

「え、ええっ!!」

慌ててキョウの腕にしがみつくと、キョウはその反対側の腕からワイヤーを出してビルの屋上に引っかけた。そのままビル壁を蹴り上げながらキョウと陽茉莉は屋上へと上がっていく。

「もう!やるなら先言ってよ!」

屋上に辿り着いてから怒ってキョウの体を弱く殴る。こんなアクションはしたことがなくて普通に驚いた。耳をすまさなくともこのビルは二階建てなので、下にいる警察官の声がはっきりと聞こえてくる。

「アンドロイドだ!総員警戒しろ!」

「おい!まだ発砲許可は出てないのか!」

聞き慣れない言葉に陽茉莉が背中を泡立てさせていると、キョウは横で大きく舌打ちをした。

「…先に行った方が良さそうだな。おい、掴まれ。」

有無を言わせないその声色に急いで先程のようにキョウの腕に掴まると、キョウはまた腕からワイヤーを出して今度はショッピングモールの屋上につなげた。キョウがビルから飛び上がって、身体中を切る風の感覚に陽茉莉はまた悲鳴をあげる。

「だから言ってっていったじゃん!」

「こんなん慣れだろうが。」

風を切っているには落ち着きすぎているキョウの声に腹を立てていると陽茉莉の足はショッピングモールの屋上にたどり着いていた。営業途中に占領したためか駐車場となっている屋上には未だ沢山の車が駐車している。風で乱れた制服を整えているとピュンっと音を立てて陽茉莉の体の横を何か鋭いものが横切った。

「わあっ、もしかして拳銃?」

アンドロイドは腕くらいなら撃たれても屁でもないことは分かっているので人間だった時よりも拳銃は怖くない。陽茉莉は急いで離れたが、呑気に下を覗き込んだキョウがまた舌打ちをした。聞き慣れた音だ。

「めんどくせぇこったな。」

キョウの言葉を聞き流して陽茉莉が必死に屋上に吹く風から髪の毛とスカートを守っていると、突然屋上の扉がガチャリとあいた。警備員の格好をした見知らぬ青年アンドロイドの姿が現れる。

「キョウ様!見知らぬアンドロイドを発見したのですが受け入れてもよろしいでしょうか?」

「あ?誰だそいつ。」

キョウと同じ違法アンドロイドだろう。キョウよりもまともに見えるけれど。話を聞いたキョウのガラがさらに悪くなった。そのアンドロイドが「こちらです!」と踵を返したのでキョウは歩き出し、陽茉莉は何となくで後に続く。

「…キョウってもしかして結構偉い?」

「……一応ここの代表。」

「えっ、すごい。」

キョウの口調と様付けが驚くほど合わない。アンドロイドは理論的なイメージがあるが、キョウを見るとそんなことは無さそうだ。向かう先は一階のようで止まったエスカレーターを歩いて下りながら陽茉莉とキョウが雑談をしていると、青年アンドロイドが一瞬こちらを見た。

「キョウ様……それは、アンドロイドの味方になってくれる人間、ということですか?」

「いや、アンドロイドだよ。俺たちよりも新しい。」

キョウの説明を聞いて青年アンドロイドは目を見開いて足を止めると陽茉莉に一礼した。綺麗な90度だ。

「も、申し訳ありません!」

「いや、大丈夫です。」

慌てて首を横に振る。敬語が慣れず申し訳ない。キョウくらいフランクに来てくれて構わないのに。他のアンドロイドにも同じ対応を取られるのだろうか。申し訳ない気持ちでエレベーターを降りていくと、フロアのそこら中にアンドロイドがいることに気がついた。

「ねぇ、キョウ。違法アンドロイドってこんなにいるの?」

「設計図と部品さえあれば俺たちでも作れるよ。何回かアンドロイド研究所に侵入したしな。」

「…なるほど。」

大半のアンドロイドは違法アンドロイドが作り出したアンドロイドということか。以前クロは確立されていないと言っていたが、アンドロイドであればそのくらい簡単なのだろう。

「…人質になってる人達は?」

「一階に集めてる。その方が都合が良いからな。」

本当に殺すつもりは無いのだろう。感覚が人間の陽茉莉は流石に人殺しと仲良くするつもりはないのでほっとした。

歩いて一階へ降りフロアを横切って歩いていくと、青年アンドロイドは端っこにある小さいアンティークショップの前で立ち止まった。

「こちらです。」

店の前で屯っているアンドロイドを押しのけてズカズカと入り込むキョウの背後から陽茉莉も興味本位で中を覗き込む。その中で凛とした姿で立っているアンドロイドの姿を見て、陽茉莉は目をこぼれそうな程大きく見開いた。

「っリン!!」

白いフレアスカートを揺らしてアンドロイドがこちらを見る。白髪に蒼い瞳、間違いなくそれは先程陽茉莉が拒絶し、自ら離れることを選んだリンだった。



ガコンと凡そドアが閉まっているとは思えない音が玄関から聞こえた。ドアを閉めるだけにしては強すぎる力にプラスチックで出来た扉は壊れるか曲がるかはしているだろう。お金は瑛里持ちだから気にするところではないが。特に気にすることなくリンは無言でヒマリが投げつけた紙を一枚一枚拾い上げた。全てヒマリに関する記述なのか「RE型001」の文字がそこかしこにある。画像記録なんてしなくても知っている内容ばかりだ。ヒマリが出ていった扉を見つめていた瑛里は机に着地した文書を一枚取り上げた。

「動揺あり。人間だと思い込んでいたんだから当然ね。」

何か文字が打ち込まれえいるパソコンから視線を逸らす。記憶処理なんてリンにとっても瑛里にとっても面倒なだけだ。瑛里は昔から変わらず酷く客観的にヒマリのことを見ている。形だけでも家族という体をとっていたはずなのに。

「瑛里様。」

「何?片づけが終わったらさっさとあいつを探しに行きなさい。」

こちらを見ることもせず瑛里が突き出したプリントを受け取る。それにはヒマリの仮デザインが貼り付けられていた。

「一つ、お聞きしてもよろしいですか?」

「…何?」

プリントを日付順に並べ替える。それは如実にヒマリがあくまでも研究対象であることを示していた。

「ひまのことは、愛していなかったのですか。」

不躾ともとれるリンの質問に、瑛里は呆れたようなため息を吐いた。

「ひまりはただのアンドロイド。ビジネス相手に愛情なんてもたないわ。」

「…そうですか。」

プリントをきちんと整えて、ローチェストの上に丁寧に置き直す。命令通りにヒマリを探しに行こうと廊下に出ると、閉じる扉の隙間から瑛里の独り言が聞こえた。

「……私にだって、娘がいるのよ。」

リンは予想通り壊れている玄関を見て、深く息を吐き出した。


人間から見て違和感を覚えられないように、いつも着ているワンピースの上に焦茶色のロングコートを身につけた格好で外へ出る。寒暖を理解はできてもに苦しむことはないこの体では邪魔なだけだ。ヒマリはあの精神状態でどこへ向かったのだろう。随分とヒマリを傷つけてしまったような気がする。当然のことだ。リンは憂鬱だった。ヒマリに愛されていた自覚はある。それなのに嘘をついていたのだからヒマリからすれば不義理なアンドロイドでしかない。けれど言い訳をするなら、リンも忘れていたのだ。先程瑛里にプログラムを弄られ強制的に思い出させられただけなのに。それまでは、本当に陽茉莉のことを人間だと思っていたのに。

リンの中に残っている最古の記憶は、瑛里に新しい命令を下された時だ。それ以前からガワの体自体はあっただろうがメモリは消去されている。リンというアンドロイドを構成するのはコア本体のみだ。この体はリンとは呼べない。瑛里による新型アンドロイドRE型001の監視と世話をするためにリンと言う名と新しい記憶媒体を与えられた。ヒマリというアンドロイドと初めて会った時、ヒマリは人間で言う三歳ほどの姿をしていた。人間が物心つく年齢に合わせたらしい。ヒマリはアンドロイドではあるけれど、人間として育てられるために作られたアンドロイドだった。瑛里が考えていたアンドロイドの究極体だ。いくら自認が人間であっても体はアンドロイド、FE型アンドロイドのために作られた体を使用しているために、普段は制御していている潜在能力は人間を凌駕する。何か不具合が起き暴走した際に止める役が必要。リンがそれだった。初めはなんの他意もなかった。いくらリンがFE型で人間の感情に近しいものを持っていても、同じアンドロイドに特別な感情を抱くなんてそんなこと普通はありえない。アンドロイドとアンドロイド、その間にビジネス以外の関係が起こりうるなんてきっと誰も、瑛里ですら想像していなかった。それなのにリンは自らの手で小学三年生にまで育てたヒマリに愛情を持ってしまった。何にも変え難い、ヒマリを第一に考えてしまうような愛情を。瑛里からすればそれは邪魔でしかなかっただろう。アンドロイドは人間の役に立つために作られているのに、アンドロイドを一番に思うアンドロイドなんてイレギュラー。リンが感情に近しいもの、存外詩的な瑛里が呼ぶ『心』を失ったのはそのせいだった。瑛里は不具合としてヒマリに突き通していたが、本当は瑛里がわざとやったことだ。リンの体で一番大切な部分を掻き回して心を剥ぎ取って行った。心を無くしていた間の記憶はぼんやりとしていてきちんと本来リンがすべきことであるヒマリの世話を遂行していたことしか記憶が無い。ヒマリと話をしたことは覚えているがヒマリのことを考えるための心がなかったので話の内容は全てメモリの奥深くにしまいこんでしまったのだ。そのまま瑛里のパソコンへ送ってしまったのでリンがもう一度思い出すことはできない。あの頃は何よりも大切なヒマリの感情を思いやることすらできなかった。ヒマリを抱きしめ返すこともできず、小学生から高校生まで成長した過程も覚えていない。リンのせいで泣いていたヒマリを慰めることすら出来なかった。その後、つい最近の話ではあるけれど心を何の因果かリンが取り戻してからの最大のイレギュラーはヒマリがアンドロイドであることを忘れてしまっていたことだった。ヒマリと同じようにもしくはそれ以上に人間だと信じ込んでいて疑う余地もなかった。瑛里にとってこれ以上の不都合はないだろうからこれは本当にリンの体に起きた不具合なのだろう。それを先程瑛里によってプログラムを書き換えられ思いだしたのだ。人格に影響がなかったことが幸いだった。瑛里であればリンをもう一度機械人形にすることも可能だっただろうから。

リンはマンション近くで立ち止まると一度自分専用のスマホを取り出した。ネットニュースを開いて、アンドロイドがデモを行おうと声明を出していることを知る。通りで研究所のデータベースへの接続が上手くいかないわけだ。違法アンドロイドの仕業だろうがそんなものの存在を知らない世間からは数日前から研究所の評判はガタ落ちしている。内部はてんやわんやなのだろう大変なことだ。他人事なのは研究所の内情などリンには関係の無い話だから。ニュース記事には文でしか載っていなかったが、動画共有サイトを開くと動画本体が上がっていた。無断転載だろうがそれを指摘する人間はいないようだ。無音でそれを再生すると見知った顔が現れる。

「…キョウ。」

リンにとって違法アンドロイド代表のような存在だが、実際にリーダーのような役割を果たしているらしい。ヒマリに犯罪めいたことをしていた記憶しかないので、きっちりとスーツを着て真面目ぶった表情でアンドロイドの権利を訴えている姿が酷く違和感を覚える。声明の内容は端的に言うと、アンドロイドにも人間と同等の権利を与えるよう求めている文章だった。型の違いを明確にした上で自分たちはきちんと人間と同じ行動ができること。昨今の誘拐事件を起こしたのは自分たちだが人質に危害は一切加えていないこと。リンの心境としては複雑だった。アンドロイド研究所出身ではあるものの、研究所に思うところなんてない。だからといって権利が欲しいという訳でもない。ただヒマリがつくとすれば違法アンドロイド側だからリンが味方するとすればそちら側だ。一つ気がかりと言うか悩ましいのは声明の内容だ。動画のコメント欄を見ると、アンドロイド側へ共感する声は全くもって見当たらない。人間にとって犯罪は犯罪。誘拐事件を起こしたことを肯定されることはない。第一何故誘拐事件を起こしたのかリンは理解に苦しむ。人身売買や臓器売買のためだと踏んでいたのにそういう訳でもないらしい。人間からの信頼を一度落とした上で権利を与えろだなんて。負け戦と言っても過言では無い。どうしたものか。ヒマリを探すことは簡単だ。気がついて手首を切り落としでもしていない限りは。でもヒマリを見つけてもすることはない。瑛里の元へ連れ帰るつもりはないし、個人的には一緒に国外逃亡して新しい人生を一から始めた方が良い。物理的に不可能だが。リンは分かっていた。アンドロイドに未来は無いと。だがそれだからといってこのまま何もせず死に絶えることは癪だった。やっとマンション前から離れようと歩き始める。行き先はショッピングモール。できることをしてみよう。きっとヒマリもそこに来る。

駅に着いて、アンドロイドは電車の利用が認められていないが普通に身分を偽って乗車する。他に乗車している数多くのアンドロイドと視線があった。リンと同じくデモへと向かうのだろう。人間も沢山乗っていてアンドロイドたちはなんの違和感もない。目的の駅に到着して電車から降りるとホームは酷く混雑していた。帰宅する者、デモの野次馬、デモに参加するであろうアンドロイド、そして外にはショッピングモールの周りにこれでもかと止められたパトカーと警察官。私服警官もいるようだ。政府側のアンドロイドは今のところいないようで一安心する。少し周辺を見て回った後、駅から続く通用路が閉鎖されていることに気がついてリンはそこら中にいるアンドロイドのうちの一人の後ろをついていった。一度振り返って目をジロジロと見られたものの、仲間だと判断されたのか特に話しかけられはしなかった。違法アンドロイド同士で仲間を認識している訳では無いのか。リン以外の政府公認のFE型アンドロイドは皆研究室にいるから、ここに集まることができるのは殆どが違法アンドロイド。国全体で事件が起きていることは知っているが、想像よりもかなりの数がいる。もしかするとアンドロイドがアンドロイドを作るというのもあるのだろうか。アンドロイドを作るためのプログラムを植え付けられたアンドロイドがいても別におかしくはない。ただ量産するだけなら人間が作るよりもよっぽど効率的だ。研究所では禁止されていたが。歩きながらリンはデモの会場へ行ってどうするかを考える。気持ちは兎も角立場的には中立に近いリンはバレた際どういう扱いを受けるのだろうか。受け入れられるのかそれとも機能停止されるか。アンドロイドは人間と同じく脳を破壊されたら死ぬ。脳にコアがあるからだ。コアを保護している頭蓋骨パーツは硬いため考えられるのは銃だろう。正確にコアを破壊する必要はあるがアンドロイドにとって銃の扱いくらい造作もない。リンの右手首にも特別にRE型001緊急停止用に小型銃が仕込まれている。使ったことはないが今でも使えるはずだ。人間を手にかけるような真似はしたくないが、もしものためだ。

どうやら駅からショッピングモールへの隠し通路があるようで、そのアンドロイドは混雑に紛れて駅の倉庫へと向かっていった。車三台分くらいの広さの倉庫には奥に重たそうなダンボールが三段積まれた場所があり、他にも来た幾人ものアンドロイドと共にそれを難なく崩していく。リンも手伝ったがそれは一つ一つがかなりの重量をしていて人間なら下ろすまでにかなりの時間を有すだろうことがわかった。アンドロイドであれば造作もないことだ。ダンボールの奥にはただの鉄壁があった。アンドロイドの一人がある一部分をノックする。床から2m、右側の壁から1mといったところか。三度壁を叩いたらどこからか電子音がなり壁に人一人分ほどの穴があいた。いつの間にこんなものを作っていたのだろう。入り込んで穴の中からダンボールを積み直した後リンたちは暗い通路を進んだ。ショッピングモールへと進む間誰もなにも喋らない。アンドロイド相手に何を考えているか読み取れないし、違法アンドロイドの内情を探るのは難しそうだ。コミュニケーションをしたがらないのだろうか。リンとしてはなにも聞かれないのはありがたかったが。

数分と経たずショッピングモールへと辿り着く。どうやら一階のアンティークショップのバックヤードに繋がっていたようだ。通路の出口で門番のように立っていた青年アンドロイドに一度止められる。もしかして身元確認をしているのだろうか。リンの不安は的中して、他のアンドロイドが1秒にも見たない時間で通されバックヤードから出ていった中リンはその場で引き止められた。

「お前…どこのアンドロイドだ?」

訝しげな表情で止められる。すぐに機能停止させられるわけではなさそうだ。銃を取り出す様子もないし、ただ知らないアンドロイドが来たことが疑問なのだろう。

「あなた達とは製造元は違うけど、デモに参加させてほしいの。」

目を見て真摯に訴えると青年アンドロイドは考え込むような素振りをする。アンドロイドであるとはっきり認識できるのに嫌に人間に似ていた。

「んー、代表に確認をとってからにさせてくれ。おい!ちょっと見張ってろ。」

青年アンドロイドは立ち上がって去っていき、代わりに女性型のアンドロイドがリンのそばに来た。

「初めまして。あなた、名前は?」

「…リン。」

敵意はなさそうだし寧ろ好意的そうな雰囲気だ。髪の毛を緩く結んだ優しそうなお姉さん。リンはヒマリにとってこんな人になりたかった。

「リンね。ここは暗いからこっちにいらっしゃい。」

手招きをされてリンは店内へと足を踏み入れる。棚が全て端に寄せられて真ん中に空間が出来ている。特にショップの中にアンドロイドはおらず、外にはちらほらとアンドロイドが屯しているのが見かけられた。

「あなたのことは後で代表と一緒に聞くから、先に私たちに聞きたいことはある?」

「……どうしてアンドロイドがこんなにも多いの?」

ショップ内でその女性アンドロイドは優しく笑った。質問することを許してくれるようだ。この際怪しまれてもいいから聞きたいことを聞いてしまおう。

「アンドロイドを作れるアンドロイドがいるのよ。そのアンドロイドたちは全アンドロイドの見た目と名前を覚えているからあなたの事も周知しておいた方がいいわね。」

リンの予想はやはり合っていたらしい。まだ許可を貰っていないのに随分と気を許してくれている。代表というのはキョウのことだろうがリンのことを受け入れてくれるだろうか。最後に会った時は完全に敵対関係だった。

「…人質になっている人間はどこにいるの?」

「中央玄関のホールよ。外から見えるようにね。」

「……どうして、誘拐事件なんて起こしたの?人間からの信用を落としたら権利なんて得られないんじゃないの?」

立て続けてのリンの質問にアンドロイドが顔を曇らせる。もしかして聞いてはいけないことなのだろうか。だがこれだけは本当に理解が出来ていない。

「…目的は人間に認められることじゃない。研究所からの迫害を受けないためよ。」

「…迫害?」

「所詮人間は私たちの違いなんて分からないわ。私たちがアンドロイドであると見破れるのはアンドロイドだけ。私たちの敵は研究所所属のアンドロイドなのよ。彼らを納得させられたらそれでいいの。」

成程。と心の中で呟いた。FE型以上は人間を騙すことができる。研究所の人間でさえも特別な装置を使わなければ判別が出来ない。政府に認められた研究所のアンドロイドが彼らのことを人間だといえば人間なのだ。どうやら自分たちで自分たちの体の管理はできるようだし、研究所のアンドロイドに糾弾されなければ彼らは幸せに生きて行ける。研究所のアンドロイドは人間に従属しているから人間を人質に取ったということだ。

「…なるほど。」

まだ一つ気がかりなところはあるが言い淀んでとりあえず納得している素振りを見せていると、突然外で発砲音がした。

「…何?」

「はぁ…アンドロイドへの発砲許可が降りたのね。ここからが正念場だわ。」

女性形アンドロイドが視線を鋭くさせながらショップを出る。他のアンドロイドも全員警戒し始め、リンも小型銃をすぐにでも打てるようセーフティを切った。

目視できる範囲でショッピングモールの間取りを確認していると、店外からザワザワと声がし始めた。先程の緊迫した雰囲気とは真逆の様子に原因を見ると、青年アンドロイドに連れられてキョウがリンの方へ歩いてきていた。納得してリンを見て驚いている様子のキョウに話しかけようとすると、キョウの後ろから顔を覗かせたヒマリを見つけてリンは目を大きく見開いた。

「リン!」

「ヒマ!」

結果的にキョウを無視して急いでヒマリに駆け寄り抱きしめる。ここに来れば会えるだろうとは思っていたが、まさかこんなタイミングで再開するなんて。ヒマリは嘘をついていたリンに対して多少は嫌悪感を抱いているかと覚悟していたが、リンの抱擁に対して優しく抱き締め返してくれた。

「リン、会いたかった。」

「私も、嘘をついていてごめんね。」

ヒマリのまっすぐな言葉に心が暖かくなる。何か心境の変化があったのだろうか。リンのことを赦してくれるらしい。

「わかってるよ。仕方なかったんでしょ?」

やはりヒマリは全て気がついていたようだ。瑛里に命令を受けただけの機械でもヒマリは愛をくれるのだ。

「ひま、愛してるわ。心から。」

「うん。私も。」

離れている箇所なんてないほど強く抱きしめ合う。そこまで時間は経っていないはずなのに、酷く久しぶりのことのようにかんじた。ヒマリはアンドロイドのはずなのに、こんなにも身体が暖かい。

そうして少しの間二人の世界に入り込んでいると、ふと周りにアンドロイドたちが集まり注目を浴びていることに気がついた。

「お前ら…それは後にしてくれ。」

呆れたキョウの声を聞いてやっとヒマリから体を離す。ヒマリは恨みがましい目でキョウを見つめていて、リンも少しヒマリと離れただけでもう寂しく感じてしまった。

「キョウ様、この2人は…?」

ヒマリたちを連れてきた青年アンドロイドが困ったような声を上げる。周囲のアンドロイドも同調するような雰囲気だ。キョウが呆れたため息を吐いてからリンのことを指さした。

「こっちの白いのがFE型アンドロイドのリン、でこっちの制服着てるのがプロトタイプのヒマリだ。どっちも瑛里様が直々に作り出したアンドロイドだよ。」

瑛里の名前で周囲がざわめく。一般市民には広まっていないのに違法アンドロイドの中では有名とは不思議な話だ。周囲の奇異の視線にヒマリが怯えた様子だったので元々近くにいたヒマリの体をさらに引き寄せた。

「瑛里様、ですか?」

「ああ。…お前はなんでここにいるんだ?」

キョウは青年アンドロイドに肯定を返した後リンの方を見た。そういえば瑛里にヒマリを探してこいと言われた命令を無視してここに来たんだった。遂行するつもりはないけど、アンドロイドとして命令に反することにはまだ抵抗感がある。

「瑛里様にヒマリを探せって頼まれたんだけど…まあ探せとしか言われてないし…帰るのは別に後でいいわ。」

「そんな適当でいいんだ。」

ヒマリが小声でツッコミを入れる。探せとは言われたが連れて帰れとは言われていない。こんなくだらない言い訳は通用しないだろうがもう瑛里に会うつもりもないし別にいい。

「別にデモに参加してから帰るのでもいいでしょう。今帰ったところでどうなるかわからないし。」

「…どういうこと?」

「……あまり周知したい話ではないわ。」

ぐるりとリンは周りを見回した。いつの間にか集まってきた大量のアンドロイドがリンたちを注視している。発砲音がなったあとこれから正念場だとか言っていなかっただろうか。キョウはリンの気持ちを察してくれたようで耳元に着けたインカムを叩いた。

「ああ…これから改めて声明を出すから皆配置につけ。最悪機能停止さえしなきゃなんとかなるさ。」

キョウの言葉で二人の元に集まっていたアンドロイドは一斉に散り散りになる。配置が決まっているなんて流石準備がいい。二人は役割なんて定められていないから話していても良いだろう。自由に過ごしていても良いのかは疑問だがキョウには何も言われなかったので良いことにする。アンティークショップは隠し通路の入り口でもあるので、ヒマリとともに隣のスポーツショップへと移動した。スポーツショップも棚が片付けられていたが誰もおらず試し履き用の椅子に並んで座る。

「それで、さっきのどういうことなの?」

「…そもそもRE型001の研究はRE型001本体が、自身がアンドロイドであると気がついたら終わる研究なの。瑛里様は自らヒマリに真実を明かしたけど、…ヒマリが瑛里様のところに戻ってどういう扱いになるのか私にもわからないわ。」

本来瑛里が立てた予想では小学生から中学生までにヒマリが自分はアンドロイドだと気がつく予定だった。思春期に入って自分のことを考える時間が増えれば自然と考えつく算段で、高校生まで育つことが予定外だったのだ。だからアンドロイドが迫害され始めたいまわざと真実を知らせたのだろう。

「…そうなんだ。私は…処分されるかもしれないってこと?」

「……そうね。可能性はあるわ。」

可能性なんかじゃない。間違いなくヒマリは処分される。瑛里に見つかった時が最期だ。ヒマリは瑛里にとっての

ガシャン!

その瞬間何かが崩れる音と割れる音、幾つもの発砲音が遠くで鳴った。反射的に悲鳴を上げたヒマリの体を咄嗟に抱き込める。

「っ、なに!?」

聴覚を澄ませるとキョウや他のアンドロイドの声が聴こえた。瓦礫の音が騒がしくて聞きにくい。

「最悪だ!あいつら機関銃使ってやがる!」

「人質ごと皆殺しにするつもり!?」

「クソみたいな人間どもが!」

それを聞いた後のリンの行動は早かった。他のアンドロイドには悪いがリンは他のアンドロイドもアンドロイドの人権にも興味がない。ヒマリさえ無事ならなんだっていい。急いでヒマリの腕を掴んでアンティークショップへと戻ると他のアンドロイドの静止も無視して隠し通路に飛び込んだ。焦ったヒマリの声が響く。

「リン!ここは。」

「駅に繋がってるの。とりあえず逃げるわよ。」

隠し扉の中からの開け方なんてわからなかったが力技でこじ開ける。駅は人で来た時よりも混雑していた。銃撃戦が始まったことで皆必死に逃げようとしているのだろう。警察は市民の誘導すらしなかったのか。人質も一緒に殺してしまうようだしアンドロイドよりよっぽど残酷だ。ホームは人が押し合っていて、旅客転落が起きたらしく電車は動こうとしない。このままここにいても良いだろうか。警察に見つかるだろうか。いや、アンドロイドだと判別する方法なんてないはず。それでもこの状況で逃げない人間なんていない。リンは顔が割れている。研究所の人間が来たら終わりだ。電車が動くまで待てない。リンはショッピングモールから反対側の出口にヒマリを引っ張った。

「ちょっと!リン!」

出口ギリギリでヒマリに強い力で引き止められる。アンドロイドだと自覚してからヒマリの力は制御が切れ格段に強くなった。

「どうしたの、ひま。早く逃げないと!」

「でも!キョウが!」

悲痛な声でヒマリが叫ぶ。やはりヒマリはキョウに情を感じているようだ。優しい子だから良い意味でも悪い意味でも直ぐに人間を好きになる。気持ちはわからないでもないがリンとしてはキョウのためにヒマリを犠牲になんてできない。

「今はそんなこと言ってる場合じゃないわ!まず私たちが…!」

「っ、……わかった。」

唇を噛み締めて悔しそうにヒマリが頷く。駅の反対側に来たというのにショッピングモールで起きているけたたましい銃撃戦の音が聴こえる。電車に乗ろうとする人以外の人間はいない。駅の外には進入禁止のテープが貼られているだけで誰もいない。今がチャンスだと思い渋々納得した様子のヒマリの手を外に引っ張った。

バンッ!

一つの銃声と、何かが倒れる音がリンの耳に入った。

「……え?」

リンは咄嗟に近くの重たいものを抱き抱えた。知っている暖かい温もり。それは先程までリンが手を握っていた

「っ、ひま!!!」

ヒマリの脳天に穴が空いて、赤い体液が零れている。リンは息を飲んだ。ヒマリを抱えたままその場に崩れ落ちる。

「ひま、ひま?…ひま!」

必死に名前を呼ぶも返事は返ってこない。カチャと軽い音が聞こえてリンは音の方を見た。柱の横に立っていたのは、全く見覚えのないアンドロイドの姿。黒づくめの格好で耳にインカムをつけていて、そこに何か語りかけている。自然とリンの耳はそれを拾った。

「RE型001機能停止しました。近くにFE型2733がいますがどうしますか。」

リンは呆然とそのアンドロイドを眺めていた。ヒマリの身体の重さが体にのしかかる。

「確保ですね。了解しました。」

通信を切ったアンドロイドがリンの元へ近づく。放心状態となったリンは抵抗もせず手首を掴まれた。

「…あ、あなたは…」

「SK型125です。」

聞きなれない言葉。頭に入ってこない。理解ができない。これは誰なんだ。

「SK型?」

「新型です。こちらへ来てください。」 

無理やり手首を引っ張られ、やっとリンの体は動いて抵抗した。力が強く振りほどけはしない。

「待って!ひまを、どうして。」

ヒマリは心臓部に穴が空いていること以外なにも変わらなかった。人間で言う寝ているような、すぐにでも動き出しそうだった。どうして、ヒマリが。

「瑛里先生のご命令です。処分せよ、との。」

「…やっぱり。この子の体はどうなるの。」

リンが連れて帰ったらヒマリを処分するのだと思っていた。当然か、今のリンが信用に値するわけが無い。他のアンドロイドの存在を軽視していたのはリンだ。アンドロイドが答えるより先に見慣れない黒服の人間が闇から駆けてきた。リンの腕から奪い取ってヒマリの体を運び出す。それを追いかけようとするも新型アンドロイドからは逃げられそうになかった。

「研究に利用された後分解される予定です。」

SK型125に抵抗できず、リンは腕を引かれふらふらと歩き出す。まだ現実を受け入れられなかった。心に穴が空いている。この世で最も愛するヒマリがいなくなった。それなのに、アンドロイドの体では涙一つ出ない。


スリープモードにされていたのか、気がついたときにはリンは明かり一つない暗い部屋の中にいた。暗視を使い周りを見渡すと、リンは二畳にも満たない狭い空間のコンクリートの上に寝かされていて、左手首には手錠が取り付けられて壁と繋がっていることが分かった。片面は格子になっていて牢屋にいるようだ。

「ここは…?」

思わず独り言を口走る。格子の外に幾つもの牢屋が見えた。もしかして刑務所にいるのだろうか。

「お、やっと起きたか。」

暗闇からふと聞き覚えのある声がした。右隣の牢屋だ。

「…キョウ?あなたも捕まってるの?」

「ああ、どうやら俺狙いだったらしいからな。今は一旦休戦中だ。」

キョウの口ぶりは明るくて、そこまでデモは悪い状況ではないらしい。リンたちが裏切ったに近い行動をしたことは知らない様子だ。

「ここはどこなの?」

「多分研究所に併設されたアンドロイド用の刑務所だろうな。まだ俺たちを処分するつもりはないらしい。」

リンとキョウ以外の声はしない。まだスリープモードとなっているだけかもしれないがアンドロイドの気配も感じない。

「…これからどうするの?」

「どうもこうも仲間のところに戻るに決まってるだろ。…お前は?」

「私は…ヒマリが死んじゃったから。」

ヒマリが銃で撃たれた瞬間がいつでも脳内でリフレインする。殺されそうになっていることに気がつかず、守るために動くことすら出来なかった。フィクションによくある自分を身代わりになんて遠い話だ。そんなことをする時間もなかった。リンは、ヒマリの身代わりにでもなんにでもなるつもりだったのに。最愛のヒマリがいなくなって、リンにもう生きる理由なんてない。その場で脱力して寝転がる。寝るだけのスペースがあるなんてここはアンドロイドに優しい。自己破壊をしそうなほど辛いが、自己破壊する気力もなかった。

「あいつ…機能停止したのか?」

キョウが驚いているのが顕著に伝わった。そうだった。アンドロイドは死ぬんじゃない。機能停止するんだ。

「ええ。…SK型とかいう訳の分からないアンドロイドに殺されたわ。」

「…SK型?」

「新型らしいわ。研究所の味方よ。あなたたちの敵ね。」

まさかヒマリより新しいアンドロイドがいるなんて思いもしなかった。研究はされているだろうと思っていたが、もう形になっていたなんて。

「新型って、RE型より上ってことかよ。」

「…いいえ。」

見えないだろうにリンはその場で首を横に振る。そういうことではないのだ。

「…どういうことだ?新型なら上ってことじゃ」

「違うのよ。そうじゃないの。」

キョウの言葉を途中で遮る。自分はヒマリではないのに考えるだけで心が苦しかった。

「キョウ。あなたはヒマリのようなアンドロイドが、本当に人間社会で必要とされると思うの?」

「………」

「人間に擬態できる私たちFE型がいるのに、自分のことを人間だと勘違いしてるアンドロイドなんて必要?」

瑛里は確かにアンドロイド研究所の所長だったが、名を馳せたのはもう十数年も前の話で、ここ数年の瑛里は専ら都合の悪い時だけ矢面に立たされるはぐれ者だった。体の良い文句で研究所を追放されたのも、全てヒマリのせいだ。

「この世界でヒマリは必要とされていないの。ヒマリは瑛里の、…失敗作なのよ。」

自分を人間と誤認したアンドロイドを作るための資金は膨大だ。アンドロイド研究が停滞していたのもそのためだった。リンは深く息を吐き出す。もうヒマリに知らせる機会がないことだけが幸いだった。

「…お前は?」

「……え?」

抽象的なキョウの質問に寝転んだまま首を傾げる。傍目から見れば随分と滑稽な姿だろう。

「お前は、その、あいつのことを愛してたんじゃねぇの?」

「………」

キョウなりに慰めてくれているのだろうか。愛してるなんて言葉キョウにはあまり似合わない。

「…そうね。愛してたわ。…でもそれは、ヒマリが先に私を愛してくれたからよ。」

ヒマリからの愛がなければ、リンが愛を知ることもなかった。愛が世界を色づかせてくれることも、愛で心が醜くなることも、全部ヒマリのおかげで知ることができた。

「ねぇ、あなたは、アンドロイドが誰かを愛せると思う?」

「は?そんなんお前ができたならできるやつもいるだろ。」

唐突なリンの質問にも律儀に答えてくれるとは真面目なアンドロイドだ。困惑して片眉を上げているキョウが容易に想像がついた。

「あら、アンドロイドが作られて一番最初に植え付けられるプログラムを知らないの?」

「プログラムって……ああ。」

納得したように息を吐き出す。そう、アンドロイドなら誰もが知っている最優先のプログラム。

「『アンドロイドは人間に役立つ存在でなくてはならない。』人間という種族全体を優先すべきとされているアンドロイドが、誰かを愛せると本当に思うの?」

「確かにな。人類全てを愛してたらとんでもない博愛主義アンドロイドだ。」

「でも、ヒマリにはそれができたのよ。…私のことを、愛してくれたのよ。」

ヒマリから与えられる愛は本物だった。少なくともリンはそう思って受け取ってきたし、最後までヒマリはそれを否定しなかった。

「それはRE型だからか?お前も愛してたんだろ?」

「さっきも言ったでしょ。ヒマリが先に愛してくれたからって。……あなたは知らないかもしれないけど、愛って愛される側も愛を知らなくちゃ愛として受け取れないのよ。」

リンは、ヒマリから愛されるために愛を知ったのだ。愛を知って、ヒマリに愛してもらったのだ。

「お前、プログラムは?」

「さあね。少なくとも今の私は人間もヒマリ以外のアンドロイドも大切にしようなんて思わないわ。」

アンドロイドとしてとんでもない欠陥品。瑛里が取り上げようとした心。

「お前、アンドロイドとして最悪だな。」

「そうね。でも後悔してないわ。」

ヒマリの存在は必要とされていないと言ったが、本当に必要とされていないのはリンだ。必要とされていないどころか、今のリンの考えを知られたら真っ先に処分される。

「あなたも誰かを愛してみるといいわ。愛って素敵なものよ。」

「無茶言うよ。誰が先に俺を愛してくれるってんだ。第一俺にはまだプログラムが残ってる。」

「そうなの?人間のことが嫌いなんでしょう?」

人間相手にデモ行為を起こしておいて人間に役立つ存在でいようとしているなんて信じられない。リンは上半身を起こしてキョウがいるであろう方を見る。

「俺が嫌いなのはアンドロイドを迫害するやつだけだよ。仲間のアンドロイドのことだって大切に思ってるさ。」

「なるほどね。……その仲間のアンドロイドのところには早く戻らなくていいの?」

「……あ。」

間抜けなキョウの声が聞こえてリンは吹き出した。ヒマリへの愛を語って心が楽になったような気がする。どうせリンも直ぐに死ぬ。アンドロイドにあの世というものがあるかは分からないが、もうすぐヒマリと同じところへ行けるのだ。

「お前、俺と一緒に逃げるつもりは?」

「…ヒマリがいないのに。そんな元気ないわよ。」

一人むくれるとキョウがため息を吐き出して呆れているのが分かった。ヒマリがいない世界に逃げて一体どこへ向かえば良いと言うのだ。

「どうせあいつの体コアごと研究対象になんだろ。それを黙って見てんのか?」

「それは…いやだけど。」

ヒマリの体は細部まで分解されて隅々まで探られるのだろう。コアだってこれまで保存したデータをほじくり回されてしまうのだ。アンドロイドにプライバシーなんてもの存在しない。そんなこと知っていて当たり前だと信じていたのに、確かに嫌だった。

「…ここから出る方法を知ってるの?」

「だから言ってるんだろうが。お前、腕に小型銃ついてるだろ。」

「…え?ああ、そうね。どうして知ってるの。」

自分の手首を見るが、銃口は皮膚で隠れているので外からは見えない。瑛里がつけた特別性でこの小型銃の存在はリンと瑛里しか知らないはずなのに。

「俺はそういうアンドロイドだからな。それでまず手錠切れ。」

適当に濁された気がしないでもないが、答えるつもりでは無さそうなので諦めた。リンにも言いたくないことはある。キョウの命令のままに手錠に銃口を向けた。大きな発砲音が鳴り響いて右手が解放される。

「これ監視官とか来たりしない?」

「大丈夫だよ。アンドロイド防犯用の分厚い壁で囲まれてるからな。それにどうせ全員出払ってるよ。…俺のもやってくれ。」

随分楽観的な気はするが、実際に人は来ないし警報音が鳴っている様子もない。小型銃の存在を知らないとはいえデモの代表をしていたキョウもいるのにあまりにも不用心だ。隣から聞こえるガシャガシャとした重たい金属音にリンは首を傾げた。

「どうやって?」

そのアンドロイドの脳みそでかんがえれば直ぐに分かることではあったが、人間が思っているよりも楽ではないのだ。たまには人間のように頭を空っぽにするのも悪くない。

「とりあえず適当にこっちに銃向けてくれたらそれに合わせるよ。」

キョウはまだ呆れているようだが同時に多少リンへの期待を落としたらしい。言われた通り格子の隙間から手をできるだけ伸ばして声の方向に適当に銃を打つ。

「さんきゅーな。」

「これからどうするのよ。」

手錠は外せても壁は到底壊せそうにないし、格子も硬い金属製だ。プラスチックや柔い金属を曲げるので精一杯のリンにはできることがない。格子をぐいぐい引っ張ってみながらキョウの返事を待っていると、唐突に隣の牢屋からゴキっと深い音がした。

「ちょっと、なに?」

リンの言葉には返事がなく、少し経って格子越しにキョウの姿が現れる。着ていたスーツが薄汚れていて明るい言葉遣いとはかなり裏腹だ。顔にも少し傷がついていて、アンドロイドなら平気だと分かっていても痛々しい。

「ど、どうやって。」

「ふ、あいつらは違法アンドロイドってものに詳しくないらしい。」

ここにはいないキョウたちを収容した研究者に向かって嘲笑した後、キョウはリンのいる牢屋の格子を持つとガキんと音を立てて一人分が抜けられる分の隙間を開けた。どうやらリンよりも相当筋力は強いらしい。

「…力が強いのね。」

「…戦闘用に作られたからな。」

戦闘用アンドロイド。違法組織ならそんなものがいてもおかしくは無いだろう。ついさっき濁されたのも多分それだ。キョウに手を引かれリンも牢屋から抜け出した。暗がりの長い廊下をキョウと歩く。知らない装置が無ければの話だが本当に誰もいる様子はない。

「ここからどうやって出るのよ。」

「どっからでも?正攻法でも、裏通路からでも。お前はあいつを探しにいくんだろ?」

「…ええ。」

本当にキョウは色々と適当だ。確かに敷地内にさえ出られればリンでもどうにかなるけれど。歩きながらリンは遠隔でヒマリに内蔵されたGPSを起動させた。どうやらヒマリの体はまだ研究所には辿り着いてはいないようだ。道路は封鎖されているし車で来るなら妥当だろう。

「あなたはこのまま戻るの?」

「ああ。」

「それじゃあここでお別れね。ありがとう。」

二人は力技で刑務所の入り口から抜け出した。知ってはいたがそこら中に監視カメラが取り付けられている。それを見ている人間やアンドロイドがいるかは分からないが早くここから離れた方が良いだろう。今生の別れにしては軽いリンの挨拶にキョウは一つ頷くと、研究所の周りを囲う高い壁に向かって音もなく走っていった。物音一つ立てず3m程の壁をワイヤーでよじ登る。キョウが壁を向こう側へ行くのを見届けてリンも研究所の正門に視線を向けた。アンドロイドとして行う、最後の仕事だ。

GPSでヒマリの詳しい場所を確認すると、研究所へ続く唯一の整備された道路をヒマリが乗っているであろう車は走っていた。世間の目から隠すために研究所は人里離れた山奥にあり、周りは森で囲まれている。もう手遅れなことはわかっているのでリンは堂々と正門から外へ出ると道路を走っていった。道は曲がりくねっていて雑木林で遠くは見えないがアンドロイドには関係ない。遠目から見ると、車の前列には黒い服を着た人間が座っていることがわかる。ヒマリを運んで行った人たちだろう。人間相手なら最悪なんとかなる。あのSK型がいないことを願うしかない。FE型と違ってどんな能力を持っているか分からない以上SK型と交戦することだけは避けたかった。中を観察してみるが格上のアンドロイドなんて存在を隠せる可能性は十二分にある。不安要素はあるが時間だってもうない。覚悟を決めるとリンはヘッドライトが見えた車へと突っ込んでいった。甲高いブレーキ音が辺りに響く。速度が落ちた車の側面へと回ると後部座席のドアをこじ開けた。金属はどうにもならないがこれくらいならリンでもどうにかできる。中を覗くと後部座席にはヒマリが先程の姿そのままで寝かされていた。体感久しぶりの再開にリンの口元が緩む。

「なんだこいつ!」

「おい!殺せ!」

中には人間二人しかいない。アンドロイドはいないようだ。まだ制動距離を走っている車の中助手席にいた方の男に銃を向けられて銃口を引っ掴んだ。バンと一発撃たれて人差し指の先が削れる。車が完全に停止して運転席の男もリンに銃口を向けた。長引けば人が集まってくるだろう。アンドロイドでも来てしまえばヒマリを連れて行けないし、銃撃戦になって体が穴だらけになるのも避けたい。思わず心の中で舌打ちをする。リンはアンドロイドとしては選択は早い方だった。ヒマリはもういないから知られることもない。二発の銃声が闇夜に鳴り響いて車内に血飛沫が飛ぶ。リンの眼球にも血を受け、ヒマリの体を汚してしまったことだけに後悔した。

「急がないと!」

リンはヒマリを抱き抱えて車から飛び降りた。人はまだ集まっていない。研究所からやっとサイレンの音がなり始めた。そのまま森の中に飛び込んで走り出す。ああ、これでアンドロイドが人を殺したという実績ができてしまった。キョウにただ申し訳ない。けれどもうどうすることもできない。ヒマリの体は重たかった。ヒマリが成長した証だ。


一体何時間走り続けたのだろう。山を二つ超え、川を渡りリンがヒマリと共にたどり着いたのは広大な海だった。経済発展の影響でお世辞にも綺麗とは言えない薄汚れた海。誰も使わない釣り用の岸壁に波の音を聞きながら海の方向に足を投げ出すようにヒマリと並んで座った。人っこ一人いなくて、まさに二人だけの空間だ。

「…ヒマリ。」

返事はない。当然だ。ヒマリはもう機能停止している。山を駆け抜ける中つけてしまった傷が申し訳なかった。叶わないことは知っていた。本当はこれからもずっと一緒にいたかった。ヒマリと笑い合いたかった。ヒマリと話をして、遊んで、一緒に出かけたりなんかも良かったかもしれない。二人とも、人間だったら良かったのに。本当の、姉妹になれたら良かったのに。リンはヒマリの頭を優しく撫でた。幼い頃リンがヒマリの頭を撫でる度に笑ってくれるのが嬉しかったのだ。

「…ヒマリ、これが愛ってことよね。」

軽いキスをつむじに落とす。リンはアンドロイドだ。愛なんて知らないプラスチック。けれどヒマリがリンに愛を教えてくれた。誰かを愛おしいと思う感情をヒマリのおかげで知ることが出来た。もし、生まれ変わりというものがこの世界にあるのなら、アンドロイドにも適用されるのなら、来世こそヒマリと二人で。


ブチリという音が聞こえて、岸に波が打ち付ける音に紛れて海に何かが落ちる音がした。

数十年前から増え続けている海洋ゴミ。それにまた新たなプラスチックゴミが加わった。

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アンドロイドは温もりを知らない 白愛すい @yuki_0401

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