Midnight Story

仄か

Midnight Story

 午前零時。

 彼は月明かりが落ちる窓辺に座っていた。

「やあ、体調はどうかな」

「いつもと変わらないわね」

 私は昨晩と同じ調子で答えた。

 二人分のティーカップに紅茶を注ぐ。洗礼された白百合が描かれたティーカップが紅茶で満たされてゆき、白い湯気と共に立ち上る香りが鼻腔をくすぐった。ダージリンの薄赤褐色がゆらゆらと揺れ、空に浮かぶ月を映した。

 彼は紅茶を一口飲み、にこりと笑った。

「ありがとう。とても美味しいよ」

「そう、よかった」

 私は窓に向き合うようにして椅子を用意し、ブランケットを膝に掛けて座った。

「そうだ、今日はまた一段と面白い人と街で出会ったんだ」

 彼は出窓に座り直し、ティーカップを片手に話し始めた。


このひとときのために、私は毎晩紅茶を用意するのだ。




 三ヶ月ほど前のことだろうか。

 彼がこの窓辺にやってくるようになったのは、寝苦しい夜のことだった。

 その晩も私は窓を開けてこの椅子に座っていた。

 夏のはじまりを報せる夜風に身を預け、ぼんやり月を眺めていた。

「こんばんは」

 不意に声が聞こえ、私は部屋の中を見渡した。部屋の中は私以外居らず、首を傾げながら窓に視線を戻す。

 しかし、開けた窓の中央にぽっかりと浮かぶ満月を背景に、青年が出窓に座っていた。

 私と同じか、少し上くらいの歳の端正な顔立ちの青年だった。地味な色のシャツに裾の擦り切れたズボンからは白く長い四肢が伸び、栗色の蓬髪がサラサラと風になびいていた。

「どこから来たの?」

 不思議と不信感を抱かなかった私は、彼に尋ねた「街からさ」

 にこりと笑って答える彼の瞳が、長い睫毛の蔭で星屑を集めた夜空のようにキラキラと輝いた。

「こんなところで何をしているの?」

「僕は盗賊だ。夜な夜な扉の鍵をかけ忘れた家や、窓を開けっぱなしにしている家を廻っては金目の物を奪うんだ。例えばこんな風にね」

そう言って彼は窓の縁をトントンと指で叩いた。

「そう。それならあなたはこの家の何を奪って帰るの?」

 一瞬、彼の表情が曇った気がした。

 しかしすぐに先程と同様に笑みを浮かべて話し始めた。

「僕、ずっとこの部屋が気になっていたんだ。こんなに大きなお屋敷の窓が毎晩のように不用心に開いているんだもの。この部屋にはどんな大男が住んでいるんだろうと想像したものだ。だけど昼間この屋敷に来てみれば、窓から顔を覗かせているのは可憐な少女じゃないか。盗みのためには何日もかけて偵察が必要なんだ。毎晩この近くに来てはこの部屋を見ていたよ」

 私は次の言葉を待っていた。彼は私を殺すつもりなのだろうか。犯行の口封じのために。

「それで、何も盗らないことにした」

「え?」

 思わず驚嘆の声が出た。

「だって、こんな女の子を脅して物を盗ってもつまらないじゃないか。それよりも、君と話してみたかったんだ」

 彼は立てた片膝に肘を置き、頬杖を付く。黒い瞳が私を捕えて離さなかった。

「……私が話せるようなことは何もないわ。一日中この部屋で過ごしているんだもの」

 昔から身体が弱い私は、外へ出ずに屋敷の中で過ごすことがほとんどだった。街へ出て遊ぶことも無いし、友人の一人も居ないのだ。

「そうか、それは残念だ」

 少し考える素振りをとると、彼は思いついたように手をポンと叩いた。

「それなら、僕が街の話をしてあげよう」

「……街の話?」

「仕事柄、街の様子には詳しいんだ。街には面白い人間であふれているんだよ。例えば——」

 彼は街で出会った人の話を私にしてくれた。

 毎日少し変わったパンを焼くシェリーおばさん。早起きが苦手な新聞配達員のビット。動物と話せる少女のロッティ。方向音痴のカール巡査………。


 見たことのないおかしな街の住人、街の風景——。 想像するだけでわくわくした。

 彼はそんな私を見て、少し嬉しそうにしていた。


 それから彼は午前零時きっかりに、部屋の窓辺に来るようになった。私は彼のための紅茶を窓辺に用意するようになった。

 茶葉の缶が一つ空くころには、二人の時間は心安らぐものとなっていた。

 夏の暑さも忘れるほどに、凛とした涼しくも心地の良い空気が二人を包んでいた。

 彼は昼間に姿を見せることは決してなかった。家の人も、真夜中のお茶会のことは誰一人として知らない。もちろん彼の存在だって知らない。

 そして私は彼が街からやってくる盗賊だということ以外に彼の事を全く知らない。いや、知らなくていい。私達の安らかなひと時に、互いの名前やプライベートを知っている必要はなかったのだ。




「今日は君に伝えなければならないことがあるんだ」

 彼が突然、そう言った。

 いつもと違う事だった。

「どうしたの?」

 少しどきどきしながら聞いてみた。

 窓から吹き込んでくる夜風は寂しい秋の匂いがして、夏の終わりを予感させていた。


「今日は、君を迎えに来たんだ」

 少し苦しそうな声で、しかしはっきりと彼はそう言った。


 悲しみが私の体をふわりと浮かばせ、

 それからすとん、と落ち着いた。


「そっか」

 いつもと変わらない調子で答えた、

 つもりだった。


 三ヶ月前のあの日、屋敷にお医者様がやってきた。

 いつものように検診をして、いつものように薬を処方され、いつものように「安静にして下さい」と言われるのだと思っていた。

 だけど、その日は違った。

「旦那様、ちょっとこちらへ……」

 お医者様は父と少しお話しして、それから私にこう言った。

「お嬢様はあと……三ヶ月ほどしか生きられないでしょう……」

 お医者様も父も母も皆悲しそうな顔をしていた。まだ幼い弟はそんな両親の顔を見て泣きそうだった。

 私は、

 全く驚かなかった。悲しくもなかった。

 きっともうすぐ死んでしまうのだろうということは、予感していたから。


 その夜、彼は現れた。

 彼は私の日常を、心を、あっさりと変えてしまったのだ。

 死を意識しながらしか生きられなかった灰色の私の心は、彩り豊かなものになった。

 自由を、生きる喜びを、

 恋を知った。


 彼のことが好きだった。


 たとえ、彼が死神だとしても。


 彼が話してくれた街の住民の名前は、翌朝の新聞で必ず目にした。

 それは、住民の死亡記事だった。


「やっぱりあなたは、私を連れていく死神だったのね」

 少し笑って彼に尋ねた。

 彼は窓の外を見たまま頷いた。彼の瞳は真夜中の湖面に映る月のように、寂しく悲しい色をしていた。

「今夜なんだ。今夜、君を連れて行かなければならない」

 彼の頬に一筋涙が伝った。涙は月明かりを反射して、きらきらと輝いた。

「連れて行った後、もう二度と君に会えなくなる。僕はこの街から、この世から離れることができない。それに君に辛い思いをさせることになる。家族に別れも言わず、誰にも看取られることなく、君はこの世を去らなければいけない」

 彼は私の顔を見た。

「死ぬのは怖いかい?」

 いつの間にか、私の目からも涙が溢れていた。


「昔はね、怖くなかった。生きていくことなんてどうでもよかった。早くこの苦しみから解放されたかった」

 胸が苦しい。しかし私は言葉を紡ぐ。

「でも今は違う。あなたに沢山、生きていく楽しさを教えてもらった。死ぬのはやっぱり怖いわ。家族のことも大好きよ。でも、私はあなたに連れていって欲しい」


 彼ははっと目を見開いた。


「大好きなあなたとなら、どこに行っても怖くない。だから、」


 私を、連れて行って。


 私は彼に抱きついた。

 彼の体は夏の真夜中の風のように涼しくて心地よくてあたたかかった。


 そのまま二人は夜の闇に消えていった。




 翌朝、郊外の屋敷に住む体の弱い娘が息を引き取っているのが見つかった。彼女の顔は安らかで、幸せな夢を見ているようだったという。

 彼女が愛用していた部屋の椅子は、出窓を向いていた。まるで誰かが窓から来るのを待っているかのように。


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Midnight Story 仄か @sea_you_bunny

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