Ferdinand Magellan (1480-1521)

 チェックアウトしたミサのキャリーケースは私のベッドで預かった。貴重品だけ身につけ空港に行く前にここに寄ればいい。優しさに感動したと喜ばれたが、この素直さにはヒヤリとさせられる。スラムもあるこの国に一人で滞在しているのは奇跡的に思えた。私が親なら新宿だって歩かせたくない。


「何か食べてから行こう。タクシーを予約しておくから」


 ゲストハウスの近くにあるダイナーで、ミサはパイナップル入りのバーガーを頼んだ。口いっぱいに頬ばるミサと油の匂い、私はそれだけで腹が膨れてしまい、酸っぱいコーヒーをそろそろとすすった。


「どうしてラプラプ像に行きたいのか聞いてもいい?」


 そう言うとミサはいたずらっぽく笑ってオレンジジュースを口にした。


「シオはさ、物事の二面性について考えたことはある?」

「ごめん、中卒なんだ」

「ううん。なんて言うのかな、つまり、悩んじゃったんだ。人生に。これでいいかな」

「分かるよ」


 大きなハンバーガーはミサの細い腹におさまった。着信がタクシーの到着を知らせ、乗り場に行くと嘘くさい笑顔の運転手が窓から身を乗り出して早く来いと叫んでいた。


「彼、何て言ってるの?」

「Give me your number.」

「ふうん」


 南国の運転手はお喋り好きか全くの無口かの二択で、その中間には出会ったことがない。前者はアクセルを踏み込むと舗装されていない道をガタガタと走り出した。


「ミサ、車酔いする?」

「大丈夫。ねえ見て、制服の女の子。近くに学校があるんだね」

「ゲストハウスから歩ける。時間があったら校庭をのぞきに行こう。万国旗がパーティみたいに木に飾ってあって可愛いよ。毎日運動会ってかんじ」

「なんていうか、全てがパワフルだよね」


 運転手は一人で喋り続けている。色々教えてやったんだからと運賃をぼったくる算段だった。

 到着すると色を付けた金を押しつけ、待っているから帰りも乗れという運転手に強く抗議して帰らせた。



 門をくぐり公園に入った。吹き抜ける風には潮の香りが混ざっている。浅瀬の海は澄んでいて水平線は遠い。開放的で自然豊かなこの島は、時々現実味がない。


 腰布を巻いた長髪の銅像が見えてくる。海に向かい堂々と立つ男は、南の島の王様というより、ジャングルのターザンのイメージと重なる。

 ラプラプ像を見上げるミサの表情には名前がつけられない。はるばる海を渡り会いに来たのだ。その胸に何か残るだろうか。


 目立つモニュメントがもう一つ。王の背中を見つめるように、石の塔がそびえている。マゼラン記念碑だ。

 衝撃的なことかもしれない。かたきであるラプラプ像の隣で、冒険者としての功績が賞されているのだ。


 マゼランはスペイン帝国の艦隊を率いて未知の大海に挑み、海峡を切りひらいた。布教も評価されている。マクタン島で没後、不屈の精神を引き継いだ生き残りが冒険を続け、世界で初めて地球一周を達成した。マゼランの計画した航海は成功し、世界航路の開拓者として人類に貢献した。

 二つの真実。航海途中に発見した島で侵略者として死んだが、歴史に残る冒険家として偉業を成したのだ。


 時代は過ぎ去り、何もかも変わった。

 信念をつらぬいて戦ったラプラプとマゼランが、今は同じ場所でたたえられている。

 子供達がはしゃぐ青空の下で、ふたたび会える日を待っているのかもしれない。そのとき彼らは何を話すだろう。



「シオ」

「もういいの?」


 感想は聞かなかった。ミサの目に薄く涙が張っていたから、それでじゅうぶんだった。

 海沿いの散歩道を歩き、戦いの様子を描いた壁画を見て公園を後にした。


「ランチを奢らせて。フィリピン料理を食べて帰りなよ」


 流しのタクシーに乗りミサの荷物を回収すると、空港の最寄りのスーパーマーケットに入った。お土産を安く買わせ、フードコートで代表的な料理を見つくろった。テラスのテーブルに広げると野犬が寄ってくる。犬には無視を決め込み、女二人で黙々と平らげた。



「本当にありがとう」


 時間だ。もう偶然は来ない。ミサに聞きたいことが溢れ出し、それゆえ何も言えないでいると、すらりとした手を差し出された。壊さないように握り返す。



「シオ、心はここに置いていく。いつかまた、あの海で会おう」



 そう言い残してタクシーに乗り込んだミサは出撃の戦士になった。進むと決意したような、困難に立ち向かうような、そんな背中だった。異国の勝者はミサに何か教えたらしい。頼もしく、強烈に羨ましい。

 私は過去、日本でつまずき、この島に逃げた。夢半ばで散った冒険者は、王の肩を抱かなかったはずだ。歴史は繰り返すと聞く。敗者が励ますなどおこがましい。黙って見送る以外、私に何が出来ただろう。


 小さくなるタクシーを見送りながら、ミサが彼女の人生に打ち勝つことを祈った。


 ああ、そして、いつの日か。勇敢なラプラプ王のように、未知の世界に挑んだ冒険者マゼランのように、私も己を信じ戦えるだろうか。人生から逃げた私は、ふたたびそれに立ち向かうことが出来るだろうか。


 ミサの心はラプラプと共にある。

 でも、あの海で私は待たない。

 いつかきっと、会いに行こう。


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あの海で私は待たない 水野いつき @projectamy

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