2-3. 周子

第12話

 助手席に乗り込んだ淺井は開口一番、やられたわ、と吐き出して項垂れた。


「一緒にいられて幸せだったんじゃないんですか」

「逆だ、逆。あの男、分かってて俺を残していきやがったわ。起こした腹いせか」


 幸哉への愚痴を零しながら煙草を取り出し、安定剤でも求めるかのように角を連打する。淺井がこれほど参っている姿を見るのはそう多くない。一緒にいてこうなるなら、寧ろ「苦手なタイプ」と言うべきではないだろうか。


「それはいいから、聞けたんですか」

「まあ、大体な」


 淺井は安っぽい飲み屋のライターで火を点けたあと、ようやく解き放たれたような表情で煙を吐いた。


「どっちの子だったんですか」

「それは無理だった」


 あっさりと返された予想外の報告に、車線変更のタイミングを逃す。バックミラーを確かめ、次のタイミングで右へ移った。


「『無理だった』って、何してんですか。一番大事なとこじゃないですか」

「二人とも誰の子か知らねえってとこまでしか教えてくれなかったんだよ。あとは『父親にも知らせてないことを淺井さんにお教えするわけにはいきません』て。轟沈したわ」

「それで諦めたんですか。任意同行は」

「言えるわけないだろ、絶対安静だぞ」

「複雑骨折して入院してたヤツは引っ張ってったじゃないですか」

「分かってるよ。これから課長に死ぬほど絞られるから許せや」


 淺井はまた項垂れながら、諦めたような息を吐く。煙草を噴かしたあと、今度は魂まで抜け出しそうな息を吐いた。まだ昼にもなっていないのに抜け殻だ。


「で、お前の方はどうだったんだよ」

 この寒いのに頭でも冷やしたいのか窓を全開にして、肘を預けながら尋ねる。


「『自分の子供かどうかは知らない、聞いてない』って。まあ、次男が自分の子供だって言い張ってんだからそうなんじゃないですか」

 答えは全て返って来たが、どれも真贋すら分からないような手応えのものばかりだった。でもまあ、これは事実だったということか。のらりくらりと交わされているうちに、私もあの気怠さに知らず巻き込まれていたのだろう。見た目は随分変わっていたが、中身は昔のままだった。なんの躊躇いもなく、周子ちかこちゃんだよね、と私を名前で呼んだ。


「自分の子じゃないかもしれねえけどプライドが邪魔してそんなことは言えねえ、でも本音は自分の子じゃない可能性のある子供なんていらねえから流産させようとした、ってとこか。でもなあ、自分の子かもしれねえんだぞ」

「DVするくらいだからなんでもしますよ。胸糞悪い男じゃないですか」

「なんか、引っ掛かるんだよなあ」


 淺井はまだ半分ほど魂の戻らない腑抜けた顔で息を吐いたあと、メモを取り出す。引っ掛かるどころか食い込んでいるのだろうが、ひとまず追い打ちは掛けないことにした。

 不意に、あ、と短い声がして、視線を滑らす。


「さっきの病院、『長男と纏めて通えるから選んだ』って言ってたんだよ。初診は今年の八月三十日だ。なら、不妊て診断つけた病院は別じゃねえか」

 フロントガラスの向こうに署を見ながら頷く。とりあえず説教は免れそうだ。


「色ボケでしくったわ。おい、回るぞ」

 ようやく元へ戻ったらしい淺井は風に散った髪を掻き上げ、新しい煙草を噛む。火を点ける前に、メモ帳の病院リストを開いた。


*


 二軒目の産婦人科で、清乃は確かに検査を受けていた。しかし結果は「問題なし」。不妊の原因は清乃ではなかった。


 研哉はこの結果も、「自分の子ではない」ことも知っているはずだ。それならDVの理由も、切迫流産の清乃を押し倒した理由も納得できる。


 元々二木とは揉めていて、その理由も絶対に触れられたくないほどのものだ。朝、薬に疎い二木に適当なことを言って頭痛薬を多く渡し、夕方に薬の袋の中身を入れ替えて誤飲させる。二木より遅く帰宅して再び入れ替え、あとは素知らぬ顔で二階へ上がり清乃に暴力を振るったあと眠った。風呂に入らなかったのは翌朝第一発見者になるためか。「始末したいもの」でもあったのかもしれない。


 二木が死ねば事務所も家も保険金も研哉のものになる。早晩、適当な理由つけて幸哉を家から追い出すつもりだろう。何しろ、絶対触れられたくないもう一つの理由を作った相手だ。これで惚れた女を全員取られたことになる。まあ、清乃は元々。


「これで任意はいけるな。ひとまず帰って報告するぞ」

 淺井は安堵した様子で首を回し、煙草を取り出す。散っていた意識を戻し、頷いてサイドブレーキを下ろした。


「しかしまあ、兄貴があの姿になっても勝てねえってのは相当堪えたんだろうな。そこだけは同情するわ」

「それ、なんですけど」


 駐車場から合流のタイミングを図りながら、控えめに切り出す。視界の端に映った視線が少し鋭くなるのが分かった。一定のタイミングで刻まれているはずのウインカーが心なしか早いように聞こえる。


「清乃は、中学校の頃に長男が好きだったんです。まあ大勢いるファンの中の一人だったし、三年になる頃にはもう『卒業』してたみたいで」

「お前、それを今言うのかよ」

「すみません。別に手柄を上げたかったとかそういうんじゃないんですけど、この件に関わりがあるのかどうか見極めたくて」

「それで、見極められたのかよ」


 深い溜め息と共に淺井は既に分かっているであろう質問を投げる。すみません、と小さく返した詫びに顔をさすりあげて再び息を吐く。


「長男の方は面識なしって言ったよな」

「はい。結婚式で初めて会ったって言ってました」

「病院に回してくれ。で、お前は課長に任意のとこまで報告しとけ」


 腹立たしさを通り過ぎたのか、呆れた口調で出された指示に小さく答えてウインカーを左へ変更する。数台見送って、すぐに合流した。


「他にも隠してることがあるなら『今』『ここで』洗い浚い吐いとけよ。次に後出ししたら、もう容赦しねえぞ」

「あの長男、うちの兄と同級で友達だったので、私も中学の頃に何度か会ったことあります。私はともかく向こうは覚えないと思ってたんですけど、覚えてました」

「『ともかく』ってのは」

「私も、好きだったんです。清乃みたいでは、なかったんですけど」


 控えめに白状した途端、淺井は盛大に煙を噴き出す。半分ほど窓を開けて外へ向けて灰を弾いた。


「私怨絡みかよ」

「違います、それを疑われたら捜査外されると思ったから言わなかったんです」


 反射的に返してしまったが、その理由こそ嫌われる言い訳の筆頭だ。もちろん私も例外ではない。そんな話を聞こうものなら「刑事の資質」を口にするレベルで忌んでいた。


「お前、俺じゃなかったら『これだから女は』の餌食になってる場面だぞ。正直、俺も喉まで出掛かってるわ」

 淺井でなければどうなっていたか想像に難くない。速攻で捜査からは外されて、下手をすれば処分対象だ。そうなれば、あの人だってもう助けてはくれないかもしれない。


「俺の色ボケと差し引いても、まだお前の方がデカい貸しなのは覚えとけよ」

 この程度で終わらせてくれるのは淺井くらいだろう。今更ながらありがたさが身に沁みる。でもそう思っているのは恐らく私だけではない。曲者だらけの島が纏まっているのは上が淺井だからだ。


「で、嫁が『卒業』したのに気づいたのはいつだ」

 淺井は尋ねながら煙を吐き出す。多少は引きずっているだろうが、声は元に戻っていた。


「運動会の時にはもう騒いでなかったから、二年生の九月くらいだと思います」

「理由は知らねえのか」

「仲のいい子には話してたかもしれませんけど、私は何も」

「彼氏ができたからとかじゃねえのか」

「そんなこともなかったと思います。噂もなかったし」


 一通り記憶を洗い出してみたが、彼氏ネタは一度もなかった。「痩せたよね」とか「勉強してるらしい」とか、その程度だ。


「夏休みに告白して振られて一度は吹っ切ったけど、ってとこかもな」

「その穴を埋めるために勉強して資格を取り始めたのかも。『馬鹿は嫌い』とか、普通に言いそうな人でしたし」

「顔も覚えてねえくらいだからな。言ったことなんて覚えてねえだろ」


 その辺りの箍や節度が抜け落ちてる、と兄も言っていた。いい奴だけど普通じゃない、だったか。


「女を幸せにできる男じゃねえのにな」

 淺井は溜め息と共に煙を吐き出したあと、黙った。


 二十六年前に自殺した母親は、その数日前に自宅へ酒を飲みに来た二木の仕事相手に強姦されていたらしい。階下から聞こえる悲鳴には研哉も反応したが、祖母の叱責を振り切ったのは幸哉だけだった。客間の前で座り込んだ二木は背後の悲痛な声にも無反応で、幸哉を見ると「邪魔をするな」と手で追い払った。


 その時に無理やり開けて見た光景を理解したのは数年後、自分がしてみてようやく分かった、と話したらしい。


「まあ、まだ決めつけるのは早いですよ」

「そうだけどな。こういう時の勘は当たるんだよ」


 自嘲するように笑い、淺井は新しい煙草を咥えて引き抜く。


「刑事なんて、因果な商売だよな」

 ぼそりと零してライターを擦った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る