第9話 ヘーゼル・アイズ(2)

 翌朝深く眠る妻の寝顔を見つめ、髪をぐしゃりと掻き、低く唸る。

「何やってるんだ、全く……」

昨夜は焦燥で我を忘れてしまった。自分がこんな愚か者だとは知らなかった。メアリはとんだとばっちりだ。

敷布の上に広がる柔らかな栗色の髪を一房掬い上げ、唇を寄せる。メアリの全て――少女のような笑顔、直向きな榛の瞳、草稿を読み上げる済んだ声、いるだけで安らぐ気配、縋る細く白い腕――分かち合うのは自分だけだ。決して離すものか。


 君を知る前、どうやって世界を見ていたのか、もう分からない。

資料を揃えるトントン、という音、スケッチの筆が走るサッサ、という響き、旅行鞄を開け閉めするコト、ゴトンという音、庭に出入りする靴音、日常の何気ない会話。

明かりを消す小さな音、衣擦れの微かな響き、それらが楽し気に歌うのだと、甘く囁くのだと、君と出会って初めて知った。

本を読む君の周りでは、砂時計の砂粒が落ちる音さえ聞こえる気がする。全てが静謐で尊く、目を奪われる。心をとらえて離さない。


 「トーマス、この指示代名詞が指しているのはどちらの岩石かしら?」  

「アンモナイトのスケッチ、欠落部分を正確に描けてると思う?」

自分が何を知りたいのか、本当に伝えたいのか、問いかける声が教えてくれた。君がいてくれるから、僕はより遠くへ行ける。

どうして君はそんなにも君なのだろう。隅から隅まで特別な女性ひと

メアリ。呼ばれる名が、君への呼びかけが、そのまま人生の主錨だ。

君がいないと、景色はまるで違ってしまう。二人の眼で見なければ、珍しい地層も鉱石も色と光を失う。

そんな荒涼の中で生きてはいけない。


 隣に立つのに誰より相応しいのは自分だと、断言できる自信はない。

パブリック・スクールを出てもない、下町育ちの粗野な男の作法は所詮付け焼刃、上辺の取り繕いを超えられない。

けれど、学問上の敬意が、引き合わせてくれた恩義が、育った友情があっても、メアリだけは渡せない。

そう、たとえ彼女が生まれてすぐ出会い、かけがえのない歳月を、家族の絆を、書物の記憶を、魂を分かち合っている無二の存在、貴方であっても。

偉大な学者、尊敬する師、信頼する友、親愛なる叔父。

サー・チャールズ・ベントレー。

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