神楽堂

主治医から告知された。


喉頭こうとうがんです」


頭が真っ白になる。

自分ががん患者になったという事実は受け入れ難かった。


「……あ、あの……治るんですよね?」


「……進行していますが、治療は可能です」


「やっぱり、手術とかするんですか?」


「これからの経過次第ですので今はなんとも言えませんが、手術は選択肢の一つとなります」


こうして、私は抗がん剤と放射線治療を受けることになった。

まずはがんを小さくし、それから切除するとのこと。


思えば、声のかすれはあった。

何となく食べ物が飲み込みにくいこともあった。

鼻詰まりの感じもあった。

まさか、それががんによるものだったなんて……


抗がん剤と放射線治療だけで治ればいいのだが。


* * *


数カ月の治療の後、今後の方針が告げられた。


「手術をした方がよいでしょう」


大きな手術になるということで、家族を呼んでの説明となった。

私のがんは進行しており、喉頭を全摘出するという。

主治医は告げる。


「手術後は声を出せなくなります」


声を出せなくなる……


想像できなかった。

今まで当たり前のように声を発し、しゃべってきた。

それが、これからは一切の声を出せなくなるとのこと。

主治医は、のどの構造図を見せながら説明してくれた。


「ここからここまでの部分を手術で取り除きます。ここは『声帯』と呼ばれる部分で、声を出すところです。声は肺から出す空気が声帯をふるわせることで出ています。手術で声帯も取ってしまうので、手術後は声を出せなくなります」


手術をしないという選択肢も選べたが、それはすなわち、死を意味した。


声を失うのは辛いが、命の方が大事。

私は手術を受ける決心をした。

家族も同意してくれた。


「手術を受ける前に、声をたくさん録音しておくといいですよ」


なるほど……

声帯を失ってしまっては、もう自分の声でしゃべれなくなってしまう。


しゃべれるうちに、私の声を残しておくことにしよう。


私はスマホを手に取った。

まずは何を言おう。

録音ボタンを押し、私は話す。


「ありがとう」


最初に録音する言葉はこれにした。

さっそく、再生してみる。


「ありがとう」


自分の声を自分で聞くのは恥ずかしい。

しかし、これから私は感謝の言葉を自分の声では言えなくなってしまうのだ。

もっと気持ちを込めて言わないと。


「……ありがとう……」


録音しては再生し、しっくりこなくて消去。もう一度録音……

これを何回繰り返しただろう。


* * *


だんだん自分の声に慣れてきた。

聞けば聞くほど、自分の声に愛着がわいてくる。


あぁ……

この声ともお別れとなるのか。

録音された声は、もう一人の自分だった。


* * *


何度も録音しているうちに、気持ちを込めた言い方がだんだんと分かってきた。

たくさんの「ありがとう」を録音した。

ちょっとしたお礼用の「ありがとう」から、とても重大なことのお礼用の「ありがとうございます」まで、いろいろな「ありがとう」を録音した。


他にはどんな声を録音しておくといいのだろう。


今までの自分の生活を振り返ってみた。

どんな言葉が生きていく上で必要なのか。

やはり、基本は挨拶かな。


「おはようございます」

「こんにちは」

「おやすみなさい」

「いただきます」

「ごちそうさま」

「ごめんなさい」

「すみません」

「お願いします」


あとは……あとは……

何があったっけ?

しゃべれるうちに……しゃべれるうちに……


私は録音を続けた。

家族の名前もしっかり録音した。

お世話になった知人の名前も録音した。


あとは……あとは……


身近な人へのお礼は、健康なうちはなかなか照れくさくて言いづらかったりしたものだが、今となってはスムーズに感謝の言葉が出てくる。


* * *


家族に残しておきたい言葉。

それを考えると、涙が出てきた。

私は死ぬわけではない。

けれども、なんだか遺言を残しているような気持ちになった。


今までしてくれたことを思い出しては、そのお礼を録音した。

子供たちには、親としての願いを録音した。

いや、そんなことをしたら重荷になるかな。

録音して、聴き直しては消去。その繰り返し。

挨拶よりも願いの録音の方が難航した。


結局のところ、家族には健康でいてもらいたい。

それが私の願いのすべてであることに気がついた。


あとは……あとは……


私の声帯があるうちに録音しておくべきこととは……

いくら録音しておいても、あとからあれを録音しておけば、と後悔するのは嫌だ。


そうか!

そのとき、私はひらめいた。


声帯を失ってからも、何か言いたいことが思いつくかも知れない。

後から何を思いついてもいいように、こうしておけばいいんだ。


私は録音する。


「あ」から「ん」までの五十音を。

そして、「が」などの濁音や、「ぱ」などの半濁音。

「しゃ」などの拗音もすべて録音した。


小さい「っ」はどうしよう?

「あ」とは別に「あっ」も録音した。


伸ばす音は?


これもまた、すべての音で長音も録音した。

「あ」「あっ」「あー」

「い」「いっ」「いー」


あとは……あとは……


録音し忘れているものはないだろうか?


そうこうしているうちに、手術の日を迎えた。


* * *


家族が見守る中、麻酔科医がやってくる。


怖い……


麻酔から目を覚ましたときには、私は声を失っているのか……


怖い……声を失いたくない……


目からボロボロと涙がこぼれてくる。

もう自分の声帯をふるわせて声を出すことができなくなるのだ。

最後に……最後に……私は何を言えばいいのだろう。


自分の喉をそっと手で触れてみた。

声を出してみる。


「あー」


指先に、ふるえが伝わってきた。

ふるえる、ふるえている、私の声帯がふるえている……

さようなら、私の声帯……


家族は私を見て、涙を流している。

私は家族一人一人の顔を見つめ、


「ありがとう……」


と声帯をふるわせた。

これが今の私にできる精一杯だった。


「それでは処置室に行きますので、ご家族の方はここまでとなります」


私はストレッチャーで運ばれていく。


麻酔科医は言った。


「息を吸ってください。はい。では口から吐いてください。次、鼻から息を吸って~、はい、鼻から出してください」


麻酔の前に深呼吸が必要なのかなと思い、指示に従い呼吸してみた。

麻酔科医は言う。


「口で呼吸ができるのは、これで最後になります。息が口や鼻から出る感覚、今のうちに覚えておいてくださいね」


!!


そうか、そうだった……


主治医から説明はされていた。

手術で体に呼吸用の穴をあけるとのこと。

手術が終われば、私の口は食べ物を食べるためだけのものになってしまう。

もう口を使って呼吸することはできなくなる。

口呼吸や鼻呼吸と、私はお別れすることになるのか……



息を吸う。

空気が口の中を通っていく。

息を吐く。

空気が口の中を通っていく。


今度は鼻呼吸をしてみた。

息を吸う。

空気が鼻の中を通っていく。

息を吐く

空気が鼻の中を通っていく。


この感覚がなくなってしまうだなんて……


喉頭は、口から入った空気は肺に送り、食べ物は胃に送る、いわば分岐路のような場所。

手術で喉頭を全摘出するため、食道は胃への一本道となる。

誤嚥することは、これでなくなる。


気管は、声帯ではなく体の外にあけた穴へとつながれる。

口や鼻を塞がれても、私は息ができるということになる。


口や鼻を使わずに息ができるという感覚が想像できない。



私は麻酔科医と最後の言葉を交わす。


「ありがとうございます。どうか、よろしくお願いします」


「わかりました。それでは、麻酔をかけます……」


* * * * * * * * *


目が覚めた。

手術は終わったようだ。


麻酔科医が、「声は出さないでください。私の手を握ってください」と書いたボードを見せていた。

私は麻酔科医の手を握り返した。


麻酔科医は、私の反応を見て微笑んだ。


「手術は終わりました。成功です」


私はまだ夢を見ているような感じだったが、それでも、手術が終わったということは何となく理解できた。


* * *


やがて、はっきりと目が覚めた。

手元には筆談用のボードが置かれている。

それは、声を失ったという事実を示す物でもあった。

現実を知らされた感じがして、ショックだった。


* * *


術後の経過は順調で、立って歩けるまでに回復した。


点滴ではなく、口で食事を摂ることもできるようになった。


しかし、あまりおいしく感じない。

術後だからそう思うのだろうか。

いや、違う。


匂いを嗅げないからだ。


私の口は肺に繋がっていないので、息を吸うことができない。

つまり、自分の意志で匂いを嗅ぐことができなくなったのだ。

けれど、まったく嗅覚がなくなったわけでもなかった。

食べ物に鼻を近づけてみる。

すると、かすかに匂いがした。

こうすれば、なんとか匂いを感じることはできる。


* * *


家族が面会に来た。

私は笑顔を見せ、ボードを使って筆談する。


分かっていたとはいえ、声を出せない体になったのを見て、家族はショックを受けたようだ。

だから、私は終始、笑顔を見せ続けた。


私は不幸じゃない。

私はかわいそうな存在ではない。

私は生きている。

私は元気だ。

私はみんなに見守られて生きている幸せ者だ。



だから、だから……


私をかわいそうだなんて思わないで欲しい……


私だって……私だって……本当は……


* * *


訓練士の指導の元、発声練習を行うことになった。

音とは空気のふるえのこと。

私にはふるわせる声帯がない。

では、何をふるわせるのか。


食道だ。


しかし、これは難しかった。

まず、口が肺につながっていないので、空気を自由に取り込むことができない。

では、どうやって食道をふるわせるのか。


ゲップ。


胃から出る空気で食道をふるわせるのだという。

自分の意思でゲップを出すのは難しかった。

お茶を飲む時に一緒に空気を飲み込むように言われた。

そうすれば、ゲップが出やすくなるという。


しかし、ゲップで出せる声は、とても小さかった。

騒がしいところでは、私の声は聞こえないだろう。

三ヶ月は練習しないとうまく発声できないとのこと。

心が折れそう……


* * *


機械を使った発声の練習も行うことになった。


電動の機械を当てて、口を振動させるのだ。

練習してみると、なんとか声のようなものは出せた。

しかし、人間味のない声のように聞こえた。

それもそのはず。

一人一人の声が違って聞こえるのは、一人一人の声帯が違っているからだ。

しかし、私には声帯がない。

私の口から出ている声なのに、それを自分の声とは思えなかった。


* * *


発声の訓練とともに、私はパソコンを使っての発声にも取り組んだ。

手術前に録音していた自分の声を編集して、それをつなぎ合わせ、自分の声で言いたいことを言えるようにするのだ。


久しぶりに聞く自分の声は懐かしかった。

自分に会えた気がした。


声のデータを携帯用会話補助装置に入れていく。

機械とはいえ、自分の声を出せるのは嬉しかった。

たくさん録音しておいてよかった。


* * *


私はすぐには声を出せない暮らしを続けていた。

何か言いたいことがあっても機械を取り出す手間が必要だ。


言いたいことをすぐに言えないということが、こんなにももどかしいとは。


私には声帯がないので、以前と同じ声を出すことはできない。

出すとすれば、録音していた自分の声を再生するか、あるいは器具で口を振動させて出す機械的な声か、あるいはゲップを利用して食道をふるわせて出す声か。

いずれにも長所と短所があるが、話したい時にすぐに話せないことが私の大きな悩みだった。


すぐに声を出せなくてもどかしいという思いを、主治医に筆談で伝えてみた。

すると、声を出すための手術について提案された。

自分の肺の空気を使えれば、自分で話している実感が持てるのではないか、ということで、次のような手術を提案してくれた。


気管と食道をつなぐパイプをつける。

私は今、口ではなく、首の下にあけた穴で息をしているが、その穴を手で塞ぐことで、息はパイプを通って食道へと流れることになる。

声帯はないので以前と同じような声は出せないが、食道をふるわせることで声が出る、ということだった。


家族を呼んで再び話し合った。

私は自分の肺の空気を使って話してみたいと思った。

家族は私の意思を尊重してくれた。


こうして、私は手術を受けることとなった。

不安も大きいが、期待も大きかった。


* * *


手術は成功した。


話したいと思ったら、首の下の呼吸の穴を塞ぐだけでいい。

肺から出した息は、私の食道をふるわせてくれる。

その声は、これまで聞き慣れていた自分の声ではないけれど、自分で話しているという実感をもつことができた。


今まで使ってきた発声法は、とても小さい声しか出せなかった。

けれど、今は肺の中の豊富な空気を利用して発声できるようになった。

前よりも大きな声が出せるようになったのはとても嬉しい。


気管と食道を結ぶパイプは一日に数回、自分でブラシを使って清掃しなくてはならないし、数ヶ月ごとに病院で器具を交換しないといけない。

なかなかに手間がかかるけど、自分の息で食道をふるわせて声を出すというのは、やはり話している実感があり、話すだけでとても幸せな気持ちになれた。



私は第二の声を手に入れた。

この声で、私はこれからも生きていく。



< 了 >


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