第9話 13年目 その2

 しかし、男にとっての懸案事項は少年の発達のことだけではなかった。

 それが起きたのは、先のパスタ事件が起きてからまだそう経たない、春のおぼろ月の夜のことだった。この日の1週間以上前から微熱が続き、体調がすぐれなかった男は、夕食後まもなく寝台に入り、夕方の早い時間から眠って体を休めていた。そうして、入床から5、6時間ほど経ったころ、突如喉にいがらっぽい感覚が込みあげてきて、男は夜中に目を覚ました。きっと喉の粘膜が乾燥しているのだろうと、水を飲みに起きあがったところで、男は我慢できず激しくせき込んだ。


 その時に吐き出した水っぽい液体は、かなり量があり、男の、口元を覆った手の指の間からあふれ出すほどだった。男は嫌な予感がして、寝台脇の小机の上にある、ランタンのスイッチを入れた。板張りの床にまき散らされたその液体は、ランタンのオレンジ色の光に照らされ、正確な色はわからなくなっていたが、確かに赤く、金臭いにおいがした。男が喀血したのはこれが初めてだった。


 男は慌てて辺りを見回した。これがうつる病気ではないのは、体調を崩すまでの経緯から何となくわかっていたが、それでも、少年にこんな恐ろしい光景を見せるわけにはいかなかった。幸い、少年は既に2階の自室に戻っているようだった。手と顔を洗った後、急いで床の血液を雑巾で拭きとり、アルコールを霧吹きで散布して消毒する。拭き取りに使った雑巾は新聞紙で巻いた後、汚物用の黒いビニール袋に入れて口を縛り、外のごみ捨て場にある、生ごみの回収箱にそっと入れた。


 最近回数の減っているごみ回収がいつ来るかはわからなかったが、家の中から出しておけば、少しでも少年には気づかれにくくなるだろうと、男は思った。一緒に暮らしている以上、体調が悪いのは隠せないにしても、ここまで病状が悪化して、血を吐く重病人になりかけているのは少年に知られたくなかったのだ。最後まで自分が少年の面倒を見ると心に誓ったからには、少年の独り立ちする日を見届けるまで、なるべく1日でも長く元気でいて、1日でも長く生きたかった。


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