彼女と離れると、途端に寂しくて会いたくなる。どうしようもなく恋しくて、僕は覚悟を決めることにした。

 都での人間関係を整理し、回収できる金はすべて回収した。新たな契約はしないようにして、すでに決まっていたスケジュールも早められるものは早めて、キャンセルできるものは全てキャンセル。

 そうして何も予定のない一日を作り、僕はまたメロセリス嬢へ会いに行った。

 彼女はあいかわらず川辺かわべりで絵を描いていた。

「こんにちは、メロセリス嬢」

 と、声をかければ、彼女がはっと振り返る。

「キシンスさん、こんにちは」

 どこか遠慮がちに微笑みを返され、二人の距離が少しずつ縮まっていることを確信した。

 イーゼルにはまだ白が目立つ新しいキャンバス。

 僕が隣へ並ぶと、彼女は緊張しているのか筆を止めた。

「しばらくこっちで過ごせるよう、スケジュールを調整してるんだ」

 と、僕は笑顔で切り出した。

「その時には、貴女の他の作品を見せてほしい」

 本心からの言葉だ。彼女を知るためにも、これまでにどんな絵を描いてきたのか見たかった。

 彼女は黙ってうつむいてしまい、この話題はよくなかったかもしれないと勘づく。他の作品といえば、全部過去に描いてきたものだ。彼女の過去が暗いものであることは、ルーヴォから聞いて知っていたのに。

 恋愛経験の浅さを自嘲しながら、話題を変えるしかなかった。

「実は僕、ついこの前までは金がすべてだと思ってたんだ」

 自分の話をすれば、彼女の意識をそらせるはずだ。

「金さえあれば幸福だって、本気で思ってた」

 彼女は握っていた筆をパレットへ置いた。小さくカタッと音がした。

「それが最近……いや、貴女と出逢ってからだ」

 息をついてからわずかに声を大きくする。

「本当の幸福は、もっと違う形をしているんじゃないかと思い始めた」

 金に対する執着は以前に比べて薄くなっていた。それよりも優先したいのは彼女のことだ。

「何ていうか、その……」

 いざ言おうとするとどぎまぎしてしまったが、ひざまずいて彼女を見上げた。

「メロセリス嬢、貴女のそばにいたい。貴女との未来が欲しい。僕が一目惚れしたのは、貴女なんだ」

 恥ずかしさのあまり耳まで真っ赤になっているのが分かる。彼女も徐々に頬を染めていった。

「で、でも、私は……」

 僕から顔をそらし、薄汚れたスカートの上に置いた小さな両手をぎゅっと握る。彼女の口から漏れたのは、ショックな言葉だった。

「未来なんて、考えられない」

 はっとした。白い頬に透明な雫が伝う。――そうだよな。僕だって未来のことを考えられるようになったのは、お金が貯まって精神的に安定してきてからだった。

 だからこそ僕は言う。

「僕は貴女といられるだけでいいんだ。もちろん無理にとは言わない。でも、貴女のためなら何でもするつもりだ」

「そんなこと、言われても……」

 はっとした。少し気が急いてしまっていたようだ。

「急だったね、すまない。でも僕が本気だということは、どうか分かっていて欲しい」

 言い添えて微笑んだ。もう口にしてしまったのだから、あとは彼女が僕との未来を考えてくれるようになるまで待つだけだ。

 ゆっくりと立ち上がり、できるだけ優しく声をかけた。

「……また会いに来る。どうか考えておいて」

 メロセリス嬢の心は固く閉ざされている。開くための鍵を見つけるには時間がかかりそうだ。


 その後、僕は無性に誰かと話がしたくて、オルテリアン氏の屋敷を訪ねた。ここに来れば必ずタルヴォンに会えるからだ。

「本日は旦那様と会う予定ではなかったはずですが」

 と、いぶかしげにする彼へ僕は弱々しく笑った。

「うん、君と少し話したいなと思って」

 タルヴォンは視線を動かして考える素振りを見せてから、扉を大きく開けた。

「分かりました。どうぞ、お入りください」

「ありがとう」

 以前のように応接間へ通されたが、タルヴォンは言った。

「申し訳ありませんが、夕食の仕込みの最中だったものでして。すぐに終わらせてまいりますので、少々お待ちください」

 と、急いで厨房へ向かっていった。

 どうやらタイミングが悪かったようだ。何だか今日はダメな日なのかもしれない、などと思いつつソファへ座った。

 彼が戻ってきたのはそれから十五分ほど経った頃だった。

「お待たせいたしました」

 紅茶とお菓子を完璧に用意して戻った彼は執事の鑑だ。

「ありがとう、ルーヴォ。それで、話なんだけど」

 さっそくティーカップを手に取りつつ、少し離れたところに立つ彼を見る。

「実はさっき、メロセリス嬢に告白してきたんだ」

 ため息まじりに打ち明ければ、執事はわずかに目を丸くする。

「それで、彼女の返事はどうだったのですか?」

「うん……未来のことは考えられない、って」

 カップに口をつけて少しだけすする。今日の紅茶は甘い香りがした。

 タルヴォンは何も言わずに僕を見ている。

「まだ三回しか会ってないから、急だったとは思ってる。でも一目惚れだって言っちゃったしさ、もう後には引けないって思うと、伝えずにはいられなくって」

「……そうでしたか」

 ティーカップをソーサーへと戻す。

「彼女が前向きになれないのは分かるんだ。でもやっぱり、ショックで……恋をしたのは初めてだから、もうどうしたらいいのか分からないよ」

 深くため息をついてうなだれる。やっぱり失敗だった。言わなきゃよかった。

 すると、タルヴォンが神妙に言った。

「おそらく彼女にとってもそうでしょう」

「え?」

「恋をすること、です」

 彼は真面目な顔をしており、僕は何も言えずにまばたきを繰り返す。

「もちろん彼女の本心は分かりませんが、キシンス様から見てどうでしたか? いけそうでしたか?」

 いけそうかどうか……? そんなのもちろん。

「そんなのもちろん、いけると思ったよ! 少なくとも嫌われてはいないっ」

 勢いあまって立ち上がり、執事の方へ体を向けた。

「なるほど」

 うなずき、ルーヴォはさらに言う。

「では彼女はきっと、前へ踏み出すのをおそれているだけでしょうね」

「そ、そうだ。たぶんそういうことだ」

 と、返してから、僕は再び弱気になって腰を下ろした。

「でも、どうしたらその一歩を踏み出してもらえるのか……」

「ふむ」

 こればかりは難しく、どれだけ考えても答えは出せそうにない。二度目のため息をつき、頭を抱えたところで、ルーヴォのつぶやくような声が聞こえた。

「彼女の悲しみを根本から取り除ければ、あるいは……」

「根本?」

 気になって聞き返すと、彼ははっとしてから曖昧な表情をした。

「いえ、何でもありません」

「気になるじゃないか」

「ですが、その……」

 はっきり言う気にならないらしい。僕は呆れてクッキーに手を伸ばした。


 その後、オルテリアン氏の主催でパーティーが開かれることになった。いまだ会えていないイリオンを始め、何人かの若者たちを招待したそうだ。

 今後のビジネスに響きかねないと思い、僕はありがたく氏の好意を受けることにした。

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