落書きⅥ(Wikipediaで【無意識】を読んでみた)

僕は、「落書きⅣ」で「おそらく、内臓知覚(? 自分の身体について感じている色々)は時間感覚と近い関係にあるように、思います。」と書きました。


時間を感じるには、何か変化しているもの・動いているものを感じなければ駄目だと思ったからです。外部に関係なく、それを感じられるものと言えば、自分の身体だと思った訳です。


ここに、そうやって時間感覚を得られる何かがあるのならば、食慾・空腹のない意識というのは、あり得ると思えます。


僕が何かを食べたくなったと思った時、実は、僕の意識自体が何かを食べたい訳ではないのではないでしょうか。


身体が空腹状態になった、ということを意識が認識させられたから、食べないといけないなあとなっている(これが、食慾として表れている)。


意識が慾望をするということはないのではないでしょうか。


……と、ここまで書いた時、もしかしたら、この文章の読者はジークムント・フロイトの「無意識」を想起するかも知れないと思いました。


僕は、『世界思想教養全集 20 フロイトの思想』(河出書房新社)で、「精神分析入門」を読んだことが昔にあったくらいです。


僕は、この文書で「無意識」という言葉を使わないように考えてきましたが、一応、Wikipediaの【無意識】の項を見てみました。


【無意識】には幾つかの項目があり、「意識と記憶」では《人間は様々なものを意識するが、目前、あるいは「いまここの感覚的・意味的刺激のパターン」以外で、「意識するもの」は、広義の「記憶」である。記憶の再生は、ある言葉や知識などが再現されることもあるが、また内的なイメージの形で、過去の情景(視覚的・聴覚的等)が思い出されることもある。 》等と書かれています。また、《「記憶を想起しているという意識」なしで、非常に多くのことが、この現在に想起され、イメージや感情や意味で構成される「意識の流れ」が持続している。 》とも書かれています。(西暦2024年4月6日3:30)


やはり、「意識」について考える際に、多くの人たちも「記憶」に注目してきたことが分かりますね。


僕のここまでの考えでは、「「落書きⅢ」での書き方で言えば、「知覚し記憶したものと、新たに知覚したものを照らし合わせる、その新たに知覚したものもまた記憶されて、という絶え間ない継続の上に意識が現れていると思います。」ということになります。」。また、「落書きⅡ」で書いたように「継続しているということ。一度でも途切れたら、僕はいなくなってしまう気がしています。」。


Wikipediaから引用した文章と、僕のここまでの考えの違いは何かというと、《目前、あるいは「いまここの感覚的・意味的刺激のパターン」以外で、「意識するもの」は、広義の「記憶」である》に対して、いまここの何かを知覚する際にも記憶が意味をもっているではないかと僕の場合は考えたところです。目の前の物を見る時には、直前の、その目の前の物の状態の記憶と照らし合わせている、毎瞬間、それが行われているというのが、僕の考えです。そして、それによって、意識が現れているのではないかと考えてきました。また、Wikipediaでは《「意識の流れ」が持続している 》という言葉が出てきていますが、僕は、この続いていることこそが、自意識(僕は僕である。僕の意識である)であると考えてきました。


「無意識」には、深層心理学的な意味もありますが、単純に《「意識がない状態」》という意味があることがWikipediaでも示されています。


僕は「落書きⅢ」において、睡眠時の自意識について予想をたてたように、実は自意識は、どんな時も続いているのではないかという考えです。だから、《強い意味》で《「意識がない状態」》という意味では「無意識」という言葉は使い難いです。


Wikipediaには《弱い意味で「意識がない」》の意味の場合として《音楽はずっと鳴っていたのであるが、読書に集中していたため、音楽の進行に「気づかなく」なっていたのである。 》という例も示されています。


これは、前回「落書きⅤのウラ」で書いたことに関聯していると思います。


知覚されているが、その知覚からは意識が現れない場合はあると、僕には思えます。Wikipediaの記事とは見方・考え方がズレます。


読書と音楽については、「落書きⅤのウラ」で書いた「テレビドラマを見る時、見ながら何かは考えていると思います。様々な記憶をシャッフルしながら見ていると思います。」の、テレビドラマを読書に置き換えて考えられます。本の活字を追うことで入ってくる情報は記憶の照らし合わせも行われ様々な記憶をシャッフルさせていますが、音楽は耳に入ってきても記憶の照らし合わせも行われず様々な記憶をシャッフルさせてもいません。つまり、この場合、意識が継続しているのは当然「本の活字を追うこと」の方だと考えることができます。


本の方は意識できているが、音楽の方は意識できていない、という風には僕は考えていません。本を読む行為の方に意識が継続されており、音楽を知覚する方には意識は継続していない(意識は現れていない)と考えました。


僕の考えを思い出してください。「知覚し記憶したものと、新たに知覚したものを照らし合わせる、その新たに知覚したものもまた記憶されて、という絶え間ない継続の上に意識が現れていると思います。」です。


今回は長くなりました。また、何か思いついたら書きます。

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