第四章 愛は定め 7

 秘色の馬はよく訓練されていて、先ほどの戦闘音でも逃げていなかった。

 露草が恐る恐る近付いてみても大人しくしている。

 手を出して撫でてやると、とくに抵抗もなく受け入れてくれた。


 馬車が使えるか否かは碧浜に到着できる時刻を大きく変えてくれる。

 露草は乗馬の心得が無かったので、御者の真似事をするしかないが、試してみる価値はあった。


 だがその前にすることがある。


 露草は馬車の客室や、その他の場所を調べて回った。

 罠を恐れての行為だったが、想定外の収穫があった。

 救急箱を見つけたのである。


 秘色は初めから戦闘があることを見越して、準備をしてあったのだ。


 露草は有り難く使わせて貰うことにする。

 傷はどれも浅いとは言い難かったが、深いというわけでもなかった。

 血止めの軟膏を塗って、包帯を巻けばじんわりと赤く染まる程度だ。

 斬られて襤褸になった服はどうしようもないが、包帯を巻いたお陰で、肌が見えるわけでもなくなった。


 体の動作を確かめてみるが、動かなくなった部分は無い。

 痛みはあるが、出血は直に止まるだろう。


 それから握り飯を見つけた。

 自分で食う為だったのだろう。

 丁度時刻は昼時である。

 まさか毒は入っているなんてことはないと思う。


 露草は齧りついた。

 刻んだ沢庵が入っており、秘色の飯の味がした。

 殺した相手の作った飯をいま食べているというのは何か不思議な気分だった。


 腹ごしらえを済ませた露草は御者台に移動して、手綱を振った。

 露草がうまくやったというよりは馬の方が露草に合わせてくれたのだろう。


 馬車は進み出す。

 露草のことを気遣ってか、その速度は遅い。

 だがあの重い旅行鞄を持って碧浜まで移動するのは無理があったので、この速度でも十分に助かる。


 戦闘中に落とした一縷は、何処かが壊れたのか二台とも動かなくなっていた。

 だが回収はしてある。他人の手に渡っていい品物では無い。

 自分が使う分にはいいが、ここに置いていくことで回り回って敵が使ってくるという可能性はゼロにしておきたかった。


 馬を走らせていいものか判断が付かなかったし、そもそもどうやって走らせるかもわからなかったため、馬車はゆるゆると進んだ。

 やがて日が沈み、川の傍で露草は馬車を止めた。

 迷ったが馬を馬車から解放してやる。

 馬には水も食事も必要だ。もちろん露草にも。


 秘色は遠出をするつもりはなかったのだろう。

 食料も昼に食べた握り飯で終わりだ。

 竹筒に入った水は半分残しておいたので、それを飲む。


 記憶が正しければ碧浜への道のりを半分は進んだ。

 馬が逃げてしまっても、旅行鞄を捨て、一縷と静寂だけ持って残りは徒歩でも良い。箱馬車の客室で一夜を過ごした。


 翌朝、露草が目覚めると馬は馬車の傍で待ってくれていた。


「いい子ね」


 露草は馬を撫でてやり、馬車に繋ぐと再び碧浜に向けて進ませた。


 太陽が中天に差し掛かる頃に碧浜の近郊に到着する。


 今度こそ馬を解放し、十分に撫でて褒めてやった後、お尻を叩くと、理解したのか馬は去って行った。

 露草は一縷と静寂だけを持って監獄へと向かう。


 守衛はもちろん露草の顔を知っている。


「戻ったわ。ああ、ええと“魚は空を泳ぐ”」


「入れ」


 意味のわからない符丁を口にすると守衛は監獄の門を開けた。


 監獄は酷く懐かしい臭いがした。

 淀んだ煙草と酒とクソの臭いだ。


 露草は鉛丹が授業を行っていた部屋に向かった。

 静寂には弾丸を装填してある。


 先の依頼は鉛丹から伝えられた。

 ゆえに鉛丹は露草を亡き者にしてよいと考えていたか、あるいはその上がそうだった。

 鉛丹がその事情を知っていたかがわからない。

 場合によってはキュウを連れて監獄から強行脱出を図ることもありうる。


 入る前にはもうわかっていたが、部屋は無人だった。

 だとすると運動場だろうか。


 露草は運動場に向かう。

 そこには雛鳥たちが集められ、鉛丹と、他にも何人かの手伝いが居た。

 キュウも居る。

 無事で良かった。


 そしてあえて露草は言葉を発さずに運動場へと足を踏み入れた。

 鉛丹の反応に目を凝らす。

 彼は露草が来たことに気付いたはずだ。

 露草の姿を認めた鉛丹はほとんど反応を示さなかった。


「露草、仕事はどうした?」


「失敗しました。申し訳ありません」


「そうか、よく生きて帰ってきた」


「叱責しないのですか?」


「別に俺の仕事じゃないからな。後で虫襖に呼び出されて、さてどうなるかは知らん」


 成程。虫襖がこの件の担当か。

 露草はその名を胸に刻みつける。


「卒業試験が近いと聞きました」


「ああ、だがお前は……、ああ、失敗したのか、そうか。ちょうど今からだ。参加するのか?」


「今回の任務に失敗した私でも卒業試験を突破すれば一人前として認められる。ですよね?」


「そうなる」


「では参加します」


「わかった。では他の訓練生に混ざれ」


「はい」


 露草はキュウの元に足早に向かった。

 鉛丹のいる手前、大仰に再会を喜ぶことはできないが、ただ軽く肩をぶつけた。

 痛みが走って、少しばかり後悔した。


「さて、予定外に参加者が増えたが、前説を繰り返すことはしない。これから外に出るため、訓練生には首輪を付けてもらう」


 鉛丹がそう言って、手伝いの者たちが物々しい鉄の首輪を持ってくる。

 そして訓練生ひとりひとりに付けていった。

 番号鍵式の南京錠が付いた分厚い鉄の首輪だ。

 正しい暗証番号がわからなければそう簡単には外せないだろう。

 重さも相当にあった。


「全員首輪が付いたな。では後ろを付いてこい。試験会場に向かう」


 鉛丹が先導し、一行は監獄の外に出た。

 監獄の裏のあまり高くない山に入る。

 山頂は木々が切り開かれていて、広場のようになっていた。


「では卒業試験の合格条件を伝える。明日の朝日が昇るまでに外れた首輪を一つ手に持ってこい。それだけだ。では試験を始める。……どうした? もう始まったぞ」


 合格条件の意味を露草が考えるよりも早く、その手をキュウが引いた。


「キュウ?」


「黙って」


 露草は抵抗せずにキュウに付いていく。キュウの判断には従う。

 それが二人の決まりごとだ。


 キュウにしてはかなりの急ぎ足、というよりは全力疾走で山頂を離れていく。

 その間に露草は合格条件について考えていた。


 首輪を一つ。自分の首輪では駄目なのだろうか?


 山腹の岩と岩の間、あまり目立たない場所にキュウは露草を連れて行った。


「なんで戻ってきちゃったんだ。よりにもよって今」


「卒業試験があるって聞いたからだよ。キュウを一人で試験に向かわせられないと思って」


「そんなに怪我をして、無茶をしたんだろう?」


「深い傷じゃないよ。もう血も止まってる」


 キュウは黙って露草の肩を掴んだ。ずきっと傷が痛む。


「痛いって」


「痛いんじゃないか。いや、言い争っても仕方ない。もう賽は投げられたんだ。露草、合格条件をどう考えた?」


「自分の首輪じゃ駄目なのかなって」


「鉛丹は“外れた首輪を一つ持ってこい”って言った。付けてこいじゃない。もしも外せるなら自分の首輪でもいいと思うけれど」


 キュウは自分の首輪に指を通して、ぎゅうと引っ張って見せた。


「道具があっても難しいな。四桁だから総当たりでもなんとかなるとは思うけど、自分のはちょっと見えないな」


「お互いの鍵を回していく?」


「いや、あまりいい考えとは思えないな。他の雛鳥が同じように考えるとは限らない。もっと簡単な手段があるから」


「もっと簡単な手段?」


「他の雛鳥の首を落として首輪を奪うんだ」


「ああ、それで」


 キュウは山頂からすぐに離れたのだ。

 戦闘能力の低いキュウと、手負いの露草の二人は派閥を組んでいる他の雛鳥たちからは簡単な獲物に見えただろう。

 真っ先に狙われる。

 恐らく今も捜索されているはずだ。


「鍵をちんたら開けている暇はない。何か他の手段を考えないと」


「私たちが狙われているなら好機じゃない? 罠を張って待ち伏せすれば、二人くらいならなんとか」


「露草、武器は何を持ち込んだ?」


「静寂だけ。一縷も持っているけど、壊れてて射出も巻き取りもできない」


「ふむ」


 キュウは腕を組んでしばらく考え込んだ。

 露草は時間が惜しいと思ったが、キュウの思考の邪魔をしてはいけない。


「好い方法がある」


 しばらくしてキュウはそう呟いた。


「さすが」


「誰かに聞かれていたら不味い。露草、耳を貸して」


「うん」


 露草はキュウに頭を寄せた。

 無防備に。警戒などせず。何故ならキュウだから。キュウの判断は何時も正しかった。だから今も正しい判断をしていると露草は信じた。


 その露草の頭にキュウの頭が叩きつけられた。


 突然の衝撃に露草は一瞬意識が飛びかけた。

 何をされたのか理解ができない。

 何かの事故か、間違いだと思った。


「キュウ?」


 クラクラする頭で、なんとか瞼を開いてキュウの姿を探す。

 そこには静寂を露草に向けるキュウの姿があった。

 露草は咄嗟に左袖を探るが、そこにあったはずの静寂が無い。


「これが一番確実だ」


 キュウが引き金を引く。

 撃鉄が落ち、あの気の抜ける音がした。


 だが銃弾は露草には命中しなかった。

 露草がいつもの癖で静寂の銃把に括り付けてあった鋼線を引っ張ったのだ。

 銃把を引かれた静寂は上向きになって、銃弾は遙か上方に向けて飛んでいった。


 露草の体は困惑したままの心とは裏腹に訓練に従って反撃を開始する。

 秘色に裏切られたばかりで、体が裏切られることに慣れてしまっていたのかもしれない。


 体を捻って地面を両手で突いて起き上がりざまにキュウに蹴りを叩き込む。


 狼族ほどではないが、猫族も脚力が強い種族だ。

 蹴りは静寂が引っ張られたことに気を取られたキュウに突き刺さった。


 キュウの体は数メートルも吹っ飛んだ。

 間髪入れずに露草はキュウに跳びかかる。

 キュウはこの場に銃を持ち込んでいないようだったが、弾丸の用意だけはあるかもしれない。

 静寂に再装填されるわけにはいかない。

 仰向けに倒れたキュウに、馬乗りになって、その頭部を殴りつける。


 蜥蜴族は鱗に覆われた硬い皮膚を持ち、打撃が通りづらい。

 だが構わずに露草はキュウを殴り続けた。

 自分の拳が裂け、拳を染める血はキュウのものか、自分のものかわからなかった。


 不意にキュウが腕を上げようとする。

 キュウは静寂を手放してはいかなった。

 いつの間にか再装填していたのだろうか。


 露草は咄嗟に膝でキュウの腕を押さえ込んだ。

 殴る手が止まったことで、ほんの少しだけ周囲が見えた。


 わざわざ自分の手で殴る必要などない。

 露草はそこにあった石を持ち上げた。

 そこそこの重さがあり、キュウの頭蓋骨だって叩き割れそうだ。


 それを露草は大きく振り上げ、そして振り下ろした。


 その瞬間、キュウは笑った。

 穏やかな、いつも見せてくれる、露草の好きな、あの笑顔で。


「それでいい。君は生きて――」


 石を振り下ろす手は止まらなかった。

 ぐしゃりと石がキュウの頭部を押しつぶした。

 脳漿が飛び散り、キュウの体は一瞬硬直して、そして力を失った。


「え……?」


 露草はキュウの最後の笑みと言葉の意味が分からなかった。

 とにかく他の訓練生から身を守らなければならないと思い、キュウの力を失った手から静寂を取り返して、銃弾を確認した。

 そこには空薬莢が収まっているだけだった。

 再装填は行われていなかった。

 その途端に理解が追いついてきた。


 そもそも手負いだからと言って露草とキュウが戦えば露草が勝つに決まっている。

 その実力差は誰よりもキュウが一番良く知っている。

 なのに彼はなぜ露草に襲いかかったのか。


 露草には首輪が、つまり雛鳥の死が一つ必要だった。

 他の訓練生の中には通常時であれば露草が勝てる相手もいただろう。

 だが今の露草には一縷が無く、手負いの状態だ。


 露草とキュウは狩られるのを待つばかりの獲物だった。

 だからキュウは選択したのだ。

 自分の首輪を露草に渡せばいい、と。


 だが、ただ提案しても露草が頷くはずもない。

 だから一計を案じた。

 露草を裏切って殺そうとしている、と露草に思わせ、反撃で死ぬのだ。


 そうすればキュウの首輪を確実に、安全に、間違いなく露草に与えられる。

 露草の命が危険に晒されずに首輪を得られるただ一つの方法だった。


 なぜ、などと問う必要は何処にもない。

 キュウはそれだけ露草のことが大切だったのだ。

 露草がキュウのためにすべてをなげうってこの場に駆けつけたように、キュウにとっても露草は自分の命を差し出しても構わないほどに大切な人だったのだ。


「なんでっ!」


 露草にとってもそうだったのに!

 露草だってキュウのためなら命は惜しくなかった。

 なのに、なぜそれを分かってくれなかったのだ!


「キュウ、愛してる。愛していたのに」


 そしてキュウも露草のことを愛していたのだ。

 深く。とても深く。命を捧げられるほどに。


 露草はキュウの遺体に縋り付いて泣いた。

 声を押し殺して泣いた。


「ひぐっ、う、うう、うあああああ! あああああ!」


 泣きながら思い出した。


 蜥蜴族の風習について。

 キュウの魂の行く先について。


 蜥蜴族は血と肉を大地に還されることを恐れる。

 魂が帰れなくなると考えるからだ。

 彼らの血と肉は常に食に供される。

 キュウだってそう言っていた。

 それが彼らの常識だった。


 なのにキュウはそれすら厭わなかったというのか。

 魂すら露草のために捨ててくれたのか。


 なら、私が――。


 露草はキュウの遺体に齧りついた。

 鱗が口内を傷つけたがそのようなことは構わない。

 噛みついて、肉を喰らった。


 私が貴方の魂を持って行くわ。


 そして露草は理解した。


 これこそが究極の愛なのだ。

 愛し愛されるということなのだ。

 相手のすべてを自分のものにすることで愛せる。

 自分のすべてを相手に奪われることで愛される。


 キュウと自分はいま愛し合っているのだ。


 だから悲しいことなんて何も無いよ。

 もっともっと愛を広げよう。

 愛して愛して、そうすればきっといつか誰かが私のことも愛してくれる。


 笑え。私。


「あは……」


 嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。


 喜びで世界を満たそう。いつか私を満たしてくれる誰かが現れるその日まで。

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