食パンとマヨネーズ

今日くらり|小説と脚本

食パンとマヨネーズ

 食パンの上に、小さな塊が出来た。使い切ったマヨネーズが、人生最期のフリをして四角いステージを駆け巡るように散らばった。僕は容器を押しながら空気を入れ、蓋を閉め、何度か振った。蓋を開け、容器を押すと、まるで新品のように中身が飛び出して、きつね色だったパンがあっという間にベージュに染まった。

 

 人間は、三大欲求に留まらず、様々な欲望を持っている。お金持ちになりたい、スペックの高い恋人が欲しい、綺麗になりたい、自分の思い通りに事が進んで欲しい。もう無くなりかけたマヨネーズを、まだ入っていると願いを込めて、マヨネーズの意見を無視して必死で容器を振るのもまた、欲望の一つではないか。人間は欲望から離れることが出来ない。だから欲望を無くす努力より、欲望との共生を模索する方が、人生を上手く生きられるのである。そのためには、目の前の幸せに囚われてはいけない。



「まだ終わっていないのか」


 一人では抱えきれない量の資料を挟んで、毎日この言葉を浴びせられていた。意味を見いだせない資料の整理、電話の対応、会議の準備。限界はとっくに超えていた。それでも僕が働けていたのは、信頼する人がいたからだ。この人がいるなら僕は一人じゃないと思っていたし、一人じゃないと思っているのは僕だけじゃないと思えた。彼は亡くなった時は、目の前の光景が別世界に感じた。彼の存在が亡くなると同時に、震えながらも必死で渡ろうとしていた心の綱が、呆気なく千切れた。だがら僕は、仕事を辞めた。


 収入は同世代よりはあったと思う。忙しくて使う余裕すらなく、ただ溜まる一方だったから、仕事を辞めた今も、こうして自堕落な生活を送っている。「ブラック」と呼ばれた前職との暮らしでは何も得られなかったと思っていいたが、こんな形で自分を安心させる材料になるとは思っていなかった。

 朝起きて、昼働いて、夜に帰る。そんな生活習慣が僕の体から消えてから二か月が経っていた。僕は昼夜逆転を何度も繰り返し、気付けば朝八時頃、マンションの隣にある高校のチャイムが、自分の就寝時間を告げる合図になっていた。


 チャイムが鳴った。


 僕は布団を被り、眠りにつこうとした。だが、なぜかいつも通りの就寝が出来ず、目を開けてしまう。その違和感の正体は日差しだった。今日はいつもより日が差し込んでいた。それは、ここ数日で一番の快晴だということと、遮光カーテンを閉め忘れたことの二つの原因によるものだった。このままでは眠れないと、僕は連日ゲーム三昧で硬くなった体を起こし、窓に手を掛ける。レースカーテンを開けると、隣に建つ高校の屋上が見えた。

 そこには、女子高生が一人、立っていた。彼女はさんさんと輝く太陽を見上げながら、太陽を手で隠していた。しばらくして空を見上げるのを止めて、何か不審な、見たこともないような動きをし始めた。彼女は踊っていた。ダンスに興味が無い僕は、彼女の踊りが何というジャンルで、なんという名前なのか、どんな動きが正解なのか分からなかった。ただ、僕は彼女を見つめていた。意味不明な動きをしてた彼女に惹かれている自分がいた。なぜだか気分が高揚して、体中が温かい。どこか心の奥にしまっていた「快楽」を感じる。僕は踊る彼女をじっと見つめていた。だが僕の昼夜逆転はそう甘くない。僕は彼女を見て、気を失うように眠った。


 それから、彼女を見るために朝八時までに起きるようになっていた。目覚ましを掛け、臙脂色のカーテンとレースカーテンを同時に開ける。彼女の舞台のために緞帳を上げるのだ。彼女は丁度、太陽から離れて踊り始めていた。彼女のダンスは日によって様々だった。ある日はンテンポラリーダンスのような寝転がり、時には立ち上がって跳ね回るような自由な踊り。ある日は誰もが知っているラジオ体操を第一、第二とこなす。ある日は扇子を持って演歌歌手のバックダンサーのような動きをしていた。ある日はヒップホップを見よう見まねで踊っていた。僕は様々な踊りを繰り広げる彼女のことを素敵だと思った。決して恋心ではない、どこか、引き込まれるような動き、それに合わせて靡く長い髪、洗練された美しさを放つつま先。僕は目が離せなかった。僕は彼女の舞台を見るために、生活習慣を変えた。


 九月十三日。

 朝七時に起きた。身支度を済ませ、朝食を用意した。冷蔵庫に控えていた新品のマヨネーズを後目に、炊き立ての白米を口にした。大学生の時、料理が好きだったことを思い出す。友人の家に泊まった時、友人と朝食をつくった。つくり方を教えてもらいながら、料理の楽しさを知った。それからは毎回必ず朝食をつくっていた。自宅のキッチンに入ることは「家族」が許さなかったので、友人の家の調理器具を使って丁寧に調理することが本当に楽しかった。米を炊いて、魚を焼いて、味噌汁をつくる。たったそれだけでも僕の私服の時間だった。そんな、自分が一番幸せでいられる瞬間を忘れてしまっていた。だけど、たまにしかない自作の朝食より、毎日食べている食物が自分に合っていると体が訴え始め、僕は箸を置いた。目が覚めない。起きたばかりなのに睡魔が襲ってくる。少し気持ちが悪い。僕は意識もままならない状態で、冷蔵庫の上にある食パンを一枚取り出し、冷蔵庫からマヨネーズを取り出した。振らなくても良い新品のマヨネーズが待ちわびていたかのように僕を見つめる。ビニール袋から取り出し、蓋を開けて、食パンにかけた。


「美味しい」


 食パンとマヨネーズが口の中でぐちゃぐちゃに混ざっている時だけは、僕のことを邪魔する奴はいない。僕のことを罵る奴はいない。素材と素材が僕だけの動きで混ざり合う瞬間だけ、人間は一人じゃないと感じることが出来たのだ。僕は食パンを二枚平らげて、スーツを着る。あと三分で八時になる。今日は急がなくてはならない。彼女の踊りを見ることを生きがいとしていた僕は、ついに転職活動をするようになり、彼女を見終わったら面接に出向かわなければならない。過去の自分に頼りきりの生活をしていて、有り余っていた貯金も、生きているだけで減っていくことに気付いた。仕事を辞めた時は、金が無くなった時が自分がいなくなる時だと思っていたけれど、今の自分には毎日貯金残高が減っているのを確認する以外にも生きがいが出来た。高校の屋上で、知らない踊りを繰り返す彼女。僕はそれを見るためだけに生きている。死ぬために生きるのではなく、彼女のために生きている。毎日栄養のある朝食を摂るよりも、食パンを口に入れるよりも、貯金残高の一の位がいつ減るのか眺めるよりも、彼女を見る時間が何よりも大切だった。


 時間になり、カーテンを開ける。彼女は八時丁度に太陽を見上げ、顔を手で覆う。そこから踊りを始めるのだ。


 曇り空の今日、彼女はそこにいなかった。


 世界が止まった気がした。朝の八時、風が無ければ流れない雲、動くことの無い建物、ベランダにある申し訳程度の錆。彼女がいないこの風景は、静止画と同じで、自分の中での正解を出さなければいけなかった。今目の前に映る景色が、どういう意味があって、どんな表情をしていて、暮らしに、人生にどう影響しているのかを自分で考えなければいけないのだ。その中で唯一の「動」が、踊る彼女だった。彼女がいることで、何も考えずに世界を見渡せた。彼女が綺麗だ。それくらいの語彙力でも、生きている意味を感じ取れた。でも今日は、彼女がいない。

 高校のチャイムが鳴った。本鈴だ。僕は我に返り、浅い呼吸を整えて、家を出た。僕は転職活動の門出を、彼女無しで迎えることになった。


 九月十四日。

 朝八時。彼女は屋上にいた。彼女はいつも通り太陽を見上げ、踊り始めた。次の日も、その次の日もずっと、彼女はそこにいた。ただそこにいて、ただ踊っていた。だが、彼女が躍っている理由は掴めないまま歳月は過ぎ、僕は再就職を決めた。



「文化祭」

「うん。まあ事務員は関係ないんだけど、放課後のこの時間も騒がしくなるからさ」


 上司の小野寺さんが、僕にコーヒーを渡しながら話した。前職では規定の飲料以外は禁止だったから、職場でコーヒーを飲めることも、上司からマグカップに入った飲み物を貰うことも初めてだった。

 僕は学校の事務職員に転職した。学校は良い。定時で帰れる他、長期休暇が取りやすいという。長期どころか、休暇を申請することさえ不可能だった数か月前の僕は、初めての制度に少し緊張した。もうすぐ文化祭を控えた校内は、準備をする生徒に溢れていた。おかげで、朝も、放課後も、いつもより騒がしい。二学期明けの全校集会、着任式のため体育館のステージに立った時、真面目そうな生徒ばかりだと思った。制服や髪型が程よく乱れていても、それはファッションではなく、早朝寝坊してきただけだと見受けられた。僕や紹介して下さった教頭のことを見つめる視線が、青々とした若さを感じる。今の僕にも、生徒くらいの歳だった時の僕にも無かった輝きだった。僕はその中で自然と、彼女を探していた。


「すいません」


 事務室から職員室に行く間に、女子生徒に話しかけられた。靴に刻まれているマークを見る限り、三年生だろうか。通りで教室の外観がどこの階よりも凝っている。


 「上の画鋲って取ってもらえますか。男子が貼って行ったんですけど、私達じゃ取れなくて」


 彼女は、意味無いところに付けないでって言ったのに、と愚痴を吐露していた。辺りには僕からは後頭部しか見えない背の小さな女子生徒しかおらず、たまたま通りかかった僕に声を掛けたのだろう。成人男性ならすんなり届く場所に、頑丈に押されていた金色の画鋲があった。僕は軽く背伸びをして画鋲を女子生徒に渡す。


「ありがとうございます。お化け屋敷、やるんです」

「お化け屋敷、ですか」

「そうです。じゃんけんで勝ち取って」


 彼女達の教室は、真っ黒な画用紙に覆われていた。「お化け屋敷」と大きく書かれた看板は、書道が得意な生徒に頼んだものなのだろう。生々しい自体が、学生らしい恐ろしさを演出していた。


「事務員さん、ですよね。二学期の朝礼で」

「そうです。皆さんと会う機会は、あれで最後かと思ったんですけど」


 文化祭前は放課後も忙しそうですね、と、当たり障りのない会話をする。彼女達にとっては、三十手前の大人がこの学校にいることが珍しいのだろう。何週間働いていても、僕と同世代の人を見ていない。


「時間あったら、ぜひ見に来てください」


 彼女は僕にお礼をして、教室の中にいるクラスメイトに声を掛けていた。僕は教室の外観を見ながら、職員室に向かう用事を思い出し、歩き出した。


 文化祭当日、校内は賑やかだが、事務室は静かだった。お孫さんがこの高校に通っていると言っていた、上司の島崎さんのバッグだけが、彼の机の上で静かに座っているだけ。僕は休日を使って、初めての文化祭を観に来ていた。

 学校はたくさんの人で溢れていた。メイド服を着た疑似カフェの店員、着ぐるみをまといながら出店の宣伝をしている生徒、教室の前で順番はまだかと心躍らせる大人、風船を持って走り回る子ども。文化祭準備期間の騒がしさとは違った混沌がそこにあった。


「濱田さん!」


 誰かが僕の名前を呼びながら袖を引っ張る。この前画鋲を介して話をした女子生徒だった。彼女はお化け屋敷の受付をしていて、顔や手首に傷をあしらえていた。袖を掴む手が数ミリずれていたら、彼女の血糊が僕の白いワイシャツに付きそうだった。


「来てくれたんですか」


 彼女は僕のことを覚えていた。見た目だけではなく、名前まで記憶していたのだ。彼女は魔性の女と化すだろう。いや、辺りにいる男子生徒の目線と彼女の露出度の高い衣装を見る限り、もう既に魔性の女なのかもしれない。


「初めての文化祭なので、回ってみようかと」

 

 この学校に若い教諭がいないせいか、生徒との距離感についての注意事項を知らされていない。だが、最近は大人と子どもの関わりについてとやかく言う人間が多いのを知っている。だから出来るだけ少なめに、でも不愛想な人だと思われないように振舞う。


「お化け屋敷、うちだけなので結構混んでるんです。落ち着いたらまた来てくれますか?」

 

 辺りを見回すと、確かにどこの教室よりも長蛇の列が出来ていた。そもそも中に入るつもりは無かったけれど、分かりましたとだけ告げてその場を後にする。彼女は休憩を取るために外に出てきた髪の長い女子生徒と共に、僕と反対方向にいなくなった。



 僕は屋上に来ていた。誰もいない静かな屋上は、校内の騒がしさとは比べ物にならなかった。僕は久しぶりに大勢の人間とすれ違い、色の多さを感じて、少し疲労が溜まっていたようだった。屋上に上がってすぐの所で、出店のウーロン茶を飲むためにしゃがんだ。ただの飲み物ですら学生らしさを感じるのは、僕が今まで一度も文化祭を経験したことが無く、文化祭に対する幻想と、学校の玄関のドアを開けてからここまでで得た文化祭の現実が相まっているからかもしれない。僕に入り込んだウーロン茶は、今まで飲んでいたウーロン茶とは違う味だった。ふと空を見ると、灰色の雲に覆われて少し濁っていた。九月十三日。彼女が屋上に現れなかった日と似た天気だ。


「あ」


 ドアを開ける音と同時に、小さな声が聞こえた。振り返るとそこには、彼女がいた。屋上で踊る彼女だ。彼女は僕のことを一通り見て言った。


「屋上には、貴方一人ですか」


 彼女は屋上の真ん中に向かいながら話した。


「……今のところ、誰にも会ってません」

「そうですか。じゃあ、そこから誰も入って来ないように、見張ってくれますか」


 彼女は自分の隣にスクールバッグを置いて、屋上のドアを指さした。僕は自然とドアまで歩き、近くにあった棒でドアを塞いだ。少し動悸がする。アパートからでしか見れなかった彼女が、そこにいる。僕の感情を揺さぶる彼女が、ここで踊るのだ。


「濱田さん、ですよね。濱田創さん。事務員の」


 沙織ちゃんから聞きました。彼女はそう言って空を見上げた。


「画鋲、濱田さんが取ってくれたって聞きました。ありがとうございました」


 彼女は僕へのお礼を太陽に向かってしていた。見えない太陽を見て、言葉での感謝からは程遠いポーズをしていた。彼女の言う沙織ちゃんとは、あの魔性の女のことか。彼女は一事務員の名前をクラス中に広めてしまうほど地位の高い女性なのか。僕が同じクラスにいたら、確実に友達にならなかった人だ。

 彼女は僕の存在を消し去るように、踊り始めた。今日は、彼女のことを最初に見た時と同じコンテンポラリーダンスだった。音のない屋上で、音に身を委ねているかのように踊っている。彼女の動きに合わせて靡く髪、白くて細い腕と脚。彼女の笑顔。マンションの二重窓を介してでしか見られなかった彼女が今、ここにいる。心臓の高鳴りがさっきよりもずっと体中に響く。小さい頃、喘息の発作が出た時と同じような胸の苦しさだ。だがその時よりも、ずっと心地の良い苦しさだった。どうかこのまま、鼓動で心臓を締め付けて、息途絶えればいいと思った。段々と、興奮が抑えられず、息が出来なくなった。下半身を抱え込むようにして倒れた。


 一緒だ。あの時と、今までと一緒だ。僕にはこの風景が身に付いていて、この儀式があるから「生きている」と感じられるのだ。僕はここから、逃げられない。


 彼女の踊りが終わった時、僕はようやく、自分が息をしていないことに気付き、呼吸を整えた。自分の両手を見ると、真っ赤に染まり、汗が滲み、握り過ぎて食い込んだ爪跡を孕んでいた。それは、彼女の踊りに、彼女自身に惹かれ、もっともっとと刺激を求めていたことを表した。彼女はそれに気付き、スクールバッグを持って僕の元に走った。


「大丈夫ですか」


 彼女が僕の手に触れた時、離れたくないと思った。


「離れられない」


 僕は、自分にしか聞こえない声で呟いた。でもきっと彼女には聞こえていたはずだ。


「君も、ブラックなんだね」


 彼女にそう伝えて、僕は息を整えながら目を閉じた。



 僕の日常は、人間の日常とは少し違っていたのかもしれない。でも、それに気付くことも、気付かれることも無かった。なぜなら、皆「一緒」だったからだ。


「いただきます」


 小さい頃から、朝七時には朝食を摂った。ベージュのクロスを掛けられた長いテーブルで、全員が食パンにマヨネーズをかけて食べていた。僕に母と姉がいたが、それ以外の全員も「家族」だと言われていた。名前も顔も知っている人だが、続柄は説明が出来ない。そんな人達も、ここでは「家族」だった。平日の朝八時。朝食を一通り終えると、女性達が着替えを始める。普段着と同じベージュ色で、太腿がほとんど見えている薄いワンピース。男性であった僕や他の家族たちは、女性達が着替え終わるのを待っている。その時間の講堂は、牧草に群がる牛で溢れた牛舎のようだった。女性達は着替えを終えると、男性と「父」の前に立ち踊り始める。音楽は存在しないが、音楽に乗せて踊っているように見せることが、この「儀式」の規則であった。僕は小さい頃からこの「儀式」が苦手で、最後まで見れずにトイレまで走って行った。そのため、講堂にいる男女が行なう「祈り」を見たことが無い。だが、母や姉らの聞き覚えのある声が、喚き壊れていることだけは分かった。


 「世界に馴染むため」という理由で、一般の公立高校への進学が認められた。今まで見てきた、ベージュを基調とした世界が、嘘のようだった。黒い制服、深緑の黒板、青色のマークが入った白い靴。僕の世界は、ベージュから様々な色に染められて、何色かの判別がつかなくなっていた。でもそれが「家族」以外の人間にとっての当たり前だと知った。混沌の中で生きることが当たり前で、僕はそれを羨ましいと思った。だが、僕の羨望が叶うことは無かった。


「九月十三日。本日の朝礼を始めます」


 九月十三日は、僕達の「父」である、黒木功明の誕生日だった。僕達は全員講堂に集まって、父の誕生日を祝っていた。だが人生で初めて、父の誕生日から目を背けようとした。

「創」

  家の大きなドア。体調が優れないと嘘をつき、全員が講堂に行くのを確認して高校に行こうと思っていたのだ。九月十三日は、文化祭当日だった。だが、聞き覚えのある声が僕の後頭部から額までを大砲のように突き抜けたせいで、体が思うように動かない。


「具合は良くなったのか」


 父は優しい。父の口調は、誰も責めることのない、癒される声だと言われている。僕は感情の分からない父の声に包まれ、言葉を発せなくなっていた。後ろから、「父」が僕に近付く気配を感じた。


「創。この世の人間は誰しも欲望がある。お金持ちになりたい、スペックの高い恋人が欲しい、綺麗になりたい、自分の思い通りに事が進んで欲しい。学校の文化祭に行きたい」


 父は知っていた。僕を始め、「家族」の中にいる高校生達が、自らが通う高校の文化祭に行きたがっていることを。


「でもそれは、本当に自分に必要なことなのだろうか。欲望を越えたその先にある幸せに、本当の幸せがあるのではないか。創、私達が望んでいるのは、なんだろう」


 「父」に肩を掴まれ、振り返る。「父」の後ろに掲げられている、「本当の幸せ」という文字が、自分が成長するにつれて、大きく、恐ろしく、誇り高く感じるようになっていた。その時僕が見た「父」とその文字は、僕の心を酷く縛り付け、高校に出向く足を止めた。僕が高校を卒業し、大学を卒業し、この世界から出ずに講堂の地下で事務職員として働くことは、逃れようのない道に思えた。

 

 「父」が亡くなったのは、働き始めて三年、僕が二十五歳の誕生日の次の日だった。前日に「家族」がお祝いをしてくれた矢先の出来事だった。そこから僕達「家族」は、崩壊の一途をたどった。「父」の地位を巡った男性同士の戦い、「父」の一番のお気に入りであった最後の妻の取り合い、何百人もの人間が毎日毎日戦争を起こした。戦争を起こす集団に巻き込まれたのが、僕のような争いが嫌いな人間で、「こんなことも出来ないのか」「お前は男として失格だ」「姉はどうして優秀なのにお前はダメなんだ」と意味もなく罵られた。「父」が無くなると同時に、私達「家族」には、秩序と規制が無くなった。そして僕は、「宗教団体ブラック」を抜け出した。



 目が覚めると、僕は屋上の端で寝転んでいた。隣には体育座りをする女子高生がいた。つま先から脚、そよ風が吹けば簡単に捲れそうなスカート、手元には本があり、彼女が読書をしていたのだと知る。彼女は僕が舐めるように自分を見ていたことを知り、読書をやめてこちらを向いた。


「目、覚めましたか」

「……はい」


 僕は夢を見ていた。生まれてから仕事を辞めるまでの一部始終を、走馬灯のように駆けていた。団体から離れた今も、あの時の記憶がこうして自分の身の裏にこびりついていると思うと、全身が痒くなった。


「あなた、創君でしょう。H棟にいた、黒木創」


 彼女は僕の、団体にいた時の名前を言った。


「黒木和泉です。ああ、もう覚えていないかもしれないけれど」


 彼女はスクールバッグについている、黒いリボンを見せた。裏面はベージュになっているそれは、「宗教団体ブラック」の信者である証だ。それに、


「君は、父の最後の妻」


 裏面が、僕の持っていたリボンよりもベージュが少し濃い。それは、「父」の正妻、もしくは側室に与えれるリボンだ。


「覚えていましたか。脱獄した、濱田創君」

「脱獄だなんて」

「脱獄ですよ。あそこは地獄ですから」


 彼女は本をしまって空を見上げた。彼女は、「父」の六番目の妻であった姉に似ていた。彼女にどこか懐かしさを感じていたのは、姉と彼女の横顔が、どこか似ていたからだ。


 ――「創は、好きに生きて良いんだよ」


 十個も上だった姉は、僕にとって憧れの人だった。姉に言われた言葉が、僕の心の片隅に住み着いていた。


「父が亡くなってから、私の人生は変わりました。父の権力で歯止めが効いていた男達が、代わる代わる私の部屋に押し掛けるようになりました。父の側室になれなかった女性達の中に、私のことを守ってくれる人なんて誰もいなかった。貴方だけだったんです」


 彼女は僕の方を向いた。髪を片方に寄せ、長い髪で見えなかったうなじがこちらを向いている。そこにはナイフで切ったような、鋭い傷があった。


「もういなくなってしまいたい。父のいない世界など、生きる意味がない。そう思ってナイフで切りました。朦朧としていく意識の中、貴方が止血をしたんです。君は生きるべきだ、生きる価値があるって」


 僕がいなくなる前日、「父」の遺影の前に血を流して倒れる女性を見つけた。それが彼女だったという。


「朝八時。服を着替えて踊るあの儀式は、自分の願いを念じながら踊ると良いと言われています。あの時は誰もが父のお眼鏡に叶うようにと踊るものでしたが、私は貴方に助けられた時から、貴方にまた会えるようにと願っていました。太陽に向かって踊れば、誰よりも願いを聞いてもらえると思ったからです。今日は朝から文化祭の準備で忙しく、八時には間に合いませんでした。なので、この時間に」


 彼女は僕の頬に触れる。


「父は見てくれているのですね」


 僕は彼女の頬に触れ、唇を合わせた。僕が望んでいた幸せは、ここにあった。僕は彼女のリボンを解いて、自分のポケットに詰めた。


「これからは、僕の前だけで踊っていて欲しい」


 彼女のスクールバッグには、引きちぎられた薄いワンピースが入っていた。


 「宗教団体ブラック」の幹部三人が、麻薬及び向精神薬取締法違反の罪で逮捕された。教祖である「黒木功明」が亡くなったことにより、反乱が起きた信者達をまとめようと、信者約七十四人が覚せい剤を使用したという。


「和泉、起きて」


 彼女は一瞬だけテレビのニュースを見て、二度寝していた。時刻は七時半。僕も彼女も、学校に向かう準備をしなければならない。彼女は小さく唸りながら布団の中を彷徨う。


「遅れちゃうよ」


 スーツを着て、座椅子に腰かける。二人分の朝食をつくるのにももう慣れた。彼女が洗面所から帰って来る間に、冷蔵庫からマヨネーズを取り出す。


「今日は友達と宿題片づけてから帰るね」

「分かった。ご飯は?」

「家で食べる」


 彼女はもうすぐ無くなりそうなマヨネーズの容器を、これでもかと押している。彼女からそれを取り上げて、容器を押しながら空気を入れ、蓋を閉め、何度か振った。


「ありがとう」


 彼女は食パンを頬張った。僕の二分の一にも満たない一口を一生懸命噛み砕く彼女は、世界中の誰よりも愛おしい。


 テレビに映るアナウンサーが、八時丁度を知らせる。僕はテレビを消して、遮光カーテンを閉める。知らない間に彼女の準備は万端だった。


 朝八時。

 今日も「僕だけの儀式」が始まる。最後の「祈り」を行なうのは、彼女の前だけだ。

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