不良美少年はドラァグクイーンに恋をする

@hanafusa_k

第1話

 午前三時を回った深夜。

 何色にも輝くネオンの下、車の排気ガスと行き交う人々の臭いが充満する街を、誰もが足早に通り過ぎていく。歩道沿いに植えられた桜は散り始めていて、春が少しずつ終わりに近づくのを知らせている。

 そんな繁華街の片隅にある小さなコンビニ前で、制服を着崩した男子高校生たちが五、六人、地面に座り込んでたむろしていた。

 その中でも、一人、やけに目立っている少年がいた。

 限りなく白に近い金髪は、肩ほどにまで伸びている。しなやかで細長い手脚に、小さな顔。内側から輝いて見える陶器のような白い肌に、色素の薄い琥珀色の大きな目と、美しい稜線を描く鼻、薄桃色の小ぶりな唇が、静かに鎮座していた。

 缶チューハイを片手にだらしなく地面に座り込んでいる姿さえ、有名ファッションブランドの写真集から飛び出してきたように洗練されている。

 彼の横顔はまるで彫刻家が丹精込めて掘り出した芸術作品のようで、悪友たちはひそかに恍惚のため息をついた。

「希星はほんとキレイな顔してるよな。女だったら男捕まえ放題で天国だったんじゃね?」

「聞き飽きた、それ」

 うっとりとかけられた言葉に、東 希星はうんざりしたように返事をした。

 右手に持っているスマホでは、時折会ってやる代わりに食事を作ってくれていた女との別れ話がやっと終わったところだった。泣かれ喚かれチャットで長々と引き留められたけれど、ようやくけりをつけられた。

(くだらない)

 希星は、星の一つも見えない真っ暗な空を見上げた。上を向いた拍子に長い髪が肩に流れて、さらりと音を立てる。

 毎日毎日、同じことの繰り返しだ。

 気が向いたら学校へ行き、酒やタバコで時間を潰し、飯を作ってくれる女の家を転々とする。

 まだ高校二年生にも関わらずそんな自堕落な生活をしていても、希星を咎める者はいなかった。

 なぜなら、そのずば抜けた美貌ゆえに、希星は相手を思い通りにコントロールできたからだ。

 幼い頃から、そうだった。小学校の頃は、希星が商店街を通り抜けるたび、一軒ずつ店の大人たちが何かを奢ってくれた。中学の頃は、希星がテストをカンニングしようと、早弁しようと、授業をばっくれようと、担任の女性教師は「希星くんは特別に許してあげる」と媚びるように笑って、都合の悪いことはごまかしてくれた。高校でも、まあ似たようなものだ。

 老若男女問わず、みなそうだった。希星がじっと見つめるだけで、どんな人もたちどころに希星の美しさに心を奪われて、希星の望むままに動いてくれる。

 たった十七年間の人生だが、希星は、自分にできないことなどこの世にはないような気がしていた。

 この世は、顔さえ美しければ、だいたいのことは叶ってしまうのだ。

 しかし、顔が美しすぎるのもそれはそれでつまらない。周りが勝手に希星のために努力してくれるおかげで、希星はこれといった努力をしたこともなければ、努力せずに困った経験もしたことがなかった。

 希星は、変化を欲していた。

(なあ神様、いるなら何か見せてくれよ。俺の人生を変えてくれるもの)

 缶の底に残った酒をあおりながら、希星は信じてもいない神に話しかけてみる。しかし、よく知った酒の苦さが舌の上を通り過ぎただけだった。

「おい、見ろよ。オカマだ」

 友人の一人が嘲笑とともに指さした先を見ると、すぐ近くで、騒々しいほどきらびやかに女装したドラァグクイーンの一団が賑やかに客を見送っていた。赤、青、黄色……と絵の具をぶちまけたような色合いの彼女たちは、雑多な街の中でもその存在が際立っている。

 客を見送ったドラァグクイーンの一人が希星たちの前を通ろうとした瞬間、友人が酒の入った缶ごと、彼女に投げつけた。

 缶の口から酒が派手に飛び散って、純白のミニワンピースがじわじわと緑色に染まっていく。

「キモいんだよ、オッサン」

 一人が笑い始めると、他の友人たちも釣られてけたたましく笑い出した。まるで音を聞かせると動き出す人形のようだ。

 さして興味は湧かず、笑う気にもならなかった。希星はつまらなさげにそのさまを見つめる。

 彼女は缶がその場に転がるのを見つめると、筋肉の盛り上がった脚でずんずんと希星たちの方へ歩いてきた。

 そして、酒を投げつけた友人の胸ぐらを無言でわっしと掴み上げた。

「な、なんだ……てめっ!?」

「──成敗っ!」

 次の瞬間には、ダァン!と、轟音がして、友人はドラァグクイーンに背負い投げされていた。

 希星は突然のことに驚いて、言葉も出なかった。地面に伸びている友人は、うめくことすらできず、苦しみもがいている。

「他に何か言いたいことがある奴、いる?」

 ドラァグクイーンにギラリと睨みつけられて、友人たちは慌てて立ち上がった。

「希星、逃げるぞ!」

 慌てふためく友人に二の腕を掴まれ引きずられながら、希星はショッキングピンクのハイヒールで仁王立ちする彼女から目が離せなかった。

 あまりに鮮やかな背負い投げだった。

 小学校の頃、体育の授業で一度だけ見たことがあったが、目の前のドラァグクイーンがやってのけたのは、思い出の中のそれよりも、数段鋭く、力強いものだった。まるで、一迅の風だ。

 少女漫画に出てくるような縦ロールのショッキングピンクのロングヘアが、桜の舞い散る夜風の中で揺れる。

 本来の五倍ほどの大きさに盛ってある瞳の奥には、怒りの炎が赤々と燃えていた。ピンクの唇の間から見える八重歯は、まるで草食動物を狙う肉食獣の牙のようだ。

 盛りに盛ってゴテゴテした化粧も、下品なくらい光る衣装も、全然美しくない。正直、ゲテモノだと思った。なのに、その瞳を見た瞬間、希星の喉に突き上げるような感情が湧いた。

 (綺麗だ)

 頭から食われてしまいそうなその気迫に、希星は心奪われた。

 そのままヤバいヤバいと騒ぐ友人たちに引きずられ、家に向かう電車に乗り込む。早朝の人気の少ない電車の中、だらしなく椅子に腰掛けると、改めて笑いが込み上げてきた。

(「成敗」って何だよ、時代劇かよ)

 くく、と身体を丸めて希星は笑った。隣に座っている中年の女性が気味悪げな顔をして距離を取ったが、気にならなかった。

 頭の中では、あのドラァグクイーンの背負い投げが何度も再生されていた。

 そして強烈に思い出すのは、彼女の瞳だ。

 生まれてはじめて、荒れ狂う感情をぶつけられた。身体の芯から、ぞくぞくと震えが走る。

 判を押したように同じことが続く日常で、久々に感情が波立った。まるで、まっさらな水面に石が投げられたような、そんな心地だった。

 都心から郊外へ向かう電車から降りると、十五分ほど歩く。

 着いたのは、小さく古びた木造アパートだ。一階の角部屋。部屋は小さいが、母と希星の二人暮らしならばさほど手狭でもない。

 鍵を開けると、母が淡々と仕事に行く準備をしていた。朝帰りした希星に、母は何も言わない。

「お金、そこに置いといたから」

 希星を見ることもせず、母は朝食に使ったらしい食器を洗いながら言う。

「うん」

 希星は机の上に置かれた五百円玉をつまむと、無造作にパンツのポケットに突っ込んだ。母は何かをぶつぶつと言いながら、希星とすれ違った。

「……女の子だったらよかったのに……やっぱり失敗した……」

 瞬間、希星の脳裏に、白いワンピースを着た少年が野原を駆けていく姿が過ぎった。母に寄り添う少年は、きれいに並んだ歯を見せて無邪気に笑っている。

 希星はしばらくその場に立ち尽くすと、頭を振って、暇つぶしに学校へ向かった。

 教室へ着くと、ちょうどホームルームが始まるところだった。

「希星くん、前回までのノート取っておいたよ。要る?」

「さんきゅ」

「ご飯は? 食べてきた?」

「いや、飯あったら欲しい」

 周囲の女子生徒たちが、小声で一斉に希星に話しかける。

 希星の前には、一瞬でノートと食事の山が築かれた。中には男子生徒からのものも入っている。

 希星はそれらを雑に鞄と机にしまうと、貰ったばかりの弁当を堂々と食べ始める。

 中年の男性教師は希星に非難の目を向けたが、希星がじっと見返すと、ばつが悪そうな顔をして目を背けた。教室には、教師の平坦な声と、希星の咀嚼音が響いた。

 ホームルームが終わると、他のクラスからいつもの悪友たちが声をかけに来る。

「希星ぁ、ヤニ吸おうぜ」

「ああ」

 希星たちは連れ立って、廊下のど真ん中を堂々と歩いていく。

 きっと酒やタバコの臭いが染み付いているであろう希星たちとすれ違っても、教師たちは何も言わない。物言いたげな様子でじっと見てきて、目線を逸らすだけだ。

 階段を上り、立ち入り禁止と書いてある札を跨ぐと、鍵の壊れかけたドアを力づくで開けた。

(あのオカマ、やっぱ面白かったな)

 希星は肺いっぱいにタバコの煙を吸うと、青空に向かって思いきり吐き出した。

 灰色がかった煙はぼんやりと空中を漂って、消えていった。



 その日の午後、希星は珍しく一人で行動していた。

 悪友たちはそれぞれアルバイトやら親に呼びつけられたやらと用事があるようで、希星は一人で繁華街に出かけた。自然と足が向かったのは、先日友人がドラァグクイーンに背負い投げされたコンビニだ。

 まだ日は高く、スマホを見ると十五時だった。

 暇だな、とポケットからタバコを取り出すと、火をつける。ふーっと長く煙を吐いた。

 火のついたタバコの先端をじっと見つめて暇を持て余していると、いつの間にか、希星の前には影が差していた。視線を上げると、すぐ目の前で男が、どこかおろおろした様子で立ちすくんでいる。

 男は筋肉がはちきれそうなぴったりとした黒いTシャツに、黒いデニムを履いていた。一七五センチ近くある自分より頭一つ分は大きく、黒髪の短髪に、やや日に焼けた肌、彫りが深く精悍な顔立ちをしていて、ぱっと見ると俳優かなにかのようだった。

「オッサン、何?」

 希星が訝しげに尋ねると、男は意を決したようにがしりと希星の腕を掴み、一言こう言った。

「──せ、成敗っ!」

 あ、あの時のオカマ、と希星が思ったのは一瞬だった。

 凄まじい勢いでコンクリートに背中を叩きつけられ、希星の意識はすぐさまブラックアウトした。



 希星が最初に見たのは、自宅より明らかに小綺麗な天井だった。

(どこだ、ここ)

 寝かされていたベッドから起き上がって部屋を見回すが、全く見覚えはない。

 白と天然の木を基調とした片付いた部屋で、カーテンはぴったりと締めきられている。

 棚には化粧品、ハンガーラックには原色のワンピースやスカートが並べられていて、ああ、ここは女の部屋なのか、と思った。

 しかし、自分に飯を食わせてくれる女たちのどの部屋とも違っている。自分は一体どこの女を引っ掛けたのだろうか。

 ベッドサイドのチェストに自分のスマホが置いてあり、時間を見ると早朝だった。

 とん、とん、と何かを快調に切るような音が聞こえてきて、希星は誰かが料理か何かをしているのだと気づく。ベッドを降りると、希星は音の方へ向かった。

「あっ、起きたの」

「どうも」

 大きな身体を屈めながらキッチンで料理していたのは、自分を背負い投げした男だった。

(そうだった。こいつは一昨日のオカマだ)

 希星はやっと記憶を失う前のことを思い出した。タバコを吸っていたら、この男に背負い投げされたのだった。

 それにしても、初めて会った時のあの自信満々な様子とは打って変わって、目の前の男はやけにおどおどとしている。まるで別人のようだ。

 部屋を見回すと、意外と広い。

 アイランドキッチンは希星の部屋ほどの広さはありそうで、リビングには大きなテレビとローテーブル、ソファがゆったりと置かれていた。

 塵一つない床と整然と片付けられた室内の様子から、男が几帳面な性格なのだと伝わってくる。

「気を失っちゃったから店に運んだんだけど、それでも起きないから家に連れて帰ったの。ち、誓って変なことはしてないから! 安心して」

「はあ」

 男は焦ったように話しながら、器用にネギを細かく刻んでいく。鍋の中を見ると、大根、人参、椎茸と白菜が煮込まれていた。男は温かいご飯をさっと冷水で洗うと、鍋の中に投入する。さらに醤油や塩を入れると、溶いた卵をとろりと全体にかけた。

 希星は何とはなしに男の手元を見ていたが、それで料理は終わったようだった。

「そこにどうぞ」

 男はソファに希星を座らせると、ローテーブルに丼いっぱいによそわれた野菜たっぷりの雑炊を置いた。

「食べていいの」

 希星の目は雑炊に釘付けだ。昨日の朝、学校で女子生徒にもらった弁当を食べて以来、何も食べていない。腹の虫がぎゅるぎゅると鳴ってうるさかった。

「あんたを背負ってる時、あんまり軽くて驚いたの。よかったら食べてって」

 湯気とともに立ちのぼる香りに我慢できず、丼を抱き込むようにして大きく一口食べる。

 希星の口の中に、優しい出汁の味が広がった。

 とろとろに煮込まれた大根とふわふわの卵がおいしくて、柔らかい米と一緒にかきこんでしまう。

(これまで食べた飯の中で、一番美味いかも)

 無我夢中で雑炊を食べると、男が「おかわりは?」と聞いてきたので、続けて二杯おかわりした。

 無我夢中で食べ、もうお腹いっぱい、と器を空にすると、男は「お粗末さまでした」と器を片付けてくれる。

 食器がガチャガチャと洗われる音を聞きながら、希星は満腹になりぼんやりした頭で考えた。

(どうしてこんなに美味い飯を食わせてくれるんだろう。俺を太らせて、こいつに何か得があるのかな)

 ちょうど良い室温も相まって、すっかり眠たくなってしまった。うとうととしていると、男から鋭く声をかけられる。

「ちょっとあんた、起きなさい」

 希星は口の端から垂れそうになっていた涎を慌てて袖で拭うと、近くに立っている男を見上げた。

 男はばっちりメイクをしていた。

 ロングヘアのかつらがないので、顔だけ女、髪型はいかにも男なのがちぐはぐだった。けれど、男は意に介していないようだ。自信に満ち溢れた様子で、その場に仁王立ちしている。

「あんたを家に帰す前に、一言言いたいことがあるんだよ。歯を食いしばりな」

 口調までがらりと変わっていた。まるで女王様のような物言いだ。さっきまでのあの自信なさげな様子はなんだったのだろう?

 それに、歯を食いしばる?なぜ?よく理解できないまま、希星はぐっと奥歯を噛み締めた。

「高校生のくせに、タバコなんて吸ってんじゃあないよ!」

「っ痛ぁ!!」

 ゴン、と重い音が脳天に響いて、希星はあまりの激痛に悲鳴をあげた。

 男の拳が希星の頭のてっぺんにクリーンヒットしたのだ。

 目の前に火花が飛び散る。痛い。物心ついてから、誰にも殴られたことなどない。涙が自然に出てきて、視界が曇る。

「タバコも酒も今日からやめな! 早死にするよ」

 ぎりっと睨みつけられて、希星はじっと男を見返した。

 希星がこうして、黙らない人間はいない。人のことに口出すな、黙ってろよオッサン、と言う代わりに、希星は恨みがましく男を見つめた。

「なんだい! イエスかノーかはっきり言いな!」

 しかし希星の思惑とは正反対に、男は希星の態度に余計苛立ったようだった。

 先ほどよりも勢いを増した剣幕に、希星は驚いた。

 返事を急かされ、思わずこくりと頷いてしまう。

「じゃあ、タバコは没収だよ」

 男が目の前に手を出してきたので、希星はそろそろとズボンのポケットからライターとタバコの箱を出して預けた。

 ぐしゃ、と、男の手の中で、タバコが箱ごと握りつぶされた。ああ、哀れなタバコ。希星は買ったばかりだったタバコを未練がましく見つめた。

「おじさんは……」

「まだ二十八よ! 鎌谷 圭。圭でいいよ」

「圭さんは、俺の顔好きじゃない? だからタバコ駄目って言うの?」

「はあ?」

 圭は呆れた声を出した。

 本気で意味が分からないと思っている様子だった。

「なんであんたの顔が好きかどうかとタバコが関係するわけ?」

 自分の顔を見ても言葉が揺らがなかった人間を、希星は生まれて初めて見た。

 どれだけ希星が悪いことをしても、希星の顔を見ると、誰もが、自分が悪かったかのように気まずげな顔をした。

 それはひとえに、希星が美しいせいだ。

 あまりに希星が美しすぎて、皆、その顔に罵声を吐くことができない。逆に自分に非がないかと恐れ入ってしまう。

 けれど、圭にとっては希星の美しさなどどうでもいいのだ。

 良いことは良い、悪いことは悪い、そこに希星の美しさは関係ない。

 その当たり前の正義感が、希星にとっては新鮮だった。

「俺、圭さんのこと好きかも」

 希星はそう口走っていた。

「何言ってんの? 腹いっぱいになったなら、さっさと家に帰りな」

 圭は、しっしっ、と虫を追い払うように手をひらひらさせた。

 面白い人、と希星は思った。

 ついさっきまで気弱そうな男だと思ったのに、メイクをした途端に有無を言わさぬ女王様に変身した。

 それに、彼は、希星の顔に全く動じず、正論を説いた。

 変人だけど、信じられる大人だ、と思った。

「飯、食わせてくれてありがとう。俺、金持ってないんだけど」

「いいんだよ。あたしが好きで食わせたんだから。酒もタバコも学生のうちはやめるんだよ」

「はぁい」

 念を押すように言うと、圭は玄関まで希星を見送ってくれた。

 帰宅する希星の足取りは、意外にも軽かった。殴られた頭はまだずきずきと痛んだけれど、なぜだか、心は清々しかった。



(とはいえ、やめろって言われても、すぐやめられるもんじゃないんだよなあ)

 希星はまた性懲りもなく、圭から投げ飛ばされたコンビニ前で、友人たちとともに酒を飲んでいた。

 街はもうすっかり暗くなっていて、色とりどりのネオンが競うように光っている。

 コンビニの壁にもたれ、希星はカップ酒をぐいと煽った。

 ここのコンビニは日本にあまり慣れていない外国人が接客しているので、酒もタバコも買いやすいのだ。また圭が現れたら「成敗」されると分かっていても、つい便利なここにたむろってしまう。

 この美しい顔さえあればどんな無理でも押し通せる日々はあまりに退屈で、酒とタバコなしで過ごすのは苦痛すぎた。

 酒をぐっと飲むと、強いアルコールで頭の芯が痺れる。自分の顔が通用しないような出来事に出会ってみたい、と、希星は挑戦的に思う。

 だらだらと酒を飲んでいると、ポケットに両手を突っ込んだ見知らぬ男が、にやつきながら希星たちの方に近づいてきた。

 男は顔を隠すように、ねずみ色のパーカーのフードを頭に被っている。背は元からなのか丸まっていて、中肉中背だ。顔の下半分は無精ひげで覆われていて、顔つきはよく見えない。

「君たち、よくここにいるよね?」

 にやついた顔を寄せられて、希星はのけぞった。

 抜けている前歯の間から、ドブのように臭い息が漏れる。異臭に希星は顔をしかめたが、男は気にせず話し続けた。

「そうだけど」

「飲んだらすっごいトべるやつ、持ってるんだけど欲しくない?」

 ほらこれ、と男がポケットの中から取り出したのは、ビニール袋に入れられた、色とりどりのラムネのようなものだった。

 ハートや星型の小さな錠剤は、いかにも甘ったるそうだ。甘いものが苦手な希星は、眉を寄せ、友人たちの輪から一歩下がる。

「一個飲むと、すっげえ世界見られるよ! 酒なんかつまんなすぎる」

 男は目を爛々と輝かせ、今にも涎を垂らしそうな顔で希星たちを見回した。

 友人たちは興味津々で、男の手の中の錠剤をつまみ、「いくら?」と聞いている。

「五個、千円」

「高っ」

 友人たちは一斉に錠剤から手を離したが、男は輪の外にいた希星の手首を突然握りしめた。希星は驚き、びくりと身体を跳ねさせる。

「いやいや、安いくらいだから。ここらで買ったらもっと高いけど、君、女の子みたいにすっごくかわいいから、安くしてあげてんの。マジで天国見られるから」

 男は希星の頭から足先までを視姦するように見ると、後半は内緒話をするように希星に顔を近づけて言った。

 男の目の奥はいやにぎらぎらと光っていて、鼻息は荒く、握ってくる手のひらもべっとりとした欲情の汗に濡れている。希星は身体中に鳥肌が立つのを感じた。

 ただの生理的不快感だけではない。動物的な勘が、警鐘を鳴らしていた。

 この男はヤバい。

「希星、一個試してみる?」

 「安い」と言われて調子づいたのか、友人はすでに買う気になっている。

 希星は男の手を引き剥がそうと腕をよじりながら口ごもった。

「いや……俺は……」

「ちょっとあんた」

 ドスの効いた声が希星の声を遮った。

「何だよ」

 男が振り向いた先には、女装した圭がいた。

 今日はショッキングピンクのロングヘアに、レインボーのミニドレスを着ている。相変わらず凶器のような厚底ハイヒールを履いていて、身長は二メートル近くに見えた。仰々しい外見だけでなく、服の上からでも分かる盛り上がった筋肉が威圧的だ。

「この子たちはあたしの舎弟なんだよ。勝手に手を出してもらっちゃ困るね」

「ああ? 何が舎弟……ヒッ」

 凄もうとした友人の一人が、圭に首根っこを捕まれ、男から引き離される。

 圭は男の手を希星からもぎ離すと、希星たちを守るように男の前に立った。

「ブツと一緒に警察に突き出されたくなかったらさっさと行きな。それともここで大立ち回りでもするかい?」

「……チッ、るせえな」

 圭がボクシングのように拳を構えると、男は興味が削がれたというように錠剤をポケットにしまい、希星をちらちらと見ながら去っていった。

「あんた何なんだよ! 俺らの邪魔すんじゃ……ウグッ」

 友人の一人が、圭に胸元を締め上げられる。

「あんたたち、高校生のくせに酒なんてやってんじゃないよ。しかもドラッグにまで手を出そうとしてた。あんたたちの高校だけじゃなく警察に通報してやってもいいんだよ?」

 眼光鋭く睨みつけられて、希星たちはすくみあがった。

 あれは、ドラッグだったのか。男が「トべる」とか「すっげえ世界が見れる」とか言っていた理由が、やっと分かった。持っているのはどう見ても菓子なのに、何を言っているのだろうと意味が分からなかったのだ。

「う、うるせえよ! あんたに関係ねえだろ!」

「希星、行こうぜ」

 友人たちが立ち去ろうとする中、希星はその場に留まった。

「ちょっと、この人と話がしたいから」

「はあ? 何言って……」

「いいよ、あたしもあんたに言いたいことがあるしね」

「お前らは先行ってて」

 希星は、圭と対峙した。

 腕組みした圭は先日介抱してもらった時より、一回りも二回りも大きく感じる。

 正直、かなり、怖い。背負い投げ程度で済むならいいが、また「成敗」と何か技でもかけられて大怪我でもさせられたらと思うと脚が竦んだ。けれど、どうしても聞きたいことがあったのだ。

「じゃあ、俺ら先に帰ってっから」

 友人たちがその場を後にして、圭と希星だけが残った。

「酒とタバコはやめなって注意したのに、まだ性懲りもなくしてたんだね。ドラッグにまで手を出そうとは、呆れ果てたよ」

「あれがドラッグっては、知らなかった。助けてくれて感謝してる」

 圭が、おや、と片眉を高く上げた。

「なあ、なんでそんなに首突っ込んでくるんだ? 圭さんにとって俺らは、どうでもいい街の害虫でしかないだろ」

 カラン、カラン、と、友人たちが地面に捨てていった酒の空き缶が風で飛ばされて虚しく鳴った。圭は腕を解くと、希星の前に一歩進み出た。

「あんたは害虫なんかじゃない。未来ある一人の子どもだよ。あたしが出来ることは少ないけど、少なくとも目の前で悪い道に進もうとしてたら、こっちだよって手を引かなきゃならない。それが大人であるあたしたちの責任ってものだ」

 希星は学校の教師たちを思い浮かべた。

 誰もが希星を特別扱いした。希星の機嫌を伺って、都合の悪いところは見ないふりをした。

 希星が美しいから。

 美しい希星を、誰も非難できない。

 けれど、圭は、違うのだ。悪いことは悪いと言い、希星をただの高校生として扱ってくれる。

 間違った道に進もうとしたら、そっちは駄目だと身体を張って止めてくれる。

 希星は圭をもう一度見た。分厚く化粧された奥にある圭の瞳には、痩せっぽっちの希星だけがひょろりと映っていた。

 圭からは、ただ、本心から希星のことを心配してくれているのが伝わってくる。

 それが、希星にとっては何より嬉しかった。

(この人は、俺の人生を変えてくれる人だ)

 希星は、そう直感的に分かった。

「なあ、圭さん。俺、どうしたらいいと思う? 俺、楽しいこともやりたいことも、なーんにもないんだ。だから、毎日つまんなくてタバコと酒で暇潰してた。圭さんは俺が何したら嬉しい?」

 希星はまっすぐに圭を見つめて、尋ねた。

 圭は目を丸くした後、すっと右手を顔あたりにまで上げた。

「学校行って、勉強して、飯食って、夜はよく寝ること。以上」

 ゆっくりと一本一本指を折って言い聞かせられたけれど、希星はあまりに普通な内容に不満を感じた。

「たったそれだけ? そしたら何してくれる?」

「あ?」

 圭に凄まれて、希星は少し後ずさった。

 生まれてこの方、好意以外の感情をぶつけられたことがほとんどないのだ。圭に怒られたび、希星はドキドキする。

「俺、これまで何も頑張ったことない。だから、頑張ったら、ご褒美がほしい」

「何が欲しいのよ」

「美味い飯」

 圭がぽかんとした顔をした。

 これまで険しい顔ばかり見てきたから、ちょっと面白い。

「親に作ってもらえばいいでしょ」

「嫌だ。圭さんのがいい。うち、親いないようなもんだし」

 希星が唇を尖らせると、圭は渋い顔をした。

「材料費出せるなら、作ってやってもいいわよ」

「ほんと?」

 ぱっ、と希星は顔を明るくした。

 圭の飯は美味い。いろんな女に飯を作ってもらっていたが、圭の飯は思い出に残るくらい、ダントツで美味かったのだ。

「ただし、あたしは昼はあっちこっちのジムでインストラクターやってるし、夜はバーにいるから、毎日は食わせてやれないよ。ほら、連絡先出しな。時間が合う時は連絡してやるから」

「ありがとう」

 すぐさまチャットアプリのIDを交換すると、希星は圭に、ばいばい、と大きく手を振って別れた。

 スマホを見ると、そろそろ早朝だった。圭の言うとおり、今日からまじめに学校へ通ってみるか、と、脚に力を入れて最寄り駅へ向かう。

 これまで感じたことがないくらい、希星は高揚していた。

 変わらない希星の日々が、一人のドラァグクイーンの背負い投げによって、突然変えられたのだ。



「希星くん、珍しいね。古文の授業に出てるの」

「うん」

 数時間後、眠い目を擦りながら、希星は学校の机についていた。

 抑揚のない教師の言葉は、まるで念仏だ。聞いているとうっかり寝そうになる。けれど、圭と約束したからと、希星はどうにかノートを取った。

 途中、みみずが這い回ったような字になってしまったが、今日は生まれて初めての「頑張る」日の初日なのだ。許されたい。

 休み時間に悪友たちからタバコに誘われたが、タバコはやめたと首を振った。

「希星ぁ、まじめクンじゃん。どしたの」

「美味い飯のために、俺、頑張ってんの」

 何それ、と揶揄われたが、希星は休み時間も真剣に教科書にかじりついた。

 これまでずっと授業をさぼっていたから、どの教科も一体何をしているのか、希星にはさっぱり分からなかった。教科書を読んでも、自分がどこから分からないのかさえ分からない。

 ノートをくれていた同級生たちにどこもかしこも分からないと相談すると、みんな親切に分からない最初の部分まで遡って教えてくれた。中には放課後まで付き合ってくれる生徒もいて、希星はありがたく、彼、彼女たちに世話になることにした。

 勉強を教えると言っておきながら胸を押しつけてきたり、腕や脚を触ってくる生徒がほとんどだったが、意外にもまじめに教えてくれる生徒もいた。

「ここでこの公式が使えるの。分かる?」

「分かる!」

 図書館など人生で一度も世話になることはないと思っていたが、分からないものだ。

 最近、希星は放課後になると図書館にこもって、同級生に勉強を教えてもらっていた。

 今数学を教えてくれている同級生は、同じクラスの地味な女子生徒だった。これまで顔も名前も認識したことはなかったが、教え方が上手く、数学の授業が終わるたびに解説をお願いしていた。

「いつもありがとな」

「ううん、いいの。自分の復習にも役立つし」

 女子生徒は希星に勉強を教えている時以外は、いつも顔を赤くしてもじもじしている。きっと希星のことが好きなのだろうと思う。

 勉強を教えてもらうお礼に何かを奢りたいが、そんな金はない。母がくれる金では、一食か、かろうじて二食食べるので精一杯で、余ることなどない。

「なあ、いつも世話になってて悪いから、お礼っていうか。キスでもしようか、セックスでもいいよ」

 希星が何気なくそう言うと、女子生徒は首を高速で横に振った。

「いいい、いいよ! 希星くん、もっと自分を大事にして! ま、また明日ね!」

 女子生徒は、目にも止まらぬ速さでノートを鞄にしまうと、一目散に逃げ出した。

 希星は一人その場に取り残されて、頭を掻いた。実は他の生徒にも同じことを言ってみたのだが、全員に赤面され、丁重にお断りされたのだった。

 生徒たちはみんな嬉しそうにしているくせに、「自分を大事にして」「俺には希星くんはもったいないよ」と、希星の申し出を否定して帰っていった。

 圭ほど希星の顔に無関心な人間とは、まだ出会ったことはない。

 けれど、この世の全員が全員、希星の顔を自分の欲望のために利用したいと思っているわけではない、のかもしれない。圭と出会ったから知られた、新たな発見だった。

 


 次に圭の家を訪れたのは、前回から二週間後のことだった。

 まじめに勉強した甲斐あって、数学の小テストでは赤点を免れた。物心ついてから一桁の点数しか取ったことのない希星からすれば、奇跡的な出来事だ。

「凄いじゃない……!!」

「でしょ」

 圭は小テストを両手に掲げ持って、目をまん丸にして驚いていた。今日の圭は、気弱な男の方の圭だ。こころなしか、喜び方もおとなしい。

 希星は大好物の唐揚げを頬張りながら、いい気分だった。「いいことあったからお祝いの料理にして」とお願いしておいた自分を、褒めてやりたい。

 にんにくの効いた鶏もも肉の唐揚げは頬が落ちそうなくらいおいしくて、希星は山のような唐揚げと白米を二合も平らげた。一緒に用意してくれていた玉ねぎとかいわれのツナサラダも、たまねぎ三個分はゆうに消費したと思う。白菜と大根の豆乳味噌スープは、鍋ごと飲み干した。

 希星は圭に聞かれるがまま、食事をしながら自分の家や学校のことを話した。

 父と母は幼い頃に離婚したこと。母と希星は仲が悪く、この十年近く金のやり取りでしか話していないこと。学校は気が向いた時にしか行かなかったこと。勉強はやり始めてみると意外と面白いこと。

 圭は難しそうな顔をしながら、希星の話を聞いていた。

 話すことがなくなって希星が黙ると、圭は意を決したように口を開いた。

「希星、毎朝食事を食べにおいで。昼、夜の分まで多めに作ってあげるから」

「いいの?」

「どうせ自分のために作るの。一人前増えたところで大して変わりゃしないよ」

 希星は圭の申し出をありがたく受けることにした。

 圭の食事は、美味い。それに、母から渡される金ではこんなに腹いっぱいは食べられない。

 希星の食べっぷりからして、母から貰った食費を全額渡しても圭にとっては赤字だろうが、それなのに毎日来いと言ってくれるのはありがたかった。

「圭、俺アルバイトとかして、金もっと払った方がいい?」

 追加で唐揚げを揚げている圭の横に立ち、希星は尋ねた。

 他人からかしずかれたことはあっても、かしずいたことはない。自分にアルバイトは不向きに思えるが、やってみるべきだろうか。

「学生の本分は勉強だよ。出世払いを期待しとくさ」

 圭は唐揚げをバットに上げながら、明るく笑った。

 それから希星は、早朝に圭の家に来ては、一緒に食事を食べるようになった。

 母からもらう金は全額、圭に食費として渡した。大した金額ではないけれど、少しでも圭の家計の足しになればいい。

 飯を奢ってやるから彼氏になれ、と迫ってきていた女子大生やホステスとの連絡も絶った。圭の飯は誰の飯より美味かったし、それに何より、圭が「女にうつつを抜かしてないで、勉強しなよ」と言ったからだった。

 圭は、希星の顔に惑わされない。希星のことを本気で案じてくれていると分かるから、素直に従うことにした。

 希星の日常は、確実に変わった。

 朝は圭と食事をとり、学校へ行き、放課後は同級生と授業の復習をして、夜は圭から持たされた食事を食べて、寝る。どこからどう見ても心身ともに健康的な男子高校生の日常だった。

 時々酒やタバコが恋しくなることもあったし、悪友たちから悪い遊びに誘われることもあったが、身銭を切ってまで自分に飯を食わせてくれている圭を裏切るのが嫌になって、結局断った。

 今や、希星の日常は圭を中心に回っていた。

 圭と毎朝食事をとるようになって三ヶ月近く経った頃、圭は突然、希星にプレゼントをくれた。

「はい。あたしのいない時でも、部屋でご飯食べたりのんびりしてていいから。毎朝大量の食事持ってくの、面倒でしょ」

 すっぴんの圭は、希星の手を器のように広げさせると、それをちゃりんと置いた。

 圭の家の、合鍵だった。

 たしかに、毎日大量の米とおかずを持ち帰るのは、そこそこの重労働だ。合鍵を貰えるのは、ありがたい。

 鍵には、ピンクのキスマークのキーホルダーがついている。圭のものとお揃いだ。

 そういえば、希星が圭と初めて会った時も、彼はキーホルダーとそっくりのピンク色の口紅をしていた。それがなんだか遠い昔のことのようで、希星は目を細めてそれを見つめる。

「いいの?」

「家主のあたしがいいって言ってんだから、いいのさ」

(俺が圭の大事なものを壊したり、盗んだりするかもって思わないのかな)

 ちらりと上目遣いに圭を見ると、圭は希星を優しい瞳で見つめているだけだった。

 手の中で鍵を弄びながら、希星はそれだけ自分が信頼されているのだと思い、嬉しくなる。

「ありがと、大事にする」

「うん」

 圭の顔は、満足げだった。

 その日のメインディッシュであるチキンピカタはいつも以上においしくて、希星はご飯を三杯もおかわりした。



 その日、希星はまた圭の家に向かっていた。

「こんにちはぁ」

 鍵を開けて家の中に声をかけるが、家主からの返事はない。きっと留守なのだろう。

 勝手にあがり、圭が作り置きしておいてくれた惣菜を温めて食べていく。

 煮込みハンバーグと具材たっぷりのコーンスープ、水菜と豆の和風サラダを二、三人前食べ終えたところで、希星は圭の寝室から服がはみ出していることに気がついた。

 几帳面な圭は、服やものを決して出しっぱなしにしない。なのに今日は随分慌てていたようだ。圭の部屋に入ると、あちこちに服や化粧品が散乱していて、泥棒に入られたようだった。

 仕方ないな、と服を拾って、畳んでやる。化粧品はドレッサーの上に置き、脱ぎっぱなしの服はハンガーにかけた。

 ベッドの近くに落ちている下着やワンピースたちを拾っていると、ふと、見覚えのあるものが目に留まった。

 それは、希星が圭と初めて出会った日に着ていた白いミニワンピースだった。酒の染みは、もう綺麗に取り除かれている。

 圭の部屋には、壁の半分ほどを覆っている大きな鏡がある。

 その前に立つと、希星はなぜか自然と、ワンピースを自分の体に当てていた。

 自分より大柄な圭が着られるワンピースなのだから、希星には当然大きい。ワンピースを自分に当てたまま、希星はくるりとその場を回った。

 まるで自分が自分でなくなるような気分になった。着る勇気はない。けれど、着たら……。

「希星?」

 希星は、はっ、と身をこわばらせた。

 すっぴん姿の圭が部屋の入り口で、ぽかんとした顔をしていた。

「どうし……ぐっ」

 希星はワンピースを握りしめたまま、思わず圭に思いきり体当たりをし、部屋を飛び出していた。

 行動の理由は説明できなかった。ただ、見られてはいけないところを見られた、という焦りが希星を支配していた。

(やばい)

 ただそれだけしか考えられなかった。

 走って、走って、圭の家の最寄駅にたどり着いた時、やっと自分がスマホとワンピース以外何も持っていないことに気づいた。これでは家にも帰れない。

 どうしようと悩んで、どうしようもなく、圭の家に戻ることにした。

 圭の家に戻ると、希星はおそるおそる扉に手をかけた。

 鍵は開いていた。

「圭?」

 圭はいなかった。

 その代わりに、机の上に合鍵や希星の持ち物が固めて置かれていた。

 圭に謝る機会を逃した。変なことをしてしまった。でも、次会うときは普通に接せるはずだから、と希星はワンピースをぎゅうと抱きしめながら思った。

『明日は家にいる?』

『朝なら』

 チャットで連絡すると、圭からはすぐに返信があった。

 希星はしわくちゃにしてしまったワンピースを持ち帰ると、ネットで検索しながらどうにかアイロンをかけて、部屋の隅のラックに引っ掛けた。

 開け放った窓から入ってくる夜風に、白いワンピースがゆらゆらと揺れる。

 ワンピースを自分の体にあてた時、まるで違う自分になったような気がした。求めていた姿になったような、そうでないような。

 感情が言葉になりかけて、それを直視する勇気が持てず、希星はそれから目をそらした。

 喜怒哀楽がぐちゃぐちゃになって、そのまま強引に目をつぶった。眠りの世界に逃げ込んでしまえば、何も考えなくて済むから。

 朝起きると、圭の家へ一直線に向かった。

 希星の家から圭の家へは電車を二回乗り継ぐ。どんよりした顔のサラリーマンたちと共に揺られながら、都内の圭の家へ向かった。

「おはよ」

 家に着くと、すっぴん姿の圭はさっぱりした様子で挨拶をしてきた。

 いきなり体当たりして帰ったことを怒られるかと思った希星は、拍子抜けした。

「ワンピース、ごめん。持って帰って」

「大丈夫よ。最近着てないし」

 コーヒー淹れるわね、と圭が立ち上がる。

 圭はコーヒーをハンドドリップで淹れるのが好きだ。

 ドリッパーにペーパーフィルターを載せて、コーヒー粉に湯を注ぐ。とぽぽ、と湯が粉の上に落ちる音とともに、部屋中にコーヒーの香りが充満した。

 部屋に染みついた圭の体臭とコーヒーの香りが混ざって、落ち着いた気分になる。

 希星は、ソファーの上で膝を抱えて、目を閉じた。

「──俺、ずっと女の子になりたかったんだ」

 湯を注いでいた音が、一瞬途切れる。

 しかしすぐに音は続いた。希星はそれを話し続けていい合図だと取り、先を続けた。

「俺、妹がいたんだ。でも、すごく小さい頃、母さんが俺の世話をしてくれてる間に妹は風呂で溺れて……結局死んじゃった。母さんはすごく泣いて、落ち込んで、それから俺を女の子みたいに扱いだした」

 圭が牛乳をたっぷり入れたカフェオレを、希星の前に出す。

 希星は思い出した。ずっと見ないようにと目を背けてきた、頭にこびりついた光景だ。

 幼い希星は、風呂上がりに服を着たくないとぐずっていた。母は仕方ないわねと困ったように言いながらも服を着せてくれて、希星は満足した。

 けれど、その直後、風呂場から母の悲鳴が聞こえた。

 母は幼い妹の顔や身体を叩きながら、顔を真っ青にしていた。妹の手は、だらりと垂れ下がったままだ。母は、スマホに向かって「救急車を呼んでください! 娘が溺れて……!」と泣きじゃくりながら叫んでいた。

 搬送先の病院で、妹は死んだ。それから、母はおかしくなった。希星を妹の名前で呼んだり、女装をさせるようになったのだ。

「俺は小さい頃ずっと女の子の格好をさせられてて、髪も今よりずっと長く伸ばしてて……でも、嫌だと思ったこと、なかったんだ。母さんが嬉しそうだったから、それでいいって思ってた。他の子にキモいとかオカマって言われても、母さんが嬉しいならそれでよかった」

 希星は震える手でマグカップを取ると、一口飲んだ。

 熱い塊が胃に落ちていく。体が温かくなり、緊張で身体が冷え切っていたのだと、今更ながらに分かった。

 母が希星に女装をさせるようになって、父と母の仲は悪化した。父は母を理解できないと言い、去っていった。

 母は、希星が悪いと言った。希星が女の子だったら良かったのにと。

「女の子になりたかった。女の子になれば、母さんが愛してくれる。母さんが喜んでくれる。でも、俺、もうこんな大きくなって、声も低くて、女の子になんか、なれない」

「希星」

 正面に座っていたはずの圭が、いつの間にか希星の横に来ていた。

 ぎゅうと抱き寄せられて、希星はされるがままになった。

「女の子になりたかった。母さんがほしがってた、小さくてかわいい、女の子になりたかった。そうしたら、俺は、母さんをちゃんと喜ばせてあげられたのに」

 言いながら、そんなことは無理だと希星は分かっていた。

 今の希星が女になっても、母の求める女の子にはなれない。けれど、もしも、もしもそんな理想の女の子になれたのなら。

 希星の頬に、熱い涙が伝った。

「ワンピースを見て、女の子になれるかもって思った?」

 圭に言われて、希星はゆるゆると視線を上げた。

 圭に返したワンピースが、部屋の隅にかけられている。

「馬鹿だよな」

「ううん、馬鹿じゃないよ」

 希星の頬を、次々と涙が伝って流れていく。

 圭は希星の頭を、腕の中に抱き込んだ。

「希星は愛されたかったんだね。お母さんに。女の子になりたいって真剣に思うくらい、お母さんのことが大好きだったんだよ」

 希星の脳裏に、幼い頃の風景が一気に蘇った。

 母はいつも希星に白いワンピースを着せたがった。希星に一番似合うと、一番かわいく見えると、褒めてくれた。

 長い髪を三つ編みにして、リボンを結んで、あちこちにお出かけした。かわいい娘さんねと言われるたびに、母が嬉しそうなのが希星も嬉しかった。

「俺、どうして男に産まれちゃったんだろう」

 希星の顔はもう涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。

「あんたの母さんがどうであっても、私は今のあんたが好きよ」

 圭は希星の前髪をかき分けると、そこにそっと自分の額を当てた。圭の熱が希星に伝わってくる。

「あんたが男でよかった。その低い声も、高い身長も、全部があんたの魅力だよ」

「圭──」

 希星は、圭を抱きしめて、声をあげて泣いた。

 男で、いいのだ。

 圭は希星が男であることを、許してくれるのだ。

 友人も、両親も、誰もが希星に「女だったら良かったのに」と言った。けれど、圭だけは、ありのままの希星で良いと、それが魅力なのだと言ってくれる。

 固くて大きな体からじんわりと伝わってくる体温は、優しくて切なかった。

 わんわん泣いて、涙が枯れ果てた頃、圭がぽつりと話しはじめた。

「あたしね、ずうっと自分が嫌いだったの」

 圭は懐かしむように言った。

「体ばっかり大きいのに気は小さくて、周りにいじめられた。いかにも男っぽい外見なのに、なよなよしてるって言われてさ。自分にいいところなんて何もないって思ってた。けど、ネットでドラァグクイーンを初めて見た時、すっごく惹きつけられたの。なんてキラキラして、自信がみなぎってて、かっこいいんだろうって。こんな風に胸張って生きていきたいって思った。それで今ドラァグクイーンやってんの」

 圭は乾いた大きな手で、希星の涙を拭ってくれた。

「あたし、あんたに初めて会った時、なんてキラキラしてる子だろうって思ったよ。生まれて始めてドラァグクイーンを見た時とおんなじくらい、衝撃的だった。こんな顔に生まれられたらどんなに良かったろう、って思った。でも、あんたはこの顔だからこそ、苦しかったんだよね。あたし、何も分かってなかった」

 ごめんね、と言われて、希星は首を振った。

「今もあたしは、昼の自分には全然、自信ない。でも、メイクをして、ドラァグクイーンになった時だけは、なりたい自分でいられる。そんなふうに、いびつでいいんだよ。あんたが男のあんたに自信を持てなくても、あたしは男のあんたが好きだ。少しずつ、胸を張れるようになっていったらいいんだよ」

 圭の声は、希星を丸ごと包み込もうとするかのように優しかった。

「俺は、昼の圭も好きだよ。夜の圭は強くて、自信満々でかっこいいけど、昼の圭は、俺のことを思って怒ったり、笑ったりしてくれて、優しいもん」

「ありがと」

 圭は太い腕で、再度希星を抱きしめた。

「ねえ、圭。ハサミある?」

「あるけど」

 圭が訝しげに希星からそっと腕を離し、文房具を入れている棚を漁って、ハサミを取り出す。

 圭から渡されたハサミの刃を、希星はじっと見た。

「何す……ああ!?」

 ジョキン、という音とともに切られたのは、希星の長い髪だった。

 肩まであった長い髪が、地肌すれすれで切られている。髪の束が、フローリングにぼとりと落ちた。

「き、希星、なんで髪……」

「これ、母さんのために伸ばしてたんだ。いつかまた女装してほしいって言われた時に、髪長い方が女の子みたいに見えるかなって思ってた。でも、もういい。圭が男の俺を好きって言ってくれるから」

「そうだけど、ちょっ……お馬鹿! 切るならゴミ箱の上とかで切ってよ! 髪を掃除するのがめんどくさいでしょうが!」

「ふふ」

「笑ってごまかさない!」

 ぷんぷんと怒る圭がおかしくて、希星は泣きながら笑った。

 風呂場に移動させられ、引き続き、髪にジョキン、ジョキン、とハサミを入れていった。そのたびに、幼い頃に見た母の笑顔が鏡に映って見えた。

(髪も、顔も、全部が綺麗ね。世界中のどんな女の子にも負けないくらい、かわいいわ)

 思い出の中の母が、嬉しそうに希星に話しかける。小さな希星は母の笑顔が嬉しくて、うん、うん、と一生懸命に相槌を打った。

(さよなら、母さん)

 ジョキン、と髪を切り終えると、髪はあちこち不格好ででこぼこだった。

「まったく、ほんとにあんたは突拍子もないことをする子なんだから」

 圭が希星からハサミを取り上げ、チョキチョキと毛先を整えてくれる。

 しばらくされるがままになっていると、鏡の中に映る自分がさまになっていくのが分かった。はい、終わり、と圭から背中を叩かれ、顔を上げると、店で整えたようにきちんとしたベリーショートになっていた。

「圭、俺のこと、好き?」

 希星は後ろを振り向くと、圭にもう一度確認した。

 圭は切った希星の髪を集めながら、やれやれというように笑っていた。

「好きだよ。突然家で髪切り始められても許しちゃうくらいには絆されてるね」

 希星は圭に、思いきり抱きついた。

「嬉しい」

「……あたしもあんたみたいに、自分に正直に、まっすぐ生きられたらな」

 圭は独り言をつぶやきながら、ぎゅっと強く抱きしめ返してくれた。

 圭の分厚くて温かい手が髪の毛を梳いていく。指が希星の地肌に触れて滑っていくのが、心地よかった。



 希星が圭といる時間は、以前以上に多くなった。

 髪を切ってから母との関係が一層気まずくなったこともあり、家には時折食費を取りに帰るだけで、毎日のほとんどの時間を希星は圭の家で過ごしていた。

「ねえ、圭のバーでバイトしたいんだけど」

 一緒に朝食を食べながら、希星は突然切り出した。

 圭はぎゅっと顔をしかめる。

「うちは夜遅くしかやってないのよ。学校に差し支えるでしょ」

「シフト早めに入れるようにするから。ダメ?」

「……まあ、たしかにキッチンの募集はしてるけどさ」

「俺の食費、結構嵩んでるでしょ。頑張って働くから、家計の足しにしてほしいんだ。お願い」

 圭はしばらく唸っていた。実際、食費が家計を圧迫していることに悩んでいるようだった。

 希星としては食費を稼ぎたいという目的もあったが、圭のそばにもっと長い時間いたいというのが一番の願いだった。

 圭に男としての自分を受け入れられて以来、希星は昼の顔だけでなく夜の圭のことももっと知りたいと思うようになっていた。

 結局、希星がお願いお願いとしつこくねだると、すぐに陥落した。なんだかんだ、圭は希星に甘いのだ。

 「仕事のせいにして学校を休んだりしちゃ駄目よ」と念を押されて、希星はこくこくと頷いた。

「東 希星です。十七歳です。よろしくお願いします」

「ヤダーッ! この子新しいキャストじゃないの!? こんなに美人なのに!?」

「店長、キッチンにしておくにはもったいないですよ」

 初の出勤日、希星がスタッフたちの前で挨拶をすると、ドラァグクイーンたちから一斉に非難の声が上がった。「女装に興味ない?」と彼女たちからもみくちゃにされ、苦笑する。

「いいのよ! この子はキッチン希望なんだから」

「そうは言ってもねえ〜素材が良すぎるわ」

「キャストに転向したくなったらいつでも言ってね!」

 名残惜しげなキャストたちを舞台裏に引きずっていく圭を見送り、希星は店長から仕事の説明を受けた。簡単な食事の調理と盛り付け、仕込みを頼まれる。仕事は、先輩たちのやり方を見よう見まねで覚えていった。料理のメニューはさほど多くないし、ほとんどが乾き物だったから、すぐに慣れた。

「お疲れさまです、お先に失礼します」

「おう。お疲れ」

 仕事を終え、希星は先輩にぺこりと頭を下げる。キッチンから出ると真っ先に、空いていた客席の端っこに陣取った。

「レディースアンドジェントルメン! 皆様、お待たせいたしました。押しも押されもせぬ当店の一番人気! クラージュ・ケイによる、アメリカンポップス名曲メドレーです!」

 これから、圭のショーが始まる。

 希星は高鳴る心臓を押さえながら、舞台を見上げた。

 ステージのライトが妖しく紫色に光り、舞台を下から上へと照らしていく。客席からは熱いコールや指笛が飛び交った。

「ケイーッ!!」

「待ってましたー!!」

 爆音とともに歌声が流れ出し、ケイが女性ダンサーたちを引き連れて登場した。

 トレードマークのショッキングピンクのロングヘアに、スパンコールがふんだんに使われたゴールドのミニワンピース。淡い緑色の羽根ショールをなびかせながら、リズミカルに舞台中央に駆けてくる。

 まるでケイ自身が歌っているように口パクをしながら、歌手本人さながらに踊り狂う。

「ケイ、綺麗だよー!!」

 隣の席の客が立ち上がってケイに声援を送っていて、希星は自分のことのように嬉しくなった。

(圭、今日もすごい)

 圭のショーを間近で観ること。これが、希星の最近の一番の楽しみだ。

 ステージに立つ圭は、普段の圭とは別人だ。ドラァグクイーン、クラージュ・ケイとしてパワフルなダンスを披露してくれる。

 今もほら、ケーキやカクテルを模したカラフルなセットにしなだれかかったり、逞しい脚を引っ掛けて見せつけたり、衣装を脱いで挑発してみせたりと、一瞬も客を飽きさせない。

 圭のショーを観るたび、希星は魅了される。

 圭のように女装したいとか、女性になりたいと思うわけではない。とにかく、圧倒されるのだ。

 心の扉を強引に開き、「あんたは何がほしいの?あんたのなりたい自分はどこにいるの?」と胸ぐらを掴んで問うてくるような、そんな強いメッセージを、圭のショーからは感じる。

(これが圭の、なりたい姿なんだ)

 土砂降りのような声援の中で踊る圭を見ながら、眩しい、と思った。

 なりたい自分を表現できている圭が、羨ましい。

 希星はまだ、自分は何がしたいのか、何になりたいのか、分からない。

「あら、かわいい彼氏ちゃんはまたケイを見てるの」

 いつの間にか、隣に圭の同僚のドラァグクイーンが座っていた。

 百キロを超える巨体をまばゆいスパンコールのロングドレスに包んでいて、まるで人間ミラーボールのようだ。たしか、ドラァグネームは、エクストラビッグ・アンコ。餡子が好きだからだと言っていた気がする。

「いや、彼氏じゃないですよ」

「でもケイのこと、ずっと見てるじゃない? ケイのこと、好き?」

「はい」

 食い気味で答えると、彼女はガハハと大口を開けて笑った。

 圭のことは、もちろん好きだ。希星の外見ではなく中身を見て好きだと言ってくれた、初めてで唯一の人だから。

「もう、かわいいわねえ。甘酸っぱいわ」

 からかうように言われて、希星は唇を尖らせた。

 圭の彼氏、と言われるのはこれが初めてではない。希星が圭ばかり目で追うから、みんなが「圭の彼氏」と呼んでふざけるのだ。

 けれど、彼氏と呼ばれるのはそんなに嫌ではなかった。むしろ、自分が圭にとってそれくらい特別な存在だというのが嬉しい。

「ん? あらあ、望ちゃん! お久しぶり」

 隣に座っていたアンコが突然立ち上がったので顔を上げると、そこには細身の小柄な男が立っていた。

 栗色のマッシュヘア、華奢な腰を強調するように細身のスプリングコートをウェストマークしている。ハイブランドの名前が大きく入ったハンドバッグを持っていて、いかにもファッション関係の業界人という感じだった。

「どうもです。あれ、ケイだよね?」

「そうそう。見てって」

 男が「圭」と気軽に言ったことに、希星はぴくりと反応した。この男は圭の何なのだろう。

「こんにちは。隣、いい?」

「はい」

 男は色白で、小さな顔の中で大きな目が異様に目立っていた。まつげが長くて、瞬きするたびにバサバサと音が鳴りそうだ。希星は他人の容姿には興味がない方だが、男はまるで小動物のような愛らしさがあって、なんだか嫌な胸騒ぎがした。

 圭は、かわいいものが好きだ。ピンク、ハート、リボン、キラキラ……。

 人間もそうだ。圭はバーの同僚たちに希星を紹介する時、いつも「うちのかわいいの」と言う。圭にとって希星はかわいいのだ。この男も、どちらかと言えばかわいい人種だろう。

 圭はきっと好きだろうな、と希星は思った。そう思い始めると、なんだか胸がざわついた。

 この男が、圭の知り合い程度ならいいのだけれど、と希星は願った。

「ああ、望? 元カレ」

「……マジ?」

「なんで嘘つかなきゃいけないの。二年前くらいに別れたんだけどさ。元はうちのバーでメイクとか衣装を担当してくれてたんだ。今は普通の友達よ」

 友達、の部分を強調されたけれど、希星は渋い顔のままだ。

 自分にとって圭は特別な存在なのに、圭にもそんな特別な存在がいたのだと思うと、嫌な気分だった。

 圭のショーが終わった後、希星はそのまま帰ろうとした。けれど、望がショーの後に関係者以外立ち入り禁止のバックグラウンドに消えていって、気が気ではなくなったのだった。

 希星も一応関係者ではあるが、ショー前後に圭の待合室に入っていい許可は得ていない。どうしよう、と悩んで、翌日学校があるからと渋々圭の家に帰った。

 翌朝、圭に「望って誰?」と尋ねると、先ほどの回答が返ってきたというわけだ。

「圭ってほんと、かわいいものが好きなんだね」

「なによ。遠回しに自分カワイイって言ってんの?」

「違うもん」

 不機嫌さをアピールするように頬を膨らませると、圭が「何よ〜」と後ろから覆いかぶさってきた。

 今日は朝まで仕事だったらしく、圭はまだメイクをしたままだ。

 メイクと酒の匂いが一緒くたになって、臭い。人差し指で、頬を突かれて、唇からぷしゅ、と空気が抜ける。

「今はあんたが一番かわいいわよ。むくれないの」

 頭をわしゃわしゃと撫でられるけれど、希星は不満だった。

 なんというか、圭の希星へのなだめ方は「我が子」とか「弟」にするようなものだと思うのだ。じゃあどんななだめ方がいいのかと問われると、うまく答えられないのだけれど。

「ていうか、圭って男の人が好きなんだね」

「そうよ? ちなみにあたしタチだから」

「へぇ」

 タチ、とか、ネコ、という言葉は、バーでアルバイトをし始めてから知った。男同士のセックスでどこを使うのか、などの下世話な話も自然と耳に入ってくる。

 それにしても、圭がタチなのは意外だった。女装した自分の方が好きだと言っていたし、てっきり夜も女役なのかと思っていたのだけれど。

 圭が焼いてくれた四枚切りの分厚い食パンを食べながら、希星は圭と元カレが抱き合うのを想像した。たしかに、元カレは「ネコ」っぽい。

「まあでも、今は俺が一番かわいいんだし」

「希星、そろそろ出ないと遅刻するよ!」

 とにかく、圭の中の「かわいいランキング」では、俺が今はナンバーワンなのだ、と思うと、少し溜飲が下がった。

 洗面所から叫ぶ圭に「今出るから!」と叫び返すと、希星は皿とコップを流しに置いた。



(また来てる)

 希星は圭と話す望の後ろ姿を、じっとりと見つめた。

 圭は希星の視線に気づいているのか、いないのか、望の言葉にワハハと大きな声で笑っていた。

 久しぶりに望がバーに来たあの日以来、彼は圭が出演するショーを欠かさず観に来るようになった。そして、毎回必ず圭となにかを話し込んで帰っていく。

 二人が何を話しているのか、気になる。心の中では、

 (別に圭が誰と仲良くしようがいいじゃないか)

 という声とは別に、

(圭の一番は俺のはずなのに、なんであいつのことをあんなに構うんだよ)

 という声もする。

 圭にとって、特別な存在でいたい。だからこそ、望という「かつて圭にとって特別な存在」だった男が気になる。

 希星は圭が望のそばから立ち去るのを見るなり、望に近づいた。望に、確認したいことがある。

「あの、少しだけお話、いいですか」

「ん? あ、圭のかわいい彼氏くんだ? いいよ」

 望が希星を指差して言った言葉に、心臓がどくんと跳ねる。

 これまでバーのキャストたちにどれだけからかわれてもなんとも思わなかったのに、不思議だ。なぜだろう、と心臓に手を当てながら、希星は望の隣に座った。

「あの、圭と、いつも何話してるんですか? なんか、すごく楽しそうにお話されてるから」

 彼氏という言葉は否定せず、希星は望に直球で尋ねた。

 二人がなぜそんなに長話しているのか、気になっていたのだ。

「気になる?」

 望は大きな瞳を糸のように細くして微笑んだ。そうすると、まるで狐のように見える。希星は素直にこくりと頷いた。圭と望のことを、知りたい。

「ヒ・ミ・ツ。僕と圭だけにしか分からないことだよ、彼氏くん」

 からかうような望の言い方に思わずカッとなり、希星は席から勢いよく立ち上がった。幸いなことに、客たちは他のドラァグクイーンのショーに釘付けで、希星たちのことなど見ていない。

 オレンジや赤のレーザーライトが交錯するフロアの中、望は楽しげにカクテルを飲んでいる。

「大人には大人のお話があるの。分かった?」

 言い聞かせるように笑顔で言われて、希星はどうにか「失礼します」とだけ喉の奥から絞り出し、きびすを返した。

(嫌な奴! 嫌な奴!)

 希星は足音荒く、店の外に出た。

 圭の家に帰り着くまで、頭の中をずっと回っていたのは、望の値踏みするような笑顔だった。

(俺の方が、あいつより絶対今の圭にとって特別だ。だってほとんど一緒に住んでるし、圭のかわいいランキングでは俺が一位だし)

 圭にとってどれほど自分が重要な存在なのかをぶつぶつと唱えるものの、希星の苛立ちを抑えるにはあまり効果がなかった。

 悔しい。圭の元カレというだけで、あんなに大きな顔をしている望が嫌いだった。

 風呂に入り、パジャマに着替えて布団に潜り込む。希星は布団の中で考えた。

(俺、圭の何になりたいんだろう?)

 望に「圭のかわいい彼氏くん」と言われた時、心のどこかで「そうだ」と、望に対抗するように肯定する声があった。

 圭が希星にとって唯一無二の特別な存在であるように、圭にとっても希星がそうであってほしい。それは、いわゆる彼氏という存在なのかもしれない。

 希星は目をつぶり、裸の圭が自分に抱きつくところを想像した。

 彼氏なら、圭とキスしたり、抱き合ったりするはずだ。自分はそんなことがしたいんだろうか?

 小さな丘のように盛り上がった肩の筋肉、逞しい胸、絞られた固い腹、そこまで想像して、希星はばっと目を見開いた。

 自分の花芯がささやかに首をもたげて存在を主張していたのだ。

(嘘、俺、え?)

 股間に触れると、そこはしっかりと熱を孕んでいる。

 圭の裸を想像して、欲情した。

 希星は慌てて布団を頭まで被った。

 きっと、誤作動だ。疲れていたのだ。そう言い訳して固く目をつぶっても、圭が希星に覆いかぶさるさまをさらに想像してしまって、花芯の角度はより強くなってしまう。

(俺、圭に、彼氏になってほしいのかも)

 希星は一人、布団の中でそう気づいたのだった。



「あら望、また来たの。仕事暇なの?」

「ひどいな、時間を作って、圭に会いに来てるんだよ」

 そんな会話が漏れ聞こえて、希星はフロアの隅でぎりぎりと手のひらに爪を立てた。望の丸い後頭部を睨みつけるけれど、そんなことをしても何の意味もないのは分かっている。

 二人の話している様子はいかにも親密で、望はたびたび圭をじっと見つめたり、圭の腕や脚をべたべたと触る。それは希星が誰かに言い寄られる時とまったく同じ仕草で、希星はそんな望をそのままにしている圭にひどく苛立った。

(望とあんなに話すなら、俺のところに来てくれたっていいじゃん。俺の席には「公私混同はダメ」とか言って絶対来てくれないくせに)

 希星は明らかに、望に嫉妬していた。

 昨晩、自分が圭に欲情しているのかもしれないと気づいてから余計に、望に対する嫉妬心は強くなっていた。

 やけくそな気持ちでお冷を飲んでいると、望が突然圭に寄りかかり、圭は望を抱くようにして、お手洗いへ連れて行った。

(酒でも飲みすぎたのかな)

 吐かれると、トイレの清掃が面倒になる。やめてほしいなと思いながら、ぼんやりと他のドラァグクイーンのショーを希星は見つめた。

 しかし、五分経っても二人は帰ってこない。

 本格的に吐いているのだろうか。いや、もしや。

 バーで盛り上がってトイレで一夜限りのセックスをする男女の話はよく聞く。まさか圭と望もそれではないか、と希星は乱暴に席を立った。

 店の奥にあるトイレに向かうと、言い争うような声が聞こえた。

「──から、希星はあんたなんか──」

「──にを知ってるっていうのさ──」

 バタン、ガタン、と何かがぶつかるような音がして、希星はとっさに大声を出していた。

「圭!」

 音が聞こえていたトイレの個室を、外から思いきり開く。

 そこでは、便座に座った望に、圭が思いきりキスをしていた。

「取り込み中なんですけど」

「希星、あんたまだ帰ってなかったの……」

 にやりと笑う望に、顔面蒼白の圭。

 圭が、望に、キス。

 希星の頭に、カッと血がのぼった。

 これまで経験したことのない感情だった。

「圭の馬鹿野郎!!」

 手近にあったモップを思いきり振りかぶり、圭に向かって投げつけた。

 圭には難なく受け止められたけれど、気が収まらなかった。何もかもめちゃくちゃにしたい気分だった。

「馬鹿! 馬鹿! 馬鹿!!」

 バケツ、洗剤、手当り次第にそこらにあるものを圭たちに投げつけて、希星は風のように店を走り抜けて、外へ出た。

 びゅうとビル風が吹き付けて、寒さに身体が震えた。けれど、それ以上に、希星の身体を怒りの熱が支配していた。

 後ろから、希星を呼ぶ声が聞こえていた。

 圭が許せなかった。望は友達とか言っていたくせに、結局キスしていた。本当は望のことが好きだったのだ。

 圭は俺に嘘をついたんだ、と希星は傷ついていた。

 希星は圭の彼氏でもなんでもない、希星が勝手に圭のことを特別に好きなだけだ。

 けれど、希星は圭の言葉を信じていたのに。

 圭なんか嫌いだ。圭なんか……。

 やみくもに街を走って、走って、もう疲れた、と脚を止めようとした時、後ろから希星を呼ぶ声がした。

「希星!」

 間違いなく、圭の声だった。

 なんで追ってくるんだよ、と、怒りと悲しみが混ぜこぜになる。疲れ切った脚で、踏み出した途端、左から激しく光るライトが迫ってきていた。

「希星!!」

 悲鳴のような圭の声が聞こえる。でも、身体は恐怖のあまり動かなかった。

 目の前に車が迫っていた。

 無理だ、避けられない。

 ドン!と大きな音がして、地面と空が上下逆さまになった。目の前が真っ赤に染まって、顔が燃えるように熱くなる。

 その後のことは、記憶にない。ただ、目を閉じる直前に、圭が必死の形相で希星に近寄ろうとしていたことだけは、見えた気がした。希星の願望が見せた、幻想だったかもしれないが。



 目を覚ますと、真っ白な天井が見えた。

(痛い)

 ざわざわと部屋をたゆたう声がうるさかった。

 顔面が熱くて、痛い。顔はガーゼと包帯で固定されているようで、動かせない。目だけで左右を見ると、圭が椅子に座ったまま寝ていた。

 じっと天井を見つめていると、目の端で、圭がかすかに動いた。そのまま圭を見つめていると、彼がゆっくりと目を開ける。すっぴん姿の圭だった。

「希星! 起きたの」

 希星に縋りつくようにして、圭が立ち上がった。

「うん。俺……どうなったの」

「車にはねられたんだよ。あんたもろともガードレールに突っ込んで」

 希星がそっと顔に手を触れようとすると、圭が鋭い声を出した。

「やめな!」

 部屋が急にしんと静かになる。

 希星が身体をすくめると、圭が小声で「ごめん」と謝った。

「あんたの火傷、かなり酷いみたいなんだ。跡が残るかもしれないって……」

 圭が唇を噛んだ。

 顔に、跡が残る。それは一体どれくらいのものなのか。

 圭の様子では、希星の傷は随分深そうだった。

「あとはお医者さんに説明してもらった方が良いかもしれない。十分後に回診に来てくれるから」

 希星はこわばる身体からどうにか力を抜くと、ふうと大きく息を吐いた。

 たかが自動車事故だ。幸い、怪我をしただけで、命はある。

 そんなに大事ではないと信じたかった。

「東さんの切創は、皮下組織にまで到達していました。ガラス片などが多数創口に混入していたため、洗浄し、圧迫して止血しています。また、挫傷した部分もあり、そちらについては皮膚を切除しました。傷痕は、顔全体の三分の一近くにわたると思われます」

 淡々と言う医師の言葉を聞きながら、希星は愕然とした。

「傷痕は、隠せないんですか」

「挫傷、つまり皮膚の下の組織が損傷してしまった部分がかなり大きいため、痕は残りやすいと思います。あとは体質によりますね」

 希星の喉が、ひくり、と引きつった。

「あ、りがとうございました」

「はい、お大事にされてください」

 医者が希星のベッドを囲むカーテンをくぐると、希星と圭だけが取り残された。

「入院費用は、心配しなくていいよ。相手が慰謝料を出すって言ってたから」

 金のことを尋ねようとすると、圭が先に話してくれた。

 それを聞いて、希星はひとまずほっとする。

 母は、希星に食費さえ出し渋る。入院したと聞いてもきっと金は出さないと言うだろうと思われた。

(俺、顔だけしか取り柄なかったのに)

 希星は呆然とした。

 美しかったから、特別扱いしてもらえた。美しかったから、老若男女が希星の前にひれ伏した。なのに、これからは、ただの「東 希星」でしかない。むしろ、普通よりも醜い姿で生きていかなくてはならない。

(どうしよう)

 顔をゆがめると、皮がひきつれたようになって痛かった。けれど、それ以上に心は絶望でいっぱいだった。

 どう生きていったらいいのか、分からない。

 これまでの自分を全否定されたような気持ちだった。

「希星」

 圭が、希星の手をそっと握った。

「圭が悪いんだ」

 希星は混乱したまま、言った。

「友達って言ったのに、嘘ついてた」

「ごめん」

 ひしゃげた圭の声が聞こえて、希星は彼の顔を見た。

 希星は全ての感情を忘れて、絶句した。

 圭は、泣いていた。

 顔を涙でぐしゃぐしゃにして、泣いていた。

 圭の泣き顔を、希星は初めて見た。

 お人好しさがそのまま形になったような、黒目がちな垂れ目から、透明な雫がいくつも粒になっては頬を伝って落ちていった。

「こんなことになるなんて、思わなかった。言い訳みたいに聞こえるだろうけど、望とキスするつもりなんて、なかったんだ。望が、希星を口説きたいって言って、でもあたしは、それが嫌で……。『それならあたしで我慢しろ』って言って、キスした。希星のことは諦めな、って言うつもりだったんだ。けど、キスしてるのをあんたにそれを見られて、頭が真っ白になっちゃって、追いかけたら」

 圭は、希星の手を両手で握ると、額をそこに擦りつけた。

「ごめん。あんたに謝っても謝りきれない。あたしがあんたを追いかけなければ、こんなことには」

 圭の熱い涙が、希星の手を濡らしていった。大きな身体を縮めて泣く圭は、悲しいほど痛々しかった。

 けれど、圭が泣きじゃくるほど、希星の心は冷えていった。

 圭が望のことを本気で好きでキスしたのではないと分かって、ほっと安堵していた。

 けれど、希星の心は、自分が持っているたった一つの宝である顔を、圭に壊されたという怒りと悲しみでいっぱいだった。

「一人になりたい」

「希星」

 圭の方を見ずに固い声で希星が言うと、圭は苦しげな表情で希星から手を離した。

「何を言っても今更だよね。ごめん。でも、あたし、毎日見舞いに来るから」

 圭は荷物をまとめると、鼻をすすりながらカーテンをくぐって出ていった。

 希星のベッドの周りが急に静かになる。

 目をつぶると、これからのことを考えた。

 希星の顔は、唯一無二の武器だった。誰もが希星の顔を見ればひれ伏し、おべっかを使った。けれど、これからは誰もそんなことはしなくなる。むしろ、近寄るなと嫌悪されることの方が多いかもしれない。

 これから激変する人間関係を思うと、気が重かった。

 それに、希星は今、高校二年生だ。来年には進学か就職か、どちらかの道を選ばなくてはならない。学校の勉強はやっているが、成績は後ろから数えたほうが早いくらいだし、そもそも勉強はそんなに好きではない。それに、母が進学のために金を出してくれるとは思えなかった。

 ならば就職ということになるが、希星の取り柄は顔だけだ。それ以外には何もできることがない。モデルか何かになれればいいとぼんやりと思っていたが、顔は事故でめちゃくちゃになってしまった。

 希星は自分の手を見た。

 やけに細く、小さく、頼りなく見える。

「どうしたらいいんだろう」

 希星の声は、ざわめく大部屋の空気に溶けて、消えた。



 宣言通り、圭は毎日見舞いに来た。

 けれど、希星はなかなか圭に心を開くことはできなかった。

 八つ当たりだと分かっている。

 自分が圭と望のキスシーンに激昂しなければ、圭から逃げようとしなければ、こんなことにはならなかったのだ。圭だけが悪いわけではない。

 しかし、圭に八つ当たりでもしなければ、心を保てなかった。

「希星、あんたに職場のみんなから。元気になったらまた店に顔出してって言ってたわ」

 圭は根気強く希星に話しかけてくれる。

 希星は無言で頷いて、目を閉じた。

 何も見たくないし、聞きたくなかった。

 キャストたちは、希星の顔がどうなったのかを知らないからそんなことが言えるのだ。希星の顔が傷痕で激変していたら、みんなきっと態度を変えるだろう。

 これまで、生まれてから一度も、自分の顔を見て嫌悪されたことがない。だからこそ、顔を見た瞬間に態度を変えられるのが、怖かった。

 相手が、自分の心を開いている人たちだからこそ、怖かった。

 変わってしまった自分の顔を見るのが怖い。それでも、無慈悲に時間は過ぎていく。十日が経って、希星は無事に退院することが決まった。

 鏡の前で、包帯を取る。

 希星は鏡の中の自分を見た。

 そこには、額から左頬にかけて、切り裂いたように大きな火傷の痕が残っている少年の顔が映っていた。例えるなら、かの有名なマンガの主人公・ブラック・ジャックのようだった。

 そこは他の部分のように、白くなめらかな肌ではない。やや赤みが目立ち、ところどころ黒ずんでいて、グロテスクさを感じさせた。

(覚悟していたけど……つらい)

 希星は鏡の中の自分を見て、あまりの惨状に言葉を失った。

 傷痕が残る可能性があるとは言われたけれど、残らないかもしれない。もしかしたら、これまでどおりの顔に戻るかもしれない。そんなかすかな希望が、粉々に打ち砕かれた。

 どんな外見になっても、命が助かったのだから良かった、などとは思えなかった。これまで身体に少しの傷も負ったことがない希星からしてみれば、顔にこれほど大きな傷痕を抱えて生きていくのは、死んだほうがましのように思えた。

 希星はそれから、魂が抜けたように生活し始めた。

 相変わらず圭の家で寝泊まりしているが、圭とは必要最低限しか話さない。

 日に日に傷痕は濃くなっていて、顔のほぼ半分は別人の皮膚を取ってつけたようだった。

 学校へ行くと、いつも勉強を教えてくれていた生徒たちが、わっと希星の周りに集まった。

「希星くん、事故に遭ったって……大丈夫?」

「傷口ってもう痛くない?」

「ああ……うん……」

 希星がぼんやりと答えるのに、彼、彼女たちは不安げにざわついた。けれど、希星は少しも気づかなかった。

 こんな顔になっても、彼女たちは話しかけてくれるんだな、と思ったけれど、それ以上は頭にもやがかかったようで、考えられない。

 バーへ行くと、キャストたちが待ち構えていたように希星を取り囲んだ。

「希星ちゃん、大丈夫だったかい?」

「圭があんたのこと毎日心配してるよ」

「うん……」

 誰に何を話しかけられても、希星の態度はぼんやりしていた。

 キッチンでの仕事はなんとかやりきったが、あまりに心ここにあらずな様子に、先輩たちは「もう今日はいいから早く帰れ」と急かした。

 圭の家に帰ると、希星はソファに座ってぼんやりと空中を見つめた。

 今の自分には、何もない。こんな顔では、圭だって「かわいい」とは思うまい。希星は、もう圭の特別ではいられない。美しい顔で見返すだけで何でも許された頃が、今はひどく懐かしく、恋しかった。

「希星」

 呼びかけられて、希星は声の方を向いた。

 圭が、所在なげに立っていた。

「ねえ、よかったら、やってみたいことがあるんだけど。手伝ってくれない?」

 


 圭は希星をドレッサーの前に座らせた。

 ドレッサーは圭のお気に入りの場所だ。鏡のまわりにみっしりと大きな電球がついていて、「女優ミラー」というらしかった。希星からすればただ目がチカチカするだけだが、化粧のノリ具合がよく見えるとかで、圭はここに座るといつも楽しげにしている。

 ドレッサーの周りは化粧品の香りが立ち込めていて、花のような、粉っぽいような、不思議な香りがする。

 希星は久々に、鏡の中の自分を見た。

 退院してから数日経ったはずなのに、ここ数日間自分がどんな顔で学校やバーに行っていたのか、全く思い出せなかった。

 相変わらず変色した肌がそこにはあって、希星の目はどんよりと淀んでいた。口角は下がり、この世の不幸を一身に背負っていると主張しているような顔だった。

 せめて、以前のように髪が長ければ、この醜い肌を隠せたのに、と希星は恐ろしく短く切ってしまった髪を引っ張りながら思う。

 あの時は、圭が男の自分を好きだと言ってくれたのが嬉しくて、つい切ってしまった。こんなことになるなんて、思ってもみなかった。

「ほら、前向いて。ちょっと冷たいわよ」

 圭が化粧水を手のひらに取ると、希星の肌に染み込ませるように顔を包み込んだ。

 たしかに少しひんやりとしたけれど、圭の体温で温まっていたそれは、ちょうど良い温度で希星の肌に染み込んでいく。

 久々に圭の体温を感じた気がした。

 分厚くて硬い手が心地よくて、希星はされるがままになる。

 次に乳液を取ると、圭は優しくマッサージするように指を滑らせていった。

 不幸そうな表情のまま凝り固まっていた顔が、ほぐされていく。傷跡の上を指が滑っていったけれど、痛みもなにもなかった。

 もっと触ってほしい、と自然に思って、希星は身体から力を抜いた。

「目を閉じてて」

 言われるがまま目を閉じると、傷跡の上に、何かが塗られていく。

 柔らかいスポンジのようなもので何度も肌の上をタップされる感覚があった。

 何だろうと思いながらも、希星はされるがままになった。

 何度も何度も傷跡の上をスポンジで往復されて、だんだんと飽きてきた頃、圭はやっと「いいわよ」と言った。

「目を開けてみて」

 たくさんの光に照らされた中にいたのは、事故に遭う前の希星だった。

「ない」

 傷痕が、なかった。

 いや、よく目を凝らせば、ファンデーションを塗っているのが見える。けれど、しっかり見ようとしなければ、分からないほどだった。

「ねえ、希星。傷痕を見るのがつらいなら、また手術を受けるって方法もあるし、もっと手軽な方法なら、こうやってメイクでも隠せるの。だから」

 圭がつっかえながら言う言葉は、ほとんど希星の耳を素通りした。

 まるで魔法のようだ。

 こうすれば、希星はまた以前のように生活できる。

 顔を見るだけで誰もがひれ伏してくれる、そんな生活に。

「あんたにはまた普通に生活してほしいの。普通に笑ったり、怒ったり、そんなあんたが、あたしは見た……」

 希星は衝動的に、ドレッサーの前に置かれていた口紅を奪うようにして取ると、唇に塗りたくった。

 勢いよく口紅を塗ったので、顔の半分くらいが唇に見える。

「はあ!? ちょ、希星!?」

 蹴るように椅子から立ち上がると、整然と並んだ化粧箱の引き出しに手を突っ込んで、掴んだものをやたらめったら、顔に塗りたくった。

 そのたびに、希星の顔が隠れていく。傷痕どころか、どこが目でどこが口なのか、よく分からなくなっていった。

 化粧箱の引き出しを全部開け、手当り次第に塗りたくったものをそこら中にぶちまけると、希星はようやく落ち着いて、席にどさりと座った。

 圭は呆気にとられて、希星を凝視している。

「ふふ、ふふふ」

 あはは、と希星は声を出して笑った。

 久々に、心から笑った。

 希星は隣で呆然と立ちすくんでいる圭に抱きついた。

「ああ、ほんと、馬鹿みたい」

「希星……?」

 元の顔に戻れれば、何もかもがうまくいくような気がしていた。

 これまで描いていた人生設計も、そのとおりに進められて、何の困難もなく生きていけるような。でも、そうじゃない。

 綺麗になった顔を見た瞬間、希星が感じたのは、「どんな顔してたって、俺は俺じゃん。心は、何も、変わんないじゃん」ということだった。

 たしかに元の顔に戻れば、周りは昔のように希星が何も言わずともひれ伏して、何でもやってくれるだろう。

 でも、それは、希星にとってどうでもいい人たちの態度が変わるだけだ。

 顔が変わったって、自分が大切だと感じていた人たちは、変わらずにそばにいてくれた。

 学校で勉強を教えてくれた同級生たち、バーのキャストや先輩たち、そして、圭。

 だったら、戻らなくたっていい、ありのままの自分でいい、と希星は思った。

 口裂け女のようになった顔をあげると、圭が心配そうに希星を見下ろしていた。

「圭、俺のこと、好き? 顔がこんなに変わっても、誰よりかわいいって、言ってくれる?」

 尋ねる希星の顔に、ぽつ、と雫が落ちてくる。

 ぽつ、ぽつ、と続けて落ちてきた、その先を辿ると、希星をまっすぐに見つめる圭の両目があった。

 瞳は涙で潤んでいて、ドレッサーの光をきらきら反射して、きれいだった。

「あたしは、あんたの顔が美人だから好きになったんじゃないよ。あんたが、おバカだけど、素直で、一生懸命な、頑張り屋だから、好きになったんだよ……!!」

 ぎゅう、と思いきり抱き締められて、希星の骨が軋んだ。

 ファンデーションや口紅が圭の服についてしまう、と身体を離そうとしたけれど、圭は許さなかった。

「希星が好きだ。大好きだ。どんな顔になっても、誰がなんと言おうと、あんたは世界で一番かわいいよ。あたしの、一番大事でかわいい……」

 言葉の最後は涙声になって、ほとんど音になっていなかった。

 自分を抱きしめる圭の力の強さに、希星は確かな愛を感じた。

「圭、ごめんね。心配かけて」

「……ううん。あんたは、強いね。あたし、あんたみたいに強くなりたい」

 涙を目にいっぱい溜めて、圭が言う。

 希星は首を傾げた。

「あたしは、メイクすることで、鎧を作ってる。クラージュ・ケイって名前の別人になることでしか、なりたい自分になれない。自分を表現できない。でも、あんたは違う。鎧もつけずに、身体ひとつで、なりたい自分になろうとしてる。ほんとに、すごいよ」

 圭は化粧箱から化粧落としのシートを取り出すと、希星の顔をぐいぐいと拭いていった。

「そうかな。俺、圭の役に立ててるってこと?」

「役に立つなんてもんじゃないよ!あんたは……、あんたは、あたしの目標。あたしも、希星みたいになりたい」

 化粧を落とされると、すっきりした気分になった。もう一度鏡の方を振り向いたけれど、今度はもう落ち込まなかった。

 この傷痕も含めて、希星は希星だ。

 圭の手を取ると、希星は自分の傷痕に導く。そして、圭をじっと見つめた。

「圭、俺のこと、抱ける?」

「はっ?」

 圭が裏返った声を出して、身じろいだ。

 希星は離さないぞという気持ちで、圭の腕を掴み直す。

「世界で一番かわいいって言ったよね」

「い、言ったけど」

「そういう意味では好きじゃないってこと?」

「違う!」

 圭が急に大声を出して、希星は椅子の上でびくりと飛び跳ねる。

 「ごめん」と謝る圭は気まずげだった。

 赤らんだ目は、うろうろと部屋のあちこちを意味なく見回している。

「違うよ、だって、望にあんたを渡したくなかったのは、そういう意味で好きだからで……でもあんたはまだ高校生だし」

「ねえ、圭。俺、もう十八だよ。大人だ。それに、圭にはちゃんと好きって伝えてほしい。言葉だけじゃなくて身体でも」

 もごもごと言い募る圭の顔を見つめて希星がそう言うと、圭は何かに耐えるような表情をして、地団駄を踏んだ。

「──っ! 希星!」

「うわっ」

 圭は希星の首根っこを掴むと、近くにあるベッドに思いきり投げ飛ばした。

 ベッドのスプリングが効いているおかげで、希星はその上で何度かバウンドするだけに留まった。ベッドから転がり落ちそうになってシーツを掴むと、希星の上に影が差した。

 仰向けになっている希星の上に、圭が馬乗りになる。ぐいと顎を左手で掴まれて、顔を圭の方に向けさせられた。

「後で『そんなつもりじゃなかった』って言っても、聞かないからね」

「圭こそ」

 挑発的に希星が笑うと、圭の唇が希星のそれを塞いだ。

「ん、う」

 ちゅ、ちゅ、とかわいらしい音で何度も唇にキスされて、希星は恥ずかしくなる。

 悪さばかりしているので性経験は当然あると思われがちだが、希星は処女で童貞だ。キスさえしたことがない。だから、圭にされるすべてが新鮮で、緊張した。

 圭がするのを真似して、希星も圭の唇をついばんだ。ちゅ、と音を立てると、面白い。

 何度も唇を吸っていると、圭がべろりと希星の唇の表面を舐めた。希星がまた真似をしようと口を開けた途端、圭の分厚い舌がぬるりと腔内に入ってくる。

 びくりと身体を竦めると、圭は目を細めて希星を見つめていた。

 見られている。そう思うと急に恥ずかしくなって、希星は目をつぶった。

 目をつぶると、腔内の舌の動きにやけに敏感になる。希星の舌の裏をくすぐり、頬の内側をなぞり、歯の一粒一粒を確かめるように、舌先が撫でていく。

 舌同士が触れ合う感覚は、不思議だった。むき出しの神経を触り合っているような、ぞわぞわと這い上がるような感覚がある。

 なんだかとてもいやらしいことをしているような気持ちになって、希星はもぞもぞと脚を動かした。

「気持ちいい?」

「へ、んな感じ」

 脚の間に膝を入れられ、ぐいと上に押し上げられる。

 蟻の門渡りのあたりをごりごりと膝で押されると、なんだか下腹部の奥がじんわりと熱い気がした。

「ふうん」

 圭は嬉しそうに鼻で返事をすると、希星のカッターシャツを脱がせて、簡単にベルトを引き抜いてしまう。

 あっという間に裸に剥かれて、希星は慌てて腕で身体を隠した。

「なんで隠すのよ」

「け、圭は服着てるじゃん! 俺だけなんてやだよ」

「それも燃えるじゃない」

 圭はさっきまで躊躇していたのが嘘のようにあっけらかんと言い、身体にぴったりと張りついているTシャツを脱ぎ、下着もろともパンツを引き下ろす。

 同じ男だ。つい男根のサイズを見てしまったが、通常時にも関わらず、圭のものは希星のものより二回りは大きかった。太くて、長い。

 それに、なんだか黒ずんでいて凶悪な色合いだった。希星のものは濃い桃色で、全く違う。

 それがどこに入るのかを想像して、希星は若干青ざめた。

 互いに全裸になると、圭は希星に乗り上げ、改めてキスを求めてくる。

「け、圭……それ、俺に挿入る?」

 追ってくる唇から逃げながら、希星は恐る恐る尋ねた。

「無理しないでいいのよ。素股って分かる? 股の間に突っ込むって方法もあるから、希星が好きな方にしましょ」

「望は? 挿入れた?」

 希星が小声で尋ねると、圭の顔がでれんとだらしなく緩んだ。

「なに、嫉妬してるの。あの子は慣れてたからそりゃ挿入れられたけど」

「じゃあ、挿入れる」

 希星がきっぱり言うと、圭はぶっと吹き出した。

「もう、そんなに敵対心燃やさなくてもいいじゃない。昔のことよ」

「望が知ってるのに、俺が知らないことがあるのが嫌だ」

 希星が圭の首にぎゅうと抱きつくと、圭は優しく抱きしめ返してくれる。

「これからのあたしは全部希星のものだよ。焦ったり、妬いたりしなくても、大丈夫」

 ぽん、ぽん、となだめるように背中を叩かれて、希星は少し恥ずかしくなった。これでは、駄々をこねる子どもだ。

「それにしても、圭、やっぱ筋肉すごいね」

「トレーナーだからね。だらしない身体じゃ説得力ないでしょ」

 希星は身体を離すと、視線を下ろし、胸からへそのあたりまでをじっと見つめた。

 むっちりと膨れた大胸筋と、六つに割れた腹筋、外腹斜筋は小さな筋肉一つ一つが盛り上がっている。

 つい先日、この身体を妄想し、花芯を腫らしたことを思い出して、ふと恥ずかしくなる。

 つう、と五本の指先で筋肉を辿ると、圭の身体がかすかに震えた。

「くすぐったい?」

「うん。希星も触ってあげようか」

 圭の大きな手が、希星の薄い身体を撫でていく。

 希星の身体は圭と違って薄くて真っ平らだ。淡い桃色をした乳輪を、圭は珍しそうにそっと触る。

「んっ」

「希星ってほんと、色素薄いわよね。あたしの色と全然違うわ」

 柔らかいそこを円を描くように撫でられて、希星の腰がくねった。

 一回り、二回り、と何度も触られるうちに、乳首がどんどん硬くしこっていく気がする。

「痛かったり、嫌だったら言うのよ」

 そう言うなり、圭はぷっくりと勃ち上がった乳首を、ぱくりと口の中に入れてしまう。

「ひゃっ」

 乳輪ごと口に含まれ、膨らんだ乳首が歯の間でやさしく噛まれた。

 甘噛みしては舌でゆったり舐め回し……と何度も繰り返されて、希星の片方の乳首はひりひりと痛いくらい敏感になってしまう。

 もう片方は、乳輪をゆったりと撫で続けられていて、じれったい。乳首を触ってほしい、もっと強い刺激がほしい、と、つい腰を圭に擦りつけてしまう。

 花芯はすでに反り返っていて、先端からは涎を零していた。

 圭の逞しい腹筋に先端を擦りつけると、痺れるような強い快感があって、希星はおずおずと何度もピストンしてしまう。

「はぁっ……はぁっ……」

「こら、希星」

 いつの間にか圭が乳首から舌を離していた。

 希星はぼうっとした頭で圭を見つめる。

「勝手に人の腹筋でオナニーしないでよね。寂しいでしょ」

「っあ!」

 花芯をそっと右手で握り込まれて、希星はのけぞった。圭の大きな手の中では、希星の花芯はまるで子どものそれのように小さく見える。

 乳首を再度口に含まれると、花芯に、淡く電撃が走ったような気がした。ぴゅくりと先端から先走りが溢れ出て、圭の手を汚す。

 恥ずかしくて身体のどこもかしこもが熱いのに、圭になら全部見られてもいい、とぼんやりとした頭で思った。

 何度か花芯の幹を上下に擦られると、もう我慢できなかった。

「あっ、あっ……!!」

 びゅ、と白濁が勢いよく噴き出る。

 胸のあたりまでそれは飛んで、圭の頬を少し汚した。

「あ、圭……ごめ……」

 希星が圭の頬の白濁を拭い取ろうと手近にあった服を掴むと、圭は素知らぬ顔をしてそれを指で拭い、舐めた。

「圭!」

「なによ、かわいい恋人のものなんだからいいじゃない」

 希星は真っ赤になったけれど、圭はどこか嬉しそうだった。

「ほら、これで終わりじゃないわよ。挿入れるんでしょ?」

 圭はベッドサイドのチェストの引き出しを開けると、中からローションらしきものを取り出した。びゅる、と右手にそれをたっぷり絞り出す。

「それ、いつからあったの」

「希星のこと好きかも、って思い始めた頃から」

 嫉妬混じりに尋ねると、照れたような答えが返ってきて、希星は目を見開いた。

 身体を起こして、それっていつ、と尋ねようとすると、圭は強引に希星の脚を開かせた。

「わ、わ」

「ちゃんと慣らさないと切れちゃうからね。じっくり解すよ」

 腰の下にクッションを入れられ、圭の眼前に自分の恥ずかしいところを全部さらすような体勢になった。

 両膝裏を手で支えておくように言われ、希星は思わず圭に不満を漏らしてしまう。

「ほ、他の体勢でできないの、これ」

 けれど、返ってきたのは恐ろしい返事だけだった。

「この程度で何恥ずかしがってんのよ。もっと恥ずかしいことすんのに」

 もっと恥ずかしいことってなに、と聞き返そうと思ったのに、圭のぬるついた指が後孔にずるりと挿入されると、もう何も言えなかった。

 圭はマッサージするように希星の後孔の周りを押したり揉んだりしている。先ほど膝で押し上げられた蟻の門渡りまで指を滑らされると、ぞわぞわとした快感がせり上がってきた。

 そのうち、ローションが体温ほどに温まってきて、余計気持ちよさが増してくる。

 後孔にはもう圭の指が二本、三本と挿入されていたが、花芯をいたずらに揉んでみたり、小さな袋を優しく撫でたりと圭があちこちに快感の花を咲かせてくれていたおかげで、異物感はさほど感じずに済んだ。

 それに異物感よりも、何か快感の芽生えのようなものが腹の奥にくすぶっているのが気になった。

「ん、んう……」

「希星の前立腺はどこかしら」

 前立腺、というところをいじられると、男はどうしても気持ちよくなってしまう……というのは、バーのキャストから聞いた話だった。その時は自分には一生関係ない話だと右から左に聞き流していたけれど、まさか実際に体験する日が来ようとは。

 圭の太い指が、何度も希星の腹側の肉壁をじっくりと押していく。

 検査するようになぞられているうちに、希星はある箇所に触れられた途端、びくんと身体を激しく震えさせた。

「な、なに……」

 希星自身も、予期しなかった衝撃だった。

 その箇所を圭が触れた途端、まるで脊髄に電流を流されたように、身体に快感が走ったのだ。

「ふうん、希星のいいとこは、ここだ?」

 圭は嬉しそうに言うなり、希星が反応したところを、ゆっくりと円を書くようになぞった。

「あ、ああ…! 圭! だめっ……!」

「大丈夫、気持ちいいだけよ」

 圭は希星の肉壁を何度もなぞり、時折気まぐれに押し込んだ。

 押し込まれた肉壁から熱い奔流が全身に広がり、身体じゅうの敏感なところでばちばちと火花を散らしているようだった。

 乳首も、花芯も、痛いくらいに熱くて、張り詰めているのを感じる。

 怖がらないで、と顔じゅうにキスを落とされて、希星は自分がいつの間にか泣いていたことを知る。

「怖い? 痛い?」

 圭に気遣うように聞かれて、希星は首を横に振った。

 怖くも痛くもない。ただ、未知の快感に驚いているだけだ。

「怖くない……圭、圭が気持ちよくないのが嫌だ」

 希星の花芯はいつの間にかまた弾けていた。

 少しの白濁が腹を汚していて、希星は恥ずかしくなる。自分ばかりが気持ちいいのは、嫌だった。

 ぷくりと頬を膨らませると、圭が困ったように笑った。

「あたしはあんたが気持ちよさそうなのを見てるだけで十分楽しいけどね」

「やだ! 圭の、ちゃんと挿入れたい」

 圭の男根を見ると、そこは腹につくほどに反り返っている。きっと圭もイきたいはずだ。

 希星がそっと圭の男根の先端に触れると、圭はびくりと身体を震わせて、腰を引いた。

「なんで触らせてくれないの」

 希星が上目遣いで文句を言うと、圭が恥ずかしそうにそっぽを向いた。

「だって、出すなら希星の中がいいもん」

 きゅん、と希星の胸の奥がときめいた。わがままを言う圭はとてもレアで、希星は心のカメラで圭の横顔を撮影しておいた。

「もう、中、挿入れられる?」

 希星が両ひざ裏に手をかけ、ぐいと脚を広げると、圭は赤くなった。

「希星はいざとなると男前よね」

 後孔に指を挿入れられ、軽く開かれる。空気がすうすうと入る感じはしたけれど、痛みはなかった。

「じゃあ挿入れるわよ。怖かったり、痛かったりしたら、ちゃんと言ってね」

 圭は何度もそう確認すると、希星の陰部に逞しいそれを擦りつけた。

「息吐いて」

 そう言われて、ふうと息を吐いた瞬間、ぐぬり、と希星の後孔に圭の男根の先端がめり込んだ。

「腹の底を意識して、いきんでみて」

 ぐ、と腹に力を入れると、なぜか後孔が楽になった感覚があった。

 するとその間を埋めるように、圭の男根がみちみちと挿入ってくる。

「はあ、はあ……」

「希星、痛くない? もう少しで先が全部挿入るからね」

 汗で張り付いた前髪を、左手でかきあげられる。

 おでこにそのままキスされて、希星はこわばった身体から力が抜けるのを感じた。

 ふっ、と再度いきんだ瞬間、圭の切っ先がずぷりと希星の肉壁に包まれた。

「挿入った……」

「頑張ったね、希星」

 ちゅう、とおでこに、頬に、唇にキスされて、希星は嬉しくなる。

 圭と、やっと、一つになれた。

 ごつん、と前立腺を亀頭で叩かれて、希星の歓喜に緩んだ身体が震える。

「あ、あ……」

「奥まで挿入れる、わ、よ……!」

 じゅぱじゅぱと男根をしゃぶるように動く肉壁に逆らうように、圭は希星の中に刀身を押し込んでいく。

 男根の幹全体で肉壁を圧迫されて、希星はただただ喘ぐことしかできない。気持ちいい、気持ちよすぎる。

「けい、けいっ」

 もっと奥まで抉ってほしくて尻を揺らすと、圭が額に汗を滲ませながらにやりと希星を見た。

「えっち」

 圭の瞳に獣めいた光が宿っていた。

 まるで、初めて会った時のように。

 ずん、と肉壁の最奥まで男根に貫かれて、希星はびん、と身体を反らす。

「あ──っ……!」

 最奥の壁を亀頭でごつん、ごつんと突かれると、その度に身体の最奥にある快楽という泉から水が溢れ出す気がした。

「希星、希星……大好きだよ、愛してる……」

「あああ……けい、好き、好きっ……!」

 希星の瞳から、自然と涙が溢れた。

 幸せで、嬉しくて、身体の細胞一つ一つが弾んでいるように感じる。

 ばちゅん、ばちゅん、と肉同士が何度も擦れ合う音がして、そして、じわりと腹の奥が熱くなった。それと同時に希星の花芯も、少しの精液を吐き出す。

(圭と一緒に、イけた)

 希星は満ち溢れる幸福感とともに圭に口づけようとして、そのまま視界が暗くなっていくのを感じた。



 目を覚ますと、希星は圭に抱きかかえられるようにしてベッドに寝ていた。

 希星愛用のパジャマがきっちり着せられていて、圭の几帳面さに感謝しつつも思わず赤面する。

 昨日、希星は圭と最奥まで繋がったのだ。心だけではなく、身体も。

 圭の太い腕を身体の上からどけると、ベッドから降りる。

 思いきってカーテンを全開にし、窓も一緒に開けた。家の前に植えられた桜の木が、風に吹かれて花びらを落としている。

「希星、起きたの」

「うん」

 光が眩しいようで、圭は目を何度も擦っている。

 希星は少しだけ圭に振り向いた後、桜の木を見上げた。白っぽい朝日が桜の間から差し込む。

「圭と初めて会った時も、桜が散ってたね」

「そうだったわね」

 後ろからそっと圭に抱き込まれて、希星は感慨深くなる。

「やりたいことも、なりたいものも、これからは見つけられそう」

「私も」

 ちゅう、と頬を吸われて、希星は圭の顔を見ると、自分から圭の唇を吸った。

 口づけ合う二人の頭上から、桜の花びらが静かにはらはらと舞っていた。

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不良美少年はドラァグクイーンに恋をする @hanafusa_k

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