木一堂とあたしの或る日⑬

「最後に、名前だけでもお聞きしてよろしいでしょうか?」


「あたしですか……?」


 一瞬だけ視線を店主に向けると、彼は無言で軽く頷いた。


「あたしは……」


 そこで一度口を閉じ、気持ちを落ち着けるために軽く息を吐き出した。


「あたしの名前は、松山まつやま みどりって言います」


「みどり……漢字は新緑の緑ですか?」


「あっ、いえ、翡翠の翠です」


 それで納得したのか、男性は、あぁ、と漏らした。


「美しい名だ」


 彼はそう言って笑うと、そのまま店を後にした。


「そんな名前だったんですねえ」


 店主はしみじみとした声で言うと、こちらの顔をじっと見つめた。


「似合って無くて悪かったですねー」


 あたしは舌をんべっと突き出すと、店主は「いえいえ」と顔の前で手の平をひらひらとさせた。


「貴女にお似合いの綺麗な名前だと思いますよ?」


「なんだか嘘くさいんですが……」


「失礼な。なら、僕の名前も代わりにお教えしましょう。これでイーブンになるでしょう?」


「うーん……まあ、そうでしょうけど……いや、そうですか?」


 あたしの言葉を無視して、店主は誇らしげに笑う。


「僕の名前は阿佐見あざみ にしきです」


「あざみにしき……? 木一じゃないんですか?」


 思ったことを尋ねると、店主もとい阿佐見さんは「違いますよ」と言って、大きく伸びをした。彼の肩の辺りからパキポキと小気味の良い音が聞こえてくる。


「あのお客さんの話、何時いつから聞いていたんですか?」


 あたしは阿佐見さんが突然出てきたことを思い出し、訝しみの籠もった視線を彼に向ける。


「さあ? 何時からでしょうねえ」


 阿佐見さんは愉快そうに笑ったかと思うと、一瞬だけあたしに視線を向けた。だが、あたしの表情が真剣だったからだろうか、観念したと言う風に少しだけ肩を竦めた。


「この店は狭い上に、音がよく響きますからね。筒抜けだったんですよ」


 その言葉になるほどと納得する。


「まあ、僕が集中して何かをしているときなどは聞こえないんですがね」


 店主は苦笑して言うと、恥ずかしそうに右頬を掻いた。


「あっ、だから、最初あたしが呼んだときもすぐには返事をくれなかったんですね」


「えぇ。実はちょっとした資料を探していまして……」


「資料?」


「先客に頼まれていたものなんですがね。どうも見つからなくて」


 店主は曖昧に笑って、店先へと視線を向ける。それにつられるように、あたしも淡い夏の日が差し込む外へと視線を向けた。

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