第14話 はああああああああああ――――――ッ!? レミントンスパー伯爵をご存じないなんてモグリのロンドン市民ですかあっ!?

 曇天とスモッグのせいで濃灰色にのっぺりしているロンドンの地平線上に、突然白い発光物体が出現した。


 初めはなんなのか全くわからなかったが、目を擦ってようやく大きな湖だと気づく。


 周りを歩いている人々はまるでUFOに吸い込まれる牛のように、湖畔へぞろぞろ吸い寄せられていた。


「伯爵様、おかえりなさい!」


 前方から声変わり前のソプラノよりの声がした。

 しかしそこにはキルト製のレジャーシートと大きなバスケットが置いてあるだけで誰もいない……と思っていたら、そのバスケットの影からひょこっと小さな影が飛び出した。


 小綺麗なお仕着せをぴしっと着ている少年で、ロンドンっ子らしい赤毛とそばかすが印象的だった。

 歳は十歳くらいだろうか、男性の姿を認めて愛くるしい笑顔を浮かべていたが、僕とワトソンを見るなり顰めっ面へと変貌する。


「誰ですか、その庶民は!」

「しょっ……」


 あまりの言い草に絶句していると、


「こら、アレイスター。そんな言い方はいけないと教えただろう?」


 男性からの鋭い叱責。

 アレイスターと呼ばれた少年は不服そうに口を尖らせたあと、男性からは見えない角度で舌を突き出し、


「すいませんでしたー」


 と口先だけの謝罪をした(生意気な)。


 男性の案内でキルト生地の上に腰を下ろすと、つっけんどんな態度でアレイスター少年が皿を突き出した。

 苦笑しながら受け取ると、今度は大きなバスケットの前に移動し(アレイスター少年がすっぽり入るような大きさだ)、頭から上半身丸々を突っ込んで料理を取りだしていく。


 料理はサラダにサンドイッチ、肉を何重にも重ねたもの、プティングにプラムケーキ、ビスケット。

 英国の料理はまずいという評判を聞いたことがあったが、出てきた料理はどれも食欲をそそる香りをあげ、口の中をじとりと湿らせていく。


「ビュッフェ形式だから好きなだけ食べていいよ」


 男性の言葉に思いっきり甘えて目の前の肉をよそろうとしたとき、


「僕がとってさしあげますよ」


 先ほどとは打って変わって愛らしい笑みを浮かべたアレイスターが手を差し出した。

 礼を述べて皿を渡すと、戻ってきた皿にはサラダ、サラダ、サラダ、サラダ、サラダ、なんかの豆。


「あの」

「遠慮せずにたくさん召しあがって下さいね!」


 こいつもワトソンと同じタイプだ。

 笑顔の裏に隠した不条理を当然の如く押しつけてくる。


 半眼で睨みあげても一切怯む様子がなかったので「なんか僕の皿だけ緑っぽいような」とみんなに聞こえる声で独りごちると、男性がこちらに向きかけて、


「わあーっ、お肉、お肉もよそりますねっ」


 アレイスター少年が慌てたように肉を盛りつけた。

 ワトソンのおかげでだいぶ生きるのに図太くなってきた。


 横目に見れば彼のほうはさらに図太く、僕をアレイスター少年への生贄にして自分で盛りつけている。

 肉やケーキのいいところばかりを。

 あそこまではならなくてもいいかな、僕は。


 正直空腹が限界に達していたので、アレイスターから皿を返却されるなりがっついた。

 瞬間、


「うまいっ……!」


 という言葉以外には何も出てこなかった。

 あふれ出る肉汁を呑み込むのに精一杯というか。

 とにかく咀嚼が止まらなくなるのだ。


「気に入ってもらえて何よりだよ」


 マナーもへったくれもない僕に嫌な顔一つせず、男性は膝の上に頬杖をついて笑顔でこちらを眺めている。


「伯爵閣下だったんですね。道理で気前がいいと思いました」


 と、ワトソンがうろんな視線を男性に投げる。

 やっぱりなんだか機嫌が悪い。

 男性が(もしくは僕が)何かをした覚えはないんだけどと首を捻った途端、


「はああああああああああ――――――ッ!? レミントンスパー伯爵をご存じないなんて、モグリのロンドン市民ですかあっ!?」


 ものすごい偏見に満ちた声が割って入って思考が中断された。


 アレイスター少年がジャムを塗りかけのパンを握りつぶして、怒りとも絶望とも言えない表情を浮かべている。


「アレイスター?」


 と再び男性が諫めたが今度は止まらなかった。


「伯爵様は大変優秀な研究者であり、最年少で王立学会の会長に就任されたのですよ!? アイザックニュートンの再来とも言われているのに知らないのですか!?」


 といわれたところでつい最近まで令和を生きていた僕が知るはずもない(そもそも王立学会ってなんだ)。

 しかしもしかしたら本当にすごい人で、彼を知らないとロンドン市民と言えないレベルなら知らないとも言えないし。

 返答に困っていると、


「ああ、あなたがレミントンスパー伯爵でしたか」


 ワトソンが小さく呟いてから、何かを思い出すように少し考えて、


「確か二十二の若さにもかかわらず、大学で教鞭を執っておられるとか。あなたの研究によって蒸気機関理論も一歩進み、人々の生活は格段に豊かになったそうですね」


「そうなのです! 停滞しかけていた産業革命に一石を投じ、第二波を巻き起こしたのは他でもない伯爵様なのですよ!? 産業革命の中心人物! 立て役者その人なのです!」


 よほど男性、もとい伯爵のことを尊敬しているのか、アレイスターの声に熱が籠もる。


 と、息継ぎの合間を見計らったように「アレイスター、もうそのへんで勘弁してくれないか……」か細い声が割り込んだ。


 見れば伯爵が照れたように目元を覆っていて、耳の先がほんのりと赤くなっている。

 あれほど完璧な人でも褒め倒されるのには弱いらしい。


 アレイスター少年は言い足りないというように二回、三回と口をぱくぱくとさせていたが、「仕方ないですねっ」と言って口をつぐみ、大人しく給仕に戻った。


 というかやっぱり知らないとまずい人だった。

 墓穴を掘らなくて良かった。


 皿に盛られた料理をあらかた食べ終わった頃だった。


「では、そろそろお暇しますよ、ホームズ」


 ワトソンが僕の皿をひょいっと取りあげ(未だに軽々と奪われてしまう)、席を立つように促してくる。


「いや、もうちょっと」

 と奪い返すが、


「だめです、〝働かざる者食うべからず〟ですよ」


 確かにまだ成果らしい成果は何もあげていないけれどこの空腹に皿一枚分なんてあんまりではないか。

 先ほどからワトソンは突っかかっているけれどいったい何だって言うんだ焼き餅か?

 ……いや、あり得ないなそれは。

 万が一そんなことがあればロンドンが一年中快晴になっても足りない。


「なあもうちょっとくらいゆとりを持って」

「〝ゆとり〟は事件に関して何か結果を出してから申請して下さい」


 直球でごもっともなことを言われ、抗議の台詞を失ったとき、


「事件? 何かあったのかい?」


 アレイスターの入れた紅茶をすすっていた伯爵が顔をあげた。

 白い湯気がゆるゆると上る向こう側で、ブルーグレーの瞳がわずかに見開かれる。


「えっと、もしかしたら事件になるかも知れないというか」


 フォークの端で苦手なパプリカを避けつつ上目遣いに伯爵の様子を窺う。

 このあたりの顔役なら何か知っているかもしれないという淡い期待があった。

 町内会の最高権力者である〝井戸端おばさん〟が情報通なのと同じ原理だ。

 顔が広い人のところに噂は集まる。


「ホームズ、部外者を頼る必要なんてないですよ」


 ワトソンが避けたパプリカを皿の中央に戻しながら(なんでこういう母親みたいなことするかな)一語一語強調するように言い切った。


 戻ってきたパプリカをもう一度避けるのは何となく癪に障ったので、一気に喉へ流し込むと腹いせのように事件の概要を説明してやった。


「……という経緯で連続心中事件について調べているんですけど、被害者男性について何か知りませんか?」


 話し終えて顔をあげると、伯爵は困ったように目を伏せて、


「申し訳ないが、二十一人のニックなんて突拍子もない話に心当たりはない……け、ど」


 ぶつ切りの語尾に違和感を覚えた。


「どんな些細なことでもいいんです」


 と畳みかけるように身を乗り出すと、伯爵はうーんと呻いて頬を掻き、


「こんなくだらない噂を話しても、困らせるだけだと思うんだよ」


 やはり何か知っているようなことを言う。


「ホームズ、無理強いはよくありま――」


 ワトソンの口にパンを突っ込み、土下座に近い状態まで頭をさげた。


「大丈夫です! 真偽はこちらで調べますから!」

「……じゃあ、一つゲームをしようか」

「ゲーム?」


 きょとんとして伯爵のほうを見ると、皿に乗っていた一房のブドウを手に取ってぷちぷちと粒を切り離し始めた。

 全てをもぎ取ると、ブドウの皿を三人のちょうど真ん中に置く。


「石取りゲームならぬブドウ取りゲームをして、君が勝ったら教えるよ。そちらが先行でいいからさ」

「ルールは?」


 聞こうとした台詞を険のある声に奪われた。

 ワトソンが顎先に手をあててブドウを睨みつけている。

 いつまで拗ねているんだか。

 こんな子供向けのゲームでいちいち噛みつくなよ。


「粒は全部で三十個だったから……そうだなぁ、取っていいブドウは五個まで。最後にブドウを取ったほうが負けでどうだろうか」

「やります」


 と僕。


「ホームズ?」


 さも意義ありげに語尾を跳ねあげて、何か言いたそうにワトソンが顔を寄せてきた。

 躱して〝聞く耳なし〟を態度で示しつつ、ブドウへと手を伸ばす。


「僕が先でいいんですよね?」

「ええどうぞ」


 にこやかな伯爵の表情を窺いながら指先をブドウの前で彷徨わせた。


 これで勝てば何かしらの情報が手に入る。

 くだらない噂話だろうと手がかりゼロよりかは遙かにマシだっていうのに、ワトソンはなにを躊躇っているんだよ。

 八つ当たりで捜査を行き詰まらせるなんて助手失格だ。


「三個だ」


 宣言をして三粒を口に運ぶと、


「三シリング」


 アレイスターが口を挟んだ。


「三シリングって?」

「今お前が食べたブドウの値段だよ。一粒一シリングだからな」


この時代の一シリングって確か一二〇〇円だから……三六〇〇円!?


 びっくりして(それでも咀嚼はやめずに)アレイスターを見ると、


「気づいたか庶民。またとない機会だから上限まで食べたらいいじゃないか」


 と大仰に憐れむ聖職者のような顔をした。


「こら、アレイスター。じゃあ私は二個にしようか」


 少年の頭を軽く小突いてから伯爵が二粒を口に運ぶ。


 そこからは僕が五個、伯爵が一個、僕が二個、伯爵が四個という具合に交互に食べた(一時いつとき本気で上限まで食べ続けようかと迷うほどブドウは美味しかった)。


「じゃあ僕は五個だ」

「ふうん」


 伯爵の唇に薄い笑みが浮かんだ。

 なんだ、と思った瞬間には伯爵が、


「なら私は一個を取ってチェックメイトだ」


 悠然と言い放ち一個を食べた。


 チェックメイト?

 残ったブドウを数えると七粒ある。

 まだゲームは続けられるじゃないか。

 考えて指先を彷徨わせ、


「あっ?」


 ひっくり返った声をあげて手が止まった。

 どうやっても、ここから勝てない。


 一粒取って六粒を残せば、伯爵は五粒を取るだろう。

 そうなれば一粒残った状態で順番が僕に回ってくる。


 他の個数を取っても同じだ。

 僕が二粒取れば伯爵は四個を取って、僕が五粒取れば伯爵は一粒を取る。


「残念だったね」


 伯爵が皿をこちらによこして微笑んだ。


「残念賞に残りは全部食べていいよ」


 結局僕は推理力がゼロなうえに運までないのか。

 肩を落として皿を受け取ると、それまで黙っていたワトソンの手が新しいブドウの房に伸びた。


「もうワンゲームいかがですか、伯爵」

「おや、それはフェアじゃないな。決まった勝負を蒸し返すなんて、私が損をする確率があがってしまうよ」

「ならば僕を賭けましょう」

「はあっ?」


 何を言いだしたかと思えば、ワトソンは残った七粒に新しいブドウを足して三十個に戻しながら、


「あなたが勝てば僕の一日をあげましょう。何を命じていただいても構いませんよ」


 と不敵に笑う。

 なんでも言うことを聞く?

 あの尊大なワトソンが?


「なんでも? 本当に?」

「ええ、なんでもです」


 お互いの腹の底を探り合うように言葉が行ったり来たりする。


 〝なんでも〟という言葉は危険だ。

 この温和な伯爵が豹変する可能性だってある。

 小間使い程度なら全然問題はないが、窃盗などの犯罪行為や、もしかしたら命令だって、されかねない?


「いや、ワトソン! そこまでしなくても」


 この温和な伯爵がそんなことをするとは思えないが、万が一を考えて変な約束はしないほうがいい。


「大丈夫ですよ、ホームズ。絶対に勝ちますから」

「すごい自信だね。ならまた君からでいいよ」


 制止も虚しく、ワトソンが五粒を手に取って口に運んだ。


「せっかく一粒一シリングですからね。最初は上限までいただきましょう」

「じゃあ私も君に倣って、上限まで味わうとするか」


 伯爵もワトソン同様に五粒を取って食べた。

 そこからワトソンが一粒、伯爵が四粒、ワトソンが二粒、伯爵が五粒を手に取った。


「どうやらチェックメイトのようですね、伯爵」

「へえ」


 驚く伯爵の眼前でワトソンが一粒を頬張った。

 皿に残った七粒のブドウをまじまじと見つめて悔しそうに、


「本当だ、もう打つ手がないね」


 と投了宣言。


 盤面は僕が詰んだ状況と同じだった。

 ここから伯爵が一個取ろうとも五個取ろうとも、ワトソンが一粒残しで自分のターンを終えて伯爵に回せる。


「完敗だよ。いやあ、楽しかった」

「わざとですよね」

「えっ」


 残ったブドウに伸びていた手が止まる。

 ワトソンはいつもの完璧な笑みをたたえて、しかし一切の異論を認めないというように「わざとですよね」ともう一度繰り返した。


「なぜそう思うんだい?」

「このゲームには必勝法があるからですよ」

「そうなのかい?」


「とぼけるようなら説明しますが、このゲームは自分の初手が終わったときに、六の倍数足す一個のブドウを残せるかが鍵です。それゆえにこのゲームは先手が明らかに有利です。一番手で五個のブドウを取れば、そのあとはもう勝利しかあり得ない」


 聞いてもよくわからずに首を捻った僕に気づいてくすっと笑い。


「説明が必要ですか?」

「……できれば」


「六の倍数足す一個の数を残して自分のターンを終えたあと、相手がいくつブドウを取ろうとも、自分は相手の取った数と自分の取る数の和が六になるように取っていけばいい。そうすれば皿からブドウは六の倍数ずつ減っていき、先手が最後の六個を取り終えたとき、一番初めに作った六の倍数足す一の状態、つまり一個残った状態で先手のターンが終了する。あとは後手に最後の一個を取らせて先手の勝利です」


「素晴らしい」


 盛大な拍手があたりを満たす。

 しかしワトソンは誤魔化されないとばかりに笑顔でごり押し。


「試したんですか。必勝法を知っているかどうか」


 迂遠に言うことを知らないのかというような直球発言に絶句したが、ふと思った。


 勝負前にワトソンが引き留めるように名を呼んだのは、これを見抜いていたからなのか?

 必勝法の存在に気づき、試されているのではと疑ったから。


「なぜそう思うんだい?」

「先手を譲ったからですよ。この必勝法を知っているか試したのでは?」

「そんなつもりはなかったなぁ」


 あははと声をあげて笑ってから。


「恥ずかしながら、私なりの言い訳だったんだ」

「言い訳?」


 ピンときていない僕に向かって伯爵が苦笑する。


「情報を教えてあげたいが、こんな貧相な噂話を得意げに話してがっかりさせても恥ずかしいからね。〝ゲームに負けて仕方なく話した〟というほうが体裁がいい気がしたんだよ。必勝法を知っていれば負けを言い訳に出来るし、知らないで私が勝てば恥をかかなくて済むだろう? こんなちっぽけな自尊心のせいで不信感を抱かせたなら申し訳ない」


 小さく頭を下げた伯爵に対してワトソンがばつの悪い表情を浮かべてから、


「伯爵が頭を下げる必要はありませんよ」


 と逆に頭を下げた(あのワトソンが謝るなんて!)。

 伯爵の殊勝な態度によってワトソンからは疑いの色が綺麗さっぱり消えている。


「申し訳ありませんでした。もしお許しいただけるなら、その噂話をお伺いしても?」

「構わないよ。元はと言えば私のせいだからね。ただ本当にくだらない話だよ」


 と前置きをして、


「実は最近、とある場所が〝心中の名所〟になっていると訊いたんだよ」

「心中の名所ですか?」


 と食いついたのは僕だ。


「うん。トラファルガー・スクエアのすぐ近くにチャリング・クロス教会という古い教会があるんだけどね、昔から〝この教会で結婚する二人は永遠に結ばれる〟というジンクスで有名だったんだ。でもどうやら最近は〝心中の名所〟になってしまったらしいんだよ」


「なんでまたそんな真逆なことに?」


「実はその教会、鉄道駅の開通にともなってお取り潰しが決まってね。それ以来、『永遠を約束する教会もいずれはなくなる』として、今度はそこが儚さの象徴になってしまったんだ」


 身勝手な話だった。さすが非科学オカルトの国だなあと呆れつつ手帳にメモをする。


 まだロンドンの地理が頭に入っていないので手帳から地図を引っ張り出して確認すると、ハイドパークとトラファルガースクエアは二キロくらいの距離らしい。

 歩いても三十分はかからないだろう。


「ありがとうございます、ちょっと行ってみます」

「本当にこんな情報でいいのかい? 噂だし、連続心中事件とは関係ないかも知れないよ?」


 手帳をしまいながら立ちあがると、ワトソンもやれやれようやくこの伯爵から解放ですかと言わんばかりの表情で腰をあげた。

 普段は紳士然としていてポーカーフェイスなので、恐らくわざと表情に出している。

 何が彼にそこまでさせるのか。


「手がかりゼロだったので助かりました。食事もありがとうございます」


 アレイスター少年にも頭を下げるが、ぷいっとそっぽを向かれてしまった。

 彼もワトソンに負けず劣らずでブレないなあと苦笑いを浮かべて踵を返し、


「おい、庶民」


 唐突にアレイスター少年が駆けてきた。

 振り返ると、


「お前じゃない、まだマシなほうの庶民」


 と突っぱねる(つまり僕はマシじゃない?)。


 じゃあマシなほうのワトソンにはいったいどんな用事があるのかと見ていると、アレイスターがポケットから洋服ブラシを取り出して、ワトソンのコートに付いた土埃を落とし始めた。


「土埃なんてつけていたら英国紳士の恥だ!」


 口は悪いが仕事は丁寧で、さすがは伯爵付きの従者という感じだ。

 土埃に気づけるのも真面目に働いているからだろうし(それなら僕のも払ってくれ)。


 仕方なく自分ではたき落として顔をあげると、ぴかぴかになったワトソンが「お待たせしました」と近づいてきた。

 心なしかほろ甘い香りまでする(記憶に引っかかる匂いだ。しばらく考えておじいちゃんの葬式で嗅いだ抹香の匂いだと気づく)。

 これがプロと素人の差か。


「ホームズ、行きますよ」


 と、ワトソンはもう歩き出している。

 地理に疎いので置いていかれたら冗談抜きで命が危ういのでは。


「本当にありがとうございました!」


 と今日何度目かのお礼を述べ、街路樹の向こうに消えかけているワトソンの背を追った。

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