第六章 我が心を贄に

 なこたちのデート後の話をしよう。

 土砂降りの中でしばらく傘を差さずにいたせいで、なこは帰ってまもなく高熱にうなされることになる。わしが作ったパスタも結局食べようとせず、水を飲む以外はリビングのソファで横たわってばかりいた。

 稔に振られて以来、なこの心は荒れに荒れてしまった。熱が治まってもなお何も食べたがらず、一週間が経ったころにはすっかり痩せこけてしまう。稔に振られたときのことを思いだしてしまったときには、ショックに耐えられず嘔吐することもたびたびあった。

 さらに酷かったのは、なこが夜中に台所に忍びこみ、自身の尻尾を包丁で切り落とそうとしたことじゃ。リビングのソファで一緒に寝ていたわしが、なこの足音にいち早く気づいて止めたから事なきを得ている。

 とはいえ、その後もなこがわしらの目を盗んで自傷しようとする危険性は残ったままじゃ。今やなこは口癖のように「人間になりたい」と呟き、自分が猫又であることを呪うようになっておる。

 稔のほうはというと、体調を崩すようなことはなかったものの、やはりなこを傷つけてしまったことがずっと心残りのようじゃった。職場で会うといつも浮かない顔をしていて、営業に向かう前には精神統一を欠かさずやっておるほどじゃ。

 業務外でも、稔はなこのことを気にかけて何度もわしに尋ねてきた。なこの状態を包み隠さず伝えると、稔はそのたびに心配して見舞いに行きたがったが、わしはそれを制止し続けた。なこの恋が叶わぬ以上、稔が会いに行ったところでなこをさらに苦しめるだけじゃからのう。

 二人の心が晴れることのないまま、さらに数週間の時が流れる。稔はなこを気にかけるあまり業務に支障が出始め、なこは相変わらず食欲が湧かないままで衰弱しきっていた。

 水に魔法薬を混ぜて渡すことで、どうにかなこの飢餓を防ぐようにしていたが、それでもなこの生気がないままであることには変わらん。本格的に策を講じねばと、わしは一人で考えに耽る時間が増えていった。

 遊園地に連れていったり、高級料理を振る舞ったりと、なこを元気づける策をいろいろと模索したが、今のなこには結局どれをやっても効果が薄いと判断した。やはり、なこと稔が結ばれるしか方法はない。

 じゃが、どうやってそれを実現するか、わしはすぐに答えが出んかった。わしは変身の魔法が得意というわけではないし、キルケーに頼んだとしても魔力不足を理由に断られてしまうじゃろう。

 変身の魔法の真髄は、世界の改変にある。姿形を変えるのみならず、変身者がすでに変身後の姿で存在していたと、人々の記憶や記録を同時に書き換えなくてはならんのじゃ。

 変身の魔法を得意とするキルケーなら詠唱はできると思うが、金のりんごでも食べなければ困難を極めることじゃろう。じゃが、金のりんごを生みだそうとしても、百年経つより先に稔たちが寿命を迎えてしまう。ゆえに、金のりんごに匹敵するものをすぐに用意する必要があった。いかにしてそれを用意するかの良案が思いつけないまま、わしは堂々巡りを繰り返した。


 時間だけが過ぎていったある日のこと。深夜に台所でなこに飲ませる魔法薬をこしらえていたところ、横で魔法の研究をしていた出莉愛がわしに話しかけてきた。

「そういえば、最近魔女が暗殺されたという噂をほとんど耳にしなくなりましたね。アグラオニケさまやキルケー叔母さんを恐れているのが理由として一番大きいんでしょうけど」

「おぬしがわしに痛めつけられたのが知れ渡っているのもありそうじゃのう」

「私なんて魔女の端くれでしかないですよ。でも、キルケー叔母さんがやられたという報せは魔女の間で知れ渡っていそうですね」

 今のは内緒にしてくださいとお願いする出莉愛に対し、わしは失笑しながらうなずいた。

 ふと、わしはなぜ魔女が命を狙われるのかをど忘れてしまう。そしてすぐに、心臓を喰らうために殺そうとすることを思いだした。魔女の心臓を喰らうことで、魔女は相手の魔力を奪うことができる。

 わしがなこたちの恋を叶える唯一の方法を閃いたのは、その直後のことじゃった。

「アグラオニケさま?」

 呆然と立ち尽くしていたわしを見かねてか、出莉愛がまた声をかけてくる。我に返ったわしは、深刻な面持ちになって出莉愛に尋ねた。

「なこを人間にしてやる方法がわかった。じゃが、相応の代価が必要となる方法じゃ。出莉愛、おぬしは何があってもなこの夢を叶えてやりたいと願っておるか?」

 出莉愛は少し戸惑ったが、照れくさそうに頬を染めながらもこくりとうなずいた。

「そうか」

 深刻な顔を止め、わしは柔和に笑って言う。

「出莉愛、おぬしも初めて会ったころから見違えるほど成長したもんじゃのう。魔法の出来栄えでなく、おぬしの心がという意味じゃ。たとえ優れた魔法が使えずとも、人を慈しみ救いの手を差し伸べられるようになれたならそれは一流の魔女じゃ。その点で言えば、わしからおぬしに教えてやれることはもうない」

 出莉愛は突然褒められてきょとんとしていたが、わしは構わず続けた。

「一つだけ頼む。なこのお姉ちゃんとして、これからもなこたちを支えてやってほしい。今のおぬしなら安心して任せられると信じておるよ」

 その言葉を聞いた途端、出莉愛もわしの考えていることを理解したらしい。出莉愛は悲愴な面持ちでわしの顔を見上げたが、わしの目から決意の重さを感じ取ると、黙って従順にうなずいてくれた。


 朝になって会社に出勤すると、わしは一枚の書類を持って、デスクに座る課長のもとへ訪れた。わしが手渡したその書類を目にし、課長は心臓が止まるのではないかと心配してしまうほどに驚愕した。

「あ、あ、荒尾くん! 退職するとは、どういうことだね!」

「そのままの意味です、課長」

 わしは躊躇せずに返答する。課長は頭を抱えるばかりじゃった。

 業務が始まった後、わしは課長に会議室に呼びだされ、お偉いさん数人を交えて考え直してくれと説得を受けた。しかし、わしは頑なにそれを拒否。二時間ほど続いた末にとうとう課長たちが諦め、がっくりした様子で退室していった。

 わしもデスクに戻ったときには、わしが退職するという噂がオフィス内にすっかり広まっておった。唯一心配してくれた稔が、すぐに慌てながらわしに問い詰めてくる。

「退職するって本気ですか? 何で急にそんな決断を?」

 わしは口元を綻ばせたまま答えた。

「旅に出るんじゃ、おぬしとなこの恋を叶えてやるためにな。なこが苦しむさまを見てばかりいるのは耐えられんからのう。おぬしも、できることならなこと結ばれたいじゃろう?」

 ただごとではないと察したのか、稔は深刻な顔を浮かべていたが、それでも素直にこくりとうなずいてくれた。わしはにこりと笑い、稔に言う。

「先ほどの会議で、チームリーダーの後継におぬしを推薦しておいた。そんなわけじゃから、これからは引継ぎの作業で忙しくなるぞ。もう少しわしに付き合ってくれんか、稔」

 稔が無言のまま、再びこくりとうなずく。もう、問い質すことも引き留めることもせんでいてくれた。

 業務の引継ぎには二週間ほどの時を要した。わしに課せられていた業務はかなりの量があったから、これでもだいぶん早く引継ぎが終わったほうじゃ。稔が完璧に業務をこなせるようになったのを見届けると、わしは職場の者たちにあいさつし、予告どおり会社から立ち去った。


 それからさらに一週間が経つ。わしは適当に選んだジャージに着替え、出かける支度を始めた。平日になってもずっと家におるわしを不思議に思ったのか、ソファの上でぐったりしておったなこがわしに尋ねてくる。

「仁希、最近お仕事に行かないね。どうしたの?」

 わしは稔に対してと同じ返答をした。

「おぬしと稔の恋を叶えるために旅に出るんじゃよ」

「私と、稔の?」

 なこの顔色が一瞬だけ戻ったが、どうせ叶いっこないと悲観してか、またすぐにしょんぼりしてしまう。わしはなこを心配させまいと、自信たっぷりに言った。

「なこ、わしは数千年も生き永らえてきた大魔女アグラオニケじゃぞ。わしがその気になれば、扱えない魔法などない。おぬしを人間にしてやることもちょちょいのちょいじゃ」

「本当?」

 藁にも縋るような目を向けるなこに対し、わしは力強くうなずいて言う。

「もちろんじゃとも。じゃが、それなりの準備が必要になる。変身の魔法が得意なキルケーにも協力してもらわねばならん。そして何より大事なことがある」

「大事なことって?」

「前にも言ったじゃろう? 何かを得るには、相応の代価が必要となる。望むものによっては、計り知れんほどの犠牲を払うことにもなりかねんとな。なこ、おぬしにはその多大なる犠牲を払うことを受け入れる覚悟があるか?」

 なこは目を閉じてしばらく悩み続けた。わしの言う犠牲が決して軽々しいものではないことを察したんじゃろう。それが何かまではわからずとも、なこは悩んだ末にすべてを受け入れる覚悟を決めた。

「うん。すごく怖いけど、受け入れる。私、稔と恋人になって、死ぬまで一緒にいたい」

 目に涙をいっぱい浮かべての決意を見届けると、わしはこくりとうなずき、柔和に笑ってみせた。次に、ソファで寝そべっているなこに歩み寄り、なこの首に腕を回して抱き寄せ、わしは言う。

「おぬしの夢は叶うとわしが保証する。じゃから、どうか必ず稔と幸せになっておくれ。その約束さえ果たしてくれたらわしは本望じゃ。あと、出莉愛と仲良くすることも忘れんようにの」

 呆然としておるなこの返事を待たずに、わしは抱擁を止めて身を離す。そして、いつもどおりなこに「行ってきます」と告げ、わしはリビングを出た。

 先に玄関で待ち構えておった出莉愛が、わしに何も言わず深々と頭を下げる。頭を撫でて感謝の意を受け取ると、わしは出莉愛に見送られながら玄関の扉を開け、家を後にした。

 わしの家は中にある物も含め、出莉愛に引き継いでもらうことにした。使い余していた貯金も出莉愛に預け、なこと稔の結婚資金に充てるよう頼んでおる。スマートフォンなどの解約も済ませたし、残すはいよいよキルケーに会いに行くのみとなる。

 日中に会いに行っても、キルケーと同居しておる稔に怪しまれてしまうから、キルケーには夜に集合してくれと頼んだ。時刻はまだ昼過ぎじゃったので、集合時間になるまでの間、住み慣れたこの町をめいっぱい探索しようと考えた。

 イチョウの並木道、駅近くのパン屋、生活の音が聞こえてくる住宅街、子供たちが遊び回る近所の公園――。思いつく限りいろんな所を巡った。途中、道行く人たちがみなしてすれ違いざまにあいさつしてくれて、わしを温かく受け入れてくれるこの町をよりいっそう愛おしく思った。

 日が暮れてきたところで、わしは最後に町外れの川へ向かう。夜遅くになると人がめったに来なくなるから、ここはキルケーとの集合場所に最適じゃった。

 雪に埋もれた川沿いの草むらに腰かけ、わしは残照を帯びた川面を眺める。ここは夜だけでなく、夕焼けの景色もまたすばらしいのじゃ。空を茜色に染める夕日の柱が、光の粒とともに川面に映しだされる光景は、ここくらいでしか見ることができんじゃろう。長い旅に出る前に、このまたとない光景をしかと胸に刻みつけた。

 夕日が沈み、わしはその場で寝転がりながら一面の星空をぼんやりと眺める。しばらく経ち、人の気配がほとんど感じられなくなったところで、わしは不意に背後から声をかけられた。

「すでに来ていたなら言ってくれればいいだろう」

 体を起こさずに見上げると、声の主はキルケーじゃった。おしゃれはしておらず、ジーンズと黒のフードつきパーカーを合わせた目立たん格好じゃ。

 軽く詫びた後、わしは立ち上がって草を払い、川に架かる橋の下までキルケーと歩いていった。

 橋の下に辿り着くと、辺りにある砂利の一部が血痕で生々しく染まっておった。野良猫が激しい喧嘩でもしたようじゃが、人が来ないもんじゃから誰もこの血痕に気づいておらんのじゃろう。

 わしの先を歩いておったキルケーが、足を止めて振り返り、単刀直入に尋ねる。

「用件は何だ? ここ最近、稔さまがずっと心苦しそうにしていたが、お前が関係しているんだろう」

「いかにもそうじゃ」

 こくりとうなずいてみせると、わしはキルケーに望みを伝えた。一通り言い終えると、キルケーはしばらく絶句し、そして目を尖らせて怒鳴った。

「ふざけるな! そんな要求を私が呑むはずがない。勝ち逃げするつもりか!」

 わしは動じずに首を振り、言葉を返していく。

「そんなわけなかろう。わしの行いが逃げであるならば、そうした時点でわしが負けておるではないか」

「屁理屈など聞きたくない!」

「屁理屈ではない。わしはなこと稔の恋を叶えてやりたい一心で頼んでおるんじゃ」

「たとえそうだとしても、稔さまやなこがそれを許すはずがないだろう!」

「そうじゃのう。二人には卑怯な問いかたをして、申し訳ないことをした。じゃが、二人は心の底から結ばれることを望んでおる。わしはそれを何としてでも叶えてやりたいんじゃ」

 キルケーの反論が途絶えたところで、わしはキルケーに頭を下げて言う。

「じゃから頼む、キルケー。どうかわしの願いを聞き入れてくれ」

 キルケーはわなわなと震えたままじゃった。なこと稔を騙すような真似をしていることへの怒りもあるじゃろうし、決闘を蔑ろにされたことへの怒りもあるじゃろう。

 それでも、キルケーは自分の怒りを差し置いてくれたらしい。しばらく沈黙した後、キルケーは大きく深呼吸し、落ち着きを取り戻して言った。

「お前を負かすのが私の生きる目的だった。お前に打ちのめされてからは、なおさらその思いが強まった。だが、そうやって勝ち負けにこだわっている限り、私は一生お前に勝てないのかもしれないな……」

 キルケーがうつむいて再び沈黙する。しばらくして一つため息を吐くと、キルケーは覚悟を決めた目とともに、右手を広げてわしに突きつけながら言った。

「本当にいいんだな、アグラオニケ?」

「うむ」

 わしは迷いなく返事した。家族同然であるみなに別れを告げ、大好きなこの町を思う存分巡り歩くこともできたから、心残りはとうにない。

 ほかに誰もいない暗闇の中で、キルケーが右手にぽうっと仄かな光を灯した。わしの望みに応えるべく、手短に事を終わらせるつもりらしい。

 わしは静かに目を瞑る。胸のうちで、みなにもう一度別れの言葉を告げた。ひゅんと風を切る音が耳を伝うのと同時に、わしはアグラオニケとしての自分を手放した。


 キルケーが手際良く事を終わらせ、無事に翌朝を迎える。汚れた手と口を川で洗い流すと、キルケーは初めにスマートフォンを取りだし、稔に電話をかけた。まもなくして、稔の慌てた声がスマートフォンから聞こえてきた。

「慶那、今まで僕に何も言わないでどこに行っていたの? ずっと心配していたんだよ!」

 キルケーが淡々とした口調で言う。

「申し訳ありません、アグラオニケに大事な話があると呼ばれていました。そして稔さま。アグラオニケとなこ、そしてあなたさまの件で私からも重大な話があります。ご足労をおかけしますが、稔さまには今から申し上げる住所にお越しいただきたいのです」

 キルケーが伝えた住所とはほかでもない、わしがキルケーに教えたわしの家じゃ。稔のしぶしぶながらの返事を聞くと、キルケーは通話を切ってスマートフォンをズボンのポケットにしまった。

 特に寄り道する気もなかったから、わしらはまっすぐわしの家へ向かう。いや、もう出莉愛に引き継いでしまったから、正確には出莉愛の家と呼ぶのか正しかったか。まあよい。

 スマートフォンの地図アプリを頼りに、一時間ほどかけてわしらは家に到着する。キルケーがドアホンを押すと、ほどなくしてどたばたと慌ただしい足音が近づき、玄関の扉が勢いよく開くとともになこが姿を見せた。

 わしらをまじまじと見つめた後、なこは青ざめた表情をそのままに言う。

「仁希がどこにもいないの」

 キルケーは口を閉ざしたままじゃった。涙をぽろぽろとこぼし、体を小刻みに震わせ、なこは思いの丈を打ち負ける。

「仁希が家を出ていったきり帰ってこないの。仁希のスマートフォンも使えなくなったから電話をかけられないの。ここ最近の仁希、ずっと様子が変だった。何があったのかちゃんと聞きだしておけばよかった」

 キルケーが鼻で一つ息を吐き、なこに尋ねる。

「アグラオニケがいなくなる前、なこに何か言っていなかったか?」

 なこははっと息を呑み、答えた。

「何かを得るには、相応の代価が必要となる。望むものによっては、計り知れないほどの犠牲を払うことにもなりかねない。その多大なる犠牲を払う覚悟があるかって……」

 それこそが答えだと言わんばかりに、キルケーは大きくうなずいた。

 それと同時に、またも騒がしい足音が聞こえてくる。キルケーが音のするほうを振り向くと、稔がぜいぜいと息を切らしながら、道路を駆けてこちらへ来るのが見えた。

 わしらのもとへ辿り着き、膝に手をついて息を整える稔に、キルケーが無言のまま会釈する。玄関のほうに視線を戻すと、遅れて来た出莉愛がなこの後ろに立っておるのが見えた。出莉愛もまた今のわしらの姿を目にすると、すべてを察したのか、苦しそうに顔を歪めながら目を背けてしまった。

 稔が息を整え終えたところで、キルケーは単刀直入に事の顛末を告げる。

「アグラオニケは死んだ。私に心臓を差しだすために自ら死を望んだ」

 絶句するなこと稔に構わず、キルケーは言葉を続けた。

「魔女はほかの魔女の心臓を喰らうことで、魔力を我が物とすることができる。アグラオニケは、変身の魔法を得意とする私の技量と、並外れたアグラオニケの魔力を合わせることで、なこを人間に変身させられると考えた。なこと稔さまの恋を叶えるために、アグラオニケは喜んで犠牲になる選択をしたんだ」

 なこがショックのあまり、頭を抱えて声にならない声を上げ始める。わしはキルケーの血肉となり、キルケーの視界を通してなこの発狂するさまを目の当たりにした。

 血肉だけの存在となっても、感情だけはいっぱしに残っておるらしい。自分の決断とはいえ、これほどまでになこの心を壊してしまい、わしもいたたまれない気持ちになった。

 途端、わしの想定になかったことが起こる。キルケーが突然、狂い続けるなこの頬を平手打ちしたのじゃ。

 呆然としているなこの胸倉を掴み、キルケーはなこに怒鳴った。

「泣くな、顔を上げろ! アグラオニケは、お前と稔さまの幸せを望んで命を捨てたんだ。ならば、いじけずに笑顔で暮らすことが、アグラオニケへの手向けになるんじゃないのか!」

 わしは生前、なこに本気で怒鳴ったことが一度もなかった。今のキルケーの言葉は、なこにとって厳しいものになったかもしれん。

 それでも、なこは決して泣き喚かんかった。落ちこんだり発狂したりするのを止め、折れそうなほどに歯を食いしばり、わしの死を受け入れる覚悟を顔つきに見せていた。キルケーの叱咤は、なこの心を十分に奮い立たせてくれたようじゃ。

 キルケーが稔のほうを向くと、稔もまた、涙で汚れながらも決然とした顔をキルケーに向けていた。一瞬だけ口元を緩め、キルケーはみなに対して呼びかける。

「始めよう。なこを人間にする魔法を。アグラオニケから託されたものを無駄にするわけにはいかない」

 なこ、稔、出莉愛の三人は、こくりと力強くうなずいてみせた。

 家に稔とキルケーを招き入れると、なこと出莉愛は物置と化していた二階の空き部屋に案内した。キルケーを除く三人がかりで、使わずじまいに終わった猫グッズを片づけ、その間にキルケーが粛々と準備を進めていく。床に白いチョークで魔法陣を描き始めたときは、おいこら何やってんじゃと怒鳴ってやりたくなったが、体を失った今となってはそれも叶わん。

 キルケーが描いた魔法陣は、床の角に届きそうなほどに大きく、わしが前に描いたときよりもさらに複雑じゃった。そうでありながら、わしがキルケーの目を通して見る限り、それは寸分の狂いもなく仕上がっていた。これなら最後まで魔法のコントロールが安定するに違いない。

 ほどなくして部屋の片づけも終わり、なこが魔法陣の中心で正座して備える。なこを先に魔法で寝かすのかとわしは想像したが、キルケーはその手順を踏むことなく、両手を広げて早速魔法の詠唱を始めようとした。さすが、わしより詠唱に時間を要さないし、多少動かれたところで大した問題にはならんのじゃろうな。

 稔と出莉愛に見守られる中、ついに詠唱が始まった。床の魔法陣がひとりでに光を放ち、やがて窓のカーテンを閉めてもなお漏れそうなほどに強まっていく。その強大な光になこは呑まれ、姿がまったく見えなくなってしまう。

 キルケーが詠唱に全身全霊を注ぐ中、わしは血肉としてキルケーの体中をひたすらに駆け回った。絶え間なく酸素と魔力を巡らせ、キルケーの魔法がわしの落ち度で途絶えることのないようにする。

 一時間ほどして、キルケーが息を切らしながら、なこに向けていた両手を窓の外へ向けた。途端、なこを包んでいた強大な光が解き放たれ、霊魂のように意志を持ち、窓とカーテンを突き抜けて次々に外へ飛びだしていった。あれらの光が、なこが元から人間であったと世界を書き換えてくれるのじゃろう。

 一方、光が散って目視できるようになったなこは、確かに姿が変わっていた。腰についていた二本の尻尾はなくなり、頭にあった猫耳の代わりに人間の耳が備わっておる。稔と出莉愛は唖然とし、なこも自分の頭や腰、新たな耳を触ってみて、すっかり人間の姿になったことを知り驚愕した。

 ふと、わしはここであることに気づく。血肉となってもなお見えていたキルケーの視界が、徐々に黒くぼやけていったのじゃ。これは、キルケーの意識が切れようとしているわけではない。わし自身が役目を終え、キルケーの体から離れようとしているということじゃろう。

 まだ世界の改変が終わっていなかったようで、もう少しの間だけキルケーの体に留まることができた。出莉愛はほっと胸を撫で下ろし、稔となこはようやく種族の壁がなくなったことに感涙しておった。

 わしがもうこの世にいないと思ってか、なこは天を仰ぎ見ながら呟く。

「仁希、ごめんなさい。仁希、今までありがとう」

 いいんじゃ、気にするなと、すぐにでも伝えてやりたかったが、それも叶わん。世界の改変が終わり、いよいよ暗闇に呑まれていく中、わしは心の中で言葉を返した。

 わしのほうこそありがとう。おぬしたちと過ごした時間は、最期の日に見た夕焼けの川面にも負けんほどに輝いたものじゃった。

 この世界を旅し、ささやかな幸せを贈るために生き、数千年ばかりの時が過ぎた。こうして別れを悲しんでくれる者がおるのなら、わしの旅路も決して無駄なものではなかったのかもしれん。

 いや、わしはそのことでもみなに感謝せねばならんのかもしれんな。わしの旅に大いなる意味をもたらしてくれてありがとう、と。

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