第1話①
聖リシア高等学校。東京の端っこにあるカトリック系の私立高校で、もともと男子校だったのだが、20年以上前に男女共学となり、現在は通信制課程も併設されている。一学年百人足らずの小規模、少人数のクラス編成で、生徒一人一人に丁寧な学習指導を行えるのが魅力だ。入学時は普通科のみで二年から大学受験を見据えた「特別進学コース」と、部活と勉学以外の興味関心を伸ばす「総合進学コース」に分かれる。2020年からは海外留学などグローバルなプログラムも取り入れられ、より外の世界に視野を広げるきっかけ作りも指導に盛り込まれ始めた。昨今は海外で仕事を始め、起業する20代も多くいるので、海外に興味を示す者は多くなっている。英語にも少なからず学びたい意欲を感じるようになってはいるが、やはり体感では英語嫌いの生徒は多い。
特に俺、
今なら俺が学生時代に教鞭を執ってくれた英語教師の悩みがよくわかる。過去に怒りながらも俺に英語を叩き込んでくれた先生の熱意を勝手に感じながら、俺は今日も教壇に立ち教科書を開いている。
「じゃあ次の英文を、
俺の指名に1年3組出席番号6番、
「I will go to convenience store. 意味は、私はコンビニに行くつもりです」
「はい、じゃあこの英文の意味をそのままにして言い換えはできる?」
「I am going to go to convenience store. です」
「正解、ありがとう。もういいよ」
10秒もかからず玄井さんは回答を終えて着席する。他の授業でも同じだと思うし4月に入学してまだ数回しか授業はしてきていないが、彼女が言い当てられて10秒以上時間がかかった覚えがない。予習復習はしっかりしているようでこっちとしてはありがたい限りだが、その分、余計にわからないことがあった。
これほど勉強ができて品行方正な彼女が、何故ゴールデンウィークのあの夜に、繁華街で一人座り込んでいたのか。
余計な思考を振り払い、玄井さんの次の席に視線を送る。だが彼女の後ろの席の女生徒は心地よさそうな寝息を立てていた。
背中を丸めて仮眠を取っていたのは一年三組出席番号十三番、
だが世のなか完全な人間などいないように、彼女にも苦手な分野が存在する。それが英語だ。
「古木さん。起きろ」
俺の呼びかけに愛恵はこゆるぎもしない。クラス内の生徒たちも彼女を起こそうと口々に彼女の名を口にする。ただ愛恵の前にいる玄井さんは振り向くこともせず、一心に黒板の方を向き板書を続けた。
「古木愛恵。昼休みだぞ。ランチタイムはいいのか?」
「え⁉ ウソ⁉ お昼休み⁉」
座ったまま、しかも背中を丸めた状態から数秒もかからないほどの速さで席を立つ俊敏さには彼女の運動能力の高さを見た。
「おはよう、古木さん。良い夢が見れたか?」
「……おう、朝見せんせ。その」
「わかってるよ、古木さん。君の英語嫌いはそう簡単に直るもんじゃないだろうし、君の居眠りも元を辿れば、俺の授業内容がつまらないから起きた結果だ。先生も深く反省しなきゃならない」
「え、あ、えぇと」
「でもだからといって君の居眠りを許すわけにもいかない。てなわけで両成敗ということで、今しがた玄井さんが訳してくれた英文、もう一度読んでくれるか?」
ツインテールを揺らしながら渋い表情で教科書を開く古木さん。しかし先ほどまで夢の中の住人だった彼女に玄井さんが訳した英文を読み上げ、しかも訳することなど不可能だ。
「玄井さんと同じ質問を答えきれたら今回の居眠りについては見逃してやろう。だが訳せないなら補修という形で時間を取ってもらうことになる」
「ホシュー⁉ もしかして放課後居残り⁉」
「俺も残念でならないがそうなる」
「ならなしに」
「そしたら明日からみんな俺の英語の授業は寝てもいい授業ってなっちゃうだろ? それは俺が困る。俺の授業は聞いていなくとも最低限寝ちゃダメくらいの危機感は持ってほしいんだよ」
古木さんは絶望で顔を真っ青にしているがこれでもかなり譲歩している。というか教師なら「聞いていなくとも」なんて口が裂けても言ってはならない禁句だ。それをあえて言うのは俺が学生時代、英語を好いていなかったから。自分が嫌っていた英語を教師になったからといって今の学生たちに押し付けるのは俺も忍びないので、できる限り譲歩しており英語を少しでも好きになってもらいたいので、座学だけでなく音楽や映画など様々なやり方で英語を知れる授業を取り組んでいる。
それでも自分が寝ずに考えた授業で、生徒が寝息を立てられれば悔しいを通り越して悲しくなる。聞かなくても、せめて聞いている振りくらいは取ってほしいのだ。
「でも、今何ページかわからない……」
「そりゃ寝てたらわからんだろう」
「ど、どうしよう、せんせ?」
「俺に聞いちゃうのか?」
古木さんは辺りを見渡すも、周りの生徒たちは助け舟を出そうとしない。俺は決して怒っているわけではないが、古木さんのやらかした失態がクラス全体の雰囲気を格段に落としてしまったために、俺まで険悪になっていることにされてしまったのだ。古木さん本人も自分の行いが発端だとわかっているがゆえに、誰かに助けを求めようとしてもなかなか口に出すことができず、でたらめに教科書を開いては閉じるを繰り返すばかり。
「14ページの二行目」
すると意外なところから助け船が出た。古木さんの前の席、つまり玄井さんが古木さんにページ数を教えたのだ。
「別に、教えるなとは言ってませんでしたよね、先生?」
玄井さんの言った通り、俺は古木さんに「助けを求めるな」とは言っていない。俺もすぐに別の生徒が助けると思っていたので、予想より長く時間がかかったことと、玄井さんが古木さんを助けたことが予想外だった。
「あぁ、そうだな。俺は別に『教えちゃダメ』とは言っていない」
古木さんはさっきまでの暗い表情を一気に明るくし、玄井さんに直角のお辞儀をした後、すぐに教科書を開いて該当の英文を読み上げて行く。
「えっと、あいうぃるごーとぅーこ、こ、こん?」
「コンビニエンスストア」
再びの玄井さんアシストに古木さんは拙いながらも英文を読み上げる。学内では同年代の生徒と話している姿をあまり見かけないからか、居眠りした古木さんを助ける玄井さんに驚きを禁じ得ない。
もちろん顔には出さず、古木さんのたどたどしい読み上げが終わった頃合いで俺も手に持っている教科書に目を通す。
「はい、よくできました」
「やったぁ……玄井さん、ありが」
「で、言い換えと意味は?」
安堵と感謝を玄井さんに伝えようと古木さんが気を緩めた直後、俺は次の質問を続ける。
「え? イミ?」
古木さんの間の抜けた表情を皮切りに、緩みかけたクラス全体の雰囲気に緊張が戻る。
「英文の読み上げは教科書見てたらわかるだろ? 玄井さんの手助けもあったんだからそれくらいは当然できてくれないと。俺はその後の言い換えと意味を知りたいんだ」
「い、言い換え」
「できなきゃ進まないし補修確定だ。できないなら
玄井さんは目を伏せて「はい」と告げ、再びの静寂がクラスを包み込む。誰も彼も古木さんが自力で答えることを祈っているが、今日やっていた教科書のページ数も把握していない彼女に俺の質問が答えられるわけがない。
それこそ誰かの手助けがなければ。
「先生」
再び玄井さんが挙手しながら告げる。俺は「なんだ」と返す。
「私は援護できない、ということは私でない
古木さんだけじゃなく、今度はクラス全体が俺に視線を向ける。今回も頭を使ってくれたのは玄井さんだったわけだが、俺は用意していた言葉を口にする。
「今日の俺はどうも舌足らずみたいだ。だがそうだな。玄井さんの言う通り、さっきの言い方じゃ玄井さんだけ援護はダメって言ってるように聞こえるな」
わざとらしく、俺はクラスのみんなに聞こえるように声をやや大きくして伝える。
「しかし今さらみんなの援護なしっていうのもおかしいし、そうだな。古木さんを助けたいやつは」
「愛恵! あきらめるな! 15ページに言い換えの英文があるぞ!」
「アイムゴーイング、からはなんとかしてくれ!」
「意味も15ページの下の方に書いてるから!」
生徒一丸となって古木さんに応援やヒントを与える。中にはヒントどころか回答を教えている生徒もいるがそこは黙って見守ることにする。全文言おう思えば言える生徒も中にはいるが、その生徒たちもあくまで古木さんが自力で言えることを優先してくれている。
「みんな……」
クラスみんなの応援を一心に受け、古木さんは再び教科書と向き合う。
「あいむ、ごーいんぐとぅーばい、ざにゅーちけっと?」
「はい、よく言えました。意味は?」
「ワタシは、明日、コンビニに行くつもりです。予約していたチケットを買うためです!」
「はい、よくできました」
まるでオリンピックの開催地に認められた国の代表たちのように歓声がクラス中に響き渡る。一年三組はお祭り騒ぎで古木さんも「みんなありがとう!」と諸手を上げて喜んでいる。
「じゃあちょっと早いけど今日の授業はおしまい。それと古木さんは今日の放課後、この階の英語科準備室に来るように」
ついでのように伝えた補修の予定を聞いて古木さんは「えぇ⁉ なんで⁉」と叫ぶ。
「古木さん、ゴールデンウィーク前の英単語の小テスト、覚えてるか?」
俺の質問に古木さんは何かを思い出したのか「あ」とだけ答えて固まる。
「残念なことに、君だけ名前を書いて後は真っ白だったんだよ。一問でも答えてくれれば厳重注意で済ませるつもりだったんだけど、さすがに名前以外空白というのはな」
「そ、れはワタシのせいだけど、今日は嫌‼ 絶対嫌」
「何か用事があるなら仕方ないけど、補修に来てくれたらついでに次のスペシャル授業の詳細を伝えておこうと思ってな」
スペシャル授業とは俺が考案した座学でない英語の授業で、教科書以外の参考資料を使っての授業を意味する。内容は英語にまつわる映画、音楽、イラストなど英語+何かで構成されており教科書以外の資料を使う兼ね合いで、俺だけでなく生徒の準備も多分に必要とする。よって手間暇かかるが昨年も今年も生徒の食いつきは上々だったりする。
「この授業中に次回の授業の内容伝えようと思ったんだが、思いのほか時間を要したからな。古木さんの補習後に直接言ってみんなに伝えてもらった方がいいかなって」
「今! 今言ってくれれば」
「昼休み削れちゃうけど?」
「そんなに伝える内容多いんですか⁉」
「古木さんが補習を受けないならそれでもいいけど、それなら次回も教科書の授業で」
俺の提案に古木さんと玄井さん以外の三組全員が「愛恵、補修に出ろ!」とか
「愛恵ちゃん、補修に出て!」と懇願し始めた。
「ちょ、みんなウソでしょ⁉ せんせ、そんなやり方あり⁉」
「仲間想いのクラスで良かったな、古木さん。じゃ俺はこの辺で。みんな昼飯はしっかり食べろよ。挨拶は省くからな」
教材を小脇に抱えて俺は逃げるように一年三組のクラスをあとにし、ちょうどタイミングよく終業のベルが鳴り響いた。背中で古木さんの悲鳴とうめき声が聞こえたが俺は振り返らず職員室を目指した。
トー横の街にジェミニは輝く suiho @togekuribo
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