第13話

 足の重そうな淺井がエントランスへ吸い込まれるまで見送って、携帯を取り出す。着信履歴の携帯番号ではなく、デスクの電話を選び取った。

 呼び出し音は二回で途切れ、堅い声が応える。名乗ると、ああ、と少しだけ緩んだ。


「二木清乃が不妊検査受けた産婦人科、見つけました。検査の結果は問題なしでした。不妊の原因は夫側のようです」

「てことは、長男の子か」

「恐らくは。今、淺井さんが病室に確かめに行ってます」

「君じゃなくて、か」

「ああ、あの、今日は最初の聴取も淺井さんだったんで」


 慌てて加えた言い訳に、そうか、と御山は小さく返す。まあ同級生だ女だと主張して無理やり加わったのだ。相応の働きをしていないと思われても仕方ない。


「それで、二木研哉を任意で引っ張りたいんですが」

「分かった。淺井さんの聴取が済んだら一旦、帰って来てくれ」

「はい」


 短い了承を聞き届けたあと、御山は電話を切った。


 一息ついてシートへ凭れる。私も喫煙者ならここで一服するのだろうが、生憎吸ったこともなければ興味もない。他人の煙も嫌いだが、一人だけ許せる人がいる。


 手の内で揺れた携帯には『お疲れ様』と、短く労う一通が届いていた。

 当たり前だが、最初からこんな関係だったわけではない。御山と私は赴任二年目組で、もちろん向こうは資格持ちで課長だから雲泥の差だが、二歳年上という気安さもあって歓迎会の時からよく話をした。


 刑事課は忙しいくせに何かにつけて酒を飲みたがる課だ。中で飲んだり外で飲んだり、事件がない時には必ずどこかで飲み会が行われていると言ってもいい。私も引っ張られて参加するが、紅一点としての役割はほぼ皆無で、ひたすら女に対する説教だの愚痴だのを聞かされる羽目になる。そんな状況から、いつもさり気なく救ってくれるのが御山だった。


 関係が始まったのは去年の忘年会のあとだ。適当に散っていくうちに二人きりになって、気づいたらホテルにいた。酔いもあったが、既に惹かれていたから「一夜の過ち」ではなかった。でも三十も過ぎて追い掛け回すような痛い真似もしたくなくて、いい思い出として収めることにした。左手の指輪を見ない振りし続ける自信もなかった。深入りする前に終わらせるつもりだった。なのに向こうから、年末年始はこちらで過ごすことを伝えるメールが届いた。


 鍋の誘いに乗って部屋へ行き、体が乾く間もないほどセックスし続けた。私の貞操観念はその時にぶっ壊れたまま、未だ回復していない。


 清乃に向けるものが同族嫌悪なのは分かっている。どちらも「不倫」で一括りできることなのに、そうされるのは我慢ならない。同じ穴の狢だとしても、私の方がまだマシなはずだ。私は御山の兄弟と寝たりしないし、妊娠もしていない。



 淺井はそれから約二十分後、出た時より更に物憂げな顔つきで帰ってきた。知らず好きな相手と似た行動をしてしまうのはミラーリングだったか、淺井も清乃と話しているうちに染まってしまったのかもしれない。


「で、どうだったんですか」

 車が駐車場を出る頃になっても報告しない淺井に催促すると、ああ、とやりきれないような声が答えた。


「『取り柄がない』て言われたんだとよ。それが堪えて少なくとも二十個以上、税理士や教員免許みたいなのから大型特殊まで、自分でも数が分からなくなるほど資格取ったらしいわ」

「大型特殊、ですか」

「クレーンや高所作業車もな。小型船舶や玉がけまで持ってるらしいわ。馬鹿みたいだと分かってても、『取り柄がない』自分に戻るのが恐ろしくてやめられなかった、て」


 それで、と小さく納得したあと黙る。「簿記二級」に抱いた違和感の事実に、鈍いものが蘇った。三年間ずっと、英語でも数学でも清乃は私の上にいた。漢検一級を取った国語など言わずもがなだ。頭の良さでもひけらかしたいんじゃないの、と聞こえよがしに言ったことを、清乃はまだ覚えているだろうか。裏にそんな悲愴な理由が潜んでいるとは、私は想像することさえできなかった。


「好きだったことは白状したらしいわ。でも『覚えがない』て言われたから、詳しいことは伝えてねえって。ああ、だからこれ長男の聴取に使うなよ。言わないでくれって約束で聞けたことだからな」

 淺井は私を見ないまま言い渡す。手はずっと煙草を握っているのに、いつものように引き抜く気配がなかった。


「それで、子供は」

「認めたわ。旦那の不妊が奇跡でも起こしてなけりゃ、長男の子だ」


 答えて長い息を吐く。視界の端に映る淺井は相変わらず煙草に手も出さず、思い詰めるような顔をしていた。


「大丈夫ですか」

「いや。俺は、もう外れた方がいいだろうな。次は色ボケどころじゃ済まされない大穴開けそうだわ」


 淺井は答えながら窓を開ける。流す煙も弾く煙草もない今は、冷たい風が吹き込むだけだ。でも、そんなことなどどうでもよくなるほどの衝撃だった。


「でも」

「この仕事はな、『手助けしたい』や『力になりたい』ならいいんだ。でも『救いたい』になったら目が狂うから引け、って若い頃に世話になった人に死ぬほど叩き込まれてな」


 吹き込む風は容赦なく灰皿の灰も私の髪も散らす。洗いっぱなしでワックスもトリートメントもつけない、素の髪だ。伸ばそうかな、と零した私に御山は、今のままでいいよ、と言いながらメンソールの煙を噴いた。伸ばすと抱いた時に呼び間違えそうなのかもしれない。


「今はもう『救いたい』『連れ出したい』としか思えねえんだよ。刑事の顔でいられねえんだ」

 話されているのは淺井自身のことなのに、御山の姿がちらついて消えない。何をどれだけ語ったって、不倫は不倫だ。私や御山や清乃や幸哉がしているものと変わらない。でも御山はこんな風に、私のために挙措を失いそうになったことはあるのだろうか。


「お前は、告白しなかったんだろ」

「ああ、はい。相手にされるわけがないって分かってたので」

「賢いな」


 人によっては皮肉にしか聞こえない言葉だが、淺井がそうではないのは分かっている。


「あの人、昔っから馬鹿だったんだな」

 淺井は諦めたように笑んで、ようやく煙草を引き抜いた。


 蓋しその通りで、一字一句間違いはない。清乃は馬鹿だから玉砕して傷ついて、私は賢かったから逃れた。反論する気も微塵も起きない。なのに、少しも勝てた気がしなかった。

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