ネームレス・ストーリー
人に悩みを打ち明け相談するという行為にはいくつか必要なものがある。
己の秘め事をさらけ出す勇気。
この相手になら伝えられるという信頼。
例え耳が痛い内容でも返された言葉は受け止めるという覚悟。
それぞれ必要な量は、打ち明ける悩みの大きさに比例する。
そして、それらを準備するのに必要な時間も。
ルシルとアイラがロンドンのガーデンパーティから帰営して数日が経った。
陸軍大臣を始め多くの要人がバッキンガム事変で命を落とし、慌ただしく対応に追われる政府。
またいつ黒の黎明による決起が起こるかもわからないという懸念の中、しかし白鳩騎士団はドーバーを離れるわけにはいかない。
ただでさえ、騎士団の状況は危機的であった。
ルートとロザリ、騎士二人の欠員と傍付き隊の損耗という大きすぎる損失を受け、駐屯地を流れる空気はどんよりと暗い。
そしてその状況を作り出してしまった責任を一身に引き受ける騎士団長という立場は、更に気を重くさせた。
済ませなければならない書類仕事は山のようにあるのに、書面の上を目が滑る。
心を乱される事柄が多過ぎて集中が続かない。
すぐに良くないことを考えてしまう。
もしも今この瞬間、ロンドンでこの前とは比較にならないような事件が起こったら。
もしもこのまま、ルートもロザリも目を覚ますことなく死んでしまったら。
想像するだけで、眼の前が暗くなる。
当然、そういった不安を表に見せないのが騎士団長のあるべき姿だとルシルは考えている。
仲間を率い部隊を束ねる将校は部下に余計な心配をさせないよう努めるのも仕事の一つだ。
戦場にありて余念抱くば身を滅ぼす。
極限状態を戦い抜かないといけない兵士は、任務遂行の為に必要なことだけ考えていればよい。
上の言葉に盲目であればよい。
それをまとめ上げ指揮し動かすのが上に立つ者の役目なのだ。
だから彼女は仮面を被ってきたし、求められる姿を演じ続けてきた。
そしてだからこそ、今は誰とも会いたくなかった。
「お疲れ様です、ルシル団長。先程司令部からの依頼事項が届きました。細々とした部分はこちらで処理してしまっても?」「……ええ、お願い」
「ルシル団長、防衛隊からの確認項目について回答を作成しました。お手隙の際にお目通しいただいてもよろしいでしょうか?」「……今見るわ、貸して」
「団長団長、ロンドンの知り合いからハーブティーを贈っていただいたので、淹れてみました。少し休憩なさってはいかがですか? スコーンも用意しました。もちろんジャムと、クロテッドクリーム付きです」「……あなた、わかっているわね」
「ルシル団長、御髪が乱れています。僭越ながら、ブラシをかけさせていただいてもよいですか?」「……書類見てるから、勝手にして」
今は、誰とも会いたくなかった。
しかし、これだけ顔を合わせても、アイラに対して嫌な感情は芽生えてこなかった。
それどころか、そこにはある種の安らぎのようなものさえあった。
問題も懸案も山積していることには変わりないが、アイラと会話ややり取りをしている間は、幾分か気分が晴れる。
そんな気がした。
ここ数日、アイラは職務上必要な以外ルシルから距離を置き、なるべく一人の時間を多く作れるよう立ち回っていた。
それでいて何やら心細そうな雰囲気を感じ取った時は仕事が無くとも傍に寄って身の回りの世話を働くという気の回しよう。
それは彼女なりにルシルの心情を慮り、一人でいる時間が適度に必要だろうと判断した結果だったが、今のところそれは上手くはまっていた。
その配慮が、距離感が。
今のルシルには心地良かった。
アイラとしても、誰しもに同じような立ち居振る舞いができるわけではない。
これまでルシルに憧れルシルのことをよく理解しルシルの力になりたいと強く懇願してきた彼女だからこそ、今この場において、ルシルにとって最も理想的な手助けを実現できていた。
心地良い。確かに心地良い。
それには一切の間違いが無い。
だがしかし、この安寧をいつまでもただ享受しているわけにはいかないと思えるのが、ルシル・シルバという人間だった。
このままアイラの好意と厚意に甘えているわけにはいかないと、彼女はようやく決意をした。
彼女と、腰を据えて話をする決意を。
「……このところ、随分と色々、助けられたわね」
とある夜のこと。
その日中が期限の仕事も無事終わり、束の間の休息。
近頃定番となっている彼女の持ってきたハーブティーのカップを下ろし、ルシルは呟くように言った。
「どうされたんですか、急に。もちろん私は団長の副官ですので。それが仕事ですので」
唐突な呼びかけに驚いた様子を見せつつも彼女は笑顔でそう応える。
思えば駐屯地が暗く重苦しい空気に包まれる中、彼女だけはいつもと変わらず普段通りの笑顔を見せていた。
周りを鼓舞し、仲間を元気づけるように。
彼女は今も、求められる役割へ懸命に従事している。
「一度しっかりお礼を言っておかないといけないって思っていたのよ。あなたのお陰で、大分救われたわ。ありがとう。……本当は、余り格好悪い姿を見せたくないなかったのだけどね。がっかりされたくなかったし」
「よして下さいお礼なんて。それに、がっかりもしません。団長の事は存じ上げています」
「確かにね……。私もあなたの事はわかってきた。やっぱりあなた、私の事好き過ぎよね」
「はいっ、それはもちろん! 団長を好きでない自分など想像できないくらいですから」
そんな元気の良い断言に、ルシルは眩しそうに目を細める。
苦笑交じりのその表情は晴れ晴れとはほど遠い曇り顔。
ルシルの何か思い詰めた様子をアイラも即座に感じ取る。
「――けれどだからこそ謝っておかないといけない。私は本当に、あなたが憧れるような大した人間ではない」
「そんなことは……」
「あるわよ。無駄に多い戦功と厳しい勲章と仰々しい二つ名で世の中の人達は騙されてくれるけれど、あなたはもうわかっているでしょう。私は立派な騎士団長に見えるよう必死に取り繕っているだけで、一皮剥けば臆病で卑怯で神経質なだけの女。……ネフィリムと戦っているのだって、国の為だなんて思ってない。全部自分の為にやっていること」
窓の外には静かな夜が広がり執務室にはルシルの声以外の音は無い。
昼夜問わず曇りがちな気候により月明かりも星明かりも無く、あるのはオイルランプのぼんやりした明かりのみ。
「部下には王冠への忠誠を期待するなんて言っておきながら、自分にはそんなもの全くない。私が考えているのは、人から認めてもらえるような人間になって、家族に褒めてもらいたいという、そんな浅はかな願いだけなのよ」
ゆらゆらと揺れる明かりに照らされたその横顔は自虐的に口角が歪み、目は疲れたように垂れていた。
そんな彼女にアイラは、一呼吸おいてから、尋ねた。
「――ご家族……。女王陛下と、アルベルニア王室の方々ですか」
その問いにルシルは僅かに目を見張るも、驚きの色は殆ど見せず再び自嘲気味に笑う。
「やっぱり、知っていたのね」
ルートや琴音ですら知らない、政府関係者にも要人にも知る者など殆どいないはずの機密情報。
それを当然のように口にしたアイラに、ルシルは訝しむでもなく責めるでもなく、どこか晴れやかにさえ聞こえる口調で続けた。
「本当はあなたがこの機密をどうやって手に入れたのか問い詰めるべきなのでしょうけれど……。どの道、今日伝えるつもりだったから構わないかしらね」
執務室の椅子へ深くもたれかけ、目線を宙に彷徨わせながら、思い出話を語るように。
「ヘレナ・オーガスタ・ヴァクナ女王陛下は私の実の母親。とはいえ、幼い頃に廃嫡されて今は赤の他人だから、家族と言ってはいけないのだけれど」
アルベルニア連合王国の皇太子殿下は現在十五歳で、女王陛下の長男だ。
その殿下よりも歳上であるルシルは本来第一位の王位継承権を持っていたということになる。
「女王陛下の第一子としてこの世に生を受けた私だけれど、残念ながら強すぎる魔法力を持って生まれてしまった。当時は魔女狩りの文化もまだまだ色濃く残っていて、今より魔女に対する差別も強く、将来王冠を継ぐ子供が魔女であるなんてあってはならない事態だった」
現在では国家防衛の要として適性ある少女を見つけ出し徴兵する役を担っている適性域解析装置は、元は王室や貴族が自分達の子供に魔法力が無いかどうかを確かめる為に開発されたものらしい。
もっとも今も昔も魔女の運命を決めている装置であるという点では変わりない。
「結果女王の御子は死産として発表され、私は生まれた直後から存在しないものとして扱われてきた……。まあ、そこで殺されなかっただけ有り難いという見方もできるけどね」
そう淡々と語る彼女の言葉を、アイラは黙って聞いていた。
彼女への過去の仕打ちを想像すると声を上げたくなる気持ちもあったが、当人が殊更あっけらかんと話すので、黙々と聞いて受け止めることしかできない。
「そうやって私は王室から、家族から離れて育った……。そして幼い私は、次第に母親から認識されたいと思うようになっていった。別に王室の一員になりたかったわけではない。王位が欲しかったわけでもない。ただ、母親に自分を認めて欲しかった……。家族が欲しかった。難しいことはまだわからなかったから、頭にあったのはそんな単純な願いだった。そこが私の原点。……当時はまだ五歳とかそこらだったかしら」
当時を懐かしむような遠い瞳。
十年以上前の記憶など色褪せてしまっていてもおかしくないが、彼女にはまだ鮮明に思い出せるのだろう。
それだけ強烈な原風景。
「どうすれば家族が魔女の私を認めてくれるのか子供ながらに一生懸命考えて出した結論が、魔女としての力を活かして国のために働き役立つことだった。私が魔女であることはどうあっても変えられない。けれどその特性のせいで家族は認めてくれない。ならばその特性ごと、自分は役に立つ事を証明するしかないと思った。だから私は志願して、軍人になったのよ」
親に認めてもらう為、もう一度名前を読んでもらう為、子供だと思ってもらう為。
幼い彼女が選んだ道は、余りにも険しい。
或いは、もっと一般的な家庭であればその努力はそれなりで構わなかったのかもしれない。
しかし彼女の生まれた家は、その血筋の高潔さは、並大抵の努力や実績では歯牙にもかけられないような貴族の頂点。
それ相応の輝きを発することが必要だった。
そして彼女にはそれを成し得るだけの才覚と根気があったのだ。
それは幸運か、あるいは不運か。
手を伸ばし続ければいつか届くかもしれないという思いはかえって彼女をそこに縛り付けたことだろう。
端から届かない夢として目指さない方が結果的に楽であることなど、世の中には往々にして存在するのに。
「軍人になって成果を上げれば周りの大人達は子供の私でも認めてくれたし、窮地を救えば仲間達は喜んでくれたし、ネフィリムを倒せば国民達は称えてくれた。私は確信したわ。国の英雄として勇名を轟かせれば、女王陛下は私を認識する。もう、私を無視できなくなると」
彼女の行いは結果のみに着目すれば英雄のそれと遜色無い。
実際国は救われている。
しかし正義の動機に潔白さを求めるのであれば、確かに彼女は歪んでいると、断じざるを得ない。
「女王陛下でも無視できない存在になるため、私は勲功を稼いで出世し立場を手に入れ名前を売った。国を救いたいという想いだとか、王冠への忠誠だとかなんてものは、私には無かった。自分の為だけに自己中心的な道を歩み、打算的に英雄になった。純粋に国の為を想い戦い死んでいった戦友の血に塗れながらね」
これだけ血で赤く染められながらも騎士団の名は白鳩だというのだから皮肉が効いている。
例え空でも自由になれない縛られた少女が団長を務める騎士団。
それでも、その名は轟いた。
「常に誰しもを騙しながら私は目標に到達した。ドーバー決死戦から国を救った白亜の英雄として、陛下のパーティにも招待されるようになった。何者でもなかった私は、白鳩騎士団団長ルシル・シルバとしての確固たる地位を手に入れた。……けれど目的は果たされなかった」
淡々と話してきた声が少しずつ感情的になっていく。ランプの明かりが大きく揺れる。
「女王陛下は私をパーティへ招待してくれたけれど、それは国を救った軍人を呼んだだけ。私を自分の娘として呼んでくれたわけではなかった。……最初は、それでもいいと思っていた。親子としてではなくても、あの人と言葉を交わせるのなら、それでいいと……。けれど、実際は駄目だった。足りなかった。我慢できなかった。パーティの場でお母様と叫びたい衝動に駆られた。……それは当然無理なわけで、私の胸には渇きだけが残った」
それは果たしてどれ程の絶望だっただろうか。
想い焦がれ夢にまで見たような場所に困難極まる道を経て漸く到達した結果。
心は満たされるどころか、その逆を示した。
それまでの努力や犠牲は無駄だったと思っても仕方のないような結末。
彼女の胸に空いた穴は、如何程か。
「以降私はその渇きを癒やす方法も見つけられぬままただ漠然と日々を生きている。陛下と会える数少ない機会として、次のパーティにも呼ばれたらいいな……みたいなことを考えながら。折角手に入れた立場を失わぬよう、気を払いながら生きている。……そんな、つまらない女。それが私」
吐き捨てるように言い切って彼女は机に目を落とす。
その上には何も無く、目の焦点もあっておらず、ただぼんやり視線を彷徨わせているだけ。
絞り出すように、囁くように続けた。
「どうあったって母親との関係を修復できないのなら、いっそ全て諦めて第二の人生を踏み出そうかとも考えた……。この騎士団に集まるのはいい子達ばかりで居心地は良かったし、打算ではなく本心で、仲間の為に戦うことができればそれはそれで素晴らしいことだと、最近は考えるようにもなっていた……」
始まりの時からは月日も流れ、解消されない想いともどうにか折り合いをつけたいと思う程度には、彼女は疲れていた。
何処かでもう終わりにしたいという思いがあった。
だからこそ、目的を果たすこと叶わぬまま、幕の下ろし方を考えるようになった。
「けれど女王陛下からお声がかかれば相変わらず胸が弾んでしまうし、かといって実際に話しかけられたら何を言えばいいのかわからなくなってしまうし、それでいて私を狙った襲撃に陛下を巻き込んでしまった時は冷静でなんていられなかったし、そのせいであなたやルート達を危険に晒してしまった……」
新しい生き方を模索するも、やはり未練や執着はそう簡単に断ち切れるものでもなく、どっちつかずな時間。
そんな中で、今回の悲劇は訪れた。
だからこそだろう。
自分の不安定な生き方が多くの周りを巻き込み、悲劇を振り撒いたと感じてしまう。
「私には本来、騎士団の団長を務める資格なんて無い。自己中心的な目的の為に部下を利用するだけ利用して、これまで何人も死なせてきた、最低の人間。臆病で卑怯で神経質なだけの女なのよ。……だから何が言いたいかというと、私に憧れたりするのなんてやめなさい。……そしてごめんなさい。あなたのことも、これまで騙してきてしまって」
そんな訣別の雰囲気を纏った謝罪。
けれど言い切った後の表情はどこか穏やかで、清々しさすらあった。
これまで一人で抱え込んできた薄暗い真実。
それを誰かに打ち明けることで楽になりたいとどこかで思っていたのかもしれない。
例えそれで仲間や立場を失い世間からの評価を地へ落とすことになったとしても。
これ以上、自分以外を欺き続けることはできなかった。
「……突然こんなことを打ち明けてごめんなさい。これまで、誰にも話してこなかったのだけどね。……多分私は、糾弾されたいのよ。これまでの嘘を、罪を、失敗を断罪されたい。これだけ周りを振り回して、自分だけがのうのうと生きていることを許せない。だからあなたに引導を渡して欲しかった。……そんなことを願うのも、自分勝手だと思うけれど」
恐らく、それが彼女の本心。
白鳩騎士団団長としてではなく、連合王国第一王女としてでもなく、ただの一人の少女としての願い。
それだけ伝えて、ルシルはそっと口を閉ざした。
机の前に立ったまま静かに話を聞いていたアイラへ視線を送る。
後は全てあなたに委ねるという意思表示。
今この場では上官と部下という関係も、王族と国民という関係も必要無い。
全てのしがらみはここに要らない。
そんなルシルの意思を、彼女は受け取った。
窓の外は相変わらず暗い空。
視線を向けると呑み込まれそうになる純黒。
それを背に座るルシルは真っ直ぐアイラを見つめる。
それを正面から受け止めて彼女はゆっくり口を開いた。
「思い出話を、してもいいですか?」
そう言っていつものような微笑みを浮かべる彼女に、ルシルは目を見張った。
「私は幼い頃、とある方に救われました。単純に命を救ってくれただけでなく、目茶苦茶だった生き方を正し、真っ暗な世界の中を導くような光を灯してくれた、私の一番の恩人です」
大切な宝物を友人に見せるような、そんな嬉しそうな様子で彼女は語った。
けれどそれが少し気恥ずかしく感じでもしたのか、咳払いを一つして声の抑揚を落ち着かせる。
「私の母はスペインからの亡命者で、父親はわかりません。母はイーストエンドの売春宿で働いていましたから、多分そこのお客の誰かなんだと思います。真っ当な出会いをして真っ当に子を残すような生き方はしていませんでしたから。……そんな母と二人で、私はイーストエンドの寂れた住まいで暮らしていました」
自分が彼の地で生まれ育ったということは以前ルシルにも話していたアイラ。
その時と同じように、世間話のような雰囲気で言葉を繋いでいく。
「けれど私が五歳かそこらの時に、母が亡くなりました。元々身体が強くなかった母にとって、防衛排煙の煙やイーストエンドの劣悪な環境は堪えたのでしょう。ある日急にぽっきりと、私に何も言い遺すことなく死んでいきました」
想像するだけでも過酷で、悲惨な境遇。
しかし語る彼女はそれを全く感じさせない。
感情に蓋をしているという印象も無い。
恐らくそれは彼女が、過去を消化し乗り越えた上で、今を生きているという証なのだろう。
「私は自分が何を望まれて生まれてきたのか、何の為に生きればいいのかも教えられないまま一人になりました。まあ、そんなこと懇切丁寧に教えてくれるような家庭の方が稀なのかもしれませんが、当時の私はとにかく、自分が何をすればいいのかわかりませんでした」
本来なら親や周りの大人に導かれるべき幼い時分を、彼女は一人で生きなければいけなくなった。
大人でさえも身体を壊し死んでいくような環境を、一人で。
「取り敢えず街の中を放浪して、それから段々とお腹が空いてきて、そして自分の一人では食べる物を得られないことを知りました。私が、自分は人とは違う力を使えると気づいたのはその時のことです。どうしようもなくお腹が空いて我慢なんてできなかったから、どうにかして人が持っているご飯を奪おうと思いました」
お金もなく、物もなく、助けてくれる人もなく。
そんな状況に陥った時、人にできるのは至極原始的な行動だけだ。
大人も子供も、男も女も、いつの時代も変わらない。
しかし唯一彼女が普通と違ったのは、彼女には魔法という力が備わっていたことだろう。
「初めて使った魔法が氷属性魔法でした。その人が掴んでいたティーカップの中身を凍らせ、棘状にしてカップごと手を突き刺して、怯んでいるところを狙いサンドイッチを奪って逃げました。……私はその一連の動きを、特に何も考えずに遂行しました。空腹を満たしたいという一心で自動的に行動して、お腹が満たされて初めて、自分のしたことを認識するというような感覚でした。そうして私は、自分が魔女であることを知りました」
魔女の有用性と必要性が浸透した今では、女児は定期的に魔女適性を測定するための検診を受診するよう義務付けられている。
しかし当時はまだ検診制度も確立されておらず、更にイーストエンドという特別な環境も重なれば、アイラのように衝動的に魔法を行使するまで自身に適性があることに気付かないという事例もあっただろう。
「人から奪ったご飯を食べてお腹が満たされた私は、魔法の力は恐ろしいと思いました。そして何より、自分の欲望を満たす為に他人を傷つけることができてしまう自分のことを、恐ろしいと思いました。元から生きる理由も無かった中でこの一件があって、自分はこの世に生きていてはいけない、死ななければならないと考えるようになりました」
生きる意味も素晴らしさも知らない中で自分へ絶望したことへの希死念慮。
たった五歳の少女が抱いたその観念の強さは果たして如何ほどだったのか、推し量るに余りある。
「それから私は、ロンドンから海を目指して南へ向かいました。私は海を見たことがありませんでしたが、母から話には聞かされていました。この国へ来る時に見た白亜の崖がとても綺麗だったという話を思い出して、最後に一度見てみたいと思いました。私の記憶にある風景はいつも煤で汚れてくすんでいたので、真っ白な景色に憧れがあったのでしょう。それに、どうせ死ぬなら海の中で誰にも見つからずに死にたいと思っていました。海で死ねば、もしかしたらその向こうにあるという母の故郷にも行けるかもしれないという、幼い期待もありました。そうして辿り着いたのが、ドーバーでした」
軍人でもない少女が死に場所を求め辿り着いた地。
それが王国の最前線として数多くの将兵の血が染み込む断崖であったことは、何の因果か。
「辿り着いて正直、期待外れだなと感じたのを覚えています。母が語る美しい思い出も実際に目にしてみればこんなものかと思いました。そしてだからこそ世界から見切りをつけることに何の躊躇いもありませんでした。私は一頻り辺りを眺めた後、崖の上から飛び降りました」
たったそれだけの事で少女は世界に満足し人生を終わらせる事に決めた。
未練などは端から持ち合わせていなかったのだろう。
或いは早く終わりにしたいと心の底で望んでいたのか。
「――そこで落下する私を助けてくれたのが、一人の少女でした」
大事な思い出を大切に懐かしむように、アイラはその一言をゆっくりと放った。
言葉を、思い出を、噛み締めるようにゆっくりと。
「その少女は軍の訓練で魔鎧騎に乗って辺りを飛行していたらしく、飛び降りを図った私を見つけて飛んできてくれたのです。……その黒い魔鎧騎は私が知っている薄汚れた黒色とは全く違う、磨き上げられた黒色でした。神秘的で芸術的な、とても美しい黒でした」
どこか恍惚とした表情でうっとりと彼女は語る。
「はじめ私は、何が起こったのかわかりませんでした。魔鎧騎を見たのも初めてでしたし、空を飛んだのも初めてでした。夢の中にでも迷い込んだような感覚でした。そして何もわからずただぼんやりしていた私を彼女は崖の上まで連れていき、降ろしてくれました」
或いはその瞬間かもしれない。
全てに絶望した五歳の少女が世界の美しさを知ったのは。
「それから私はその少女といくらかお話しをしました。私は自分の境遇については語りませんでしたが、少女も何か察してくれていたようで、深くは聞いてきませんでした。……少女も私と同じように、何か悩みを抱えているようでした」
同じように悩みを抱える幼い魔女。
お互いに、どこか共鳴する部分があったのだろう。
「けれど少女は、前向きでした。前向きに、気落ちしている私を勇気づけてくれました。あらゆる物事はいつか過去になるのだと。今が辛く苦しくても、信じて前を向いて歩いていれば、いつか未来が訪れるのだと。そう教えてくれたのです」
その教えは、今でも彼女の奥底に根付いている。
根幹としてその生き方を支えている。
「少女は私に夢を語ってくれました。ネフィリムの脅威から王国を救い、白鳩が優雅に飛び回るような綺麗な青空を取り戻すという素敵な夢を。私はその夢に共感しました。その光景を自分も見てみたいと思って、今でもまだ、大事な夢の一つです」
アルベルニアの空は汚れている。
ネフィリムに対抗する為の防衛排煙機構が排出する煙が、車砲主線・複線を走る列車の煙が、軍需産業を支える工場が出す煙が。
平和の為に生まれる煙が人を蝕み空を汚す。
この空では、白い鳩も灰色に染まる。
だからこそ、綺麗な空を取り戻したいという幼い少女の願いはとても尊く崇高であった。
「……不思議でした。少女と別れた後、私の心は驚く程に晴れやかだったからです。崖から飛び降りる前は大したことないと感じていた景色も、世界で一番の絶景に見えました。……私はもう、死にたいなんて思わなくなっていました。代わりに、その少女のような立派な騎士になりたいと思いました。立派な騎士になっていつかその少女に仕え支えたいと思ったんです」
そう言って、改めてアイラは向き直る。
自らが語りかけていた相手、ルシルへと。
「それが私を救ってくれた、恩人についての思い出話――もちろん、ルシル団長のお話です。……団長は、覚えていらっしゃいませんか?」
どこか悲しげで、どこか控えめな微笑み。
彼女はこれまでこの大事な恩人との思い出について、詳細を語ってこなかった。
他人にはともかく当事者であるルシルにまで明かしてこなかったのは、一抹の不安と恐怖があったからだ。
自分にとっては大切な思い出でも、彼女にとっては取るに足らない過去の出来事の一つなのではないか。
それだけならまだしも、もしこんな過去があったことを少しも覚えられていなかったとしたら、軽く死を選びかねない程度には悲しい事態だったから。
だから彼女はこれまでルシルにも踏み込んだ話はしなかったし、自分と彼女が過去に一度出会っているという事実も一切公言してこなかった。
それは、それだけこの思い出が彼女にとって大事なものであるという表れだった。
「……もちろん、覚えているわ。それに、あなたがこの騎士団に着任した時から、わかっていた。あなたがあの時のあの子だということは、すぐに思い出したから」
だからこそ、そんなルシルの返答でアイラの顔は簡単に輝く。
不安げな微笑みが満面の笑顔に変わるくらいには、嬉しい事なのだ。
「えぇ、だったらそうお声をかけて下さればよかったのに! もしかして一切何も覚えられていないのではという危惧にかなり不安だったんですよ!? 着任当初は嫌われてたし……」
「いえ別に、嫌ってはなかったと思うけど……」
途端に歓喜と非難と脱力を連続するアイラに気圧されながら、ルシルは目を逸らした。
「言えなかったのよ。だって私はあの時あなたへ向けた言葉に、ずっと後悔していたから」
そんな台詞にきょとんと目を丸くするアイラ。
一体何を言っているのか全くわからないと表情で語る。
対してルシルは絞り出すように、抱え込んでいた想いを吐き出すように続けた。
「あの時私が、あなたに騎士が向いてるなんて言わなければ。私が騎士の道を勧めてしまったせいで、あなたの人生を捻じ曲げてしまった。ネフィリムとの終わらない戦いなんかに駆り立ててしまった。それがなければ、あなたは軍の道なんて歩まず、平穏な日々を送れていたかもしれないのに」
これまで王国を守る騎士の先鋒として戦い続けた彼女は、今だからわかる。
騎士などという仕事は、気安く人に勧めていいものではないと。
あの頃はまだ自分も幼く、夢と希望に溢れていた。
しかし成長し少しだけ大人になった今は違う。
騎士なんてそんなに輝かしいものではない。
そしてだからこそ、彼女はアイラに謝らなければいけないと思ったのだ。
断罪されなければならないと思ったのだ。
自分に憧れて騎士になったという彼女に嘘をついてきたことを、この上なく申し訳なく思ったのだ。
国の為に戦うことは素晴らしいと、死んだ仲間にもいつかまた会えるのだと、自分達は気高く正しいと。
そんな嘘をついて、彼女を騙してきた。
歪んだ自分と同じように、彼女の人生も捻じ曲げた。
「ごめんなさい、本当に」
消え入りそうなほどか細い悔恨の叫び。
しかし、やはりアイラは笑顔だった。
そんなことは気にしていないとでも語りかけるような、自信満々の笑顔。
「大丈夫です。私は、嬉しかったんです。生きる意味も目的も無かった私に、人を傷付けることしかできないと思っていた私に、道を示してもらえて……。嬉しかった。生きていてもいいんだと言ってもらえたようでした。あの言葉のお陰で私はイーストエンドを抜け出して、ルシル様を守る騎士になるという生き方を――自分自身を、見つけることができたんです」
溌溂としたその声には何の後悔もしがらみも無い。
まさしく彼女が彼女らしく生きている、その証左であった。
「――人生なんて捻じ曲げられたって別に構いません。それも含めて自分だと思えれば、何も悩むことなんてありません。自分が自分であるために何よりも重要なことを見失わなければ、それでいいんです。私は今、幸せですよ、ルシル団長」
そんな優しく語りかけるような言葉に、ルシルはそっと目を伏せる。
それから盛大にため息をついた。
ここまではっきりと言い切られてしまっては、何も言うことはできない。
彼女が幸せだと言っている人生を、横から自分が台無しにしてしまったなんて言い張れない。
そしてなんというか、面と向かってあんなことを言われると、非常に面映ゆい。
そんな気恥ずかしさを誤魔化したいという思いもあって、ルシルは咳払いを一つした。
「……ねえ、これ、何の話? そりゃああなたの思い出話はそれなりに感動的だったけれど、元々は、私の話だったでしょう。私はあなたやみんなが思ってるほど、大した人間じゃないから――」
「――つまりですね、団長はやっぱり立派なお人だってことですよ。だって、十年も前の子供時代に私を救って下さったんですから! 同じように、これまで団長に救われた人はあちこちに大勢いるはずです。例え団長にそのつもりが無くても、救われた側にはそんなこと関係ありませんからッ!」
びしっと音が鳴りそうな勢いで指を突きつけて、彼女は捲し立てる。
「例え動機が歪んでいても、本心を嘘で塗り固めていても、全然完璧じゃあなくっても! あなたのこれまでの行動や、その結果や、それらによって衝き動かされてきた人の心は、変わりません! あなたがこれまでこの国を、人々を、仲間を救ってきたという事実は揺らぎませんっ! それが、ただ一つの真実なんです! もしもあなたを責めるような奴がいたら、私が殺しますッ!」
「最後がとても怖いわ……」
しかし彼女はどうやら本気だった。
落ち込むルシルを慰めるために聞こえの良い言葉を繕っているという感じではなかった。
というよりも、どちらかというと怒気がこもっているように感じる。
確かに糾弾して欲しいと断罪して欲しいと願いはしたが、これはそれらとはまた違うような――苛立ち?
「……アイラ、少し怒ってる?」
「はい、少しだけ! 気落ちしてうじうじなさる分にはそれもまた可愛くていらっしゃいますが! 私が尊敬してやまないあなたのことを、あなた自身がずっと卑下しておられるのでッ! いい加減に苛ついてきた次第でありますッ!!」
「上官に対してこんな台詞吐く部下いないわよ……」
「こちらは全部引っくるめてあなたのことをお慕い申し上げているわけで! 今更奥底までさらけ出していただいたところで私の想いは何も変わるはずないのにっ! その想いすらも疑われているようで、心外ですッ!」
「……わかったから。私が悪かったわ」
「だから、あなたは悪くないのですッ!」
「もう、どうすればいいのよ……」
箍が外れたような暴走を始めたアイラに、ルシルは頭を抱える。
けれど不思議と、久し振りに晴れ晴れとした気分だった。
心の中で沸々と、活力のようなものが生まれてくるのを感じる。
長らく忘れていた鼓動の音が聞こえてくる。
暖かかった。心地良かった。
どうやらやっと、本心から笑えそうだ。
そう、張り詰めていた空気が弛んだ瞬間。
前触れ無く駐屯地全体へ響き渡る、けたたましいサイレンの音。
それが意味するものは、即ち――
時が止まる。
長い夜は、終わらない。
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