夜の冷えた空気が屋敷の中を漂っている。

「念のために聞くけど、ルーヴォはそういう目に遭ってないよね?」

 廊下に出て間もなくキシンスがたずね、タルヴォンは答えた。

「ええ、私は何もされておりません」

「それならよかった」

 安心したように言うキシンスだが、すぐにたずねた。

「だけど、気づかなかったわけがない。そうだよね?」

「……はい」

 思わずタルヴォンは伏し目がちになるが、キシンスは責めなかった。

「すまない、意地悪な質問だったね。君は使用人だもの、主人に逆らえるわけがないんだ」

 タルヴォンの胸がわずかに痛む。立場上仕方なかったとは言え、この場では責めてもらった方が気が楽なくらいだ。

「実を言うとね、僕は最初から彼のことがあまり好きではなかったんだ」

 少し苦い顔をして言ったキシンスの様子を、タルヴォンは黙ってうかがう。

「アレイドから酒場で悪口を聞かされたし、ルーヴォがその後に話してくれたこともあって、嫌な大人だとずっと思ってた。だからビジネス上の関係だけにしようと割り切って付き合ってきたつもりだ」

 手洗いは玄関ロビーのすぐ横にあるため、ニャンシャとノエトが穏やかに会話をしている様子が見えた。

「こちらがお手洗いになります」

 と、扉の前で執事は立ち止まり、扉を開けた。

 キシンスは中へ入ろうとしなかった。

「やっと分かったよ、君の言葉の意味が」

 そしてにこりと微笑むと「ありがとう」と、中へ入っていった。

 タルヴォンは扉を閉めると、すぐにきびすを返した。無性に心がざわざわとしていた。


 二人きりになった居間でメロセリスは息をついた。

「私、もう帰ろうかしら」

「飲み直そうなんて言える雰囲気じゃないもんな」

 と、アレイドはグラスをワゴンの上へ置いた。

「オレが送っていくよ」

「あ、ありがとう」

 立ち上がりかけたメロセリスだが、すぐにまた腰を下ろした。

「でも、リオお兄様のことが気にかかるわ。ミランシアや、ノエトのことも……」

「うーん。置いていけない、もんな」

 ソファでうつむく彼女から視線を外し、アレイドはため息まじりに言う。

「ノエトのこと、本当に知らなかった。兄貴失格だ」

「それなら私だってそう。お兄様がそんな目に遭ってたなんて、ちっとも気づかなかった」

「……皮肉なもんだな」

 寂しい思いをしてきた二人は、自分たちのいた場所が安全圏だったことを理解し、複雑な思いを抱いていた。

「これからは優しくしてやった方がいいのかな」

「アレイドの気持ちは分かるけど、あまり気にしない方がいいと思うわ。私なら、過去のことには触れてほしくないもの」

「それもそうか」

 この屋敷のどこかで、それぞれ物思いにふけっているであろう彼らを思う。きっと誰もが暗く鬱屈した思いに苛まれているはずだ。

 しかし、ずっとそんなことを考えているわけにもいかない。アレイドは気分を変えるようにたずねた。

「そういえば、何でメロセリスは懇親会に参加したんだ? キシンスとはすでに知り合いだったんだろう?」

 と、メロセリスへ視線を戻す。「それは、ルーヴォが」と、彼女が言いかけた直後、執事が居間へ戻って来た。

「私の話ですか?」

 半ばきょとんとした様子で口を挟んだ彼へ、アレイドはとっさに「ああいや、何でもないよ」と、返してしまう。

「そうですか。ところで、この後はどうされますか?」

 と、タルヴォンが二人へ問う。メロセリスとアレイドは目を合わせてから答えた。

「先に帰ろうと思ったんだけど、他の人たちが気になって」

「オレもノエトが気がかりだ。どうしようか考えてた」

「そうですか」

 執事はそれも当然だと言うように眉尻を下げ、困惑の笑みを見せた。

「まさかあんなことになるとは、誰も予想していませんでしたよね」

「ええ、とてもびっくりしたわ」

「すまない……どうも昔から、ミランシアだけは気に食わなくて、酒に酔った勢いで、つい」

 と、苦笑するアレイド。

「私はもう見慣れましたが、お嬢様の旦那様への接し方は異常ですからね。黙って見ていることができないのも当然です」

「……こんな時でも、ルーヴォはこっち側なんだな」

 どこか皮肉まじりにアレイドは言ったが、メロセリスが気づいたように口を挟む。

「そういえば、この三人で話をするのは久しぶりね」

 タルヴォンとアレイドが同時に彼女へ顔を向け、懐かしさから頬をゆるめた。

「そうですね」

「そうだな」

 束の間、室内の空気が和らいだ。庭の隅に三人で座ってこっそりとクッキーを食べた日を思い出すアレイドだが、すぐに先ほどの出来事が連想されてしまう。

 メロセリスとタルヴォンもまた、同じことを思ったのか表情をくもらせた。

 結局、室内に吐き出されるのはため息ばかり。気分を変えようとタルヴォンがワゴンの前へ移動すると、唐突に大きな音がした。発砲音だ。

 途端に胸がざわりとし、三人は顔を見合わせる。

「今のって……」

「もしかして、銃声か?」

「二階から聞こえました、よね」

 嫌な予感を覚えた執事が我先にと廊下へ飛び出していく。

 アレイドとメロセリスもすぐに後を追った。


 階段を上がっていくと、書斎の前でイリオンとキシンスが立ちつくしていた。扉は開け放したままになっており、後ろから中をのぞいてタルヴォンは息を呑む。

 アレイドとメロセリスもまた、その様子を目にしてそれぞれに短く声を上げた。屋敷の主が椅子に座った状態で血を流して、ぐったりとしていた。

「何があったの!?」

 と、後から来たミランシアが前に出てくる。書斎の様子を一目見るなり叫んだ。

「きゃあああああああ!」

 イリオンがよろよろと後ろへ下がり、代わりにタルヴォンが扉を押さえる。

 ニャンシャとノエトもやってきて室内をのぞき見た。

「嘘……っ」

 誰もが思ったことをアレイドが口にする。

「死んでる、のか?」

「そんな……嘘でしょ、あなた!」

 悲痛な声でミランシアが叫び、ニャンシャが腕をつかんで制止する。

「待って、近づかない方がいいわ」

 悲しい声でノエトがたずねる。

「おじさん、本当に死んじゃったの?」

 後ろの方からイリオンの震える声がする。

「殺人だ、誰かが彼を殺したんだ……っ」

 メロセリスははっとして言った。

「さっき聞こえた銃声って……」

「もしかして、僕らの中に犯人が?」

 と、神妙にキシンスは問いかけ、その場にいる全員を見た。

 ざわざわとし疑心暗鬼になる客人たちだが、執事だけは冷静だった。

「皆様、落ち着いてください。まずは警察を呼びましょう」

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