第13話 僕は馬に嫌われてる

 横着せずに曲がりくねった道を行き馬車道を避けて通ると案外簡単に屋台の前に出たので、本当にさっきのは無駄死にだったのだと余計に落ち込む羽目になった。


 ベンチに腰掛け、ワトソンが呼売の少女からサンドイッチを買うのを内心待ち遠しく思いながら待っていたのだが。


 なんだか様子がおかしい。


 少女からサンドイッチを受け取ったところまではよかったが、すぐにこちらに戻ることなく寄り道をし始めた。

 屋台の右側に大きく逸れたワトソンは、木陰に馬を繋いで談笑している若い女性のところへ歩いて行き、時折こちらを指差しながら二言、三言話しているようだ。

 究極に腹が減っていたので段々イライラしてきたとき、ワトソンが戻ってきた。


 ……馬を引き連れて。


「ちょ……、ワトソン!? その馬どうしたんだよ!?」


 満足げな顔をして目の前に現れたワトソンは至極当たり前の顔をして、


「あちらの女性に借りてきました」

「なんで!?」

「ホームズに馬を好きになって貰おうと思って」


 余計なお世話だ。

 馬のほうもきっとそう思っているに違いない顔をして僕を冷ややかに見つめている。


「無理だって言ってるだろ」

「案外乗ってみたら楽しいかも知れませんよ」


 触るとかじゃなくて乗る前提なのか。


「僕は馬に嫌われてる」

「好きって言ってますよ」

「嘘つけ」

「即否定するのはよくありませんね」

「女性が困ってるだろう。返してきた方がいい」

「これから二時間ほどチェスをするそうなので大丈夫でしょう」

「歩いたほうが健康にいい」

「乗馬は体幹部の筋肉を鍛えるのに最適ですよ」


 とすっ。

 ワトソンのボディーブローが腹部に決まる。

 ほとんど力を込めていない気の抜けた音だが、ずしっと重みを感じて身体がくの字に折れ曲がった。


「ほら、こんなに脆弱な腹筋では犯人に簡単にやられてしまいますよ」


 一撃で嫌というほど思い知らされたことを言葉でも宣告され、余命告知を受けたくらいのダメージを負う。


 高い位置からワトソンが見下ろして返事を待つ。

 たっぷり十秒、沈黙があってから、


「わかった、乗るよ……」


 結局断り切れずに手綱を握らされた。


 初めからワトソンはこのつもりだったのだ。

 またしても一杯食わされたと気づいたときにはもう馬の真横に立たされていて「これがあぶみです。足を掛けて」と説明を受けている。


 僕をおちょくるのがそんなに楽しいか。

 自分本位で、尊大で、揶揄ってまごつく僕を見て優越感に浸りたいだけのくせに。


 僕はワトソンの玩具ではない、といいたいところだけれど、今日の功績はほとんどワトソンによるものであり、断りづらいこともきっとわかっていて無理を強いている。

 そういう小賢しい人間なのだ。


 相棒がワトソンでよかったなんて、まやかしだった。


「……ムズ、聞いてます? ほら足を掛けて」


 内心で毒づいているうちにぼーっとしていたらしい。

 半眼で睨みながらも指示に従って鐙に足を引っかけ、ぐいっと体重を乗せて重い身体を乗りあげる。


「手綱は僕が横で引きますからね」


 薄目を開けて見下ろせば、ワトソンが馬の横に立って手綱を握っていた。

 意地と恐怖で言葉が出ない。


「では行きますよ」


 返事を聞く前にワトソンが馬の横腹を叩いた。

 がくんと大きく揺れたので馬の首に抱きつくようにして身体を支え、目をきつく閉じて耐えしのぐ。

 二度目と三度目の、馬に蹴り殺されたときの情景がぐわんぐわんと脳内で揺らめいた。


「目を開けないと楽しくないでしょう?」

「楽しむ必要がどこにある」


 人の気も知らないで。

 こっちは殺人鬼にまたがってるんだぞ。


「開けて下さい」

「いやだったらいやだ」

「ふぅん」


 深く考え込んだような吐息が聞こえた。


 きっとワトソンは目を開けてきゃあきゃあと喚くところが見たいんだろうがそうはいかないぞ。

 ホームズ大全を取らなかったときもしばらくしたら諦めたのだし、こうして耐えていればそのうちにきっと興ざめして、


「あ、前方にレストレード警部補がっ」

「え?」


 警部がハイドパークに?

 事件だろうか?

 それともさっきの件で僕たちを追ってきた?


 訝しみながらも目を開けると、


「わ……あ」


 びっくりするくらい自然に感嘆の声が溢れ出た。


 やや高い位置から公園を望むと、すっかりと落葉した樹木の間をカラフルなパラソルが踊るように行き交っていて、灰色の世界を忙しなく塗り替えていた。

 まるで〝雨に唄えば〟の劇終わり、拍手喝采の中でめいっぱいにめかしこんだ出演者達がカーテンコールを迎えるみたいな。

 少し寂しくて、華やかな、余韻のある情景。

 それを見ている観客は埃とスモッグと雨の匂いが微かに混じった、決して澄んでいるとは言いがたい空気を思いっきり吸い込んで、冬の高い空を自分の白い吐息が登っていくのを満足げに見あげている。


「高い位置から見る公園も綺麗だな……」

「そうでしょう。この景色はロンドン一なので、ぜひホームズにも見せたくて」


 きょとんとしてワトソンのほうを見た。

 眼下のワトソンは有機的な笑みを浮かべて、風を受けて気持ちよさそうに。

 今まで見た無機質で作り物っぽい顔ではなく、邪気を一切はらんでいない穏やかな瞳で。


「楽しくないですか?」


 ちらりと振り向いてワトソンが言った。


 楽しいわけない……はずだった。

 殺人鬼の上にまたがって、ワトソンの玩具にされて。

 でもその全部が、僕の勘違いだとしたら。


 ワトソンはそもそも、僕が馬に殺されたことを知らないのだ。

 玩具にしていると思っていたのは僕の勝手な妄想で。

 もしかしたら本当に、純粋に、ワトソンはこの景色を見せたかっただけで。


「あれ、レストレード警部は?」

「すみません、嘘です」

「はあっ?」

「どうしてもこの景色を見せたかったものですから」


 殊勝に肩をすくめたワトソンに、怒ることは出来なかった。


「あーくそ」

「どうかしました?」

「ほっといてくれ」


 単なる自己嫌悪なんだから。


 やっぱり、相棒はワトソンでよかったと思う。

 悔しいから言わないけれど。


「安定してきましたし、馬上でサンドイッチでもどうですか?」

「手を離して大丈夫なのか?」

「僕が見ていますし大丈夫ですよ。それに乗馬しながら食べるサンドイッチは格別です」


 差し出されたサンドイッチを見て数秒悩んだあと、


「……ありがとう」


 素直にお礼の言葉が出た。

 サンドイッチのお礼以上の意味を込めたつもりだが、多分伝わりはしないだろう。

 そのほうがありがたい。


 サンドイッチを受け取るためにゆっくりと手綱から手を離し、指先がサンドイッチを捉えた瞬間だった。


 間近で鋭い羽音が聞こえて、視界の隅で何かが馬の耳に飛び込むのが見えた。

 あれは……蜂?


「え」


 気づいたときにはもう遅かった。

 馬が高らかに嘶いて、二本足で立ちあがる。

 サンドイッチが僕の指先をかすめ、地面へと落ちていくのがどこかスローモーションに見えた。


「ホームズ!」


 ワトソンのあげた短い悲鳴はあっという間に置いてきぼりにあった。

 馬が最大速力の襲歩で駆け出したからだ。


 咄嗟にその首へとしがみつくが、身体が浮きあがり後方へと吹き飛ばされそうになる。

 振り落とされるのは時間の問題。

 そう確信させるような衝撃が下から突きあげる。


「うっ……」


 肩越しに無理矢理振り向くと、もうワトソンは米粒くらいの大きさになっていた。

 追いかけているようだが、馬の速度が速すぎる。


(落馬したら、死ぬよな?)


 気づいた途端に頭が真っ白になり、過度の緊張のせいで意識が遠のいていく。

 頼む、誰でもいいから助けてくれ。

 舌を噛みそうになりながら口の中で呟いて、祈るような気持ちで馬の首に縋りついた。


 突然、誰かの手が肩口に触れてはっとなった。


 一秒遅れで「落ち着いて」という声がして、振り返ると馬で併走している一人の男性がいた。


 目の覚めるような金髪碧眼で、一瞬すでに死んでいて天使が迎えに来たのかと動揺したが、肩に触れた手はちゃんと人肌に温かかった。


「そのまましがみついて、振り落とされないで」


 芯の強い瞳に見据えられ、恐怖心が和らいだ。

 小さく頷くと男性も頷き返し、


 どん、

 男の乗った馬が僕の馬に体当たりした。


「な……!?」

「大丈夫だから」


 言いながら男がこちらへと飛び移る。


 僕ごとまたがるようにして手綱を握り、数回それを操作したかと思うと、暴走していた馬は何事もなかったかのようにぴたりと止まった。


 残響を残して蹄の音が消え、一瞬あたりが静まりかえった。


 わあ、と周囲から拍手喝采が巻き起こる。

 しかし当事者である僕は呆然と、馬の背の上で放心しきっていた。

 なんだ今の、魔法かなんかか。


「降りられるかい?」

「え、あ、たぶん」


 声をかけられ正気に戻ると、男性に支えられながら飛び降りた。

 瞬間、がくんと膝が抜けてへたり込み、


「平気かい? 怪我でもしたかな?」

「いえ、腰が抜けただけですから」


 焦ったように男性が肩を貸してくれた。

 もたつきながらも立ちあがったところで群衆の向こうから聞き慣れた声。


「ホームズ、大丈夫ですかー?」


 ワトソンが肩で息をしながら駆けてくる。

 背が高いおかげで周囲の人より頭一つ分ほど飛び出ており、どこにいるのかは一目瞭然だった。


「こっち」


 と手をあげると向こうも気づいて跳ねるようにこちらを向き、


「すみません、ホームズ。馬があんなに暴れるとは想定外で」


 僕をみとめた途端、言葉がぶつ切りになった。

 あと数歩というところで足を止め、目を見開いてぽかんとしている。

 視線は恐らく、僕を支える男性のほうへと向いていた。


 ワトソンが僕の連れだと気づいた男性が「初心者を一人にするなんていけないな」と少し尖った口調で言うと、ワトソンの顔色が明らかに曇った。


「ご丁寧にどうも」


 口調は丁寧だが、無機質なワトソンにしては珍しく感情らしいものを顔に浮かべて慇懃無礼に僕の手を引っ張る。


「どなたか存じませんけど、助かりました。それでは」

「いや、ワトソン! もっとちゃんとお礼を」

「今ので十分でしょう」

「そんなわけ」


 注意を受けたことが気に食わなかったのか(そんな子供っぽい事で怒るとは思えないが)ワトソンは足早に歩き出した。


「待ってくれワトソン、まだ膝が笑って」


 歩き出したところまではよかったがまだ足に力が戻っておらず、踏み出すたびに膝から力が抜けそうになる。

 しかしワトソンは構うことなく歩き続けるのでどんどんと距離が開いていき、


「ふふっ」


 男性の笑う声が聞こえてきて、それを合図に僕もワトソンも足を止めて振り向いた。


「ごめんごめん。笑うつもりじゃなかったんだ。ただ楽しい人たちだと思ってね」


 これのどこを見てそう思ったのか。

 男性は楽しそうに笑ってから「それに気難しいエリザベスの笑顔を久しぶりに見れたからね」といって馬のたてがみを撫でつけた。


「エリザベス?」

「ああ、この子のことだよ」


 とどうみても馬にしか見えない生き物を指して〝この子〟という。


「人見知りのこの子がこんなに笑うなんてね。可愛い笑顔だろう?」


 言われて馬の顔を見た。

 人の腕くらいは引きちぎりそうな歯をむき出しにして、むちむちと草を食んでいる。

 鼻からはもわっと白い湯気が立ちのぼり、鼻水もびしゃびしゃに垂れている。

 可愛いかはともかくとして、笑っているかもわからない。

 むしろ今にも噛みつくんじゃないかと思えて「はは……」と乾いた笑みを浮かべるのが精一杯だった。


「ともかく、最近は研究室にこもりっきりであまり人と話せていなかったから、賑やかなのが嬉しかっただけなんだよ」

「そうだったんですか」

「そこでどうだろう? 昼がまだだったら、一緒に食事でもしないかい?」

「えっ」

「いりません、ねえホームズ?」


 普段よりもワントーン低いワトソンの声がした。

 顔は笑っているが、瞼がぴくりと引きつっている。

 もしかして怒ってる?

 しかし男性のほうは一切ひるんだ様子もなく、


「今日はピクニックだからエリザベスも一緒に食べられる。君たちが一緒だと彼女も喜ぶと思うんだ」

「ピクニック……」


 空腹にその単語は応えた。


「うちのメイドの料理は絶品だよ。自家製ドレッシングのサラダに、燻したブロック肉、プティングに……ビスケットもあったかな?」


 空腹の幻覚か、男性が指折り数えて列挙した品々が勝手に脳内で具現化してしまい、


 ぎゅるるるるるるるるる――……。


 腹の虫が目を覚ました。

 二度目の音は先ほどよりもかなり大きく、つい顔を真っ赤にして俯いた僕に、


「それは肯定と受け取ってもいいのかな?」


 男性は笑うことなく、心底嬉しそうに微笑んだ。


「はい」


 ここまでよくして貰って断る道理もない。


「ホームズ、サンドイッチ買ったんですよ? これどうするんですか?」


 落ちた物を拾ってくれたのか、ワトソンがサンドイッチの包みを差し出した。

 ただ泥はついているわ潰れているわで……申し訳ないが食べられそうにない。


「気持ちはありがたいんだけど、それはちょっと……」

「なら、もう一度買えば」


 とかなんとか言いながら引き留めてくるが、僕の口の中はもうすでに燻したブロック肉の味になっている。


「ほら行くよ、ワトソン」

「本当に行くんですか!?」


 ワトソンは慌てて借りてきた馬を女性に返して(馬が暴れたのを見て迎えに来てくれていた)僕たちの背を追うようにかけてくる。


 そうして僕たちは、男性の案内でピクニックへと向かった。

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