第9章 シーラ・マート伯爵令嬢【1】

 ウィロルとマチルダの報告は休み明けになった。この週末は気が気でなくて、ずっとそわそわして魔法の訓練にも身が入らなかった。僕が闇の魔法に手を出していないことで謂れのない陰口による噂話であることは確実だが、誰が、なんのためにそんな噂を流したのかが気になって仕方がなかった。

 生徒会メンバーが揃うと、ウィロルが重々しく口を開く。

「ラゼルが闇の魔法に手を出したという噂は、僕らが思っていた通り、呪いの子という陰口から生まれた噂話、というだけのことのようだよ。けど、出所がどこなのかはわからなかったね」

「ラゼルに対する悪意が学園内に存在しているのは確かね」と、マチルダ。「平民出身でサボり魔。サボり魔なのに成績は良い……。僻みを集めたのでしょうね」

 いまの僕にはラゼル・キールストラの記憶はほとんどないが、元々は成績が良いとは言えなかった僕でも、座学の授業内容を簡単に理解できるほどの頭脳を持ち合わせている。前世では「地頭が良い」と表現されることがあったが、ラゼルがそうであることはよくわかった。サボっているのに飄々と好成績を叩き出すラゼルには、妬みや僻みが集まりやすかったのだろう。

「けど、特に気にする必要はないと思うよ」ウィロルが続ける。「ただの噂話に過ぎないからね」

「私たちが噂の拡散を食い止めるわ」マチルダが微笑む。「安心していいわよ」

「うん、ありがとう」

 ウィロルとマチルダに任せておけば、きっと心配することはない。本来はヒロイン・リーネをサポートするお助けキャラで、悪役令息であるラゼル・キールストラにとっては敵に近しい存在である。けれど、いまのふたりは僕の味方だ。きっと僕にとっても助けとなってくれるはず。噂話に一喜一憂する必要はないだろう。



   *  *  *



 僕とリーネは、いつの間にか座学で隣同士の席に着くことが多くなった。反対側にはクラリスがいて、まさに両手に華である。前世では考えられなかった状況だ。前世では可愛い女の子とは無縁だった。唯一そばにいた可愛い女の子は妹だけだ。兄馬鹿だけど。

 教壇に講師が現れて教室の喧騒が静まり返ると、そのあとにウェーブのかかったグレーブロンドの少女が続いて教壇に上がった。見慣れない少女の登壇に、教室内がまたざわめく。講師はひとつ咳払いをして、少女を手のひらで差した。

「編入生のシーラ・マート伯爵令嬢だ。病気療養が明けて、今日から授業に参加することになる。親切にするように」

「よろしくお願いいたします」

 恭しく辞儀をしたシーラと目が合ったような気がした。思い違いか、自意識過剰なだけだろう。

「シーラ・マート……」リーネがぼそりと呟いた。「なんでいま……?」

「知ってるの?」

 僕が声を潜めて問いかけると、リーネは頷きながら僕に身を寄せる。

「ジェマの婚約者で、ライバルキャラのひとりよ。でも、編入生ではないはずよ。この学院にいなかったからなんでかと思ってたんだけど……」

 ジェマの婚約者に関しては、僕の思い違いではなかったらしい。本来のシナリオでは、シーラ・マート伯爵令嬢はすでに登場しているはずなのだ。これは、僕とリーネが転生者であることで関係性が変わったことが影響しているのだろうか。僕とリーネの存在により、シナリオが捻じ曲げられたのかもしれない。

「シーラに病気なんて設定はなかったはず……。注意したほうがいいかもしれないわね」

「わかった」

 リーネも同じことを考えているらしい。シナリオ上では当たり前に登場するシーラ・マートがこうして異例の登場をした以上、警戒せざるを得ない。この本来のシナリオとの差異が、どんな影響を及ぼすかは判然としない。この世界においてシーラ・マートがどんな存在であるか、慎重に見極める必要があるだろう。



   *  *  *



 翌日、レイデンが生徒会室にシーラ・マート伯爵令嬢を連れて来た。

「ジェマの婚約者のシーラ・マート伯爵令嬢だ。この学院に早く馴染めるよう、生徒会に入ってもらうことにした。いろいろと教えてやってくれ」

「よろしくお願いいたします」

 シーラはウェーブの落ち着いたグレーブロンドと深い紫色の瞳が印象的な、穏やかそうな少女だ。おっとりした雰囲気を感じる。

「しばらくはラゼルとクラリスと一緒に仕事をしてくれ」

「承知いたしました」

「ふたりとも、よろしく頼むよ」

「はい、殿下」

 いつもクラリスと並んで座っている席をシーラに譲って、僕は向かい側に椅子を持って来る。三人が横並びに座っていると、シーラをあいだに挟むことになる。そのとき、僕がクラリスに話しかけようとすると、どうしてもシーラとの距離が近くなる。婚約者のいるレディに必要以上に接触しないようにするのが向かいの席だ。未来の紳士として、そういうことはしっかり守っていかないと。

 シーラは僕たちの仕事の説明を真剣に聞き、なんとなく理解してくると、とても明るく振る舞った。僕より仕事ができると思わせるほど賢くて、良い子という印象だ。

 もしかしたら、リーネよりヒロインらしいかもしれない。続編のヒロインなんていう可能性もあったりするのだろうか。初代ではライバルキャラだった登場人物が、あまりに人気が出たため続編でも何かしらの登場をするというのはよくあることだ。ライバルキャラからヒロインでは昇格しすぎのような気もするけど。

「クラリスとシーラは昔から馴染みがあるの?」

 小休憩のとき、僕はクラリスに訊いた。クラリスは優しく微笑む。

「幼馴染みのようなものです。病気がなければ、もっと早くお兄様と婚約していたはずですわ」

 貴族同士の婚約は子どもの頃からでもおかしくないが、シーラとジェマは婚約することが決まっていても正式な婚約はつい最近のことなのかもしれない。こう言うと残酷かもしれないが、病気がある程度よくなったため正式に婚約したのだろう。ゲームのシナリオとの差異は気になるが、現実は設定通りとはいかないこともある。深く考える必要はないのかもしれない。

「まだ友達が少ないので」シーラが微笑む。「仲良くしてくださると嬉しいですわ」

「うん。こちらこそよろしく」


 シーラは仕事の覚えが早く、ジェマにも献身的だ。ジェマをしっかりと支えていく未来が容易に想像できる。

 生徒会室の窓際。うーん、とリーネが首を捻った。

「考えすぎなのかな。ゲームでもシーラは特に怪しいキャラじゃないし……」

 シーラが生徒会入りして数日が経った。リーネはいまもシナリオとの差異が引っかかっているようだ。

「ラゼルがゲーム通りの人ではなくなったことで何か変わるかもしれないとは思ってたんだけど……。シーラに不穏な空気は感じられないし、本当に病気だっただけなのかな」

「ここは現実だから」僕は言った。「シナリオ通りじゃないことがあっても不思議はないよ」

「うーん……まあ、そうなんだけど……」

 ヒロインであるリーネは、僕にはわからない何かを感じ取っているのかもしれない。僕よりリーネのほうがこの世界に詳しい。僕はオタクの妹が熱弁していた部分しか知らないし、シーラがまったく疑いようがないと断言することはできない。

「とにかく、仲良くしてあげよう。編入して来たばかりで不安なこともあるだろうし」

 僕が優しくそう言うと、リーネは目を細めてジトッとした視線を僕に向ける。

「私のときと扱いが違うんだけど?」

「きみは振る舞いが自由すぎたんだよ。ヒロインしすぎていたんだ。シーラのほうがヒロインかと思うくらいだよ」

 そこで僕は、はたとリーネを見遣った。

「リーネがヒロインであるのは間違いがないんだよね……?」

「なんで疑うのよ! 実際、私は平民で光の魔法を持つ特別な女の子よ。容姿もヒロインのリーネで間違いないわ」

「そう……。僕は妹から聞き齧った情報しか知らないから……。ゲームはヒロインの一人称視点だから、顔も知らなかったし」

「ラゼルは自分の手を汚さないタイプの悪役令息だったし、隠し攻略対象だからヒロインとの接点も少ないものね。ゲームでもイベントやスチルでないとヒロインの顔は出ないし」

 これだけの知識を持ち合わせたヒロインであるリーネが不安に思うなら、シーラには何かが隠されているのかもしれない。

「警戒ばかりしてもしょうがないよ。仲良くしてあげよう」

「もちろんそのつもりよ。ちょっと気になっただけ」

 ちょっと気になるだけでリーネがシーラを除け者にするとは思えない。きっと親切にしてくれるだろう。



   *  *  *



 ちょうど仕事を終えたとき、ジェマがシーラを呼んだ。生徒会室に残る理由もないため、僕はクラリスとともに帰路に着くことにした。と言っても、女子寮の門前に送るだけだけど。

「……あの日」クラリスが静かに口を開く。「ラゼル様が闇の魔法を持っていると偽の告発をされたとき、妙に納得するものがあったんです」

 先日の断罪イベント。僕は闇の魔法に手を出したと濡れ衣を着せられた。だが、本来のラゼル・キールストラはその運命を持っている。僕が転生して来なければ、ヒロインが転生者だろうと、ラゼルはその運命を辿っていただろう。

「夏季休暇に入る前のラゼル様は、不穏な雰囲気を纏っていました。……邪悪とも言えるほどの……」

「そんなに?」

「はい。だから、怖かったんです。あのときのラゼル様は、闇の気配を湛えていたのではないかと思います」

 ジェマは、クラリスはラゼルに怯えていた、と言っていた。僕が転生して来る前のラゼルは、心の中に暗いものを抱え込んでいた。それがいずれ闇の魔法を宿す。その兆候があったのかもしれない。

「ですが、夏季休暇が明けてから、ラゼル様は変わりました。あれほど重く纏っていた闇の気配が綺麗に消え失せていたんです。だから怖くなくなったんです。笑ったお顔がまったく違いますから」

 クラリスは優しく微笑む。僕が転生して来る前のラゼル・キールストラは、それはもう邪悪な笑みだったに違いない。なにせあの狂気性だ。滲み出ていてもおかしくはないだろう。

「闇の魔法を持っていると言われたとき、あの雰囲気ならそれでもおかしくないと思いました。いまのラゼル様は、闇の魔法を持っているとは思えません。一度でも身につけた魔法は取り消せません。夏季休暇前も持ってらっしゃらなかったはずです」

「そうだね。クラリスの言う通りだよ。それで仲良くしてくれているんだね」

 僕がそう微笑みかけると、クラリスは考え込むように顎に手を当てた。

「なんとなくですけれど、怖いけど仲良くなりたい……そう思わせる不思議な雰囲気がありました。魅力……なのでしょうか。きっとアラベル様も同じですわ。意地悪されても、仲良くなりたいと思ってらっしゃったのではないでしょうか」

「うーん、意地悪で済むかな……」

 確かに、アラベルはあれほどラゼル・キールストラに虐げられていたと言うのに、僕がラゼルに転生してから、とても親切にしてくれた。僕が仲良くすることで嬉しそうな顔をしているように見えた。僕に親切にしてくれたのは、避けることで嫌がらせを受けると怯えていたのではなく、ラゼルと仲良くなりたいと思っていたのだ。あれだけ怯えて、ジークハイドにも警戒されていたにも拘らずだ。アラベルは素直な子だから、ラゼルと兄弟になって喜んでいたのかもしれない。

「まるで、心が別の誰かになってしまわれたかのような変貌ぶりですわ」

 一瞬、クラリスが僕の転生に気付いていたのかと思ったが、単にそう思っていただけのようだ。

「そんなに変わったかな。夏季休暇前の僕にも、こういう心があったと思うけど」

「ええ。人間の本質の部分は一生、変わりませんから」

 ラゼル・キールストラは、ただ絶望して心を閉ざしていただけだ。それが狂気性として表に出ていただけ。本当は、僕と同じ想いなのではないかと思う。ラゼル・キールストラが絶望を溜めたのも、ただの不運だったのだから。

 もうすぐ女子寮の門が見えて来るという頃、僕は思い立って言った。

「シーラは、クラリスから見てどんな人?」

「そうですね……。優しくて、強くて、明るくて……お兄様を献身的に支えてくださる方ですわ。成績も優秀で、見習わなくてはなりません」

「そう。良い人なんだね」

「はい。ですが……何かが違うような……」

 クラリスの表情が少しだけ曇る。これには嫌な予感を覚えざるを得なかった。

「心の真ん中に何かが宿っているような……。本質は変わらないのですが……。夏季休暇前のラゼル様と似た気配を感じます。まさか、シーラが闇の魔法に手を出したのでしょうか」

 クラリスは不安そうに僕を見遣る。ヒロインであるリーネだけでなく、感覚の鋭いクラリスも何かを感じ取っている。シーラ・マート伯爵令嬢に何かが隠されていることは確実となったが、残念ながら僕はその気配を察知できていない。

「リーネさんは光の魔法使いですし、何か感じ取ってらっしゃるでしょうか」

「うーん、どうかな……。何もわかっていない様子だったけど……」

「光の魔法使いという観点から見ると、また違う何かが見えるかもしれませんわ」

「なるほど。じゃあ、明日にでも聞いてみるよ」

「はい。お願いします」

 クラリスは少しだけ安堵したように微笑む。正直なところ、リーネは当てにならない程度で何もわかっていない。気にはなっているようだが、その不穏な何かの正体を察知することができていないようだ。クラリスの言う通り、光の魔法を通せば何かがはっきりすることもあるかもしれない。早めに確かめたほうがよさそうだ。





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