第20話(幕間)
業火のさなかに舞う銀髪。悲鳴と怒号が入り乱れる宮殿から飛び出してきたのは、老年の騎士と小さな女児だった。
「王女様! お逃げください! 敵襲です!!」
「宮殿はもう陥落します! 一刻も早く隣国へ亡命を!」
彼女らの姿を見た若い騎士たちは、敵軍の剣を自らの剣で受け止めながら叫ぶ。
「なにがどうなっているの、サヴィシャ!? それに父さまはまだ中にいるわ!」
煤で鼻の上を黒くした女児は、引きずるように手を引き続ける老騎士に必死に叫ぶ。
「――お父上は務めを果たすべく残っておられるのです。アナスタシア殿下もどうかご自分の務めを果たしますよう」
「わたしの務め?」
「生き延びることです!」
そこかしこに矢が飛び交い、騎士たちが敵軍と斬り合っている。血飛沫とうめき声がなまなましくアナスタシアの脳裏にこびり付いた。
ごうごうと音を立てて燃え上がる炎は宮殿の大半を呑み込んでいる。眼下に広がる市街地も真っ赤な龍のように炎が躍り、夜空までもが静謐さを欠き赤く染まっていた。
「街を駆け抜けます! 向こう側の森までたどり着けば国境はすぐです!」
老騎士サヴィシャはためらいなく言い切る。しかしアナスタシアは納得できないことばかりだった。
「民が! 民の家が焼けているわ! 助けに行かないと!」
「なりません。殿下の務めは生き延びることです。お心掛けはご立派ですが、この国はもう……」
サヴィシャは初めて言葉に詰まった。しかしすぐに二の句を継ぐ。
「とにかく時間がありません。王妃殿下は先に行っているはずですから、アナスタシア殿下も急ぎましょう」
「嫌よ! 嫌! 王族の務めは民を守ることだって教えてくれたのはあなたでしょう。お母様が先に行ったのなら、なおさらわたしはここに残るべきよ!」
「殿下……」
アナスタシアは掴まれた腕を振り切って走り出す。ユレスッカス王国は少数民族からなるちいさな国だ。宮殿から市街地までは目と鼻の先だった。
目の前で焼け落ちる家々を目の当たりにして、アナスタシアは絶望する。炎の熱で暑くてたまらないのに、腹の底と心臓は氷を押し付けられたように冷え切っていた。
彼女を可愛がり、笑顔で接してくれた善良な民はもういない。すべて物言わぬ屍となり、道に倒れ伏していた。
「そんな……なんで……どうして……」
ごうごうと燃える音の向こうで赤ん坊の泣き声が聞こえた気がした。
まだ、だれか生きている人がいるかもしれない。
「行かなきゃ……赤ちゃんが泣いてる……」
よろりと歩き出したアナスタシアだが、ふいに身体が宙に浮く。
「手荒な真似をお許しください」
サヴィシャがアナスタシアを担ぎ上げたのだった。
彼は左腕でアナスタシアを肩に背負い、右手に剣を構えながら焼け落ちる街を駆けていく。
「嫌っ! 下ろして! まだ赤ちゃんがいるんだってば!」
全力で暴れるアナスタシアだが、サヴィシャは物ともせずに無言で疾走する。
あと少しで森に入るというところで、敵軍の小隊が目の前に現れた。
「そこを往くのはサヴィシャ大将軍だとお見受けする。貴殿の名声は我がイサーク帝国にまで轟いている。お目にかかれて光栄だ」
「――――っ」
漆黒の甲冑に身を包んだ敵将が不敵に言い放ち、二人の行く手を阻む。サヴィシャは相手の数を目で確認して舌打ちし、静かにアナスタシアを地面に下ろした。
幾筋もの涙の痕をつけたアナスタシアの前にひざまずき、ちいさな手を取る。
「殿下。どうやらここでお別れのようです。わたくしが合図をしましたら、振り返らずに森へ全力疾走してください。そのまま国境まで走り、王妃殿下と合流するのです」
「サヴィシャ? それはどういうこと? あなたも一緒に行くのよ」
「……」
縋るような言葉。サヴィシャは返事ができなかった。
「お仕えできたことはわたしの人生の宝です。どうか健やかにお育ちになり、幸せになってください」
彼の目にはゆるぎない決意が宿っていた。
アナスタシアはひどく嫌な予感がした。今から彼がしようとしていることを止めなければいけないと思った。
サヴィシャは一瞬だけ頬を緩め、アナスタシアに穏やかに笑いかけた。彼女は思わず手を伸ばしたが、すでに彼は敵の小隊に向かって斬りかかっていた。
「サヴィシャぁ……」
幼いアナスタシアの頭はすでに、感情の閾値を超えていた。両目からはただひたすらに涙があふれ続けていた。
サヴィシャが小隊を引きつけ、そのうちの何人かを斬り伏せる。次の瞬間には自らも斬られたが、仁王のように踏みとどまってアナスタシアを振り返る。彼は確かに「行け」と言った。
膝が震えて動かない。涙で前がよく見えない。目の前で、優しくて強い自分の騎士が斬られている。
サヴィシャは再度振り返る。何度斬られようとも彼は決して倒れなかった。血糊のついた壮絶な顔で「早く行け」そう言った。
アナスタシアはぐいと涙を拭った。頭の中からすべての感情を追い出し、ひたすら駆けた。サヴィシャの言いつけ通り、一度も振り返らずに走った。もし振り返ってしまったならば、自分は走り続けることができないとわかっていた。
森に入った。国境にいるという母はどこにいるんだろう。早く会いたい。わたしの民も、騎士も、みんな敵にやられてしまったのだと慟哭したかった。
後方からがさりと音がした。サヴィシャが追い付いたのかもしれない。心に一筋の光が差し込み、喜色を浮かべて振り返る。
「ユレスッカス王国のアナスタシア王女では? これはいい獲物を見つけた」
アナスタシアの優しい老騎士ではなく――敵軍の紋章をつけた男だった。
漆黒の甲冑ではなく勲章のついた直黒の騎士服だ。身分の高い将校なのだと見て取れた。
男はゆっくりと口角を上げ、腰に佩いた剣を抜く。地面にへたり込んで動けないアナスタシアに切っ先を突きつけた。
「噂通りお美しいですね。女性を傷つける趣味はないのですが、戦を終わらせるためには必要なこと。あなたの片腕でも持って行けば、強情なユレスッカス王も降伏するでしょう」
男は目にもとまらぬ速さで八の字に剣を振る。アナスタシアの頭からティアラがぽとりと地に落ちた。
ぬかるんだ泥のついたブーツが、繊細なティアラをぐしゃりと踏みつける。アナスタシアが息を呑んで身を固くすると、彼はひどく愉しそうに唇を歪めた。
「悪く思わないでくださいね」
剣が振り上げられる。アナスタシアは耳の片隅に馬の蹄の音を聞きながら、ぎゅっと目をつぶった。
「――ぐはっ」
うめき声とほとんど同時にアナスタシアの身体が引き上げられる。くるりと回ったかと思うと、いつの間にか馬上に乗せられていた。
「――――!?」
驚いて自分を抱えている人間を見上げる。
戦場に似つかわしくない陶器のような白い肌に、すっと一本と負った鼻筋。長い下まつ毛と透き通った黄金色の瞳を持つ、若い青年だった。
青年は夜のように黒い髪をなびかせて後ろを振り返り、「勝手なことを」と舌打ちした。
「どなた様でしょうか」
震え声でアナスタシアが訊ねると、彼は唇の前で人差し指を立てた。
「そなたを母君のところまで連れて行く。生き抜くのだ」
青年はアナスタシアを抱え直して自らの前に座らせる。右手に手綱を持ち、左手に剣を構えて馬に合図を送った。
駿馬の規則的な揺れと、自分を守るように背中を支えるぬくもり。
アナスタシアは限界だった。がくりと崩れ落ちるように気をやった。
意識を取り戻したのは国境に着いたとき。先に避難していた母と再会を喜び、悲しみの涙を流した。
命の恩人である青年を紹介しようとしたが、彼は姿を消したあとだった。
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