口から出る言葉は不甲斐ない。

@NataaNichizyo

(1)

 言葉で伝えることには限界がある。特に話し言葉については。

 手練手管を有する熟練者は、言葉を重ねて言語が持つ意味空間とのリンクの隙間を埋めようとする。それでも隙間はなにがしか残る。それさえ達観して全部完璧に伝えられるのは幻想で理想論にすぎないと割り切っているのが言語能力をマスターしている人だろう。対面して話している場合は、その隙間をノンバーバルな手法でさらに埋めようとする。

 別の視点から言うと、伝えたいとしていることにブレがないように基盤をあらかじめちゃんと決めておく手段もある。ビジネスマナーや礼儀作法、茶道の流れ、ドラマや映画で俳優が取ると演出家に絶対ダメ出しが出ると言われている典型的な仕草とか。振る舞いに誰もが知っている意味をあらかじめ与えているものを使う。言葉で伝えるにはまどろっこしいし支障があると言うようなことを端的に示す、そんなことだ。

 あらかじめ決められたそのような記号を知っていると言うことは教養の一部だろう。教えてもらうとか体験しないとわからない。初対面の人を紹介する順番とか知っていて、それを明らかに意図的に壊すことで伝えたいことを伝える。そんな悪用もできる手段だ。

 このようにして私たちはなるべく伝えたいことが伝わるように話したり振る舞ったり、日々活動を行っているわけだが、時々既存の枠に収まらないシチュエーションや間違って言語の意味やその他の手段を覚えている人に出会うことがある。厳密に言えば間違って覚えていると言うよりは新しい意味を与えていると言うべきかもしれない。

 明治時代の文明開化の際に、それまで日本にはなかった概念を表す英語をなんとかして漢字に当て嵌めようとした人達はいい仕事をした。経済とか哲学とか、今では当たり前の言葉がちゃんと独り立ちして私たちの生活を支えている。国名に漢字を与えたのは少し無理があったが役に立っていないわけではない。成果の主業ではないが努力はみんなで褒めたたえよう。

 夏目漱石は言葉を「発明」してやがてそれが定着して辞書にも載るようになった作家だ。「山の神」は細君を意味するが微妙に表したいことが違う。指し示す意味空間に多少のズレがある。

 文学作品の題名もその時代の漠然とした感情を端的に表すことがある。近いところでは、綿矢りさの『蹴りたい背中』とかまさにそうだろう。これがどんな感情なのかをくどくどと説明するのは野暮だし難しい。

 このような先人の努力を全く無視して、おおよそはたぶん知らないで、新しく言葉に意味を与える人たちはいる。


(2)

 つまりは言葉が通じないと言うことなのだろうが、そこで諦めていては伝えたいと思っていることを知ることができない。いい加減で無造作に言葉を発しているだけのように見えて、その人が本当に伝えたいと思っている何かがあるはずだと探る姿勢は、我々が聞き手として真剣に向き合うなら必要だ。

 いい加減でなかったとしても、世の中の人は言葉の良い使い手ばかりではない。無礼を承知の上で言うならばしっかりとした教養をお持ちのかたばかりではない。上から目線で言ってはいけない。こちらとしても完璧なわけではない。

 新しい世界を知ろうとする時、まずはその世界で使われている用語を学ぶ。それがその世界に住む人たちと話そうとする時の礼儀だ。作家にインタビューするとして著作を何も読まないで臨むことほど失礼なことはない。それと同じだ。

 こちらからアクションを起こす場合はのような予習もできるが、向こうからやってくる場合は予習のしようがない。いきなり全然別の言語世界を持つ人がやってくるので意味を理解するためにその人の価値観というか大袈裟にいうなら生まれ育ちがわからないといけない。まるで宇宙人と話しているみたいになる。同じ日本語を使っているのだから伝わるだろうと最初から思っている人に対峙するのはとても疲れる。

 水をウォーターというくらいなら単純な投射なのでディスコミュニケーションにはなり得ない。しかし世の中こんなに単純なことばかりではない。そんなことばかりだったらどんなに幸福なことか。しかしヘレンケラーだってそこから複雑な概念を学んでいったのだ。生きていくために必要だったから。伝えようとしたいと思ったから。伝えたいと思っていることを汲み取ろうと思ったから。


(3)

 というように、私の父はいつもとても小難しいことを話した。まだ私が学生の頃でほとんど何言ってんだかわからない頃でも。若い人を教育しているつもりなんだろうけど何かと口うるさい近所のオジサンと同じだと思った。知らんけど。近所にそんなオジサンいなかったけど。

 そもそもそんなこと一介の女子高生に話して実世界で何か役に立つのか?とその時思ったものだ。学校行っても適当に話できるし数限られた言葉でなんとなくフィーリングは伝わる。やばい、とか、うける、とか言ってればなんとかなる。私はも少し形容動詞つけてたけど。

 まあ、若い頃に知ったことは年齢を重ねた頃になんとか少しくらいは役に立つくらいのものだ。覚えていればだが。

 会社に入ってから数年経って、若い人と話すときにイライラした。同い歳の人もそうだが少し歳上の先輩とかでも。なんならいい歳した役職者でも、住んでる世界が違うなぁと思うことたびたびだった。あなた、「たびたび」と「しばしば」と「ときどき」と使うシチュエーションわかってる?みたいな。単に何回に一回だったらで選ぶだけじゃないんだよ。歴史小説と時代小説の違いとか枚挙にいとまがない。惹起するって何かの報告書に書いたらこれどういう意味?って聴いてきた課長がいた。ググれや。調べた後なんだろう。こんなの普通使う?って言ってきた。普通に使うだろう。

入った会社間違えたと思った。会社の規模はある程度大きな会社だったので他の部署はもっと違うのかもしれない。

 少し年が経って後輩が入社してくるともっとテンションが下がった。なんなの。高校生の頃現国の授業ちゃんと聞いてた?ウケるとかエモいとかばかり喋ってたんじゃない?人のこと言えないけど。少なくとも会社に入ってそれはダメよ。聞く側がみんな5ch(昔は2chね)見ていたとは限らないんだから。使っていいけど最低限TPOはわきまえないと。それもまた強要だよ。

 ああ、いかん、これだと昔の父と同じじゃん。ただの口うるさいオバ、、、お姉さんになっちゃう。


(4)

 良くも悪くも、言語空間は自分が持っているものが絶対と思い込むのはいけない。他人は別の言語空間を持っているかもしれないし、もしかしたらそれをわざとずらして(ポスト構造論的に)試されているくらいは勘繰らないといけない。それは会社の中で、競争社会の中で生きているために必要なこと。みんなが優しい人というわけじゃない。労働人口が少なくなる時代で、食いっぱぐれはないだろうけど、格差は広がる。適当な物言いで低賃金で妥協する人生を送るかいろんな人と会話できる高みを目指すか。どっちでもいいけど私は妥協は嫌かな。まだ。

 知識の多寡について言っているわけではない。思い込みがよくないと言っているだけだ。いくら勉強しても知らないことは世の中にいっぱいある。そのほとんどは知らなくていいことだが、必要に迫られて知る必要がある場合はある。そのとき知るべきだと思うが気づかないかの違いだ。

 日本の全部の方言を知ることは学者でもない限り無理だ。明らかに方言とわかるものばかりではない。標準語にもあるものが一番厄介だ。絶対勘違いする。しかし、その言葉が発せられたときに気づかなくても、あれ?もしかしたら違う言語空間で話している人かなと思ったときそこに立ち戻って自分の理解したと思ったことを疑うことは必要だ。

 父は育ったのが福岡だが「なおす」ってやたら使っていた。壁にポスターを貼るときに使うものを「ピン」と言っていてそれが画鋲のことを言っているのだとわかったのは何度かやりとりをした後だった。これは福岡とは関係ないか。

 私が学生の頃あんなに講釈垂れてたのに自分の思い込みを全然変えてない。伝えれば素直に聞き入れるからまだいいのか。そこが頑固親父だったら本当にただの口うるさいオジサンなので。


(5)

 私はもう歳をとったので新しい言葉は覚えられない。見つけても覚えようと思う気力が湧かない。それでなくてもしゃべれば検索できる時代だ。人間の能力は覚えることに費やす時代じゃもうないのかもしれない。

 最近娘と話す時も時々話が噛み合わない。息子は寡黙なのでそもそも噛み合う機会がない。

 使う言葉もそうだが、喋る速さとか抑揚とか語尾につける何も意味がない感嘆とか。話してくれるだけまだマシか。

 なので昔みたいにこちらから伝えようとする、エネルギーというか志がない。

 人間ある程度大きくなったら自分の言語意味空間を確立させてそれを中心にして世間と渡り合うというのが正しい生き方だろうと思う。もうそれでいいんだろう。幼い頃から会話をしているのでお互いの違いはわかっているしその原因もなんとなくわかるが是正する必要もないとも思う。それがそれぞれの人間が独立して生きているということなのだろう。それでよし。

 こうやって段々と、煮込んだスープのように、違いも是正も意味がないうまい料理になればいいんだろう。それでちゃんとお互い生活ができていればいいんじゃないかな。そして時々解釈の違いを笑って楽しむというのがいいんだろう。諦めじゃない、達観だ。


(6)

 昨日はいつもと違う時間に帰宅したので食卓で父と少し話をした。最近どうよ的な話。まあまあだよとも言ったし逆にそちらこそどうよとも訊いた。お互い様で特段レアなこともあるはずないしあったら改めて話さないでも知ってるし。何かをミッションクリティカルに伝える会話でもなかった。スタバでなんとなく流れている音楽のようにそんな意味のない会話もまあいいかといった感じ。なくてもいいしあってもまあいいし。しかし意外と後々こんなことが記憶に残るモンだということもある。改めて機会を設けて臨むというものではないことが。こういうのが日常だよなぁ。取るに足らないものこそが貴重なんだよなぁ。そしてそんなことができるのは意外と難しいのも実情なんだよなぁ。だって話している言葉の意味が違うことに気づいたらそこに気がむいてしょうがないもの。

 安心して違うこととか違っていないこととかわかって話すことができるのが安心な世界だということをやっと今感じている。


(完)

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