第8章 もうひとりの僕

 断罪イベントらしき出来事が起きた夜。僕とアラベルの部屋を訪れたジークハイドは、険しい表情をしていた。今回の騒動は僕が巻き起こしたことではないが、さすがに軽く流すわけにはいかない。

「闇の魔法について心当たりはあるか?」

 ジークハイドは真剣な表情で問いかける。闇の魔法は後天的に得る魔法の中で最も警戒すべき魔法。もし僕が手を出していれば看過できないことだ。

「夢を見ました」僕は言う。「僕が闇の魔法使いになって国を滅ぼす夢です」

 ラゼル・キールストラは「呪いの子」と囁かれて絶望を溜めた末、闇の魔法に手を出す。破滅の始まりは父と義母の殺害。招かれた崩壊を食い止めるため、ヒロインと攻略対象が手を取り合うのだ。

「僕もその夢を見たよ」アラベルが言う。「ラゼルが父様と母様を殺して血塗れで高笑いしてた」

「その夢なら俺も見たな」と、ジークハイド。「だが、お前から闇の魔法の気配を感じない」

 いまの僕は闇の魔法には手を出していない。その気配があるはずはないのだ。

「どうしてそんな話が出たんだろう」

 首を傾げるアラベルに、ジークハイドは顎に手をやる。

「光の魔法使いであるリーネなら感じ取れるかもしれないが、リーネがお前を告発するとは思えない」

「そうだね。リーネはラゼルが仲良くしてくれて嬉しそうだよ」

 現在の僕とリーネは良好な関係を築き始めている。例えリーネが僕に何か感じ取っていたとしても、あんな騒動になるような告発をすることはないだろう。何より、リーネは僕を庇っていた。自分で告発して自分で庇っていては、より一層、何を考えているかわからなくなる。庇うという恩を売るとは考えられない。むしろ立場を危うくする行動だ。僕と仲良くしたいのが本心なら、そんな回りくどいことをするはずはないだろう。リーネによる告発だと周囲に知られれば、僕とリーネの心には埋めようのない溝が生まれる。リーネもそれほど愚かな女の子ではないはずだ。

「とにかく」と、ジークハイド。「ウィロルとマチルダが調査しているはずだ。結果を待つしかないな」

「そうですね。待つだけというのは辛いですが、僕は下手な動きを取らないのが賢明でしょうね」

 オーズマン学院長の孫で「導きの双子」であるウィロルとマチルダなら、遠くなく何かを掴めるはずだ。その結果がどんなことになるかはわからないが、僕自身が動き回るのは賢明ではない。僕の立場を危うくし兼ねない行動は慎んだほうがいいだろう。ウィロルとマチルダは信用できる。結果を捻じ曲げるようなことはしないだろう。



   *  *  *



 ふと目を開くと、泣きじゃくる誰かの背中が見えた。僕の足音に気が付いて、黒髪の影が振り返る。眼鏡の奥に覗く目は深淵の闇を湛え、真っ赤な涙を零していた。僕の顔とはかけ離れているが、それはラゼル・キールストラだった。

『僕の中から出て行け。お前はいなくなれ。僕がこの屑みたいな世界を破壊してやるんだ』

 僕の心の中に、いまだラゼル・キールストラは居座り続けているらしい。これまで、僕を介して好機を待っていたのかもしれない。その好機がないと判断したのだろう。これまで黙っていたのは、簡単に追い出せると思っていた可能性がある。闇の瞳の奥には、憎しみと恨みの色が見え隠れしている。僕を心から疎ましく思っているようだ。

「屑なんかじゃない。愛すべき人たちがいるんだ。もうきみはひとりじゃない」

 ラゼルは首を横に振る。苦しみに悶えるように頭を抱え、呪いを吐き出し続けた。

『僕は呪われてる。だから、この世界に僕は要らない。お前もだ。僕たちは排除されるんだ』

 ラゼルがかぶりを振るたび、赤色の雫が辺りに散る。僕の中に込み上げるものは憎悪だった。ラゼルの心が訴えかけている。僕がそれに耳を貸すことはない。

「もうきみの周りに『呪いの子』だなんて陰口を叩く人はいない。もう絶望する必要はない」

『違う……違う違う……違う!』

 悲痛な叫びが鼓膜を揺らすたび、僕の心が掻き乱されていく。その悲しみと苦しみに、足を引っ張られているような気分だ。

『こんな世界、ぶち壊してやる。もう……悲しまなくていいように……!』

 ある意味では、ラゼルは被害者なのかもしれない。愛する母の黒髪を受け継いだだけなのに、その母が謎の死を遂げたこと、そして庶子であるというだけで陰口を叩かれている。何も悪いことはしていないのに。ラゼルは現時点では、何も悪いことをしていないのだ。そう考えると、あまりに理不尽である。

「きみは呪われてなんかいない。もうひとりのきみになった僕だからわかる」

『うるさい……何も喋るな』

「きみはただの少年だ。いまの僕たちが断罪されることなんてない。絶対に」

『黙れ。何も聞きたくない』

 ラゼルは耳を手で覆い蹲る。僕は履き慣れたスニーカーで、もうひとりの僕に歩み寄った。

「僕に任せてくれればいい。きみは寝ていてもいいし、見ていてもいい」

『嫌だ。知らない』

「僕は呪われてなんかいない。排除されない」

『違う。そんなの嘘だ』

「僕はこの世界を破壊したりしない。もう絶望する必要はない」

 ラゼルは沈痛に喉を引き攣らせる。赤い雫が眼鏡に滴った。深い絶望が雪のように心を埋め尽くしている。

「僕たちは希望の中に生きている。僕に任せて」

 僕は手を差し出した。僕を見上げた顔は崩れ、ペンで書き殴ったようにぐしゃぐしゃになっている。その表情は、暗いところを怖がる子どものようだった。

 恐る恐るといった様子で伸ばされる手を掴み、ぐいと強く引っ張った。力なく立ち上がったラゼルを、僕は包み込むように抱き締める。

「もう泣かなくていい。全部、手放していいんだよ」

 劣等感や恨み、憎しみ、妬み、悲しみ、苦しみ……。ラゼルの心を満たす暗い感情は、雨が泥になって積もるように重く沈んでいる。足を掴む闇の手は、ラゼルを離すまいと絡み付いている。ラゼル・キールストラになったいまならわかる。ラゼルだって、好きで闇の魔法に手を出したわけじゃないんだ。

「あんなに欲しがっていた友達がたくさんいるよ。だからもう、苦しまなくていいんだよ」

 降り積もった雪が溶けるように、ラゼルの体がほろほろと崩れていく。そうして、静かに消えていった。僕のことを信じてくれたかはわからないが、ほんの少しでも、苦しみを手放すことができただろうか。

 ラゼルは孤独だった。誰も頼れず、誰にも打ち明けられなかった。そうやって独り、闇の中に沈んでいったのだ。

 彼はもう大丈夫。僕ももう大丈夫。僕たちは独りではないのだから。






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