第4話



 顔を曇らせたアザミに怪訝な顔を向けつつ、ミリエスタは箪笥の中からくしゃくしゃになったシャツやスカートを取り出す。壁に掛けて干していたタオルを引っ張るように外し、それらをカゴの中に入れる。


「それじゃ、ボクはシャワーを浴びてくるから」


「おう。……シャワー?」


 アザミは思わず聞き返す。何やら、聞き流すには随分とアレな単語がミリエスタの口から飛び出たから。


「うん、シャワー。暑かったし汗かいちゃったし、浴びなきゃ不衛生でしょ」


「お前本当にミリエスタか?」


 想定外の疑問をかけられ目を丸くした後、ミリエスタは面白がってからからと笑う。


「ははっ、それは私の言葉でしょー」


「いや、俺の知ってるミリエスタは知らない男を部屋に入れたままシャワーを浴びるような女じゃなくて……寧ろ身持ちが固い女だったはずで、」


 ミリエスタは研究一筋で、ネロに恋するまで色恋とは無縁の生活を送っていた。男とは必要以上に関わらず、研究仲間だとしても必ず間に一線を引き、貞操観念のしっかりとした女だ。そんなミリエスタを変えたネロはかなりの女殺しだと評されたこともあったが、要はそこまで身持ちの固い女だということで。


 逆に言えば、アザミをそれほどまでに……アザミは“もしかして”の5文字が頭に浮かぶ。


 変わらず笑みを浮かべたまま、ミリエスタは何かに気付いた様子で言う。


「あぁ……“もしかして”キミに気を許してるから、なんて考えてる?」


 瞬間、アザミが何か行動を取るよりも素早く動かされたミリエスタの腕が腰のポーチから魔符を抜き取り、魔法を行使する。


「『緋王の怒り(ヒオウノイカリ)』」


 昼にアザミを拘束した氷の魔法、いや、それよりも“緋い”氷塊が地面を走り、アザミの右足を床に固定した。


 突然の凶業に対し、それを行った当のミリエスタは変わらない笑みで。


「違うよ? 今のキミじゃボクには絶対勝てないから、ある程度の自由を許してるだけ。依然ネロは取り返したいと思ってるし、キミを利用する気満々さ」


 ここまで恐ろしい笑顔をアザミは見た事がなかった。狂人を題材にした映画のどれよりも恐ろしく、生身で感じる真の狂気に体が強張る。


 使い捨ての魔符が焦げ尽きて灰と散り、ミリエスタの冷たい美しさを白黒に彩った。


「……キミ、その傷は治さないんだ」


 傷と言われ、ネロが負っていた手の甲の傷跡に目を向ける。だが違ったようで、ミリエスタは首を横に振って自分の首元を指差す。


 アザミが自分の首に触れると、ぬるりとした生暖かい感触が掌を襲う。手を離して確認してみれば、赤黒い血がベッタリと張り付いている。


 この位置は、昼にメアリスによって付けられた傷。あの後に血は止まっていたのだが、サヤとの一連の流れで傷が開いてしまったのか再び血が流れ出した。


「ネロは聖術の天才で秀才。本来なら他対象の『快癒・巡礼』ですら自身を対象に行使できる。なのにその小さな傷を治さなかったのは何故?」


 誰よりもその答えを知っているアザミは黙り込む。


「答えは簡単、“キミがネロじゃないから”さ。聖術の使い方も、神への信仰も……キミは知らない、又は覚えていない。違う?」


 アザミは的確な指摘に呆気に取られると同時に、ミリエスタの考察力に舌を巻く。


 ネロが得意としていた、信仰心が起こす奇跡の御業“聖術”。人の身体を治し、悪を浄化し、魔法に対して圧倒的な優位性を誇る。


 神官といった聖職者しか使えないその技を、ネロは自由に行使できる。神に愛された肉体が成せることだ。


 しかし、この身体はネロだが中身は“ネロ”ではない。その小さな違いが決定的な差を生み出し、アザミの聖術の行使を不可能にしていた。


 そのことにアザミが気付いたのは、魔学塔へ向かう間のこと。だがミリエスタはそれよりも早く、


「おかしいと思ったんだよね。ネロの戦闘技術を持っていてしたら、あの場でメアリスにいいようにされることなんて無かったのに、キミはされるがままだった……あの時点でキミの弱体化を知ったのさ」


 だからアザミを無防備に受け入れた。聖術を使われれば負けは確実の関係でありながら、相手の状態をよく理解していたミリエスタは。


「さて、と」


 ミリエスタはソファで寝入っているサヤの体を揺らして覚醒を促す。


「サヤ、起きて。シャワーを浴びに行くよ」


「う〜ん……なんや、騒がしいなぁ……ってミリエっち! よくもウチに『茈欲』使いよってくれたなァ!」


 起きて早々キレだすサヤに苦笑を浮かべながらミリエスタは弁明する。


「キミがネロに何かしようとしていたから仕方がなかったんだよ。それに魔符は使ってない微弱な電弧だったし許してよ」


「ま、まぁそれなら……ってなるかい、ドアホ!」


「じゃあこうしようか。……今日は寝る前にプディングを食べることを許可する」


「っ! ホンマかいな!?」


「あぁ。それと今日はもう遅いから、理論構築は明日にしよう」


「しょ、しょうがないなぁミリエっちは。それなら赦したるわ」


 怒り顔から一転、大好物の甘味を就寝前に食べることを許可されたことでニヤケ面になる。そんなサヤとアザミは目が合った。


「ネロ、アンタには悪いことしてもうたなぁ。またいつか埋め合わせはするさかい、今回はウチの顔に免じて赦してくれんか?」


「あ、うん。それで構わないよ」


 いつの間にか右足を固定されていた氷塊は溶け、水溜りも残っておらずサヤが『緋王の怒り』が使われたと気付くことはなかった。


「ん、気ぃつけて寝ぇよ」


 手をフリフリと揺らしてサヤの姿が2階へと消える。ミリエスタも続いて階段を登り、アザミが最後に見たのはニッコリと浮かべられた、変わらない笑顔だった。


「おやすみなさい」


「……おやすみ」


 右足は自由になったが、動こうとは思えない。二度も自分に対するミリエスタの感情を知ってしまっては、とても彼女を追えるような心情ではなかった。


 暫くして水音がこちらまで響いてくる。普段は意に介さないはずのその音が、ミリエスタに釘を刺されたはずなのに、今は妙に艶かしくて、申し訳なさと男子特有の気恥ずかしさが入り混じり、気を逸らすように部屋の中を見渡す。


 でもあまり変わり映えはしなくて。やはり魔導書や魔符やらが散らばっているだけで。


 その中で目立っている何かを見つけて、それを拾い上げる。


「……三人の、写し絵」


 それは魔法で写された一枚の精巧な絵だった。中にはネロ、メアリス、ミリエスタの三人が描かれている。全員が笑い合い、幸せそうだ。


「なんだよ……これ……」


 こんな写真、アザミは知らなかった。ピースを作るネロの右手には十字の傷が付いていて、早くとも対抗戦後。三人の宿願を果たし幸せ絶頂の最中だろう。闘技場を背景にしているところを見るに、表彰直後のことだろうか。


 でもアザミは知らなかった。三人が写し絵を撮っていたことなんて描かれていなかったから。


「……」


 その事実が、アザミの心を更に締め付ける。悲しませる。ネロの醜い物真似をしたところで、やっぱりネロの紛い物で。ヒロイン達のことをどれだけ知っていようと、真の共感は不可能で。


 何度も何度も、この世界は俺を否定し続ける。


『ネロは取り返したいと思ってるし、キミを利用する気満々さ』


 ふと、ミリエスタの言葉を思い出した。彼女はネロを取り戻すことを熱望しているし、そのためにアザミを利用しているとも言った。


 ならば俺もそうしよう。偽物ではなくて、本物を取り返す為に俺も腐心しよう。


 これは自棄になったからではない。早く元の世界、日本へ帰りたいからという想いでもない。


 アザミの心にヒロイン達への怒りや嫌悪は無く、只々彼女達への同情心と深い哀しみがあった。小説を嗜んだだけでは理解しきれなかった、ネロに向ける愛情を体感して。同様に彼女達が抱いた悲しみを、欠片だけでも知ることができて。


 ならばこうしよう。俺はネロを取り戻す為に自分の身がどうなろうと……いや、この身体が傷ついてしまってはネロが戻って来る場所が無くなってしまうな。


 訂正しよう。俺はネロを取り戻す為に、“音桐アザミ”がどうなろうと厭わない。元より“ネロ”を取り戻すと決めていた。その犠牲に俺が追加されただけのこと。この世界で俺が消えようと悲しむ者はいない。




 ……そして、元の世界にも。




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