第3話 アデプト



「――が、あぁぁああ、あぁぁ」


 コノエは血を吐く。胃の中身を吐く。悲鳴が漏れる。痛みに脳髄が支配されている。

 グラグラと脳が揺れて、今蹲っている訓練場の床が不安定なシーソーに変わった気がした。


「立ちなさい。魔物は私のように待ってはくれないよ?」


 教官の声が頭上から降ってくる。

 コノエを誘ったのと同じ教官。しかし声にあの日の優しさはない。


「――ぐ、……っ!」


 苦しくて、でもなにかが風を切るような音がして、とっさにコノエは横に転がる。さっきまでコノエがいた場所に訓練用の槍が刺さる。それにコノエは、自らの吐いた血反吐にまみれながら立ち上がって。


「……ぅ、がぁ!」


 鉛のような手足を必死に動かして走り始める。

 そうしなければもっと酷い目に遭うことを知っているからだ。


 走りながら、コノエは思う。

 ……まあ、そうなるよねと。


 最初から分かっていた。そんなに都合がいいわけがない。

 そんな人生をコノエは送っていない。世の中は厳しいものだ。そもそも、訓練が厳しいとか大変とかあの教官が言っていたのをあえて無視したのはコノエだった。


 少し考えれば分かることだ。そんなに都合がいいのなら、どうしてわざわざスカウトなんてしているのか。

 金が儲かる。名誉が手に入る。強くなる。全てがそんな都合のいい加護なら、いちいち誘わなくても勝手に人が寄ってくる。そうなっていない時点で、とんでもない地雷要素があるに決まっている。


「――はぁ、はぁっ」


 ――だから今、コノエは調子に乗ったものの末路と言わんばかりに苦しんでいる。

 必死に手と足を動かしている。過酷すぎる訓練に死にかけながら、血反吐に塗れながら走っている。


「走るのなら魔力を回しなさい。全力で体を強化しなさい――出来ないのなら、死になさい。大丈夫、死んだ後すぐなら蘇生も出来るから」

「……っ」


 異常な鍛錬。日本ではありえないスパルタ式。

 では、それに苦しんでいるコノエは騙されたのかというと、騙されていない。


 あのとき教官が言っていたことは全てが真実だ。金も手に入る。実績も手に入る。女だって思いのままで、ヤバい薬だって使用は簡単だ。


 アデプト――生命魔法を極めた者。

 その称号を得れば手に入らないものはあまり無いらしい。大体全てが叶うらしい。


 それは何故かというと――。


「――アデプトとは、人類の守護者。力なき民の、最後の砦。敗北は許されない。なによりも強くなければならない」


 知らない間にとんでもないものを目指していたとコノエが驚いたのは、訓練の初日だった。

 それ以来、コノエは反吐を吐きながら走っている。痛み続ける全身に無理やり覚えたばかりの魔力を通して走っている。少しでも力を抜けば拳が降ってきて、血反吐を吐かされる。


 訓練が終われば体力を無理やり生命魔法で回復されて、魔法を学ぶ。食事と僅かな休憩以外は自由な時間などない。

 休暇は十日に一度だけで、それ以外の全てを生命魔法のために捧げている。


 ――曰く、凡人が生命魔法を極めるには魔力だけでは足りないらしい。


 人外の才の持ち主なら、普通の鍛錬でも極められる。しかし、凡人が極めるためには強靭な生命力が必要で、生命力を鍛えるためには強くならなければならないのだと教官は言った。


 不撓不屈の心と、鋼を超える肉体、そして圧倒的な武が必要なのだと。

 本来なら取得できない極限の魔法を凡人が身に着けるための訓練。それが、この地獄だった。


「腕が落ちたら足で戦いなさい。足を失えば這って噛みつきなさい。死んでも戦いなさい。無辜なる民の盾となりなさい。それがアデプトです」


 ――無茶を言うなと言いたい。

 そんなことが出来るはずがない。


 身体は痛くない場所が無くて、心は折れかけている。凡人のコノエはこんな過酷な訓練に耐えられるようには出来ていない。本当は今すぐ逃げ出して辞めると言いたかった。


 ……でも。


「……!!」


 それでも、コノエが必死に走るのは、確かに目標があったからだ。

 奴隷ハーレム。惚れ薬。どれほど外道であっても、間違っていても。今度こそはと。


「コノエ、あなたは何のためにここに来たの? あなたはなぜ、アデプトを目指したの?」


 そうだ。努力すれば、きっと手に入る。努力すれば、一人じゃなくなる。

 努力すれば、頑張れば、きっとのその先に。


 日本では違った。努力してもダメだった。

 必要なのはコミュニケーション能力で、それがどうしても手に入らないコノエには権利がなかった。一人で生きることしかできなかった。いつだって一人で、だから最後は一人でのたうち回って死んだ。


 誰も、誰もいなかった。

 死に際のコノエに声をかけてくれなかった。手を握ってくれる人など、いる訳がなかった。


 ――でも、この世界なら努力すれば手に入る。


 努力は、勉強は苦手じゃなかった。

 ずっとそればかりをしていたからだ。それしか、することがなかった。


 家庭は崩壊していた。友達はできなかった。遊ぶだけのお金も、かといって非行に走るだけの度胸もなかった。暇な時間だけがあった。だからずっと勉強していた。人より優秀な頭ではなかったけれど、人並みには出来たからあとは努力で何とかした。


 金だけは出してもらえたからそれなりの大学に行って、必死に面接のセリフを覚えて何とか滑り込んだそれなりの会社で頑張っていた。


 ……でもその結果が――。


(――もう、一人で死ぬのは嫌だ)


 それが怖かった。隣にいてくれとは言わない。でも、少しでいいから、せめて悲しんでほしかった。それさえあればコノエは――。


『……僕なんて、生まれて来なければよかった』


 ――死に際に、あんなこと考えなくても良かったのにね?


「……っ、はぁ、はぁ、っ、はぁ!」


 だから、今度こそはとコノエは走る。

 反吐を飲み込んで、痛みを無視して、必死に前へ前へと足を動かして――


 ◆


 ――そして一年後。

 コノエは普通に心が折れた。


「……無理でしょこれ」


 アデプトは、凡人には荷が重かった。


 ◆


 流石に無理だったとコノエは思う。

 朝から晩まで終わらない訓練と学習。一つ越えたらすぐにもう一つ先のノルマを設定され、訓練に慣れたと思ったらもう一段階キツイ訓練を設定される。


 そんな毎日に流石にコノエは心が折れてしまった。

 というかよく一年も持ったと言えるだろう。コノエは以前小耳にはさんだことがある。過去同じ地球からの転移者が何十人もアデプトになるべく挑戦していて、その全員が十日経たないうちに逃げ出していると。実はコノエはほぼ最初から最高記録を更新中だった。


 あまりにも苛烈な訓練は、人を選ぶ。『何も背負っていない人間に、アデプトの訓練は耐えられない』と言われていることをコノエは知っていた。


(――諦めよう)


 もう十分頑張ったと、コノエは思う。

 そこそこ強くなったからここを出ても十分暮らしていけるはずだ、とも。


 最近、コノエは訓練で冒険者ギルドで中級に分類される魔物を倒していた。加えて、中級の治癒魔法も使えるようになった。


 それがどれくらいの価値を持つのかというと、この国ではどのような分野でも下級に到達出来たら最低限食べていけるくらいには稼げるとコノエは聞いていた。贅沢はできないけれど、一家で慎ましやかな生活はできると。


 そんな社会の中で、コノエは二つの分野で中級に至っている。

 これは生活するだけなら十分すぎる位だった。


 ――なお、普通の鍛錬なら凡人が中級の治癒魔法を習得するには二十年かかるらしい。コノエはそれを聞いて喜ぶより先に愕然とした。どれだけ過酷なことをしていたんだと。


(……まあ、結局僕に惚れ薬で奴隷ハーレムなんて無理だったんだ)


 コノエは折れた心でそう思う。人には、分相応というものがあるのだと。

 コノエみたいな凡人には過ぎた夢だったのだと。


「……」


 ――だから、その日の深夜。

 辞めますと、教官にそう言うために訓練が終わった後、学舎の廊下を歩く。


 アデプトの訓練は続けるのは難しくても、辞めるのは簡単だ。

 一言、教官に辞めると言えばいい。そんな人をコノエはこれまでに何人も見てきた。だからこれまで何度も見送ってきたように、コノエも――


「――?」


 ――そんなときだった。コノエはふと気づく。

 教官の部屋に続く廊下に、何かがいる。いや、何かじゃない。コノエは知っている。見たことがある。


 それは、真っ白の翼と、真っ白な髪の毛だ。

 そして、現実とは思えないような美しい顔立ち。真っ赤な目。その輝きが、廊下の片隅からこちらをじっと見ている。


 ――神様が、そこにいた。




 治癒魔法取得の基準


 最下級 :趣味の努力

 下級  :職業の努力

 中級  :凡人の限界

 上級  :秀才の限界

 最上級 :天才の限界

 アデプト:生命の限界


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