コールド・スプリング

紫陽_凛

「人類は欠損した」

 春が来れば鶯が鳴いていたのはずいぶん昔の話になる。そもそも人類以外の自然動物が保護の甲斐なく絶滅して久しい。戦争が積み重ねられた果てにあっても、人類の最も大きな敗北は、環境保全の失敗であろうと科学者たちは告げる。

 自然の恵みを受け取ることのなくなった私たちが最初に失ったのは音だった。自然の発する音。海や風のさざめき。全てが脳に埋め込まれたAIチップ「nanoPEACE」に置換されて十年余り。かの有名な女史、Rレイチェル・カーソンが予言した未来ほど豊かではないことは確かだ。「沈黙の春」。沈黙は私たちの生活の全てを覆った。99,99パーセントの人間が、このnPを使用していると言われている。生まれた赤子も死にゆく老人も、このnPのゆりかごに抱かれている。


 物品と物品のぶつかる音、あるいは人の発するべき会話、あらゆる情報、緊急の災害予報などなど――今までは音声となって伝達されてきたことごとは全てゼロとイチに変換された文字の羅列となって、nPのアンテナから脳の言語野に伝達され、脳内で字となって再生される。私たちは感覚の一つを道具に置き換えることを選択し、それに成功した。


 そも、人類が聴覚野を捨てるに至った主な背景のひとつとして、nPを手掛けるナノカンパニーnanoが大規模なAI活用キャンペーンを行ったこともある。もともと彼らの予定に「聴覚野を捨てる」という文字はなく、生活における合理的選択に快適さとスピードを求めるための「nano」があり、その受容と需要にこたえていった結果、今があると言える。だから、誰も予期していなかった未来の先に、私たちがいる。

 地震速報も瞬時に流れる。

 脳内音楽は頭蓋まで震わすフルメタルから、安眠をうながすレトロクラシックまでさまざま選択できる。

 車などの危険物が接近したときはアラートが鳴って、注意を促してくれる。

 nPは私たちのアンテナだ。「nano」は静かな未来を作った。


 確実なことは一つ、パパはナノカンパニーで働く部長マネジャーで、私はnPの被験者の一人だった。オールドモデルから最新のクリアモデルまで全部体験したことがある。私はそのことを誇りに思っていた。クラスの皆より早く先生プロフェッサーの発話に対応できたし、誰よりも速く地震を予知できた。百年前の大地震を覚えている人はそんなにいないのだけど、nPのカレンダーリマインドには様々なログが残っていて、2011年のことや2024年が始まったばかりの頃のことなどがずらりと並んでいる。だから、忘れたことなどない。


 ――これは前置きに過ぎない、未来の私よ。小難しい事ばかり書いて、あるいはそんな当然なこと並べて、昔の私ってばどうしたの? と思うかもしれない。でも、書いておきたかった。

 四月一日。今日はパパの誕生日だった――


 誕生日にケーキを頬張る文化が生まれたのはいつのころだったか、私は知らないのだけど、ママはその日も誕生日ケーキをこしらえて、たっぷりのチョコクリームをスポンジケーキに塗りたくり、イチゴを乗せて飾り付けをしていた。四月一日。パパはエイプリルフールを嫌っていたから、我が家ではエイプリルフールの代わりに、彼のための盛大な誕生祭を開くことになっている。ママが歌っている歌はまったく聞こえない。ママは頑なにみずからにnPの導入を拒んだ一人であり、私の被験者としての合意書を何度も破り捨てた人だった。だけど、今はこうして「分かってくれている」。

 私は唇の動きから、それがはるか昔に歌われた松任谷由実ゆーみんの曲だってことを知る。


 春はそう遠くないことを私の嗅覚は感じ取っていた。人工授粉に勤しむために花木自然庁の役員がせせこましく働くのを見ていたし、そろそろ桜の開花は近いとnPが告げている。天気予報と気温の変化を照らすと十日あたりがお花見によいでしょう。


〈ママ〉

 私は手話を使って尋ねる。私の耳はもはや、ピアスを飾り付けるためだけの道具にすぎないからだ。

〈今年は頑張ってるね〉

 ママは応える。チョコレートクリームのついた手で。

〈だって、パパと結婚して、二十年の節目よ、ノリコ〉

 

 彼女は極めつけのチョコレート板に、マイディア、と書き添えた。昔からパティシエを志していた彼女にとって、こんなことは朝飯前だった。ケーキが出来上がると、ママはそれを冷蔵庫に仕舞い込む。

 そして用意しておいた、培養肉のステーキと、養殖の魚のソテーを並べる。野菜だけが天然もの、とママはつぶやいた。

〈主食に主食をならべてどうするの〉

〈いいじゃない、春が来るんだから〉

〈今日の主役はまだ来ないけど?〉


 nPによるとパパの帰宅予定は午後七時ころになっている。私はテーブルに頬杖を突き、ママが歌っていた松任谷由美の「春よ、来い」をリクエストした。ママの懐古主義は、よくわからない。わからないけど、私はママを愛していた。時刻は午後六時半を回っていた。


――ここから先は、本当のことだ。nano社のアーカイブには残らないことばかりだ。覚えていて。未来の私よ、このアナログな手記を見付けるたびに思い出して。



 松任谷由美の歌声が途切れる直前、がくんと地面が揺れた。冷蔵庫が派手な音を立てて倒れた。食器棚も倒れた。

 nano社の地震予測は何も言わなかったのに! 私は何度も繰り返した避難訓練の通りにテーブルの下に隠れた。警告音は私の頭の中を満たしていた。nanoシステムが「非常に危険」の警告音を発していた。beep!beep!

 何が起こっているか全くわからない。上に下に揺さぶられるような、突き上げられるような揺れの中で、あちこちがきしみ歪むのが分かる。nPは力強い信号を送り続けている。高台へ! 高台へ!

 私はおさまらない揺れの中でママを探した。ママ。ママ。

 だけどいない。見当たらない。冷蔵庫も食器棚も倒れている。nPを搭載していないママにアンテナを使っても意味ない。私は揺れの中机の下から這い出て、キッチンへ這うように進んだ。そして。

 そして私の手元に―― 血が。食器棚と冷蔵庫の下から、チョコクリームと鉄の匂いがした。


 ねえこれ、エイプリルフール? そうでしょ?


『パパ! パパ! 早く帰ってきて!』

 私はエマージェンシーモードを起動する。nano社にいるであろうパパに全力で問い合わせる。私だけの力で、この揺れの中、食器棚と冷蔵庫を起こすことは難しい。

『パパ! ママが大変! 助けて! 助けて!』

『……りだ! 不可能だ! 問い合わせが殺到してい……』

『パパ! ママから血が出てる!』

『……、帰れない!』


 アンテナ通信が乱暴に打ち切られる。

――この時のパパの選択を、私は今でも恨んでいる。

 

 私はエマージェンシーモードを続行した。救急に迅速に繋ぐ。だけど、救急車は出払っていて、しばらくかかりそうだと言われる。私は「叫ぶ」。私にできることは、そうして、周りの誰かのアンテナに引っかかるように、大きな信号を発し続けることだけだった。だけど、皆nPの導くがまま、高台に避難してしまっていて、ママを棚の下から助け出すことができたのは、込み合っていた救急車がようやく回ってきたとき、地震発生から二時間後だった。


――ママはしばらくして死んでしまった。胸やお腹に刺さったガラスや陶器のかけらが、ママに悪さをしたからだった。パパが泣くのを私は許さなかった。そして、私が泣くのを、私自身も許さなかった。


 火葬の時、本来なら取り出すべきnanoPEACEがないことを葬儀場の人たちはいぶかしんだ。だけど、私たちは全てを分かっていたから、黙って首を横に振った。


『泣いたら許さない』

 プライベート対話で吐かれた怨嗟を、パパはうつむいたまま聞いていた。私だって馬鹿じゃないから分かっている。パパは仕事とママを天秤に掛けなければならなかっただけで、ママを選ばなかっただけだった。でも私にはそれで十分だった。


 未来の私へ。これを読むたびに思い出して。

 人類は何かを得たけど、何かを欠損してしまったんだと思う。

 だから私は、ハイスクール後の進路をもう決めたよ――



 ぼろぼろの古いノートを繰り広げて、ケーキを頬張る。ママが作っていたチョコレートケーキは豪奢だったけど、これは市販のケーキだから少し見た目は劣る。味を比べることはできない。ついぞ口にすることができなかったあの日のチョコケーキ。

 あれ以来、毎年の四月一日はチョコケーキを食べると決めている。パパの誕生日だからじゃない。甘くてほろ苦いチョコの風味が鼻から抜けていく。

 沈黙はいまだ、私の耳を支配している。

 nano社に入社した私のnPには今日も企画会議の予定が入っている。私の仕事は、部長パパに提出するための企画書を作る企画研究部の長だ。

 

 人類に聴覚を取り戻すために。


 今年も、音もなく桜が舞い落ちる。






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