第四章 愛は定め 5

 さて、困ったことになった。


 露草が黄都の学校に通い出して一週間が過ぎた。

 標的である少年、薄雲との接触もできた。


 露草はまったく起きてもいない露草への誹謗中傷を薄雲が広めているとして、他の人もいる場で彼を糾弾した。

 露草はあまり意識していなかったが、子どもが知っていることさえ悍ましいような汚い言葉まで使った。

 言葉の意味は分からなくとも、酷く罵られていることは分かったに違いない。

 薄雲は一瞬だけ顔を歪めた。

 一瞬だけ。そして頭を下げた。


「ごめん!」


 露草は彼にとって二つ年下の子どもである。

 そのような相手から理不尽に罵られて、彼は頭を下げた。

 ただ気の弱いお人好しなら、そこまではありえる。


「僕に心当たりはないけれど、君にそう思わせた責任は取る。必ず元凶を見つけ出して、君に謝らせよう。それまでは僕に憎しみを向けてくれていい」


 だが彼は力強くそう続けた。

 彼からは猫族に対する下心のようなものは感じられなかった。


 彼は怒ってすらいなかった。

 自らが罵られたことに対しても、また義憤のようなものも感じていないように思えた。彼にはその年齢にあるまじき責任感があった。そして露草の立場に対する理解があった。

 いや、本当のところを理解しているわけではないのだけれども。


 思わず露草は言葉に詰まった。


 嘘だ、お前がやったんだろう、と畳み掛けるべきであった。


 それなのにこのような人間がいるわけないという否定の感情が先に来て、やるべきことを見失った。


 薄雲は本気で誹謗中傷の犯人捜索を始めたので、露草は学んだ潜入の技術を全力で使って証拠のねつ造を行わなければならなかった。

 やっている最中も、自分が何をやっているのかよく理解ができなかった。


 ただ、今の段階で露草の狂言だとバレると、薄雲の気を引きたくてやったように見えるだろう。


 それは気に入らない。

 非常に気に入らない。


 もちろん露草が嘘を吐いていると最終的にはバレていいのだが、今はまだ早すぎる。

 なんとか真犯人は存在するが、尻尾を掴ませない、という感じに収められているが、それもいつまで続くかわからない。


 なんとか機会を見つけては薄雲のところに行き、まだ見つからないのかと罵声を浴びせることは続けられている。

 その一方で薄雲のことを調べてもいる。


 何か彼と衝突を引き起こせるような要素があればいいのだが、今のところは空振りだ。


「後ろ暗いところのない人間なんていない……」


 仮宿に帰ってからも彼の行動の記録を読み返して、彼の弱点のようなものがないかを探ってみるが、何一つ思い当たらない。

 そのような露草に外から帰ってきた秘色は言う。


「夢が無いねえ。露草、君くらいの年の子どもはね、普通はまだ後ろ暗さなんて知らないもんさ」


 自分が普通ではないとわかっていたが、秘色の言葉に簡単に同意はできなかった。


 子どもこそ理性が利かずにやってはいけないとわかっていても、それをしてしまうものだと露草は思っていた。

 そして言い訳をするものだ。

 それは後ろ暗さではないのだろうか。


 しかし薄雲についてはたしかにそのように思えた。


「彼はまったく善意の人間だと?」


 秘色は肩を竦める。

 露草が自分の言葉を受け入れていないことがわかったからだろう。


「薄雲のことは知らないがね、彼の父親のことは、住んでいる家の畳の裏まで調べた。しかし何も出てこなかったよ。稀にいるんだ。そういう人間は」


「よっぽどおつむが弱いのね」


 ただただ善意の人がいるとすれば、それは世の中の悪意に気付けないからに他ならない。

 正しく世の中が見えているのであれば、善人でいることに何の意味もないと気付けるはずだ。


「だが普通の比較的善良な人間はそういう人に惹かれるんだ。自分の薄汚さと比べると彼らは太陽のように輝いて見えるからな」


 今度は露草が肩を竦める番だった。

 秘色の言葉が腑に落ちたからだ。


「私たちのような悪党にとっては見るだけで毒ね」


 心を惹かれるというよりは、心を焼かれる。

 理解ができないからだ。

 打算で動く普通の人間であれば、ある程度行動が、考えが読める。

 だが薄雲の思考は露草には想像ができなかった。


 潜入工作の基本技術の中には、相手の懐に入り込むやり方というのがあって、相手の考えを読んで、望む言葉を与えてやることで信用を得る。

 露草は薄雲を相手にその技術を応用して嫌われようと考えていたが、うまく言葉が出てこないのだ。


 相手が真実まったくの善人であるという前提条件自体を心が拒絶する。

 そのようなことはありえないと露草が思っているからだ。


 そして一番恐ろしいことは、薄雲が発する言葉は、もし露草が彼を騙しているのでなければ、まさに露草が欲しがるであろう言葉なのだ。

 騙していてさえ、わずかではあるが心を惹かれる。まさに焼かれるような感覚であった。


 秘色も露草の言葉に頷いた。

 彼にも理解できるところがあったのだろう。


「だから腸を引きずり出して証明したくなる。同じ人間だ、と」


 ではそうすればいいのに、そうしない理由はなぜであろうか?


 露草は素直に聞いてみることにした。


「依頼主が直接そっちを狙わないのはなぜ?」


「利用価値がある。すでに大衆の人気を得ているからよ。こいつの首に鎖を掛けたいのさ。だが金には靡かず、酒も薬も女もやらないときた。やだねえ、真っ当すぎる人間ってのは」


 それはまさしく悪党の言葉で、露草は安心した。

 理解も納得もできたからだ。


「これは私の持論なのだけれど、もしこの世に悪魔がいるとすれば」


「ん?」


「きっと誰の目にも善良に見えると私は思ってる」


 人間は、悪いものは醜い、と考える。

 相手の姿によって感じた自分の不快を、相手の容姿によるものだと思うからだ。

 こいつは醜いから、良くないものに違いない。という感情が、やがて悪いものは醜いだろうという思い込みに変わっていくのだ。


 だが悪意をもって人に接する者であれば、相手に自分を信じさせるために外見には気を配るだろう。

 人を騙すにはまず自分を信じてもらわなければならないからだ。


 という露草の思想が結果的に、美しく見えるものほど危険だ、という認識を醸成していった。

 そしてその考えが、ずっと薄雲に対して危険信号を発しているのだ。


 露草の言葉に対して秘色は自分の髭を少し捻った。


「なるほど。たしかにそいつは悪しき魔だ。普通は魅了されて誘惑に落ちる。真っ当になりたいだなんて、普通の人間には無理なのにさ」


 秘色の理解は露草の考えとは異なっていたが、否定するほどのことでもない。

 秘色の言うことも理解できる。


 もし本当にこの世に完全に善意しかもたない人間がいれば、秘色の言うようになるだろう。

 露草でさえ、もしも自分が真っ当であったら、くらいには思うのだ。


「差し詰め俺たちは正義の味方だな?」


 秘色の言葉に露草は声を出して笑った。


「あはっ、誰だって、いつだって、正義の味方よ。自分の正義のね」


 だが実際にはそうでもないことを露草は知っている。

 なぜならほとんどの人間が自分の正義というものを信念として持っているわけではないからだ。


 彼らの正義とは精々が快不快の話だ。心地良いものが正しくて、気持ち悪いものが悪だ。彼らはそのようなあやふやな感情を正義と悪だと決めつけて、時には悪だと決めつけたものを攻撃すらする。理屈が通っている時は過剰なほどに、理屈が通らない時には遠回しに。


「猫族なのにスレてるねぇ。他の猫族はもっと、こう愛嬌があるぜ」


 まあ、たしかに秘色の言う通りだ。

 露草の知る他の猫族は基本的には監獄にいる者たちだが、猫族はどの種族からも愛されるその特性のため、あまり他人の悪意に気を払う必要がない。

 露草のように怯えながら、周囲の反応を探ったりはした経験が無い。


 結果的に猫族というのは、自分勝手で自由だ。

 そののびのびとした生き方が、他の種族には愛嬌があると映るようだった。


「お気に召さなくて残念でした。耳は頭の上にあるけれど、母親を見たことは無いの」


「君が何族だろうとどうでもいい。仕事をきっちり熟してくれるならな」


「それは良かった。証明ができるからね」


 とは言ったところでその後も仕事が順調とは言い難い日々が続いた。

 薄雲は立ちはだかる壁が困難であるほど、気持ちを強くする気性の持ち主で、それは彼の身近な人間にまで伝播し、露草の仕事のほうが困難を極めた。


 一方で悪い話ばかりでもなかった。

 薄雲が露草への存在しない疑惑を晴らそうと努力すればするほど、実際に露草を悪く言う者が現れ始めたからだ。


 普通に悪意のある人間が存在することに露草は安堵の息を吐いた。

 薄雲の眩い光を直視することは、露草のような暗闇の中で生きる者には難しい。

 首までどっぷりと闇に浸かった露草であっても、ふと思ってしまうのだ。

 もしも組織に生まれておらず、彼と出会っていたらどうなっていただろうか、と。そして考えてしまうのだ。今からでも遅くないのではないか。


 そのような思いが首を擡げる度に露草は自らを強く叱責した。

 自分には帰る場所があり、待っている人がいるのだ。


 そしてもうすぐ最低限の三か月を迎えようとする頃合いのことだった。


 秘色との生活において夕食は基本的に一緒すると決まっている。

 その日にあったことを報告し合うためだ。

 食事は当番制で、腹の立つことに秘色の料理は豪勢で絶品だった。

 恐らく潜入技術の一環として叩き込んだのだろう。

 露草はまだ殺しの技術を学ぶ方が先で、そちらには手が回っていない。


「そろそろ三か月だが、準備はどんな具合だ?」


「環境は整ってる。問題ない。私に対する悪評はもはや広めるまでもなく浸透している。あの女なら激情に駆られて何をしてもおかしくない、くらいには思われてるよ。表向きは私の個人的な犯行ってことになるでしょ」


 そろそろ聞かれる頃合いだと思っていたので、返答は準備してあった。

 でなければこれほどすらすらとは答えられない。

 嘘は吐いていないが、誇張はあった。

 露草に悪感情を持っている者もいる一方で、薄雲とその周辺は相も変わらず、露草の味方であろうとしている。


 露草の報告を受けて、秘色はにっこりと笑った。

 喜んだのではなく、喜んだと思わせるためだけの笑みの形だった。


「それは良かった。そんな君に吉報だ。仕事をきっちり済ませて戻れば、近日始まる卒業試験は免除だそうだ。晴れて一人前と認められる」


「は? え? 待って」


 露草は混乱した。

 鉛丹の教室は一定期間で終了し、卒業試験が行われることは聞いていた。

 それに合格すれば一人前として認められることも。

 だがそれがもう行われるとは聞いていない。

 そして自分の免除もだ。


「近日っていつ?」


「さあ、俺は君の試験免除の話しか聞いてないな」


 では明日から始まるかもしれない。

 ならば最速でことを終わらせなければならなくなった。

 卒業試験までにはなんとしても帰られなければならない。


「予定を繰り上げるわ。明日、薄雲を殺す」


 秘色は珍しく本物の感情を顕わにして、箸を持った手を机に叩きつけた。

 怒りというよりは困惑、露草が自分の制御下を離れたことへの不安が主だと感じた。

 だから自分を強く見せるために机を叩いたのだ。


「なんだって!? 君は何を言ってるんだ? 三か月までもう一週間も無いんだぞ。幕府からの依頼は三か月から六か月の間に薄雲を殺すことだ。手前でも後でもない。理由なんて聞くなよ。最初からそういう依頼なんだ。そう依頼して金を払ったんだぞ」


「依頼は失敗で良い。薄雲もきちんと殺すわ」


 むしろ失敗でいい。

 卒業試験が免除になったら困る。かと言って途中の仕事を放り出すほど、露草は無責任では無い。

 最低限のケジメは付ける。それが薄雲の殺害だった。


 だが秘色は納得できなかったようだ。


「そんなことをすれば君は組織からの信頼を失い、見習いのままだ」


 ああ、そうだ。

 まさしくそれこそ露草が求めることだ。

 このままではキュウが卒業試験に一人で挑むことになってしまう。

 試験内容はわからないが、殺しに特化した授業の内容、これまでにわかった鉛丹の性格から危険なものになることは間違いない。

 キュウに危険が迫っている。それだけは見過ごせない。


「それがどうした。私は碧浜に、監獄に戻る。明日、薄雲を殺してその足で発つわ」


 露草の宣言を聞いて、秘色は箸を机に叩きつけると、頭をガリガリと掻いた。


「ああ、もうこれだから女子どもは! 両方だとなおさらだ!」


「好きに喚いて、どうぞ。私はただ言ったことを行うだけ」


「せめて明後日にできないのか。こっちだって手筈ってもんがあるんだ」


 秘色に事情があるのはわかる。

 わかるが、露草にだって事情はある。

 秘色がきっちり日時を聞いてくればこれほど焦ることはなかった。

 あるいは間に合わないとわかって、戻ることを諦めていたかもしれない。

 ゆえにこの状況は秘色が悪い。


「無理よ。明日でないなら別の暗殺者を見つけるのね」


「ああ、クソったれ。今夜殺しに行ったりはしないな? 明日と言ったよな」


「学校以外で薄雲に接近するのは難しいでしょ」


「朝のうちは止めてくれ。昼の鐘が鳴って以降だ。それくらいは譲歩しろ」


「だったら碧浜行きの馬車を手配して」


 露草は薄雲を朝一に殺して碧浜に向かう予定だった。

 出発の時間が遅れるのだから、足は用意してもらわなければ、割に合わない。


「分かったよ、畜生め」


「忘れたの? 私は組織の畜生なの」


「ご高説ありがとよ。関係各所に事前通達しなきゃならん。学校からは自力で脱出して、第二の待機場所だ。昼の鐘が鳴った後でなら馬車がいるようにしておく」


 食べかけの膳をそのままに秘色は立ち上がり、着物を外行きに着替え始めた。

 このまま手筈を整えるために行くのだろう。


「ありがとう。お父さん」


 最後の最後にそう言ってやると、秘色は首をがっくりと落とした。


「君は最悪の娘だった。これが終わったら二度と出会わないことを祈るよ」


 露草は笑う。


「私たち、どうやら気持ちは通じ合っているみたいね」


 最後の最後まで秘色を信用することはできなかった。

 彼は自分の仕事を熟すことしか考えておらず、露草を道具として扱っていた。

 一方で露草も秘色のことを、状況を勝手に整えてくれる人形くらいに考えていた。


 人として扱ってはいなかった。


 この二人は、どちらも自分にとって大切な誰か以外は人間ですらなかった。




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