大学一年

緋川イオリ

第1話 春に出会った男

 愛していた。

 誰よりも愛していて、誰よりも愛してほしかった。



 女の顔をしていた。見たことのない顔だった。

 胸の中にうずくまる行き場のない苛立ち――というにはあまりに消極的な感情だった。

 どうすれば良いかわからなくて、自分には入る隙間はなく、捨てられたのだと思った。

 離れてほしくないのに、愛していてほしいのに、それを言い放つ勇気も、怒りさえも湧いてこなかった。

 あきらめに似た感情で同じ家にいた。暮らしたというには冷え切っていた。

 断ち切ってしまえばもっと楽になれたのだろうか。これほど一緒にいて苦しいのに、一度離れたらもう修復できなくなってしまいそうで、浅ましくすがろうとする自分まで嫌いになった。

「愛してるから。もうしないから。大丈夫」

 大丈夫。なにがだろう。

 もう自分は過ちを起こさないという、自負から来るものか。それとも、こちらの苦しさを知った上で、自分は離れないから安心しろという驕りから来るものだろうか。

 信じるだけ、期待するだけ無駄なのだ。

 教育費だとでも思って、その不埒な行為と薄っぺらい愛情を受け取ってやろうと思った。

「そっか」

 そう言うので精いっぱいだった。



「明日一限切るか?」

「お前そろそろ単位やばいだろ」

「ありゃ、ばれてたか」

 名護尚史なごしょうじ。軽薄で女たらし。というより人たらし。

 正直言って苦手なタイプだ。なぜこんなやつと貴重な大学生活を共にしているのか自分でもわからない。

「俺は出る。お前は勝手にしろよ」

「冷てーよゆう。仕方ないな、出るか……」

 一度も許可した覚えはないのに勝手に下の名前で呼ぶようになった。

 瀬河夕せかわゆう。自分の名前は好きではなかった。

 夕焼けって、ロマンチックじゃない。そう言って浪漫を押し付けてくるあの人が好きではなかった。夕焼けを見ながら誰を思っていたか分かってしまったから。

 最後の講義が終わってそれぞれ教室から出ていく。

 大学に入学して三か月。既に教室の空白が目立ち始めている。

「この後空いてる?」

「バイト」

「まじかよー。じゃあ明日は?」

「バイト」

「お前働きすぎじゃない?」

「親にばっかり頼るわけにもいかないだろ」

 上京している身では楽ばっかりもしていられないし、できるだけ自立したかった。

「まあ……でも体壊すなよ」

 そういうこいつも上京組なのだが。

「いつなら空いてんの」

「しつこいな」

「そんなに嫌?俺と遊ぶの」

「別に」

 名護は俺の顔を大きな動作で覗き込んできた。

「嘘が下手だなあ。顔に出過ぎ」

「じゃああきらめろよ」

 そもそも何で自分なんかにこいつが絡んでくるのか全くの謎だった。

「いーから。時間あるとき教えてよ」

「わかったよ」

 適当に返事をしておけばそのうち忘れるだろう。

「そんじゃな」

 いつの間にか大学の最寄り駅に着いていた。

「ん」

 名護とは乗る路線が違うので改札で別れた。



 大学受験を終えて、逃げるように家を出た。

滑り止めで受けた大学に行くことになって、地元の本命に落ちた悲しさもありつつ、少し、いやかなり、嬉しかったというのは負け惜しみに聞こえてしまうのだろうか。

 息が詰まるような家に居続けるより、一人暮らしの寂しさを受け入れるほうが簡単だと思った。

 父さんには申し訳ないことをしたが、実際、慢性的なストレスから解放された毎日はそれだけで幸せだった。

 だが、一人で悠々自適に、とはいかなかった。

 名護尚史という男と最初の講義で隣になってから、ずっと付きまとわれている。

 高校なら絡みのないまま終わるタイプの人間だろうな、と思った。

 印象的な目の持ち主だった。涼しげに整った形でいて、その目で見つめられると吸い込まれそうに感じた。

 おおらかで人当たりのいいやつだ。この前だって、親しげに話していた相手がいたので知り合いかと尋ねたら、知らない人、とあっけらかんと答えた。

 いくらでも友達を作れるだろうに、自分にばかり付きまとう意味が分からなかった。



「ゆーう。おはよう」

「来たんだな」

「まーね。今日も低血圧だな」

 テキストの入っていなさそうなカバンを振り回してどかりと座る。

「やべ、テキスト忘れた」

 やっぱりな。催促される前に差し出す。

「お、ありがと。印刷してくる」

 貴重なバイト代が何とか言いながら教室を出て行った。



「お前今日もおにぎり?」

「いや、学食」

 いつも節約のために持参していたが今日は時間がなかった。

「珍しいな。やめちゃったの?」

「ちょっと寝坊した」

「ふーん。お前も寝坊とかするんだ」

 腕をつついてくるのを無視して食券を買う。

「何にした?」

「うどん」

「好きなの?」

「一番安かった」

「たまになんだから好きなの食えばいいのに」

 言いながら名護もうどんの食券を買っていた。

「好きなのか」

「別に」

 なんなんだこいつは。首を傾げつつ列に並んで、ネギだけが散らされたうどんを受け取った。

「名護くーん!」

 大学に来るだけとは思えないほど着飾った女が、食堂に声を響き渡らせながらやって来た。

「一緒に食べようよ」

 断られる隙も与えず、手には、キャンパスの中にあるコンビニで買ったであろうサラダとカップスープが握られている。

「今日来てたんだ」

 名護は驚いた様子で、その女に笑顔で手を振っていたが、その声がいつもよりも少しばかり他人行儀な気がして、なんとなく優越感を覚えた。

「ごめん、いいか?」

「俺は別に」

 断ったってあの女はどうせ引かないんだ。

「ありがと」

 女は、名護が引いた椅子に滑り込むように座った。

 リラックスできる昼の時間が窮屈になったように感じられて、少し憂鬱だった。



「今日の女子、仲良いのか」

 授業が始まる時間をもう10分過ぎたのに、教授は来ない。

「水曜の授業被ってて、その時グループワークで話したの」

「てっきりサークルが同じとかなのかと思った」

「え?」

 名護が心底驚いたような顔をしている。

「なんだよ」

「俺お前に言ってないっけ。サークル入りそびれたの」

「聞いてない」

「そうだっけか。俺さ、残念なことに入れなかったんだよ。定員オーバー」

「定員とかあるのか」

 サークルに入ろうともしなかった夕には無縁な話だった。

「そうそう。結構人気サークルでさ、先着順乗り遅れちゃったんだよね」

「なんのサークルだったんだよ」

「ぬいぐるみ同好会」

 ぬいぐるみなんかには縁もゆかりもなさそうな男の口から飛び出したワードに、脳が混乱したが、教授が教室に入ってきて室内は静まり返り、それっきりだった。

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大学一年 緋川イオリ @hikawa12

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