第四章 愛は定め 10

 一縷は鋼線射出巻取装置だ。

 改良が加えられて、鋼線は強度を保ちつつ、さらに細く、装置そのものも小さく、軽くなった。

 装置そのものが重りと鋼線を結ぶ機構が備わっているため、一々手で結んでやる必要はない。

 重りも形状が進化し、引っかかりやすくなって、たとえば壁の向こうに射出して引っかけ、壁を登るというような運用もできる。


 露草が好むのは、動きの途中で人間にはあり得ない変化を加えることだ。

 たとえばあらかじめどこかに鋼線を巻き付けておき、前傾姿勢で突っ込んでいった先であるのに、いきなり後ろに倒れるというような。


 すでに黒檀が横薙ぎを好んで使うことはわかっていた。

 だから露草はこれに賭けた。

 目の前を黒檀の振るった刃が通り抜けていく。


 鋼線を切断する一縷の機構を作動させて、体の自由を取り戻した露草は猫族のしなやかな体幹を利用して地面を左手で突くと、反動で起き上がった。

 右手を振り上げざまに、右手の一縷を使って鋼線を射出する。

 黒檀の顔を狙って。

 一縷にはこういう使い方もある。


 打ち出された重りを黒檀は顔を捻って避けた。

 すでに鋼線の射出は巻き取りを停止させて止めてある。

 黒檀のすぐ後ろで止まった重りは重力に引かれて落下を開始し、黒檀に巻き付くはずが、黒檀は返そうとしていた刃を止めてそちらに跳んだ。


 まだ!


 露草はその場で体を一回転させつつ、右腕を振るった。

 小刀が届く距離ではないが、右腕の先にあった鋼線の先の重りはその回転に引っ張られ横薙ぎに一回転した。

 体勢を崩した黒檀に鋼線は巻き付くはずだったが、黒檀は刀を鋼線が振れる瞬間に切り上げ、重りの向かう方向を上方向に引っ張って、被害を自分の刀だけに収めた。


 まだ想定内!


 同時に露草は鋼線を巻き取る。

 体勢を崩していた黒檀は右手だけで刀を持っており、突然引っ張られたことで、刀を保持できず一縷に奪われた形になった。

 小刀を左腕に仕込んだ鞘に戻し、手元に飛んできて落ちた刀を露草は拾い上げる。


「形勢逆転、というところですか」


「どうやらそのようですね」


 だが黒檀は無手でも戦えることがわかっている。

 露草は両手首を打ち合わせ、一縷を脱着する。


 一縷は見せすぎた。

 もう通用しないだろう。


 武器を奪った今、腕を速く動かせることのほうが重要だ。

 黒檀の持つ銃の装弾が残っている可能性はまだあったが、それなら使う機会は何度かあった。

 おそらく単発式だ。

 それに賭ける。


「では最後の幕を上げましょう」


 露草は刀を正眼に構え、じりじりと黒檀へと距離を詰めていく。

 黒檀は両手を上げて構えを取り、逃げない。


 露草の足が速いからだろう。

 背を向けて逃げても後ろから斬られるだけだ。


 間合いに入る直前に露草は構えを上段に変える。

 こちらの間合いのほうが広いのだから、攻撃を最速で行うことこそが重要。

 黒檀の瞳がじっと露草の挙動を追っている。


 今の黒檀は露草のことだけを考えている。

 集中している。

 いい。とてもいい。

 露草はこういうのが欲しかったのだ。


 今こそ黒檀を殺し、露草のことしか考えていない今で、黒檀の人生を切り取ろう。


 黒檀が露草の間合いに入るその一瞬前に露草は刀を振り下ろし始めていた。

 狙うのは一拍の一閃。

 全身を同時に動かし、剣戟の瞬間にすべてを合わせる。


 完璧とは言い難かったが、成功とは言える一撃になった。

 技によって猫族の肉体限界を超えた一閃が生まれた。

 その露草にとって会心の一撃を、黒檀は前に踏み込み、半身で躱した。


 露草は刀を返し、黒檀を切り上げようとしたが、無手の黒檀のほうが早い。

 着物の襟を掴まれたかと思うと、露草の視線がぐるりと回った。


 猫族の本能が体を横に回転させて、手足から着地させようとするが、それも押さえ込まれた。

 背中から地面に叩きつけられ、一瞬呼吸が止まる。


「かっ、はっ」


 次の瞬間には黒檀が露草を押さえ込むように馬乗りになり、刀は黒檀の手に戻っていた。

 静寂は、間に合わない。黒檀が早い。


 ああ、やっと、愛してもらえる。

 誰かに自分のすべてを明け渡す時が来たのだ。


 黒檀は刀を振り上げ、そして振り下ろした刃は露草の首に触れるか触れないかの位置で止まった。

 止まってしまった。


「貴方はいま死んだ。ということではいけませんか?」


「あーあ、そうなんだ。結局貴方も他の人たちと同じなんだ」


 過去にも露草が及ばなかった相手はいる。

 だが誰もが露草に考え直すように言った。

 自分はもう勝ったのだと思って、露草の愛を否定した。

 黒檀も一緒だった。


 露草は顔を覆うように手を動かし、袖の中の静寂を掴むと、そのまま黒檀の胸に向けて発砲した。

 過去、これで殺せなかった男はいない。


 甲高い音がした。

 思わず耳を塞ぎたくなるような、嫌な音だった。


 露草と黒檀の間には刀の刃の腹が差し込まれていて、それが銃弾を弾いたのだ。


 露草は二発目があるような動作を見せた。

 一発目は防げたと言っても偶然。

 静寂に二発目など存在しないが、黒檀がそれを止めようと思えばもう露草を斬るしかない。

 だが黒檀はいつまで経っても露草を斬ろうとはしない。


「なんだよ。なんなんだよ。あんたは」


 取り繕ってきた言葉遣いが崩れる。


「そんなに強いんなら、なんで私を愛してくれないんだよ!!」


「ははっ、困った子だなあ」


 そう言って、黒檀は笑った。


 なぜ笑う。

 勝利を確信した男のあの嫌らしい笑みではなく、なぜそのように朗らかに笑えるのだ。


「人を殺すなとは言いませんよ。仕方がない時もあるでしょう。だけど愛するために殺すのはこれで止めなさい。それから私が死んだら月白の面倒を最後まで見てくれる約束でしたね」


 鉛丹は露草の手を取った。

 初めての触れ合いだった。

 黒檀は自らの刀を露草に預けた。


「なら、この老いぼれの命を持って行きなさい」


 そう言って自分の胸に切っ先を向けさせた。

 そして優しく微笑んだ。

 前にも同じ微笑みを見たことがある。

 優しくて、愛しくて、大好きだった笑顔。


「その代わり、貴方は死を望まず、生きて、最後まで生き続けて欲しい」


「え?」


 黒檀の声にキュウの声が重なった。

 露草はあの日、あの時、キュウが最後まで言えなかった言葉をようやく最後まで聞いた気がした。


 そうだ。

 そうだった。

 キュウはあの時、生きて、と言ったのだ。


 それはキュウのように命を誰かに預けてしまうことではなく、その生をまっとうして欲しいという意味だったのだ。

 なぜわかるのかと言えば露草がキュウにそうして欲しかったからだ。

 二人は通じ合っていたからだ。


 なのに、私は、私は、キュウの望みすら理解していなかった。

 相手のことを本当に理解していなかったのは私のほうだったのだ。

 ずっと勘違いして、過ちを繰り返してきた。


 キュウの願いをずっと反故にしていたことにようやく気付いて、彼の本当の優しさにようやく気付いて、生きることを願われていたとようやく知って、ついに露草は堪えられなくなった。


「あ、あああああ、ああああああああああああああ!」


 黒檀に握らされた刀を持っていられずに、露草はそれを横に落とした。

 両手で顔を覆い、泣き崩れる。


「うあああああああああああん!」


 まるで童女のように泣き喚く露草の体に馬乗りになっていた黒檀はその身を起こして、露草の横に腰を下ろし、その頭を撫でてやった。

 彼女が泣き疲れてしまうまで、ずっと、そうしていた。

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