第十二話 深呼吸

 昨日は雨だった。一昨日も雨だったし、その前も降ってたっけな。

 

 いつものように庭で準備運動を済ませると、俺は自宅から裏山へと入っていく。

 

 今思えば、晴れるのなんて何時ぶりだろう。そのせいか、ふうの葉がやけにキラキラと輝いて見えた。

 

 二十分ほど足を進めると、丁度俺と彩音が最初に襲われたあたりに辿り着く。


 早いもので、あの時イロハさんに助けてもらってから、今日で丁度三週間が経つ。

 

 彼女の教えをしっかり守って、今日まで自分なりに色々と頑張ってきたつもりだけど、結局のところイロハさんが教えてくれるのは、魔術に関しての基礎的な知識と、日々の体力づくりに欠かせない効率的な運動方法くらいだ。

 

 ――焦りは禁物。何を学ぶにしても、まずは地盤から。ね?

 

 彼女は何時もそう言って、俺のはやる気持ちを落ち着かせる。

 

 そういえば、イロハさんが俺に敬語を使わなくなったのっていつ頃からだったろうか。

 

 最初は、「師弟間でお互いに敬語はさすがに気持ち悪いから」って俺から言い始めた事なんだけど、彼女は相当にやりにくそうで、ちょっとだけ悪いことしたかなって後悔してたりする。

 

 一体、未来の世界で俺とイロハさんはどういう間柄だったんだろうか……。


 たとえば、職場の先輩と後輩とか? あるいは同じギルドに所属してたーとか。

 

 軽く妄想を膨らませているうちに、自宅から歩いて一時間程でようやく山頂へ辿り着いた。

 

「おはようございまーす」


「あ、おはよ。今日は早いね」


 広場に横倒しになっている大きな丸太へ腰掛けていたイロハさんは、俺を見つけるとむくりと立ち上がり、ケータイを開いて時刻を確認しながら言った。

 

「ずっとこんな感じですけど、その……走って登ったりしたほうが体力つくんじゃ?」


「ダメだよ? あなたの年で坂道を走って登るのは膝を壊しかねないし、何より、有酸素運動が一番効くんだから」


 イロハさんはそう言いながらもう一度丸太へゆっくりと座ると、彼女の右側の空いたスペースを指先でトントンと叩き、俺にそこへ座るようにと促した。

 

 腰掛けると、彼女は顔の前で奇妙に指先を滑らせた後、何時もの呪文を唱えて何かの魔法陣を起動させた。

 

「――我、魂の罪を量りし者なり」


「いっつも気になってるんですけど、それって何の呪文なんですか?」


 俺の問いかけに、碧眼を空へ向けて少しだけ考えを巡らせるような素振そぶりの後で彼女は答えた。

 

「これは、ちょっとだけ特別な魔法、というか、魔法を使うための下準備みたいな物でね。魔術には、血筋とか、資格みたいな物を持ってないと扱えない物があって、さっき私が唱えたのは、それを(アーキ)に提示するための公文なの」


 要するに難しいことをやってる。っていう事だけは理解できた。

 

「アーキって、確か魔術を使うために呼吸で吸い込む粒子……ですよね? 粒子に提示って、一体アーキって具体的に何なんですか?」


「……んー、ちょっと難しい質問かなぁ」


 彼女は目の前の何も無い空間に指先で軽く振動を与え、空気中に魔術の教科書の一ページを投影させた。

 

「この前教えた通り、アーキ粒子は万物を作り上げるみなもとみたいな物で、本当はもっと長くて難しい名前が付いてるんだけど……」


「マジェスティック・アーキテクチャ、でしたっけ」


 俺の回答に、イロハさんは嬉しそうに指で円を作りながらニッコリと笑った。

 

「まぁそんなの覚えなくたって大丈夫。複雑な単語ばっかり出てくると内容が頭に入らないし、簡潔に、どういうものか把握してればそれで大丈夫だよ」


「……助かります」


 別に勉強は苦手じゃないけど、なんせ――この十数年の間――魔術は自分には関係のない物だと思って生きてきたせいで、魔法に関しての知識が同年代の何倍も遅れてしまっていた。

 

 こうやって、イロハさんがうちに来てからは、日中は裏山で彼女と修行に励み、風呂と晩飯を済ませてからは教科書とにらめっこしながら、魔術に関しての小難しい勉強を教わっている。

 

 お陰で、この世界を創り上げている魔術という学問に関しては随分と見聞が深まった。けど……。

 

「今、また焦ってるでしょ?」


 大きな瞳に覗き込まれて俺は我に返った。

 

「……すみません。でも、本当にこんなんで大丈夫なのかなって」


 多分、不安が顔にまで出てたんだと思う。それを見兼ねたのか、イロハさんは俺の頭を優しく撫でてくれた。

 

「大丈夫だよ。あなた自身が思ってる以上に、あなたはゆっくり着実に前に進んでる」


 彼女は言い終わると、ケータイでもう一度タイマーをセットしながら続けた。

 

「さっ、いつもの瞑想やるよ? 今が朝の九時過ぎだから、丁度六時間後の午後三時までね」


 すると、ピッという音を立てて画面の数字が切り替わり始める。


 これも毎日やってることだ。ただ丸太に座り、目を閉じて静かに自分を清める。

 

 最初は、ただじっとしているのがこんなにも辛いのかと弱音を吐いていたけど、慣れてしまえばそう難しくはなかった。

 

 ただ自然の音に耳を傾けて、呼吸を身体全体に巡らせるように、深く、清らかに……。

 

 ……――。

 

「はい、おーしまいっ」


 通る声に促されて目を開くと、天高く昇っていた太陽はもう傾き始めていた

 

「あれ、もしかして時間オーバーしてました……?」


「うん、今丁度五時くらいかな? 声かけても全然気付いてくれないから、ちょっとの間そのまま眺めてたんだけど、さすがに暗くなると危ないしね……」


 最近はいつもこんな調子だ。瞑想を始めた辺りからの記憶が全く無くて、気付けば時間だけがすっ飛んだように過ぎている。

 

 集中できている証拠だってイロハさんは言うけど、俺はこの三週間、ほとんどこの瞑想修行しかやっていない。

 

 剣の一つも握らずに、本当にこんなんでオブザーバーと戦えるんだろうか……。

 

「ほら、まーたそんな顔する」


「……」


 イロハさんは本当に色んな事を俺に教えてくれる。多分、俺一人では一生かかったってこんな知識は付けられなかっただろう。感謝してもしきれない。

 

 でも、俺は毎日のように考えてしまう。次に何時オブザーバーが襲ってくるのかとか、ある日突然、彩音の体調が急変したらどうしよう……とか。

 

 すると、初めて助けてもらったあの日のように、彼女は俺をギュッと抱きしめてくれた。

 

「イロハ……さん?」


「不安で当然だよね。ごめんね……」


 背中をさすられる度に、少しずつ脈拍が正常に戻っていくのを感じた。

 

「蘭くん、一度しか言わないので、今から私が言う事を良く聞いて下さい」


 彼女は珍しく改まって、一つ深く深呼吸をしてから話し始めた。

 

「貴方に修行を付けるようになってから、今日で三週間になります。最初、私はお二人の余命があと一ヶ月だって言いました。つまるところ、これから一週間の内に、必ず奴はお二人を襲うでしょう」


 心臓が押し潰されそうになりながら、俺はそれを紛らわすためにイロハさんの袖をギュッと握りしめる。

 

「貴方と彩音さんは、何があっても必ず私が守ります。ただ、そのために、私は少々強硬手段に出るかもしれません」


「強硬手段……?」


 彼女は俺から離れると、柔らかな笑顔を向けながら更に続けた。

 

「もしかすると、貴方にも、大変な思いをさせるかもしれない。でも、私は最後までずっと……ずっと貴方の味方です。私の事、信じて任せてもらえますか?」


 ――忘れないデ。何があっテモ、私もイロハモ、ズット貴方ノコトヲ……。

 

 何時かの言葉を思い出した。

 

 最初は、疑った事だってあった。あの黒くおぞましい生物と彼女は繋がってるんじゃないかって。

 

 いきなり未来から来たなんて言われても、すぐにはなかなか飲み込めないし、疑心暗鬼に悩まされていた事もあったけど……。

 

 彼女と一緒に過ごしたお陰で、そんな考えもどこかへ置いてきてしまっていた。

 

 イロハさんは常に冷静で、俺の事も、彩音の事も考えてくれている。今では、こんな人に疑いの目を向けてしまった自分が恥ずかしいくらいだ。

 

「もう、決めましたから。貴方を信じるって」


 彼女に向けて言うと、青い瞳をホロッと揺らしながら、「ありがとう」と一言だけ静かに呟いた。

 

 

 その夜、俺は奇妙な夢を見た。

 

 何も無い真っ白の部屋に、一人だけポツンと彩音が座っている。しかし、情景はすぐにボロボロと崩れ去って、途端に黒一色の空間にソレは現れた。

 

「イヒ……イヒヒ……」


 オブザーバーは此方を見て不敵に笑みを浮かべ続ける。

 

 俺は何も話せない。声を発しようとしても、喉に全く力が入らなかった。

 

 すると、オブザーバーは左手に大振りの布のような物を持って、此方へよく見えるように差し出して言った。

 

「コレ……ナーンダ?……イヒ……イヒヒヒヒ!」


 

 慌てて飛び起きた。辺りを見回し、奴が居ない事をまず確認する。

 

 どうやら本当に夢だったらしい。だけど、あの布は間違いなくイロハさんの……。

 

 俺は真意を確かめるため、すぐに着替えて居間へ駆け降りると、イロハさんが使っている一階の和室の襖をノックした。

 

「朝早くにごめんなさい。イロハさん、起きてますか?」


 少し待ってみても、彼女から返事は返ってこない。

 

 ――嫌な予感がする……。


 俺は丸い取っ手に手をかけると、神様に祈るようにして襖を開け放った。すると――。

 

「……へっ?」


 視界に入ってきたのは簡素な部屋だった。布団と衣服が綺麗に畳まれて並べられ、置かれていたイロハさんの荷物も何一つ無くなっている。

 

 よく見ると、畳まれた布団の上に、一通の手紙が置かれていた。

 

 急いで中身を確認したが、ただ一枚だけ入れられていた便箋の中央に、(エックス)と一文字だけ書かれている。

 

「なんだよ……これ」

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