第4話 滝塚市角端埠頭事件―⑩

【時刻:午後二時十分 視点:南方昴】


 赤熱する何かが海面に降り立った。同時に海水が蒸気となって立ち昇る。それを視認するや否や、加納聖は合流した片桐紫苑と共に走り出した。

 立ち昇る炎の中それを見届けた南方昴は全身にありったけの魔力を巡らす。濃密な魔力の鳴動に、大気が呼応するかのように震える。


 その瞬間、海面が盛り上がった。そして角端埠頭は、海の底から浮上したばかりのような、潮水でぬかるんだ、海草や苔だらけの岩肌に完全に変わってしまった。

 超古代の建物が天に向かって聳え立つ。そのどれもが、時間の流れを感じさせるように、海草に覆われてしまっている。


 そして、せりあがった海面から、それは姿を現した。


 類人的な外観。だが、あまりにもそれは大きすぎた。見上げるようなその体躯は、高層ビルに匹敵する。タコに似た頭部が付いており、顔には触角が固まって密生している。

 鱗に覆われたゴムのように見える体、前脚と後ろ脚には大きなかぎ爪、背中には細長い翼が生えていた。

 この怪物は、ゼラチン状の体を一歩一歩、角端埠頭の方へ進めてくる。


 咆哮が滝塚市に轟いた。もしかしたら隣県全てに聞こえていたかもしれない。それほどの大音量に生存者たちは耳を塞ぎ、手近な遮蔽物に身を隠して耐える。


 そして、眠っていたところをダゴン秘密教団の儀式で無理矢理起こされたこの邪神は、その鬱憤を晴らすべく教団本部があったであろう位置に爪を叩きつけた。それだけで大地が裂け、瓦礫が散弾のように飛んでくる。


「させるか」


 昴が飛ばした火球が、滝塚市に向かった瓦礫をすべて焼き尽くす。機嫌の悪い邪神は、ようやく立ち昇る蒸気に目を向けた。


「お前はここで僕が食い止める」


 赤く光るオーラを纏い、触れるもの全てを瞬時に蒸発させるほどの熱を発する南方昴。

 自らに比肩しうる存在を認め、邪神は大きく咆哮した。


「これ以上、誰も殺させやしない」


 弾けるように飛び出した昴は、そのまま海面を滑るようにして移動する。その軌跡に白い煙が続いていく。そして、邪神の足元まで到達した昴はそのまま跳躍し、巨体の周囲を回り、螺旋を描くように駆け上がっていく。

 そして、背中に生えた小さい翼に手をかけると、力任せに引き裂いた。翼を根元からもぎ取られた激痛に、邪神が悲鳴を上げる。

 邪神が全身から生やした触手で昴を捕らえ、それをそのまま巨腕に変化させる。そして力任せに放り投げた。昴は音速で地面に叩きつけられる。

 衝撃で昴は全身の骨が砕けた。しかし、次の瞬間にそれは全て再生する。返す刀で直径二メートルの火球が複数個、邪神に向かって飛んでいく。

 邪神に火球が直撃した。直径二メートルの大穴が複数体に開く。しかし、ここは彼奴の神象風景。即座に穴は塞がれてしまった。


「書物の知識ですが、やはりタフネスが異常ですね。今の僕では、回復不能なダメージを与えることのできる攻撃手段もない」


 不安定な状態にあるとはいえ、そもそも相手の得意なフィールドで戦っているのだ。不利は承知。昴はスタミナを温存すべく、戦いの中で魔力操作をより効率の良いものに変換していく。


 邪神が瓦礫を持ち上げて昴の方に投げた。昴はそれを空中で掴んで溶解させると、邪神に接近してその顔面に押し当てる。

 絶叫する邪神の声。しかし、次の瞬間には大爪が振り下ろされた。昴ごと地面を叩き潰し、周囲に地震を発生させる。


「が、はっ」


 魔力による身体強化、元々の体の強さ、魔術障壁。その三段階をもってしても致命傷。昴は即座に防御を諦め、瀕死の状態からの回復に全力を注ぐ。魔力経絡、血管、神経、骨や筋肉と再生していき、挽肉寸前から南方昴の姿に戻る。


 爪を豪炎で粉砕し、そのまま腕を駆け上がりながら炎の剣で切りつける。邪神の皮膚が裂け、肉が抉れた。南方昴はその隙間に紅蓮の炎を流し込む。自らの内で肉と骨を焦がす炎に、邪神が絶叫する。

 だが、その生命活動を妨げるには至らない。せいぜい動きがほんの少し鈍る程度だ。昴は縦横無尽に飛び回り、上級の奉仕種族程度ならば数十回は死ねる攻撃を幾度となく叩き込むが、邪神の生命力に衰えは見えない。


「……しぶとい」


 その時、昴は遠くで詠唱が始まったことに気づく。一瞬視線をシニョン・プレフォールズに向けると、そこには片桐紫苑を中心として円陣を組んだ滝塚市民がいた。

 昴は地面に降り立ち、今一度邪神と向き合う。紅蓮のオーラが、密度を増していく。


「皆に、手は出させない」


 先程までよりも速く、鋭く飛び出した。生成した巨大な炎の剣で邪神の足を削ぎ落す。巨体がバランスを崩し、海面に沈む。跳躍した昴はそのまま邪神ごと海面を凍らせた。

 しかし、邪神は身を震わせて氷を砕くと、昴に向かって数千の触手を伸ばす。

真空の刃、豪炎などで昴も抵抗するが、お構いなしに向かってきた触手についにからめとられた。そしてそのまま途轍もない圧力で全身をプレスされる。


 その時、声にならない声が、人の声帯で発音することを想定していない詠唱が昴の耳に届いた。


 それを聞いた邪神は絶叫する。不遜にも己を呼び出した矮小な存在が、身勝手にも己を退散させようとしているその事実に。

 一歩、足が踏み出された。同時に、海面から思わず耳を塞ぎたくなるほどの醜い声が。それは、自らの信仰する神の名を叫び始める。


「いあ! いあ! くとぅるふ、ふたぐん! いあ! いあ! くとぅるふ、ふたぐん!」


 うねりとなって発せられる己の真名に、邪神は身を震わせた。周囲を包む空気が重さを増し、ねっとりと絡み付いてくる。

 しかし、そこに突如弾丸が撃ち込まれた。存外脆い邪神の皮膚と肉が、どんどん飛び散っていく。

 同時に、触手の中で蘇生した昴は大炎塊を発生させ、周囲の全てを焼き尽くす。


「人間様を舐めるなよォオオオオオッ!」


 水戸瀬敏孝は装甲車に搭載されたバルカン砲を掃射する。邪神、大いなるクトゥルフの顔面にバルカンを叩き込み続ける。

 空の薬莢が地面に次々と転がっていく。都合一分の掃射が終わると、その銃身はゆっくりと回転数を落としていく。


「弾倉交換! 急げ!」

「二号車、掃射開始します!」

「やれーっ! ぶっ殺せーっ!」

「うおおおおおおおおおお!」


 水戸瀬の乗る一号車が後退するとともに、前進してきた二号車がバルカン掃射を開始する。その間に大いなるクトゥルフは顔面の再生を終えた。タコのような顔がそっくりそのままそこにある。

 大いなるクトゥルフは自らの足元で蠢く矮小なる存在を踏みつぶそうと、足を上げた。弾丸で足の裏が削られて行くが、意に介さない。


 その隙に、昴はもう片方の足をすくいあげる。バランスを崩した大いなるクトゥルフは海面に倒れ込み、数多くの深きものどもを押しつぶした。

 しかし、邪神はただでは倒れない。体から発生させた大量の触手にかぎ爪を付け、昴を切り刻もうとする。


「昴!」

「大丈夫です」


 触手をさばききれず、血まみれになった昴。しかし、水戸瀬の呼びかけには表情一つ変えず応じる。

 お返しとばかりに大いなるクトゥルフの腹を膨れさせた。そして膨れ上がったそれは爆発し、おびただしい量の粘液を周囲にまき散らす。しかし、これも即座に再生が始まる。


 息を切らし、残り少ない魔力を極限まで効率化して攻める昴。しかし、それも限界が見えてきた。視界が明滅し、足の力が抜けていく。

 その瞬間、大いなるクトゥルフの体が、海中から出現した巨大な複数の触手に絡めとられた。大いなるクトゥルフは身じろぎしながらも海底に引きずり込まれて行く。


 巨躯が震える度に、小規模な津波が周囲を押し流す。しかし、それも次第に収まり、最後には凪いだ水面だけが残った。

 そして、角端埠頭はあるべき姿に戻った。もう、海の底から浮上したばかりのような、潮水でぬかるんだ、海草や苔だらけの岩肌なんてない。確かに爆破痕や崩れた倉庫だらけだが、しっかりとコンクリートの地面がある。


 南方昴はゆっくりと舞い降りた。背後から警官隊が駆け寄ってくる。昴は数度息を整えると、彼らの方に振り向こうとする。

 しかしそのまま、眠るようにその場に崩れ落ちた。その体を水戸瀬たちが支える。


「お疲れさん」


 安らかな寝顔だった。


                                  ――続く

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