第九話 蜃気楼

 俺達はそのままの勢いで学校前の繁華街を走り抜け、人通りの少ない路地へ入った所で追手が来ていないことを確認した。

 

「さ、さすがにココまではおへんやろ……」

 

 澪がもたれかかった壁へ向けて吐息混じりに捨て台詞を吐いた。

 

 走り疲れた俺達は、お互い息も絶え絶えに建物の壁を背にして並んで座り込むと、そこには脇道に生えたふうの木のおかげで丁度いい木陰が出来ていた。

 

「ほんまあの生徒指導嫌い。今朝もさ? 剣道部の練習終わって教室で待機しとこー思ったら、『三島、おまえ髪の毛明るすぎへんか?』とか言い始めて。『は? 地毛じゃ!』 って言い返したんやけど、全く信じてくれへんし。はーほんま……」


 澪は悪態をきながら後頭部で束ねた茶髪を一旦ほどくと、口にヘアゴムをくわえながら手ぐしで簡単に髪を整え、同じようにもう一度後ろで髪を結い直した。

 

「まあまあ、あの人はあれが仕事だからな」


 むくれ顔の澪は一つ深呼吸をし、一度立ち上がって俺のすぐ隣へ座り直すと再び口を開いた。

 

「蘭くん、道場戻って来おへん……? そしたらあんなチンピラも絡んで来おへんなるやろし……。それに、爺ちゃんも生徒さんもみんな心配してるんよ……?」


 此方に目を向けて眉をひそめる澪に、俺は黙ったまま何も返さない。

 

 六歳の頃から通っていた道場を辞めてもう一年ほどが経つ。今更戻るつもりもないし、イジメで植え付けられたトラウマが原因で、今では竹刀しないを握るだけでも手が震え始める。

 

 自分で言うのもなんだけど、剣の腕だけは親譲り――血の繋がりはないけど――で。練習すればするほど何でも身についたし、の大人が相手でも負けることは無かった。

 

 でも……。

 

「澪、三島流の理念、言えるか?」


「え……? えっと……」


 一度咳払いをし、記憶の中に手を突っ込むように澪はゆっくりと文字を選び始めた。

 

「剣はおのれの力にあらず。技は己の強さにあらず。剣こそが己の心であり、技こそが己の歩みである。心を清く保つ事こそ、己の強さを磨く事なり」


「そう。道場は『喧嘩で強くなりたいから』みたいなよこしまな気持ちで通う場所じゃない。そんな事してたら、結局さっきのチンピラどもとやってることは同じだ」


 俺は釈然としない表情を浮かべる澪の頭を撫でながら続けた。

 

「まあそうは言っても、さっきはほんと助かった。ありがとな」


「……! どういたしまして……」


 顔を赤らめ、その場で丸くなって目線を逸らす澪へ向け、俺は付け加えるように言う。


「ただ、その……。せっかく学校でもまあまあ噂になるくらい可愛いんだから、もうちょっと女の子らしく……。な?」


「……別にあんなロクでなしどもにモテたいとか思わんし。それに、ウチなんかより彩音のほうが数倍可愛いし」


 澪は遠くを見つめるように続けた。

 

「ほんま、おばちゃんによお似て美人さんなって……」


 俺は母親の顔を頭で浮かべながら、確かに最近似てきたなと納得する。

 

「あっ、ごめん、つい……」


 俺に謝る澪の気遣いに、表には出さないけどちょっとだけ救われた。

 

 別に両親のことを引きずってる訳じゃないけど、人並みに寂しいし、人並みに悲しくなることだって有る。そんな時、幼馴染のこいつらにはこうやっていつも助けられてばっかりだった。

 

 今では彩音と二人きりだけど、澪も汀も、俺にとっては家族みたいに大事な存在だ。

 

「そういえば、クソ兄貴から軽く事情聞いてんけど、彩音……大丈夫なん?」


 予想はしてたけど、やっぱり澪にも話は回っていたらしい。

 

 昨日、手術室の前で待っている最中に、汀にはメッセージで一部始終を伝えておいた。

 

 もちろんイロハさんの事は黙ったままだけど、今の状況をある程度理解してくれている。

 

「手術は無事に成功したし、容態も安定してるって先生も言ってた。でも、意識がまだ戻ってなくて……」


 俺は澪を安心させようとして言ったつもりだったんだけど、それを聞いた澪は顔を真っ青にして「ウチのせいや……」と小声で呟くと、今にも泣き出しそうな顔で話し始めた。

 

「昨日、彩音から『相談したいことがある』ってメッセ飛んできとって、でもウチ、道場の練習中で全然ケータイ見てへんくて、着信も二回くらい入っててんけど、ウチ……」


 相談……? 彩音が何か悩みを抱えていたなんて初耳だ。というか、実のところ、俺は最近妹と全然話せていない。

 

 彩音が中学に上がった頃からだったか、彼女は妙に俺を避けるようになっていった。

 

 まあそりゃ当然だろ? 学校では毎日のようにイジメを受け、晒し者にされてる兄貴に対して、妹は運動も、魔術も、勉強だって、他人の何倍も出来たんだ。

 

 そう。俺達兄妹は、同じ屋根の下で生活さえしていたものの、住む世界が明らかに違っていた。

 

 嫌われてるって、鬱陶うっとう しいんだろうなって分かってたけど、それでも彩音に対して、俺なんかに出来ることがもしあるなら力になってやりたいって、ずっと思ってた。だから今だってこうやって……。

 

「澪のせいなんかじゃないよ。悪いのは、あいつに何にもしてやれてなかった俺のせいだ」


 おもむろに口をついて出た俺の言葉に、ピクリと反応して澪が涙ぐみながら意外そうに此方を見て口を開いた。

 

「そ、そんなことあらへん……! だって、彩音はいっつもウチに……あっ……」


 咄嗟に口を押さえて澪は言葉を切り、バツが悪そうに俺から目を逸らしながらも、その後更に表情を変えて真面目な面持ちで此方へ向き直る。

 

「蘭くん、今から私がする話、彩音には内緒にしてくれる……?」


 あまりにも意を決したような表情に、俺は息を飲みながら黙って首を立てに振ると、澪は胸に手を当ててゆっくり深呼吸をし、その重苦しそうな口を開いた。

 

「あの子、蘭くんがイジメられてるの見る度に、『全部私のせいだ』って……。『私が何でも出来ちゃうのは、兄ちゃんから全部私が奪っちゃったからだ』って、めっちゃ自分責めてて……。ウチ、そんなことないよってずっと言うてたんやけど……。最近になって、彩音が『私なんて、産まれてこなきゃよかった』とか言い始めて」


 大きな瞳から涙をボロボロこぼしながら澪は更に続けた。

 

「彩音、ずっと蘭くんの事、助けてあげたいって言うてたんよ? でも、『兄ちゃんは私のこと、嫌いだろうから』って。『大好きな兄ちゃんに、鬱陶しいって思われるのが怖い』って、ずっと震えながら泣いてて……」


 ――俺、マジで兄貴失格だ。

 

 周囲の情景がゆっくりと遠くなっていくのを感じた。頭の中がぐちゃぐちゃで、次第に澪と俺の距離さえ分からなくなってくる。

 

 と、そんな時だった。ポケットに入れていたケータイが鳴り響き、画面を確認すると、彩音が入院している病院からだった。

 

 俺は澪と目を合わせ、アイコンタクトだけで了承を得ると通話開始ボタンを押した。

 

「もしもし」


 ――あ! 日百合さん! よかった……。楓宮中央病院の者ですけども。

 

 電話のスピーカー越しにでもわかる程に慌てた声で、俺の返答も待たずに看護師さんはそのまま続けた。

 

 ――今どちらですか? すぐ病院まで来て下さい。妹さんが……。妹さんが大変なんです!

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る