第一階層・件鬼(7)

 くずれていく。

 なにもかも、くずれ落ちていく。


 わたしの周囲を、まるでなだれのように、石と土砂が流れ落ちてゆく。

 その中に、コンクリートの牛舎の破片があった。教室の机や、トイレの残骸もあった。うしむしの群れや、丑の刻参りの女や、人面犬の姿が土砂の中から一瞬あらわれ、すぐにまたのみこまれて、真っ暗な地の底へと落ちていった。


 わたしの体は、宙に浮かんでいた。

 モネちゃんが首に手をまわし、わたしの体にぶらさがっている。


 上を見ると、まぶしい光があった。

 どうやら、わたしの体はそこに吸いこまれていくみたいだ。


「ど、どうなってるの?」

 わたしが聞くと、モネちゃんが笑った。

「死者は地の底の冥界めいかいへ。生者は地上へ。あるべき場所へ還るのよ。あたくしも、本当ならあの世へ行くべきなのだけど……。まだ、やり残したことがあるものだから。上まで連れていってくださる? 柚子さん」

 わたしはうなずいた。

 だけど、もうお別れが近いこともわかっていた。


 と、下のほうで、叫び声があがった。

 見ると、滝のように流れ落ちる土砂をかきわけ、件鬼が、こちらへのぼってこようとしていた。絶叫が空間をふるわせる。


「往生際の悪い……! 柚子さん、これ、なにか投げてちょうだい」

 モネちゃんはそう言うと、片手とひざを使って、器用にトランクを開けてみせた。

「な、投げるの?」

「ええ。冥府めいふからの追手には、何かを投げつけるのが神話のきまり。呪的逃走じゅてきとうそうよ。さあ、早く。このさい、なんだってかまわないわ」


 そんなこと言われても……。

 と、思ってトランクをのぞいたわたしはハッとした。

 がらくたの中に、見おぼえのある紙箱が入っていたからだ。手に取ってみると、やっぱり、あのレコードだった。


「ああ、それ? なんだか大切なものだったようだから、後でわたそうと思って拾っておいたのだけれど……って、ちょっと!?」

 モネちゃんが言い終わらないうちに、わたしは紙箱をびりびりに破りすてていた。

 つやつやした黒いレコードを手に取る。


 そして力いっぱい、それを投げつけた。


 レコードはぶうん、と空気を切りさいて飛び、まるで吸いこまれるようにして、件鬼の顔に当たった。

 件鬼が一瞬、ひるんだ拍子に、逆流する土砂をつかんでいた手がすべる。

 そして今度こそ、件鬼は無限につづく闇の中へと落ちていった。


「……よ、よかったの?」

 モネちゃんはきょとんとした顔で言う。

「うん。……だってもう、わたしには必要ないから」

 わたしはやっと、モネちゃんに笑顔を見せることができた。


 わたしの体はぐんぐん加速していく。

 天の光が近づいてきた。

「ね、柚子さん。……ひとつだけ、あたくしのわがままを聞いてくれる?」

 モネちゃんがほほをくっつけるようにして、わたしにささやいた。

「あたくしのこと、覚えていてほしいの。大昔に、有間モネという女の子がいたってこと。短いけれど、たしかに生きていたんだってことを」

「当たり前でしょ」


 わたしは、叫び返すみたいに言った。


「忘れないよ。忘れるわけないよ! わたしが大人になって、おばあちゃんになって死ぬまで……ううん、死んでも、ずっと覚えてる。わたしが幽霊になったら、ぜったい、モネちゃんに会いに行く」

「本当? うれしいわ。でも……お願いだから、急いで会いに来ようと思わないでね。楽しいことも、つらいことも、めいっぱいみやげ話をためこんでからにしてちょうだい。あたくし、ずっと、待っているから」


 光がわたしたちをつつんだ。

 あたたかくて、安心する光。でも、まぶしくてなにも見えない。

 肩にかかっていたモネちゃんの体重が、すっと軽くなった。


 待って!


 わたしは叫んだ。

 まだ、ぜんぜん話せてない。話したいことも、話さなくちゃいけないことも。お願いだから、まだ行かないで。もどってきて!


 夢中でふりまわした手は、何もつかまなかった。


 ――さようなら。ありがとう、柚子さん。


 すうっと意識が遠くなる中、わたしは最後に、そんな言葉を聞いた気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る