夜桜の下で、もう一度。

森メメント

第1話

 夜桜を肴に、何人かの遊女と宴会をするつもりだった。

 そのうちの一人に刺されるまでは。


「……ようやく会えましたね、‘‘皮剥かわは源助げんすけ’’」


 今しがた源助の左脇を刺したその遊女は、女性に贈られる護身用の脇差を右手に揺らしながら、言葉をゆっくりと紡ぎ出した。この娘には会ったことがないはずなのだが、その少し低めの声や月明かりに照らされている目鼻立ちのくっきりした顔立ちは、源助の記憶の中に沈められた何かを呼び起こそうとしている気もする。

 島田髷まげに結われた艶やかな黒髪とそれを彩る無数のかんざし、薄紅の地色に椿が小さく配された小袖と、一際目を引く錦の前帯。十四、五といったところだろうか、遊女とするには少々年の頃が幼く見え、そのせいか打掛は羽織っていない。草花文様ならば牡丹や桜が多く見られる吉原の女たちの着物と比べ、ややおとなしい椿柄からはまだ自分が若輩者であるという自覚が感じられた。


(傷は浅いが、痛むな)


 宴会には三人の遊女が来るはずだったが、実際に来たのは目の前の小娘一人だけだった。これは一杯食わされたな、と源助は拍動ごとに痛む左脇に軽く手を当てながら思った。幕末の数多の戦いで負った手傷と比べれば大したことではない。が、もはや以前のような若さを失っている源助にとっては癒えるまでに時間がかかりそうな傷でもあった。杖に仕込んだ刀を抜こうかと思ったが、何やら事情が単なる物取りとは違うようなので一度思いとどまる。

 不意を突かれたものの、咄嗟に身をよじったことで急所は避けた。非力な少女の力では脇差で肋骨を折ることができずに、そのまま体の外側の肉を裂くだけに止まる。

 廃刀令から六年経つが、それでもこの娘の短刀は実用性を保つために良く手入れされていたようだ。少なくとも、源助の肉を幾らかそぎ落とすくらいには。


「随分と懐かしい名前を持ち出してきたものだ」


 皮剥ぎ源助。その渾名は古馴染みの人間しか知らないはずだ。

 この街がまだ江戸と呼ばれていた頃、源助は遠く長州、下関にいた。

 その当時、源助は穢多えたと呼ばれる士・農・工・商のさらに下の身分であり、死んだ動物の皮を剥ぎ、なめすことを生業としていた。経済的には困窮しなかったものの、殺生を禁じる仏教と血をけがれとする神道の両方から疎まれる存在であり、また皮なめしはかなりの悪臭を伴うことから源助をはじめとした穢多えたたちは多くの差別を受けてきた。

 しかし、長州藩と海外の列強諸国との間で勃発した下関戦争が穢多えたたちの住処と作業場を全て灰にしてしまう。元治元年、明治新政府誕生の四年前のことであった。


「……誰から聞いた?」


 。長州藩士、高杉晋作が率いた出自を問わず編成された軍隊である奇兵隊の中でも、身分が最も低い者たちが集められ、された部隊。戦う場所こそ同じとされたが、寝る場所や着る隊服は別に用意された。

 生きる術を無くした源助は否応なしに入隊を余儀なくされ、西洋風の戦い方を叩き込まれていった。生きるために、殺し方を一から学ぶしかなかった。

 

「わかりませんか? 少なくとも、私はあなたのことを聞かされて育ちました」


 戦って、戦って。殺して、殺して。

 本来ならばミニエー銃を中心とした射撃戦が主な戦闘方法の部隊のはずだった。しかし、長幕戦争、戊辰戦争と身分の低い源助たち屠勇隊の面々は最前線に送られることも少なくなかった。当然、突撃したりされたりが多くなる立場となり、銃ではなく接近戦の機会も増えることになる。

 源助は他の誰よりも、接近戦で多くの敵を殺した。

 以前から動物の死体を扱っていたからか、あるいは銃よりも鉈に近い刀の方が手に馴染んだからか。源助自身に染み付いた皮なめしの悪臭が、人間の死臭と区別がつかなくなるまでにそう時間はかからなかった。

 故に、付いた渾名が‘‘皮剥ぎ源助’’というわけだ。その身分の低さを揶揄してのことではあったが、同時に強さと恐ろしさを示すものでもあった。


「わからんな。多くの未亡人と孤児を生み出した人間の一人だという自覚はあるが、名指しで恨まれる筋合いはない」


 しかし実のところ、目の前の遊女の面影から源助は一人の女を思い起こしていた。いくら探しても見つからない、もう一度会いたいと思った女。少し記憶を巡らせるが、あまり気持ちのいい想像ではないので頭の中から考えを無理矢理に打ち消す。

 しかし、目の前の遊女はその想像が間違っていないであろうことを示し始めた。


「母から遺言があります。『冥府でお酒を作ってお待ちしております』だそうです」


 鳥羽・伏見の戦いの後は東へ進軍し、江戸総攻撃で再び殺し合いの最中へと身を投じる備えをしていたのだが、実際には江戸城は無血で受け渡しとなり、部隊は安全に江戸の町に入ることとなる。その時も、今と同じく桜が綺麗な時期だったのが源助の記憶には強く刻まれていた。

 戦いがないことは本来ならば喜ぶべきことなのだが、源助はこれまでの緊張が急に解け、束の間の休息を素直には受け入れられなかった。今まで自分が多くの人間を殺してきたこと、仲間の幾人かを殺されたこと、そしてそれがしばらく続くであろうことが、幾重にも重なった漠然とした恐怖となって源助に襲い掛かった。

 結局、隊が自由行動を許した時点で酒で気分を誤魔化すしかなかったのだが、そこで酔いつぶれた源助を介抱したのが酒屋の娘だった。夜桜の下で月見酒、という粋なことをしていると最初は感心していたらしいのだが、すぐにその考えは改められることになった。


「……母の名は何という?」


 もはや源助にとって答えがわかりきっていた問いではあるが、聞かずにはいられなかった。


「『小春』です。ちなみに私は——あなたの娘は——椿つばきと申します」


 たった一度会っただけだが、自分の全てを受け止めてくれた女性。恐怖と不安と、渇望と欲望とがないまぜになった感情を、今の暮らしがあるのは代わりに戦う人が大勢いるからだ、とありのままの自分を肯定してくれた人。

 大勢殺し、そして十中八九自身も死ぬであろう源助が生きる意味を失っているのを見抜き、戦いの後の人生を想像させてくれた存在。


『それでは、世の中が平らになったら今度は私と花見をしましょう。もちろん、うちのお酒をたくさん買ってくれるのでしょう?』


 ぼろ雑巾のようになった源助を膝枕で慰めつつ、くすくすと笑いながら、そんなことを平然と言い放った女。もう一度会おうとして、源助が東京と名を変えたこの街を放浪した大きな理由。商家の娘ここにあり、と不敵な笑みを、隊が出立するその日も見せていた。しかし、その端正な目鼻立ちを受け継いだ遺児は、目の前に仁王立ちして怒気を隠していない。

 

「あなたがいなければ、母は私を生むこともなく、もっと幸せに生きることができたでしょう」


 あの後も会津、函館、佐賀、そして西南戦争と幾度となく戦いに身を置かざるを得なかった。しかし、ようやく自分の過去を振り返る時間ができた矢先に、そうする理由が源助の手から零れ落ちていった。もっとも、忘れ形見が源助に新しい理由をもたらしてきたのだが。

 

「違いないな」

「ですから、あなたは私にとって仇なのです。殺してやりたいくらいの」


 椿が真っ直ぐに源助を見つめた。言外に、その身に起きた苦労を察せ、という意図をありありと感じる。黙って死ね、とも言いたげであった。


「それならば、また明日にでもこの桜の下で殺し合いにしないか」

「何を……!」


 言いたいことは山ほどあるだろう。だがこちらも聞きたい話が山積みだ。


「殺される前に、お前の母親の墓参りをしておきたいからな」

「……黙れっ!」


 もう一度椿が源助を刺そうと突っ込んでくる。

 しかし、真正面から目の前の男を倒すには、腕の力も踏み込みの深さも間合いの管理も、まるで足りていなかった。


(やれやれ)


 源助は半身に身体を翻して直情的な突進を躱すと、手にした仕込み杖で胴に一閃をくれてやった。もちろん抜き身ではないが、娘の細い体を屈するには十分すぎるほどの打撃だろう。


「ぐっ……」


 呼吸すらままならずに倒れた椿に向かい、左足を軸に半回転したあと後頭部にもう一度打撃を……と振りかぶったところでやめた。女子供相手だというのに、どうしても体に染み付いた動きが立ち合いとなると出てしまう。

 結局、新しい時代になってもなかなか戦いも諍いもなくならず、廃刀令のあとも源助のような男は刀を手放すことができなかった。それでも、いつかは丸腰で平然と酔っぱらうことができる‘‘平ら’’な世の中にするために、まずは法から定められたのだろう。

 痛む脇腹の傷口をここで吞むはずだった焼酎で洗い、着流しの袖を裂いて止血する。数え切れないほど経験した消毒の刺激で再び眉をひそませながら、それでも眼下の娘に言い放った。


「……それでは、また明日な」


 果たされるかどうかはわからない約束を置き土産に、源助はその場を後にする。


(そういえば、墓の場所を聞き忘れたな)


 まあ、そのまた次の日は恨み節を肴に酒が飲めるといい、などと思いながら。




<了>


 

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